中世と近世の封建制度

日本の中世も近世も武士の支配する封建制度という点では変わりはありません。では何が違うのでしょうか?
富と権力の分散化
中世は富と権力が分散化した時代です。古代は、専制君主(天皇)の支配する中央集権的な官僚制度でしたが、中世では天皇・上皇(院)、摂関家、寺社そして武家へと富と権力が分散化しました。
織田信長、豊臣秀吉の時代を経て江戸時代になると、政治権力は徳川将軍の幕府に一元化されます。しかし、これは古代のような専制君主による支配とは様子が違っています。
連邦制国家
近世の江戸時代では、各藩が主体的に領内を支配しています。江戸幕府は藩の自治的支配に対して、細かい口出しをしていません。当時の日本は各藩による連邦国家であるとも言えます。このことは幕末における薩長など各藩の行動を見ても分かると思います。つまり、富と権力は各藩に分散化されています。
封建制度は結果的に富と権力を分散化させました。上位の権力者は下位の者に、その権限を委ねたのです。
中世と近世の文化
17世紀に日本の人口が大きく増加しています。各藩の政策により米の生産が増えたようです。これにより農民も豊かになり、社会全体が潤っています。富が下層下級にまで回るようになりました。
中世の文化は上流階級(天皇、将軍、大名)と中流階級(武家、富豪)の文化ですが、近世の文化は中流階級(武家、富豪)と下流階級(町民、庶民)の文化であると言えます。

中世の文化
安土桃山時代に来日した宣教師たちは、日本の中世の文化について多くのことを書き残しています。彼らは日本の優れた文化について書いていますが、そのほとんどは当時の上流階級の文化です。
宣教師たちは信長や秀吉の造った巨大な城や金ぴかの聚楽第などに驚いていますが、日本の大工の木工技術のすばらしさ高く評価しています。おそらく当時においては世界一の技術です。
また、刀剣、金細工、蒔絵、染物、絹織物などの製品についても、その素晴らしさを褒め称えています。そして、西洋にはない日本独特の茶の湯や香道の文化などについても、その優雅さや技量の高さに驚いています。
木造建築技術
「全国で木造の家を建築するのであるが、その建築技術がきわめて優秀であることは、世界のいかなる地域に持って行っても言えることである。実際にヨーロッパのさまざまな地域を見たことがある見識を持った人たちもそのように判断する。 木造建築の種類では、日本のものに優るものも、またこれに近いものさえも、一般的には他の地域には見られないようである。 ことに大領主、公家貴族、武家貴族、富豪、教養ある人々の御殿、および寺院や修道院の建物が、その建築法とすべてにわたり調和がとれている点とで優れているとともにその荘厳華麗その他すべての点で、比類ないことはすぐ次に全般的知識を与えるために述べる通りである。」(日本教会史)
日本の大工
「日本の大工はその仕事にきわめて巧妙で、身分ある人の大きい邸を造る場合には、しばしば見受けるように、必要に応じて個々に解体し、ある場所から他の場所へ運搬することができる。そのため最初に材木だけを全部仕上げておき、3、4日間に組み立てて打ち上げることにしているので、一年がかりでも難しいと思われるような家を、突如としてある平地に造り上げてしまう。もとより彼らは木材の仕上げと配合に必要な時間をかけてはいるが、それをなし終えた後には、実に短期間に組み立てと打ち上げを行うので、見た目には突然でき上がったように映ずるのである。」(フロイス日本史)
大工の工具
「彼らは、我々の所(ヨーロッパ)にある、あらゆる種類の工具を持っているが、その工具ははなはだ優秀で良質のものである。たとえば手斧(ちょうな)、鉋、目盛によって分けられた直角定規(さしがね)で、この目盛はすべての単位の中で最小のものである1ポント(分)から始まるが、それは数学上のグラーウにほぼ対応する。それの10が一つの単位(寸)をなし、それは親指の関節から関節までの長さに当たる。」(日本教会史)
「なお、彼らはまたさまざまな鑿(のみ)、鋸(のこぎり)、錐(きり)、その他のたいへん優れた造作に使う道具を持っているが、それらは我々の持たないものである。」(日本教会史)
刀剣
「また実際に目撃したことだが、日本人の武器は一般に最良のものであって、他のいかなる武器にもましてよく切れる。なぜなら彼らの常用する大刀はきわめて簡単に人間を真二つに斬るからである。また、短剣(脇差)は1パルモ半(一尺二寸)、大きいので2パルモ(一尺六寸)ある一種の刀であって頭から首を切り落とし、槍でも同じことができるのである。すなわち槍の鋒先は槍傷を与えるだけでなく、長剣と同種の刃物なので長剣のように切りもするのである。」(日本教会史)
金細工
「彼らはこの彫刻刀を使った細工に金や銀を被せること、すなわち金を銀で、また銀と黒い銅を金でもって飾り立てることにおいて独特なものを持っている。 これらはすべて彫刻刀によるものであるが、その細工物は絶妙ではなはだ優美であり、日本人の間にのみ見出されるものである。」(日本教会史)
蒔絵の文箱
「書簡は日本の習慣どおりに巻き込まれた。その袋は金銀の色彩と花模様の濃紅色の絹製で、日本では書簡入れにだけ用いる箱のようなものに納められたが、その箱は非常に立派で見事な工芸品であるから、ヨーロッパではいずこであれ、それを見た者は精巧な製作技術と優秀さに感嘆することは疑いない。なぜならば、内側も外側も日本で漆と称せられる塗り方ですべて塗られ、それに砂のような金粉を刷くのであるが、非常に骨が折れる仕事であり、しかも金銀の薄片で幾つかの花や薔薇の模様が付いているからである。これらの模様は、どうしてもその接ぎ目が見分けられぬほど巧みにかの漆に填めこまれており、その技術を知らぬ者はどうしてこのような優れた工芸品が作られうるか理解し難い。それは見た目にすこぶる優美であり豪華でしかも雅致がある。そして両側には幾つかの黒い銅の浮彫りがある金環付の花形があり、それに箱を閉じる紐がついている。花形は非常に高価なものであるのみならず、またきわめて優れた製作でもある。」(フロイス日本史)
染物
「彼らの間では、染物師の技術もたいへん普及しており、かつ優れている。なぜなら、絹や木綿や亜麻の布をさまざまな色で染めるばかりでなく、それがどんな色であろうとも、その地色の上にいろいろな色彩のさまざまな花模様を散らしておくのが一般の慣わしだからである。 この技術をおもに絹の衣服に施す優れた職人がいる。それらの衣服は反物として白地で織られた後に、それを思うままの色で染めるが、そこにはさまざまな色彩をした花模様が加えられ、その他彼らの丹精こめた多くの創意が見られる。」(日本教会史)
絹織物
「また、シナにおけると同じように日本人はさまざまな花や鳥その他のものを、絹のいろいろな反物に織り込む技術を持っている。そして都(みやこ)の都市だけで絹の織機が5千あり、そこでこのような反物が織られている。」(日本教会史)
茶の湯
「この王国の優雅な習慣の中でも、主要であり日本人がもっとも尊重し全力を傾倒するのは茶を飲むことに招待することであろうが、それと同じく彼らはまた客人に茶を出す場所を造ることについても、特殊な建物、その建物への通路や入口、またこれらの場所の目的に適したその他さまざまなことに丹精をこらすのである。」(日本教会史)
「その茶会に人を招き、そこで上記の道具を見せるために、彼らはまず各人の力に応じて饗宴を催します。これが行われる場所は、この儀式のためにのみ入る特定の部屋で、その清潔さ、造作、秩序整然としていることを見ては、驚嘆に価します。」(フロイス日本史)
香道
「日本人はまた、香料や芳香を有する物、特に伽羅と沈香の等級と純度を識別するのに、とろ火を使い巧みな技術で、同じ種類の中のさまざまな相違と等級を判定する技能をわがものとしている。」(日本教会史)
包丁人
「切盛りすることは日本人の技芸の一つなので、それのきわめて器用な人々がいて、切盛りする時には何ものにも手を触れないで、料理に作る前にすべて生のままで切盛りする。これは実際に見なければ理解できないことである。そのためにそれぞれの用途に適した道具が色々あって、極端にまで清潔にしてある。」(日本教会史)
「これは御殿において領主の前でなされる仕事なので、そこに示される器用さと清潔さ、規則に従ってやるところは、何ともいうべき言葉がないほど立派である。」(日本教会史)

近世の文化
幕末に来日した外国人たちは、自分たちのものとは全く異質の日本の文化について驚き、多くの報告を書き残しています。
城や大名屋敷などの建築物についても書いていますが、一般庶民の文化について多くのことを報告しています。日本の近世は町民が中心の文化が栄えた時代です。

