幕末の日本6
町の風景
横浜に住む外国人は品川を通って江戸に入ります。そのため品川付近の描写が多くなっていますが、当時の木戸番や夜回りの様子、さらに浪人や乞食など町の様子など、今はなくなってしまった様々な事を活写しています。
街路
「田舎道や江戸の市内の街路は、管理が行き届いている西洋のそれに勝るとも劣らないであろう。よく手入れされた街路は、あちこちに乞食がいるということを除けば、きわめて清潔であって汚物が積み重ねられて通行を妨げるというようなことはない。これは、私がかつて訪れたアジア各地やヨーロッパの多くの都市と、不思議ではあるが気持ちの良い対照をなしている。」(大君の都)
都市の商習慣
「朝の九時だ。都市は目覚めて騒然としている。商店は店を開け、街路は夥しい人の群れでいっぱいだ。品物を持ち歩く行商人、うろつきまわる乞食、部下とともに勤務中の役人、品物を乗せて引っ張ったり押したりして進む原始的な荷車など、これらが人波をいやがうえにも増大させる。どこかの買い手に見せるために品物を持って行く小売り商人もいる。日本では習慣があべこべだから、店から顧客の所に行くのであって、顧客が店へ出かけで行くのではない。」(大君の都)
品川の商店街
「多くの店は、一般的な生活必需品を売る店である。本屋・青銅や銅器具の店・質屋・古い鉄器類の店などがある。また、あちこちには浴場・銅細工や籠細工の製造所・甲冑や刀剣類の製造所があり、既製品の衣服を売る店や版画屋なども見うけられる。」(大君の都)
品川の町
「我々は見かけのかなりみすぼらしい、その住民のほとんどが漁で暮らしているように思われる村に入った。この村のはずれに両側を大きな美しい家の立ち並ぶ長い道が開けていた。我々は茶屋(遊郭)で有名な、この都会の最も風紀の悪い地区の一つで、江戸の下町である品川に入ったのである。暇な若者たちがここに遊びにやって来る。そして数多くの犯罪や陰謀がここから生まれる。」
「道路はあまり安心できない様子の人々でいっぱいである。彼らは恐ろしく長い二本の刀を差している。そしてよく広まっている慣例に従って、彼らは頭の回りに布を巻き付けているので、顔に関してはまるでお面でも被っているように、細い隙間を通して光っている二つの黒い目しか見えないのである。」(スイス領事の見た幕末日本)
木戸の番所
「だいたい100歩ごとにひとつの割で、見張り用の関門(木戸)がもうけられている。この関門は、夜分に盗難があったり日中でもなにか騒動が起きたりした際には閉鎖される。」
「各関門の門衛所に配置されている町の見張り人は、いささか年を取りすぎてはいるが、油断なく警戒しているようだ。われわれが通りかかると、何人かの見張り人が頭部に金輪の付いている長い鉄の棒を持って飛び出してくる。そして、それを地面に打ちつけて、気も狂わんばかりの音をたてる。これは一種の敬礼であるらしい。」(大君の都)
横浜の夜の町の警備
「見回りは普通二人で、鉄を被せた長い杖を持って一歩毎に地面を突いて歩く。杖の頭部に付けられた二個の環がその度にぶつかり合って物凄い音をたて、耳の悪い悪人どもでさえ早々に逃げおおせるというわけである。」(江戸幕末滞在記)
江戸の手工業
「我々の住む寺院(高輪・長応寺)がある高台の向こうに定着している人々は、自分の家で各種の手工業に従事している。工場は遠くから表現力に富む看板でそれわかる。履物の形に削った板や着物の紙型がぶら下がっているのもあれば、大きな傘を日除けのように店の上に吊るしている所もある。さらに進むと大小さまざまな藁帽子が屋根から扉のあたりまで糸に通されてぶら下がっていた。我々は数分間、鎖帷子(くさりかたびら)や鉄扇や刀剣を作っている武器商や刀剣商を見ていた。」(絵で見る幕末日本)
横浜の商店街
「この書店のちょうど向かい側に多種多様な売り物の動物を飼育している見世物小屋があった。そこで猿の素晴らしい芸当を見たが、土地の人たちの人気の的で、娯楽の中心になっていた。子犬がごちゃごちゃ群れている檻に近寄ると、見慣れぬ外国人のせいか、特別に騒ぎ立てた。日本産の鷲や鹿の剥製もあった。籠の中では種々雑多な鳴禽類がさえずっていた。」(幕末日本探訪記)
浪人
