幕末維新の起業家

幕末から明治にかけて、外国との貿易が始まったこともあり多くの企業が設立され、日本の近代化に貢献しています。日本を代表する有力企業がこの頃に発足し、現在にいたるまで多く存続しています。
世界で先進国と認められる国は西欧と北米以外では日本くらいしかありません。多くの後進国は外国資本や外国企業を誘致して産業化を進めようとしますが、その努力の甲斐もなく先進国になるのは難しそうです。何が違うのでしょうか?
幕末明治の日本では、外国企業や外国資本なしで産業化に成功しています。また、官営企業も順次民営化されています。日本には自前の資本と人材があったのです。江戸時代末期の日本には近代的な産業を興せるだけの豊かさがありました。
この時代に起業して成功したのは社会的階層で言えば「中の下」にあたる下級武士や農民、商人たちが中心です。日本はこれらの起業家のおかげで近代化に成功し先進国の仲間入りができています。

  階層    身分・職業
  上   : 大名など
  中の上 : 上級武士(上士)、豪商、豪農
  中の下 : 下級武士(下士、郷士、足軽)、自作農、商人
  下   : 小作農、職人(雇われ)

没落家出身の起業家
幕末維新の頃の起業家には没落した家の出身者が多くいます。没落した逆境をバネに発奮したのでしょうか。錚々たる企業の創始者たちが没落した家の出身です。

岩崎弥太郎 三菱財閥 出身:没落郷士
岩崎弥太郎は天保五年(1834)に土佐藩の地下浪人の長男として生まれました。地下浪人というのは下級武士である郷士よりさらに下の身分で、郷士の株を売却してしまった元郷士のことです。甲斐性なしの父親がわずかな手間賃を稼いでくるという貧しい生活だったようですが、幸いにも母親の実家が町医者だったことから学問の手ほどきは受けることができたようです。
岩崎弥太郎はあらゆるつてを頼りに安政元年(1854)儒学者の奥宮慥斎の従者として江戸へ行く機会に恵まれました。翌年、昌平黌の儒官であった安積艮斎の見山塾に入門しています。
その後、土佐藩の要職にあった吉田東洋の門下生となり、郷士の身分を復活し下横目という最下層の役を務めています。
さらに、吉田東洋の甥である後藤象二郎の引きで土佐藩の商館「開成館」に勤めるようになりますが、ここで弥太郎は才能を発揮し長崎における土佐藩の貿易のすべてを管理するようになります。
明治になり土佐藩の開成館は土佐開成社、九十九商会、三ツ川商会と変遷し、岩崎弥太郎の三菱商会となりました。三菱は政府の軍需輸送を引き受けることで成長し、日本有数の海運会社となっていきます。そして、それは三菱財閥へと発展します。
 日本郵船
 三菱地所
 三菱商事
 東京海上(東京海上日動火災)
 三菱銀行(三菱東京UFJ銀行)
 三菱造船(三菱重工)
 三菱自動車
 三菱電機
 三菱製紙
 三菱鉱業(三菱マテリアル)
 日本光学(ニコン)

金子直吉 鈴木商店 出身:没落商家
金子直吉は慶応二年(1866)土佐国名野川村の商家に生まれました。実家は数代続いた商家でしたが、落ちぶれて高知に移り棟割長屋に住んでいました。鈴木直吉は極貧のため学校にも通えず屑買いなどをしていました。13歳で商家へ丁稚奉公に行っています。砂糖屋、乾物屋、質屋などを転々としたようです。
明治19年(1886)砂糖や樟脳を扱う鈴木商店に丁稚奉公。店員は直吉を入れて二人でした。
明治27年(1894)鈴木商店の店主が病没。直吉が番頭になる。
明治29年(1896)台湾との樟脳の直接取引に成功。
樟脳、薄荷、砂糖の商売で成功した後、商売を拡大し三井、三菱を凌駕するほどの総合商社に成長します。しかし、昭和2年(1927)の金融恐慌で破綻してしまいました。それでも、鈴木商店の興した優良会社は現在も健在です。
 日本商業(日商→日商岩井→双日)
 帝国人造絹糸(帝人)
 神戸製鋼所
 播磨造船所(石川島播磨重工業→IHI)
 豊年製油(J−オイルミルズ)

古河市兵衛 古河財閥 出身:没落商家
古河市兵衛は天保三年(1832)京都岡崎の没落した酒造家に生まれました。市兵衛は丁稚奉公に出された後、金貸業を営んでいた伯父を手伝い、その知人の古河太郎左衛門の養子になります。
市兵衛は、養父を継いで小野組の使用人になり、生糸輸出、米穀取引、蚕糸取引で活躍します。小野組は幕末期に三井、島田組と並ぶ富商でしたが、明治七年(1874)に小野組は破綻してしまいました。小野組の破綻処理で、市兵衛は第一国立銀行の頭取の渋沢栄一と親しくなります。また、市兵衛は陸奥宗光の次男の潤吉を養子として迎えています。
その後、市兵衛は銅山経営に専心し、草倉銅山(新潟県)、赤柴銅山(長野県)、足尾銅山(栃木県)を経営します。そして、この足尾銅山は全国一の銅山となり、その繁栄を基に市兵衛は古河財閥を築いています。
 古河鉱業(古河機械金属)
 横浜電線製造(古河電気工業)
 富士電機製造(富士電機、富士通)
 横浜護謨製造(横浜ゴム)

