幕末の日本3
外国人の生活
日本で生活した外国人は多くの召使を使っていましたが、優秀な中国人(シナ人)も使っていたようです。
横浜・オランダ領事館
門番
「日本で門番と名付けられている守衛の仕事は、警備や門の扉の開閉に限られておらず、彼らは小さな槌で扉の側柱にぶら下げてある銅鑼を叩いて、昼と夜の時間を知らせねばならなかったし、また誰が家の方に来ているかを知らせねばならなかった。商人や行商人が来た時には一つ鳴らし、将校や通訳は二つ、領事や艦長または日本の奉行が来ると三つ、大臣や提督となると四つといった具合である。」(絵で見る幕末日本)
別当(馬丁)
「南側の塀のあたり、よく茂った木立の陰に住宅や小屋や各種の付属建築物が並んでいる。まずシナ人の洗濯屋があり、次に厩舎があり、その向かいに日本人ばかりの馬丁または別当たちの住む小屋がある。どの馬にも別当が付いていて、いつも馬から目を離さなかった。誰かが馬に乗って出かける時には、馬の前か横にいて走り続け、用があればいつでも間に合うようにしていた。」(絵で見る幕末日本)
「彼らはたいてい裸で歩いているが、主人のお供をする時には草鞋を履き、黒い半纏を着、頭は手拭で鉢巻をした。」(絵で見る幕末日本)
シナ人
「我々の雇っている南京(シナ人)は自分の民族の服装をしており、膝より下まで届くと言って彼自身が自慢している弁髪までそのまま残している。彼らの任務は、わが国の台所係みたいなものである。全極東でヨーロッパ人は、普通この任務を料理に天与の才能を持つシナ人の手に委ねている。」(絵で見る幕末日本)
シナ人と日本人
「その点シナ人ははるかに優秀で、裕福な家では必ずといって良いほど、執事をつとめるシナ人が一人いた。買弁という名で呼ばれて家中の一切を取り仕切り使用人たちを指図した。長くて素晴らしい絹の服を着て油で光った5フィートもある弁髪を垂らし、自信ありげな薄笑いを脂ぎってずる賢そうな顔に浮かべ、可哀そうな日本人たちを軽蔑の目で見下げ、奸知と抜け目のなさでもって主人に仕える術を心得、主人の我儘や気紛れを上手にこなして、結局、自分を不可欠の存在にしてしまうのである。その狡知、計算高さ、商売上手において日本人などは足元にも及ばない。けれども日本人は、こうした性質の不在を、正直と率直、疲れを知らぬ我慢強さで補っている。シナ人は、見かけこそ整って賢そうな顔をしていても、厭わしい印象を与えるのが普通だが、その点、日本人はちょっと見に醜く彫の深い顔をしても、外国人には好印象を与えるのである。」(江戸幕末滞在記)
長応寺の警備
「夜警は自己の任務を几帳面に遂行している。彼の方に近づくと、彼は「誰だ?」と叫ぶ。これに対して夜の合言葉で答えることになっている。毎日、私は守衛隊長から日本語とオランダ語で書いた夜警の合言葉を受け取っている。」(絵で見る幕末日本)
西国の侍
「午後リッカービィと私は、楓の植え込みのとても美しいので有名な品川の海晏寺という寺院へ徒歩で行った。私たちは、そこからすぐ近くにある川崎屋という料亭へ行き、前の晩そこに泊まった備前侯の噂を肴に女たちと冗談を言い合いながら酒を飲んだ。この家は西国の兵士で満員だったが、私たちを特別の目で見る者はほとんどいなかった。また実際に路上で出会った人々も、私たちを見ても何とも思っていないようすだった。ところで、私が江戸の市街に出る時には、私の従者である会津の侍の野口と四ないし六名の別手組がいつも私の身辺を護衛したのである。」(一外交官の見た明治維新)
シルクハット
「私の新しい馬「伏見」は勝(海舟)が江戸を去る前に贈ってくれたもので素晴らしく乗心地が良かった。市街にたくさんいる官軍の兵士たちは、私の被っているシルクハットを羨ましそうに見ながら、さも感心しているようすだった。」(一外交官の見た明治維新)
酔っぱらい
外国人は日本の酔っぱらいには迷惑したようです。特に、二本差しの侍の酔っぱらいには何をされるのか分からないので非常に恐れていたようです。
また、多くの外国人が日本人によって殺傷されていますが、酔ってなくとも外国人に斬り付ける輩もいたようです。なお、切捨て御免のようなことがあったと言われることもありますが、実際には武士が刀を抜くのは正当防衛などの場合以外は許されなかったようです。
