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近代と現代の境界
日本の歴史の区分としての近代と現代の境界は、第二次世界大戦の終了時に置くのが一般的だと思います。植民地支配を目指した日本帝国主義が終焉し、民主主義がスタートしたのですから政治的には確かにその通りだと思います。しかし、庶民レベルでは、終戦後も明治のころとさほど変わらない生活が続いていました。明治時代の日本の風景写真を見ると、私の子供時代の1950年代と変わらない風景が広がっています。その風景が大きく変わったのが1960年代です。いわゆる高度成長期が始まったのです。少なくとも庶民の生活レベルでは、近代は1950年代で終り、現代が1960年代に始まったのだと思います。
1950年代の生活
このころは明治時代あるいは江戸時代とさほど変わらない風景、生活が続いていました。
電灯
家庭の中の電気製品は、電灯とラジオくらいしかありませんでした。テレビなどはないので、寝るのも早かったように思います。夕食が終わると、もうすぐ寝る時間です。夜の7時くらいにはもう寝ていました。
住宅
さすがにガラス戸が普通でしたが、その内側は障子です。農家なら土間があったと思います。さらに板の間もあり収穫した農作物の処理作業などにも使われていました。太い自然木を使った梁がむき出しの家です。茅葺(かやぶき)の農家もまだありました。
狐と狸
狐や狸が人間を化かす話もリアリティがありました。街灯もあまりない暗い夜道は、狐や狸が出ても不思議ではない世界です。このころには化猫映画もヒットしていました。暗い夜が、こうした映画にもリアリティを持たせていたのだと思います。
昔話
現代では昔話はテレビでみたり本で読んだりする世界ですが、私の子供のころは普通のお年寄りが子供に語ってくれるものでした。おそらく、各家庭のおばあさん、おじいさんが語っていたのだと思います。娯楽の少ない時代の子供たちの楽しみのひとつでした。
薪
家庭での燃料は薪です。薪の「かまど」で料理をしていました。囲炉裏も実際に煮炊きに使われていました。風呂も薪です。その薪も田舎では自分たちで調達していました。夏に山に入り木を切って薪をその場に積んで置きます。そして冬になると橇(そり)を使ってその薪を山から降ろしていました。子供のころ私も手伝った記憶があります。
井戸
田舎では水道は普及していなかったので井戸を使っていました。さすがに釣瓶(つるべ)ではなく手押しポンプでした。風呂の水汲みは、子供には大変な重労働でした。この手押しポンプは、やがて電動のポンプに替わりました。
唐傘(からかさ)
子供のころ、唐傘、こうもり傘と言う呼び方が普通にありました。油紙製の唐傘がまだ日常に使われていた時代です。布製の傘は、こうもり傘と呼ばれていました。略して「こうもり」とも呼ばれていました。
蓑笠(みのかさ)
蓑とは藁(わら)などで作った雨具です。笠は、普通は菅(すげ)などで作り頭に被っていました。子供のころ農作業などで使われているのをよく見かけました。このような雨具は、今では考えられませんが、明治以前おそらく江戸時代と変わらぬ農作業風景だったと思います。
藁草履(わらぞうり)
子供のころ、藁草履はスリッパ代わりに普通に使われていたように思います。また、藁沓も見たことがあります。ただし、藁沓は使ったことはないし、実際に使っている人を見たこともないと思います。
荒縄
藁で作った荒縄も普通に使われていました。丈夫なロープなどない時代ですから、重い荷物を縛ったり、牛馬をつないだり、あらゆることに荒縄が使われていました。また、荒縄は農家なら自分でも作っていたように思います。同様に藁(わら)で編んだ筵(むしろ)も使われていました。
下駄
子供の履物は下駄が普通でした。下駄で走り回って遊んでいました。小学校のころは、下駄で登校し校内では裸足だった記憶があります。校庭でも裸足です。校庭から校内に入る時には水洗い場で足を洗っていました。足を洗うための浅い小さいプールの洗い場が設備されていました。
卓袱台(ちゃぶだい)