「見慣れぬ珍しいさまざまな光景のなかで、外国人として最も印象づけられたのは、いつも頭に一種の籠の面(編笠)をかぶり、顔をまったく隠して歩き回っている悔悛者ないし官職を失った役人たちである。浪人や公権喪失者や大罪を犯した者たちは、人目を避けるために、このような旅姿をするとのことである。彼らは、今でもイタリアの町々で見かけることのできる托鉢僧や物乞いをする悔悛者たち―中世の遺物―を思い出させる。」(大君の都上)
乞食
「確かに乞食はいる。首都やその周辺にはかなり多数いる。とはいえ、彼らは隣国の中国におけるように無数にいるとか餓死線上にあるのを見かけるというような状態にはまだまだほど遠い。」(大君の都)
「実際、日本には乞食が夥しくいて、うるさくせびるのである。わたしがそこを通った時にも道端に大勢の乞食が座っていた。彼らか身体の不自由な者や盲人で、わたしが通ると地面にひれ伏して物乞いをした。」(幕末日本探訪記)
「大師の門前で、気の毒な身なりをした病弱なあるいは手足の利かなくなった癩病を患った物乞いが、我々の慈悲を求めて寄って来た。一般的に言って日本には貧民はほとんどいない。物質的生活にはほとんど金がかからないので、物乞いすらまさに悩むべき立場にないのである。そのうえ日本人は、私の見たところたいへん寛大な心を持っているとは思えないが、それでもなおしばしば施し物をするのである。路上や大通りで物乞いに出会うことは滅多にない。ほとんどいつも寺院の周りにたむろしているのが見られる。彼らは憐れみを乞う叫び声を上げ、いくつかのお祈りの文句を口ずさみ、あるいは木の槌で彼らの前に置かれている漆塗りの木製の窪んだ器を叩いて人の注意を引こうとする。彼らは、いわば不純なるものと見做されている特別な階級に属しているのである。不潔さと不格好さが彼らをしばしば醜くしているので、彼らは憐れみというよりは不快さを与えているのである。彼らの中に多くの癩病患者と盲人がいるのに気付く。これらの不幸な病人の大多数は象皮病に罹っている。」(スイス領事の見た幕末日本)
「乞食は皆家々で一文、あるいは金がなければ一掴みのお米を恵まれる。この乞食の商売は女もやっている。私はこうも考える。すなわち日本にはあまり貧乏人がいないのと、また日本人の性質として慈善事業の募集に掛るまでに既に助けの手が伸ばされるので、それで当局は貧民階級の救助にはあまり心を配っていないのではなかろうかと。」(長崎海軍伝習所の日々)
盲人
「盲人がやってきたから注意しなければならない。なんと、ちゃんとした身なりをしているではないか。まったくその通りだ、かれは乞食ではない。暮らし向きが良いのだろう。紳士のような衣装を身に着けている。だが、やはり、めくらであるから、手さぐりで歩いている。そして、農家の娘が、我々の馬のために盲人が怪我をするかどうかを見守っている。」(大君の都)
大坂
大坂は商業の町として栄えた大都市です。外国人はそれほど多くは訪れていないと思いますが幕府が大坂城を拠点として使っていたことから、外交官たちが大坂を訪問しています。
大坂城
「尼崎を過ぎると間もなく大坂の城が見えてきた。輝くばかりの白壁と幾層もの櫓が周囲の風景を圧して、ひときわ目立っていたので幾リーグも遠方から見えたのである。」(一外交官の見た明治維新)
「木の茂った坂道を上がっていくと城の前の大きな広場に出た。幅の広い深い堀に沿って行く。その向こう岸は巨大な花崗岩の石垣でその上に塀が続いており、堅牢な塔には砲門と銃眼がしつられて、我々を脅かすようにしてそそりたっていた。すべてが大規模な中世の城そっくりだったため、石垣に石弓がなく甲冑を着けた戦士がいないのが不思議に思われたほどだった。」(江戸幕末滞在記)
「外廓はその部分で二重になっていたため、もう一つ別の門も通り抜けた。驚いたことにそこからはまだ城が見えず、その代りに我々は外廓の内側に築かれた別の頑丈な花崗岩の石垣の外に立っていた。ここの濠には水が張っていなかった。その内側の城壁を築くのに使用された石ほど巨大なものを、私はかつて目にしたことがなかった。高さが10−20フィート、幅が20−40フィートにも及ぶ物がいくつもあり、厚みが同じ規模だったなら、それはもう小山である。」(江戸幕末滞在記)
