歴史における三世代(継体天皇〜天智天皇)

江戸時代の有名な川柳に「売家と唐様に書く三代目」というのがあります。一代目が苦労して始めた商売を二代目が発展させ三代目が潰してしまう。唐様に「売家」と書いてある貼紙に三代目の趣味と教養が偲ばれるというお話です。
歴史上の政権にも同じようなことが言えるのではないかと思います。政権の第一世代が建設した新体制を第二世代が発展させますが、第三世代が潰してしまう。そんな傾向があるように思います。今回は古代の歴史を検証してみたいと思います。
古代史については文献が少なく古事記や日本書紀に頼ることになりますが、神話や伝説が多く、どこまでが史実か分からない部分があります。そのため、確かなことが分かっているらしい継体天皇以降を対象としたいと思います。
なお、史実として疑わしいとされる聖徳太子やその事跡、大化の改新、天智天皇時代の近江令などは除外してあります。

継体王朝前期(507〜592)

第一世代(507〜531) 建設期

継体天皇(450〜531)在位(507〜531)応神天皇の五世孫
日本書紀に悪逆非道の天皇と書かれている武列天皇の後を継いだのは、応神天皇の五世孫と云われる継体天皇です。おそらく王朝の交代があったのだと思われます。この頃、九州で磐井の乱が起きていますが無事に平定されたようです。
年表
 513百済五経博士来日
 527磐井の乱
主要人物
 物部麁鹿火( ? 〜536)大連
 大伴金村 ( ? 〜 ? )大連
第二世代(531〜571)発展期
安閑天皇(466〜535)在位(531〜535)継体天皇の子
宣化天皇(467〜539)在位(535〜539)継体天皇の子
欽明天皇(509〜571)在位(539〜571)継体天皇の子
安閑天皇と宣化天皇の治世は短期間で終りましたが、欽明天皇の在位は32年続きました。
欽明天皇の代に百済から仏教が伝わってきます。これ以後、仏教をめぐって崇仏派の蘇我氏と排仏派の物部氏の対立が続きます。
なお、後の天皇の用明・崇峻・推古は蘇我稲目の娘が産んでいます。つまり蘇我稲目の孫にあたります。
年表
 552百済聖明王が仏像、経論を献ず
 562任那日本府滅亡
主要人物
 蘇我稲目 (506〜570)大臣
 物部尾輿 ( ? 〜 ? )大連
 大伴金村 ( ? 〜 ? )大連
第三世代(571〜592)混乱期
敏達天皇(538〜585)在位(572〜585)欽明天皇の子
用明天皇(540〜587)在位(585〜587)欽明天皇の子
崇峻天皇( ? 〜592)在位(587〜592)欽明天皇の子
敏達天皇の時代には蘇我氏と物部氏の対立が激化しますが、用明天皇の後継をめぐった争いで物部氏は蘇我氏によって滅ぼされてしまいます。これ以降は仏教が盛んになっていきます。
なお、蘇我馬子に推されて天皇になった崇峻天皇ですが、叔父にあたる蘇我馬子に殺されてしまいます。
年表
 587穴穂部皇子、宅部皇子殺される
 587物部氏滅亡
 587法興寺建立発願
 592崇峻天皇殺害
主要人物
 蘇我馬子 (550〜626)大臣、蘇我稲目の子
 物部守屋 ( ? 〜587)大連
 穴穂部皇子( ? 〜587)欽明天皇の子、蘇我稲目の孫
 宅部皇子 (539〜587)宣化天皇の子

継体王朝後期(507〜672)