日本の建築物
宣教師が多く来日した時代には信長の安土城、秀吉の聚楽第や大坂城など巨大な建物や金ぴかの派手な建築物が多くありましたが、幕末においては江戸城や大坂城に巨大な天守閣はなく、ある意味で地味であったかもしれません。それでも外国人たちは、その建築技術や美しさについて驚いています。

「城の善美というのは、神社仏閣のそれと同じように建物の非常に広大なこと、そして木の細工が選り抜きの立派な細工である点にある。最も美しい部厚で幅広の板が床や欄間に使ってある。欄間には彫り物の装飾が施され、細かい部分にいたるまで丹念に手が入れてある。天井は漆塗りで、金箔で飾られてあるのに反し、床には細かい目の畳が敷き詰められ、その畳は細長い紺色の天鵞絨(ビロード)で縁取りがしてある。それは、床に一歩踏み入る時に何とも心地よい感じを与える。」(長崎海軍伝習所の日々)
大名屋敷
「異邦人にしてみれば、はじめて市内の商店街を通って官庁街に入ったとたんに、何にまして封建諸侯のこのようなすべての邸宅の広大さにびっくりせざるをえないであろう。少なくとも幅が100フィートはある道が多く、家々−すなわち、中庭にある平屋建ての建物−の正面は、時として四分の一マイルにも及んでいる。背後には、庭園や練兵場があり、美しい樹木がその上にそびえて、付近一帯に半ば王者的な雰囲気をただよわせている。」(大君の都)
「最初の外堀を渡ると大名や彼らの家来たちの屋敷の公邸街があった。ここの街路は広々としてまっすぐで清掃が行き届き、すべてが今まで通り過ぎた所と全然ようすが違っていた。街路の横には不要の水を流す立派な排水溝があって地下を通っている。大名屋敷には一様に格子窓と彼らを誇示する紋章のついた重厚な構えの扉のある外壁があった。概して二階建てで、土台と外壁の下方は堅牢な石造りで、上部は木材と漆喰でできていた。」(幕末日本探訪記)
寺の建築
「内側から見上げると巨大な屋根の組み合わせの細部に視線が走り、ただもう感嘆するよりほかにない。趣味よく調和が取れていて、どこを見ても手入れが行き届いている。弧を描いた部分は普通がっしりした柱で支えられているが、時によって建築技師はそんな単純な支え方で逃げを打ったりせずに、垂木を巧妙に組み合わせお互いに結び合わせることで、建物に必要な強度を与えている。」(江戸幕末滞在記)
「巨大な屋根は前面も後部も細い柱列によって支えてあり、内部には広々とした空間がひろがって、その大きさと高さ、その高雅な様式と天井の軽やかで優美な作り方には、ほとほと感心させられたものだ。」(江戸幕末滞在記)
寺の山門
「大きな寺の前にあるのはもっとしっかり造ってあり、鐘楼ともども日本建築の完璧な模範になっていると言える。各部分の寸法がことごとくお互いと釣り合いを保っており、日本芸術一般を見事に特徴づけている細部の繊細と堅実さとでもって仕上げられているからである。」(江戸幕末滞在記)
大坂の水路
「確かに当地は、日本のベニスである。少なくとも100の橋がいたる所でこのさまざま水流に架かっている。そして多くの橋は、非常に幅が広く、金をたくさんつぎ込んで造ってある。主流の土手には、2マイルか3マイルに渡って大名の邸宅が並び、そこから水の縁まで幅広い花崗岩の階段がついている。これらの邸宅は、ベニスの立派な邸宅とは比較すべくもなく、ただ塀が延々と続いていて、所々にかなり厳めしい門がついているだけだが、それでもその邸宅の数と大きさだけでも富と権勢のほどをうかがわせる。」(大君の都)
大坂の橋
「大坂には広い深い掘割が縦横に通じているので、ちょうどイタリアのベニスのように舟に乗って町の見物ができる。注意を惹いたのは木で造った橋である。橋の長さは時には400歩くらいの距離に及ぶものもある。ちょうどオランダ参観使節が通った時には、橋上は群衆で埋まっていたそうであるから、よほど堅固にできているものと思われる。」(長崎海軍伝習所の日々)
木造帆船
「日本のジャンク船(木造帆船)は本当に絵のように美しい。船尾は盛り上がって高い砲郭のような形を成し、そこに舵取りが陣取って船の全長の三分の一もの長さの思い舵を取る。砲郭部の両側には見張り廊下のような展望台があって水上に突き出ており、その甲板の下に船長と乗組員の寝室がある。ジャンク船の中央部は空いていて、そこに積荷を載せる。そこには普通、藁葺き屋根や竹で作った簡単な小屋があって陽の光や雨をしのげるようになっている。舳先は水面から数フィートほどしか出ていない。そこには大胆な彫刻が施されていて先端に綱を飾り房にした巨大な箒のようなものが必ず垂れ下がっている。」(江戸幕末滞在記)
大君(将軍)の屋形船(大坂)
「この長くて平底の舟には、中央部に華奢な木造の家が付いていて高価な紫の縮緬が垂らしてあり、それには大君の家紋である三つ葉が織り込んであった。家の後部には台所があって、清潔さに光り輝く中で日本人の料理人が鍋と湯沸しの間で忙しそうに立ち働いていた。我々は家(屋形)の床に敷いてあった臙脂(えんじ)の厚布(座布団)の上に席を取った。」(江戸幕末滞在記)

街の風景
幕末に来日した外国人たちは都市近郊の風景の心地よさを多く報告しています。また、観光地や街道沿いの茶店、茶屋について書いています。一般の庶民も名所の風景を楽しんでいたようです。
なお、江戸時代の茶屋は現在の料亭のようなものと考えた方が良さそうです。また、上流階級の大名などは豪華な宿泊施設である本陣を利用しています。
並木道と生垣
「大きな並木道、松や杉の並木道にしばしば出会ったが、道端にたいへん快い日蔭をつくっている。」(幕末日本探訪記)
「生垣は丁寧に刈り込まれて手入れが行き届き、時にはかなりの高さに整枝されてイギリスの貴族の庭園や公園でよく見かける柊や櫟の高い生垣を思い出させる。」(幕末日本探訪記)
「どこにもある小屋や農家は、きちんとこざっぱりしたようすで、そのような風景は東洋の他の国ではどこにも見当らなかった。」(幕末日本探訪記)
江戸の名所
「我々は毎日江戸の近郊を馬で乗りまわし、ローレンス・オリファントの本にきわめて輝かしい色彩で描かれている王子のきれいなお茶屋や、甲州街道の十二社(じゅうにそう)の池、そのほか丸子への途中にある洗足の池、あるいは目黒の不動さまへ出かけたが、こうした場所では茶屋の美しい娘たちが魅力の大半を占めていた。 市内では、当時そしてずっと後まで外国人訪問客の興味をそそる名所になっていた浅草の観音堂、美しい娘たちが塩漬けの桜の花びらを湯にひたして出してくれる愛宕山、江戸市中を見渡すことのできる神田明神などへ遊びに出かけた。」(一外交官の見た明治維新)
王子
「首都の北部は飛鳥山のような遊びの公園やパリ周辺の散歩道を思い出させる小さな村に続いている。江戸に滞在している全てのヨーロッパ人は風景の美しさでこれらの村の中でいちばんの王子を訪れたものである。それは水の澄んだ小川の近くにある眺めの良い丘を背にしている。美しい季節には町人の家族が古木の陰や、そこに沢山ある茶屋で休む。耳障りな音楽を聞きながら、簡素な食事を摂りながら、こんな無邪気な楽しみに幸せを感じているようである。滅多にないが口争いや喧嘩が、彼らの集いの静かさを乱す。そして外国人には、この微笑ましい風習が気に入らざるを得ないのである。」(スイス領事の見た幕末日本)
茶店
「我々は最後の坂を降りる寸前に道端の小屋の一つで休息した。こういう小屋は、日本中のどこの公道を通っても、わずかな間隔をおいて見かけることができる。少なくも我々が旅行してきた公道に関するかぎりはそうであった。これらの小屋では、きわめて貧しい旅行者でもわずかばかりの現金で長時間の疲労を癒すに足ると思われる食事−熱く蒸したサツマイモや油で揚げた魚やお茶など−を丁寧に給仕してもらえる。軽い食事を欲するなら、日除けの下に季節の果物−赤くて甘そうなブドウや薄く切ったスイカなど−がうまそうに置いてある。」(大君の都)
茶屋
「目で魅力的風景を楽しみ得る全ての足の届く場所で、茶屋は通行人たちが自分たちの眼前に展開する風景を暫し楽しむために足を止めさせるように招いているのである。人通りの多い街道ではこの種の建物は大きな宿屋となり、そこにおよそ20人ばかりの機敏な娘たちがたくさんの旅行者の接待をしている。」(スイス領事の見た幕末日本)
「きれいな女中たちが、お茶のほかに色々な菓子やゆで卵を数個、盆にのせて運んできた。そして卵の殻をむいてわたしにすすめた。わたしは愛想の良い女たちに囲まれていたので、この素晴らしい場面を誰かが見たら、きっと大いに面白がるだろう。」(幕末日本探訪記)
「茶屋はいっぱいで、彼らが楽器と称している物の荒っぽい調子はずれの音が多くの二階から聞こえてくる。」(大君の都)
本陣
「この旅舎は、この種のものの中では、わたしが見た最も立派な建物の一つであった。ごく上等な木目のある材木、目障りにならぬ落ち着いた色合いの壁、金箔仕上げの風雅な模様のある紙を張ってそれに黒光りする漆塗りの木枠を付けた引戸、刷り込み模様の錦布で縁取った青々として堅牢な厚畳、といった具合の上等な建物であった。」(一外交官の見た明治維新)
「窓からの眺めは少しも効かず無愛想な黒板塀に取り囲まれている狭い内庭が見えるだけだった。偉い人というのは見てもいけないし見られてもいけないというのが一つの作法になっているのだ。」(一外交官の見た明治維新)
「わたしたちが順番に浴室へ行くと、取り澄ましたというほどではないが、すこぶる控えめな若い娘が、お背中を流させていただきましょうかと聞いた。わたしたちは子供の時分から沐浴の際に美しい女性を侍らすような躾はされてこなかったので、この娘の手助けは断った。」(一外交官の見た明治維新)

