武士の始まり

939年に起きた平将門の乱は不思議な事件です。まず、乱のおきた原因がはっきりしません。そして、なぜか平将門は国府を攻撃します。結果的に平将門は関東一円を支配することになるのですが、その後はあっけなく成敗されています。
この事件で平将門に敵対した三人の武将がいますが、彼らはいずれもその後の主要な武家の先祖となっています。日本の武家の歴史はここから始まったと言ってよいかと思います。
 藤原秀郷:源氏、平氏と並ぶ武士の家系の先祖。平泉の藤原清衡の祖。
 平貞盛 :桓武平氏。平清盛の先祖。平将門はいとこ。
 源経基 :清和源氏。源頼朝の先祖。
この三人は、この当時、関東に住む地方官僚でした。藤原秀郷は下野国押領使、平貞盛は常陸大掾、源経清は武蔵介です。
なお、平将門は下総国を本拠としていましたが、無位無官だったようです。おそらくは武力のある豪族です。また、藤原秀郷も下野国の豪族でした。押領使という役職はおそらく平将門追討のための臨時のものです。

国司の官位
地方官僚の官位は国によって違っていました。将門の乱に登場する武士の多くは関東の地方官僚でした。なお、この頃の関東は辺境の地というイメージもありますが、多くは大国として評価されています。
なお、上総、常陸、上野の三ヶ国は親王任国とされており、守(かみ)は親王ですが実際には赴任しないので、現地における実際の長は介(すけ)でした。
  大国:武蔵、上総、下総、常陸、上野など
     守(かみ)      従五位上相当
     介(すけ)      正六位下相当
     大掾(だいじょう)  正七位下相当
     少掾(しょうじょう) 従七位上相当
  上国:相模、下野、信濃など
     守(かみ)      従五位下相当
     介(すけ)      従六位上相当
     掾(じょう)     従七位上相当
  中国:安房など
     守(かみ)      正六位下相当
     掾(じょう)     正八位上相当
下級貴族
桓武平氏や清和源氏などの武士は天皇の子孫ですが、下向し関東など地方に住み所領と武力を持った下級貴族でした。
公卿
都に住む上級貴族のことを公卿(くぎょう)といいます。大臣、納言、参議および三位以上の人々です。太政大臣、左大臣、右大臣、内大臣、大納言、中納言、少納言、参議などです。
殿上人
四位、五位の人々で清涼殿に昇殿を許された者を殿上人(てんじょうびと)と呼びます。下級貴族です。国司として任官された武士たちは、せいぜい五位あるいは四位程度の官位です。五位以上の者は一般的に特別扱いされ大夫(たいふ)と呼ぶことがあります。
平将門の征討で功のあった三人は、次のように叙位されています。
  藤原秀郷 従四位下
  平貞盛  従五位下
  源経基  従五位下
地下
昇殿を許されない官人を地下(じげ)と呼びます。貴族とは言えない身分の者です。

平将門の乱
平将門は、従五位下で上総介を勤めた高望王(平高望)の孫にあたります。平将門は若い頃に都で摂政藤原忠平に仕えていました。関東に戻ってからは、伯父たちに任官の道を阻害されたとして国司たちへの反感を持っていたようです。なお、平将門の拠点は下総国豊田郡、猿島郡あたりです。

