幕末の日本2
日本の景色
自然の緑が多く荒地や砂漠のほとんどない日本の美しい景色は、来日した外国人に称賛されています。
富士山
日本の風景の中でも神々しく見える富士山は、一番美しいと言えるかもしれません。やはり、多くの外国人も絶賛しています。
「川岸に降りてゆく途中に富士山が見えた。それは、素晴らしい眺めで富士山がこれほど立派に見えたことは、いまだかつてなかった。東の太陽の最初の光線が頂上を照らし出し、ふわふわした雲が斜面にマントのように張り付いていた。それは、友人の懐かしい見慣れた顔のようだった。私が帽子を取って敬礼すると日本人たちはたいそう喜んだ。」(大君の都)
「同じ日の朝、左手に見えた日本陸地の美しさに感嘆してうっとりと見つめていた。日本はシナと同様に山や丘陵が多い。なかでも内陸50−60マイルの地点にそびえ立つ富士山は、日本人にとって無二の崇高な山である。」(幕末日本探訪記)
「(品川近郊の)それらの丘や田圃の向こうを眺めまわしているうちに、背後にほとんど雪をかぶった標高14000フィートの円錐形の山に眼が止まった。この神々しいまでの山こそ日本の富士山で、確かに世界中でこれ以上に美しい天然の風景を見つけるのは難しいだろう。」(幕末日本探訪記)
「その夕方、私はまだ見たこともないとても素晴らしい虹を見た。ほとんど同時に、富士山にかかっていた雲が次第にばら色に変わり、雪をかぶった神々しい山は夕陽を浴びていた。この私の眼前に広がっている美しい情景は誰も想像すらできないであろう。」(幕末日本探訪記)
「実に陽光燦々たる日本晴れの一日であった。江戸湾を遡行する途中、これに優る風景は世界のどこにもあるまいと思った。濃緑の森林をまとった形状区々たる小山が南岸一帯に連なっている。それらを見おろすように富士の秀麗な円錐峰が、残雪をわずかに見せながら一万二千フィート以上の高空にそびえていた。」(一外交官の見た明治維新)
「翌朝6時に起きると、富士山の秀麗な姿が見えた。旅舎のほとんど真裏の方角にそびえ地平線上に渦巻き流れる一帯の雲を抜いて青空高く美しい山頂を見せていた。」(一外交官の見た明治維新)
「富士山は絶えず変貌している。その豹変ぶりは移り気な女同様、太陽の位置、大気の状態、季節などの具合で一日の内にも何度か容姿を変えて現れる。冬の富士山は上から下まで、より正確には横浜の住民が手前にある山々の向こうに見渡せる富士山の一番下まで、惚れ惚れするような雪の衣装に身を包む。ときおり霞にすっかり覆われてしまうことがあるかと思えば、日の出の光に染まって紅潮し霧のベールを被って美しい容姿を露わにする。」(江戸幕末滞在記)
長崎の風景
西欧から中国経由で日本にやって来る外国人が、初めて目にする日本は長崎の風景です。山に囲まれた湾がある長崎の風景も多くの外国人を魅了しています。
「翌朝、暁の空が次第に明け渡るにつれて、絵を見るような光景が展開した。長崎湾は伊王島のあたりから奥へ大きく盥(たらい)型をなし、その周りはほとんど残らず急峻な山で取り囲まれて、その山々は水際から頂上まで家やお寺やあるいは砲台が立ち並び、一面に目醒めるばかりの青々とした樹木や垣根あるいは小さな畠に取り囲まれている。この畠は、また山の畔(あぜ)の田と同様に梯子(はしご)段式に人間の手によって作られている。」(長崎海軍伝習所の日々)
「誰でも海旅の後には、ちょっとした事にも感嘆し易いものであるが、そうした心持ち以外に、実際長崎入港の際に眼前に展開する景色ほど美しいものは、この世界にまたとあるまいと断言してもあながち褒め過ぎではあるまい。」(長崎海軍伝習所の日々)