大道芸
街には多くの大道芸人がいました。その芸は、かなり高度なものだったようです。大道芸は江戸の庶民の娯楽の一つです。
奇術師
「ここではまた、しばしば奇術師の一行を見かけることがある。日本の軽業者は、かのプロンデルのおそるべき競争相手といえよう。かれらは、おそろしくも長い刀をのみこんだり、瓶のうえにのったりするばかりか、口からコウモリとかおびただしいハエとか長さが1マイルもあるようなリボンとか無尽蔵の小さな紙きれなどのような、とても想像できないようなものをはきだす。」(大君の都)
手品師
「その手品師は紙で大きな蝶を作ったが、とても本物に似ており数歩離れて見ると、誰もが生きた昆虫と信じたであろう。手品師は、その蝶を空中に放り上げ、それから巧みに扇子を動かして頭の上を舞わせ飛び交わせて、動きの一つ一つに魂のある生物の様子を与えながら、上がったり下がったりさせるのである。そして最後に、この蝶をかなりの高さまで扇ぎ上げると、その紙の蝶はそこから大きな羽をパラシュート代わりにして、手品師が手に持っている花の上に再びゆっくりと降りてくるのであった。」(スイス領事の見た幕末日本)
独楽(こま)の曲芸
「(浅草寺)境内の見世物を全部見て回ったが、とりわけ独楽(こま)の曲芸には感嘆した。空中高く独楽を投げ上げ煙管(きせる)の先端で受け止める。曲芸師はまるで独楽が人間かのように語りかけながら、辿るべき道筋を指示する。ある独楽には刀の切っ先を廻り、刃の上を行ったり来たりするように命令し、またある独楽には20度の角度にぴんと張った紐の上を登り降りすることを命じた。三番目の独楽には空中に放り上げてから、一本の指で受け止め、腕に沿って登らせ、続いて背中を一廻りして、もう一方の腕から戻るよう命じた。すると独楽はまるで生き物のように命令に従った。独楽の内部に断じて種も仕掛けはない。曲芸師の手の力と器用さは大変なもので、ちょっと見ると二本の指で軽く回しただけのように見えた独楽が十分間も回り続けた。」(シュリーマン旅行記 清国・日本)
曲芸師
「広場の両隅で、二つの曲芸師たちの一座が叫び声や太鼓の音を響かせている。一つの一座は、青天井の下で刀を飲み込んだり、軽妙なとんぼ返りの演技を見せたりしている。」(絵で見る幕末日本)
「中でも最高の呼び物は、二つの台の上に置いた竹で編んだ2メートルほどの長い籠の中を飛び抜ける離れ業である。その際、観客の舌を巻かせるために、籠の中に等間隔に4本の火のついた蝋燭を立て、その上を驚くべき速度で飛び抜けるのだが、蝋燭の焔が消えないばかりか揺らぎもしない神技を見せていた。」(絵で見る幕末日本)
「もう一つの一座は京都式の曲芸団で演技は広い小屋の中で行われ、そこにはほとんど竹でできている帆柱に似た竿や横木が置かれていて、わが国の曲芸場に似通っていた。一座には特定の喜劇俳優はいないが、座員の一人一人が道化役者で、時に応じて滑稽な仕草をして見せるかと思うと息詰まるような妙技を見せるのである。」(絵で見る幕末日本)

祭りと年中行事
江戸時代の庶民も祭り好きだったようです。神社の祭りに限らず、端午の節句、七夕、お盆など各種のイベントがあったようです。英国公使のオールコックは、祭り好きな点についてはローマカトリックの国々を超えると書いています。
日本の祭り
「ローマカトリックの国々では祭りが驚くほど多いとわたしは思っていたが、行列や祭りにかけては、日本はこれらの国々をはるかに超えている。」(大君の都)
「長崎に着いた日は当地の祭礼で、みんな美しく着飾っていた。娯楽の焦点は凧上げにあるらしかった。町や郊外の上空一面に、初めはカモメの群れかと見違えた紙凧が群がっていた。凧はたいがいダイヤモンド形で、赤白青などの絵の具で鮮明に彩色されてあった。町内、屋上、山腹、野原などの各所で、愉快に競い合う凧揚げを、大勢の老若男女が楽しそうに見物していた。」(幕末日本探訪記)
「そこには群衆があふれていた。身動きもつかぬほどの楽しげな、だが争いのない群衆であった。日本人が決して忘れることのないあの礼儀正しさでもって、てきぱきと我々が進む道をきちんと開けてくれた。」(スイス領事の見た幕末日本)
江戸の祭り
「これらの祭りの性格的な特色は、劇場的なけばけばしさとあらゆる種類の誘惑的娯楽になっている。一方において音楽や舞踊や曲芸や仮装行列や野天劇や提灯行列をやっているかと思うと、他方では射的、競馬、相撲などの民族的遊戯や福引をやっており、またいたる所で果物、魚、菓子、花などを売る屋台店のならんだ市場が開かれ、中には扇子、日傘、麦藁(むぎわら)細工、提灯(ちょうちん)、子供の玩具といった一般の需要品まで売り出している。」(絵で見る幕末日本)
神田明神の大祭
「明神の神体を乗せた車は、二頭の牡牛と車に付けた縄を持つ無数の信徒によって引っ張って行かれる。それから数歩離れてものすごく大きな鬼の首を台に載せて運んで行く。善良な庶民は巨大な角や乱髪や真っ赤な顔や恐ろしい牙を、恐怖を持って眺める。よりいっそうの演出効果を上げるため並んで歩く僧侶たちが法螺貝を吹いて吠えるような、唸るような音を立てている。さらに、その後を英雄が鬼の首を切ったという大きな斧が運ばれて行く。」(絵で見る幕末日本)
山王の大祭
「警官隊が出動して民衆の整理に当たっていて、百万以上の観覧者が、この日は整然たる秩序を保っている。行列が通過する街路や広場では、婦女子や老人のために観覧台が設けられ有料の指定席まで作られている。しかし、行列が通りだすと、その場にたったまま移動することはできない。」(絵で見る幕末日本)
端午の節句
「我々の留守中、町では端午の節句の用意で忙しかった。去年子供の生まれた家々の軒先には幟(のぼり)やいろいろ意匠を凝らした飾り物が陳列される慣習があるので、町々はお祭り気分で満たされる。例えば、ここかしこに紙で上手に作られた鯉幟(こいのぼり)が高い竿に吊って揚げられる。この鯉幟の腹は空洞であるから風をはらんで空をうねうねと泳ぎまわる。」(長崎海軍伝習所の日々)
お盆
「8月13日、長崎では例のお盆の燈籠流しの祭りが盛大に行なわれた。三日間は毎晩、祖先や新仏のお墓が美しい燈籠で飾られた。この墓地はちょうど急峻な丘に設けられてあったが故に、海からその丘の景色を眺めた光景は何とも言えない美しいものであった。」(長崎海軍伝習所の日々)