食事の時は、折りたたみのできる丸い卓袱台を使っていました。食事が終わると折りたたんで、どこかに立てかけていました。母親の実家ではお膳です。家族各自のお膳があり、そこに各自の食器を入れて保存してありました。お膳を使った食事は囲炉裏を囲んで行っていたように記憶しています。
牛馬
農耕には普通に牛馬が使われていました。まだ、耕運機などが普及する前です。当時のまだ舗装されてない道路に牛馬の糞がよく落ちていました。また、トラックもまだ普及していないので重い荷物を運ぶのにも牛馬が使われていました。
農作業
田植えや稲刈りは人力です。田植え機や稲刈り機はありませんでした。この農繁期には農家以外の主婦などもパートで手伝っていたと思います。私が子供のころは、幼稚園や保育園が整備されておらず、春と秋の農繁期に託児所が開設されていました。
モンペ
田舎のおばさんは、着物にモンペの姿が普通でした。農作業などもモンペ姿です。戦時中のドキュメンタリーのフィルムなどでよく登場する姿です。これが、50年代まで続いていました。ただし、男はなぜか着物ではなかったように記憶しています。
田圃(たんぼ)
田圃の風景も今と違っていました。用水路にU字溝はありません。メダカ、タニシ、ドジョウなどのいる自然の小川でした。また、田の畦にはよく大豆などが植えられていました。秋に刈られて稲はハサ木に架けられ自然乾燥です。米の乾燥機などない時代でした。
下肥
畑の肥料として下肥が使われていました。私の近所にはなかったのですが、肥溜めもあった時代です。田舎では天然の香りが充満していました。60年代に化学肥料が普及すると下肥の利用は急速に減ったように思います。
兎や山羊(やぎ)
兎や山羊を飼っている家もありました。兎はペットではなく食用です。山羊は乳を採るのが目的だったと思いますが、食用にもされたはずです。このころの一般家庭では肉を食べることは少なく魚と野菜中心の食生活です。田舎では牛乳も普及していませんでした。
その他
みかん箱:木製のみかん箱が使われていました。クッション材は籾殻(もみがら)です。
桶:家庭で味噌を作ったり、タクアンを漬けたりするのに木製の桶が使われていました。 竹製品:笊(ザル)や箕など身の回りに竹製品が多く使われていました。 カンテラ:カーバイドを使ったカンテラが、屋外照明などに、まだ使われていました。 煙管(きせる):紙巻煙草ではなく、刻み煙草の愛用者も多くいました。
1960年代の変化
高度成長が始まり人々の所得が増えるにつれ、庶民の生活も大きく変わっていきます。
集団就職
団塊の世代が中学を卒業するころに集団就職がありました。このころは中卒で都会に働きに出るのが普通でした。こうして、第一次産業から第二次産業や第三次産業に人が移って行き、地方から都会へと人口が集中していきます。このような人の移動により、昔風の大家族が減り、核家族が増えていくことになります。
三種の神器
三種の神器とはテレビ、洗濯機、冷蔵庫のことです。60年代になると急速に普及し庶民の生活も一変しました。テレビが一家の中心となり、洗濯機により家事労働が軽減されました。
プラスチック製品
丈夫で腐らないプラスチック製品が普及し始めると、身の回りの竹製品や木製品が消えて行きます。古いものより新しいものへと人々の志向が動いていきました。
インスタント食品
インスタントラーメンが出てきたのがこのころです。固形のカレールーなども発売され、その後さらにレトルト食品が出てきます。同時に食生活も欧風化していきます。所得が増えたことが背景にあると思います。
住宅
家を建て替えると、土間はなくなり明るい開放的な造りになっていきます。また、洋間を作り応接セットを置いたりしていました。囲炉裏や火鉢は不要になり、暖房も灯油です。薪のかまどは撤去されガス台が取って替わります。
団地
都会に集中する人を吸収するため、住宅団地が多く建設されていきます。水洗トイレ、内風呂、キッチンなど近代的な設備を導入しており、当時は人々憧れの住宅でした。
耕運機
農作業も機械化が進み、耕運機、田植機、稲刈機が導入されました。これにより牛馬は必要なくなり、人力を大量動員する田植えや稲刈りもなくなってしまいます。省力化されたことにより、少ない人数でも農業をやっていけるようになっていきます。
