幕末思想の系譜3
薩長土肥と呼ばれる四藩は明治維新を実現する原動力となりましたが、その中でも長州藩は明治の大政治家を多く輩出したことから、その中心と考えられて来ました。
明治維新を推進した長州藩でも、特に称揚されているのは松下村塾と吉田松陰です。吉田松陰は尊皇攘夷派の中心人物です。しかし、明治になって活躍するのは開国派に転じた弟子の伊藤博文たちでした。
吉田松陰
吉田松陰は尊皇攘夷を主張した水戸学の影響を受け、肥後勤王党の宮部鼎蔵などと親しくしていました。
一方で吉田松陰は開国派の佐久間象山の弟子でもあり、その影響からか外国行きを強く願っており、一度はロシア船で外国へ行くことを計画しましたが失敗。ペリーが二度目に来航した時には米国渡航を企てて捕われ、萩の野山獄に入れられています。攘夷を主張しながら、外国へ行ってみたいと言う、どこか矛盾した思考の人です。外国の進んだ科学技術を認めながらも心情としての皇国思想を捨てられなかったのかもしれません。吉田松陰は次のように言っています。
「身皇国に生まれて、皇国の皇国たる所以(ゆえん)を知らざれば、何を以てか天地に立たん」
「墨夷(米国)の謀(はかりごと)は神州の患いたること必せり。墨使(米国使節)の辞は神州の辱たること決せり。」
吉田松陰は、松下村塾で教えた弟子たちが出世したことから、明治維新に貢献した偉人として多くの尊敬を集めています。
師
林真人 山鹿流兵学、吉田松陰の家学後見人
佐久間象山 松代藩士、兵学者、開国派
山鹿素水 山鹿流兵学
安積艮斎 儒学者
交友
宮部鼎蔵 熊本藩士、肥後勤王党
江幡五郎 盛岡藩士、儒学舎、本名は那珂通高
梅田雲浜 小浜藩士、儒学者、安政の大獄で逮捕され獄中で病死
梁川星巌 漢詩人、攘夷派
月性 周防国の僧、攘夷論を唱えた海防僧
門人
久坂玄瑞 禁門の変で自刃
高杉晋作 奇兵隊を創設
伊藤博文 最初の総理大臣
井上馨 明治の政治家
山縣有朋 明治の軍人、政治家
年譜
文政13年(1830)8月 萩藩士杉百合之助(26石)の次男として生まれる
幼名虎之助、その後は大次郎、寅次郎を名乗る
天保6年(1836)6月 叔父の吉田家の跡継ぎ、当主となる
吉田家は山鹿流兵学の家、57石6斗
天保9年(1838)正月 教授見習いとして藩校明倫館に出勤
天保10年(1839)11月 明倫館で山鹿流兵学を教授する
天保11年(1840)4月 藩主慶親に武教全書の「三戦の節」を講じる
天保13年(1842)8月 叔父の玉木文之進、松下村塾を開く
天保14年(1843)9月 父杉百合之助、百人中間頭兼盗賊改方になる
弘化3年(1846)3月 山田亦介より長沼流兵学の免許を授けられる
佐藤寛作に「兵要録」、飯田猪之助に西洋陣法を学ぶ
弘化3年(1846)11月 守永弥右衛門から萩野流砲術を伝授される
山田宇右衛門から「坤輿図識」を贈られる
「外夷小記」を著す
弘化4年(1847)10月 林真人から「大星目録」の免許皆伝を受ける
嘉永元年(1848)正月 後見の者は解職し、独立の師範となる
嘉永2年(1849)3月 御手当御内用掛に任ぜられる
嘉永3年(1850)8月 九州遊学
嘉永3年(1850)9月 平戸で読書 「辺備摘案」(葉山左内)、
「伝習録」(王陽明)、「近時海国必読書」(編者不明)、
「阿芙蓉彙聞」(塩谷宕陰)、「聖武記附録」(魏源)、
西洋砲術書「百幾撤私」、「新論」(会沢正志斎)
嘉永3年(1850)11月 長崎滞在、読書
嘉永3年(1850)12月 熊本で宮部鼎蔵と会う
嘉永3年(1851)12月 萩に戻る
嘉永4年(1851)正月 山鹿流兵学の皆伝を受ける
嘉永4年(1851)3月 藩主の随行で江戸に行く
嘉永4年(1851)6月 山鹿素水(兵法学者)に入門
宮部鼎蔵らと交友
