60年代の閉塞感

60年代末にアメリカ、フランス、日本など世界各地で学生の反乱が起きました。背景には若者たちの閉塞感があったのだと思います。ここでは、アメリカと日本の閉塞感を見てみたいと思います。

アメリカン・ニューシネマ

60年代末に従来のハリウッド映画とは違う映画が作られるようになります。アメリカン・ニューシネマと呼ばれました。低予算でアメリカの若者の現実を描いた作品を若い人たち自身が作り始めました。ハリウッドの娯楽作品とは違う、彼らの主張を盛り込んだ作品です。
これらの作品には、当時の若者たちの閉塞感が表現されています。
卒業(The Gradiate)
大学を卒業しても無為に過ごしている主人公が恋愛に目覚め、最後には花嫁を奪取して逃げるというストーリーの有名な映画です。卒業しても何もする気がない、人生の目的を見出せない若者に当時の閉塞感が現れています。
ラストシーンで花嫁と逃げる主人公が乗ったバスの乗客は、貧しい人々ばかりです。これは比較的裕福な家庭に育った主人公の行く末を暗示していますが、同時に主人公は裕福な中産階級の従来の生活を卒業し、自分で人生を切り拓いていく出発をも意味していると思います。 花嫁を奪うシーンとサイモンとガーファンクルの音楽が印象的な映画です。
俺たちに明日はない(Bonnie and Clyde)
日本語のタイトルには、もろに閉塞感が表現されています。昔の大恐慌時代の有名な銀行強盗の二人が主人公です。
数々の銀行強盗を繰り返したあと、田舎に隠れ住み、おだやかで幸せな生活が始まりかけていた二人は、最後には、待ち伏せていたFBIの激しい銃撃にあい死んでしまいます。美しくも切ないラストシーンでした。
明日に向かって撃て(Butch Cassidy and the Sundance Kid)
日本語のタイトルは「俺たちに明日はない」の続編のようにも取れる表現になっています。内容的にも似通っていて西部開拓時代の強盗団の主人公二人が、最後はボリビアで軍隊に囲まれ絶望的な銃撃戦になり、銃を撃ちながら飛び出して行く悲壮感あふれるシーンで映画は終ります。若者の絶望感や悲壮感を表した映画だと当時は思いました。
バート・バカラックの「雨にぬれても(Raindrops Keep fallin' On My Head)」の曲が印象的でした。
イージー・ライダー(Easy Ryder)
60年代末のカウンターカルチャーの自由さを身につけた二人がバイクで旅をし、古いアメリカを象徴する保守的な南部で迫害されるというストーリーの映画です。
強固に残る古いアメリカ社会が、一種の絶望感を感じさせてくれます。
テーマ曲のステッペンウルフ「Born To Be Wild(ワイルドで行こう)」がかっこいい映画でした。