源護との合戦
935年2月、常陸国真壁郡野本で平将門を待ち伏せした源護の三人の息子の源扶、源隆、源繁は、平将門に機先を制され敗死しました。さらに平将門の伯父の常陸大掾の平国香も、平将門に襲われ死亡しています。源護と平国香は姻戚関係にあったようです。この事件は、実際に何が原因だったのか不明ですが、同族内の揉め事だったのかもしれません。
また、下総国を拠点としていた平将門が何のために武力を帯びて常陸国に進攻したのかも不明です。
平良正の反撃
殺された平国香の弟の平良正は平将門を攻撃する準備を進めていました。そして、平良正の兵が動いたとの報を受けた平将門は出陣。10月21日に常陸国新治郡川曲村で両軍が遭遇。ここでも平将門の軍が平良正の軍を粉砕しました。
平良兼の蹶起
936年6月、平良正の兄で一族の長ともいえる上総介の平良兼の軍が上総国を出発。下総国を経由し常陸国の平良正の水守の営所に到着。さらに、平国香の息子の平貞盛をも引き入れ、平良兼、平良正、平貞盛の数千の連合軍は、下野国の境で平将門と対峙しました。6月26日に平将門は、またしても先制攻撃で連合軍を撃破。平良兼は下野国府に逃げ込みましたが、これを包囲した平将門は、あえて追い詰めることはせずに平良兼を逃がしたようです。平良兼は上総国へ逃げ帰りました。また、平良正、平貞盛も無事に逃げたようです。
朝廷へ出頭
源護の訴えにより、朝廷から召喚状が発せられ、10月17日に平将門は朝廷に出頭しました。以前に平将門が仕えた摂政藤原忠平のおかげか、平将門は微罪で済んだようです。また、その罪も朱雀天皇元服の恩赦により消えてしまいました。
この時の裁判により平将門は「兵(つわもの)の名を畿内に振ひ、面目を京中に施す」ことになったそうです。

平良兼の再興
937年8月6日、平良兼の軍勢が常陸、下総の境の「子飼の渡し」に進撃。平将門の軍が準備不足のため反撃に出られぬ間に、平良兼の軍は豊田郡に侵攻し放火。しかし、その翌日には平良兼は軍勢を常陸に引き揚げています。
8月17日、平将門は豊田郡下大方郷の「堀越の渡し」に陣を固めましたが、平将門は陣中で発病してしまいます。このため、平将門の軍は瓦解し敗走。平良兼の軍勢は再び豊田郡を蹂躙。平将門は、南の猿島郡に退き、身を隠しました。
平将門の反攻
10月9日、平将門は兵士千八百余人を率いて下総国猿島郡石井の営所を出て常陸国真壁郡に向って進発。平良兼の拠点である服織の宿をたちまち攻略。平将門の軍の勢いに恐れをなした平良兼は後方の山岳地帯に逃げ込み敗走しました。平将門は、深追いはせずに石井の営所に帰還。平良兼も兵をまとめて上総国に引き揚げました。また、平良正、平貞盛も故地へと帰って行きました。
平良兼の夜討ち
正面攻撃では勝ち目はないと考えた平良兼は、12月14日に一騎当千の八十余騎で下総国猿島郡石井の営所に夜討ちを仕掛けますが、平将門の側に察知され失敗。攻撃をした側の平良兼の受けた打撃は大きかったようです。これ以後は、平良兼からの平将門への攻撃は絶えてしまいます。

武蔵国の争い
939年2月、武蔵国権守の興世王、武蔵介の源経基と足立郡郡司である武蔵武芝の争いがあり、平将門はその紛争の調停を行うため兵を率いて、武蔵国に赴きました。興世王と武蔵武芝の調停はうまく行き、手打ちの宴会に入りましたが、行き違いがあり武蔵武芝の兵が源経基側を包囲してしまったことから、会談は破綻してしまいます。
源経基の上京
この後、源経基は京へ上り、興世王と平将門が謀反を起こしたと朝廷に訴え出ました。平将門は常陸、下総、下野、武蔵、上野の五ヶ国の解文(上申書)で謀反が無実であると朝廷に申達しました。これにより源経基は誣告罪で拘束されています。
興世王の寄寓
6月、新任の武蔵守の百済貞運が赴任してきましたが、興世王とはうまく行かず争いになり、興世王は権守の官を投げ捨て、平将門のもとに寄寓することになりました。
平良兼の死
6月中旬、平良兼が病死しました。これにより平氏一門で平将門に敵対する有力者は平貞盛のみとなりました。

