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歴史における三世代(南北朝・室町時代)
江戸時代の有名な川柳に「売家と唐様に書く三代目」というのがあります。一代目が苦労して始めた商売を二代目が発展させ三代目が潰してしまう。唐様に「売家」と書いてある貼紙に三代目の趣味と教養が偲ばれるというお話です。
南北朝時代(1336〜1392)
南朝
後醍醐天皇(1288〜1339)在位(1318〜1339)後宇多天皇の子
天皇親政を目指す後醍醐天皇は、正中の変や元弘の乱の失敗にもめげず鎌倉幕府の打倒に邁進します。そして、足利高氏(尊氏)の協力を得て、ようやく幕府を滅亡に追い込み「建武の新政」を実現します。
しかし、天皇の政策は武家の支持を得られず足利尊氏と対立します。後醍醐天皇側は京都に攻め入った足利尊氏を一度は撃退しますが、後の湊川の戦いで破れて天皇は幽閉されてしまいます。 その後、天皇は京都を脱出し吉野に逃れ南朝を開きました。一方の足利尊氏は光厳上皇の協力を得て後醍醐天皇を廃立し光明天皇を即位させています。 後醍醐天皇は京都回復を目指しますが、果たせず亡くなってしまいました。 年表 1324正中の変 日野資朝、佐渡へ流罪 1331元弘の乱 護良親王、楠木正成ら挙兵 1332後醍醐天皇、隠岐に配流 1332楠木正成、千早城で挙兵 1333足利高氏、幕府に反旗 1333鎌倉幕府滅亡 1334護良親王流罪 1336湊川の戦い 1336後醍醐天皇、吉野に移る 1338足利尊氏、征夷大将軍 主要人物 護良親王 (1308〜1335)後醍醐天皇の子、征夷大将軍 成良親王 (1326〜1344)後醍醐天皇の子、征夷大将軍 足利尊氏 (1305〜1358)室町幕府の初代将軍 楠木正成 (1294〜1336)南朝方の武将 新田義貞 (1301〜1338)南朝方の武将
第二世代 継承期
後村上天皇(1328〜1368)在位(1339〜1368)後醍醐天皇の子
後醍醐天皇の後は息子の後村上天皇が継ぎました。南北の争いは続きましたが、幕府内の対立で足利尊氏の弟の足利直義が南朝側に寝返り(観応の擾乱)、南朝側有利で戦いが進み、足利尊氏が降伏することで一時的に南北朝が合一されました(正平一統)。
しかし、南朝軍が京都に攻め入り三上皇を連れ去ったことで、南北朝の対立は元に戻ってしまいました。 その後、南朝軍は何度か京都に攻め入りましたが、退勢を挽回することはできませんでした。 年表 1350観応の擾乱、足利直義が南朝に帰順 1351正平一統 1352南朝軍入京(閏二月)、三上皇拉致 1353南朝軍入京(六月) 1354北畠親房、死亡 1355南朝軍入京 1358足利尊氏、病死 1358足利義詮、征夷大将軍 1361南朝軍入京 1363大内氏・山名氏、幕府に帰参 主要人物 足利尊氏 (1305〜1358)室町幕府の初代将軍 足利直義 (1306〜1352)足利尊氏の弟 宗良親王 (1311〜1385)後醍醐天皇の子、征夷大将軍(南朝) 懐良親王 ( ? 〜1383)後醍醐天皇の子、征西大将軍(南朝) 北畠親房 (1293〜1354)公卿、南朝方の指導者
第三世代 衰退期
長慶天皇 (1343〜1394)在位(1368〜1383)後村上天皇の子
長慶天皇は後村上天皇の嫡子です。天皇は北朝への抗戦を行いましたが楠木正儀の和平の動きもあり劣勢の挽回はなりませんでした。
年表 1368足利義満、征夷大将軍 1369楠木正儀、足利義満に降る 主要人物 足利義満 (1358〜1408)室町幕府第三代将軍、足利尊氏の孫 楠木正儀 ( ? 〜1389)楠木正成の子
後亀山天皇( ? 〜1424)在位(1383〜1392)後村上天皇の子
長慶天皇の後を継いだ後亀山天皇は公武の統合による和平を望んでいました。そして、足利義満との交渉の結果、和平合一が成り南朝は終焉することになりました。
年表 1392南北朝合一 主要人物 足利義満 (1358〜1408)室町幕府第三代将軍、足利尊氏の孫
北朝
第一世代 光厳天皇 (1313〜1364)在位(1331〜1333)後伏見天皇の子
