幕末の日本5

江戸の町
「江戸には立派な公共建築物こそないが、町は海岸に臨みそれに沿って諸大名の遊園地が幾つもあった。城は素晴らしく大きな濠をめぐらして、巨大な石を積み重ねた堂々たる城壁を構えていた。絵のように美しい松並木が日陰を作っており、市内にも田舎びた所が多く、すべてが偉大という印象を与えていた。城が広大なうえに、役宅の数が多く、きれいに砂利を敷きつめた幅の広い立派な道路が交差していて、江戸の町の面積はとても広大なものであった。しかし、商業地域の点では大坂のそれよりも実際せまかったのであるが。」(一外交官の見た明治維新)
「江戸は庭園の町である。それはどこまでも際限のない、海に洗われ、大きな河に横切られ、多くの別荘で飾られた町である。いくつかの界隈には規則的な通りをつくっている家々の途切れることのない連続が見られる。しかし、目を移すたびに寺院や庭園や屋敷が町並みの統一性を壊しにやってきて、江戸を世界でもっとも個性的なものにしており、初めて見たとき旅行者にもっとも強くもっとも心地よい驚きを生み出させる、あの特異な様相をつくりだしているのである。」(スイス領事の見た幕末日本)
江戸城
「訪問して来た者から聞いたところによると、何人かの見物客が話していたきらびやかさどころか、かえって他の東洋の宮殿の贅沢さとはっきり対照をなす簡素そのものということである。部屋に敷いてある畳は、本当に極上のものである。扉の柱を飾ってある彫刻、天井を支えている柱、それに天井そのものは技術の粋を尽くして細工され念入りに仕上げてある。しかし客間や部屋の他に、何一つ特別に注意を引くものはない。厳しいまでの簡素さが建物全体を 支配しているのである。その簡素さこそ日本人の趣味の普遍的な特徴であり、最も美しいものの一つである。」(スイス領事の見た幕末日本)
「広くて砂を敷いた気持ちの良い散歩道が城を取りまいており、水鳥が一面に浮かんでいる濠に沿って続いている。この水鳥は全く安全に生活している。」(スイス領事の見た幕末日本)
日本の城
「城の善美というのは、神社仏閣のそれと同じように建物の非常に広大なこと、そして木の細工が選り抜きの立派な細工である点にある。最も美しい部厚で幅広の板が床や欄間に使ってある。欄間には彫り物の装飾が施され、細かい部分にいたるまで丹念に手が入れてある。天井は漆塗りで、金箔で飾られてあるのに反し、床には細かい目の畳が敷き詰められ、その畳は細長い紺色の天鵞絨(ビロード)で縁取りがしてある。それは、床に一歩踏み入る時に何とも心地よい感じを与える。」(長崎海軍伝習所の日々)
大名屋敷
「異邦人にしてみれば、はじめて市内の商店街を通って官庁街に入ったとたんに、何にましても封建諸侯のこのようなすべての邸宅の広大さにびっくりせざるをえないであろう。少なくとも幅が100フィートはある道が多く、家々、すなわち中庭にある平屋建ての建物の正面は、時として四分の一マイルにも及んでいる。背後には、庭園や練兵場があり、美しい樹木がその上にそびえて、付近一帯に半ば王者的な雰囲気をただよわせている。」
「大きな門を通って広くて良く舗装され、入念に掃き清められ、手入れの行き届いた中庭へ通る。」
「我々は畳を敷いた大きな通路、すなわち廊下を通る。一方の側には、いつも紙の窓がついており、他の側には板戸がついている。この板戸は、ふつう夏のあいだは取り払われるが、一組の部屋への入り口になっている。」
「この部屋は一段と大きくて、小さい庭を見渡すことができ、明らかに屋敷の主要な部屋である。すべてきれいに畳が敷かれ、それには絹の縁がついている。」(大君の都)
「最初の外堀を渡ると大名や彼らの家来たちの屋敷の公邸街があった。ここの街路は広々としてまっすぐで清掃が行き届き、すべてが今まで通り過ぎた所と全然ようすが違っていた。街路の横には不要の水を流す立派な排水溝があって地下を通っている。大名屋敷には一様に格子窓と彼らを誇示する紋章のついた重厚な構えの扉のある外壁があった。概して二階建で、土台と外壁の下方は堅牢な石造りで、上部は木材と漆喰でできていた。」(幕末日本探訪記)
鹿児島の下屋敷の庭