芝居
江戸時代には芝居(歌舞伎)が盛んになっています。これも庶民の娯楽の一つです。中世でも京都の四条河原などで芝居が始まっていたようですが、これが江戸時代になると立派な芝居小屋も出現し大きく発展したようです。
大坂の芝居
「劇場はかなりの広さの建物で、観客席には一面に敷物が敷き詰めてあり、天井が非常に高かった。普通ならば地震の恐れがあるので、これよりももっとしっかりした材料でできた屋根や耐久性のある屋根でも、こんなに高くはしないものである。平土間は、多くの小さな四角の区画から成り、各区画には六人ずつ座ることができるようになっている。両側の少し高くなったところには、ボックス席と思われるものが続いていて、入り口から舞台まで建物を縦断して伸びている高い壇(花道)によって、平土間と区切られている。この高い壇を通って、主な登場人物たちが舞台とは反対の方向から登場するのである。下段のボックス席の天井からおよそ20フィート上には、安い桟敷があり、そして各段のボックス席の続きの両端には、もっと高い料金の桟敷がある。」(大君の都)
「誰も皆くつろいで楽しんでいるようだった。それも秩序正しく楽しんでいた。あらゆる年齢の男女が入り混じっており、また明らかにさまざまの階層の人々がいた。」 (大君の都)
回り舞台
「大坂では場面転換がかなり面白い方法で行われていた。舞台の中央が円形に切り抜かれていて回転できるようになっているのである。半円のそれぞれに異なった舞台装置が備えてあって半回転させるだけで舞台転換ができ、その装置に移動可能な背景を両側から継ぎ足せばそれで完璧になるという具合である。」(江戸幕末滞在記)
長崎の芝居
「私が見た(仮設の)芝居小屋の内部は巧みに飾り付けられ、ヨーロッパの旅芝居に比べて少しも遜色がない。最近、長崎に木造の劇場が建築され、私はそのこけら落としを見た。婦人客が桟敷や枡に一杯いた。」(長崎海軍伝習所の日々)
「私は腹切りの場面において沢山の見物人が涙を流しているのを見受けた。総じて日本人、とりわけ婦人は芝居が好きで芝居と言えば血眼になって評判をする。」(長崎海軍伝習所の日々)

教育と学問
江戸時代には武士の子弟のための教育はもちろんですが、一般庶民向けの教育も行われていました。また、オランダ人から最新の科学も学んでいました。
府中の侍の子弟の公立学校
「わたしは靴を脱いで入口の床の上に帽子を置いてから一室へ丁寧に案内された。そこには30名ばかりの少年が床の上に正座し漢文の書物を前にして6人の教師の監督の元に、先輩生徒の暗誦する後からこれを復唱していた。」(一外交官の見た明治維新)
昌平黌
「孔子の聖堂は外国人に公開されてはいない。そこを取り囲む公園の塀の中に江戸の大学が建っている。日本の貴族(武士)の子息たちが学問を仕上げる所である。彼らはここで地理学や歴史一般および物理科学の基礎と外国語、それに一層に注意をはらって博物学、それにとりわけ国史を学ぶのである。しかし教育の本質的な目的は、日本およびシナの文字を読むことである。」(スイス領事の見た幕末日本)
日本の教育
「日本人は知的な教養をかなり持っている。芸術や文学や哲学の教養は、借り物であれ自国のものであれたいして問題ではない。日本では、教育はおそらくヨーロッパの大半の国々が自慢できる以上に、よく行き渡っている。」(大君の都)
「わたしは、半ダースほどの男の子が師匠の周囲に座って授業を受けているのを見たことがある。彼らは文字の意味を知ろうとして何度もそれを口に出して唱えていた。」(絵で見る幕末日本)
日本人の知性
「日本人の間に認められる表情の活発さと相貌の多様性は、わたしの意見では、あらゆる他のアジア民族よりも、より自主的であり、より独創的であり、より自由である知的発育の結果である。」(絵で見る幕末日本)
科学
「科学の分野が幼児期の段階にあるなどとは決して言えない。一つには日本人自身の努力のおかげで、またオランダ人によって日本にもたらされ日本語に翻訳された数多くの西洋科学書に関する知識が備わっていたことが理由としてあげられる。」(江戸幕末滞在記)
「長崎には1858年の条約が締結されるずっと以前から医学塾があって、出島のオランダ人医師に指導を受けていた。」(江戸幕末滞在記)
「ラウツ教授は知識欲に燃えているのが日本人の特徴であると言っているが、まことに至言である。例えばポルトガル人の渡来以来、日本人は如何によくヨーロッパ人の知識を咀嚼して自己のものにしおおせたか、これは世人の熟知するところである。この知識欲はキリスト教宣教師の努力によって継続的に増進していった。ヨーロッパの事情が日本語に翻訳され、江戸で木版にて印行されたのは既に古い時代のことである。日本人は物理、化学、天文の諸学について非常な蘊蓄を示した。また一般に読み書きの教育は普及し、その国民のゆかしき素養を偲しめる。」(長崎海軍伝習所の日々)

産業
江戸時代に大規模な工場こそありませんが、手工業は発達していました。外国人たちは職人たちの高度な技術に驚いています。
江戸の手工業
「我々の住む寺院がある高台の向こうに定着している人々は、自分の家で各種の手工業に従事している。工場は遠くから表現力に富む看板でそれわかる。履物の形に削った板や着物の紙型がぶら下がっているのもあれば、大きな傘を日除けのように店の上に吊るしている所もある。さらに進むと大小さまざまな藁帽子が屋根から扉のあたりまで糸に通されてぶら下がっていた。我々は数分間、鎖帷子(くさりかたびら)や鉄扇や刀剣を作っている武器商や刀剣商を見ていた。」(絵で見る幕末日本)
日本の職人
「今日、我々の織機は驚異にあたいする種々の織物を製造することができる。しかしながら、いまなお中国の縮緬を一片たりとも作り出すことはできない。日本にも、わが国のいかに優秀な技を有する職人でもとても真似ることができないと思われるような絹織物や縮緬がある。」(大君の都)
「また我々は、彼らの美しいほうろう細工の花瓶に匹敵するものを作ることができないし、我々のすべての発見とその応用にもかかわらず、彼らのように小さな木炭の火鉢と火吹き竹で鉄瓶の穴を修理することもできない。」(大君の都)
「日本人は、おそらく世界中でもっとも器用な大工であり、指物師であり、桶屋である。彼らの桶・風呂・籠はすべて完全な細工の見本である。」(大君の都)
「すべての職人技術においては、日本人は問題なしに非常な優秀さに達している。磁器・青銅製品・絹織物・漆器・冶金一般や、意匠と仕上げの点で精巧な技術をみせている製品にかけては、ヨーロッパの最高の製品に匹敵するのみならず、それぞれの分野において我々が模倣したり肩を並べたりすることができないような品物を製造することができると、なんのためらいもなしに言える。」(大君の都)
「小さな象牙の彫刻や、ドレスを締める金属製のバックル類は、見方によると立派な骨董品である。たいてい小形で、男、女、猿、その他の各種動物、植物をかたどっている。彫刻者の手腕を示すそれらの陳列品は、好適な光線を受けて確かに驚くべき努力と勤勉の効果を示している。」(幕末日本探訪記)
和紙
「日本の紙のほとんど全部は木の樹皮から作られ、ある品質のものはヨーロッパのどの紙よりも。特に強さの点で優っている。薄い種類のものでもなかなか破れにくいし、強い品質のものはどんなに努力しても破れない。」(大君の都)
「日本の油紙は非常に品質優良で、用途は多方面に利用されている。どんな雨にも耐えられるので、きわめて安価な雨合羽を着用することができる。上等な絹織物や他の高価な織物を、雨や湿気から守る包み紙としても重宝である。」(幕末日本探訪記)
漆器
「漆器については何も言う必要はない。この製品の創始者はおそらく日本人であり、アジアでもヨーロッパでも、これに迫るものは未だかつてなかった。」(大君の都)
「古代の漆器の光沢は比類がなく、しばしば金の蒔絵が施されている。漆細工は、硯箱、料紙箱、盆、飾り棚、屏風などに適している。」(幕末日本探訪記)
陶磁器
「日本の新しい製品は、シナの古陶器にははるかに及ばないが、近頃のシナ製よりは勝っていると思う。たとえばイギリス婦人を描いた上等の茶碗や水盤があった。それは日本人特有の敏捷な模倣性と、遅鈍なシナ人との差異をはっきり示している。」(幕末日本探訪記)
漆器や陶磁器の店
「金で模様を施した素晴らしい、まるで硝子のように光り輝く蒔絵の盆や壺を商っている店はずいぶんたくさん目にした。模様の美しさといい、精緻な作風といい、セーブル焼きに勝るとも劣らぬ陶器を売る店もあった。たとえば、まるで卵の殻のように薄いにもかかわらず、きわめて丈夫な陶磁器の茶碗がある。竹や藤を格子状にめぐらした茶碗もある。格子はとても強く、しかも極めて精巧にできているので、顕微鏡でも使ってみないと陶器なのか藤なのか見分けがつかないくらいである。」(シュリーマン旅行記 清国・日本)
日本刀
「日本刀の名声は東洋全体に鳴り響いている。その堅牢さと切れ味は凄いもので、太さ2センチの鉄の棒を一打ちに断ち切ることができると誰もが請け合ったものだ。」(シュリーマン旅行記 清国・日本)
金属加工
「地金は青銅であるが、レリーフに浮彫にされた像は、多くの場合、金、銀、銅、白金の4種の金属を組み合わせて使う。とにかく白金がこんなに惜しげもなく使われているところから、この金属は我々イギリス人よりも日本人にとっては明らかにずっと平凡なもので、つまり日本人は近代化学の力でやっとなし遂げた白金溶融の秘訣を前から知っていたわけである。」(幕末日本探訪記)
玩具
「玩具店には、あらゆる種類のおもちゃが豊富に陳列されていた。あどけなく可愛らしいものや、硝子鉢の中には頭や尾や足をしじゅう動かしている子亀が群れていた。心棒に小皿の付いた唸りゴマをテーブルの上で回転させると、その小皿も一緒に回り始めた。」(幕末日本探訪記)
「さまざまな種類の人形はたいへん魅力的で、髭剃りをしたり、髪を切ったり、腹を押さえると大声で泣くものなどがあった。また、やっと見分けがつくような小さなものを炭火の上に置くと、光る虫が生命と活気を得たようにそこら中を動き回った。この大玩具店の存在は、日本人がいかに子供好きであるか証明している。」(幕末日本探訪記)
「日本のおもちゃ屋は品数が豊富で、ニュールンベルグのおもちゃ屋にもひけを取らない。みな単純なおもちゃだが、どれもこれも巧みな発明が仕掛けてあって、大人でさえ何時間も楽しむことができる。休みなしに宙返りをうつ人形、馬の尻尾の毛の上を上下する独楽、魔法の本、覗き眼鏡、万華鏡等々。」(江戸幕末滞在記)

