大衆の中世

中世には○○衆と呼ばれる集団が多く活躍しています。彼らには特定の強力なリーダーがいないため○○衆という呼び方がされています。そして、この集団で特徴的なことは、日常的に「寄合(会議)」で自分たちの意思決定を行っていたことです。一種の民主主義的な状況が中世にはありました。
本稿のタイトルに「大衆」という言葉を使っていますが、大衆(だいしゅ)とは、中世では比叡山延暦寺などで僧侶の集団を意味しました。しかし、ここでは現代で一般的に使われる大衆という意味で使っています。
「大衆」に似た言葉で民衆、庶民などがありますが、「民」には支配される人々の意味合いを感じるので、ここではあえて「大衆」を使っています。この時代の○○衆は支配されない自主独立の集団でした。

中世社会の状況
中世は古代律令制の中央集権的な支配が崩れていった時代です。寺社や武士などの勢力が台頭し、農民も自主的に行動し始めています。
寺社勢力
中世の寺社は寄進などで広大な所領を持っていました。紀伊国では全水田面積の8、9割が寺社領だったそうです。また、大和国は興福寺、東大寺、多武峯、高野山、金峯山の所領ではない土地はないと言われていました。
そして、こうした寺社は検断不入、守護不入の権利を持っていました。寺社は自治的な権利を持っており、守護大名も勝手に立ち入れませんでした。
惣村
中世には自治的な機能を持った惣村が形成されています。惣村とは、村の構成員が全員参加する寄合によって意思や行動を決定することを言います。惣庄と呼ばれることもあります。
惣堂
村人が寄り合って建てた堂のことを惣堂と呼びます。ここは、村人たち共同の集会所です。また、旅人が断りなく宿泊してよい施設としても利用されていたようです。
自検断
例えば、村で事件が起こった場合、領主などに頼らず、自ら犯人を捕まえ、その処罰を決めています。これを自検断と言います。
村の争い
村同士の争いでは武力を用いるのも珍しくなかったようです。刀、弓、鑓(やり)さらには鉄砲まで使っていました。黒澤明監督の映画「七人の侍」に出てくる臆病で逃げ回るばかりの百姓はフィクションであったようです。
戦国時代には農民が足軽として動員されていたのですから、農民も合戦に慣れていたかもしれません。
一揆
村などの組織が心を一つにして目的を達成しようとすることを一揆と言います。単に農民の反乱を意味する言葉ではありませんでした。

比叡山延暦寺
南都北嶺という言い方があります。南都は奈良興福寺、北嶺は比叡山延暦寺を意味します。中世に強大な力を持っていた寺社の両雄です。
堂衆と学生
延暦寺の僧侶には、学生(がくしょう)・学匠とも呼ばれる学侶(がくりょ)と堂衆とも呼ばれる行人(ぎょうにん)がいました。学侶は仏教の研究や祈祷に専念する僧侶です。堂衆(行人)は修行の傍ら寺院の雑務に当たった僧侶で身分としては学侶の下でした。学侶と堂衆は対立し争うこともありました。
集会(しゅうえ)
寺内での意思決定は集会で行われました。各人が遠慮なく意見を述べる一種の議会制民主主義です。破れた袈裟(けさ)で頭を包み誰か分からないようにして発言するようなことも行われていたそうです。
僧兵
比叡山の僧兵は山法師とも呼ばれ有名ですが、おもに堂衆(行人)がその主体でした。
強訴
嘉保2年(1095)に初めての神輿動座がありました。日吉大社の神輿(みこし)を担いで山僧による強訴を行っています。山僧たちは大勢で内裏に押しかけ騒ぎ立てたようです。当時の朝廷や公家は、これを本気で恐れたようです。このころは、院政が始まり武士が台頭して時代で、永長の大田楽(1096)という民衆の暴発もあった時代です。背景に社会不安もあったのかもしれません。
そして、その後もたびたび強訴の騒ぎがおきています。
 嘉応の強訴 嘉応元年(1169)
 白山事件での強訴 安元3年(1177)
 建久2年の強訴 建久2年(1191)
平家物語で、白河法皇(1053-1129)は三不如意(三つのままならぬもの)として加茂川の水、双六(すごろく)の賽(さい)、山法師をあげています。この山法師は、もちろん比叡山の僧兵ことです。
なお、こうして集団で行動する比叡山の僧侶や僧兵を大衆(だいしゅ)と呼ぶこともあります。
天文法華の乱 天文5年(1536)
比叡山延暦寺の大衆(僧兵)と近江守護六角氏の連合軍が、法華一揆と呼ばれた京都の日蓮宗の僧侶や檀徒による集団と合戦を行っています。この時には、法華一揆は敗北し、京都の日蓮宗寺院21ヶ寺はことごとく焼き払われています。
比叡山焼き討ち 元亀2年(1571)
比叡山は京都と北陸路・東国路の交差点であり交通の要所でした。そして、比叡山の僧兵たちが浅井・朝倉に味方し信長に反抗していたため、信長は比叡山を焼き討ちし、僧侶から小僧にいたるまで、すべての者を殺害しています。
これにより比叡山延暦寺の組織は壊滅し、僧兵もいなくなってしまいます。