「同伴者と一緒に海抜1500フィート余りの烏帽子岳の山頂に登り、壮麗な景観をほしいままにした。その日は天候の変わりやすいイギリスでは滅多に見られない素晴らしい秋日和であった。空に雲もなく、一行が頂上にたどり着くと、その前方に美しい湾が見えた。波静かな海面に数ヵ国の船が停泊し、その傍らを多くの船や素朴な帆船が行き交って、まるで絵のように美しかった。」(幕末日本探訪記)
「あらゆる旅行者と同じように、私もまたこの土地とその郊外の美しさを讃嘆した。東の丘陵は小公園や死者の記念碑で覆われている墓地になっているが、世界の墓地のうちでもっとも立派なものである。木造建築物の市街そのものは何一つ取り立てるほどのものはないが、下町から山の手に上っている花崗岩の石段と絵のように美しい山渓に架けられている石橋は、あちらこちらで市街の風景の単調さを破っている。」(絵で見る幕末日本)
「私は、日陰の渓谷、急流の活気あるざわめき、湖を思わせる山に囲まれた入江の風景、九州農村の穏やかさと静けさ、そうした長崎郊外の美しい風景を快く想い浮かべた。そして、スイスの風景だけが、日本のこの美しい自然と比較できるのではないかと思った。」(絵で見る幕末日本)
「しかし、私はヨーロッパ人で長崎の町の素晴らしい位置とその全景の魅力的な美しさに心打たれることなく長崎に上陸した者を知らない。港は狭い、長さ3マイル、幅はせいぜい1マイルである。港は欝蒼とした植物、よく耕された畑、まばらな集落、寺社、それにぽつぽつと立っている家に見おろされているが、その家屋の白い壁と輝く瓦葺の大きな屋根は、太陽の光を浴びて古樹の濃い葉をとおして、えも言われぬ輝きを投げかけている。」(スイス領事の見た幕末日本)
「眼前に展開される風景の壮大さに驚愕し圧倒されるどころか、人間は一種の安堵感と晴々とした気持ちを感じるのである。」(スイス領事の見た幕末日本)
横浜近郊の風景
横浜に住む外国人は、近郊へ散歩に出かけ美しい風景を堪能したようです。
「そこからは、稲田を前方に雪に覆われた雄大な富士山を背後に控えた横浜の絶景が眺望できた。さらに、のっぺりした神奈川の海岸がだんだん高くなって岩に覆われた山になり、その遠方が青みを帯びたベールに隠されている。また、一方には埠頭や浦賀水道、広々とした江戸湾には陽の光に輝き帆を垂れて、だるそうに波間に揺れている船が見渡せた。」(江戸幕末滞在記)
「芝生に寝転んで大の字になり新鮮な潮風を深く吸い込みながら、この平和でしかも生き生きとしたパノラマに我を忘れることが何度あろうとも、目や頭が疲れたりすることなど決してなかった。視線は日に日に見るべき美観を新たに発見し日が経つにつれてますますこの景勝から離れがたくなるのだった。」(江戸幕末滞在記)
「寺の周りの森の中には快い日蔭の小道が幾つもあった。丘に通じる道をぶらつきながら頂上に到達してその景色に見惚れた。寺の屋根や庭が下に見えたが視線を、谷を越えた向かい側の樹木の繁茂した丘に転じた。西方を振り返ると箱根連山が横たわり半ば雪を冠った美しい景観の女王のように見えた。この素晴らしい風景は、私の記憶に永久に鮮明な印象を残すことだろう。」(幕末日本探訪記)
「安穏な毎日を利用して我々はよく横浜の郊外を散歩したり遠足に出かけたりした。高低のある変化に富む地勢、流れる川や水を湛える池、広がる空と美しい海、種類が多く豊かに群生している植物のおかげで日本は世界で一番美しい国のひとつになっている。」(江戸幕末滞在記)
江戸近海
「生気に満ちて明るい光を浴びたこの風景は、色彩の美しい調和を表している。広大無辺な天空はもっとも明るい紺碧であり、海は緑がかってはいるが、深海で見るような暗い感じが全然なく、岩石の多い海岸の海水によく見られ透明性をまだ十分に保っている。どの島も目覚めるような若葉に包まれており、厳しい色合いをしている岸壁はひどい引き潮でギラギラ光る肌を見せている。そして、これらに白帆を掲げたこの地方の小舟、雪をいただく三宅島、煙を吐く大島を加えて、この美しい生気に充ちた海の風景が完成されている。」(絵で見る幕末日本)