日本人の飲酒
「江戸の日本人は、四月いっぱい郊外の庭園や寺にピクニックに出かけるが、これは彼らの大きな楽しみの一つである。」
「悲しいことには、このような牧歌的な情景が、しばしば過度の飲酒のためにだいなしにされている。」「下層階級の連中が酩酊のあまりに一歩も歩けなって寝ているのを見かけたりすることがある。」(大君の都)
「酒の飲みすぎという悪徳にかんしては、日本人が外国人から学ぶべきことは少しもない。といっても、それは少なくとも我々の責任ではない。彼らの飲酒癖や喧嘩癖は、ヨーロッパの北方民族に決してひけをとらず、飲むと最悪で非常に凶暴になる。」
「しかし、公平にいうとキリスト教諸国にも、これと同じ欠点があることを認めざるをえない。ただ、幸いなことに我々の大酒飲み達は、帯に二本の鋭利な刃物を差していないし、事と次第では、それらを試さなければ体面に係わるというふうには考えたりはしない。」(大君の都)
武士
「彼らは、酔っぱらって、威張りちらしていることが多い。このような手合いをよくみかけるのは、茶屋(料亭)の多い地区である。たそがれ時ともなると、一日の遊興を終えて帰途につく彼らが、真っ赤なふてぶてしい顔つきをし、足元をふらつかせながら、武器を持たぬ人々や犬たちに脅威を与える。これらの連中が、四つ足のけだもので新刀の切れ味を試すだけで満足しておれば、武器を持たぬ人々にとってはもっけの幸いというべきだ。」(大君の都)
「これまで、しばしばこのような状態にある彼らが、威張りちらして外国人に出会うと必ず無礼な態度でけしからぬ言葉を投げかけるばかりか、ややもすれば道をふさいで、脅迫的な態度で通行を阻止したり、時には乗馬ないし乗り手に打ってかかろうとしたりするのを目撃している。」(大君の都)
「一人の酔っぱらいが道を独占していたので、私は何か悶着が起こるのではないかと心配した。彼は長い木の棒を持っていて、通りがかりの者を、誰彼となく殴ろうとしていた。供の馬丁のひとりが殴られたが、この卑怯な酔っぱらいは足元がふらふらしてかろうじて立っているので、わけなく彼を避けることができた。」(幕末日本探訪記)
「江戸の酔っぱらいの大半は、たいてい鋭利な両刀差しで、しばしば意地悪で喧嘩好きの由だから、日暮れ以降の江戸の町は外国人が出歩くことは、まったく安全な場所ではないことが容易に分かるだろう。」(幕末日本探訪記)
「役人、官僚の数は夥しく、そのうちの一部は無職のことが多く暇な時間を茶屋で過ごし女たちに囲まれて酔っぱらう。当初、日本人が西洋人の顰蹙をかったのはまさにこの点であった。泥酔した役人(侍)がおとなしい西洋人に乱暴をはたらくことが度々あり、そうした体験をもとに、実際はほんの一部の階層が苦情の対象であったにもかかわらず、日本という国全体が野蛮で粗雑であるという評価が下されるに至ったのである。内情をより詳しく知るに至ってそれが誤りなのに気付き不幸にも酔っぱらった役人に出会って道をふさがれた時にも、以前は意地になって役人をますます怒らせ無残な結果を引き起こしたものだったが、今は西欧で酔っぱらいに絡まれた時と同様、おとなしく道を譲るようになった。」(江戸幕末滞在記)
「一目で酔っぱらっていると分かる役人(侍)がひとり恐ろしい顔をして我々の方に近づいて来た。じっと睨みつけながら我々から1、2歩ほどの距離まで来た時に刀の柄に手をかけたのである。ステッキを手にしていた私の友人は直ちにフェンシングの身構えの姿勢を取り、何も武器を帯びていなかった私はその男に飛び掛かり刀を抜かせないようにした。我々の攻撃的な動作にたじろいだのか男は考え直したようで、いきなり脇によけると何もせず我々をそのまま通させてくれた。」(江戸幕末滞在記)
「日本人の敵意を目の当たりにしたのは、この時が後にも先にもただの一度で、この国民の普段は柔和でおとなしい性格に対する私の信頼が揺るがされたことは一度もなかった。」(江戸幕末滞在記)
切捨御免
「日本という国は、あらゆる文明国の中でも武器を持つ習慣が最も広まっている国であるので、その危険な習慣の不都合をできるだけ避けるために、厳しい規則を採用せざるを得なかった。正当防衛以外の場合でなければ、路上では誰でも刀を抜けば決まってこの上なく重い罪に問われるのである。」(スイス領事の見た幕末日本)