嘉永4年(1851) 象山塾に入門、安積艮斎などにも学ぶ
嘉永4年(1852)12月 藩の許可なしに東北旅行へ出発
水戸で会沢正志斎と面会
嘉永5年(1852)4月 江戸に戻る 萩に戻り謹慎
嘉永5年(1852)12月 士籍剥奪、家禄没収
杉百合之助の育(はぐくみ)になる
嘉永6年(1853)正月 諸国遊学
四国、大坂、大和、美濃、信濃を巡り江戸へ
嘉永6年(1853)6月 ペリー来航、浦賀に向かう
嘉永6年(1853)10月 京都で梁川星巌を訪ねる
大坂から海路で豊後、熊本へ向かう
熊本で宮部鼎蔵宅に宿泊、横井小楠に会う
嘉永6年(1853)10月 渡海目的で長崎に着くが、ロシア艦は出航済み
嘉永6年(1853)12月 江戸に着き、鳥山新三郎宅に寄宿
嘉永7年(1854)正月 宮部鼎蔵らと相模へ警備の視察に行く
嘉永7年(1854)3月 下田踏海事件、米国への密航を企てる
嘉永7年(1854)10月 萩の野山獄に入る
獄内で孟子を講ずる
安政2年(1856)12月 野山獄を出る
安政3年(1856)6月 「講孟箚記(講孟余話)」成る
安政3年(1856)8月 「武教小学」の講義を始める(松下村塾始まる)
安政3年(1856)9月 「松下村塾の記」を書く
安政3年(1856) 吉田稔麿、伊藤博文らが松下村塾入門
安政4年(1857) 久坂玄瑞、高杉晋作らが松下村塾入門
安政4年(1857)10月 本居宣長の「古事記伝」を読む
安政4年(1857)11月 松下村塾の新講義室完成
安政5年(1858)正月 「狂夫の言」を書く
安政5年(1858)3月 松下村塾増築
安政5年(1858)4月 「対策一道」を藩に提出、軍艦建造の具体案
安政5年(1858)8月 戊午の密勅、安政の大獄が始まる
安政5年(1858)11月 藩に大砲、弾薬の貸与を願い出る
老中間部詮勝の要撃を企む
安政5年(1859)12月 野山獄に収監される、松下村塾閉鎖
安政6年(1859)5月 江戸へ召喚される
梅田雲浜との関係を疑われる
老中暗殺計画をほのめかす
安政6年(1859)10月 「留魂録」を執筆
安政6年(1859)10月 小伝馬町で処刑される
久坂玄瑞(義助)
久坂玄瑞と高杉晋作は松下村塾の双璧、竜虎と呼ばれました。
維新後に薩摩の西郷隆盛は長州の木戸孝允(桂小五郎)に次のように言ったそうです。
「お国(長州)の久坂先生が今頃生きてゐられたなら、おいどんらはお互いに参議だなどと威張ってはゐられませぬ」
西郷隆盛は久坂玄瑞の政治家としての凄さを高く評価していたようです。
久坂玄瑞は尊王攘夷の水戸学の影響を受けており、吉田松陰の改葬について桂小五郎と高杉晋作に宛てた手紙で次のように書いています。
「浮屠(僧侶)に託して候ては相叶(あいかな)わず候。神葬之式は何卒(なにとぞ)俊輔(伊藤博文)・(堀)真五郎などへ御命じ、和学者に御尋ねを下さるべく候」
久坂玄瑞は仏教の僧侶のことを浮屠と呼んでいます。仏教嫌いで神道好みの水戸藩でもやはり僧侶のことを侮蔑的に浮屠と呼んでいます。
年譜
天保11年(1840)5月 萩で藩医(二十五石)の三男として生まれる
安政元年(1854)6月 久坂家を相続
安政2年(1855)3月 九州遊歴、宮部鼎蔵に会う
安政3年(1856) 松下村塾入門
安政4年(1857)12月 吉田松陰の妹文と結婚
安政5年(1858)2月 萩を旅立つ
安政5年(1858)3月 京都で梅田雲浜に会う
安政5年(1858)4月 江戸に着く
安政5年(1858)7月 京都へ上る
安政5年(1858)8月 公卿大原重徳を訪問
安政5年(1858)9月 西洋兵学の村田蔵六(大村益次郎)のもとに入門
安政6年(1859)2月 萩に戻る
安政7年(1860)3月 桜田門外の変