アメリカの閉塞感

60年代末のアメリカでは泥沼化したベトナム戦争が大きな問題になっていました。世界の超大国のアメリカが小国のベトナムのゲリラ(*1)とそれを支援する北ベトナムに大苦戦していました。結局、アメリカは70年代に入りベトナムから撤退します。事実上の敗北でした。
そして、一方で黒人への人種差別が大きな問題として取り上げられるようになっていました。民主主義のリーダーだったはずのアメリカに、公正な民主主義がなかったのです。黒人たちの公民権を獲得するための活動が活発になります。68年に黒人の指導者マーチン・ルーサー・キング牧師(*2)が暗殺されると、各地で黒人による暴動が起きています。
戦後、輝かしい発展を続けてきたアメリカの社会は曲がり角に差し掛かっていたと言えます。案外と古く固定化されたアメリカ社会に若者たちが疑問を持ち始めたのです。
*1 南ベトナムのゲリラはベトコンと呼ばれていました。
*2 キング牧師の誕生日の1月15日は米国の記念日になっています。
フラワーチルドレン
そんな中で起きたのがフラワームーブメントと呼ばれたカウンターカルチャーです。「愛と平和」、「武器より花を」を叫ぶ若者たちが西海岸に集まり始めました。彼らフラワーチルドレンは現代文明を否定する自給自足の生活をするコンミューンの建設を行っています。彼らはヒッピーとも呼ばれました。
自由を求める彼らはLSDや大麻などのドラッグを愛好し、別の生き方を求めてインドへ修行に行ったりしていました。(*1)
当時のヒット曲では、ママス&パパスの「夢のカリフォルニア」、スコット・マッケンジーの「花のサンフランシスコ」などが、このフラワームーブメントを歌っています。
*1 伝記によるとスティーブ・ジョブスも影響を受けインドに行っています。
ビートルズ
こうしたムーブメントにビートルズも影響を受けています。というよりも、こうしたムーブメントの一翼を担っていました。
髪の毛が次第に長くなり、インドへも行っています。「サージェント・ペパーズ・ロンリー・ハーツ・クラブ・バンド」、「マジカル・ミステリー・ツアー」、「イエロー・サブマリン」などの作品にこうした影響をみてとることができます。
ビートルズの中でもジョン・レノンは、特に、こうしたムーブメントに影響を受けています。オノ・ヨーコと二人でベトナム戦争反対の活動を行っています。
野外音楽フェステバル
69年のウッドストックで開かれたロック・フェステバルは、アメリカの新しいムーブメントの頂点になりました。数十万人が集まったこのフェステバルは、フラワーチルドレンの解放区となりました。
ウッドストックに先行する67年のモンタレー・ポップ・フェステバルではジミ・ヘンドリックスやジャニス・ジョップリンの人気が高まり、この時代を象徴するミュージシャンになりました。しかし、二人とも70年に亡くなっています。
70年代に入るとフラワームーブメントは次第に退潮していきました。

東映ヤクザ映画

アメリカン・ニューシネマのように、日本でもATG(アート・シアター・ギルド)のような低予算で新しい映画を作る動きがありました。また、ピンク映画と呼ばれた低予算のエロ映画を撮っていた若松孝二監督の映画も一部の若者たちの支持を得ていました。
しかし、当時の日本の閉塞感を一番表現していたのが東映のヤクザ映画だと思います。理不尽な嫌がらせや妨害に耐えに耐えて、最後に立ち上がり殴りこみに行く主人公の姿は、当時の人たちの心情を代弁していました。また、学生運動の闘士たちは、そこに自分たちの姿を重ね合わせていたのだと思います。
 当時の代表的なヤクザ映画
 高倉健主演 昭和残侠伝シリーズ
 高倉健主演 網走番外地シリーズ
 藤純子主演 緋牡丹博徒シリーズ

日本の歌謡曲

学生運動も行き詰まりを見せていた69年頃には次のような暗い曲が流行りました。当時の閉塞感を表しています。
藤圭子「圭子の夢は夜開く」
園まりの「夢は夜開く」のカバーですが、「15、16、17と私の人生暗かった」とドスの利いた声で唄う藤圭子のこの曲は、当時のなんとも言えない暗さを表現していたように思います。
浅川マキ「夜が明けたら」
いつも黒い服を着て気だるく唄う浅川マキの歌も、当時のやるせなさを表現しています。
カルメン・マキ「時には母のない子のように」
後にロック歌手として活躍するカルメン・マキですが、寺山修司主催の劇団「天井桟敷」の在籍中の17歳の時に、この曲で歌手デビューしています。少し投げやりで物憂げに歌う美少女でした。
この曲の喪失感は当時の心情や雰囲気をよく表していると思います。
鶴田浩二「傷だらけの人生」
映画俳優の鶴田浩二が「何から何まで真っ暗闇よ」と唄いヒットしたこの曲も当時の閉塞感を表しています。

