幕末思想の系譜2

尊王攘夷思想
尊王攘夷は幕末に最も影響力のあった思想ですが、その中心は水戸藩にありました。水戸藩では徳川光圀によって始められた「大日本史」編纂事業を進めていましたが、日本の歴史を研究する過程で天皇中心の日本を再発見します。それは結果的に、徳川幕府の権威を相対化し、最終的には徳川幕府の否定にもつながっていきます。
天皇中心の神の国
また、東国の水戸藩ではロシアを中心とした外国船の来航に対する危機感が高まっており、外国勢に対抗するために武力の強化とともに日本人の精神的支柱の強化を図ることが必要となり、たどりついたのが「日本は天皇中心の神の国」であるという思想です。
明治維新の思想的な原動力
水戸藩で育まれたこの水戸学は尊皇攘夷の教科書となり、日本中に勤王の志士を生み出すことになります。この思想は討幕勢力の中心となった長州藩などにも受け継がれ、攘夷ではなく開国政策を認めるようになっても水戸学の尊王思想は続いていきます。
 帝国時代の基本的な思想
明治になって欧風の近代化が進められましたが、国造りの中心的な思想は天皇中心でした。
 教育勅語
教育勅語は天皇が臣民(国民)に与える教えです。全国の学校で教えられ、暗唱されました。
 神国日本
明治から昭和にかけての帝国時代は戦争の時代でしたが、そこでは天皇中心の神国日本の不敗神話がいつも語られていました。敗けていても最後には神風が吹くと信じていたのです。
 歴史教育
歴史においても天皇中心の歴史が教えられていました。例えば南朝正統論です。南朝の後醍醐天皇に仕えた楠木正成や新田義貞が忠臣として称揚され、足利尊氏は朝敵として非難されています。そのため皇居外苑には楠木正成の銅像が建立されています。
 廃仏毀釈
水戸藩の尊皇攘夷派は、僧侶を浮屠と呼び軽蔑しており、大砲を鋳造する際には寺の鐘などを供出させていました。尊王攘夷派の長州藩の久坂玄瑞は、吉田松陰の改葬の際に高杉晋作宛ての手紙で「浮屠(仏僧)に託してはならぬ」と書いて送っています。
こうした神道中心の思想を受けて、明治になると廃仏毀釈の政策が実行されています。

立原翠軒
幕末の水戸学は立原翠軒あたりから始まります。立原翠軒は農民出身の三代目の下士として生まれています。父の蘭渓は彰考館(大日本史編纂所)の文庫役を勤めた学者でした。
立原翠軒は老中松平定信に天下の三大患(朝鮮使の聘礼、北夷、一向宗)の上書を提出しています。北夷(ロシア)への脅威、危機感を持っていたようです。

 田中江南と大内熊耳から徂徠学を学ぶ
弟子
 藤田幽谷  立原翠軒と対立
 小宮山楓軒 郡奉行、立原翠軒支持派
交友
 藤井貞幹  国学者
 裏松光世  公卿
年譜
 延享元年(1744)6月 農民出身の三代目の下士として誕生
           父の蘭渓は彰考館の文庫役を勤めた学者
           田中江南と大内熊耳から徂徠学を学ぶ
 明和3年(1766)   水戸彰考館編集に登用
 天明3年(1783)正月 馬廻り組、藩主治保の侍読
 天明6年(1786)6月 彰考館総裁
 天明7年(1787)6月 ロシアが厚岸に来て通商を求む
           老中松平定信に天下の三大患の上書を提出
           (三大患:朝鮮使の聘礼、北夷、一向宗)
 寛政4年(1792)   ロシア使節ラクスマン来航
 寛政7年(1795)3月 上京、「大日本史」朝廷献上の相談
 寛政11年(1799)10月 訴訟事件により閉門処分
 享和3年(1803)2月 彰考館総裁を辞す
 文化8年(1811)   「垂統大記」の編纂(徳川家康と臣下の伝記集)
 文政6年(1823)3月 死去

小宮山楓軒
勧農殖産政策で農村の経済発展に貢献。水戸藩のなかでは穏健な実務派。

 立原翠軒
年譜
 明和元年(1764)   誕生
 寛政11年(1799)11月 郡奉行 勧農殖産政策、農村の経済発展に貢献
 文化元年(1804)   郷校を開設
 天保        徳川斉昭の側用人
 天保9年(1838)3月 碑文「弘道館記」公表
 天保10年(1839)   小宮山風軒により「垂統大記」完成
 天保11年(1840)   死去

