幕末の日本4

日本の道路事情
日本では大名の参勤交代もあり幹線道路は整備されていたようです。外国人も横浜から江戸に行くのによく利用した東海道は特に立派で、きれいに清掃され砂が撒かれていたと言われています。

東海道
「国内を走る大君(将軍)の道である東海道という公道は、ヨーロッパのもっとも立派な道と比較することもできよう。日本の道は幅が広く平坦でよく整備され十分に砕石を敷き固め、両側の堂々たる樹木は焼けつくような日射しから日陰を与えており、その価値をどんなに評価しても評価し過ぎることはほとんどない。」(大君の都)

「箱根の峠に差し掛かったが、その道はローマの公会堂を起点とするアッピア道路ともいうように大きな石で舗装されている。松や杉の大木の立派な並木道である。」(一外交官の見た明治維新)

「東海道はヨーロッパの大きな道路と比較して少しも劣らないばかりか、全道を通じて歩行者のための人道を持っており、しかも日陰をつくる良く茂った樹を植えてある点で優っている。」(絵で見る幕末日本)

「道路はおおむね良い。広くて平坦だ。だがあちこちに砕石舗装を絶対に必要とする個所があり、道路の半分は危険なほど急に低いところから1フートも2フィートも高くなっている。それに、雨天の時には、神奈川の町の大通りをなしている道路は完全にぬかるみとなる。こんな時にお偉い大名がたが、どうするかということを私は知らない。たしかに、晴天で道路全体がかなりきれいな時には、有力者たちが気持ちよく通れるように部分的に清掃され、砂が撒かれてあるのを見かけることがある。」(大君の都)

「大都市の近辺は、世界中のどの国においても特別な雰囲気を持っているものである。道路はずっと活発でずっと知的な様子をした人々で賑わっている。家々はずっと広くずっと豊かで遥かに趣味も良く贅沢に飾られている。動物さえもが文明の大中心地の隣人よろしく綺麗にみえる。江戸の周辺の様相もまた同様であるのだ。川崎を出ておよそ12キロある道は神奈川のそれよりもなお一層念入りに手入れされている。綺麗な住宅が互いに大きな庭で繋がっているのだが村々や小さな村落によってかろうじて途切れている一本の線を成している。」(スイス領事の見た幕末日本)
北九州の道路
英国公使のオールコックは長崎から小倉まで陸路で旅をしています。
「最初の五日間は、道路は現在までのヨーロッパの多くの国の間道ほどには悪くなかったが、それでも日本の東海道を形成している立派な広い大通りに比べると、いちじるしい対照をなしていた。」(大君の都)
「我々が良い道にさしかかったのは、やっと六日目、神崎から田代へ行く途中になってからであった。」(大君の都)
六郷川の渡し
「馬から降りて(護衛の)役人と私は底の平たい舟で、馬とは別の舟で六郷川を渡った。この川は幅が100フィートくらいの小さな流れで非常に浅い。我々の舟は長い竹竿で操られ、向こう岸へ渡った。」(幕末日本探訪記)