日本の閉塞感

日本の60年代の後半には、高度経済成長のひずみが現れてきました。「公害」と呼ばれた環境汚染がひどくなってきていました。
工場の排煙や自動車の排気ガスのせいで東京はスモッグに覆われていました。郊外から東京都心を見ると灰色のスモッグに覆われているのがハッキリと目視できました。
また、河川や東京湾には生活排水や工場排水のヘドロがたまっており魚も住めない状態でした。さらに、東京湾のゴミの埋立地にハエが大量発生し、埋立地自体が足らなくなってきていました。
住民運動
この頃、手狭になった羽田空港に代わる新国際空港建設の問題が持ち上がり、三里塚(成田)で土地の買収が始まりましたが、土地所有者の農民による反対運動が起きました。
計画を推進する政府公団側は強制的にでも土地を収用する方針でしたが、これを実力で阻止しようとする農民を、体を張って支援したのが学生運動の活動家たちでした。
この当時には、事実上、民主主義はなかったのです。政府の決めた計画は上意下達をもって実施されました。農民と話し合うような気はなかったと思います。一般市民が当時持っていた民主主義の権利は、せいぜい選挙での投票権でした。
また、北富士演習場の入会権をめぐって忍草でも体を張った住民運動が起きていました。さらに原子力発電所建設の反対運動なども始まっていました。
その他には水俣病、四日市喘息、イタイイタイ病で企業責任を問う反公害の運動も起きていました。
若者文化
60年代はアイビールック、コカコーラ、ジーパン、ハンバーガーなどのアメリカ文化が若者に浸透してきた時代です。この時代を象徴する週刊誌が平凡パンチです。実は、これ以前には大人用の服飾はあっても、若者用の洋服はありませんでした。同様に大人向けの週刊誌はあっても若者向けの雑誌はなかったのです。この頃に始めて若者文化が成立し、オジサンと若者が区別されるようになりました。
ビートルズ来日
66年にビートルズが来日し武道館で公演を行いました。この時、武道館を使うにあたって、それに反対する議論が巻き起こりました。「神聖な武道館で、わけのわからない長髪のロックグループが使うなど、とんでもない」と言う反対論です。
今では信じられないかもしれませんが長髪は不潔だとも言われました。実際に不潔かどうかではなく、見た目が不潔だと言うのです。しかも、当時のビートルズはマッシュルーム・カットで、たいして長くもない髪型でした。
若者に不寛容な大人が多かった時代です。問答無用的な年寄りの意見が通った時代です。そこには、話し合いを行うような民主主義はありませんでした。
ヒッピー文化
アメリカのフラワームーブメントの影響は、日本でもありました。一部にはコンミューンを作る動きもあったようですが、もちろん成功はしなかったようです。
しかし、長髪にジーパンの若者が増え、新宿駅前の芝生で一夜を明かす人たちも出てきました。住所不定でフーテンと呼ばれた彼らの寝泊りした新宿駅前の芝生は新宿グリーン・ハウスと呼ばれていました。
また、一部ではLSD、大麻などのドラッグも流行っていたようです。
アングラ芝居
60年代末の日本の文化的な状況を語るうえで欠かせないのが、アングラ芝居です。商業的な従来の演劇に対抗する実験的な小劇団の活動が始まりました。唐十郎の状況劇場が新宿の花園神社に紅テントを建て公演していました。また、寺山修司の天井桟敷も人気がありました。現在につながる演劇活動がこのころ始まっています。
天井桟敷に参加していた横尾忠則がポスターを製作し始めたのもこの頃です。アメリカのカウンターカルチャーの影響を受けたサイケデリックな作品を多く作っていました。
反戦フォーク
アメリカの反戦フォーク/プロテスト・ソングも60年代末に日本に入って来ました。PPM(ピーター、ポール&マリー)、ジョーン・バエズ、ボブ・ディランなどが人気でした。メロディーの美しいポップソングとしてうけた部分もありましたが、内容的にはカウンターカルチャーの反戦ソングでした。