自動車
スバル360のような軽自動車が発売され庶民でも車が買えるようになりました。また、業務用の貨物車としてはオート三輪と呼ばれた小型の三輪のトラックが普及していましたが、さらに小型の軽自動車の三輪トラックであるダイハツのミゼットのテレビCMがヒットし普通の農家でも使用されるようになっていきます。
交通網
新幹線が開通し鉄道が高速化され人の移動も楽になっていきます。一般道路の舗装も進み、高速道路が建設され物流網が整備されていきます。
高度成長の影
産業が成長・発展していき人々の所得も増え希望のあった時代ですが、一方でそのひずみも出てきます。
大気汚染
工場の煙突からの有害物質や自動車の排ガスにより大気汚染が深刻になります。1970年ころの東京はスモッグに覆われ、郊外からは灰色のガスに包まれているように見えていました。この大気汚染により喘息など呼吸器障害が多く引き起こされました。また、光化学スモッグが頻発されるようになったのもこのころです。
水質汚染
特に都会の川では、工場や家庭からの排水により河川が汚染され魚も住めない状況になり、東京湾もヘドロの海になってしまいました。熊本県水俣での水銀汚染による水俣病や富山県神通川でのカドミウムによるイタイイタイ病など深刻な被害も発生しています。
ごみ処理
都会ではごみ処理が深刻な問題になりました。ごみの埋立地が満杯になり、ごみ焼却場の建設も近隣住民の反対により進まなくなっていました。
物価上昇
政策として所得倍増計画が推進されましたが、物価も上昇しました。1959年に創刊された少年サンデーは当初30円でしたが、まもなく50円、80円と値上げしていきました。公共料金も同様に上昇しています。ただし、60年代より70年代以降の方が物価の上昇は激しかったかもしれません。
住民運動
成田空港建設や原子力発電所の建設などで、激しい住民の反対運動が起こりました。当時は環境アセスメントのような考え方もなく、上から一方的に計画を押し付けるようなやり方が住民の反発を招いたものでした。それまでは上意下達で事が済んでいましたが、人々の間に自立した市民意識が芽生えて来た結果かもしれません。(付記1)
学園紛争
60年代末には全国の大学で紛争が起きています。日本大学では大学の不正経理をきっかけに学生が反発し闘争が起こっています。闘争の背景には当時の古田会頭の独裁的な支配がありました。また、東京大学でも医学部のインターン制度をめぐっての紛争が起こりました。大学当局が学生を一方的に支配するようなやり方は通用しなくなっていました。(付記2)
高度成長政策の波及
日本は高度成長政策によりGDPで世界第二位の経済大国に発展しましたが、これを追いかけたのが韓国、中国です。両国とも、高度成長の起爆剤としてオリンピックや万国博覧会を開催し経済を発展させることに成功しています。
現在の中国の状況は昔の日本の姿に重なって見えます。中国は環境汚染、都市と農村の不均衡、インフラ整備、バブル経済など多くの課題を抱えています。おそらく中国は、かつての日本を参考に政策を実行していくことでしょう。ここで日本の果たすべき役割は大きいと思います。
付記
1.昔なら地元の有力者が地縁、血縁を利用して説得したのでしょうが、それが効かなくなったのだと思います。
2.学園紛争は新左翼と呼ばれた過激な政治組織の勢力を拡大させる結果になりました。新左翼勢力は共産主義革命を標榜し、各地の住民運動や大学紛争に参加し勢力を拡大しましたが、70年安保闘争以後は浅間山荘事件をきっかけに、その勢いを失っています。 3.学生の反乱は60年代後半に米仏などでも起きています。これはベトナム戦争に反対する若者の政治行動という一面もありました。
参考文献
「モース・コレクション/写真編 百年前の日本」小学館
「写真集 甦る幕末 ライデン大学コレクションより」朝日新聞社 「現代民話考」松谷みよ子 ちくま文庫 2011.3.6 野沢 清 kiyoshi_nozawa@yahoo.co.jp |