ナタール事件
「(イタリア人の)ナタールは夕暮れ迫るころに、(フランス)公使館の階段のところにたたずんでいた。そのすぐ近くには公使館付きの役人(武士)も数名いた。その時、二人の人相の悪い肩をいからせた武士が羽織袴で通りかかり、その一人が階段を上って、やにわにナタールの傍にいた犬をひどい勢いで道路までけとばして、けんかを売りつけた。ナタールが抗議するや否や、この武士は小刀(脇差)を抜き、ナタールの頭めがけて激しく振り下ろした。ナタールが飛び退きながら、腕を上げてこれをどうやら防ぎ、連発ピストルを取り出して相手めがけて発射すると、この武士は逃げ出し、抜き身の血刀を引っ下げたまま群衆の中へ姿を消してしまった。公使館付の役人(武士)たちや道路上の住民たちは、誰一人としてこの凶漢を止めようとはしなかった。」(大君の都)
軍事訓練
幕末には伝統的な武術の鍛錬の他に、西洋式の軍事訓練も始まっていました。
武術
「日本人の勇猛さには疑問の余地がない。自ら軍事国家と呼んでいるくらいで幼少の時から戦争道具を生きる道に選び、刀と弓、この国固有の二つの武器の使用法を教えられる。」(江戸幕末滞在記)
「大きな町には優秀な先生の指導のもと、若者が斬り合いや弓の射方を練習する学校が幾つかあるが、こうした訓練も日に日に稀になってきている。」(江戸幕末滞在記)
江戸郊外
「その辺の平地の所で、兵隊がしじゅう教練を行っているらしい。楽隊はイギリスの陸軍軍楽隊と異なってはおらず、いかにも本物らしい模倣であった。囲いの高い柵や灌木の茂みで視界がひどく妨げられたが、時々兵隊の旗や槍がちらっと見えた。大名たちは彼らの藩兵に戦争の技術を絶えず訓練させていたのである。そのころ江戸の大名屋敷の傍らを通ると剣術をやっているような喧しい物音が聞こえた。私が江戸に滞在している間に、同じような音響をしばしば耳にした。もし不幸にして、ヨーロッパ諸国が日本と戦うようなことが起こったら、日本人はシナ人より非常に優勢なことが分かるだろう。同時に我々は刀だけで戦うのではないから、勝負の結果については自信がある。しかし、そのような日本と戦うようなことは遠い将来のことにさせたいものだ。」(幕末日本探訪記)
阿波藩の教練
「五百人ばかりの兵士が大小五つの部隊にわかれて教練をおこなった。かれらの制服は縦に赤条の入った黒いズボンに黒いコートといったヨーロッパ風を模倣したものだが、長靴をどうにか足につけた者はまだ幸せの方で、その他の者はみんな草鞋履であった。頭には二条の赤線を横にまいた円錐形または皿蓋型をした一閑張の帽子を被っていた。イギリス式の歩兵教練をやったが、鉄砲の発射を知らせる叫びが奇妙で見ものであった。判定力のある人々の意見によると、なかなか上手にやってのけたという。」(一外交官の見た明治維新)
幕府軍の訓練
「1月半ば、フランスからも総勢15名の士官、下士官より成る使節団が到着し、日本の兵隊を西欧の訓練された兵士なみに変貌させるという難題に取り組んだ。」
「何ヶ月も経ないうちにこれらの日本人の部下中のかなりの人数の者を訓練教育し、その者たちが助手となってさらに他の者たちを指導して新しい軍隊の中核を育てあげた。ちなみにフランスの士官が優秀とみなした生徒は、役人(侍)たち、あるいは武器の扱いに慣れていた日本人ではなかった。畑からまっすぐ引っ張ってこられたような粗野で無教養な農民のうちに、士官たちはいちばん物覚えが良く実際面でいちばん物分かりの良い生徒を見い出したのだった。」(江戸幕末滞在記)
茶店と茶屋
幕末においても日本ではサービス業が盛んだったようです。茶店は簡単な小屋掛けで軽い食べ物やお茶を出していました。茶屋は料理を出すのが基本で旅館業を兼ねていることも多いようです。また、一般に遊郭も茶屋と呼ばれています。
茶店
「お茶を飲みながら、小波をたてている海やはるかな海岸の美しい景色をながめたり、大きな公道ぞいの首都の風物をながめたりして、目を楽しませる。」(大君の都)