一向一揆
一向一揆は、一向宗(浄土真宗)の門徒による一揆で、加賀では一国を90年に渡り支配していました。
組織
一向一揆では惣村と同じように村落で寄合を持ち、リーダーを中心に意思決定を行っていました。政治機構的には、本願寺−加賀国−郡−組−村落という指揮命令系統があったようです。
文明の一揆 文明6年(1474)
最初の一向一揆です。加賀の守護・冨樫家の内紛に一向衆が介入し、守護の冨樫幸千代を追放しています。奈良興福寺の僧・尋尊は日記に次のように書いています。「一向宗の土民が侍たちと争い、侍たちは土民によって国から追い払われた」
一向衆は、後任の守護に冨樫政親を迎えますが、文明7年に冨樫政親は一向宗の弾圧を始め、加賀の一向宗門徒は越中に逃れました。
越中一揆 文明13年(1481)
加賀の一揆衆が越中・井波の瑞泉寺に逃れると、脅威と感じた越中福光城主・石黒光義が瑞泉寺を襲撃しましたが、石黒光義は逆に一向一揆衆によって討たれてしまいます。
長享の一揆 長享2年(1488)
加賀の一揆衆は高尾城に立て篭もる加賀の守護・冨樫政親を攻め、自害させました。20万人とも言われる一向一揆が守護・冨樫政親を攻め滅ぼしました。
「百姓ノ持タル国」と言われた一向一揆による自治国の出現です。この自治は約90年間続いています。
越前一揆 永正3年(1506)
7月、加賀・能登・越中の一向衆は越前の一向衆と呼応し30万という大軍をもって越前に侵入しましたが、九頭竜川の戦いで朝倉氏に敗れてしまいました。
その一ヶ月後の9月に、越後の守護代・長尾能景が越中の一向一揆を攻めましたが、戦いは一揆勢の勝利に終わり、上杉謙信の祖父にあたる長尾能景は戦死しました。
天文の錯乱 天文元年(1532)
一向宗の本願寺門徒は、細川晴元に協力し畿内で畠山・三好連合軍を攻撃し、これを壊滅させました。勢いに乗った一揆衆は、さらに奈良の興福寺を攻め炎上させています。
これに対抗して法華衆と近江守護・六角氏が京都の山科本願寺を攻め炎上させました。本願寺宗主の証如は大坂の石山御坊に移り、これを石山本願寺として新たな根拠地としました。
尾山御坊建立 天文15年(1546)
加賀に尾山御坊(金沢御堂)を建立して一揆の国を統括しました。これは、北陸門徒が惣国中普請として建立したものです。
三河一向一揆 永禄6年(1563)
三河で一向一揆が起こりましたが、22歳の家康によって一揆は半年で平定されてしまいました。
石山合戦勃発 元亀元年(1570)
織田信長が本願寺に対し大坂石山からの退去を要求。これに対して石山本願寺側は摂津福島の織田信長軍を突如攻撃して対抗しました。
この後、一揆衆は石山本願寺に立て篭もり信長軍と10年間に渡り戦います。篭城軍の主力は紀州・雑賀衆の鉄砲隊でした。また、篭城への物資供給などの後方支援をしたのは毛利水軍です。
長島一向一揆 元亀元年(1570)
反信長で蜂起した本願寺の檄に呼応し、伊勢長島で一向一揆が起こり、一揆衆は伊勢長島城、尾張小木江城、伊勢桑名城を攻略しました。
元亀2年(1571)信長軍は反転攻勢に出ましたが、攻略できずに撤退。
天正元年(1573)信長軍は再度攻撃し北伊勢を平定しましたが、撤退。
天正2年(1574)信長軍は総力を挙げて海陸から長島へ侵攻しました。長島で兵糧攻めにあった一揆側は降伏しようとしましたが、信長はこれを許さず、最後には、2万人の門徒が柵で閉じ込められ焼き殺されたと言われています。
越前一揆 天正2年(1574)
越前で守護代らの内紛に乗じて、越前と加賀の一揆連合軍が越前を平定しました。
しかし、天正3年(1575)一揆衆で内紛が起こり、一揆勢は分裂状態になりましたが、この機をとらえ織田信長の3万の軍勢は越前に侵攻しました。そして、信長の大軍に攻められ越前の一向一揆の軍勢は壊滅してしまいました。
敗れた一揆勢は取る物も取り敢えず、右往左往に山々へ逃げ上がりましたが、信長は「山林を尋ね捜して見つけ次第、男女を隔てず切り捨てよ」と命令しました。その結果、信長公記によれば1万2250人余りが捕らえられ殺害されたとあります。また、生け捕り分と殺害された分と合わせて3、4万人に及ぶだろうと信長公記で太田牛一は書いています。生け捕りにされた人々は近隣諸国で奴隷として売られていったようです。
石山合戦講和 天正8年(1580)3月
織田信長に敵対していた一向宗(浄土真宗)の本拠地である大坂の石山本願寺は、朝廷の斡旋により信長と和議が成立し、宗主の顕如らは紀州雑賀の鷺森に退去しました。
尾山御坊陥落 天正8年(1580)3月
織田信長と本願寺が講和すると加賀の一揆衆も混乱したようです。信長の家臣・柴田勝家に攻められ金沢の尾山御坊(金沢御堂)は陥落してしまいます。
これで、加賀一向一揆も信長側によって制圧されてしまいました。「百姓ノ持タル国」と言われた一向衆による自治国は90年の歴史を閉じました。
本願寺大阪退出 天正8年(1580)8月
大坂石山本願寺に最後まで残っていた教如が、石山本願寺を明け渡しました。これにより、一向宗による信長への反乱は、事実上終了しました。