常陸国の争い
常陸介の藤原維幾と対立した常陸国の豪族藤原玄明が、平将門の元に逃げ込んで来ました。そして、常陸国府より平将門に藤原玄明の身柄の引き渡し要求がありましたが、藤原玄明は逃亡してしまった回答しています。
11月21日、藤原玄明の問題を解決するため、平将門は常陸国を目指して出陣しました。平将門は話し合いをするつもりだったようですが、常陸国府側はこれを拒否したようです。そして、常陸国と合戦になりました。常陸国府方は三千人、平将門側は一千余人といわれていますが、この戦いは平将門の勝利となり、平将門は国府を占領し常陸介藤原維幾を捕虜にしました。しかし、戦いに加わっていた平将門の宿敵の平貞盛と藤原維幾の子の藤原為憲は逃亡しています。
11月29日、平将門は撤兵し下総国豊田郡鎌輪の営所に戻っています。
下野国、上野国の攻略
12月11日、平将門を数千の兵を率いて下野国府へ到着。下野守藤原弘雅、前任者大中臣定行らは抵抗せずに降伏。平将門は彼らを追放しました。
12月15日、平将門は上野国へ進軍。上野介藤原尚範も抵抗することなく降伏しています。
諸国の受領任命
12月19日、上野国府にて平将門は諸国の受領(国司)を任命しました。このことから平将門は新皇と呼ばれるようになりました。
  下野守 平将頼(将門の舎弟)
  上野守 多治経明(常羽御廐別当)
  常陸介 藤原玄茂(元常陸掾)
  上総介 興世王(元武蔵権守)
  安房守 文屋好立(上兵)
  相模守 平将文(将門の舎弟)
  伊豆守 平将武(将門の舎弟)
  下総守 平将為(将門の舎弟)
この後、平将門は武蔵、相模などの諸国巡検の旅に出たようです。各国では抵抗はほとんどありませんでした。
12月27日、信濃国府から下野、上野が攻略されたとの報せが京都に届いています。
12月29日、武蔵守百済貞連が京都に到着しました。
残敵の掃討
940年1月中旬、平将門は諸国巡検の後、残敵の平貞盛を討つべく五千の兵を率いて常陸の国に発向しました。平将門は平貞盛を捜し求めましたが、見つけることが出来ませんでした。
1月末、平将門は諸国の兵士を帰休させたようです。なお、平将門は新皇と呼ばれたようですが、その政府を整備したわけではなさそうです。

乱平定の動き
940年元旦、東海、東山、山陽などの追補使以下15人が指名されました。しかし、指名されても兵力を持たない者たちは東国行きをためらっていたそうです。
1月9日、誣告罪で拘束されていた前武蔵介源経基が従五位下に叙せられています。平将門の謀反が明らかになり釈放されたようです。
1月11日、太政官符を東海道、東山道の諸国に発しました。「殊功ある輩を抜きて不次の賞(序列によらない格別の賞)を加える」というものでした。中央政府は常備軍を持っていないので、各地の豪族、土豪に期待せざるを得なかったのです。
1月19日、参議藤原忠文が右衛門督を兼任し征東将軍に任命されました。68歳の老齢の将軍です。しかし、藤原忠文が関東に着く前に平将門は討伐されており、戦うことはなかったようです。
藤原秀郷、平貞盛の連合軍
太政官符に呼応したのは、下野国の豪族で押領使の藤原秀郷、平将門の宿敵の常陸大掾平貞盛、そして平将門に捕えられた常陸介藤原維幾の息子の藤原為憲でした。
2月1日、藤原秀郷、平貞盛、藤原為憲の連合軍四千余人は下野国に集結し、南下を始めました。平将門も敵が集結したとの報に、機先を制すべく下野に向いました。動員できる兵は少なく劣性ではありましたが平将門軍には多治経明や藤原玄茂などが参加していました。
藤原秀郷の軍と藤原玄茂の軍が戦闘に突入しましたが、老練な藤原秀郷の兵略に藤原玄茂の軍は敗退。平将門の奮迅はありましたが、数において劣性であり、平将門の軍は後方に退くことになってしまいました。平貞盛らも追撃はせずに本拠へ引き揚げたようです。
平将門の最後
2月13日、緒戦の勝ち戦で活気付く藤原秀郷、平貞盛の連合軍は兵力を増し、下野国の境を越えて下総国へ進撃しました。一方の平将門はこれを迎え撃つことなく、南の猿島郡の広江に潜伏しました。平将門は敵に対抗できるだけの兵を集めることができなかったようです。
2月14日、平貞盛は平将門が布陣する場所を突き止め、合戦が始まりました。平将門は善戦しますが劣勢をはねかえせず討死します。
平将門の首級は、4月25日に藤原秀郷の使者によって朝廷にもたらされ、京都の東市でさらされたようです。
戦後の処理
この後の掃討戦は征東軍の藤原忠舒、押領使となった下総権少掾の平公連(平良兼の子息)によって行われ、平将門の舎弟平将頼、藤原玄茂らは相模国で殺されました。興世王は平公雅(平良兼の子息)によって上総国で討ち取られ、藤原玄明は常陸国で斬られたそうです。
3月9日、平将門誅伐の功により二人の叙位がなされています。
  藤原秀郷 従四位下
  平貞盛  従五位上
藤原秀郷は、ほどなく下野守に起用されています。平貞盛は、右馬助(右馬寮の役人)を経て陸奥の鎮守府将軍になっています。
また、先に従五位下に叙された源経基は征東大将軍藤原忠文のもとで副将軍に抜擢されています。その後、大宰権少弐に補任されています。
5月15日、征東大将軍藤原忠文は入洛し、節刀を朝廷に返上。藤原忠文は結局、戦うことなく凱旋しました。