川崎正蔵 川崎造船所 出身:没落商家
川崎正蔵は天保七年(1836)に生まれました。生家は薩摩藩御用商人でしたが父の代に没落し、木綿の行商を行っていたようです。
早くに父を亡くした正蔵は長崎に出て貿易商を始めます。明治維新の頃には大坂を拠点とする砂糖商になっていました。そして、海運業への進出を試みますが失敗しています。
明治11年(1878)築地造船所を開設。その後、神戸に川崎兵庫造船所を開設。
明治20年(1887)官営兵庫造船所の払い下げを受け、川崎造船所を設立。
なお、松方幸次郎(1865〜1950)は川崎造船所初代社長で松方デフレの松方正義の三男です。
 川崎造船所(川崎重工)
 川崎製鉄(JFEホールディングス)

森永太一郎 森永製菓 出身:没落商家
森永太一郎は慶応元年(1865)佐賀県伊万里の磁器の卸問屋に生まれました。太一郎が生まれた頃には家業はすでに左前になっており、4歳の時には父が急死。親戚の家を転々とする生活で学校にも行けませんでした。
その後、太一郎は伊万里焼の行商をやっていましたが、19歳で横浜に出ます。
明治21年(1888)勤め先の九谷焼の商品を輸出するため単身渡米。
米国でアメに感激して、西洋菓子の工場で職人修業を行います。
明治32年(1899)2坪の工場兼店舗で西洋菓子の商売を始めました。
 森永西洋菓子製造所(森永製菓)

大倉喜八郎 大倉財閥 出身:没落農家
大倉喜八郎は天保八年(1837)越後・新発田で名主の子として生まれました。家は代々の質屋でしたが、父母の他界で没落してしまいます。
喜八郎は18歳で江戸に出ます。この時、姉から二十両の餞別金を貰っています。そして、麻布飯倉の鰹節屋の店員として三年間働き資金を貯め、下谷に間口二間の乾物屋「大倉屋」を開店しました。
慶応三年(1867)下谷和泉橋通りに鉄砲店「大倉屋」を開店。
明治五年(1872)アメリカ、ヨーロッパへと旅行。ロンドンでは岩倉使節団と一緒になる。
明治六年(1873)貿易商社大倉組商会を銀座二丁目に創立。
 大倉土木(大成建設)
 札幌麦酒(サッポロビール)
 東海パルプ(上場廃止)
 日本無線
 大倉火災海上(千代田火災海上→あいおいニッセイ同和損保)
 帝国ホテル
 ホテルオークラ

若尾逸平 甲州財閥 出身:没落農家
若尾逸平は文政三年(1820)甲斐国在家塚村の農家に生まれました。父親は名主でしたが身代を潰してしまったようです。
逸平は20代から天秤棒を担いで行商を行い、30代になって甲府で呉服、古着の店を構えます。そして、幕末に日本が開港されると、逸平は海外貿易に進出し、綿、生糸、水晶などを取扱い莫大な富を築きました。明治初めの混乱に乗じて土地を買い漁り全国屈指の大地主になりました。初代の甲府市長にもなっています。
明治29年(1896)東京電燈(東京電力)の株を買い占め、同社を乗っ取る。
大正2年(1913)死去。

諸戸清六 山林王 出身:没落農家
諸戸清六は弘化三年(1846)伊勢国木曾崎村に生まれました。生家は庄屋を代々務める家柄ですが、父親が塩の商いに失敗し先祖伝来の田畑を売却してしまいました。
清六は「立志の誓い」を立てて「時間是金也」を信条に努力を重ね、父親の1028両もの借金を返済。清六が成功したきっかけは米相場だったようです。
その後、清六は農地など不動産を買いあさり大地主となり、さらに山林も買い入れて日本を代表する「山林王」になりました。明治22年(1889)には酒田の本間家を抜いて日本一の大地主になったそうです。

貧農出身の起業家
成功した起業家の大部分は中層階級の出身であり、下層階級出身で成功した例は少ないようです。数少ない稀な例が次に紹介する貝島太助です。

貝島太助 貝島炭礦 出身:貧農
貝島太助は天保十五年(1844)福岡県鞍手郡直方の百姓の家に生まれました。実家は田畑を有しない貧農で、船頭や行商の副業で生計を立てていました。貝島太助も八歳で父に従い炭鉱夫となり生計を助けていました。
明治17年(1884)弟と協力して蓄財。大之浦炭礦を買い取り、栄鉱社を設立。
明治31年(1898)貝島鉱業合名会社を設立。
貝島は麻生、安川とともに筑豊御三家と呼ばれ、貝島太助は「筑豊の炭坑王」の異名を取ったようです。
 貝島炭礦(1976年清算)

農家出身の起業家
江戸時代に最も人口が多かったのはおそらく農民でしょう。その農民にもピンからキリまであり、豊かな農民は酒造業や養蚕業などの商売も行っており、その人たちは商人と呼んでも良いのかもしれません。農村にも資本が蓄積されつつあった時代です。

渋沢栄一 実業家 出身:富農
渋沢栄一は天保十一年(1840) 武蔵国榛沢郡血洗島村の富農の家に生まれました。生家は藍玉の製造販売、養蚕を行う富農で名字帯刀を許された家柄です。
渋沢栄一は元治元年(1864)江戸留学中に面識を得た一橋家の用人・平岡円四郎の世話で一橋家の家臣となりました。慶応三年(1867)にはパリ万博に派遣された水戸の徳川昭武に従がって渡欧しています。
明治2年(1869)大蔵省に出仕
明治6年(1873)大蔵省を退官。第一国立銀行を設立。
渋沢栄一は多くの企業創立に関わりましたが、その企業を所有したり財閥化したりするようなことはなかったようです。渋沢栄一は次のような企業の設立にかかわっています。
 第一国立銀行(第一銀行→第一勧業銀行→みずほ銀行) 
 抄紙会社(王子製紙、十條製紙、本州製紙)
 商法講習所(一橋大学)
 東京株式取引所
 東京海上保険(東京海上日動火災保険)
 横浜正金銀行(東京銀行→三菱東京UFJ銀行)
 日本鉄道会社(日本国有鉄道)
 東京電燈(東京電力)
 帝国ホテル
 東京石川島造船所(石川島重工業→IHI、いすゞ自動車)

