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幕末の日本16
アーネスト・サトウ
英国外交官のアーネスト・サトウは日本語が堪能であったためもあって、日本人と親しく交友しています。特に江戸では薩摩藩士と親しくしており一緒に吉原へ行き宴会を繰り広げています。それだけではなく宴会好きのサトウは自宅でも芸者を呼んで宴会をしています。
薩摩藩士との交友
「アダムズ、ミットフォード、マーシャル、ワーグマンなどが吉原へ出かけて金瓶楼で豪遊したが、この家の一部は西洋好みの日本人客のために洋風に作られていた。これまでヨーロッパ人を警戒して寄せ付けなかった江戸の遊郭にヨーロッパ人の立ち入りを許したことは、友好関係の燭光として外国人に歓迎された。」
「正午に、野津兄弟の七左衛門と七次(薩摩藩士)が来た。彼らはワーグマンと私を口説いて、中井との約束があるのも構わず、一緒に吉原へ繰り込むことにしてしまった。」
「私たちは、その門をくぐって薩摩藩士がよく登楼するという少々安っぽい感じのする家の二階へ案内された。もちろん芸者が呼ばれ杯が陽気に回された。日の暮れる頃、ヨーロッパ風のつもりで造作された、いやらしい構えの金瓶楼へ上がったが、私たちはほんの数分そこにいただけで、最初に遊んだ家へ舞い戻って来た。この家で、また飲んだり踊ったり何個遊びをやったりした。この何個遊びのゲームは、一本の木箸を六つに折って二人が三本ずつ持ち、それから一人が片手の掌に好きな数だけ握って、自分の手と相手の手の中にある合計数を当てるのである。うまく当てれば、当てられた方が飲まなければならない。それから、今度は負けた方が言い当てる。これは確かに、手っ取り早く酩酊する方法だ。その家で腰を据えていると、石神(薩摩の医師)から使いが来て、別の家で待っているから、もう一度飲み直しに来いと言うのだ。石神を訪ねて河岸の料亭有明楼へ行き、その家で大いに唄い踊り飲んだ。それから何個遊びが始まり十分に歓を尽くしてから芸者三人を連れて舟で病院(藤堂屋敷)に帰った。」(一外交官の見た明治維新)
大宴会
「翌晩、私は自宅で大宴会を催した。神明前から芸者が三人、それに幇間が二人来た。私たちは夜半まで、ドンチャン騒ぎをやった。幇間は余興に一人の外国人と護衛が江戸に上る途中、例によって川崎の渡し場で番所の役人に留められるという筋の道化芝居をやった。私の護衛も、いくつかの道化芝居をやって大いに興を添えた。これらは、許されて階段の上り端の部屋まで覗きに来ていた家の者たちをも大変喜ばせた。」(一外交官の見た明治維新)
新年の宴会
「最初はだいぶ堅苦しい話が交わされていたが、やがて酒が出て晩餐の仕出しをした料理屋の女中、芸者、野口(従僕)の細君、横浜からやって来たとても気のきいた娘さんなどが酒席を取り持った。われわれは滑稽踊り、なぞなぞ遊び、唄、萬歳の新年踊りなどをやった。やがて酒樽を飲みほし十二時に来客一同は上機嫌で帰って行った。」(一外交官の見た明治維新)
例幣使
英国外交官のアーネスト・サトウの一行は、東海道旅行中に悪名高い公家の一行に出会い、夜中に襲われますが、それを撃退しました。そして、サトウは幕府の役人にねじ込み、公家一行への処分を要求し、これを勝ち取っています。悪名高い公家一行をやっつけたことで、結果的に庶民からの喝采を浴び、護衛の役人たちの信頼を得て仲良くなっています。
例幣使について
「この野蛮人というのは日光の家康の霊廟へ派遣されてその帰途にある天皇の宮廷高官の例幣使の一行のことである。例幣使は日本中のどの大名よりも高い位にあるので、これに出会った者はみな駕籠から降りて土下座をしなければならないのだ。」