「我々は最後の坂を降りる寸前に道端の小屋の一つで休息した。こういう小屋は、日本中のどこの公道を通っても、わずかな間隔をおいて見かけることができる。少なくも我々が旅行してきた公道に関するかぎりはそうであった。これらの小屋では、きわめて貧しい旅行者でもわずかばかりの現金で長時間の疲労を癒すに足ると思われる食事、熱く蒸したサツマイモや油で揚げた魚やお茶などを丁寧に給仕してもらえる。軽い食事を欲するなら、日除けの下に季節の果物、赤くて甘そうなブドウや薄く切ったスイカなどがうまそうに置いてある。」(大君の都)
「旅行者が食事や休憩をする茶店は街道の目につく所に数百ヤードおきにあった。これらの店は、商店のように前が明け放しで、畳を敷いた床上に客が座って休んでいた。食器類はよく見える場所に、徳利、湯沸し、茶碗、盆などの多くの必需品が並べてあった。ある茶店に近づくと、きれいな娘たちが上等の茶を入れた茶碗をいくつも盆に載せて、道の真ん中まで出迎えた。そして旅の疲れを回復するために食事をしきりに勧めるのだった。」(幕末日本探訪記)
「この茶店の主人は、旅行者や役人の馬に水をやることを、自分の務めにしているらしかった。そのために、ひとりの男が馬にやる水桶を用意してくれた。そうした手数に対する心付けとして小銭を置いていくのが習慣になっている。」(幕末日本探訪記)
「日本人は狂信的な自然崇拝者である。ごく普通の労働者でさえ、お茶を満喫しながら同時に美しい景色も堪能する。したがって茶店の位置も、目を楽しませるという目的のために特別の配慮をして選んでいる。」(江戸幕末滞在記)
「まったく見捨てられてしまったような幻想の気紛れが散歩者を一度も足を踏み入れたことがないような草の生い茂った道を通り抜けさせるそんな場所にまで、よく老婆がいて木の長椅子に慎ましやかな商売道具を置いている。つまり、いくつかの茶碗、急須、それに火鉢である。銭一文、つまり4スーの値もない銅貨(天保銭)の百分の一と引き換えに、日本の旅人はお茶を一杯とご飯を一椀もらうのである。旅人は、すぐ真下に見える風景を楽しみながら、煙管(きせる)を何服か吸い終わるまでその場を立ち去らない。」(スイス領事の見た幕末日本)
茶屋
「茶屋というのは、これまでも説明してきたように、日本中どこへ行ってもたくさん見られる。ふつう名所がつくられる場所の選択は、まさに日本人の間に一般に広まっている趣向を特徴づけている。即ち自然を美しいと感じる気持である。他のどんな国民にもこの点まで、この気持ちを発展させた例を知らない。」(スイス領事の見た幕末日本)
「目で魅力的風景を楽しみ得る全ての足の届く場所で、茶屋は通行人たちが自分たちの眼前に展開する風景を暫し楽しむために足を止めさせるように招いているのである。人通りの多い街道ではこの種の建物は大きな宿屋となり、そこにおよそ20人ばかりの機敏な娘たちがたくさんの旅行者の接待をしている。」(スイス領事の見た幕末日本)
「きれいな女中たちが、お茶のほかに色々な菓子やゆで卵を数個、盆にのせて運んできた。そして卵の殻をむいて私にすすめた。私は愛想の良い女たちに囲まれていたので、この素晴らしい場面を誰かが見たら、きっと大いに面白がるだろう。」(幕末日本探訪記)
「茶屋はいっぱいで、彼らが楽器と称している物の荒っぽい調子はずれの音が多くの二階から聞こえてくる。」(大君の都)
「六郷川を越えて二マイル、梅屋敷という有名な遊園地に着き、そこで数人のひじょうに美しい乙女たちの給仕を受けた。当時、東海道を旅行する人で少しでも見栄を張ろうとする者は季節の如何を問わずみなここで足をとどめて、麦藁色の茶を飲み煙草をふかし給仕女をからかったりしたものだ。色々な魚の料理やあたたかい酒もあった。」(一外交官の見た明治維新)
「ヨーロッパ人は普通ピクニック用のバスケットを持参してこの梅屋敷で中食をしたものだが、たとえ遅く出た時でも何とか口実を作ってはここの魅力に富んだ美しいお茶屋に立ち寄るのであった。」(一外交官の見た明治維新)
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2014.11.25 野沢 清 kiyoshi_nozawa@yahoo.co.jp