野村徳七 野村証券 出身:農家?
初代・野村徳七は嘉永三年(1850)河内の生まれです。大坂の両替商・大坂屋に丁稚奉公をしていましたが、独立して両替商になっています。
二代目・野村徳七は明治11年(1878)生まれで、証券業の野村商店を創業しました。
 野村商店(野村証券、コスモ証券)
 野村銀行(大和銀行→りそな銀行)

根津嘉一郎 甲州財閥 出身:富農
根津嘉一郎は万延元年(1860)甲斐国正徳寺村の農家に生まれました。実家は「油屋」の屋号で商売をしていた富農です。
明治22年(1889)に村会議員となり、その後、郡会議員、県会議員になる。
明治26年(1903)東武鉄道を買収し再建。
高野鉄道を買収、堺から高野山まで路線延長して再建。
明治29年(1906)丸三麦酒を買収。
 東部鉄道
 高野鉄道(南海電気鉄道)
 丸三麦酒(日本第一麦酒→日本麦酒鉱泉→大日本麦酒)
 根津美術館

伊藤忠兵衛 伊藤忠 出身:農家
伊藤忠兵衛は天保十三年(1842)近江国豊郷村の地主で呉服太物小売を商う家に生まれました。伊藤忠兵衛は、近郷での行商を西国にまで拡げ、商売を拡張しました。
明治5年(1872)大阪本町に呉服反物商「紅忠」を開店。
 紅忠(伊藤忠、丸紅)

麻生太吉 麻生財閥 出身:富農
麻生家は筑前国嘉麻郡立岩村の庄屋で幕末から炭鉱経営を行っていました。幕末の当主の麻生賀郎は石炭の将来性に着目し、幾つかの鉱区を買い入れていました。
麻生太吉は安政三年(1857)の生まれで、父の指導の下、炭鉱を拡大。安川、貝島と並んで筑豊御三家となりました。麻生は九州で幅広い事業を展開し、戦後はセメント事業が中心となっています。
 嘉穂電燈
 九州水力電気
 九州産業
 嘉穂銀行
 九州鉄道
 麻生産業(麻生セメント)

岩井勝次郎 岩井財閥 出身:農家
岩井勝次郎の養父の岩井文助は天保十三年(1842)に丹波国上平屋村に生まれました。父の負債を返済するために大坂の舶来雑貨商の加賀屋に奉公。21歳で独立し文久二年(1862)に「加賀屋文助」の屋号で洋品雑貨を商っていました。
岩井勝次郎は文久三年(1863)に丹波国旭村の農家に生まれました。
明治8年(1875)大阪の岩井文助の店に奉公。
明治22年(1889)岩井文助の婿養子となる。
明治29年(1896)独立して「岩井商店」を開業。
 岩井商店(岩井産業→日商岩井→双日)
 関西ペイント
 日本曹達工業(徳山曹達→トクヤマ)
 日本セルロイド人造絹糸(大日本セルロイド→ダイセル、富士フイルム)
 大阪鉄板製造(日新製鋼)

大原孝四郎 倉敷紡績 出身:富農?
大原孝四郎は天保四年(1833)の生まれです。
明治21年(1888)に設立された倉敷紡績の頭取に就任。
明治39年(1906)孝四郎が引退。三男の孫四郎が後を継ぐ。
 倉敷紡績
 倉敷絹織(クラレ)
 倉敷銀行(中国銀行)

片倉兼太郎 片倉財閥 出身:富農
片倉兼太郎は嘉永二年(1849)信濃国諏訪川岸村の富裕な農家に生まれました。
明治11年(1878)農業をやめ、垣外製糸所を設立。
大正6年(1917)片倉兼太郎死去。実弟が二代目の片倉兼太郎として跡継ぎに。
大正9年(1920)片倉製糸紡績を設立。
 片倉工業
 片倉生命保険(日産生命に吸収合併)

沖牙太郎 沖電気 出身:富農
沖牙太郎は嘉永元年(1848)広島県の裕福な農家に生まれましたが、百姓を嫌い、大工を目指したようです。
明治8年(1875)工部省電信寮製機所に就職。
明治14年(1881)明工舎を創業。
 明工舎(沖電気工業)

小菅丹治 伊勢丹 出身:農家
小菅丹治は安政六年(1859)神奈川県の農家に生まれました。数え年13歳で上京し伊勢庄呉服店に奉公。同店に奉公する間に読み書きそろばんを学んだようです。その後、得意先の米穀商伊勢屋の小菅又右衛門に認められ婿養子となっています。
明治19年(1886)分家し神田旅籠町に伊勢屋丹治呉服店を開業。
 伊勢屋丹治呉服店(伊勢丹→三越伊勢丹)

豊田佐吉 トヨタ 出身:農家
豊田佐吉は慶応三年(1867)静岡県敷知郡吉津村に生まれました。父は農民でしたが主に大工で生計を立てていたようです。佐吉も小学校を卒業した12、3歳ころから父に従がって大工仕事をしていました。
明治20年(1887)豊橋の大工・岡田波平に預けられる。
明治23年(1890)木製人力織機を発明、特許を得る。
明治25年(1892)東京市外千束村に人力織機4、5台で織布業を起すが失敗。
明治27年(1894)豊田代理店伊藤商店で糸繰返機を販売。
明治30年(1897)豊田式木製動力織機の完成。
豊田商会を名古屋市東区武平町に移転。300坪の工場建設。
明治39年(1899)豊田式織機会社設立。鉄製織機を開発。
大正7年(1918)豊田紡織を設立。
 豊田自動織機製作所(豊田自動織機)
 豊田紡織(トヨタ紡織)
 トヨタ自動車
 豊田通商
 豊田製鋼(愛知製鋼)

