古代の夷人たち
日本の古代において、異民族のように扱われた先住民たちがいました。大宝令や養老令で毛人(蝦夷)、肥人(隼人)、阿麻弥人(奄美人)などは夷人雑類に分類されています。
おそらく、彼らは見た目、服装、生活風習も違っている人たちであり、時として大和の政権に逆らった人たちです。蝦夷や隼人のほかに、国栖あるいは土蜘蛛と呼ばれた人たちも古代の日本列島には住んでいました。
隼人(はやと)
隼人は、古代の南九州の住民です。薩摩半島、大隅半島に住んでいたとされており、薩摩隼人、大隅隼人と分けて呼ばれることもあります。神話に出てくる日本武尊と戦った熊襲は、隼人と同一なのかどうかは、はっきりしません。ただ、隼人は、蝦夷と違い古くから大和政権に服属していたようです。
天皇の守護人
隼人は、その勇猛さと呪力をかわれて天皇の守護を担当しています。天平、奈良時代には宮門を警備する衛門府に隼人司が置かれていました。
また、雄略天皇の葬送(479年)では隼人が昼夜陵の側で哀号したとか、敏達天皇の崩御の際の殯宮(もがりのみや)(585年)を隼人が警備したなどの記事が日本書紀にありますが、これらが史実どうかは疑わしいようです。ただ当時の人にとって古代から隼人が天皇の近習として警備してきたとの思いがあったようです。
隼人の吠声(はいせい)
隼人は、夜には犬のように吠えて警備を行っています。その吠え声には呪力があったようです。この吠声は有名で万葉集巻(11-2497)にも歌われています。
「隼人の名に負ふ夜声いちしろくわが名は告(の)りつつ妻と恃(たの)ませ」
隼人は、天皇の行列の守護役で国の境や道路の曲がりなどでも、吠声を発していました。行列の先払いとして、邪気・邪霊を払ってたようです。
また、践祚大嘗祭(天皇が即位の礼の後、初めて行う新嘗祭)の儀式においても、隼人の吠声が発せられていました。
朝廷儀式
朝廷での元日の儀式、天皇即位の儀式、蕃客(外国使節)入朝などの儀式などでは、隼人が横刀、盾、槍などを携帯して参列したようです。この儀式で用いた隼人盾は独特のものだったようです。上下の鋸歯文(連続三角文)と中央の赤の目立つ渦巻文が描かれた盾です。
和銅3年(710)の朝賀の儀式に、隼人と蝦夷が参列しています。左右の将軍、副将軍が、隼人と蝦夷を率いて行進したようです。
隼人舞
平安時代の大嘗祭では隼人舞と呼ばれる隼人による歌舞が演じられていました。近年になって京田辺市では隼人舞を復活させています。この隼人舞は京田辺市の無形民族文化財になっているようです。
隼人の移配
7世紀には、隼人が畿内、近江、紀伊などに移住させられたようです。下記はその移配地の例です。
大和国宇智郡阿陀郷
山城国綴喜郡大住郷
山城国綴喜郡宇治田原郷
河内国若江郡萱振保
近江国栗太郡竜門
丹波国桑田郡佐伯郷
このうち、山城国綴喜郡大住郷は、隼人舞を復活させた京田辺市大住のようです。大住(おおすみ)の名は大隅(おおすみ)半島の隼人が住んだからでしょうか。
国栖(くず)
国栖は土蜘蛛(つちくも)と呼ばれることもあります。「穴居するがゆえに賤しき号を賜った」と言われています。
先住民
常陸国(ひたちのくに)風土記によれば、国栖や土蜘蛛は八束脛(やつかはぎ)とも呼ばれるとされています。八束脛は脛の長い人の意味ですが、そうすると神武天皇に敵対した大和の長脛彦(ながすねひこ)との関連が気になります。おそらくは、国栖、土蜘蛛、八束脛も長脛彦も、穴居するという原始的な生活をしていた先住民であったのではないかと思います。
国栖、土蜘蛛の分布
風土記などによると、国栖あるいは土蜘蛛のいた地域は、福島県、新潟県、近畿、九州に渡っています。最北は陸奥国の白河の東南に当たる福島県東白川郡棚倉町八槻です。この辺が蝦夷と国栖の境界線でしょうか。