光厳天皇は鎌倉幕府の時代に、後醍醐天皇が元弘の乱で出奔したことで即位しました。しかし、足利尊氏軍に捕らえられ廃立させられています。
年表 1333鎌倉幕府滅亡
光明天皇 (1321〜1380)在位(1336〜1348)後伏見天皇の子
光明天皇は足利尊氏の要請により即位しました。北朝初代の天皇です。
年表 1338足利尊氏、征夷大将軍
第二世代
崇光天皇 (1334〜1398)在位(1348〜1351)光厳天皇の子
崇光天皇は光明天皇の後を継ぎ即位しましたが、正平一統で南北朝の合一が成立したため廃立に追い込まれています。
天皇は退位後、南朝により光厳上皇、光明上皇、直仁廃太子とともに拉致され幽閉されています。北朝が二度と天皇を立てられないようにする南朝の策略でした。 年表 1351正平一統、崇光天皇退位 1352南朝軍入京(閏二月)、三上皇拉致
後光厳天皇(1338〜1374)在位(1352〜1371)光厳天皇の子
三上皇と廃太子が拉致されたため急遽即位したのが15歳の後光厳天皇です。
天皇は、南朝軍の攻撃により何度か京都から逃げなければなりませんでした。 年表 1353南朝軍入京(六月) 1355南朝軍入京 1357三上皇帰京 1358足利義詮、征夷大将軍 1361南朝軍入京 1368足利義満、征夷大将軍
第三世代
後円融天皇(1358〜1393)在位(1371〜1382)後光厳天皇の子
後光厳天皇の後を継いだのは息子の後円融天皇です。将軍義満の介入で敗北と譲歩を重ねて失意と屈辱にまみれたとも言われています。
後小松天皇(1377〜1443)在位(1382〜1412)後円融天皇の子
後小松天皇は5歳で即位しています。将軍義満が補佐したようです。また、このころ将軍義満は大皇太后、皇太后、皇后に准ずる准三后に任ぜられています。
南北朝の合一が成立すると、天皇は南朝の後亀山天皇から神器を受け取り正式な第100代天皇になりました。 年表 1383足利義満、准三后 1392南北朝合一 室町時代 前期(1338〜1443)
第一世代(1338〜1358) 建設期
鎌倉幕府が滅亡すると後醍醐天皇による建武の新政が始まりました。しかし天皇による独裁政治は武家には不評で、源氏の名門の出である足利尊氏が後醍醐天皇と対立します。
戦乱の後、勝利した足利尊氏は入京し、建武式目を定め光明天皇を立てて幕府を開きます。後醍醐天皇は幽閉されますが、京都を脱出し吉野で南朝を開く格好になりました。 南北朝の戦いは止みませんでしたが、幕府側の内乱(観応の擾乱)により足利尊氏は南朝に降り一時的に南北朝の統一(正平一統)が成ります。しかし、南朝軍が京都を奪回し三上皇を連れ去ったことにより南北の和は破れてしまいました。 年表 1333鎌倉幕府滅亡 1336後醍醐天皇、吉野に移る 1336建武式目 1338足利尊氏、征夷大将軍 1339後醍醐天皇崩御 1350観応の擾乱、足利直義が南朝に帰順 1351正平一統 1352南朝軍入京(閏二月)、三上皇拉致 1353南朝軍入京(六月) 1354北畠親房、死亡 1355南朝軍入京 1357三上皇帰京 主要人物 後醍醐天皇(1288〜1339)南朝在位(1318〜1339) 後村上天皇(1328〜1368)南朝在位(1339〜1368) 光明天皇 (1321〜1380)北朝在位(1336〜1348) 崇光天皇 (1334〜1398)北朝在位(1348〜1351) 後光厳天皇(1338〜1374)北朝在位(1352〜1371) 足利直義 (1306〜1352)足利尊氏の弟 楠木正成 (1294〜1336)南朝方の武将 新田義貞 (1301〜1338)南朝方の武将 北畠親房 (1293〜1354)公卿、南朝方の指導者
第二世代(1358〜1367)継承期
足利義詮(1330〜1367)在位(1358〜1367)足利尊氏の子
南北朝の戦いが決着しないまま、足利尊氏は病気で亡くなってしまい、息子の足利義詮が第二代将軍に就きます。
義詮は管領・斯波義将の協力を得て、南朝方の大内氏・山名氏を帰参させることに成功します。北朝側が次第に優位になってきます。 年表 1361南朝軍入京 1363大内氏・山名氏、幕府に帰参 主要人物 懐良親王 ( ? 〜1383)後醍醐天皇の子、南朝征西大将軍 斯波義将 (1350〜1410)管領 細川頼之 (1329〜1392)管領