淡路島
「大坂と兵庫の前に広がっている淡路島の東側は、本州沿岸と周囲200キロの三角形を作っている。そして世界でもっとも美しい入江のひとつを包み込んでいる。我々がそこに入ったのは太陽が海に沈もうとしている瞬間であった。水平線に現れる高い山々を燃やし、野や牧場を金色に染め、波を赤くし、真紅と金の輝かしいマントで風景全体を包み込んでいるのであった。海は静かで空気は異常なほど澄み渡っていた。」(スイス領事の見た幕末日本)
浜松付近
「一昨日の雨のあとをうけて、この地方の景色はことのほか美しく見えた。沿道の亭々とした松並木の後ろには実った大麦の畑が近くの麓の所までずっと延び、その丘越しに青い山々が遠くに連なっているのが見えた。」(一外交官の見た明治維新)
日本の春
「どこの国でも春は美しいが日本の春は格別だ。木々は新緑に葉をまとい早咲きの花々は満開だった。どこの丘どの家にも何かしら目を引き付ける対象があった。なかでも八重桜と桃の花はもっとも美しくちょうど小さなバラの花のようにふくよかな花房をつけて重たげであった。森の中にはかなり大きな椿の木が何本もあったし、早咲きのツツジがさまざまな色の花で丘の斜面を飾っていた。この地はまばゆいばかりの赤いツツジの本場である。その輝く色を完璧に出すには東洋の陽光が必要なのである。赤い花でおおわれた野生の草木瓜が草の間を這っていた。菫は、ほとんど匂いはないが土手いっぱいにあった。森の木陰で桜草の数種類が眼にとまった。」(幕末日本探訪記)
「山門の脇にみごとな八重咲きの桜の大樹が数本あったが、その中の一本はまさしく花のかたまりで、実に優美な眺めであった。きれいに掃き浄められた広い参道は薄い雪片が降ったように無数の花びらで一面に覆われていた。」(幕末日本探訪記)
品川郊外
「秋の群葉の鮮明な色彩はたいへん素晴らしく、目を見張るような美しい眺望が効果をあらわしている。櫨(はぜ)や色々の種類のある楓は、ちょうど様々の色合い−黄、赤、深紅色−に装いを凝らしている。ツツジの葉は濃い燃えるような紅に変わりつつある。これらのあらゆる色彩の集団は、樫や松のような緑の群葉と好個の対照になっている。」(幕末日本探訪記)
品川・東禅寺の庭
「この庭と寺の間に少しばかりの空き地があるが、そこは完全に気楽で十分に愉快にさせてくれる。そこは、私には完成された絵画のような光景に見えた。その日は、輝かしい秋日和であった。赤紅色の葉をつけた楓の古木が、池の一方にかぶさるように張り出していた。別の所には、鮮やかな深紅の葉を持ったツツジの群生が見えた。あちらこちらに赤や紫のまだらや、さまざまの色彩が目についたが、それらが背景をなして、椿や常緑樹の樫や松の深緑色が著しい効果をあらわしている。大木が庭の一部に日陰をつくるとともに、別の部分には木の間を洩れた太陽光線が、種々の混じり合った色彩の上に一面に輝いて、誰でも空想の仙境に引きずり込まれようである。」(幕末日本探訪記)
紅葉
「日本は、樹木の点でもきわめて多くの変化を誇ることができる。この季節には、木々の葉はもっとも明るい深紅色を呈し、秋の色合いの豊かさと変化というものは、とうてい表現しえないほど美しい。」(大君の都)
鳥類の群生