「そこは文字通り国王の宮殿であり、建て方も飾り方もその様式と趣味の良さにおいて、西欧のどの領主の邸宅にも引けをとらないものだった。通路になっていた幅の広い柱廊は紙を張った高い壁(障子)から入る光で明るく、そこから柱廊からしか光の入らないその奥の広間をうかがうことができた。広間は畳の敷かれた大きな部屋で天井も高く、壁と天井に施された芸術的な装飾のほかには家具の類はいっさい置いていなかった。すべてが木でできており、壁の下半分には実物大に描かれた動植物があり、いずれも大胆かつ真実味あふれた作品で、我々の称賛の的になった。」(江戸幕末滞在記)
大坂の宿舎
「奉行が二人、我々を迎えに出て大君(将軍)と老中の名において公使と提督を歓迎する辞を述べた。日本式の部屋の中は調度品がよく揃えてあり、いたる所にきれいな畳が敷かれ、金箔を貼った襖、素晴らしい木彫品があった。いくつあるのか数も知れない部屋と複雑な廊下が建物の内部の各所を連絡しており、すっかり迷ってしまった。」(江戸幕末滞在記)
大坂の五重塔
「塔は五重になっていて、さらに高く鋸状の尖塔が続いており、細部まで見事に仕上げられた木造建築で、その暗い色、虫に喰われた外観、ほとんど剥げ落ちてしまっている赤や緑の塗料から、何世紀も経っている古い建物だとわかった。」
「危険きわまる急な螺旋階段を上がって行き、しんどい思いをしてやっと塔の頂上に達すると、そこからは町一帯、大坂平野の全容を見渡すことができた。」(江戸幕末滞在記)
寺の建築
「内側から見上げると巨大な屋根の組み合わせの細部に視線が走り、ただもう感嘆するよりほかにない。趣味よく調和が取れていて、どこを見ても手入れが行き届いている。弧を描いた部分は普通がっしりした柱で支えられているが、時によって建築技師はそんな単純な支え方で逃げを打ったりせずに、垂木を巧妙に組み合わせお互いに結び合わせることで、建物に必要な強度を与えている。」
「巨大な屋根は前面も後部も細い柱列によって支えてあり、内部には広々とした空間がひろがって、その大きさと高さ、その高雅な様式と天井の軽やかで優美な作り方には、ほとほと感心させられたものだ。」(江戸幕末滞在記)
寺の山門
「大きな寺の前にあるのはもっとしっかり造ってあり、鐘楼ともども日本建築の完璧な模範になっていると言える。各部分の寸法がことごとくお互いと釣り合いを保っており、日本芸術一般を見事に特徴づけている細部の繊細と堅実さとでもって仕上げられているからである。」(江戸幕末滞在記)
大坂の水路
「確かに当地は、日本のベニスである。少なくとも100の橋がいたる所でこのさまざま水流に架かっている。そして多くの橋は、非常に幅が広く、金をたくさんつぎ込んで造ってある。主流の土手には、2マイルか3マイルに渡って大名の邸宅が並び、そこから水の縁まで幅広い花崗岩の階段がついている。これらの邸宅は、ベニスの立派な邸宅とは比較すべくもなく、ただ塀が延々と続いていて、所々にかなり厳めしい門がついているだけだが、それでもその邸宅の数と大きさだけでも富と権勢のほどをうかがわせる。」(大君の都)
大坂の橋
「大坂には広い深い掘割が縦横に通じているので、ちょうどイタリアのベニスのように舟に乗って町の見物ができる。注意を惹いたのは木で造った橋である。橋の長さは時には400歩くらいの距離に及ぶものもある。ちょうどオランダ参観使節が通った時には、橋上は群衆で埋まっていたそうであるから、よほど堅固にできているものと思われる。」(長崎海軍伝習所の日々)
大坂の武士
「我々江戸に居住する者にとっては、辻々から険悪な顔つきで我々を睨んでいる両刀を帯びた武士が珍しいことにここでは見当たらないがゆえに、居住するには極めて望ましい場所であるように思えた。」(大君の都)
大坂の大店
「我々は、数軒の大きな絹製品を売る店に連れて行かれたが、これらの店は江戸の最大のものよりまだ大きく、展示してある品物もまたそれに準じていた。50名から100名ほどの店員がいたようで、我々の望むものは何でも敏速に取り出してくれた。我々は、二軒の店でいくらかの品を宿に持ってくるように注文した。」
「それらの品物は織物の見本としてまんざら悪いものでもなかったので、全部万国博覧会(1862年、ロンドン)に送った。」(大君の都)
ええじゃないか(慶応三年十二月)