長瀬富郎 花王 出身:農家
長瀬富郎は文久三年(1863)美濃国恵那郡の農業と造り酒屋を営む家に生まれました。11歳で母方の実家の雑貨商・若松屋に奉公しています。
明治18年(1885)若松屋を退職し上京。日本橋馬喰町の洋品小間物屋に勤める。
明治20年(1887)独立し洋品雑貨の長瀬商店を開店。
明治23年(1890)新宿旭町の工場で石鹸の製造販売を開始。
 花王石鹸(花王)

光永星郎 電通 出身:農家
光永星郎は慶応二年(1866)熊本県八代郡野津村の農家に生まれました。
明治13年(1880)熊本の共立学舎に入学。
明治18年(1885)共立学舎を自ら退学。九州各地を巡歴。
士官学校に進むべく予備校の育雄校に入学し軍人を目指すが、怪我のため脚が不自由になり、軍人になるのを断念。
明治20年(1887)不穏分子として帝都から追放される。
明治22年(1889)大阪公論の記者となる。
明治34年(1901)日本広告株式会社を創立。
明治39年(1906)日本電報通信社を興す。
 日本電報通信社(電通)

上山英一郎 大日本除虫菊 出身:農家
上山英一郎は文久二年(1862)紀伊国の温州蜜柑を栽培する上山柑橘園に生まれました。慶応義塾に学んだ後、郷里に戻り帰農しています。
明治18年(1885)蜜柑の輸出を行うため上山商店を創業。
福沢諭吉の紹介で会ったH.E.アモアに種を貰ったことから興味を持ち、除虫菊の研究を始めました。
大正8年(1919)上山商店を大日本除虫粉株式会社に改組。
昭和10年(1935)社名を大日本除虫菊株式会社とする。
 上山商店(大日本除虫菊)

商家出身の起業家
やはり商家出身者は商売がうまいのでしょうか、多くの起業家がいます。もちろん資金力もあったのかもしれません。

藤田伝三郎 日産コンツェルン 出身:商家
藤田伝三郎は天保十二年(1841)萩の酒屋に生まれました。幕末には奇兵隊に参加。明治維新後は政商として活躍しました。
明治14年(1881)藤田組を設立。
明治17年(1884)秋田県の小坂鉱山(銀山)の払い下げを受ける。
        銀は枯渇していたが銅が豊富で経営が軌道に乗る。
 藤田組(同和鉱業→DOWA)

藤田伝三郎の甥の久原房之助(1869〜1965)は萩に生まれました。藤田組で小坂鉱山の経営に携わりますが、後に独立しています。
明治38年(1905)赤沢鉱山を買収。久原鉱業所日立鉱山と名付け経営。
明治45年(1912)久原鉱業株式会社を設立。
 久原鉱業(日本鉱業→新日鉱ホールディングス→JXホールディングス)
 日立製作所

久原房之助の義兄となる鮎川義介(1880〜1967)は元長州藩士の子として生まれました。東京帝国大学機械工学科を卒業後、その肩書きを隠し一職工として芝浦製作所で働いています。その後、渡米して可鍛鋳鉄の技術を学びました。
明治43年(1910)戸畑鋳物を設立。
昭和3年(1928)久原鉱業の社長に就任。
昭和8年(1933)自動車製造を設立。
 自動車製造(日産自動車)
 日産火災(損保ジャパン→損保ジャパン日本興亜)
 日産生命(1997年破綻)
 日産化学工業
 満州重工業開発(1945年消滅)
 日立造船

鈴木三郎助 味の素 出身:商家
鈴木三郎助は慶応三年(1867)相模国三浦郡堀内村の酒類・雑穀を扱う商店に生まれました。
三郎助は14歳で食料品問屋に丁稚奉公。明治18年(1885)に実家の滝屋を継ぎますが、米相場に手を出し失敗し、生活費すら困るほどに追い詰められました。
その後、三郎助は母親が家業として海草から沃度(ヨード)の製造を始めたのを手伝うようになります。ヨードカリ、ヨードチンキ、ヨードホルムなどの製造を行っていたようです。
明治39年日本化学工業の創立に参加。
明治42年「味の素」の特許と商標を出願。
 味の素

御木本幸吉 ミキモト 出身:商家
御木本幸吉は安政五年(1858)三重県鳥羽市でうどん屋を家業とする商人の家に生まれました。幸吉は海産物の取引でそれなりの成功をおさめ地元の海産物組合の組合長になっています。その後、養殖真珠事業を始め成功しています。
 御木本真珠店(ミキモト)

服部金太郎 セイコー 出身:商家
服部金太郎は万延元年(1860)江戸・京橋の古物商の家に生まれました。服部家は代々の尾張藩士でしたが町人となり名古屋で材木商を営んでいたようです。父親の代になって江戸に出て古物商になりましたが、裕福ではなかったようです。
13歳(1873)の時に洋品雑貨問屋の辻屋に丁稚奉公に出ましたが、そこで働くうちに時計店に興味を持ったようです。
明治7年(1874)日本橋の亀田時計店、明治9年(1876)黒門町の坂田時計店で時計の修繕の技術を学び蓄財に励んだようです。
明治10年(1877)服部時計修繕所を開業。その後、販売専門店へシフト。
明治14年(1881)京橋に服部時計店を開業。
明治25年(1892)本所区石原に時計工場の精工舎を設立。
明治27年(1894)銀座四丁目の角に時計台を持つ近代的なビルを建設。
 服部時計店(セイコーホールディングス)
 精工舎(セイコークロック、セイコープレシジョン)
 第二精工舎(セイコーインスツル)
 諏訪精工舎(セイコーエプソン)
 和光