第三世代(1367〜1394) 絶頂期
足利義満(1358〜1408)在位(1367〜1394)足利義詮の子
将軍義詮は息子の義満に将軍職を譲るとまもなく病没してしまいます。義満は10歳で将軍に就任しました。将軍を補佐したのは管領の細川頼之です。
義満の時代には室町幕府の勢力が次第に安定し、南北朝合一をようやく達成します。
義満は臣下でありながら皇族と同等の待遇となる准三后に任ぜられています。さらに、義満は正室の日野康子を後小松天皇の准母(仮の母または代理の母)にしています。つまり、義満自身も「准父」になります。義満には皇位簒奪の意図があったとも言われています。また、明に対しては国王を名乗っています。 年表 1369楠木正儀、足利義満に降る 1383義満、准三后 1391明徳の乱 1392南北朝合一 主要人物 後亀山天皇( ? 〜1424)在位(1383〜1392) 後小松天皇(1377〜1443)在位(1392〜1412) 細川頼之 (1329〜1392)管領 細川頼元 (1343〜1397)管領 斯波義将 (1350〜1410)管領 今川貞世 (1326〜 ? )九州探題
第四世代(1367〜1394) 絶頂期〜凋落期
足利義持(1386〜1428)在位(1394〜1423)足利義満の子
義持は8歳で将軍になりましたが、太政大臣となった義満が相変わらず実権を持ち続けていました。義満が亡くなっても、大きな戦乱もなく比較的に安定した時代が続きました。
しかし、後の混乱の原因となる波乱は起きています。義満の存命時代には守護大名の大内義弘が反乱を起こし滅ぼされています(応永の乱)。 また、義満が亡くなってからは前関東管領の上杉禅秀(氏憲)が反乱を起こし鎌倉公方の足利持氏らによって平定されています(上杉禅秀の乱)。この乱では義持の弟の義嗣が連座したとして殺害されています。 年表 1397金閣寺創建 1399応永の乱 1404勘合貿易 1408足利義満死去 1416上杉禅秀の乱 主要人物 足利義満 (1358〜1408)前将軍、太政大臣 斯波義将 (1350〜1410)管領 大内義弘 (1356〜1400)守護大名 足利義嗣 (1394〜1418)足利義持の弟 上杉禅秀 ( ? 〜1417)関東管領 足利持氏 (1398〜1439)鎌倉公方
足利義量(1407〜1425)在位(1423〜1425)足利義持の子
義量は義持の子です。16歳で将軍に就任しましたが2年ほどで病没しています。
足利義教(1394〜1441)在位(1428〜1441)足利義満の子
義量の後は義持の弟が将軍に就任しました。義持は後継を決めずに亡くなっていたため、群臣が協議してクジ引きで義教に決まったようです。しかし、後年、義教は強権的な強い将軍を目指します。
鎌倉公方の足利持氏が乱(永享の乱)を起こしますが、これは義教によって征討されています。しかし、嘉吉の乱で将軍義教は守護大名赤松満祐によって殺されてしまいます。将軍義教の厳しい抑圧に追い詰められた赤松満祐の反撃だったようです。 年表 1439永享の乱 1441嘉吉の乱 主要人物 足利持氏 (1398〜1439)鎌倉公方 赤松満祐 (1381〜1441)守護大名 日野重子 (1411〜1463)側室、義勝・義政の母
足利義勝(1434〜1443)在位(1442〜1443)足利義教の子
義教の後を継いだのは息子で9歳の義勝ですが8ヶ月で亡くなっています。
室町時代 後期(1443〜1573) 戦国時代
第一世代(1443〜1473) 動乱期
義政は13歳で正式に将軍になりました。
義政に嫡子がいなかったため弟の足利義視を還俗させ次期将軍に決めましたが、正室の日野富子に義尚が誕生したため次の将軍は、この義尚となります。この跡目争いも今後の争乱を象徴する出来事です。 応仁・文明の乱は管領家で有力守護大名である斯波氏の家督争いがきっかけです。各大名の領国争いもあり東西に分かれての大規模で長期間の合戦になりました。 将軍の義政は、この戦乱を治める権威も権力もなく、せいぜい調停を行うしかありませんでした。 年表 1467応仁・文明の乱 主要人物 日野富子 (1440〜1496)正室 足利義視 (1439〜1491)足利義政の弟、将軍継嗣 細川勝元 (1430〜1473)管領、応仁の乱の東軍総大将 山名宗全 (1404〜1473)守護大名、応仁の乱の西軍総大将