「長崎へ行く途中だという若い薩摩人が訪ねて来て例幣使のことや、その家来のやることを聞かせてくれたが、やつらの所業に対して最大の侮蔑を表す言葉を吐いていた。例幣使の家来どもは、この晴れの行事に雇われて、わずかな権威を笠に着るたちの悪い京都人だと言った。すでに江戸の郊外品川で18名の人々を捕え天皇の使者に対する敬意の現わし方が足らぬと言って、それぞれ罰金を科したという。」
事件の概要
「野口(護衛の役人)は一部始終を物語った。彼は正面の戸が打ち壊される音を聞いて飛び起き、帯を締め、右手に刀を握り、左手に拳銃を構えて部屋の入り口に立った。数名の凶漢がどかどか入って来て毛唐を出せと怒鳴ったたが、野口は彼らに中に入ってきたら毛唐を渡そうと答えた。そうした野口の態度と凛とした威勢に驚いて凶漢は逃げ去った。野口の見るところでは相手の人数は全部で12人ほどで2人は長刀を他の者どもは短い刀を持っていた。見回すとワーグマンの部屋の斜向かいの部屋の蚊帳がずたずたに切られている。蚊帳の中の人間は逃げてしまっていた。幸いに、私たちは寝しなにランプを消していたので凶漢どもは勝手が分からなかったらしい。」
抗議
「私は、これらの護衛(の役人)たちを十分なうしろだてとして外国係の役人にうち向かい、犯人どもを私の手へ引き渡してくれるか、それとも私が護衛たちを引き連れて行ってやつらを腕ずくで捕えてこようかと談じ込んだ。」
世間の喝采
「噂によれば町の人々は例幣使とその家来の悪党どもが、私たち2名の外国人にとっちめられていると聞いて、手をたたいて喜んでいるそうだ。これまでに天皇の使者が、道中で足を止められて、私たちのような横柄な態度で談じ込まれたことは一度もなかったのだ。」
宴会
「我々は、あの不慮の事件による興奮からまだ醒めきっていなかったので、すぐに酒や肴をあつらえて一番快活な護衛の連中をこの宴席に招いた。その中の一人は当時流行の民謡の新句を付け足して喝采を博した。それは「蕪青(かぶら)の葉」のような上衣を着た例幣使の家来に対する軽蔑の意をこめたものだった。」
事件の始末
「ところで、凶漢とこの事件に関係した他の三名の者が数か月後に江戸へ監送されて審問を受けることになった。そして二名は死刑さらに四名は遠島に処せられた。」(一外交官の見た明治維新)
勝海舟の餞別 (1969.02.24)
「シーボルトと私は一緒に勝のお宅を訪問した。勝は将軍家の崩壊以来、つねにわれわれに政治情報を提供していてくれた大いにありがたい人だった。彼は箱館の徳川軍は降伏すると考えていた。別れに臨んで自分の脇差を私に贈ってくれた。私たちは互いに尽きぬ名残を惜しみながら別れた。」(一外交官の見た明治維新)
長崎海軍伝習所
海軍伝習所の教官を勤めていたオランダの海軍士官のカッテンディーケは、旗本を含む侍たちを教育していました。彼は日本の侍たちを間近に接して、その欠点をも多く指摘しています。
彼の指摘した門閥制度や身分制度の欠点は、江戸幕府が行き詰り明治維新に至った原因でもあろうと思います。
門閥
「私には何を基準に生徒の選抜をするのか、よくは呑み込めなかった。日本当局は、あまり生徒の能力といったものには頓着しないで、ただ門閥がものを言い一切を決定するらしいから、どんなに馬鹿らしくてもどうにも仕様がない。」
「私の信ずるところによれば、いわゆる海軍軍人に仕立てられるこれらの生徒の大部分は、ただ江戸に帰ってから立身出世するための足場として、この海軍教育を選んだに過ぎないのだ。」
「武士の場合と同様に彼らも父の身分を継ぐことになっている。私はこの制度を海軍にもそのまま踏用することの不可能なことを口が酸っぱくなるほど忠告したがその甲斐もなく、今更それを繰り返す根気も尽き果てた。国家の全組織の根底をなす時代の錆のついた制度を、一朝にして覆すことの極めて困難であることもよくわかる。」