輸出
多くの外国人がやって来た幕末には、生糸や茶の輸出が始まっていました。また、英国公使のオールコックは日本の優れた製品をロンドンの万国博覧会に送っています。
生糸と茶
「現在、絹と茶がもっとも重要で、ヨーロッパとアメリカ向けの貴重な輸出品になっている。」(幕末日本探訪記)
「生糸は、日本の大坂から北寄りの地方で、どこでも多少生産しているが、とりわけ奥州、上州、甲州、信州の四地方が最も大量に産出する。奥州の産出量は最も多いが、そこの生糸は他の地方のものに比べて、優良な規格品としては型が不揃いである。その点、上州、信州産の生糸は、繊細な品質で知られている。」(幕末日本探訪記)
「茶は九州各地に限らず、日本中いたる所で栽培されている。山城産の茶が最上品であるが、最大の生産量は伊勢と尾張である。駿河、下総、甲州の生産地から神奈川市場に、いち早く新茶を出荷する。盛りの季節には、瀬戸内海沿岸から大量に出回る。」(幕末日本探訪記)
万国博覧会
「私は、漆器や磁器や青銅製品の見本−それらの多くは非常に優良かつ珍貴な物である−を集めて、ヨーロッパの最上の細工品と綿密な比較テストにどこまで耐えうるかを調べるために大博覧会(1862年、ロンドン)へ送った。その結果は、けっして日本人の名誉を傷つけることにはならなかった、と思う。」(大君の都)
「(万国大博覧会の審査員の評価)このコレクションは、ひじょうに素晴らしいものだ。ブローチや留め金のような小さな装飾品は、みごとな出来ばえを見せている。どの模様にも国民性が完全に正しく表現されている。これらの品は、主として鉄製で部分的に金と青銅の細工を張り付けている。これらの作品から優れた才能がうかがえる。」(大君の都)
「(大坂にて)我々は、数軒の大きな絹製品を売る店に連れて行かれたが、これらの店は江戸の最大のものよりまだ大きく、展示してある品物もまたそれに準じていた。50名から100名ほどの店員がいたようで、我々の望むものは何でも敏速に取り出してくれた。我々は、二軒の店でいくらかの品を宿に持ってくるように注文した。」(大君の都)
「それらの品物は織物の見本としてまんざら悪いものでもなかったので、全部万国博覧会(1862年、ロンドン)に送った。」(大君の都)

園芸
江戸時代に日本で独自に発達した文化が園芸です。一般の庶民も園芸が好きだったようです。なお、植物が専門のロバート・フォーチュンは、染井村の苗木園は世界一だと認めています。
園芸業
「一般に、花を相当に栽培している日本の園芸家たちは、売る目的で栽培しているのだ。彼らは、四季を通じてもっとも珍重される種類のものを供給するように栽培している。だから、いかなる日でも、花売りが美しい商品を持って歩きまわる姿を見ることができる。きわめて貧しい家庭でさえもそれを買うことは、かなり確実である。たしかに、その値段は安い。どんな家庭にも家族用の祭壇があり、毎日欠かすことなく一束の花が捧げられている。また、彼らの墓も、しばしばそれと同じような単純な愛の捧げもので飾られている。そのため、需要は絶えることはない。」(大君の都)
花好き
「高級役人や豪商や隠居した人たちの屋敷は、おおむね一階か二階建てで小さいが、気持ちの良い高台の住宅地にあった。住民のはっきりした特徴は、身分の高下を問わず花好きなことであった。良家らしい構えのどこの家も一様に裏庭に花壇を作って、小規模だが清楚に整っていた。この花作りは家族的な楽しみと幸せのためにたいへん役立っていた。」(幕末日本探訪記)
「日本人の国民性の著しい特色は、下層階級でも生来の花好きであるということだ。気晴らしに好きな植物を少し育てて無上の楽しみにしている。もしも花を愛する国民性が、人間の文化生活の高さを証明するものとすれば、日本の低い層の人々は、イギリスの同じ階級の人たちに比べると、ずっと優ってみえる。」(幕末日本探訪記)
「家々の奥の方には必ず花が咲いていて、低く刈り込まれた木で縁取られた小さな庭が見える。日本人はみんな園芸愛好家である。」(シュリーマン旅行記 清国・日本)
盆栽
「日本人がこれらの植物の生産に捧げた勤勉と忍耐の量を知って、まったく驚いた。ある小さなもみの木は、高さが1フィート足らずであった。それでも、節の数は50以上もあった。若枝がそれほど前後にジグザグに曲がりくねっていた。これらの小さな松の木は、非常に古いものに違いなかった。」 (大君の都)
「下枝を水平に仕立てたツツジの丈は20フィート位あって、全体を板のように平らにするために葉や枝を束ねて刈り込んであった。上枝を円形に整枝した数多くの小テーブルが上へ上へと重なっているので、全体の枝ぶりがすこぶる奇観を呈していた。そのとき一人の男がツツジの手入れをしていたが、おそらくこの男は年中毎日このツツジの手入れに追われているに違いない。」(幕末日本探訪記)
植木屋
「日本の首都である江戸の近郊には、商売用の植物を栽培している大きな苗木園が幾つもある。江戸の身分ある人々は、すべての高度の文明人のように花を愛好するので、花の需要は極めて大きい。江戸の東北の郊外にある団子坂、王子、染井の各所には、広大な植木屋がある。」(幕末日本探訪記)
染井村
「そこの村全体が多くの苗木園で網羅され、それらを連絡する一直線の道が一マイル以上も続いている。わたしは世界のどこへ行っても、こんなに大規模に売り物の植物を栽培しているのを見たことがない。植木屋はそれぞれ3、4エーカーの地域を占め、鉢植えや路地植えのいずれも数千の植物がよく管理されている。」(幕末日本探訪記)
「そこでサボテンやアロエのような南米の植物を目にした。それらは、まだシナでは知られていないのに、日本へは来ていたのである。実際、それは識見のある日本人の進取の気質を表している。」(幕末日本探訪記)
「染井や団子坂の苗木園の著しい特色は、多彩な葉を持つ観葉植物が豊富にあることだ。ヨーロッパ人の趣味が、変わり色の観葉植物と呼ばれる自然の斑(ふ)入りの葉を持つ植物を称賛し興味を持つようになったのは、つい数年来のことである。これに反して、わたしの知る限りでは、日本は千年も前からこの趣味を育てて来たということだ。その結果、日本の観葉植物はたいてい変わった形態にして栽培するので、その多くは非常に見事である。」(幕末日本探訪記)
団子坂の菊人形
「この庭で一番珍しいものは、菊の花で作った人形であった。数千の花を使って作られた菊人形の美人が微笑みを浮かべて、茶屋や休憩所から出てくる客をしばしば驚かせていた。評判の梅林が庭内のいたる所にあり、小さな池や築山の島が全体の眺めを引き立てていた。」(幕末日本探訪記)
浅草寺の菊
「ここは江戸の近くで、多種類の美しい菊で有名である。我々が訪ねた時は、花は満開であった。」(幕末日本探訪記)
「わたしは、形も色も特殊で実に素晴らしくイギリスで現在知られたどんな種類とも全く異なった品種を幾つか手に入れた。ひとつは、赤色の長い花弁が毛髪のように咲き乱れて、黄色のおしべがショールやカーテンの房のように見える。次のは、広くて白い花弁に赤い線が入って、カーネーションか椿のようであった。別のは、大形で光沢のある色彩が目立っていた。(幕末日本探訪記)」
「日本の園芸家は菊作りの技術にかけては我々よりだいぶ上手で、不思議に大輪の花を咲かせる。」(幕末日本探訪記)
牡丹の展示会
「ヨーロッパ人にとってもっとも魅力的だったのは、わたしたちの滞在中に開催された牡丹の展示会であった。」(一外交官の見た明治維新)
「淡紅色や白などさまざまな色をした美しい牡丹の花には、しばしば9インチもある大輪がある。その美しさは他に比類がない。シナで花の王と呼んでいるが、まったくその通りである。」(一外交官の見た明治維新)