万延元年(1860)5月 江戸に出る
蕃書調所教授方の堀辰之助に英語を学ぶ
文久元年(1861)3月 長井雅楽「航海遠略策」
文久元年(1861)5月 信州松代の佐久間象山を訪問
文久元年(1861)8月 江戸で武市半平太が来訪
文久元年(1861)10月 藩主の東上を止めようとするが失敗
久坂玄瑞は帰国を命ぜられる
文久元年(1861)11月 長州藩、長井雅楽の「航海遠略策」を建白
文久2年(1862)正月 萩に坂本龍馬が来訪
文久2年(1862)4月 医学修業の名目で上京
文久2年(1862)4月 島津久光上京、寺田屋騒動
文久2年(1862)7月 長州藩、「奉勅攘夷」を藩是に決める
文久2年(1862)11月 江戸に出る
文久2年(1862)11月 武州金沢で外国公使を暗殺する計画
文久2年(1863)12月 品川御殿山の英公使館放火事件
文久2年(1863)12月 長州藩へ招聘のため信州松代の佐久間象山を訪問
文久3年(1863)正月 吉田松陰を荏原郡若林に改葬
文久3年(1863)正月 上京、一橋慶喜の宿舎などに押し掛ける
文久3年(1863)2月 「航海遠略策」の長井雅楽、切腹
文久3年(1863)4月 医業を廃し、平士となり大組に列する
文久3年(1863)5月 長州藩攘夷決行、米商船を砲撃
文久3年(1863)5月 藩主の使いとして上京、攘夷決行を報告
文久3年(1863)6月 米仏の軍艦が反撃
文久3年(1863)6月 奇兵隊結成
文久3年(1863)8月 八月十八日の政変、七卿落ち
元治元年(1864)5月 山口に帰国
元治元年(1864)6月 池田屋事件
元治元年(1864)6月 長州藩の軍勢、京都へ進発
元治元年(1864)7月 禁門の変、自刃
高杉晋作
高杉晋作は他の松下村塾生に比べ高位の武士の家に生まれ、恵まれた環境で育っています。
高杉晋作は吉田松陰の門人であり尊皇攘夷派であったと思われますが、東国への遊学では開国派の佐久間象山や横井小楠にも会っています。また、品川御殿山に建造中だった英国公使館を放火した事件に加わっていますが、文久3年の長州藩の攘夷決行や禁門の変には加担していません。
高杉晋作は幕府使節団に加わり上海視察に行っており、後には洋行を試みています。高杉晋作は案外と柔軟な思想の持主だったのかもしれません。
年譜
天保10年(1839)8月 萩藩士(二百石)の長男として生まれる
嘉永6年(1853) 明倫館の大学部へ進む
安政元年(1854)2月 父に連れられ江戸の土を踏む
安政4年(1857)2月 松下村塾入門
安政5年(1858)11月 江戸の昌平黌に官費で遊学
安政6年(1859)5月 吉田松陰、江戸へ召喚される
安政6年(1859)10月 吉田松陰、処刑される
安政7年(1860)正月 結婚する
安政7年(1860)2月 萩の軍艦教授所に入る
万延元年(1860)3月 明倫館舎長
万延元年(1860)4月 丙辰丸で萩を出航
万延元年(1860)6月 丙辰丸で江戸に着く
万延元年(1860)6月 軍艦操練所への入学をやめる
万延元年(1860)8月 常陸、信濃、越前への旅に出る
桂小五郎、久坂玄瑞らが見送り
小塚原で吉田松陰の墓参り
万延元年(1860)8月 常陸笠間で加藤有隣(国学、水戸学)を訪問
万延元年(1860)9月 下野壬生で剣術の試合、惨敗
万延元年(1860)9月 信州松代に佐久間象山を訪問
万延元年(1860)10月 越前の横井小楠を訪問
万延元年(1860)11月 明倫館の舎長として復学
文久元年(1861)3月 世子毛利定広の小姓役
文久元年(1861)3月 長井雅楽「航海遠略策」
文久元年(1861)7月 世子毛利定広に従い江戸に出る
文久2年(1862)4月 幕府使節団に加わり上海の視察に出発