「一つの食卓に藩侯(藩主)と一緒に我々と海軍伝習所長および艦長役勝麟太郎(勝海舟)が着き、他の食卓に残りの日本士官着いた。我々がこの屋敷に入った刹那、そのあまりの風流と手入れの行き届いているのに我と我が目を疑った。庭草は綺麗に刈りとられ、歩道には小石が敷かれてある。四方に美しい花が咲き乱れ、流れに通ずる自然の滝や噴水が拵えてある。」(長崎海軍伝習所の日々)
江戸の人口
「あらゆる点で異常なこの都会は、リンダウ氏の証明によれば85万平方露里で、その中に180万の人口を擁している。なお、著者は1858年におけるこの膨大な人口の内訳を次のように分類している。商人および手工業者57万2848人。大名ならびにその家族と、従属者50万人、大君およびその家臣が18万人、宗教家20万人、旅行者および参詣人約20万人、乞食および賤民5万人。」(絵で見る幕末日本)
江戸湾
「我々の軍艦が江戸に向かうことは、岸辺の漁船を除いて他の船舶の注意を引かないばかりでなく、江戸の港が浅いため市街から2マイルまたは3マイルも離れたまったく人影のない所に投錨しなければならない。このような大きな距離では、軍艦の示威による効果もまったくゼロになることは明白である。軍艦がいくら号砲を放っても、埠頭の岸辺を固めている砲台は返答もしないのである。」(絵で見る幕末日本)
江戸の堤防
「途中左岸に立派な広い堤防があった。」
「おそらく江戸の堤防は、実に素晴らしい人々の先見の明と計画による記念碑で、多くの世代を経て現存していた。」(幕末日本探訪記)

大道芸
日本では昔から大道芸が盛んだったようです。それは寺の門前や祭りの場などで行われていました。路上で行うのが基本ですが小屋掛けの見世物になっていることもあったようです。
増上寺の門前
「(徳川将軍の墓地の前の)広い空き地は、一種の広小路になっていて、しばしば祭とか公的な行事が行われ、そうでないときには物語の語り手がわずかな聴衆を集めている。道端にはいつも少数のやかましい乞食が陣取っている。」
「ここではまた、しばしば奇術師の一行を見かけることがある。日本の軽業者は、かのプロンデルのおそるべき競争相手といえよう。かれらは、おそろしくも長い刀をのみこんだり、瓶のうえにのったりするばかりか、口からコウモリとかおびただしいハエとか長さが1マイルもあるようなリボンとか無尽蔵の小さな紙きれなどのような、とても想像できないようなものをはきだす。」(大君の都)
コマ回し
「日本では、コマ回しは一つの職業になっている。そして師匠たちのわざは大変巧みで素晴らしい。」
「確かに、素晴らしい腕前と巧みさをこれほど完全に示したものを私は見たことがない。それに日本人の性格には、確かにユーモアと滑稽さがあって、そのためにこういう見世物はすべて倍も面白くなるのである。」(大君の都)
「(浅草寺)境内の見世物を全部見て回ったが、とりわけコマの曲芸には感嘆した。空中高くコマを投げ上げ煙管(きせる)の先端で受け止める。曲芸師はまるでコマが人間かのように語りかけながら、辿るべき道筋を指示する。あるコマには刀の切っ先を廻り、刃の上を行ったり来たりするように命令し、またあるコマには20度の角度にぴんと張った紐の上を登り降りすることを命じた。三番目のコマには空中に放り上げてから、一本の指で受け止め、腕に沿って登らせ、続いて背中を一廻りして、もう一方の腕から戻るよう命じた。するとコマはまるで生き物のように命令に従った。コマの内部に断じて種も仕掛けはない。曲芸師の手の力と器用さは大変なもので、ちょっと見ると二本の指で軽く回しただけのように見えたコマが十分間も回り続けた。」(シュリーマン旅行記 清国・日本)
手品師(長崎の祭り)
「その手品師は紙で大きな蝶を作ったが、とても本物に似ており数歩離れて見ると、誰もが生きた昆虫と信じたであろう。手品師は、その蝶を空中に放り上げ、それから巧みに扇子を動かして頭の上を舞わせ飛び交わせて、動きの一つ一つに魂のある生物の様子を与えながら、上がったり下がったりさせるのである。そして最後に、この蝶をかなりの高さまで扇ぎ上げると、その紙の蝶はそこから大きな羽をパラシュート代わりにして、手品師が手に持っている花の上に再びゆっくりと降りてくるのであった。」(スイス領事の見た幕末日本)
子供の曲芸
この曲芸は角兵衛獅子のような大道芸だと思います。