叛乱の目的
平将門は何をしたかったのでしょうか。新皇を称したと言われますが、伝説なのではないかと思います。平将門は新朝廷や政庁を作ったわけではありません。単に国司層に反感を持っており、国司と対立した郡司の武蔵武芝や常陸の豪族藤原玄明に味方しただけとも言えます。結果的には各国の国司(受領)を追い出し、自分の仲間を後釜に据えているのですが。
地方豪族の豊かさ
兵を動員して戦争をするには、それなりに金がかかるはずです。糧食や弓矢など武器を整える必要があります。また、褒賞を与えることも必要かもしれません。
無位無官の平将門は下総国の豪族と言ってよいと思います。そして常陸国には豪族藤原玄明、下野国にも豪族藤原秀郷が居ました。
平将門や藤原秀郷は数千の兵力を動かしています。これは彼らがそれだけ豊かであることを示しています。この後、武士が政治を支配する時代が始まりますが、それは単なる武力だけでなく、こうした地方豪族の財力を背景にしているのだと思います。
律令制度の古代においては中央の天皇や高級官僚のみが豊かになり繁栄しましたが、地方の豪族などが豊かになり中世が始まったと言えるのかもしれません。

その後の武士の活躍
関東に拠点を持ち台頭してきた源氏や平氏は中央との関係を深め、都の近くに拠点を移すようになります。そのため源平の本流(嫡流?)は河内源氏や伊勢平氏などとも呼ばれました。
  969年 安和の変
      源経基の子の源満仲が謀反計画を密告。恩賞で正五位下。
 1031年 平忠常の乱
      源満仲の子の源頼信が乱を平定。平忠常は平将門の甥。
 1051年 前九年の役
      源頼信の子の源頼義が乱を平定。
 1083年 後三年の役
      乱を平定したのは源頼義の子の源義家(八幡太郎)。
 1156年 保元の乱
      後白河天皇と崇徳上皇の争い。源平の兵が入り乱れて合戦。
      源義朝、平清盛などが勝利。源為義らが敗北。
      源義朝は源義家の曾孫。平清盛は平貞盛の子孫。
      なお、源為義は源義朝の父です。
 1159年 平治の乱
      後白河上皇と二条天皇などの争い。
      最終的に平清盛らが勝利。源義朝などが敗北。
      乱後に平清盛は正三位参議。武家で初めての公卿です。
      平将門の乱から120年後の出来事です。
 1167年 平清盛、従一位太政大臣
      武家の平清盛が公家の頂点に立ちました。
      下級貴族の武士が政権を担うまでになりました。

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参考文献
「平将門」北山茂夫 講談社学術文庫
「新訂官職要解」和田英松 講談社学術文庫
「日本の歴史6武士の登場」竹内理三 中公文庫
「河内源氏」元木泰雄 中公新書
「謎とき平清盛」本郷和人 文春新書
「古代東北の覇者」新野直吉 中公新書

2015.06.02 野沢 清 kiyoshi_nozawa@yahoo.co.jp