第二世代(1473〜1521) 混乱期
足利義尚(1465〜1489)在位(1473〜1489)足利義政の子
足利義政は8歳の義尚に将軍職を譲りましたが、実権は持っていました。
応仁・文明の乱が終息しても勢力争いはなくならず、将軍義尚は近江守護の六角氏を討伐しています。義尚は、この六角征伐の最中に亡くなっています。 年表 1477応仁・文明の乱終息 1487六角征伐(長享・延徳の乱) 主要人物 畠山政長 (1442〜1493)管領
足利義材(1466〜1523)在位(1490〜1493)足利義視の子
亡くなった将軍義尚の後を継いだのは、一時は将軍継嗣となった足利義視の息子の足利義材です。
1493年に将軍義材は畠山基家の討伐に向かいますが、その間に細川政元や日野富子はクーデターを起こし将軍義材を捕らえ足利義澄を新将軍に据えます(明応の政変)。将軍の権威も権力も崩壊してしまっています。 年表 1493明応の政変 主要人物 細川政元 (1466〜1507)管領、細川勝元の子 日野富子 (1440〜1496)足利義政の正室
足利義澄(1481〜1511)在位(1494〜1508)足利義政の養子
義澄を将軍にした細川政元は家督争いで暗殺されてしまいます(永正の錯乱)。
これをきっかけに幽閉されていた前将軍の足利義材(義稙と改名)は大内義興に伴われ入京し再び将軍となります。将軍義澄は放逐されてしまいました。
年表 1507永正の錯乱 主要人物 細川政元 (1466〜1507)管領、細川勝元の子 大内義興 (1477〜1529)守護大名
足利義稙(1466〜1523)在位(1508〜1521)足利義材、復職
義稙は将軍に就きましたが争いは続きました。しかし、新将軍側の細川高国と大内義興は、前将軍義澄を擁立した細川澄元を船岡山の合戦で破りました。この合戦の間に前将軍の足利義澄は病死しています。
その後、将軍義稙は管領細川高国と対立したため出奔してしまいます。そのため、次期将軍には前将軍足利義澄の遺児である足利義晴が立てられました。 年表 1511船岡山合戦 主要人物 細川高国 (1484〜1531)管領、細川政元の養子 大内義興 (1477〜1529)守護大名 細川澄元 (1489〜1520)守護大名
第三世代(1521〜1546) 没落期
足利義晴(1511〜1550)在位(1521〜1546)足利義澄の子
義晴は10歳で将軍に就きました。しかし、その在職はつらいものになりました。
細川氏の内紛で管領・細川高国と対立する細川晴元が桂川原の戦いで勝って入京すると将軍義晴は細川高国と近江に逃れました。その後、将軍義晴側は一時的に京都を奪還することはあっても長続きはしませんでした。 結局、将軍義晴は細川晴元と和睦し、嫡男義輝に将軍職を譲り引退しています。 年表 1527桂川原の戦い 主要人物 細川高国 (1484〜1531)管領、細川政元の養子 細川晴元 (1514〜1563)管領、細川澄元の子
第四世代(1546〜1573) 終焉期
足利義輝(1536〜1565)在位(1546〜1565)足利義晴の子
義輝は11歳で将軍に就任しました。しかし、実権は管領・細川氏綱の家臣の三好長慶らに握られていました。それでも義輝は将軍の権威復活を目指し戦国大名の調停を行っています。
権力者の三好長慶が亡くなると、三好三人衆と松永久秀は、新将軍として足利義栄を奉じて謀反を起こします。これにより将軍義輝は殺害されてしまいました(永禄の変)。 年表 1565永禄の変 主要人物 細川晴元 (1514〜1563)管領、細川澄元の子 細川氏綱 (1514〜1564)管領、細川高国の養子 三好長慶 (1522〜1564)細川家臣 三好長逸 ( ? 〜 ? )三好三人衆 三好政康 ( ? 〜 ? )三好三人衆 岩成友通 ( ? 〜1573)三好三人衆 松永久秀 ( ? 〜1577)三好家臣