絵画、出版、報道
江戸時代には上流階級向けの狩野派や琳派の障壁画などもありましたが、庶民向けでは浮世絵が人気を博しています。なお、この当時の来日外国人は浮世絵をあまり評価していません。西欧でジャポニズムが流行し北斎や広重が評価されるようになるのは明治になってからです。
出版では庶民向けの黄表紙、滑稽本などが出版されていますが、実用的な旅行ガイドも多かったようです。
また、現代の新聞のように瓦版で事件が報道されています。もちろん幕府の規制の下にあったとは思いますが。
日本の絵画
「実際のところ、彼らは油絵を描く技術をまったく知らないのであり、それにどんな材料を使っても立派な風景を描くことができない。彼らの遠近法についての知識はあまりに限られており空間の効果ということを、まだほとんど考えたこともないのである。だが、人物画や動物画では、わたしは墨で描いた習作を多少所有しているが、まったく活き活きとしており、写実的であって、かくも鮮やかに示されている確かなタッチや軽快な筆の動きは、我々の最大の画家でさえうらやむほどだ。」(大君の都)
「幕府が外国人の享楽のために設けた岩亀楼での光景も、別に我々の風俗習慣にこだわることなく写生している。騒がしい宴楽で葡萄酒や強烈な飲料に耽溺し揚句の果てに喧嘩腰になる人たちのようすが、すべて克明に描かれている。それらの非常に精緻で興味を引く日本人の芸術作品は、たいていこの店で入手できるだろう。」(幕末日本探訪記)
出版物
「実に日本人は大の旅行好きである。本屋の店頭には、宿屋、街道、道程、渡船場、寺院、産物、そのほか旅行者に必要な事柄を細かに書いた旅行案内の印刷物がたくさん置いてある。それに、相当よい地図も容易に手に入る。精密な比例で描かれたものではないが、それでも実際に役立つだけの地理上のあらゆる細目が書いてある。」(一外交官の見た明治維新)
報道
「政治の領域外での興味深い事件は、事件直後またたく間に細部に至るまで詳しい報道がなされ、ニュース屋によって売られたり語り聞かせられたりするが、そのたびに好奇心のかたまりになった連中が廻りを取り囲んで人垣をつくる。日本人の生来の知性と気紛れは、自分たち自身についてだけでなく接触する機会のある外国人を批判的に評価することでも発揮されるが、大胆な筆や非常に辛辣で的を射た筆致の風刺画となって現れることもある。」(江戸幕末滞在記)

17世紀の人口増加
江戸時代に入った17世紀に日本の人口は大きく増加しています。そして18世紀になると人口増加は停滞し、明治(19世紀)になって再び増加します。
17世紀のころに、傍系家族が一緒に住む大家族から直系親族のみの小規模家族が増えているようです。太閤検地により一地一作人制が進み小農民が自立したと言われています。
そして、都市が発達すると、その消費需要を目当てに利潤獲得を目指す農民が増えたようです。自立した勤勉で向上心のある農民が増えたのです。
しかし、このころ人口一人あたりの農耕用役畜の数が減少しています。勤勉な農民は手作業で耕していたようです。耕地を増やしたため牛馬のための牧草地が確保できなくなったのかもしれません。
 総石高            人口
  1598年 1851万石   1600年 1227.3万人
  1697年 2580万石   1721年 3127.9万人
  1830年 3043万石   1828年 3262.6万人

勤勉な農民
幕末に来日した外国人は農民の勤勉さに感心しています。おそらく農民が勤勉になったのは江戸時代になってからです。安土桃山時代に来日した宣教師は、農民は怠惰だと記しています。
段々畑
「一般に日本人は、自分の農地をもっともよく利用し、多くの場合、丘陵は驚異的な労力によって段々にされ、巧みな方法で耕される。」(大君の都)
兵庫の郊外
「耕作されていない土地はひとつもなく、目に映るのは水田、麦畑と綿の栽培地ばかり、その間に村落、農家が散在して生彩を加えていた。住民はみな畑で働いており、通り過ぎる我々に好意的な挨拶を送ってよこした。娘たちの赤味を帯びた顔と膨らんだ頬、男たちのがっしりした身体に、健康と満足が読み取れた。」(江戸幕末滞在記)
手作業
「シナでは耕作に牡牛や水牛が使われるが、日本では労働者の手だけで農作業を行う。土を掘り起こしたり、鋤き返したりするのに先のとがった農具が使われる。肥料はシナと同様に植物性のものを使用している。」(幕末日本探訪記)
中世農民の怠惰
「日本人は耕作ごとには、はなはだ怠慢であり不精であって、シナ人の有する器用さや精励さは見られない。安逸と遊興を愛好し、そのためには酒宴、音楽、喜劇、演劇、幕間狂言のきわめて優れたものとか、悠長で公正な勝負事とかで多くの時を費やす。心配、気苦労、心痛を伴う苦悩を与える物事は嫌いで、これらにはすぐ飽きがきて憂鬱症のとりこになってしまう。」(日本教会史)

怠惰な武士
日本人は案外と怠惰だったのかもしれません。長崎海軍伝習所の訓練生の武士たちには怠惰な人たちが多かったようです。ただし、榎本武揚らの機関部員は熱心で真面目だったようです。
お茶と煙草
「何もすることのない何もしていない人々、その数は日本ではかなり多いのだが、そんな人たちは火鉢の周りにうずくまって、お茶を飲み、小さな煙管を吸い、彼らの表情豊かな顔にハッキリと現れている満足げな様子で話をしたり、聞いたりしながら長い時間を過ごすのである。彼ら日本人の優しい気質、親切な礼儀作法そしてまた矯正不可能な怠惰を真に味わえるのは、こんな風に寄り集まった日本人に接する時である。仕事に対する愛情は日本人にあっては、誰にでも見られる美徳ではない。彼らのうちの多くは、まだ東洋に住んだことのないヨーロッパ人には考えもつかないほどに無精者である。」(スイス領事の見た幕末日本)
さぼり
「水兵たちは一般に船内掃除にだらだらと長い時間を費やし、暑い日などはことさらである。傍らにオランダ人士官がついていないならば掃除をするのが関の山で、他の仕事に掛ろうなどという気持ちは持っていないから、船内掃除の後余る時間はほとんどない。掃除が済むと、彼らは黙々として煙管をくわえて一服し命令などいっこうに頓着しない風である。」(長崎海軍伝習所の日々)
飽きっぽさ
「また、彼らの飽きっぽい性質は常に士官の純科学的養成に一大障害である。日本人は敏捷であるから必要だとさえ感得するならば、如何なる学問でもごく僅かな時間の内に、ただ上っ面の知識だけであるが、苦労なしに覚えることができる。しかし悪いことには、ちょっと始めると直ぐさま彼らの好奇心は満腹して、忽ち他の変わったものに眼を付ける。何事でも徹底的に学ぶ辛抱というものが、彼らには欠けている。」(長崎海軍伝習所の日々)
例外的な機関部員
「日本に来た二回のオランダ海軍派遣隊が、前後を通じて最も成功したのは機関部員の養成である。日本人には技師の学術が殊に適し、機関将校が蒸気機関の知識の涵養に精根を尽くして、あらゆる部分を見逃すまいと熱心に注意するその有様は驚くばかりである。彼らは仕事服を着て火夫の仕事をさえやる程の熱心さあるに引き替え、甲板士官の方は彼らの美しい手や着物を油の付いた綱具に触れて汚すのを恐れるがごとく見えた。」(長崎海軍伝習所の日々)
「かような事情で、どの船の汽罐も皆手入れがよく行き届いていた。観光丸の汽罐はほとんど一年半ばかりの間、オランダ人の監視を受けなかったが、それでさえ故障らしい故障も生じなかった。」(長崎海軍伝習所の日々)
「生徒は皆々名家(旗本)の子弟であるにもかかわらず、彼らは賤しい水夫のごとく立ち働き、また船室は全部これをオランダ士官に提供するのはもちろん、すべての点において教官に対し礼儀を失わなかった。」(長崎海軍伝習所の日々)
「例えば榎本釜次郎(榎本武揚)のごときその先祖は江戸において重い役割を演じていたような家柄の人が、二年来、一介の火夫、鍛冶工および機関部員として働いているというごときは、まさに当人の勝れた品性と絶大なる熱心を物語る証左である。これは何よりも、この純真にして快活なる青年を一見すればすぐに判る。」(長崎海軍伝習所の日々)