第一世代(592〜628)建設期

推古天皇(554〜628)在位(592〜628)敏達天皇の皇后
蘇我馬子に殺された崇峻天皇の後を継いだのは敏達天皇の皇后だった推古天皇です。推古天皇も蘇我稲目の孫にあたります。崇峻天皇を殺害した蘇我馬子は、そのまま大臣として活躍しています。
この頃、四天王寺や法隆寺が建立され仏教の振興が推進されます。遣隋使で留学僧を派遣し中国の文化を取り入れた時代で飛鳥文化が栄えました。また、冠位十二階が定められ官僚制度が整備されました。
年表
 593四天王寺建立
 600新羅遠征
 603冠位十二階
 607遣隋使小野妹子
 607法隆寺建立
主要人物
 蘇我馬子 (550〜626)大臣、蘇我稲目の子
第二世代@(629〜641)発展期
舒明天皇(593〜641)在位(629〜641)敏達天皇の孫
推古天皇の時代に続き仏教が振興され、遣唐使が派遣された時代です。大臣には蘇我蝦夷が就任しています。
年表
 630遣唐使
 642百済大寺建立
主要人物
 蘇我蝦夷 ( ? 〜645)大臣、蘇我馬子の子
第二世代A(641〜661)混乱期
皇極天皇(594〜661)在位(642〜645)舒明天皇の皇后
舒明天皇が亡くなった後は、皇后だった皇極天皇が即位しています。大臣は蘇我蝦夷ですが、子の入鹿に交代したのかもしれません。
この時代に乙巳の変が起きています。中大兄皇子らが少人数で儀式の最中に蘇我入鹿を暗殺したこの事件は、クーデターというよりはテロだと思います。この事件の後、稲目、馬子、蝦夷、入鹿と続いた蘇我本宗家は滅ぼされてしまいました。蘇我本宗家の三代目、四代目の蝦夷、入鹿は調子の乗りすぎたのかもしれません。
年表
 643山背大兄王、襲われ自害
 645乙巳の変、蘇我本宗家滅亡
主要人物
 蘇我蝦夷  ( ? 〜645)大臣、蘇我馬子の子
 蘇我入鹿  ( ? 〜645)大臣?、蘇我馬子の孫
 山背大兄皇子( ? 〜643)用明天皇の孫
 古人大兄皇子( ? 〜645)舒明天皇の子、蘇我馬子の孫
 中大兄皇子 (626〜672)舒明・皇極夫妻の子、後の天智天皇
 中臣鎌足  (614〜669)
孝徳天皇(596〜654)在位(645〜654)敏達天皇の曾孫
乙巳の変で皇極天皇は退位しますが、中大兄皇子は若すぎたためか天皇にはなれず、孝徳天皇が即位します。
この時代には渟足柵や磐舟柵が設置されるなど、北方の開発が始められています。
天皇は都を難波宮に移しますが、晩年には中大兄皇子や皇極上皇らは飛鳥に帰ってしまい、天皇は寂しく難波宮で亡くなっています。
年表
 645難波宮に遷都
 647渟足柵
 647七色十三階の冠位
 649冠位十九階
 653遣唐使
主要人物
 中大兄皇子 (626〜672)後の天智天皇
 阿倍内麻呂 ( ? 〜649)左大臣
 蘇我石川麻呂( ? 〜649)右大臣
 巨勢徳太  ( ? 〜658)左大臣
 大伴長徳  ( ? 〜651)右大臣
斉明天皇(594〜661)在位(655〜661)舒明天皇の皇后、重祚
孝徳天皇の後は皇極上皇が斉明天皇として再び即位しています。この時もなぜか中大兄皇子は天皇になれませんでした。
この時代にも阿部比羅夫が蝦夷遠征を行うなど北方開発が行われています。
660年には新羅・唐に攻撃された百済が日本に救援を要請してきます。このための出撃準備中に斉明天皇は亡くなってしまいます。
年表
 655飛鳥板蓋宮で即位
 658阿部比羅夫の蝦夷遠征
 658有間皇子が謀反の疑いで処刑
 659遣唐使
 660百済から救援要請
主要人物
 中大兄皇子 (626〜672)斉明天皇の子、後の天智天皇
 巨勢徳太  ( ? 〜658)左大臣
 蘇我赤兄  ( ? 〜 ? )蘇我馬子の孫
 有間皇子  (640〜658)孝徳天皇の子
第三世代(661〜671)動乱期
天智天皇(626〜671)称制(661〜668)舒明天皇の子
天智天皇(626〜671)在位(668〜671)舒明天皇の子
斉明天皇が亡くなった後、息子の中大兄皇子は即位せずに政権を運営しています(称制)。百済救援が忙しかったのかもしれません。しかし、百済救援軍は白村江の戦いで大敗北を喫します。
唐の攻撃を恐れた天皇は九州に防人を配置し防備を固めます。また、防衛のためか都を大阪湾から遠い近江大津宮に移します。
670年には戸籍を整備しています。徴税の目的もあるでしょうが、徴兵の目的もあったかもしれません。
671年に天智天皇が亡くなると息子の大友皇子が皇位を継いだと思われますが日本書紀には記述はありません。明治になってから弘文天皇として諡号を贈られています。
天智天皇が亡くなった翌年に出家していた弟の大海人皇子が吉野から伊勢経由で蜂起し近江朝を襲い政権を奪取します。壬申の乱です。この後、大海人皇子は即位し天武天皇となります。また、天智天皇の重臣たちは粛清され一掃されています。
年表
 661中大兄皇子称制
 663白村江の戦い
 664冠位二十六階
 668近江大津宮に遷都、即位
 670庚午年籍(戸籍制度)
 671天智天皇崩御
 672壬申の乱
主要人物
 大友皇子 (648〜672)太政大臣、天智天皇の子
 蘇我赤兄 ( ? 〜 ? )左大臣、蘇我馬子の孫
 中臣金  ( ? 〜672)右大臣
 中臣鎌足 (614〜669)内大臣、改姓して藤原鎌足
 大海人皇子( ? 〜686)天智天皇の弟、後の天武天皇