「日本の横丁の人気者である曲芸者は、まだ小さな子供で、曲芸を始める前に鳥の羽を詰めた厚い頭巾を頭に被り、犬の顔をした赤いマスクをつける。かわいそうなこの子供たちは、親方の単調な鼓の音に合わせて、背を曲げたり伸ばしたりしながら、奇怪な頭と人間の四肢を持った二つの動物の滑稽なそして非常に空想的な格闘を演じて見せた。」(絵で見る幕末日本)
曲芸師
「広場の両隅で、二つの曲芸師たちの一座が叫び声や太鼓の音を響かせている。一つの一座は、青天井の下で刀を飲み込んだり、軽妙なとんぼ返りの演技を見せたりしている。」
「中でも最高の呼び物は、二つの台の上に置いた竹で編んだ2メートルほどの長い籠の中を飛び抜ける離れ業である。その際、観客の舌を巻かせるために、籠の中に等間隔に4本の火のついた蝋燭を立て、その上を驚くべき速度で飛び抜けるのだが、蝋燭の焔が消えないばかりか揺らぎもしない神技を見せていた。」
「もう一つの一座は京都式の曲芸団で演技は広い小屋の中で行われ、そこにはほとんど竹でできている帆柱に似た竿や横木が置かれていて、わが国の曲芸場に似通っていた。一座には特定の喜劇俳優はいないが、座員の一人一人が道化役者で、時に応じて滑稽な仕草をして見せるかと思うと息詰まるような妙技を見せるのである。」(絵で見る幕末日本)

江戸近郊の名所
江戸の近郊には多くの名所があり、一般庶民も季節ごとの行楽を楽しんでいたようです。そして訪日した外国人も、これらの名所を訪問し楽しんでいました。
江戸の名所
「我々は毎日江戸の近郊を馬で乗りまわし、ローレンス・オリファントの本にきわめて輝かしい色彩で描かれている王子のきれいなお茶屋や、甲州街道の十二社(じゅうにそう)の池、そのほか丸子への途中にある洗足の池、あるいは目黒の不動さまへ出かけたが、こうした場所では茶屋の美しい娘たちが魅力の大半を占めていた。 市内では、当時そしてずっと後まで外国人訪問客の興味をそそる名所になっていた浅草の観音堂、美しい娘たちが塩漬けの桜の花びらを湯にひたして出してくれる愛宕山、江戸市中を見渡すことのできる神田明神などへ遊びに出かけた。」 (一外交官の見た明治維新)
王子
「ここは江戸の善良な市民たちが一日の遊楽や気晴らしに来る所で、たしかにこれ以上の娯楽場を探すのは難しいだろう。」
「茶屋のささやかな庭には、木々の枝や緑の岸や美しい花々でおおわれた小川が流れていた。近辺一帯がすこぶる愉快で、娯楽を求める江戸の人々が愛好するに足る場所だと思った。」(幕末日本探訪記)
「首都の北部は飛鳥山のような遊びの公園やパリ周辺の散歩道を思い出させる小さな村に続いている。江戸に滞在している全てのヨーロッパ人は風景の美しさでこれらの村の中でいちばんの王子を訪れたものである。それは水の澄んだ小川の近くにある眺めの良い丘を背にしている。美しい季節には町人の家族が古木の陰や、そこに沢山ある茶屋で休む。耳障りな音楽を聞きながら、簡素な食事を摂りながら、こんな無邪気な楽しみに幸せを感じているようである。滅多にないが口争いや喧嘩が、彼らの集いの静かさを乱す。そして外国人には、この微笑ましい風習が気に入らざるを得ないのである。」(スイス領事の見た幕末日本)
藤の大木
「巨大な藤を見物するために中延というところを訪ねた。明らかによほど年代を経た大木で、目測で地上から3フィートの所で幹の周囲が7フィートもあって、地上から約8フィートの所に長さ約60フィート幅約102フィートの藤棚が空間に張り出していた。その棚から何千という長い藤の花房が地上すれすれに垂れ下がっていた。長く垂れた数千もの薄紫色の花房は実に素晴らしく見事な眺めであった。」
「我々が見に行った時は、藤棚の下に用意された食卓や腰掛けは旅人や見物客が適当に占領して、飲み物をちびちび飲みながらみんな愉快に元気に楽しんでいた。その日は雲もなく日差しが強かったので、飲み物を出されると直ぐにみんなの真似をして茶を啜ったり葉巻をふかしたりしながら、この美しい植物界の標本を飽かずに観賞した。」(幕末日本探訪記)
十二社(じゅうにそう)
「林の中に十二の仏像を祀る寺院が鎮座して境内に滝や池があった。ここは江戸の市民が好んで来る所なので夥しい茶屋が繁盛しており、お茶よりも酒が大量に消費されている。聞くところによると来遊者の多くは茶屋で好みの飲料を飲んで、知性をひらめかせたり空想を刺激して、境内の並木道で詩を作ったり吟じるそうである。」(幕末日本探訪記)