九州では肥前国、豊後国などに土蜘蛛がいたとされています。南九州の熊襲や隼人とは別種であると認識されていたのだと思います。
近畿の国栖と土蜘蛛
古事記や日本書紀の神武天皇記に国栖や土蜘蛛がでてきますが、異形の人として描かれています。
吉野国栖には尾が生えていたと書かれています。また、大和国磯城郡忍坂村の土蜘蛛にも尾が生えていたと書かれています。
高尾張邑(葛城)の土蜘蛛は「身短くして手足長し。侏儒(ひきひと)と相類(に)たり。」と書かれています。人間とは思えない賤しい存在として記述されているのが気になります。
吉野国栖
神武天皇記では、尾が生えていたとされ卑賤視された吉野国栖ですが、3〜4世紀の応神天皇記では「その為人(ひととなり)甚だ淳朴(すなお)なり」と記述されています。
そして、吉野国栖は大嘗会(だいじょうえ)など朝廷の主要な儀式で、歌舞を奏するようになります。隼人舞と同じように吉野国栖による国栖舞は儀式に欠かせない演目だったようです。
なお、奈良県吉野郡吉野町国栖という地名が今でも残っています。この地の浄見原神社では国栖舞(国栖奏)が舞われており、奈良県の指定無形文化財になっているようです。
蝦夷(えみし)
蝦夷は、越後や東北地方(陸奥国)に住んでいた先住民で、平安時代まで朝廷に反抗していた人たちです。
蝦夷と毛人
蝦夷は毛人(えみし)と書かれることもありますが、一騎当百の勇猛な人と認識されていたようです。そのため、蝦夷や毛人の名前を持つ著名人も珍しくありません。
蘇我蝦夷(?-645) 蘇我毛人とも書かれる
小野毛人(?-677) 小野妹子の子
鴨 蝦夷(?-695) 壬申の乱に参加
佐伯今毛人(719-790) 東大寺の造営、遣唐大使
服従と反抗
大和政権は東北の蝦夷を征服しようと長年にわたって苦労しますが、平安時代になって征夷大将軍の坂上田村麻呂や文屋綿麻呂らの活躍によってようやく平定できるようになりました。
斉明天皇元年(655)
越の蝦夷99人、陸奥の蝦夷95人が入朝。難波の宮で歓迎会。
柵養蝦夷9人と津軽蝦夷6人に冠位を授与。
斉明天皇5年(659)
遣唐使が、蝦夷男女2人を連れていき唐の天子に見せています。
和銅2年(709)
蝦夷征討のため、陸奥鎮東将軍、征越後蝦夷将軍を派遣。
和銅3年(710)
朝賀の儀式に隼人、蝦夷が参列。
左右の将軍、副将軍が隼人、蝦夷を率いて行進。
霊亀元年(715)
朝賀に陸奥国、出羽国の蝦夷と奄美、屋久島などの南島人が参列。
38年戦争
宝亀5年(774)〜弘仁2年(811)の蝦夷との戦い。
延暦16年(797)に坂上田村麻呂が征夷大将軍に任命され派遣。
弘仁2年(811)征夷将軍・文屋綿麻呂が蝦夷の平定を報告。
元慶の乱
元慶2年(878)に秋田の蝦夷・俘囚が反乱。役人の苛政が原因のようです。
俘囚の移配
朝廷の支配に属するようになった蝦夷を俘囚(ふしゅう)と呼びます。こうした俘囚を全国に強制移住させることも行われていました。しかし、この俘囚たちは素直に定住しないため役人たちは苦労したようです。
「類聚三代格」延暦17年(798)の官符によると、九州に移住させられた俘囚について「恒に旧俗を存し、いまだ野心を改めず、狩猟を業となし、養蚕を知らず、しかしのみならず、居住定まらず、浮遊すること雲の如し」と書いています。
神亀2年(725)
伊予 144人(陸奥)
筑紫 578人(陸奥)
和泉監 15人(陸奥)
天平10年(738)
摂津職 115人(陸奥)
筑後 62人(陸奥)
宝亀7年(776)
大宰府管内諸国 395人(陸奥)
大宰府管内讃岐 358人(出羽)
諸司参議以上 78人(出羽)
延暦14年(795)
日向 66人(陸奥)
延暦18年(799)
土佐 4人(陸奥)
延暦19年(800)
出雲 60余人
大同元年(806)