「日本群島のもっとも特性的風景の一つは、その鳴き声や羽ばたきで騒ぎ立てている莫大な量の鳥類である。鷲や禿鷹が谷間の上を回っているかと思うと鶴がゆっくりと松林から飛び立っている。かなたの葦の茂みや入江にまで海烏がやって来るし鷺が魚を漁っている。いたるところで雁や鴨が列を組んで空を渡っており鴎や海燕が岬や浅瀬のあたりで飛び交っている。日本人は、一般に野鳥を大切にしている。彼らは家禽だけしか食用にしない。」(絵で見る幕末日本)
里の風景
西欧人たちは単なる自然の美しさよりも、人間の生活により造りだされた管理された自然である里の風景を評価しています。そこに居ると安心できる心地よい風景です。
江戸近郊
「藁葺きの家の入り口の上には、藤の木があくことのない欲望をいだいて、その遠大な腕を広げ、春ともなれば紫色の花の豪華な房で覆われる。小さな村落や農家が絵のように美しい一種の混沌のうちに点在している。それらは、概して谷間や丘のふもとの木立の中にある。そこには、杉、竹、棕櫚などが生えており、いささかスイスの羊飼いの山小屋に似ていないこともない住居に東洋的な特徴を付け加えている。」(大君の都)
「破損している小屋や農家は、ほとんど見受けられない。これは、あらゆる物が朽ちつつある中国と愉快な対照をなしている。公共建築物や個人の住居も同様であるが、特に前者の場合に、このことがよくあてはまる。」(大君の都)
「一連の丘と湾とのあいだにある谷間を縫って走る長い街路には、忙しそうではあるが、適度に働く人々がたくさん通る。彼らは一見したところ、非常に満ち足りた気さくな人たちだ。」(大君の都)
「大きな並木道、松や杉の並木道にしばしば出会ったが、道端にたいへん快い日蔭をつくっている。」(幕末日本探訪記)
「生垣は丁寧に刈り込まれて手入れが行き届き、時にはかなりの高さに整枝されてイギリスの貴族の庭園や公園でよく見かける柊や櫟の高い生垣を思い出させる。」(幕末日本探訪記)
「どこにもある小屋や農家は、きちんとこざっぱりしたようすで、そのような風景は東洋の他の国ではどこにも見当らなかた。」(幕末日本探訪記)
「景色はしじゅう変化するが、いつも美しい丘、谷間、広い道、日陰のある小道。そして家々や庭などで見かける人々は勤勉で労苦にくじけず、明らかに現状に甘んじて満足している。」(幕末日本探訪記)
「我々が通過したどこの村の人々も、おとなしく丁寧で、少しも我々を困らせたりしなかった。ただ幼い腕白小僧どもが、時々我々が通り過ぎてから「唐人、唐人!」と大声でわめいた。」(幕末日本探訪記)
将軍の狩場
「この高台からの眺望は実に素晴らしかった。北の方に高度に耕作された農地が広がっていた。ちょうど米の収穫時期で、稲田は熟した実で黄色に染まっていた。小麦や大麦の芽生えが、すでに1インチぐらいずつ地上に出て、その生き生きした緑と稲田の黄色とがよい対照であった。その辺一帯は樹木がよく茂って、小川が曲がりくねって江戸湾の岬の方に流れているのが眺められた。」(幕末日本探訪記)
生垣
「よく手入れされた背の高い生垣や垣根は、まだ厚く覆われておりオランダ式造園法で刈り込まれている。その植え方や刈り込み方は称賛に値する。イギリス以外では、どこにもこのような生垣は見られないし、イギリスにおいてもさえもこのような変化は見いだしえない。」(大君の都)
「杉はごく一般的な樹木で丘のいたる所にあった。近頃しばしば庭の周囲の生垣に使われているが、たいへん清楚なものである。」(幕末日本探訪記)
「日本ではイギリスの櫟(いちい)の生垣と同じ方法で、生垣を管理している。生垣を整然と刈り込んでおくと、見た眼にも美しいばかりでなく、子供も通り抜けられないくらいに繁茂するものである。」(幕末日本探訪記)
茅葺屋根
「寺の屋根はすべて日本のどこにでもある茅で葺いてあった。私は世界のどこでも、こんな見事な草葺き屋根を見たことがない。実際、日本を訪れる各国人の賛美の的になっている。」(幕末日本探訪記)