田中久重 東芝 出身:商家
田中久重は寛政十一年(1799)筑後国久留米の鼈甲細工を営む家に生まれました。9歳から手習いに通いましたが抜群の成績で、幼い頃から細工が得意だったそうです。
21歳、近所の五穀神社の祭礼にからくり人形を出し大成功を収めています。
26歳、からくり興業で熊本に行き、その後に筑後、筑前、肥前など九州を回り、大坂の道頓堀でもからくり人形の興業を行っています。その後、更に江戸でも興業を行っています。
36歳になり、大坂に移り自分の店を構えています。この店では、家庭用照明の「無尽燈」を売り出しました。また、時計修理の仕事を始めています。その他に、消火用放水器の「雲竜水」も発明しています。
49歳、京都に移り機巧堂という店を構えました。この頃、土御門家で陰陽学(天文学)を学び、近江大掾の称号を与えられています。また、万年時計(万年耳鳴鐘)を売り出しています。
嘉永三年(1850)52歳、オランダ学者の広瀬元恭の弟子になりました。
嘉永五年(1852)54歳、佐賀藩鍋島家の精錬方。
安政二年(1855)57歳、模型の蒸気機関車、蒸気船を製造。
文久三年(1863)木製外輪船「凌風丸」の建造を開始。
元治元年(1864)久留米藩製造所の設立。
慶応二年(1866)久留米藩製造所にて銅製の八十封土砲を鋳造。
慶応三年(1867)久留米藩製造所諸職裁判役。
明治6年(1873)芝西久保神谷町(港区神谷町)に工場を移転。
明治7年(1874)モールス電信機の製造に成功。
明治8年(1875)芝新橋金六町(銀座八丁目)に田中製造所を設立。
 田中製造所(芝浦製作所→東京芝浦電気→東芝)

森村市左衛門 森村財閥 出身:商家
森村市左衛門は天保十年(1839)武具商の六代目として江戸・京橋に生まれました。
安政二年(1855)の大火で家屋、店舗を失いますが、これを再建しています。
安政六年(1859)横浜が開港すると舶来品販売に転業して成功。
幕末維新には洋式馬具の製造で巨利を得ています。
明治9年(1876)森村組を設立。異母弟の森村豊をニューヨークに派遣。
ニューヨーク支店・森村ブラザースを開設し、陶磁器の輸出を始めています。
明治37年(1904)日本陶器合名会社を設立。
大正3年(1914)白色硬質磁器の製造に成功。
 森村組(森村商事)
 日本陶器(ノリタケカンパニーリミテド)
 日本碍子(日本ガイシ)
 東洋陶器(東陶機器→TOTO)

岡谷惣助 岡谷鋼機 出身:商家
岡谷惣助(九代目)は嘉永三年(1851)名古屋で代々続く金物屋に生まれました。岡谷家は尾張藩の御勝手御用達で名字帯刀を許されていました。
岡谷惣助は、明治維新後、名古屋で銀行や紡績会社を設立するのに協力、参加しています。名古屋財界の重鎮となっています。
 岡谷合資会社(株式会社岡谷商店→岡谷鋼機)

川西清兵衛 川西財閥 出身:商家
川西清兵衛は元治二年(1865)に大坂の木蝋問屋の筑紫三郎助の四男に生まれました。清兵衛は22歳で神戸の資産家・川西家の婿養子となりました。川西家は石炭・石油売買や倉庫業を行っていました。
明治29年(1896)日本毛織株式会社を創立。
大正7年(1918)日本飛行機製作所の設立に参加。
大正9年(1920)川西機械製作所を設立。
 日本毛織
 川西機械製作所(神戸工業→富士通テン)
 川西航空機(新明和工業)

中部幾次郎 マルハ 出身:商家
中部幾次郎は慶応元年(1866)明石の鮮魚仲買の「林兼」に生まれました。
明治30年(1897)小型の中古蒸気船を購入して曳船に活用。
明治38年(1905)石油発動機付の鮮魚運搬船を建造。
大正5年(1916)漁業に進出。
大正7年(1918)土佐捕鯨を買収。
 林兼商店(大洋漁業→マルハ→マルハニチロ)
 林兼造船

坂口平兵衛 日本レイヨン 出身:商家
坂口平兵衛は安政元年(1854)米子の木綿を商う商家「澤屋」に生まれました。
坂口平兵衛は明治の松方デフレで地価が暴落すると土地を買い集め巨利を得たようです。
明治21年(1888)米子紡績を設立。
明治24年(1891)米子汽船を設立。
明治27年(1894)米子銀行を設立。
明治40年(1907)山陰電気を設立。
 米子紡績(日本製糸→日本レイヨン→ユニチカ)
 米子銀行(山陰合同銀行)

島津源蔵 島津製作所 出身:商家
島津源蔵は天保十年(1839)に京都の仏具師の家に生まれました。
島津源蔵は明治三年(1870)に設立された京都の舎密(せいみ)局で化学用機器の製造に従事するようになります。(舎密とは化学のことです)
明治8年(1875)理化学教育用の機器製作所を創業。
明治29年(1896)日本初のレントゲン機器を製作。
明治30年(1897)蓄電池の製造を開始。
 島津製作所
 日本電池(GSユアサ)