藤田幽谷
尊王攘夷思想の元祖のような人。弟子の会沢正志斎や息子の藤田東湖は幕末の尊皇攘夷思想に大きな影響を与えました。英人が薪水を求めて上陸した大津浜事件では、息子の藤田東湖に夷人を皆殺しにしてこいと命じたそうです。

 立原翠軒
交友
 小宮山楓軒
門人
 会沢正志斎
息子
 藤田東湖
年譜
 安永3年(1774)2月 水戸の古着屋の家に生まれる
 天明8年(1788)   立原翠軒の推薦で彰考館に入る
 寛政3年(1791)4月 彰考館編集
 寛政3年(1791)10月 「正名論」
 寛政4年(1792)9月 ロシア使節ラクスマンの根室来航
 寛政9年(1797)10月 「修史始末」
 寛政9年(1797)11月 「丁巳封事」を上程、藩政改革を求める
           不敬の罪により役禄召放
 寛政11年(1799)7月 「勧農或問」 
 寛政11年(1799)12月 再び彰考館員に登用
 享和2年(1802)   水戸に家塾青藍舎を開く
 享和3年(1803)正月 大日本史の志表編纂の頭取
 文化4年(1807)8月 彰考館総裁
 文化5年(1808)   郡奉行 農政改革は失敗
 文政7年(1824)5月 大津浜事件 英人が薪水を求めて上陸
 文政8年(1825)12月 死去

 「正名論」
 幕府、皇室を尊べば、すなはち諸侯、幕府を崇び、
 諸侯、幕府を崇べば、すなはち卿・大夫、諸侯を敬す。
 夫れ然る後に上下相保ち、万邦協和す。

 「勧農或問」
 勧農の政治を妨げる五弊(農民への不信、商品経済の否定)
 侈惰 貨幣経済により農民が贅沢になった
 兼併 兼併地主が田畑を独占
 力役 賦役負担の過重さ
 横斂 三雑穀切り返し法の理不尽さ
 煩擾 農村支配が瑣末に流れている

会沢正志斎
水戸藩の尊皇攘夷思想の中心人物の一人。著書の「新論」は尊皇攘夷派の志士たちのバイブルだったようです。ただし、晩年には「時務策」で開国論に転じています。

 藤田幽谷
年譜
 天明2年(1782)5月 中間の子として生まれる。貧しい家庭に育つ。
           水戸藩下士恭敬の長子として生まれる
 寛政3年(1791)正月 藤田幽谷へ入門
 寛政11年(1799)4月 彰考館の写字生
 享和元年(1801)   「千島異聞」
 享和3年(1803)正月閏彰考館の物書
 文化元年(1804)8月 「大日本史」の編纂に参加
 文化4年(1807)11月 諸公子の侍読を兼務
 文政7年(1824)5月 大津浜事件 英人が薪水を求めて上陸
           正志斎が筆談役 「諳夷問答」
 文政8年(1856)3月 「新論」を藩主斉脩に上呈
 文政9年(1826)12月 彰考館総裁代役
 文政12年(1829)5月 彰考館を免職
 文政12年(1829)10月 斉昭が藩主就任
 天保元年(1830)4月 郡奉行
 天保2年(1831)正月 御用調役
 天保2年(1831)10月 彰考館総裁(左遷)
 天保3年(1832)5月 御用調役に復帰
 天保4年(1833)   天保の大飢饉
 天保9年(1838)3月 碑文「弘道館記」公表
 天保11年(1840)3月 アヘン戦争が勃発
 天保11年(1840)4月 弘道館教授頭取
 天保11年(1840)8月 弘道館、仮開館 
 弘化2年(1845)3月 隠居
 弘化3年(1846)正月 監禁生活
 嘉永2年(1849)4月 禁固生活を解かれる
 嘉永3年(1850)   「及門遺範」 幽谷の学問について
 嘉永4年(1852)12月 吉田松陰来訪
 安政2年(1855)2月 弘道館教授頭取に復帰
 文久2年(1862)10月 「時務策」で開国論に
 文久3年(1863)7月 死去

「新論」
会沢正志斎は「国体=天皇制」と考えており、神州日本は太陽の出る位置にあり、太陽神の子孫である天皇が永遠に統治する国としています。
日本が民の心を一つにした力を持つために、天皇を祭主とする神道を持ち、天皇を戴いて統一を達成するとしています。
文明の開けた欧米列強は大艦巨砲の強力な武器を持ち、キリスト教や回教のような国家宗教を持っていると認識しており、世界の七雄(七代帝国)としてムガール帝国、トルコ、ロシア、ゼルマニア(神聖ローマ帝国/ドイツ)、ペルシャ、清、日本を挙げています。
キリスト教については、天を欺き、人紀を泯滅、幽冥の説としています。
また、会沢正志斎はロシアを過大評価し日本の北辺の脅威を強調しすぎているように見えます。
そして、七代帝国に清や日本を挙げるなど、産業革命やフランス革命を経た欧米列強の実態に対してあまりに無知だったようです。欧米に関しては古い情報しか持っていなかったように思われます。