横浜近郊
「その山腹は日本の庭園術によって魅惑的な公園につくり変えられており、木陰の暗い密生した木立もあれば、陽が当たって微笑している灌木類、花園もある。その間を泉水が快い音を立てて流れ、小さな池に集まっている。そして、その上に架かった橋を行くと、神秘的で洞のような森に通じているのである。木立に隠され右に折れ左に折れ小路を登ってお山の頂上に辿りつくと、そこには周囲にベランダの付いた木造の建物が葉の多い木の陰に建っていた。」(江戸幕末滞在記)
「寺内の丘陵には、単なる住居ではなく僧侶の養成所と思われる小さな離れ家が散在していた。どの家も日本の装飾用草花類を植え込んだ美しい庭の真ん中にあって、よく刈り込んだ生垣に囲まれている。寺内は十分に手入れが行き届いて広い参道は毎日掃除しているとみえて、どこにも雑草一本、枯葉一枚落ちていなかった。」(幕末日本探訪記)
「その僧院を訪れた時、みな修行か祈祷をしていたと見えて時々誰かが熱心に祈祷しているらしい鈍い単調な声が聞こえた。それも間もなく止み再び静寂に返った。さんさんと輝く太陽光線が枝を張った木の間から放射して荘厳な静寂に包まれた辺りの情景が日本の家庭の安息日を思わせた。」(幕末日本探訪記)
「道は次第に登り坂で丘の頂上にたどり着いた。そこは言わば高原地帯で全体が耕作地になっていた。途中絶えず展開する景色は筆舌につくしがたいほど美しかった。眼前に広がる江戸湾の波静かな海上に漁船の小さな白帆が点在していた。」(幕末日本探訪記)
「丘の頂上から見渡す内陸の眺めは変化に富んでいて興味深く美しかった。眼下には稲田、農家、寺などが見える。その向こうに低い丘があり、それからまた田園が続き、視界ははるか地平線の彼方の山並まで一望に収めることができた。」
「森や寺を包む荘厳な静寂は時々雉の鳴き声や森の鳴禽たちの明るく快いさえずりで破られた。なんとここは世捨て人や慌ただしく騒がしく圧制的な浮世の苦労に疲れた人たちの楽園であることよ。」(幕末日本探訪記)
「我々はよく朝から晩までうっとりとさせられるほど素晴らしい小さな谷間を歩き回った。横浜からそこまでほんの数分歩くだけで大きな町の単調な生活からずっと遠く離れて来たような気持にさせてくれるのである。」(江戸幕末滞在記)
「森に覆われた斜面を縫うようにして下り、草に隠れた小径を通り、木漏れ日が揺れ、頭上では小鳥が歌い、地面には菫が咲き誇っている。あたりの空気を香り高くして小径を行くと、やがて見事に耕された谷に行き着くのである。小さな村落には、華やかな色に輝く畠のあちこちに農家がぽつんと立っていた。」(江戸幕末滞在記)
「町と同じくここでも家は人形の家のようだが、柱は光沢を放ち、障子も白く輝いている。住民は健康そのもので満足な様子がまぶしいほどに見えた。」(江戸幕末滞在記)
「お堂には苔むした尊い仏の像が、樹齢何百年にもなる樫の木の陰で田園の孤独を楽しんでいた。」(江戸幕末滞在記)
「このかなり高い場所から私の周りに日本の田園が広がっているのが見えた。それは、とても景色が良く、もうし分なく美しく、私がこれまでに見てきたすべての風景が霞んでしまうほどであった。私の足下には素晴らしい樹木で覆われた丘に挟まれた広い谷が開かれていた。少し向こうには別の丘が段をなして続き、地平線の彼方に箱根の堂々とした山並となって終わっていた。その山並の中ほどに富士山の頂が夕陽の魔法のような光に浮かんで見えた。谷の反対側には、海を望むことができた。それは山のなかの湖のように静かであった。長い波は、夕空から紅色とオレンジ色の反射をうけて、黄金か炎のように見えた。」(スイス領事の見た幕末日本)