薩摩藩五代友厚、佐賀藩中牟田倉之助と同行
文久2年(1862)5月 上海に到着
文久2年(1862)7月 長崎に帰着
文久2年(1862)7月 長州藩、藩是を「奉勅攘夷」とする
文久2年(1862)8月閏常陸笠間に加藤有隣を訪ねる、攘夷計画のため
文久2年(1862)11月 武州金沢で外国公使を暗殺する計画
文久2年(1863)12月 品川御殿山の英公使館放火事件
文久3年(1863)正月 吉田松陰を荏原郡若林に改葬
文久3年(1863)正月 高槻藩士宇野八郎(東櫻)を暗殺
文久3年(1863)3月 京都で剃髪し東行(とうぎょう)と号し、
萩の山奥に隠棲
文久3年(1863)5月 長州藩攘夷決行、下関で外国船を砲撃
文久3年(1863)6月 米仏の軍艦が長州藩に反撃
文久3年(1863)6月 奇兵隊結成
文久3年(1863)8月 教法寺事件、奇兵隊総督を罷免
文久3年(1863)8月 八月十八日の政変、七卿落ち
文久3年(1863)10月 奥番頭役、160石
文久4年(1864)1月 来島又兵衛の説得不調、脱藩して京都へ向かう
土佐浪士中岡慎太郎と島津久光の暗殺計画
元治元年(1864)3月 出奔の罪で野山獄に入れられる
元治元年(1864)6月 野山獄を出獄、謹慎処分
元治元年(1864)7月 禁門の変
元治元年(1864)8月 四ヶ国連合との和議の使者となる
通訳伊藤俊輔(博文)
元治元年(1864)11月 第一次長州征討、三家老切腹
元治元年(1865)12月 功山寺挙兵
元治2年(1865)3月 藩の実権を握る
元治2年(1865)3月 長崎でグラバーと接触し洋行を試みるが断念
代りに若い藩士3名を英国に留学させる
慶応元年(1865)5月 日本初の招魂場を建設、靖国神社の原型
慶応元年(1865)9月 谷潜蔵と改名
慶応2年(1866)1月 薩長盟約
慶応2年(1866)4月 オテント丸を独断で購入
慶応2年(1866)6月 第二次長州征討
慶応2年(1866)7月 将軍家茂、死去
慶応2年(1866)8月 幕府側の小倉城、落城
慶応2年(1866)8月 結核が悪化、床に臥す
慶応2年(1866)9月 幕府使節勝海舟と停戦合意
長州側は広沢真臣、井上馨など
慶応3年(1867)3月 禄百石、谷家を創設し当主となる
慶応3年(1867)4月 死去
伊藤博文(俊輔)
低い身分から出世して日本で初めての総理大臣になった偉人です。松下村塾で学び、品川御殿山の英国公使館放火事件に加わっていますが、英国留学中に四ヶ国連合艦隊との戦争のニュースを聞き、井上馨(門多)と二人で急ぎ帰国。戦争回避に奔走し、その後の和議には高杉晋作の通訳として参加し活躍しています。
英国の科学技術、産業、国力、武力などに圧倒され、日本を尊皇攘夷から尊王開国へと導いた人物です。
伊藤博文は佐久間象山や坂本龍馬について次のような評価をしています。
「佐久間(象山)の見識と、(藤田)東湖の識見とは大いに違う。佐久間は卓見家といってよい。学力も佐久間のほうが深い。」
「坂本龍馬は勝安芳(勝海舟)の門人で、壮年有志の一個の傑物であった。」
師
吉田松陰 松下村塾主宰
交友
桂小五郎 長州藩重臣
高杉晋作 奇兵隊創設
井上馨 明治の政治家
大村益次郎 長州出身の兵学者
ハリー・パークス 英国公使
アーネスト・サトー 英国外交官、通訳
年譜
天保12年(1841)9月 長州藩軽卒伊藤直右衛門の傭人林十蔵の子として
生まれる
安政元年(1854) 伊藤家の養子となる
安政4年(1857)2月 江戸湾警備のため相模に派遣
安政4年(1857)9月 松下村塾に入門
安政5年(1858)7月 長州藩の京都派遣に随行
安政5年(1858)10月 長崎で勉学