藤田東湖
幕末の尊皇攘夷運動の中心人物。幅広い人たちとの交友がありましたが、惜しくも江戸安政地震で亡くなっています。西郷隆盛は「吾れ先輩に於ては藤田東湖に服し、同輩に於ては橋本左内を推す。この二人の才学器識は、吾輩の及ぶ所ではない。」と語っています。
なお、吉田松陰は嘉永4年(1851)12月に水戸を訪れていますが、藤田東湖とは謹慎中のため会えず、会沢正志斎と面会しています。

 藤田幽谷  父
交友
 川路聖謨  幕臣
 岩瀬忠震  幕臣
 横井小楠  熊本藩士
 佐久間象山 松代藩士
 西郷隆盛  薩摩藩士
年譜
 文化3年(1806)3月 幽谷の次男として誕生、兄は早世なので嗣子
 文政7年(1824)5月 大津浜事件 英人が薪水を求めて上陸
 文政8年(1825)   無二念打払令(外国船打払令)
 文政9年(1827)12月 幽谷没す、東湖家督を継ぐ
 文政10年(1827)正月 彰考館に勤務
 文政12年(1829)10月 斉昭が藩主就任
 天保元年(1830)4月 郡奉行
 天保3年(1832)5月 通事(中奥勤務)
 天保5年(1834)6月 御用調役
 天保8年(1837)6月 モリソン号事件
 天保9年(1838)3月 碑文「弘道館記」公表
 天保10年(1839)5月 横井小楠、江戸で藤田東湖を訪問
 天保10年(1839)5月 蛮社の獄、渡辺崋山、高野長英ら逮捕
 天保11年(1840)2月 弘道館掛
 天保11年(1840)3月 アヘン戦争が勃発
 天保13年(1842)   結城朝道、執政 結城派(保守派)の台頭
 天保13年(1842)   天保の薪水給与令
 弘化元年(1844)5月 徳川斉昭、隠居謹慎
 弘化元年(1844)5月 側用人藤田東湖、蟄居
 弘化元年(1844)5月 「回天詩史」
 弘化元年(1844)8月 「常陸帯」
 弘化3年(1846)正月 「弘道館述義」初稿
 弘化4年(1847)10月 隠居謹慎
 嘉永4年(1851)12月 吉田松陰、水戸の会沢正志斎を訪問
 嘉永5年(1852)2月 隠居謹慎を解かれる
 嘉永6年(1853)6月 ペリー来航、海防御用掛
 安政2年(1855)9月 農兵取り立て(御備人数)
 安政2年(1855)10月 江戸安政地震で死亡

水戸藩の騒動
水戸藩には事ある毎に武士だけでなく町民や農民までも駆けつける伝統がありました。郷校が整備され農民・町民までもが政治的な意識が高かったのかもしれません。
哀公世子問題
文政12年(1829)9月、子供のなかった哀公(斉脩)が重態に陥ると後継を誰にするかで騒動が起こります。
弟の敬三郎(斉昭)の擁立派が江戸へと押しかけました。郡奉行から物頭、郷士、同心、村役人、水呑百姓、神官僧侶にいたるまで、水戸街道を江戸へ江戸へと押し出したのです。士分以下数百人は松戸の関所で阻まれてそこで待機しました。
これ以降は水戸藩では事ある毎に大勢が押し掛けることが伝統となり、弘化甲辰の国難、安政大獄などには家中の士はあたかも動員令に接したかのごとく無願出府をあえてし、競って江戸へと押し出しました。(無願出府:無許可で江戸に出ること)