「太陽は沈み、穏やかな美しい澄み渡った夜が、入江と周りの丘そして水平線の海と山をつつんでいた。日本の夜はたいへん美しい。」(スイス領事の見た幕末日本)
「私は縁側に腰掛けて、家の敷居の上に集まって茶を飲み煙草をふかす暇つぶしに耽っている宿の客の会話を聞くでもなく耳を貸して、目は今いる場所からやや離れた入江の漁火に向けていた。それはまさに幻想的で、その時の様子は今も私の記憶の中に焼き付いている。」(スイス領事の見た幕末日本)
長崎
「町を過ぎると、道は段丘に囲まれた美しい稲田に出た。水田の灌漑は山から流れる水で満たされていた。他の両側の丘の上には、部分的に樹々や灌木が繁茂していた。私が観察したのは松、杉、椹(さわら)、楠、樫、椿などであった。道から田を隔てて向かいの丘などを見上げ見下ろす眺めは、実にすばらしかった。畦道を登って行くと左側にあるシーボルト博士の住居が羨ましかった。」(幕末日本探訪記)
「丘の間に広がる黄金色に熟した収穫前の豊かなみのりの稲田が実に美しく、感興を引かれる田園風景に散在する村や農家が生気を添えている。」(幕末日本探訪記)
「長崎の町は、所々耕された山々に囲まれた大盥(たらい)のような所に建てられている。この山々は美事な景色であり、下の平坦な地域への散歩道にもなっている。しかし、毎日の慰楽には余りに距離が遠すぎて、我々は最初のころは有名な年長けた楠の樹のある諏訪神社や桜の馬場あたりまでの散歩で切り上げた。神社仏閣はたいがい高みにあり森で囲まれている。神社仏閣はその壮麗な建築で知られており、周囲には広場があって市民の遊楽の場所でもある。社殿や本堂へ行くには相当高い石段を登らねばならぬが、登り切って眺める四囲の風景はまことに美事である。」(長崎海軍伝習所の日々)
「長崎は不規則な形をした美しい谷あいに位置しており、その高さが五百から千フィートの起伏のある丘の稜線に支えられている。この丘は水平線上から風景をもっとも景色よく見せるその背景で取り囲まれている。生い茂った森が丘のいただきを飾り、その中腹は目のとどく限り耕された畑と、農家の平和な佇まいに背景の役割を果たしている牧場でおおわれている。」(スイス領事の見た幕末日本)
鎌倉近郊
「休んでいたその頂上から丘を降りると、また新しい平野を横切る。その綺麗な木立、よく耕された畑、多くの村と農家そしてお寺が、たいへん豊かな心地良い多様性に富んだ一枚の絵を描いている。この平野の外れに日本の昔の年代記の中で有名な鎌倉の町がある。」(スイス領事の見た幕末日本)
鎌倉
「道路は江戸の最も整備されたものと同じ広さである。石で出来た橋が時の流れと孤独に耐えてきた。寺社を取り囲む広い庭園は私がこれまで見た中でもっとも美しいものである。一本の長い道の両側が、二列の樹齢百年を超す大樹によって囲まれている。聖なる森の入り口に辿り着くまでに巡礼は御影石のいくつかの門を潜るが、これがまた飾りのない単純さの中に荘厳な美しさを秘めている。広い深い濠が庭園に近づけなくしている。濠を潤す水の上には睡蓮や白蓮の葉や花が広がっていた。この濠の上には二本の橋が架かっているが、一本は切り石で出来ており、もう一本は朱塗りの木製のものであった。橋の向こうにはそれほど広くない広場があり、その先に銅板で覆われた大きな門で守られた広大な建物が立っていた。ここは、この庭園の主要な入口であった。」(スイス領事の見た幕末日本)
「この場所から一目で鎌倉の寺社の主要な建物が見てとれる。右と左に二つの寺がそびえている。正面には石の素晴らしい階段が三つの別の社の土台の役をなしている高台に通じている。真ん中の社は最も大きく最も美しく、鎌倉の聖なる尊い宮である。この庭園にはさらに多くの建物があるが、立派な普請で豊かに装飾され、申し分なく手入れがなされている。」(スイス領事の見た幕末日本)