山口吉郎兵衛 三和銀行 出身:商家
山口半兵衛(1761〜1813)は奈良の山口村から大坂に出てきて呉服店を始めました。
初代・山口吉郎兵衛(1797〜1867)は「布屋」を名乗って舶来反物商を行っていました。
二代目・山口吉郎兵衛(1819〜1871)は養子です。積極的商法で商売を拡大、のちに両替商に転身しています。
三代目・山口吉郎兵衛(1851〜1887)は明治12年(1879)百四十八国立銀行を設立しました。
 百四十八国立銀行(山口銀行→三和銀行→三菱東京UFJ銀行)

弘世助三郎 日本生命 出身:豪商
弘世助三郎は天保十四年(1843)滋賀県彦根市の豪商の家に生まれました。助三郎が4歳の時に、別の豪商の家に養子に出されています。
明治になって第百三十三国立銀行(現滋賀銀行)が設立された時には頭取となっています。その後、10代目鴻池善右衛門の協力を得て日本で3番目の生命保険会社を設立しました。
 日本生命

医家出身の起業家
江戸時代の医者はインテリだと思いますが、商売にはあまり興味がなかったのでしょうか。医者の人口が少ないこともあったでしょうが、起業家の例は少ないようです。

浅野総一郎 浅野財閥 出身:医家
浅野総一郎は嘉永元年(1848)に越中国氷見郡薮田村の医者の次男として誕生しました。
慶応二年(1866)近村の大庄屋・鎌仲惣右衛門の養子になる。
慶応三年(1867)養家に無断で始めた事業が失敗。
明治三年(1870)実家に戻り商売を始めるがうまくいかず。
       借金を踏み倒して上京、醤油屋の小僧として働く。
明治六年(1873)横浜で石炭販売店を開業。
明治十六年(1883)渋沢栄一の斡旋で深川セメント工場を借り受ける。
        その後、払い下げられ浅野セメント工場を発足。
浅野総一郎は東京湾の鶴見、川崎の海岸を埋め立てた「東京湾築港計画」を推進し、京浜工業地帯の基礎をつくりました。鶴見線の浅野駅の名前は浅野総一郎にちなんでいるそうです。
 浅野セメント(日本セメント→太平洋セメント)
 浅野造船所(日本鋼管→JFEホールディングス)
 磐城炭礦社(常磐炭礦→常磐興産)

早矢仕有的 丸善 出身:医家
早矢仕有的(はやしゆうてき)は天保八年(1837)に美濃国に医師の子として生まれました。幕末期に医師として活躍しています。
慶応三年(1867)福沢諭吉の私塾に入る。
明治2年(1869)輸入商社の丸屋商社を創業。
 丸屋商社(丸善)

武家出身の起業家
「武家の商法」という言葉がありますが、意外と起業に成功した武士の例も多くあります。下記以外では前述の没落士族の岩崎弥太郎(三菱財閥)も一応武士です。また、渋沢栄一も農家の出身ですが一橋家の家臣となり武士の仲間入りをしています。

安田善次郎 安田財閥 出身:下士
安田善次郎は天保九年(1838)に越中・富山藩の下士(足軽)の子として生まれました。生家は半農半士の貧乏な末席士族でした。
善次郎は16歳で家出を試み、何度か失敗しています。その後、江戸で玩具問屋に3年、両替商兼海産物問屋に3年奉公しました。
文久三年(1863)に独立し、小銭の両替や海産物の商店を開店。両替商として成功し幕府の仕事を請け負うまでになりました。
明治九年(1876)第三国立銀行を創設。明治十年(1877)には第四十一国立銀行を創立しています。そして明治十三年(1880)に日本最初の民間銀行である安田銀行を発足させています。
 安田銀行(富士銀行→みずほ銀行)
 安田火災海上(損保ジャパン→損保ジャパン日本興亜)
 安田生命(明治安田生命)

福原有信 資生堂 出身:郷士
福原有信は嘉永元年(1848)安房国の郷士の家に生まれました。祖父が漢方医だったので、17歳で江戸に出て西洋医学を学んでいます。
幕府崩壊後、23歳で海軍病院の薬局長になっています。その後、医薬分業を実践したいと海軍病院を辞して、薬局「資生堂」を開業しました。
高級練り歯磨き「福原衛生歯磨石鹸」、本邦初のビタミン剤「脚気丸」を発売。
明治30年(1897)には化粧水「オイデルミン」を発売しています。
 資生堂

安川敬一郎 安川財閥 出身:武家
安川敬一郎は嘉永二年(1849)に福岡藩士・徳永貞七の子として生まれ、安川家の婿養子になりました。安川敬一郎は藩費留学生として慶応義塾に学んでいます。
安川敬一郎は兄と協力して炭鉱経営に従事しています。明治20年(1887)には石炭販売店「安川商店」を開業。石炭の流通業にも進出しました。
 明治鉱業(1969年解散)
 安川電気製作所(安川電機)

岡崎藤吉 岡崎財閥 出身:武家
岡崎藤吉は安政三年(1856)に佐賀藩士・石丸六太夫の四男に生まれました。裸一貫で上京し苦学して東京工部大学予備門(現東京大学工学部)を卒業。
明治7年(1874)に上海に渡り帰国後は小学校教員を経て熊本県庁、兵庫県庁に就職。兵庫県庁時代に兵庫の資産家・岡崎真鶴の婿養子に迎えられました。岡崎真鶴は土佐藩士から飾磨県の権県参事となり、辞任後は山陽鉄道の開業に尽力。第三十八国立銀行の頭取に就任しています。
岡崎藤吉は明治16年(1883)に武庫郡の村長に転身しました。
明治19年(1886)摂州灘酒家銀行、摂州灘興業の設立に参加。
明治27年(1894)岡崎事務所(後に岡崎汽船となる)を開設。海運業を始める。
明治40年(1907)神戸海上火災保険を設立。
大正6年(1917)神戸岡崎銀行を設立
 神戸岡崎銀行(神戸銀行→太陽神戸銀行→さくら銀行→三井住友銀行)
 神戸海上火災保険(同和火災海上→あいおいニッセイ同和損害保険)