アコースティック・ギターだけで演奏し歌う手軽なスタイルのため、日本でもフォーク歌手がヒット曲を出すようになってきました。森山良子、岡林信康、高石ともや、高田渡、フォーククルセダーズ(加藤和彦、北山修、はしだのりひこ)などが人気でした。もちろん、彼らの多くは長髪でジーパンという当時のスタイルです。
新宿の西口広場では、反戦フォークの街頭ライブが行われ多くの観客を集めていましたが、当局に眼をつけられ禁止されることになり、機動隊が出動する騒ぎが起きていました。西口広場は、この時から西口通路と名前を変えられてしまいました。
禁止されてもゲリラ的にライブは続けられ、彼らはフォークゲリラと呼ばれました。当時盛り上がっていた反戦活動、反体制運動の一環でした。
反戦デモ
この当時、アメリカのベトナム戦争に反対する動きは日本でも盛り上がっていました。日本も無関係ではなかったのです。国内の米軍基地、特に沖縄の米軍基地はベトナム戦争の後方支援基地となっていたからです。そのため日米安保条約改定の時期である70年を前に安保反対の運動も盛んになってきていました。
ベトナム戦争に反対する反戦活動は、新左翼と呼ばれた学生運動の活動家が中心でしたが、一般市民も反戦活動に参加すべく、ベ平連(ベトナムに平和を市民連合)が結成され活動していました。学生運動の活動家はヘルメットを被っていたので、そのデモに一般市民は参加しにくかったのです。
学生運動
ベトナム戦争に反対する反戦運動の一方、多くの大学の学内で学園紛争が起きていました。その多くは民主化要求の闘争でした。
日大で強権的な支配を行っていた古田会頭の不正問題を追及するため、クラス単位、学部単位の闘争委員会が結成され、それを統合する全学共闘委員会が組織されました。唯一成功したと言ってよい全共闘です。また、東大では医学部のインターン制度などをめぐって紛争が起きていました。その他の大学でも学費の値上げなどで学生の反対運動が起きていました。
大学においても、当時は民主主義的な雰囲気はなく、学生の意見を大学経営に取り入れるようなことはありませんでした。大学の経営陣は決めたことを押し付けるのが、当たり前の時代でした。民主的な知識人だったはずの教官たちも学生たちの信頼を得られるような存在ではありませんでした。口先だけで無様な姿をさらす教官たちが多かったのです。
そのため、学生たちは次第に先鋭化し、学生運動の活動家たちはヘルメットとゲバ棒(角材)で武装し、大学をバリケード封鎖する闘争をくりひろげました。一方、大学側は、当初は大学自治を理由に警察権力の導入に慎重でしたが、バリケード封鎖を解除するために機動隊による紛争鎮静化を行うしかありませんでした。そして、警察機動隊の催涙ガスや放水車を使った実力行使に対し、学生側の火炎瓶や投石による攻撃が行われることになりました。ピークは東大の安田講堂の攻防だったと思います。
結果として学園紛争は沈静化され大学は「正常化」されて行きます。大学側も大規模な紛争に懲りて、その後、少しずつ「民主化」されていきました。
新左翼
60年代末のベトナム反戦運動、学園紛争の闘いの中心を担ったのは、新左翼と呼ばれた活動家たちでした。旧来の共産党、社会党などとは一線を画した過激な抵抗運動を繰り広げた彼らは過激派とも呼ばれました。単なる抗議活動では解決しないため、ゲバ棒、投石、火炎瓶で武装し、警察権力にも抵抗しました。警察側もヘルメットやジュラルミンの盾で武装し、催涙ガス弾や放水車で攻撃するようになりました。
新左翼には多くの党派があり組織され機関紙を発行していました。また、党派毎にヘルメットの色が違っていました。
中核派(革命的共産主義者同盟中核派) 白ヘル
解放派(社会主義青年同盟解放派) 青ヘル *1
フロント(社会主義学生戦線) 緑ヘル
ML派(共産主義者同盟マルクスレーニン主義派) 赤地に白のモヒカン
第4インター(第4インターナショナル日本支部) 赤ヘル
共産同(共産主義者同盟)の各派 赤ヘル *2
ノンセクト(無党派)、アナキスト 黒ヘル
 *1 後に革労協(革命的労働者協会)を名乗る。