身分の取り立て
「ある時、私は船長の浜野さんに、一人の俊敏な水兵を紹介し、同人を下士官にしてはどうかと推薦した。私が言うことを未だかつて反対したことはないが、その時この自分の推薦に困っていることをすぐ看取した。」
「浜野さんはわざわざ私の出立少し前に来て、藩侯は私の推薦もあり前記の水兵を特別にお取り立て相成り佩刀を許され、下士官に任命する御沙汰を下されたと告げた。」
旗本
「我々は40人の旗本出身の生徒にあらゆる航海学の教育を施したが、これらの将来士官に任用されるべき運命にある人々は、少なくとも大綱だけは一通り教わっておくべきはずなのに、「拙者は運転の技術は教わっているが操練はやらない」とか、あるいは「拙者は砲術、造船および馬術を学んでいるのだ」という風で、勝手気儘な考えで勉強しているのだ。」
士官
「日本では士官が内部の小さな仕事にまで、いちいち手を出すのは如何にも自分の格が下がるかのように思っているらしいが、これは創設途上の日本海軍のために嘆かわしいことである。彼らは綱索類、帆、小艇の取り扱いさえ船員に任せきりだから、船の掃除など無論のことである。大抵の者は練兵にさえやっと出席する有様である。もっとも機関部員は幸いにも例外である。」
さぼり
「水兵たちは一般に船内掃除にだらだらと長い時間を費やし、暑い日などはことさらである。傍らにオランダ人士官がついていないならば掃除をするのが関の山で、他の仕事に掛ろうなどという気持ちは持っていないから、船内掃除の後余る時間はほとんどない。掃除が済むと、彼らは黙々として煙管をくわえて一服し命令などいっこうに頓着しない風である。」
飽きっぽさ
「また、彼らの飽きっぽい性質は常に士官の純科学的養成に一大障害である。日本人は敏捷であるから必要だとさえ感得するならば、如何なる学問でもごく僅かな時間の内に、ただ上っ面の知識だけであるが、苦労なしに覚えることができる。しかし悪いことには、ちょっと始めると直ぐさま彼らの好奇心は満腹して、忽ち他の変わったものに眼を付ける。何事でも徹底的に学ぶ辛抱というものが、彼らには欠けている。」
機関部員
「日本に来た二回のオランダ海軍派遣隊が、前後を通じて最も成功したのは機関部員の養成である。日本人には技師の学術が殊に適し、機関将校が蒸気機関の知識の涵養に精根を尽くして、あらゆる部分を見逃すまいと熱心に注意するその有様は驚くばかりである。彼らは仕事服を着て火夫の仕事をさえやる程の熱心さあるに引き替え、甲板士官の方は彼らの美しい手や着物を油の付いた綱具に触れて汚すのを恐れるがごとく見えた。」
「かような事情で、どの船の汽罐も皆手入れがよく行き届いていた。観光丸の汽罐はほとんど一年半ばかりの間、オランダ人の監視を受けなかったが、それでさえ故障らしい故障も生じなかった。」
航海
「生徒は皆々名家(旗本)の子弟であるにもかかわらず、彼らは賤しい水夫のごとく立ち働き、また船室は全部これをオランダ士官に提供するのはもちろん、すべての点において教官に対し礼儀を失わなかった。」
「例えば榎本釜次郎(榎本武揚)のごときその先祖は江戸において重い役割を演じていたような家柄の人が、二年来一介の火夫、鍛冶工および機関部員として働いているというごときは、まさに当人の勝れた品性と絶大なる熱心を物語る証左である。これは何よりも、この純真にして快活なる青年を一見すればすぐに判る。」
所長の餞別
「所長(海軍伝習所長木村摂津守)は我々との会見後に私に立派な一振りの日本刀、またトロイエン君には笙と名付ける管楽器を形見として授けた。木村様の言葉によれば、この日本刀は400年前の有名な刀鍛冶関兼光の作った名刀であるという。」
「私はその返礼として上海で買い求めてきたピストルを進呈した。」