下層階級の豊かさ
封建時代においては、農民は搾取され抑圧されていたという見方もあるかと思いますが、幕末に来日した外国人たちはそれを否定しています。日本の下層階級は豊かだったようです。
ただし、豪華で贅沢な生活をしていたわけではなく、清潔で簡素な暮らしをしていました。また、子供たちは健康で幸せそうだったようです。
豊かな農民
「日本の各地で観察した農民とその家族は、余裕のありそうな家に住み、衣服も整っていたし、食事も十分で幸福で満足そうに見えた。長崎や江戸のような大都市の近傍に住む農民は、むしろ田舎の武士や地主よりは富裕かも知れないということは、ありそうなことだ。」(幕末日本探訪記)
幸福な国民
「政府は莫大な数量の米を、その倉庫に絶えず貯蔵するよう意を用いているから、飢餓の心配にも十分の対策が講ぜられている。この国が幸福であることは、一般に見受けられる繁栄が何よりの証拠である。百姓も日雇い労働者も皆十分な衣服を纏い、下層民の食物とても、少なくとも長崎では申し分のないものを摂っている。もし苦力(クーリー)などが裸体のまま街頭に立っていたとすれば、それは貧乏からではなくて無作法のせいであると言う。」(長崎海軍伝習所の日々)
伊豆の農民
「封建領主の圧制的な支配や全労働者階級が苦労し呻吟させられている抑圧については、かねてから多くのことを聞いている。だが、これらのよく耕作された谷間を横切ってひじょうな豊かさのなかで家庭を営んでいる幸福で満ち足りた暮らし向きの良さそうな住民を見てみると、これが圧制に苦しみ、苛酷な税金を取り立てられて窮乏している土地だとはとても信じがたい。むしろ反対に、ヨーロッパにはこんなに幸福で暮らし向きの良い農民はいないし、またこれほど温和で贈り物の豊富な風土はどこにもないという印象を抱かざるを得なかった。」(大君の都)
公衆浴場
「日本人が世界で一番清潔な国民であることは異論の余地がない。どんなに貧しい人でも、少なくとも日に一度は町のいたる所にある公衆浴場に通っている。」(シュリーマン旅行記 清国・日本)
「日本人の清潔好きはオランダ人よりはるかに発達していて、これは家屋だけでなく人物一般についても言えるのである。仕事が終わってから公衆浴場に行かないと一日が終わらない。公衆浴場で何時間も湯を浴び、下着を洗って、おしゃべりの欲求も満足させる。浴場は日本人の社交場で、そこでは顔見知りの一人や二人に必ず会うことができる。公衆浴場から聞こえて来る、入り混じってうなるような人の声には、かなり遠く離れた所にいても耳をつんざかれるほどだ。」(江戸幕末滞在記)
簡素な生活
「住民のあいだには、贅沢にふけるとか富を誇示するような余裕はほとんどないとしても、飢餓や困窮の徴候は見受けられない。彼らの生活習慣は、明らかにきわめて単純だ。畳を敷いただけの大きすぎることもない、概して清潔な部屋。」(大君の都)
「彼らの全生活におよんでいるように思えるこのスパルタ的な習慣の簡素さのなかには、称賛すべき何物かがある。」(大君の都)
「農民は、一日の労働を終えると、いつも熱い風呂に入るという贅沢さと、さらにもっと贅沢な洗髪とマッサージを期待することができる。」(大君の都)
「日本の家屋の内部は大変簡素である。厳格な清潔さが、その主要な装飾なのである。部屋は天井が低く、それぞれ移動可能な枠で仕切られているが、その移動は部屋の配置を思い通りに変えるのに十分である。これらの部屋のそれぞれは熱いむしろ(畳)が敷かれている。しかし、その部屋に備え付けの椅子、机、箪笥、寝台といった我々の国で日常使われる家具は何ひとつ見られない。」(スイス領事の見た幕末日本)
「まったく何もない広間は、昼間は事務所、客間、食堂を兼ね、夜になると寝室に変わるのである。この生活方法はごく当たり前のことであるが、日本人の住居の過度の清潔さを説明してくれる。」(スイス領事の見た幕末日本)
節約
「節約ということもちゃんと重んじられている。空になった贈り物の箱を回収する人間がいつも見られることからわかる通りだ。彼らは空の箱を買い集めて背負っている。」(大君の都)
「多くの家に「諸事節約」と漢字で書いた貼紙がしてあった。この簡潔な文句は家の家族や奉公人が交際上の遊興その他の不必要な出費を誓ってやめるという意味に受け取れた。」(一外交官の見た明治維新)
健康な子供たち
「まだ小さいうちは男の子と女の子を見分けるのはまず不可能。女の子が少し大きくなって、娘たちの着物と同じだが形だけ小さいものを着るようにならないと区別は難しい。けれどもみんな黒い目が笑っており、頬が赤く白い歯が光っている。どの子もみんな健康そのもので、生命力と生きる喜びに輝いており、魅せられるほどに愛らしく、子犬と同様、日本人の成長をこの段階で止められないのが惜しまれる。」(江戸幕末滞在記)
幸せな子供たち
「日本人は多産な民族である。そこいら辺じゅう子供だらけで、その生き生きとした顔、ふっくらした身体、活発で陽気なところを見れば、健康で幸せに育っているのが直ぐにわかる。まだ小さくて歩けない時は母親や兄姉が背中におぶい、とてもよく面倒を見る。」(江戸幕末滞在記)
「少し大きくなると外に出され、遊び友達に交じって朝から晩まで通りで転げまわっている。 好きな遊びのひとつは紙で作った凧を飛ばすことで、天気の良い日には横浜の天高く何百もの凧が浮かんでいる。」(江戸幕末滞在記)
「女の子は羽根つきが好きで、非常に器用について遊んでいる。」(江戸幕末滞在記)
「祭りの日になると、子供たちは男の子も女の子もそれぞれ綺麗に着飾る。女の子たちは大人の娘と同じくらい厚化粧で、その日に限ってずっと真面目な顔つきをしている。大人と違うのは髪型だけである。」(江戸幕末滞在記)

近世の封建制度
日本の封建制度での上下の人間関係などについて、外国人たちは好意的に評価しています。国民が幸福に暮らしており、むしろ個人的な自由を享受していると見ています。幕府政権の日本では理不尽がまかり通るような専制政治ではなく、理屈の通る法治国家が実現できていたからです。
なお、封建領主のいる本当の封建制度は欧州以外では日本にしかなかったようです。そのために日本は歴史的に発展してきていると外国人も評価したのかもしれません。
上下関係と身分制度
「日本人は身分の高い人物の前に出た時でさえ滅多に物怖じすることのない国民で、わたしはかつてまだ年若い青年が大名や家老と同僚や自分と同じ身分の者と話すのと同じ率直で開けっ広げな会話をする場面に居合わせたことがある。青少年に地位と年齢を尊ぶことが教えられる一方で自己の尊厳を主張することも教えられているのである。」(江戸幕末滞在記)
「日本の上層階級は下層の人々を大変大事に扱う。最下層の召使いが主人に厳しい扱いを受けたなどという例を耳にすることさえ稀である。主人と召使いとの間には、通常友好的で親密な関係が成り立っており、これは西洋自由諸国にあってはまず未知の関係と言ってよい。」(江戸幕末滞在記)
「市民のうち商人階級はその富を利用してある程度の影響力を発揮でき、大枚を寄進することで大小二本を帯刀するなど武士階級の特権を入手することができる。」(江戸幕末滞在記)
国民の自由と法治主義
「ラウツ教授は、日本の下層階級はあらゆる圧迫に曝されていると言っているが、私の看るところをもってすれば、むしろ世界の何れの国のものより大きな個人的自由を享有している。そうして彼らの権利は驚くばかりに尊重せられていると思う。」(長崎海軍伝習所の日々)
「裁判は政府によって極めて正当な方法で行われる。日本人は賞賛以外に一言の不満も漏らしていない。」(長崎海軍伝習所の日々)
「町人は個人的自由を享有している。しかも、その自由たるやヨーロッパの国々でも、あまりその比を見ないほどの自由である。道徳および習慣に違反する行為は間諜の制度によって、たちまち露顕し犯人は逮捕せられる。市民はそれを歓迎しているようだ。そうして法規や習慣さえ尊重すれば決して危険はない。」(長崎海軍伝習所の日々)
封建制度
「これほど長くみごとに中世的な形態を維持してきて十分に発達した封建制度を持った国民とその制度の現状は、注意深い研究に値する。この封建制によって日本人は、我々の考えている意味では自由ではないにしても、多くの幸福を享受することができた。西洋諸国の誇る一切の自由と文明をもってしても、同じくらい長年月に渡ってこの幸福を確保することはできなかったのである。国家の繁栄、独立、戦争からの自由、生活の技術における物質的な進歩、これらはすべて日本人が国民として所有し、そして何世代にも渡って受け継いできたものである。」(大君の都)
「幕府は、昔は事がある時には直ちに各藩を統合する権力を持っていたと思われるが、今は強力な各藩が結合すると幕府を財政困難に陥らせたり滅亡させたりすることができた。それは、封建時代のスコットランド王の状況に似ている。」(幕末日本探訪記)
「これは騎士制度を欠いた封建体制であり、ヴェネチア貴族の寡頭政治である。労働者階級は無である。にもかかわらず、この国には平和、行き渡った満足感、豊かさ、完璧な秩序、そして世界のどの国にましてよく耕された土地が見られる。」(シュリーマン旅行記 清国・日本)