佐久間貞一 大日本印刷 出身:武家
佐久間貞一は嘉永元年(1848)幕臣の次男として生まれました。幕府陸軍所士官学校に学んでおり、戊辰戦争の折には彰義隊に参加しています。
明治9年(1876)秀英舎の創業に参加。
 秀英舎(大日本印刷)

竹内明太郎 小松製作所 出身:武家
竹内明太郎は安政七年(1860)土佐藩の上級藩士の家に生まれました。吉田茂の異母兄にあたります。
竹内明太郎は、岩崎弥太郎の岩崎英学塾の後、中江兆民から欧米の思想を学びました。当初は父親とともに炭鉱経営に携わっていましたが、その後、機械工業へ乗り出しています。
明治33年(1900)パリ万博のため渡欧。当地の先進技術に圧倒される。
明治42年(1909)九州に唐津鉄工所を開設。
大正6年(1917)竹内鉱業株式会社小松鉄工所を開設。
大正10年(1921)株式会社小松製作所を設立。
 小松製作所

江戸時代からの企業1
江戸時代から続く企業も幕末から明治になるつれ、その時代の影響を多く受け、商売替えをしています。

鴻池善右衛門 鴻池財閥 出身:豪商
初代・鴻池善右衛門(1608〜1693)は酒造業から海運業にも手を拡げ、その利益で両替商も始めました。
三代目・鴻池善右衛門(1667〜1736)は酒造業を廃して両替商専業になっています。また河内国に鴻池新田の開発も行っています。
鴻池家は大坂最大の両替商に成長し、大名相手に高利で金貸しを行っていました。幕末に鴻池家と取引のあった大名は76藩にも及んだそうです。しかし、明治4年(1871)の廃藩置県で大名貸しは棒引きにされてしまいます。
十代目・鴻池善右衛門(1841〜1920)は明治10年(1877)に第十三国立銀行を設立しました。しかし、その後の鴻池家は消極的経営で次第に衰退していきます。
 第十三国立銀行(鴻池銀行→三和銀行→三菱東京UFJ銀行)

住友家 住友財閥 出身:豪商
初代・政友(1585〜1652)は京都で薬舗・出版業を営む店を開きました。
二代目・友似は泉屋理兵衛を名乗って大坂を本拠地に銅精錬と銅貿易を行いました。
三代目・友信は秋田、山形、岡山で銅山を経営し、両替商を始めています。
三代目・友信から当主は代々「吉左衛門」を名乗るようになりました。
四代目・友芳の代になり伊予に別子銅山を開坑。国内最大の銅山となりました。その豊かな資金力を背景に江戸に進出し両替商の商売を拡大しました。三井、鴻池と並んで江戸時代に三大豪福と呼ばれるまでに成長しています。
明治元年(1868)別子銅山が官軍に差し押さえられましたが、解除に成功しています。
別子銅山に外国人技師を招聘し新技術を導入。産銅額は飛躍的に増大しました。
明治28年(1895)住友銀行を設立。
明治30年(1897)日本製銅を買収して住友伸銅場を開設。
明治34年(1901)日本鋳鋼所を買収して住友鋳鋼場を設立。
 住友銀行(三井住友銀行)
 住友本社(住友不動産)
 住友機械製作(住友重機械)
 住友建設(三井住友建設)
 住友商事
 日本電気
 住友化学工業(住友化学)
 住友鋳鋼場(住友金属工業→新日鐵住金)
 住友生命保険
 住友海上火災(三井住友海上火災)

三井家 三井財閥 出身:豪商
創業者・三井高利(1622〜1694)は京都と江戸に呉服店・越後屋を開店。現金掛け値なしの定価商売で人気を博しました。その後、呉服店で得た資金を元に両替商を始め、江戸・京都・大坂間で為替業務を行い巨万の富を築きました。
明治4年(1871)新貨幣為替御用を三井が独占的に拝命。
明治9年(1876)三井銀行を設立。
明治9年(1876)三井物産を設立。
 越後屋(三越)
 三井銀行(さくら銀行→三井住友銀行)
 三井物産
 三井建設(三井住友建設)
 三井不動産
 三井船舶(商船三井)
 三井造船
 東洋綿花(トーメン→豊田通商)
 東洋レーヨン(東レ)
 大正海上火災(三井海上火災→三井住友海上火災)
 三井鉱山(日本コークス工業)
 神岡鉱業(三井金属鉱業→三井金属)
 三井化学工業(三井化学)
 三井生命