諸侯の餞別
「我々は出発にあたり肥前、筑前、薩摩、豊前、長門その他の諸侯から、例の通り絹布、漆器、陶器など一般に大した価値ででもない贈り物を受けた。諸侯の中でも肥前侯は、私に一対の夏と冬を表現した見事な屏風を贈ってくれた。」(長崎海軍伝習所の日々)
(参考)当時の中国と朝鮮の状況
来日した外国人たちには中国(シナ)をも訪問した人も多いようです。当時の日本と比較するために、彼らのシナでの経験談も載せておきます。
天津
「天津の人口は40万を超え、その大部分は城外に住んでいる。私はこれまで世界のあちこちで不潔な町をずいぶん見てきたが、とりわけ清国の町はよごれている。しかも天津は確実にその筆頭にあげられるだろう。町並みはぞっとするほど不潔で、通行人は絶えず不快感に悩まされている。」(シュリーマン旅行記 清国・日本)
北京
「ほとんどどの通りにも、半ばあるいは完全に崩れた家が見られる。ごみ屑、残滓、なんでもかんでも道路に捨てるので、あちこちに山や谷ができている。所々に深い穴が口を開けているので、馬に乗っている時にはよほど慎重でなければならない。」
「どこへ行っても、陽光を遮り呼吸を苦しくさせるひどい埃に襲われ、まったくの裸か惨めな襤褸をまとっただけの乞食につきまとわれる。どの乞食もハンセン病を患っているか、胸の悪くなるような傷に覆われている。」(シュリーマン旅行記 清国・日本)
上海
「1861年の夏は、シナに滞在しているヨーロッパ人に残酷な試練をもたらした。息も詰まらんばかりの耐え難い暑さが何週間も続き、そのためある者は熱病に、またあるものはコレラに罹り、すべての人を疲弊させてしまった。」(スイス領事の見た幕末日本)
「上海は妙に汚い都会である。これまでにこの都会を見たことのある全ての人が、そのことを認めている。驚くほど肥沃な、だが絶望的なまでに単調な無限の平野を横切って重い黄色味がかった水を運んで行く、あのシナの大河の一つである黄浦江のほとりにあるこの都会には旅する者を魅了し引き留めるものは何ひとつない。だから、この都会でもう生活する必要がないと感じるやいなや人々は上海を離れるのである。」(スイス領事の見た幕末日本)
「市中の茶園(芝居小屋)の穢さときたら例えようもない。茶園なぞという名が付けられているのがおこがましい。一般に言って上海と長崎の間には大きな相違がある。何と言っても長崎の方が勝っている。両市とも約6万の人口を有する商業都市であるから比較に便利である。長崎の町は広くて真っ直ぐで舗装されているのに反し、上海の方は狭隘で曲がってごみごみしている。」(長崎海軍伝習所の日々)
済州島(朝鮮)
「良く開拓され、米、小麦、甘藷、とうもろこし、それに野菜が採れる。朝鮮人、シナ人、日本人が混じって住み着いているが、彼らは不潔で無知で貧しい。」(長崎海軍伝習所の日々)
幕末の日本15
幕末の日本1
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参考文献
「長崎海軍伝習所の日々」カッテンディーケ 東洋文庫
「大君の都」ラザフォード・オールコック 岩波文庫
「スイス領事の見た幕末日本」ルドルフ・リンダウ 新人物往来社
「幕末日本探訪記」ロバート・フォーチュン 講談社学術文庫
「一外交官の見た明治維新」アーネスト・サトウ 岩波文庫
「絵で見る幕末日本」エメェ・アンベール 講談社学術文庫
「シュリーマン旅行記 清国・日本」H・シュリーマン 講談社学術文庫
「江戸幕末滞在記」E・スエンソン 講談社学術文庫
2014.11.28 野沢 清 kiyoshi_nozawa@yahoo.co.jp
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