文明国家
幕末の日本では教育が行き渡っており、物質的に繁栄しており国民は満足そうに暮らしています。機械産業やその技術がないにしても、それ以外の産業や工芸は発展しています。こうしたことから、外国人たちは日本を文明国家と認めています。
日本国
「日本人が偉大な民族として、国際的に仲間入りしたことは注目に値する。おそらく世界中で、日本以外に自給自足できる国は他にないであろう。日本は自国内に生活必需品や贅沢品のすべてを供給できるだけのものを十分に持っている。日本の田畑で、熱帯と温帯の産物が同じように生産され、農家の納屋に貯蔵されている。どこの山脈からも石炭、鉛、鉄、銅が発掘され、貴金属もまれではない。茶、絹、綿、木蝋、油脂類が国内いたる所で豊富に産出され、朝鮮人参や他の薬草類が塩魚や海藻などと一緒にシナへ多量に輸出されている。」(幕末日本探訪記)
「この火山の多い国土からエデンの園をつくり出し、他の世界との交わりをいっさい断ち切ったまま、独力の国内産業によって三千万と推定される住民が着々と物質的繁栄を増進させてきている。とすれば、このような結果が可能であるところの住民を、あるいは彼らが従っている制度を、全面的に非難するようなことはおよそ不可能である。わたしは、専制主義や日本政府を弁護しようとしているのではなくて、一ヨーロッパ人旅行者として自然にいだく感想を述べているのである。」(大君の都)
物質文明
「物質文明に関しては、日本人がすべての東洋の国民の最前列に位することは否定しえない。機械文明が劣っており、機械産業や技術に関する応用科学の知識が貧弱であることを除くと、ヨーロッパの国々とも肩を並べることができると言ってもよかろう。」(大君の都)
「彼らの物質文明は、我々の物質文明にあまり遅れてはおらず、国民大衆は秩序があり平和的でヨーロッパのどの国民に劣らないほどの教養と知性をそなえている。」(大君の都)
「もし文明という言葉が物質文明を指すなら、日本人はきわめて文明化されていると答えられるだろう。なぜなら日本人は工芸品において蒸気機関を使わずに達することのできる最高の完成度に達しているからである。それに教育はヨーロッパの文明国家以上にも行き渡っている。シナをも含めてアジアの他の国では女たちが完全な無知のなかに放置されているのに対して、日本では男も女もみな仮名と漢字で読み書きができる。」(シュリーマン旅行記 清国・日本)

明治の産業革命へ
幕末においては、幕府や各藩によって機械産業を興す試みが行われ、それが明治の産業革命へと繋がっています。
後進国などでは、新たな産業を導入する際には外国政府や外国資本に頼ることが多いのですが、日本では自国政府や自国内の資本で、それを行っています。幕末の日本は、新たな産業を興すことができるくらいに富裕であったと言えます。
日本の将来性
「もし、日本の支配者の政策がより自由な通商貿易を許し、日本人をしてバーミンガムやシェフィールドやマンチェスターなどと競争させるようになれば、日本人もそれらに引けを取らずシェフィールドに迫る刀剣や刃物類を作りだし、世界の市場でマクリスフィールドやリヨンと太刀打ちできるだけの絹製品や縮緬製品を産出するだろうとわたしは信じている。その際に、原料と労働力の安価なことは、生来の器用さや技術と相まって、機械の差を補うことであろう。」(大君の都)
長崎の造船所
「数年かかって優れた生徒が養成され、今では日本人は蒸気船を建造することができるのである。これらの船は、実を言うとヨーロッパやアメリカの造船技術の傑作とは比較にならないが、日本人が外国の模倣をしようと思ったものを同化吸収してしまう素晴らしい才能の持ち主であることを見せしめるものである。その点が日本人とシナ人との間に深い境界線を敷くことのできる特質なのである。」(スイス領事の見た幕末日本)
横須賀の造船所
「ひょっとすると日本人の職人の方が西欧人より優秀かも知れなかった。日本のものより遥かに優れている西欧の道具の使い方を直ぐに覚え、機械類に関する知識も簡単に手に入れて、手順を教えてもその単なる真似事で満足せず、自力でその先の仕事をやってのける。日本人の職人がすでに何人も機械工場で立派な仕事をしていた。」 (江戸幕末滞在記)
薩摩の蒸気機関
「何としても一度も実際に蒸気機関を見たこともなくして、ただ簡単な図面をたよりに、この種の機関を造った人の才能の非凡さに驚かざるを得ない。我々オランダ人でも、蒸気機関の働きに十分の理解を持つまでになるには、なみ大抵の苦労ではない。」(長崎海軍伝習所の日々)

中国や韓国は先進国になれるか?
中国や韓国は封建制度を経験していません。国の制度は今でも専制的で中央集権的な官僚制度に見えます。上流階級としての一部の金持ちは豊かですが、貧しい下層階級がスラム街に生活しているようです。
先進国のように思われがちな韓国でも、かつての両班(貴族)のような財閥一族の傍若無人な振る舞いが事件にもなっています。また、最近のMERS騒動でも韓国人の無知な衛生観念など、その後進性が明らかになってきています。
近世日本の優れた封建領主(藩主)は、藩の経営にあたって産業振興や新田開発などを行い、結果的に農民や町民も豊かになっています。封建制は下層民の自発的な向上心に期待していたように見えます。勤勉さが報われる社会を実現していたと言えます。
現在、先進国と言える国は封建制を経験してきた国だけと言ってよいと思います。G7の先進7ヶ国の英、仏、独、伊、米、加、日は、封建制を経て来たヨーロッパの国とそこからの移民によって作られた米と加、そして日本です。ノーベル賞の受賞者数の多い先進国も同じ傾向です。
古代と変わらぬ専制政治を続けている今の中国や韓国の社会体制では、彼らが先進国の仲間入りするのは難しいと思います。というのは、法治主義(法の下の平等)を徹底できず、為政者の思惑に振り回される人治主義がいまだに蔓延しており、起業意欲のある中産階級や勤勉で向上心のある下層階級が育っていないからです。

 G7(先進7ヶ国)
  アメリカ(移民国)
  カナダ (移民国)
  イギリス
  フランス
  ドイツ
  イタリア
  日本

 ノーベル賞受賞者数(1901〜2014年)
  アメリカ    337(移民国)
  イギリス    109
  ドイツ     82
  フランス    58
  スウェーデン  31
  スイス     27
  日本      20
  ロシア、旧ソ連 20
  オランダ    16
  イタリア    14
  カナダ     13(移民国)
  デンマーク   13
  オーストリア  12
  イスラエル   11(移民国)
  ベルギー    11
  ノルウェー   11
  出典:文部科学統計要覧(平成27年版) 文部科学省

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参考文献
「完訳フロイス日本史」ルイス・フロイス 中公文庫
「ヨーロッパ文化と日本文化」ルイス・フロイス 岩波文庫
「聖フランシスコ・デ・サビエル書翰抄」岩波文庫
「日本教会史」ジョアン・ロドリーゲス 岩波書店
「長崎海軍伝習所の日々」カッテンディーケ 東洋文庫
「大君の都」ラザフォード・オールコック 岩波文庫
「スイス領事の見た幕末日本」ルドルフ・リンダウ 新人物往来社
「幕末日本探訪記」ロバート・フォーチュン 講談社学術文庫
「一外交官の見た明治維新」アーネスト・サトウ 岩波文庫
「絵で見る幕末日本」エメェ・アンベール 講談社学術文庫
「シュリーマン旅行記 清国・日本」H・シュリーマン 講談社学術文庫
「江戸幕末滞在記」E・スエンソン 講談社学術文庫
「封建制の文明史観」今谷明 PHP新書
「人口から読む日本の歴史」鬼頭宏 講談社学術文庫
「歴史人口学で見た日本」速水融 文春文庫

2015.06.16 野沢 清 kiyoshi_nozawa@yahoo.co.jp