伊豆
「まず、林や灌木の列や屈曲して流れる渓流などによって美しく飾られた広い谷間を通り過ぎた。その土地はきわめて肥沃であり、そこの産物はひじょうに多種多様である。全平地は耕作された丘陵に取り囲まれて円形劇場のようになっており、かなたにはもっと高く遠方まで延びている山々があり、それらの山は生い茂った灌木林や松の木によって覆われていた。小さな居心地のよさそうな村落や家々が森や丘陵の懐に抱かれており、ここかしこには庭園の塀が見受けられ、大名の田舎の邸宅に至る並木道が垣間見えた。」(大君の都)
「山峡を遠くまで貫いている堤防は、野生の桃色の紫陽花で輝いていた。そして我々がだんだん高く登るにつれて、優雅な花をつけた桔梗があたり一面に現れた。もっと高い山の背に到達して、谷間毎に海の方を振り返って眺めて見ると、一歩毎に開けてゆく展望は名状しがたいほど美しい。」(大君の都)
下田
「辺りの景観は「素晴らしい」の一語に尽きた。美しい岩肌は下の方が見事な洞になって弧形を描いており、上には繁茂する森や灌木のたぐい。山腹も谷間も豊かに耕されていて、田園的な自然の美しさに囲まれた小さな町が、平和で穏やかな微笑を送ってきた。」(江戸幕末滞在記)
浜松付近
「一昨日の雨のあとをうけて、この地方の景色はことのほか美しく見えた。沿道の亭々とした松並木の後ろには実った大麦の畑が近くの麓の所までずっと延び、その丘越しに青い山々が遠くに連なっているのが見えた。」(一外交官の見た明治維新)
九州の風景
「道中ずっとイヌバラ、スイカズラ、キンポウゲ、それに素朴なアザミが続いて生垣を満たしていた。一人で馬に乗って進んでいる間は、この情景がどこか美しいイギリスの田舎のものだと想像するのは容易だった。」(大君の都)
「耕した田畑や段々畑のある丘を初めて目にし、その彼方にはもう一つの山脈がそびえ立って、前景を絵画的な日本人の姿が満たしているのを目にした時には注目しないで通り過ぎることが難しかった。」(大君の都)
瀬戸内海
「幅が一マイル半よりも狭い島の間を通った。その辺の景色はまた格別で、おそらく今まで見た中で最上のものであった。好もしい村や寺院や農家などが、様々な角度から眺められた。時々、丘のずっと後ろの方まで高台を耕した肥沃な畑地の前を通り過ぎた。手の込んだ草葺きや瓦屋根らしい家々もまた、東洋諸国では珍しく快く清潔な佇まいであった。」(幕末日本探訪記)
「いわゆる内海は周防灘と言い世界でも指折りの美しい海域である。北と東から本州、南から四国、西から九州と日本の三大島に囲まれていて、お伽の国のように素晴らしい緑に覆われた海岸線の内側に深く穏やかな水をたたえている。澄んだ水の表面のそこここには大名の中世の城が白壁を映しており、隈なく耕された谷では小さな魅惑的な村落があだっぽく顔を覗かせている。」(江戸幕末滞在記)
丸亀城
「日没の少し前に、われわれは四国の岸に領主の城を見た。その麓に村落があって、こんもり茂った丘陵の上に立つ壮麗な姿は、これらの村落が古い封建の塔の庇護の下に身を寄せているかのように見えた。」(絵で見る幕末日本)
「石で造った部分は加工してないがセメントで固めてあり、土煉瓦のところは石灰で白く塗ってある。木造の部分は赤色または黒色で彩色し、銅製の飾り物を付けたり漆や顔料を塗ったりしている。屋根瓦は黒鉛色をしている。一般に細部の装飾は第二義的であって、主要な関心を払っているのは均斉のとれた建造物の壮大さと調和を感じさせる全般的な効果である。」(絵で見る幕末日本)
薩摩の風景