浅草寺
「外門と内門の間には、ちょうど東禅寺のように長い道がついていて、その両側には屋台か売店のようなものがあり、きわめて種々雑多な大きな市をなしている。子供のための玩具が大きなスペースを占めている。この市につらなる建物の神聖さと少しでも関係があるとわたしが認めることができたものは、ただ小さな石でできた神社や偶像や寺院のわずかばかりの模型だけだった。婦人用の小間物、特に髪にさす金属製のピン、櫛といったような、彼女たちが用いるらしいほとんど唯一の装飾品を売っている。」
「わたしには市か半ばお祭りのように思われることが一年中続いているようだった。寺の境内の非常に多くの娯楽設備を見てもそのことが十分にわかった。そして、確かにこれが寺の主な収入源になっているようだ。」(大君の都)
「装飾を施したアーチのような門が大通りにまたがって、非常に目を引いた。一方に巨大な鐘楼が建ち、松や銀杏の大樹が寺を取りまいていた。大通りの両側には商店や露店がバザーのように店を開いて立ち並び、あらゆる種類の日本商品を陳列していた。ブンブン唸るコマ、頭の大きい鳴き人形、知恵の輪、絵本など、種々のおびただしい玩具が明らかによく売れていた。鏡、煙管(きせる)、漆器、磁器類は当然代表的なものであった。」(幕末日本探訪記)
「浅草観音の広い境内には、ロンドンのベイカーストリートにあるマダム・タッソーの蝋人形館によく似た生き人形の見世物や茶店、バザール、十の矢場、芝居小屋、コマ回しの曲芸師の見世物小屋などがある。かくも雑多な娯楽が真面目な宗教心と調和するとは、わたしにはとても思えないのだが。」(シュリーマン旅行記 清国・日本)
深川八幡宮
「我々は江戸で最も美しい神社の一つである深川八幡宮へ着いた。大きな御影石の門をくぐると大きめの石畳を敷き詰めた歩道が広い中庭を横切り、様々な列柱門を通り抜けて真っ直ぐ社殿に続いている。社殿は木造で須弥壇のような石の台座の上に建てられている。社殿の前は 左右に獅子、そして紙を張った窓の付いた素晴らしい花崗岩製の灯籠がある。灯籠は高さ2.5メートル、厚さ2メートルの台座の上に据えられていた。石の灯籠から数歩離れた所に、龍と碑文を彫り付けた高さ2.67メートルの青銅製の灯籠が二基、厚さ60センチの花崗岩の台座の上に置かれている。社殿の右手には高さ2メートルの舌の無い鐘があり、水平の撞き棒で鳴らす。社殿は美しい木彫りが施され、壁や天井は鶴を表現した絵で飾られていた。本殿は二部屋から成り、各部屋にそれぞれ祭壇、朱塗りの椀、夥しい数の偶像、青銅製の獅子、銀の壺、金製の蓮の花などがある。」(シュリーマン旅行記 清国・日本)
鎌倉の八幡宮
「我々の前に提供された光景は驚嘆にあたいするものであった。前に述べた第二の高台の上に長い広い石段があり、石積みの建築様式で支えられている第三の高台には本殿と僧侶の住宅があった。これらの建物の灰色の屋根が松や杉の木立の暗い背景から浮き出ていた。」
「我々の左手に神社の宝物を入れてあるいくつかの建物があり、その一つはピラミッド型の屋根に芸術的に作った尖塔がそびえていた。大きな石段の麓には洗浄のためのお堂がある。右側にはシナの建築様式で建てた宝塔があり、独特の風致とより厳正な戒律を備えていた。」(絵で見る幕末日本)
梅屋敷
「妙にごつごつした木がいっぱいに立ち並び、葉はまったく見られないが、かすかな芳香を漂わせる紅白の優しい花が枝を包み、地は一面に落花の雪でおおわれている。屋敷には黒い柵がめぐらしてあるが、この中に入ることがどんなに嬉しいか驚嘆の喜びともいうべき感情は、実際に入った人でなければ理解できないだろう。二月の初め、日陰の隅はまだ地面が石のようにかたく凍りついているというのに、太陽がこの季節の常で輝やしく照りはえている。そんな穏やかな日和に、梅は今を盛りと咲き匂うのである。しかし、わたしの好みから言うと、梅の花は曇った日にくすんだ色の杉木立を背景として、暖かい炉辺に座りながら窓越しに眺めるのが一段と良いようだ。」(一外交官の見た明治維新)

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2014.11.26 野沢 清 kiyoshi_nozawa@yahoo.co.jp