高野聖
高野聖は高野山真言宗の所属で、各地を遊行していた僧侶です。高野山奥之院への納骨、奥之院での墓所の造立などに携わっていました。高野山は真言宗の本山ですが、高野聖の大部分は一遍を開祖とする踊念仏の時宗の信者だったようです。高野山真言宗所属の高野聖ですが、中には一度も高野山を訪れたことのないものもいたとも言われます。また、高野聖の一部は金襴の裁片などを笈に入れて行商をするようになりますが、後には呉服聖とも呼ばれ呉服を専門に売る商売をする者もいたと言われています。
高野山の僧侶
高野山は、弘法大師(空海)が開いた高野山真言宗の聖地で、本山の金剛峰寺があります。高野山には、学侶(がくりょ)、行人(ぎょうにん)、聖(ひじり)の三種類の僧が居ました。延慶3年(1310)の修正餅支配注文によると学侶が約400人、雑僧を含む行人が約2600人、聖が100人いたようです。聖は諸国回遊中なので高野山にいるのは少ない人数だったようです。
信長の高野聖成敗 天正6年(1578)
織田信長に謀反をおこした武将・荒木村重の家臣が高野山に逃げ込んだようですが、高野山が引渡しを拒み、探索にきた信長の家臣を殺害しました。この報復のため、信長は畿内近国を徘徊する高野聖1383人を捕らえ処刑しています。
秀吉の紀州侵攻 天正13年(1585)
根来衆や雑賀衆を攻略するため10万以上の軍勢を動員したといわれる秀吉の紀州侵攻の際、高野山は秀吉に屈服し降伏しています。高野山も武装兵力を持っていたようですが、武装解除に応じました。