天狗党の乱(元治甲子の乱)
尊皇攘夷を目指す藤田小四郎は63名の同志と筑波山で挙兵。これを鎮圧しようとする水戸藩軍・幕府軍との戦いになりました。藤田小四郎らは長州藩桂小五郎の働きかけを受け、長州藩と連動して事を起こそうとしたようです。
江戸に詰めていた水戸藩主慶篤は名代として支藩の宍戸藩主松平頼徳(尊皇攘夷派)を水戸へ派遣しました。
松平頼徳軍は水戸藩現地政府の保守派(諸生党)に阻まれ水戸に入れず那珂湊へ向かいます。那珂湊でも水戸藩側の抵抗にあいますが、天狗党の加勢を受けて那珂湊を攻略します。
そして幕府軍が天狗党の攻略に乗り出し、那珂湊で幕府軍・水戸藩軍と天狗党・松平頼徳軍の戦いになります。攻撃を受けた松平頼徳は弁明のため幕府軍へ出頭しますが、捕えられ切腹処分となります。那珂湊の松平頼徳軍などは投降しますが、天狗党を中心とした軍勢は北方に逃れます。
その後、天狗党は武田耕雲斎を新たに首領として軍勢を立て直し、徳川慶喜を頼って京都を目指して西上しますが、力尽き越前で加賀藩に投降。そこで多くの者が処刑されました。
主な関係者
 藤田小四郎  藤田東湖の息子、筑波山の天狗党挙兵の首謀者
 田中愿蔵   天狗党挙兵に参加、強引な金集めで悪評
 武田耕雲斎  百石取りの家老、天狗党首領に祭り上げられる
 松平頼徳   水戸藩の支藩の宍戸藩主、尊王攘夷派
 市川三左衛門 門閥派(保守派、諸生党)のリーダー、家老
乱の経過
元治元年(1864)正月 桂小五郎が烈公墓参のため水戸を訪問
          藤田小四郎に軍資金五百両を渡す
元治元年(1864)3月 藤田小四郎、63名の同志とともに筑波山挙兵
          大将:水戸藩町奉行田丸稲之衛門
元治元年(1864)4月 日光へ向かうが阻まれ、太平山へ
元治元年(1864)6月 筑波山へ戻る 千余人の勢力に
          田中愿蔵隊が栃木宿などを焼き払う(軍資金調達)
          <京都で池田屋事件>
元治元年(1864)7月 幕府軍が筑波山の天狗勢(約八百人)を攻撃
          幕府軍と水戸軍(門閥派・市川三左衛門)は敗退
          <京都で禁門の変>
元治元年(1864)7月 天狗勢が水戸城下へ進攻するが敗退
          農民による反天狗党の自衛組織が結成される
元治元年(1864)8月 水戸藩主慶篤の名代として支藩の宍戸藩主松平頼徳を
          水戸へ派遣(尊王攘夷派)
          尊王攘夷派の武田耕雲斎らも合流 三千余名に
元治元年(1864)8月 市川らの抵抗で頼徳らは水戸進攻をあきらめ那珂湊へ
          ここでも門閥派の抵抗にあう
元治元年(1864)8月 天狗勢が頼徳の応援にかけつけ、那珂湊を攻略
元治元年(1864)8月 幕府は頼徳の父・前宍戸藩主頼位に永蟄居を申し渡す
元治元年(1864)8月 頼徳の軍は神勢館(砲術訓練所)の福地政次郎の調停を
          受け、水戸城下へ進出
          門閥派は調停を受け入れず戦闘に
元治元年(1864)8月 幕府軍は筑波山を包囲、砲撃 天狗勢は筑波山を退去
          幕府追討軍の先発隊二千余が水戸の弘道館(藩校)へ
元治元年(1864)8月 頼徳軍は那珂湊へ退却 天狗勢も那珂湊へ
          田中愿蔵隊は嫌われ那珂湊から北方へ移動
元治元年(1864)9月 天狗勢の分裂隊約五百名は鹿島で幕府軍に襲われ全滅
          助川陣屋に入った田中愿蔵隊は幕府軍に包囲され壊滅
          田中愿蔵は捕縛され斬首刑
元治元年(1864)9月 頼徳は弁明のため幕府軍へ行くが捕えられ
          松平万次郎邸預けとなり、切腹処分に
元治元年(1864)10月 頼徳軍の榊原新左衛門の軍勢が幕府に内通し投降
          榊原ら1154人は22藩に分散して預けられた
元治元年(1864)10月 それ以外の天狗勢、武田勢などは北方へ(千余名)
          彼らは一橋慶喜を頼って京都に向って西上
元治元年(1865)12月 越前で加賀藩に投降
元治2年(1865)2月 352名が斬首刑、残りは遠島または追放
          水戸藩は首謀者の家族を処刑

天狗党の乱(元治の内乱)では武士以外の多くの町民や農民が参加しています。水戸藩では一般の市民も佐幕派と尊王攘夷派に分かれて争っていました。
 水戸藩「元治の内乱」への参加者
       那珂湊降参 敦賀降参
 水戸藩士    256   35
 水戸藩下士   213   49
 他藩士            4
 浪人            10
 郷士       52    2
 村役人     107    5
 農民      343  335
 医者       14    5
 神宮・修験    64   18
 僧侶        4    1
 職人・商人    22    9
 従者・小者    57   95
 不明・その他   22  241
 −−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 合計     1154  809
 (「水戸市史」中巻(五)より)