行列
大名に限らず偉い人たちは、護衛や家臣などを連れて行列を組んで移動していました。旅行に限らず単なる外出でも単独で出かけることはなかったのです。外国人も、例外ではなく攘夷派などの危ない人たちから守るために、護衛を連れた行列で旅行あるいは外出していました。
大名行列
「先頭に旗手が一本の長い棒ないし槍を捧げてやって来る。二本または三本のこともあり、尖った先端は鋼鉄でできていて、刃の上にイチハツの花に似たような覆いが被せてある。この槍は、身分と権威の表象であって、格式によってその形が異なる。次に、二人の馬丁に引かれた盛装した馬が来る。背中と袖に主君の紋章を付けた家臣の一隊が続く。それから当のお偉方が 乗物(駕籠)の中に座ってこれに続いて来る。主人のあとには、万一の雨に備えて、乗物の覆いを運ぶ者が来る。衣服を着替えたい時に備えて、衣装を入れたトランクが、また、たまたま雨の降る時に備えて大型の傘が、それぞれ運ばれて来る。時には、多くの空馬が続くし、若干の騎馬のお供があり、少数の弓の射手と火縄銃の射手と一本刀の下級の従者が続く。」(大君の都)
英国公使の行列
「イギリス国旗を掲げた槍を前にし、護衛として刀で武装した6名の日本人を伴い、その上に私に同行するために当局から派遣された一隊の日本人の官吏や役人たちを連れて行列はゆっくりとうねって行く。一人の馬丁が私の馬を引いてついてくる。馬には鞍がつけてあり、乗物(駕籠)に事故があった場合にすぐ乗り移れる用意ができている。」(大君の都)
富士登山の行列
「私の案内者たちは、少しもまごつくことなく、(群衆の)最先端の列の数歩以内に来ると扇を一振りして「したにおろう」という命令を一言発した。その途端に、魔法にでもかかったかのように幅の広い通路が開かれて、頭という頭はみな下がり、体は驚くばかりにそれぞれの持ち主の足と膝の後ろに隠れてしまうのである。かのハーレキンの杖(魔法の杖)やアラディンのゴマといえども、これほど急激かつ劇的な効果を収めはしなかったはずだ。」(大君の都)
横浜から江戸への移動
「我々について来るはずの護衛たちが待っていた。それは九人の役人から成っていた。」
「役人たちは背が低く痩せていて、神経質で軍人らしい様子をしていた。彼らは大きな丸くて平たい陣笠を被っていたが、それは雨と太陽を避けるのに絶好のものである。」
「彼らは草鞋を履いていた。短い外套(羽織)が優雅に彼らの肩に掛かっていた。彼らは帯に二本の恐るべき刀をぶら下げていたが、それは日本の貴族(武士)がいつも携えて外出するものである。彼らの馬は丈が低く醜いが、趣味よく華麗に馬具が付けられていた。」(スイス領事の見た幕末日本)

東海道の旅
英国外交官のアーネスト・サトウは大坂から江戸まで、本格的な行列での「大名旅行」をしています。当時の偉い人たちの旅行の様子が分かります。
引戸駕籠
「馬は手に入らなかったので、引戸駕籠という役人用の駕籠の中古を二挺買って、これを修繕させた。」
「棒は松材の長いやつで上品な言葉で切棒と称せられるものだった。綿を厚く詰めた絹緞子(どんす)の布団を敷き、ちょうど両足を楽に組んで座れるだけの余裕があった。前に面した窓の上に小さな棚があり、窓の下にテーブルの用を足す小さな折り板がついていた。また、引戸には寒気を防ぐために障子戸を付けた窓と、換気の際に塵埃が入らぬように紗の覆いをしたもう一つの窓が付いていた。雨天の時には、細い竹で作った簾(すだれ)が窓に下ろされた。また駕籠の胴体は黒い油紙の覆いで包まれるようになっているが、駕籠の中から外が覗けるように、これに小さな穴がついており、また油紙の垂れが外側へ張り出されていた。しかし、こうした装備は雨の降り続く日に用いられるだけだった。」(一外交官の見た明治維新)
荷物
「各自が両掛と称する衣類を入れる一対の長方形の柳細工の籠を用意し、一人の男がそれを黒い棒の両端に吊るして肩にかついで運んだ。私の寝具は、白縮緬の覆いに大和錦という普通の錦で広く縁を取った日本の敷布団二枚、それから夜着というビロードの襟のかかった模様のある縮緬の大きな綿入れの寝衣が一枚、それに西洋式の枕が二つで、これらを明荷という柳行李に詰め、男が二人でそれを担いだ。荷物ごとに、私の名前と肩書を大きく漢字で墨書した松の板切れが結び付けてあった。」(一外交官の見た明治維新)
行列
「公使館付きの日本人護衛兵(別手組)から選抜された十名の男と日本の外務省(外国方)に属する二名の役人が警護に付き添ったが、この外国方の役人は同時に道中の宿泊の手配をする役目も持っていた。」(一外交官の見た明治維新)
本陣
「この旅舎は、この種のものの中では、私が見た最も立派な建物の一つであった。ごく上等な木目のある材木、目障りにならぬ落ち着いた色合いの壁、金箔仕上げの風雅な模様のある紙を張ってそれに黒光りする漆塗りの木枠を付けた引戸、刷り込み模様の錦布で縁取った青々として堅牢な厚畳、といった具合の上等な建物であった。」(一外交官の見た明治維新)
「窓からの眺めは少しも効かず無愛想な黒板塀に取り囲まれている狭い内庭が見えるだけだった。偉い人というのは見てもいけないし見られてもいけないというのが一つの作法になっているのだ。」(一外交官の見た明治維新)
入浴
日本を舞台にした外国映画でよく見る入浴シーンのようなことが実際にもあったようです。
「私たちが順番に浴室へ行くと、取り澄ましたというほどではないが、すこぶる控えめな若い娘が、お背中を流させていただきましょうかと聞いた。私たちは子供の時分から沐浴の際に美しい女性を侍らすような躾はされてこなかったので、この娘の手助けは断った。」(一外交官の見た明治維新)
出立
「日本では旅客は朝早く出立するのが習わしである。この国の人々は夜の明けないうちに起き、台所の流しの上に吊るされた笊から一つまみの塩をつまんで急いで歯を磨き、石鹸なしで手と顔を洗い、朝飯を急いでかっこみ、太陽が昇るや否や、あるいはそれよりも早く道路へでる。」(一外交官の見た明治維新)