中大兄皇子(天智天皇)について

中大兄皇子は乙巳の変で蘇我本宗家を滅亡に追い込みましたが、皇子と蘇我氏の対立点は何だったのでしょうか?
蘇我氏は仏教を導入し推進してきました。中大兄皇子は、これに反対する立場だったのではないでしょうか。皇子の相棒の中臣鎌足は、物部氏と同様に神事を司る家系の出身です。また、乙巳の変以降は大きな仏教寺院の建築は途絶えています。
また、蘇我氏の時代には遣隋使、遣唐使を派遣し仏教とともに唐の文化を取り入れたものと思います。一方、中大兄皇子は唐・新羅軍と戦うため百済救援軍を出し白村江で大敗を喫しています。しかも、その後は唐の来襲に備えて北九州に防人を配置し、都を大津に移しています。中大兄皇子は親百済・反唐の立場だったのではないでしょうか。たぶん、中大兄皇子はナショナリストだったのだと思います。
壬申の乱で大海人皇子(天武天皇)が政権を取った後は、再び仏教が盛んになり、唐の文化を取り入れています。天智天皇と天武天皇の対立点も同じようなところに在ったのではないでしょうか。

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参考文献
「古事記」倉野憲司校注 岩波文庫
「日本古典文学大系 日本書紀」坂本太郎他校注 岩波書店
「別冊歴史読本 歴代天皇・皇后総覧」新人物往来社
「<聖徳太子>の誕生」大山誠一 吉川弘文館
「聖徳太子はいなかった」矢沢永一 新潮新書
「蘇我氏の古代史」武光誠 平凡社新書
「謎の豪族 蘇我氏」水谷千秋 文春新書
「謎の大王 継体天皇」水谷千秋 文春新書
「日本書紀はなにを隠してきたか」遠山美都男 洋泉社
「物部氏の伝承」畑井弘 講談社学術文庫
「飛鳥の都」吉川真司 岩波新書
「伊勢神宮の謎を解く」武澤秀一 ちくま新書
「蝦夷の古代史」工藤雅樹 平凡社新書
「偽りの大化改新」中村修也 講談社現代新書
「日本書紀の謎を解く」森博達 中公新書
「壬申の乱」遠山美都男 中公新書
「日本史小事典」坂本太郎 山川出版社

2011.4.27 野沢 清 kiyoshi_nozawa@yahoo.co.jp