戊辰戦争での市川派(諸生党)
鳥羽伏見の戦いで幕府軍が敗退すると、上洛していた本圀寺派(勤皇派)が江戸に戻り水戸藩政府を乗っ取ります。すると水戸藩を支配していた市川派(諸生党、佐幕派)は会津へ行きますが、会津落城の後に再び水戸へ戻ってきます。市川派は水戸を攻めますが、下総の八日市場で全滅してしまいます。
経過
 慶応4年(1868)正月 本圀寺派(勤皇派)東下
 慶応4年(1868)2月 江戸藩邸から市川派(佐幕派)を一掃
           本圀寺派に入れ替える 江戸の執政を鈴木縫殿に
 慶応4年(1868)3月 市川派は会津を目指して水戸を出る
           会津ではあまり歓迎されなかった
 慶応4年(1868)3月 勤皇派は城中に繰り込み新内閣を組織
 慶応4年(1868)5月 市川派は越後長岡で戦うが敗れて会津に戻る
 明治元年(1868)9月 会津落城、市川派は水戸へ戻る
 明治元年(1868)10月 市川派は水戸を攻めるが敗退
           市川派は下総の八日市場で全滅

明治の水戸藩
明治になると尊皇攘夷の薩長からは多くの人が出世しましたが、尊皇攘夷思想の本家であり教育熱心であった水戸藩からはほとんど有為な人材が出ていません。これは尊皇攘夷派と諸生党(保守派)の両者の激しい闘争があり、互いにその家族をも巻き込んで殺し合いをしたためです。そのために多くの優秀な人材が一連の騒動で失われてしまったようです。

テロリストたち
幕末の水戸藩といえば過激な尊王攘夷思想とその結果としてのテロ行動です。次のような大事件は水戸藩浪士が中心になって行ったテロ活動です。この当時、日本に在住した外国人は水戸藩浪士を非常に恐れていました。
 安政7年(1860)3月 桜田門外の変(井伊大老殺害)
 文久元年(1861)5月 東禅寺事件(英国公使館襲撃)
 文久2年(1862)正月 坂下門外の変(老中安藤信正襲撃)
また、幕末の偉人で暗殺により殺された人も多くいます。これらは水戸藩浪士によるものではありませんが、佐久間象山と横井小楠は尊皇攘夷派により殺されています。また、大村益次郎も攘夷派とみられる人たちに襲われています。
 元治元年(1864)7月 佐久間象山、肥後勤王党の河上彦斎らに襲われ死亡
 慶応3年(1867)11月 坂本龍馬、京都の近江屋で暗殺される
 明治2年(1869)正月 横井小楠、暗殺される
 明治2年(1869)9月 大村益次郎、刺客に襲われる 2ヶ月後に死亡
その他に、京都では幕末に暗殺事件が多く発生しており、熊本藩の河上彦斎、薩摩藩の田中新兵衛、土佐藩の岡田以蔵などの尊皇攘夷派のテロリストたちが暗躍していました。
一方で、幕府側の新撰組も油小路事件のような暗殺事件を起こしていますが、こちらは仲間割れによる騒動です。
なお、坂本龍馬暗殺の犯人は京都見廻組というのが定説となっているようですが、個人的には新撰組の犯行だと思います。

昭和のクーデター
明治から昭和にかけての帝国時代は水戸学に影響を受けた天皇中心の時代ですが、五・一五事件や二・二六事件のようなクーデターを起こした国粋主義の青年将校には、特に水戸学の影響を感じます。
また、三島由紀夫は市ヶ谷でクーデターまがいの事件を起こしますが、彼にも水戸学の影響があったのだと思います。

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参考文献
「水戸学と明治維新」吉田俊純 吉川弘文館
「天狗争乱」吉村昭 新潮文庫
「覚書 幕末の水戸藩」山川菊栄 岩波文庫
「叢書・日本の思想家36 会沢正志斎・藤田東湖」原田種成 明徳出版社
「弘道館記述義」藤田東湖著、塚本勝義訳註 岩波文庫
「北槎聞略 大黒屋光太夫ロシア漂流記」桂川甫周著、亀井高孝校訂 岩波文庫
「西洋紀聞」新井白石著、村岡典嗣校訂 岩浪書店

2016.5.23 野沢 清 kiyoshi_nozawa@yahoo.co.jp