飯田新七 高島屋 出身:商家
初代・飯田新七(中野鉄次郎)
享和三年(1803)越前国敦賀に生まれました。
文化十一年(1814)京都の呉服店の丁稚となり、京都から大津へ行商。
文政十一年(1828)京都の米穀商の養子となり飯田新七を名乗る。翌年には古着の行商を始めています。
天保二年(1831)烏丸通で古着と木綿の店「高島屋」を開業。
嘉永五年(1852)隠居。
二代目・飯田新七(上田直次郎)
文政十年(1827)生まれ。初代飯田新七の婿養子となりました。
安政元年(1854)20年続けてきた古着商をたたみ、木綿呉服商へ転業。
元治元年(1864)禁門の変で店舗が丸焼けになりますが、直ぐに店を開き通常価格での商いを再開。信用を高め、名声を得ています。
明治11年(1878)急逝。
飯田歌(初代飯田新七の長女、二代目・飯田新七の妻)
新撰組の隊旗を受注する一方、勤王派の志士とも親しく、桂小五郎夫人の幾松と親しくしていました。明治維新後には政府要人の夫人と交友関係を重ね、宮内省御用達や政府からの用務を引き受けています。
三代目・飯田新七(二代目・飯田新七の長男)
明治21年(1888)病弱のため35歳で引退。
四代目・飯田新七(三代目・飯田新七の弟)
大阪、東京への出店。店舗の百貨店化、近代化を成し遂げました。
明治23年(1890)東京出張所(日本橋本石町)
明治31年(1898)大阪店(心斎橋店)
明治33年(1900)東京店(京橋区西紺屋町、現銀座三丁目)
大正5年(1916)高島屋飯田株式会社を設立。
京都西陣織や刺繍などを欧米に輸出し、高級織物を輸入する貿易事業を始めました。貿易拠点として横浜、神戸、京城、天津、リヨン、シドニー、ロンドンを開設しています。
 高島屋
 高島屋飯田株式会社(丸紅飯田→丸紅)

瀧兵右衛門 タキヒヨー 出身:商家
初代は古知野(愛知県江南市)の豪農の生まれです。京都で呉服、織物の知識を学び、帰郷。
宝暦元年(1751)織物の卸売商「絹屋兵右衛門」を創業。
二代目は寛政六年(1794)の生まれ。尾張地方の木綿を江戸に運んで売り、関東の織物を名古屋で販売し急成長しました。文政八年(1825)名古屋の東万町に支店を出しています。天保の飢饉で窮民の救済に務めた功で名字帯刀を許され、尾張藩の御勝手御用達を命じられています。
四代目は天保十四年(1843)生まれ。明治8年(1875)に本店を古知野から名古屋に移しました。京都支店、東京支店を開設。全国展開を目指しています。また、名古屋財界人と図って名古屋銀行を設立、愛知銀行の設立にも参加しました。
 絹屋兵右衛門(瀧兵右衛門商店→株式会社瀧兵商店→タキヒヨー)
 愛知織物(呉羽紡績に吸収合併→東洋紡)
 帝国撚糸(上場廃止)

正田貞一郎 日清製粉 出身:商家
正田家は江戸時代から館林で米穀問屋を営んでいました。
三代目・正田文右衛門は明治6年(1873)経営安定のため醤油製造に乗り出します。
正田貞一郎は明治3年(1870)生まれで正田文右衛門の孫。父の正田作次郎は正田文右衛門の次男で、横浜で外国米の輸入を行っていましたが、26歳で急逝しました。
正田貞一郎は東京高商(一橋大学)に進み外交官を目指しますが、正田醤油を経営していた叔父の正田民三郎が急逝すると懇願され醤油製造に従事することになりました。
明治33年(1900)に館林製粉を設立しました。
 正田醤油
 館林製粉(日清製粉)

中埜又左衛門 ミツカン 出身:農家
中埜家は尾張国半田村で村役人格を務める傍ら酒造業を営んでいました。
文化八年(1811)酒粕を原料とする製酢業を始めています。
元治元年(1864)酒造業を売却し製酢業に専念。
明治21年(1888)現在のミツカンの商標に変更。
 中埜酢店(ミツカン)
 丸三麦酒(大日本麦酒に吸収合併)
 中埜銀行(1938年廃業)
 敷島製パン(創業時に出資)

田部長右衛門 山林王 出身:製鉄業
田部家は出雲(島根)で室町時代から続く製鉄業の家系。製鉄のために多くの山林を所有。
21代目の田部長右衛門は嘉永三年(1850)の生まれで、製材、製炭業に転業して成功。 旧来のたたら製鉄法は近代的な製鉄法に押され、大正12年(1923)に製鉄業は廃業。23代目は島根県知事です。
 田部本店
 田部林産
 湖北ベニヤ

江戸時代からの企業2
醸造業では江戸時代から続く有力企業が今でも健在です。これらの企業は商売の多角化をあまり行わず、本業を守り続けています。もちろん、設備や製造工程の近代化への努力などは継続的に行われていたことだと思いますが。また、嘉納家、辰馬家、浜口家などの同族企業が生き残っているのも、この業界の特徴かもしれません。
 嘉納家(本嘉納家) 菊正宗酒造
 嘉納家(白嘉納家) 白鶴酒造
 辰馬家(辰馬本家) 辰馬本家酒造(白鹿ブランド)
 辰馬家(北辰馬家) 白鷹
 茂木家      野田醤油(キッコーマン)
 浜口家(儀兵衛)  ヤマサ醤油
 浜口家(吉右衛門) ヒゲタ醤油

大学の創始者
大学の創設者は、やはり江戸時代のインテリである武士が多いのは当然かもしれません。日本の近代化に大きく貢献しています。
 創設者   生年       大学     出身
 福沢諭吉  天保五年(1835)  慶応義塾大学 武家(豊前国中津藩)
 大隈重信  天保九年(1838)  早稲田大学  武家(肥前国佐賀藩)
 新島襄   天保十四年(1843) 同志社大学  武家(上野国安中藩)
 新渡戸稲造 文久二年(1862)  東京女子大  武家(陸奥国南部藩)

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参考文献
「日本の15大財閥」菊池浩之 平凡社新書
「日本の地方財閥30家」菊池浩之 平凡社新書
「近代日本の創業者100人」世界文化社
「日本の創業者列伝」加来耕三 人物文庫 学陽書房
「日本「創業者」列伝」宝島SUGOI文庫
「小説 田中久重」童門冬二 集英社文庫
「豊田佐吉」楫西光速 人物叢書 吉川弘文館

2015.08.05 野沢 清 kiyoshi_nozawa@yahoo.co.jp