「大坂では市民総出で間近に迫った貿易の開始と同市の開港を祝って、お祭り騒ぎに夢中になっていた。「イイジャナイカ、イイジャナイカ」と唄い踊る晴着を着た人の山が、色とりどりの餅や蜜柑、小袋、藁、花などで飾られた家並みを練り歩く。着物はたいてい緋縮緬だが青や紫のものも少しはあった。大勢の踊り手が頭上に赤い提灯をかざしていた。このお祝いの口実として、最近伊勢の内外宮の名前の入ったお札の雨が降ったと言いはやされていた。」
「わたしたちが立ったまま部屋の交渉をしている所へ、踊り狂った若者連中や子供たちの一団が、とても華美な衣装の丸々とした人形を担いで、あちらこちらに揺り立てながらぞろぞろ入って来た。その家にいた宴会のお客はみな家の敷居の所へ迎えに出て来た。そして居合わせた者が一緒に踊り狂ったのち、イイジャナイカの一団は再び姿を消した。踊り子らしい格好をした美しい娘の数は、この大坂では、わたしたちがそれまでの経験から想像していたよりもずっと多かった。」(一外交官の見た明治維新)
日本各地の町
幕末当時には、外国人は日本を自由に旅行できたわけではありませんが、一部の外交官は各地を訪問しています。
長崎の町
「道路はシナと較べると広くて清潔であるが、商店は概してみすぼらしい。高価な商品も少しは陳列してあったが、食料品、壊れやすい陶器、安物の漆器、気のきいた青銅の器物などがたくさん並べてあって比較的安かった。」
「普通の民家は、一見貧しく粗末に見えるけれども、彼らはそれなりに満足している様子であった。好奇心をそそられたのは、この町で一番大きくかつ有名な建物は、奉行所の官舎を除いては、茶屋と呼ばれる遊興場所であることだ。」(幕末日本探訪記)
長崎の植物園
「やがて目指す烏帽子山に到着した。そこで手入れの行き届いた小規模の植物園と商売に植木を栽培している畑の持ち主に会った。その屋敷内に、長崎の町から一日の遊楽にやって来る外国人のために開放された一戸の建物があった。」(幕末日本探訪記)
下関の港
「最後に傘を持った召し使いを従えた金持ち連中の遊覧船がやって来た。もの珍しそうに見ている連中のなかで、子供たちに囲まれた父親がオランダの軍艦について詳しく説明している姿や、誰か重要な人物の庇護を受けている女や娘たちの着飾っている姿が目についた。娘が結婚している女と違っているのは手の込んだ結髪の精妙な建造物の中に真紅の縮緬の布を巻き付けている点であった。」(絵で見る幕末日本)
兵庫の知事邸宅
「通りは稀に見る清潔さで際立っていた。家々の多くは焦げ茶のきつい色をしており古さを物語っていた。大きな寺がいくつもあり、石塀板塀で囲まれたゆったりと広い私邸もたくさん見受けられた。塀に付けられた両開きの門を入って行くと砂利の敷かれた広場があり、それが建物の堂々とした表玄関まで続いていた。」(江戸幕末滞在記)
兵庫の郊外
「町はずれに達し、両側を樹齢百年を超す木々で囲まれた干上がった砂地の河床を越え、やがて開けた土地に出た。人工の溝や池で灌漑され、非常に肥沃なのが一目でわかる平地が町から山の麓まで広がっていた。耕作されていない土地はひとつもなく、目に映るのは水田、麦畑と綿の栽培地ばかり、その間に村落、農家が散在して生彩を加えていた。住民はみな畑で働いており、通り過ぎる我々に好意的な挨拶を送ってよこした。娘たちの赤味を帯びた顔と膨らんだ頬、男たちのがっしりした身体に、健康と満足が読み取れた。」(江戸幕末滞在記)
兵庫の景観
「その建物の広々としたベランダに腰をおろした。そこからはほれぼれさせられるような景観が見渡せた。足下に広がる緑の広野、兵庫の町と活気ある埠頭、その後方の大坂湾には目の届く限りかすかに白波を立てている青々とした平面が広がり、陽の光に白い帆を輝かせたジャンク船や漁船が点在していた。」(江戸幕末滞在記)
新潟
「新潟の町は、円周の一部を切断したような形で広がっている。掘割が縦横に通じ両岸に柳の並木があって、ちょうどオランダの町の様式を思わせるものがあるが、新潟の掘割は狭くてきたなく、おそらく溝(どぶ)と言った方がいっそう似つかわしいだろう。七夕の祭りに近かったので、街路には大小色とりどりの提灯(ちょうちん)を下げた子供が大勢いたが、その提灯には日本の歴史、伝説、一般の風習などの絵が巧に描かれていた。」(一外交官の見た明治維新)
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2014.11.26 野沢 清 kiyoshi_nozawa@yahoo.co.jp