雑賀衆
紀州は荘園が多く守護大名の支配が届かない地域でした。それぞれの地域は惣村などの組織で自治的な統治が行われていたようです。地域の共同体は、惣村、惣荘、惣郷、惣国の階層的な組織で構成されていました。すべての物事は惣村、惣国などで話し合って決めていました。宣教師のフロイスによれば共和国的な存在であったようです。
紀ノ川下流域の五荘郷
雑賀の地は、荘園領主も異なる複数の荘園から成りたっており、雑賀荘、十ヶ郷、宮郷、中郷、南郷の雑賀五組とも呼ばれる地域の組織がありました。
雑賀の地区は農耕には適さない地であったようですが、雑賀の湊の地区は海運にも従事しており雑賀水軍の元になっています。
一向衆
雑賀衆は鉄砲を多く所有し鉄砲集団として有名です。また、住民の多くは一向宗(浄土真宗)の門徒で、大坂石山本願寺での戦いでの主力となっていました。この戦いでは雑賀の水軍も活躍しています。
天正8年(1580)4月9日に本願寺の宗主・顕如が石山本願寺を退去した際には、顕如は、雑賀の鷺森御坊に移っています。
傭兵集団
雑賀衆は一向衆の武装集団ですが、一方で傭兵集団としても有名です。
元亀元年(1570)の織田信長と三好三人衆の戦いでは、雑賀衆・根来衆などの紀州連合軍が織田信長側に参加しましたが、一方で、雑賀の有力者である鈴木孫一(雑賀孫市)が率いる傭兵の雑賀衆は三好側として参戦しています。
元亀3年(1572)、阿波の細川真之・三好長治が三好家の武将篠原を討伐する際に、細川真之・三好長治の要請で雑賀衆は多数の鉄砲隊を送っています。
天正6年(1580)、別所長治が織田信長側に反旗を翻し三木城に篭城した時は、雑賀衆は一向宗門徒衆とともに篭城側を支援しています。
天正8年(1582)、摂津花隈城の戦いには、雑賀衆は織田信長側の池田恒興の軍に参加しました。
天正9年(1581)、長宗我部元親に対抗して阿波に入ろうとした三好一族の十河存保の応援に雑賀衆が渡海しています。
天正10年(1582)9月にも、長宗我部に請われて雑賀の湊の衆が出兵しました。
信長の雑賀攻め
天正5年(1577)2月、織田信長勢は根来衆と雑賀の三組(宮郷、中郷、南郷)の協力も得て、10万人の軍勢で雑賀(雑賀荘、十ヶ郷)を攻めましたが、雑賀勢のゲリラ戦により多大な損害を受けて退却しています。その後、戦線は膠着状態になり鈴木孫一(雑賀孫市)らが誓紙を差し出し降伏を誓い、信長は朱印状を出し赦免することで決着しました。事実上は、雑賀側の勝利で終わっています。
7月、雑賀荘、十ヶ郷が裏切った三組(宮郷、中郷、南郷)への復讐のため兵を起こしました。この機会をとらえ織田信長は佐久間信盛父子を大将に7、8万人の軍勢を動員して再び雑賀を攻めましたが、またも制圧に失敗しています。
その後、天正8年(1580)の大坂石山本願寺の開城後には、雑賀衆は信長に協力するようになり、織田信孝の四国攻めに船数百艘を提供しています。
しかし、雑賀には信長派と反信長派がおり天正10年(1582)の本能寺の変の時には、反信長派が信長派を一掃しています。信長派だった鈴木孫一(雑賀孫市)は、こっそり出奔したといわれています。
秀吉の紀州制圧
織田信長の死後、雑賀衆・根来衆などの紀州勢は秀吉に反発し、天正11年(1583)には泉南の岸和田に攻め入っています。
これに対し、秀吉は天正13年(1585)に10万以上の軍勢を動員して紀州侵攻を行いますが、この戦いで雑賀衆、根来衆は壊滅し、紀州は秀吉によって平定されました。
秀吉の刀狩
この戦いで、秀吉は、高野山、根来衆、雑賀衆から武器の没収を行いましたが、これが秀吉の刀狩の始まりと言われています。