「我々は午前中その付近を散歩したが、眼前一面に展開する景色の美しさに、ただただ恍惚となるばかりだった。見渡すかぎり一面に田圃でその間に森や小川が点在している。良い道が付近の村々へ通じている。」(長崎海軍伝習所の日々)
農民の生活
日本に来た外国人は、幸せそうに暮らしている農民たちを発見しています。
豊かな農民
「日本の各地で観察した農民とその家族は、余裕のありそうな家に住み、衣服も整っていたし、食事も十分で幸福で満足そうに見えた。長崎や江戸のような大都市の近傍に住む農民は、むしろ田舎の武士や地主よりは富裕かも知れないということは、ありそうなことだ。」(幕末日本探訪記)
幸福な国民
「政府は莫大な数量の米を、その倉庫に絶えず貯蔵するよう意を用いているから、飢餓の心配にも十分の対策が講ぜられている。この国が幸福であることは、一般に見受けられる繁栄が何よりの証拠である。百姓も日雇い労働者も皆十分な衣服を纏い、下層民の食物とても、少なくとも長崎では申し分のないものを摂っている。もし苦力(クーリー)などが裸体のまま街頭に立っていたとすれば、それは貧乏からではなくて無作法のせいであると言う。」(長崎海軍伝習所の日々)
伊豆の農民
「封建領主の圧制的な支配や全労働者階級が苦労し呻吟させられている抑圧については、かねてから多くのことを聞いている。だが、これらのよく耕作された谷間を横切ってひじょうな豊かさのなかで家庭を営んでいる幸福で満ち足りた暮らし向きの良さそうな住民を見てみると、これが圧制に苦しみ、苛酷な税金を取り立てられて窮乏している土地だとはとても信じがたい。むしろ反対に、ヨーロッパにはこんなに幸福で暮らし向きの良い農民はいないし、またこれほど温和で贈り物の豊富な風土はどこにもないという印象を抱かざるを得なかった。」(大君の都)
日本の農村
「自然の富に囲まれながら勤勉で物分かりの良い多数の日本農民は、貧弱な小屋と農具、数着の木綿着、畳、蓑、わずかの米、塩のほか、自分の物は何ひとつなく、いわば最低の生活必要品以外は何ひとつ持たなかった。彼らが汗水流して生産するその他のすべての物は封建的な支配者である農地所有者に属していた。」(絵で見る幕末日本)
「中産階級の欠如は日本の農村に貧相な風景を与えている。」(絵で見る幕末日本)
「ただ一つ農村部落の単調さを破っているものは寺院だけであるが、それも遠くからは大きな広い屋根と数百年を経た大木が目立つだけである。仏教の宝殿や各階に極彩色の回廊を持ち、屋根の先端の尖った屋根を持つ高い塔は、シナに比較して日本では非常に少ないようである。」(絵で見る幕末日本)
貧しい漁村
農民に比べ、漁師たちは貧しい暮らしをしていたようです。外国人たちの報告は多くはないのですが、豊かそうには見えません。
品川
「我々は見かけのかなりみすぼらしい、その住民のほとんどが漁で暮らしているように思われる村に入った。」(スイス領事の見た幕末日本)
蒲原付近(東海道)
「道路はここから蒲原まで海岸に沿っている。途中の景色は至る所に見られるきたない殺風景な漁村がなかったら、日本中で最も風光明媚な場所の一つであろう。」(一外交官の見た明治維新)
姫島の住民(豊後)
「我々は、この日おそく姫島に上陸した。住民はひじょうに親切であった。そして、たくさん魚を我々に売ってくれたが、野菜や牛肉は入手できなかった。家畜の類もかなり豊富で、よく肥えていたのだが、住民は貧しくて栄養不良のように見えた。人口はおよそ二千。島は肥沃ではなかった。」(一外交官の見た明治維新)
幕末の日本1
幕末の日本3
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2014.11.25 野沢 清 kiyoshi_nozawa@yahoo.co.jp