北陸の旅行
また、英国外交官のアーネスト・サトウは新潟から大坂へ旅行しています。佐渡などでは上司の英国公使も一緒でした。
ハリー・パークス英国公使の佐渡旅行
英国公使はアーネスト・サトウとは違って日本的な生活は無理だったようです。日本語の堪能だったアーネスト・サトウは日本の生活にも慣れていたようです。
「奉行は、ハリー卿のために自分の駕籠をさしむけ、それに乗って来てもらうつもりだったが、長官自身としては、駕籠の厄介になったり、歩いて島を横断したり、食物としては米の飯と魚肉よりも良い物のない日本の家に泊まって、床の上に敷いた日本の布団で一夜を過ごすなどということは、考えるだけでもぞっとした。そこで卿は、私を代わりに遣ることにし、自分はバジリスク号に乗ったまま相川へ回航することにしたのである。」(一外交官の見た明治維新)
金沢城
「金沢の町を離れてから駕籠を降り、絵のように美しい城郭を眺められる高台の料亭に立ち寄って、お別れのごちそうにあずかった。お城の周囲には沢山の樹木が繁茂していて、それが公園のように見え、ふつう城の名前で呼ばれているヨーロッパの厳めしい城砦とは大いに趣を異にしていた。」(一外交官の見た明治維新)
加賀の宿
「やがて、ひじょうに豪奢な寝具が運ばれてきた。絹綿を詰めた、絹や縮緬の柔らかい蒲団を敷き重ね、蚊を防ぐために大きな紗の網が吊るされた。次いで宿の者が緑茶を入れた急須に茶飲み茶碗を添えた小さい盆と喫煙に必要な道具を蚊帳の裾からそっとすべり込ませて、どうぞおやすみくださいと言った。朝になると目の覚めぬうちに、まず快適な生活の要素であるこれと同じ品物が前夜と同様にそっと持って来てあった。」(一外交官の見た明治維新)
大聖寺
「大聖寺の町では街路がきれいに掃き清められ、見物の群衆が家々の軒先に行儀よく座っていた。その中には晴着をきて、銀の花鬘(かんざし)をつけ、きれいに白粉をぬり、奇妙な金属光沢の紅花の染料を唇につけた良家の娘さんも大勢まじっていた。」(一外交官の見た明治維新)
越前
「翌日、越前の首都で人口約四万の福井に着いた。この町も街路が清掃されていた。晴着をきた見物人が列をつくって店先に並んでいたが、そのありさまはあたかも席料を出してイギリス議会開院式に臨御する女王を拝観する時の光景に似ていた。私は、まだ他のどこをおいてもこんなに大勢の美しい娘たちのいる所を見たことはなかった。道路を清めて埃の立たぬようにしてあることを示すため家々の前に白い箒と水桶が置いてあった。」(一外交官の見た明治維新)