根来衆
紀州の根来の地は、雑賀に隣接した根来寺に支配される地域です。根来は鉄砲製造でも堺、国友と並んで有名で、根来衆は鉄砲集団、傭兵集団とも言われています。
僧兵
根来衆は根来寺(親義真言宗)の僧徒の集団で、他の寺院と同様に学侶、行人(僧兵)の組織がありました。宣教師フロイスは根来寺僧について「俗人の兵士の如き服装をなし、絹の着物を着し、富裕である故、剣および短剣には金の飾りを付し、衣服は俗人と異なるところがない。ただし、頭髪は背の半ばに達するまで長く延ばして結ぶ」と書いています。
傭兵集団
元亀元年(1570)には、足利将軍の招集に応じ三好党の討伐に雑賀衆などとともに紀州勢として参加しています。
大坂石山本願寺攻略では織田信長側に参加し、雑賀衆とは敵対関係になっています。
天正9年(1581)に信長が主催した京都御馬揃え(軍事パレード)に根来衆は南河内の大ヶ塚と上山城の部隊が参加しています。
秀吉の紀州侵攻
天正13年(1585)の秀吉の紀州侵攻で根来寺は炎上、根来衆も壊滅しました。ただし、根来衆の一部は徳川家康に仕え、江戸時代に百人組鉄砲隊となっています。

伊賀衆
伊賀は四方を山に囲まれた国で、農地に恵まれない地域だったようですが、雑賀などと同様に惣国による自治的な統治が行われていたようです。
伊賀惣国一揆
天正5年(1577)、伊賀では守護職・仁木義視を追い出し、伊賀惣国一揆にあたる評定衆によって国政を運営しています。
天正伊賀の乱
天正7年(1579)、伊勢を治めていた織田信長の次男・信雄が伊賀を攻めますが、この時は信雄軍の大敗北に終わっています。伊賀を甘く見たのでしょうか、若気の至りで功をあせった独断の行動でした。そのため、信雄は父・信長に厳しく叱責されています。
天正9年(1581)、織田信長は大軍で伊賀に侵攻し、徹底的に破壊しつくしています。反抗する者を許さない信長です。最後には大和国境の山中に逃げ込んだ残党も山狩りで探し出して切り捨てたようです。なお、この戦いで甲賀衆も信長軍に参加し伊賀攻めを行っています。
徳川家康の伊賀越え
天正10年(1582)に本能寺の変が起こると堺にいた徳川家康は、伊賀出身の服部半蔵の手引きで伊賀の山中を越えて三河へと帰還しています。
なお、この時、信長が亡くなったことで伊賀国は反信長派が蜂起して内乱状態になったとも言われています。

甲賀衆
伊賀国に接する近江国甲賀郡は、伊賀と同様に山間の地です。甲賀でも合議制によって決する惣がつくられ自治的な統治が行われていたようです。血縁による同名中惣、地縁による郡中惣などが構成されていました。
鈎(まがり)の陣 長享元年(1487)
将軍・足利義尚による近江守護・六角高頼の征伐が行われましたが、甲賀衆は山間部でのゲリラ戦で戦ったようです。延徳元年(1489)に将軍・足利義尚は近江の鈎の陣中で死去したため、この征伐戦は中断されています。
観音寺城の戦い 永禄11年(1568)
上洛する織田信長によって近江守護の六角氏が敗北します。以後、六角氏は没落していき、甲賀の地も信長に支配されていきました。
天正伊賀の乱
天正9年(1581)の伊賀国の掃討戦に甲賀衆も信長側で参戦しています。