 *2 通称ブント。戦旗派、叛旗派、情況派など各派があった。
新左翼の各派は協力関係にあり、共同して集会、デモなどの活動を行っていましたが、これに反目する党派もありました。
革マル派(革命的共産主義者同盟革命的マルクス主義派)
かつては新左翼の一翼を担った最大セクト(党派)だったが、機動隊とのゲバルト(実力行動)を避けるようになり、他のセクトとの協力関係を失っていき、むしろ主導権をめぐって反目するようになっていきました。
国鉄の動労などにも大きな勢力を持っていました。ヘルメットの色は白です。
民青(民主青年同盟)
共産党の下部組織で新左翼とは対立していました。東大紛争では黄色のヘルメットと樫棒で武装し全共闘側と対峙していたようです。
協会派(社会主義青年同盟協会派)
組織としてはあったようですが街頭行動などでは、あまり見かけませんでした。社会党の下部組織です。
赤軍派
新左翼の各派は共産主義革命を標榜しゲバ棒、投石、火炎瓶で戦いましたが、圧倒的な力を持つ機動隊にかないませんでした。そこで、本格的な武力を指向する人たちも現れてきました。たとえば共産同(共産主義者同盟)系の地下組織RG(エルゲー)は爆弾テロを実行していたようです。
そんな中で、本格的な武力革命を指向して活動を始めたのが共産同赤軍派です。構成人数は多くなかったはずです。表にはほとんど出てきませんでした。
赤軍派の起こした大きな事件の最初はよど号ハイジャック事件です。田宮高麿らのグループは、この事件で海外での拠点作りを目指して北朝鮮に渡りました。
また、重信房子らのグループはパレスチナに渡りPFLP(パレスチナ解放戦線)に協力したようです。このグループは72年にイスラエルのテルアビブで銃の乱射事件を起こし多くの死傷者を出しています。この事件で捕まった岡本公三はアラブ社会では英雄視されたようです。その後も、このグループはハイジャック事件などを起こしています。
連合赤軍
日本に残った赤軍派は、共産党左派神奈川県委員会を名乗る労働者組織の京浜安保共闘と合流し連合赤軍を結成します。彼らは交番や銃砲店を襲い武器を調達し群馬の山中に山岳基地の建設を目指します。しかし、日本には、そんな彼らをかくまうような環境もなく、間もなく警察に見つかり浅間山荘事件を起こします。
そして、彼らが山中を彷徨っていた時に、グループ内での主導権争いなどで凄惨なリンチ殺人事件を起こしていたことが発覚します。
新左翼の退潮
新左翼の各派が大きな闘争目標にしていた70年の日米安保条約の延長阻止が失敗に終わると、その活動は次第に低迷していきます。そして、連合赤軍の一連の事件が発覚してからは、新左翼の勢力は次第に減少していきました。
やがて、60年代末のカウンターカルチャーの盛り上がりも消滅していきました。フォーソングも反戦を歌うのではなく、内向的な歌が増えていきました。

60年代後半のテレビで「大きいことはいいことだ」というキャッチフレーズのチョコレートのCMが流れていました。高度成長期を代表するようなCMです。 その後、70年に「モーレツからビューティフルへ」という富士ゼロックスのテレビCMが流されます。「オー・モーレツ」という60年代を象徴するような石油会社のCMを受けたものでした。
70年代に入って潮目は大きく変わって行ったように思います。三里塚や学生運動の影響か、何か事あれば直ぐに住民運動が始まるようになってきました。また、学生運動に懲りたのか、大人たちの強権的な押し付けも無くなっていったように思います。そして、家庭内も民主化され父親の権威も次第に落ちて行きます。

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参考文献
「スティーブ・ジョブスT」ウォルター・アイザックソン 講談社
「突破者 戦後史の陰を駆け抜けた五〇年」宮崎学 南風社
「東大落城 安田講堂攻防七十二時間」佐々淳行 文芸春秋

2011.11.25 野沢 清 kiyoshi_nozawa@yahoo.co.jp