明治天皇の謁見(大坂・東本願寺)
英国公使の信任状奉呈式が大坂で行われ、英国外交団が明治天皇と謁見しています。
「それはかなりの大広間であった。両側には天井を支える木の太柱がずっと一列に並んでいた。一番奥まった所にある高座の上、黒い漆塗りの柱で支えられた天蓋の下に、簾(すだれ)をいっぱいに巻き上げて、天皇が座っておられた。私たちは二列に並び、右の一列は提督を先頭にして海軍士官が、左の一列は公使を先頭に公使館の職員が、ともに広間の中央に進んだ。全員が三回頭を下げた。最初は部屋の中央まで進んだとき、次は壇の下で、三度目は壇の上に登ってからであった。檀上は、われわれ全員が楽に並べるだけの広さがあった。最初に頭を下げて敬礼した時、天皇は天蓋の下に起立された。外国事務局督と他の一人の高官が玉座の左右に跪いていた。」
「玉座の後ろには、多数の廷臣が黒い紙の帽子を被り、色さまざまの華麗な錦の礼服着て、二列に並んでいた。」(一外交官の見た明治維新)

大君(将軍)
将軍も各国の公使などと会見しています。英国公使のオールコックやフランス軍士官のスエンソンがその様子を報告しています。
大君(将軍)の謁見
「私は宮殿の中で見たすべてのものの秩序と礼儀の正しさに心を打たれたと言いたい。接見の場の事物は秩序整然としているし、装置の一般的な簡素さは他に例がない。部屋や回廊には少しも家具が置かれていない。」(大君の都)
大君(徳川慶喜)
「大君は体格が良く、年は33ぐらい。顔立ちも整って美しく、少し曲がっているが鼻筋が通り、小さな口にきれいな歯、憂愁の影が少し差した知的な茶色の目をして、肌も健康そうに日焼けしていた。普通の日本人によくあるように目尻が上がっていたり頬骨が出ていたりせず、深刻な表情をしていることの多い顔がときおり人好きのする微笑でいきいきとほころびた。」
「中背以下であったが堂々とした体格で、その姿勢も十分に威厳があり、声が優しく快かった。まさに非の打ちどころのない国王という印象であった。」
「衣装は色も形も他の者と同じくきわめて質実で、生地の贅沢さばかりが目立っていた。黒い綺羅物が、色とりどりに何枚も重ねられた同種の薄衣の上に羽織られ、ズボンは金糸を施した絹だった。」(江戸幕末滞在記)
式典の衣装(長袴)
将軍の正式な会見のため随身たちも礼装をしていたようです。烏帽子を被り、長袴を着けていたようなので素襖のような礼装と思われます。侍たちが長袴でカエル飛びをするところなどは何ともリアリティがあり現代の我々と変わるところがないようにも思われます。
「頭のてっぺんに、なんとも奇妙な黒い漆紙で作ったもの(烏帽子)を載せていた。」
「重そうな絹の衣装はたいていが空色で、どれもみな普段の服より明るい色をしていて、肩の部分がいつもより二倍の幅に仕立ててあった。」
「ズボンとはいえ、一端が縫い合わされているだけの袋を1アーレン(約60センチ)ほど引きずって歩くので、これをズボンと呼んで良いかは分からぬがともかく今にも転げて地面に鼻を打ち付ける心配があったため、一歩ごと慎重に歩を進めなければならない。」
「ところで日本人も、皆我々と同様に自分たちもその衣装を滑稽だと思っていたようで、お互いに冷やかし合い、ぴょんぴょんとカエル飛びの真似を何度もしていたが、そのまま続けていれば、いずれ転んで鼻血を出すこと受け合いであった。」(江戸幕末滞在記)
大君(将軍)からの記念の贈り物
「この真に人も羨む日を記念して、我々客人の一人一人に小さな贈り物が与えられた。たいてい銀の煙管か刻み煙草入れ、あるいは絹織物で、どれにもみな干魚を糸状にしたもの(熨斗)がつけてあった。」(江戸幕末滞在記)

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2014.11.25 野沢 清 kiyoshi_nozawa@yahoo.co.jp