忍者について
伊賀衆、甲賀衆、雑賀衆、根来衆はともに忍者として知られています。黒装束で覆面の忍者が実際に居たのかどうか疑問を感じますが、彼らには共通点があります。いずれも耕地に恵まれない山間の地に住んでおり、自治的な惣を持っていて自主独立の気風があり、ゲリラ戦が得意だったことです。
自主独立だったこれらの集団も、信長や秀吉によって攻められ屈服し、近世の支配体制に組み入れられていきます。
伊賀者と百人組
伊賀者や甲賀者は間諜や斥候として活躍していたとも言われますが、江戸幕府には広敷伊賀者、明屋敷番伊賀者、西丸山里伊賀者、小普請方伊賀者など伊賀者という名前の付く役職がありました。彼らは主に警備を担当しており隠密などではなかったようです。
また、伊賀者や甲賀者などによって構成された鉄砲百人組が作られました。伊賀組、甲賀組、根来組、25騎組(青山組)の4組がありました。これらも、隠密や間諜の類ではなく江戸城の防衛を担当した部隊です。
御庭番
江戸城御庭番は八代将軍の徳川吉宗が設置した将軍直属の隠密組織です。この御庭番は、吉宗が紀州藩主だったことから紀州藩出身者の世襲でした。忍者とは直接的には無関係だったようです。彼らは下級の御家人でしたが、中には勘定奉行に出世した者もいたようです。ただし、雑賀や根来も紀州です。御庭番には雑賀衆や根来衆の末裔がいたかもしれません。

穴太(あのう)衆
穴太衆は、近江の比叡山領穴太荘に住む石垣職人で、安土城を含む信長の城作りを行っています。穴太衆が出てきてから石垣を使った城造りが広まったようです。それまでは、土を盛り上げて造った山城が普通でした。
中世では、石を動かすような土木工事は呪術的な能力がある河原者や非人の仕事だったようです。禁裏や公方の庭造りも山水河原者と呼ばれた人たちが行っています。石垣工事が得意だった穴太衆も穴太散所の非人たちだったのかもしれません。

町衆
京都の町は、町衆の自治組織によって治められていたようです。この町衆によって祇園会などの祭も開催されていました。
自治的な組織ですが、特に武力を持っているわけではないので、織田信長が上洛して以降は、その支配に組み込まれていきます。
町衆の組織
町衆の組織は、惣町−町組−町という階層になっていました。惣町は上京、下京の二つです。この傘下に町組がありました。時代によって違うようですが元亀2、3年ころには次のような町組がありました。
 上京:立売組、中筋組、小川組、川ヨリ西組、一条組
 下京:中組、丑寅組、川西組
この時に下京には組の下に45の町があったそうです。
祇園会の山鉾
応仁の乱の後、明応9年(1500)に祇園会の山鉾が町衆によって再興されています。
風流踊
元亀2年(1571)に、上下京の1600人による風流(ふりゅう)踊りが開催されています。上京が一条室町、西陣廿一町与、立売、絹屋町小川の4つの町組、下京衆も四つの町組みで踊りを出したそうです。
信長の上京焼討ち
織田信長は、元亀4年(1573)の足利義昭との戦いで、将軍側の支持者が多いとして上京を焼き払っています。この時、上京は銀1500枚、下京は銀800枚を、信長に差し出したようですが効かなかったようです。
堺の会合衆
堺の町は、有力商人による会合衆によって治められていました。堺の町は、織田信長の上洛の際の二万貫の矢銭(軍用金)の要求を当初は拒否しましたが、信長が大軍を堺に差し向けたため結局は屈服しています。これ以降は、堺の町は信長の支配地となっています。