安政6年(1859)10月 桂小五郎の従者として江戸に出る
安政6年(1859)10月 吉田松陰、処刑される 小塚原に埋葬
文久2年(1863)5月 桂小五郎と共に京都へ
文久2年(1863)12月 品川御殿山の英公使館放火事件
文久2年(1863)12月 国学者塙次郎(忠宝)を暗殺
文久3年(1863)正月 吉田松陰を荏原郡若林に改葬
文久3年(1863)3月 士籍になる
文久3年(1863)5月 長州の五人、英国留学へ出発
井上馨、遠藤謹助、山尾庸三、伊藤博文、野村弥吉
元治元年(1864)3月 井上馨と共に帰国
四ヶ国連合艦隊との戦争回避に奔走
元治元年(1864)8月 四ヶ国連合との和議、通訳として参加
元治元年(1865)12月 功山寺挙兵
慶応2年(1866)6月 第二次長州征討
慶応3年(1867)10月 大政奉還
慶応3年(1868)12月 王政復古の大号令
慶応4年(1868)正月 鳥羽伏見の戦い
慶応4年(1868)正月 新政府の外国事務掛
明治元年(1868)5月 兵庫県知事
明治2年(1869)7月 大蔵小輔
明治3年(1870)10月 財政制度調査のため米国へ
明治4年(1871)10月 岩倉使節団の副使として欧米諸国を訪問
明治6年(1873)10月 参議兼工部卿
明治11年(1878)5月 内務卿
明治15年(1882)2月 憲法調査のため欧州留学
明治17年(1884)7月 伯爵
明治18年(1885)12月 初代総理大臣
明治21年(1888)4月 枢密院議長
明治23年(1890)10月 貴族院議長
明治25年(1892)8月 第二次伊藤内閣
明治28年(1895)8月 侯爵
明治31年(1898)正月 第三次伊藤内閣
明治33年(1900)10月 第四次伊藤内閣
明治38年(1905)12月 韓国統監
明治40年(1907)9月 公爵
明治42年(1909)10月 ハルビン駅で暗殺される
山縣有朋(小輔、狂介)
低い身分からのし上がり、軍人として出世し総理大臣にもなっています。ただし、その人物については愚直とも言われますが姑息だったとも評され人気のなかった人でした。
日本陸軍の基礎をつくった人で日本軍閥の祖とも言われているようです。
年譜
天保9年(1838)4月 萩藩中間(五人扶持)の子として生まれる
幼名辰之助
代官所の手子役に登用
安政5年(1858)7月 京都へ派遣される
安政5年(1858)10月 松下村塾に入門
文久3年(1863)正月 士分に取り立てられる
文久3年(1863)12月 奇兵隊に加わる、軍監となる
元治元年(1864)8月 四ヶ国連合との戦いに参加
慶応2年(1866)6月 第二次長州征討
慶応4年(1868) 戊辰戦争、北陸道鎮撫総督・会津征討総督の参謀
明治2年(1869) 渡欧、各国の軍事制度を研究
明治6年(1873)6月 陸軍卿
明治10年(1877) 西南戦争、官軍を総指揮
明治22年(1889)12月 第一次山縣内閣
明治31年(1898)11月 第二次山縣内閣
大正11年(1922)2月 病死
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参考文献
「吉田松陰の実学」木村幸比古 PHP新書
「吉田松陰−久坂玄瑞が祭り上げた「英雄」」一坂太郎 朝日新書
「高杉晋作の「革命日記」」一坂太郎 朝日新書
「伊藤博文直話」新人物往来社
「長州奇兵隊」一坂太郎 中公新書
「奇兵隊の叛乱」早乙女貢 集英社文庫
「司馬遼太郎が描かなかった幕末」一坂太郎 集英社新書
「吉田松陰 留魂録」訳注・古河薫 講談社学術文庫
「講孟余話」吉田松陰著 広瀬豊校訂 岩波文庫
2016.5.23 野沢 清 kiyoshi_nozawa@yahoo.co.jp