足利義栄(1538〜1568)在位(1568〜1568)足利義澄の孫
足利義栄は三好三人衆に推されて、前将軍の没後三年にして、ようやく将軍に就任しました。しかし、その後に織田信長が足利義昭を擁立して上洛してきたため阿波に逃れ、間もなく病死しています。
足利義昭(1537〜1597)在位(1568〜1573)足利義晴の子
足利義昭は織田信長に伴われ上洛し将軍に就任しました。しかし、義昭は信長と対立するようになり、ついには京都から追放されてしまいました。ここで室町幕府は終焉します。
年表 1568織田信長上洛 1573将軍足利義昭追放 主要人物 織田信長(1534〜1582)
参考:南北朝合一後の朝廷
第一世代
後小松天皇は5歳で即位しています。将軍義満が補佐したようです。また、このころ義満は大皇太后、皇太后、皇后に准ずる准三后に任ぜられています。
南北朝の合一が成立すると、天皇は南朝の後亀山天皇から神器を受け取り正式な第100代天皇になりました。 将軍義満には皇位簒奪計画があったとされていますが、義満が亡くなり義持が将軍になると、そうした危機もなくなったようです。 年表 1383足利義満、准三后 1392南北朝合一 1394足利義持、征夷大将軍
第二世代
称光天皇 (1401〜1428)在位(1412〜1428)後小松天皇の子
後小松天皇の後は息子の称光天皇が継ぎましたが、父の院政が続き天皇の事績はなかったようです。
年表 1423足利義量、征夷大将軍 1428足利義教、征夷大将軍
後花園天皇 (1419〜1470)在位(1428〜1464)崇光天皇の曾孫
称光天皇に息子がいなかったため、後継は崇光天皇の曾孫にあたる後花園天皇が継ぎました。皇統が持明院統の庶流から嫡流に変わりました。
年表 1442足利義勝、征夷大将軍 1449足利義政、征夷大将軍
第三世代(戦国時代)
後土御門天皇(1442〜1500)在位(1464〜1500)後花園天皇の子
後土御門天皇は後花園天皇の息子です。応仁の乱が起こると将軍義政の室町邸に移っています。また、戦乱のため経済的にも困窮していました。さらには、将軍義政の夫人日野富子らの介入もあり苦労した天皇です。
年表 1467応仁・文明の乱 1473足利義尚、征夷大将軍 1490足利義材、征夷大将軍 1494足利義澄、征夷大将軍
第四世代(戦国時代)
後柏原天皇(1464〜1526)在位(1500〜1526)後土御門天皇の子
後土御門天皇が亡くなると息子の後柏原天皇が後を継ぎました。戦乱で困窮しており、実際に即位の礼を挙げたのは践祚から22年経ってからです。
年表 1508足利義稙、征夷大将軍 1521足利義晴、征夷大将軍
第五世代(戦国時代)
後奈良天皇 (1496〜1557)在位(1526〜1557)後柏原天皇の子
後奈良天皇は後柏原天皇の息子です。この天皇もお金に苦労しており10年後にようやく即位の礼を挙げています。
年表 1546足利義輝、征夷大将軍
第六世代(戦国時代、織豊時代)
正親町天皇 (1517〜1593)在位(1557〜1586)後奈良天皇の子
後奈良天皇の後を継いだのは正親町天皇です。天皇は積極的に戦国大名の調停などにも関与したようです。織田信長は天皇の綸旨を得て上洛を果たしています。ただし、天皇は織田信長のいいなりにはならず、信長が譲位を要求しても拒否し続けました。天皇が譲位したのは秀吉の時代になってからです。新時代の天皇なのだと思います。
年表 1568足利義栄、征夷大将軍 1568織田信長上洛 1568足利義昭、征夷大将軍 1573将軍足利義昭追放 1582本能寺の変
歴史における三世代(江戸時代)
参考文献
「神皇正統記」岩佐正校注 岩波文庫
「別冊歴史読本 歴代天皇・皇后総覧」新人物往来社 「別冊歴史読本 日本歴史「古記録」総覧」新人物往来社 「日本の歴史9 南北朝の動乱」佐藤進一 中公文庫 「室町の王権」今谷明 中公新書 「戦国誕生 中世日本が終焉するとき」講談社現代新書 「絵で知る日本史 湊川合戦図屏風」集英社 「絵で知る日本史 太平記絵巻」集英社 「日本史小事典」坂本太郎 山川出版社 2011.5.25 野沢 清 kiyoshi_nozawa@yahoo.co.jp |