踊りの流行
中世には踊りが流行しています。踊りは、「躍り」、「跳り」と書くこともあり、飛び跳ねるような躍動に特徴があります。おそらく、踊りは中世に始まった芸能ですが、踊りは中世の大衆のエネルギーを象徴しているように思います。
永長の大田楽
永長元年(1096)に、社会不安を背景にして祇園会をクライマックスに人々が熱狂的に田楽に踊り狂い洛中を興奮の渦に巻き込みました。町衆だけでなく公家など上流階級までも熱狂したと言われています。この熱狂は、江戸末期の「ええじゃないか」にも匹敵する社会現象だと言われています。なお、この永長のころは院政が始まり、武士が台頭してきた激動の時代です。
桟敷崩れの勧進田楽
貞和5年(1349)に、大規模な勧進田楽が京都四条河原で開催され、大勢がつめかけ熱狂したため桟敷が崩れ数百人の死傷者が出ました。
念仏踊り
15世紀には、宗教としての踊念仏が娯楽としての念仏踊りに変化しています。これがやがて盆踊りや風流踊りへと発展しました。田楽と念仏踊りが、現在の盆踊り、阿波踊り、花笠踊りなどの源流のようです。
風流踊
元亀2年(1571)に、上京と下京の8つの町組の1600人による風流(ふりゅう)踊りが開催されています。
また、慶長9年(1604)には、豊臣秀吉七回忌における豊国神社の風流踊が開催され、上京三組、下京二組、各組100人の踊りが出ています。
伊勢踊り
慶長19年(1614)、大坂の陣直前に伊勢踊りの流行が巻き起こりました。これは、伊勢の神を村から村へ送っていく踊りだったようです。この騒ぎも、幕末に自然発生的に巻き起こった狂乱の「ええじゃないか」に似ています。
日本の中世は、永長の大田楽で始まり、この伊勢踊りで終わったと言ってよいのかもしれません。

志多良神事件 天慶8年(945)
平安時代の中期の天慶8年(945)にも不思議な騒動が起こっています。菅原道真や八幡神を祀る神輿を担いだ摂津国の群衆が大挙して上洛を企てました。その際、群衆は「志多良」(手拍子)を打ちつつ「童謡(わざうた)」を歌いながら進んだといいます。最終的には志多良神は託宣によって行き先を変え、石清水八幡宮に入ってそのまま安置されたそうです。
天慶3年(940)に東国で乱を起こした平将門が討死しています。志多良神事件のような突発的な騒動は時代の変わり目に起こる現象のようです。

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参考文献
「僧兵=祈りと暴力の力」衣川仁 講談社選書メチエ
「寺社勢力の中世−無縁・有縁・移民」伊藤正敏 ちくま新書
「真宗の風景 北陸一揆から石山合戦へ」北国新聞社編 同朋舎
「戦国鉄砲・傭兵隊 天下人に逆らった紀州雑賀衆」鈴木眞哉 平凡社新書
「本願寺と天下人の50年戦争」武田鏡村 学研新書
「高野聖」五来重 角川ソフィア文庫
「江戸城御庭番 徳川将軍の耳と目」深井雅海 中公新書
「戦国忍者は歴史をどううごかしたのか?」清水昇 ベスト新書
「忍者の大常識」黒井宏光監修 ポプラ社
「信長が見た戦国京都」河内将芳 洋泉社
「織田信長のマネー革命」武田知弘 ソフトバンク新書
「室町時代」脇田晴子 中公新書
「百姓から見た戦国大名」黒田基樹 ちくま新書
「出雲のおくに」小笠原恭子 中公新書
「中世民衆の世界−村の生活と掟」藤木久志 岩波新書
「戦国の作法 村の紛争解決」藤木久志 平凡社ライブラリー
「院政とは何だったか」岡野友彦 PHP新書
「改訂 信長公記」太田牛一著、桑田忠親校注 新人物往来社

2013.03.20 野沢 清 kiyoshi_nozawa@yahoo.co.jp