近江国の夷俘640人を大宰府に送り防人にした。
俘囚の反乱
坂上田村麻呂らによって蝦夷が平定された後も、各地で俘囚が反乱を起こしています。
嘉祥元年(848)
上総で俘囚反乱
貞観17年(875)
下総、下野で俘囚反乱
元慶7年(883)
上総で俘囚反乱
天慶2年(939)
秋田で俘囚反乱
蝦夷の終焉
11世紀には、俘囚の長を名のる陸奥国の阿部氏、山北の俘囚主を名のる出羽国の清原氏が覇権を争うようになります。もはや蝦夷との戦いではなく、地方豪族同士の戦いになってきました。そして、12世紀になると奥州藤原氏による平泉文化の平和な時代が訪れます。
粛慎(みしはせ)
粛慎は日本古代にいたとされる北方民族です。漢民族にならって、北方にいた蝦夷とは違う人たちを粛慎と呼んでいました。鬼魅(おに)であるとも書かれています。
この粛慎についての記録は7世紀にしかなく、その後の記録はなさそうです。謎の残る人たちです。
欽明天皇5年(659)
佐渡に粛慎人が船で来たと記録されています。
「鬼魅(おに)なりと言して敢て近づかず」と記されています。
斉明天皇5〜6年(659〜660)
阿倍比羅夫による粛慎討伐が行われました。
持統天皇8年(694)
粛慎人に官位を授与しています。
持統天皇10年(696)
蝦夷、粛慎に衣服、斧などを賜っています。
八瀬童子(やせどうじ)
八瀬童子は京都東北の比叡山の麓にある八瀬の地に住む住人です。蝦夷や隼人のような夷人ではないのですが、特異な伝承と風習を持つ人たちです。
八瀬童子は、鬼の子孫という伝承を持ち、結わずに垂らしたままの童子の髪型をしていました。
近代においては天皇の輿を担う駕輿丁(かよちょう)として有名で、天皇や皇族の葬儀には必ず輿を担いでいました。
鬼の子孫
八瀬童子は、鬼として有名な酒呑童子の子の鬼同丸が先祖だとされています。鬼同丸は延暦寺に仕えていましたが、追放され八瀬に住んだそうです。
八瀬の近くに鬼ヶ洞と呼ばれる洞窟があり、酒呑童子が比叡山を追われて大江山に入るまで、この洞窟に起臥していたという伝承もあります。
叡山の駕輿丁
また、八瀬の住民は比叡山延暦寺に所属しており、叡山御門跡が閻魔王宮から帰られる時に輿を舁いて来た鬼の子孫という伝承も持っています。そのため、八瀬童子は叡山の行事には常に駕輿丁として出役しており、今でも門跡の御輿舁きを勤めているそうです。
後醍醐天皇の綸旨
八瀬童子は後醍醐天皇が比叡山に逃れた時に貢献したとして、建武3年(1336)の綸旨により年貢などの課役を免除されています。
その後も後柏原天皇(1509)、後陽成天皇(1603)からも綸旨をもらい、江戸時代には明治天皇に至るまで15通の綸旨を歴代天皇から受けています。
足利将軍や皇室の駕輿丁
八瀬童子は、足利将軍や皇室の駕輿丁も勤めており、御所の警固も臨時に行ったことがあるようです。また、近世には天皇の八幡行幸、鞍馬行幸、伊勢行幸にも駕輿を舁いたりもしています。
童子
八瀬童子は、総髪あるいは四方髪と呼ばれる吉原の禿のような髪型をしていたようです。いわゆるオカッパのような髪型です。しかも、老齢になっても、こうした童髪のままだったようです。
実は、八瀬童子は、比叡山で日常的な雑役に服した童子の役を勤めていました。寺内で雑役に従事する童形の「しもべ」は堂童子と呼ばれます。
また、八瀬童子は牛飼童の役も行っていたようですが、牛飼童もまた歳を取っても垂髪のままの童形が普通だったようです。
鬼の子孫
渡辺綱の鬼退治で有名な鬼たちは、酒呑童子、茨木童子など童子と名のっています。そこからの連想で八瀬童子が鬼の子孫であるという伝説ができあがったのではないでしょうか。鬼の怪力や童形の呪術性は、八瀬童子を神秘的で不思議な存在だと思わせるのに役立っています。
近代の八瀬童子
王政復古の明治になると、八瀬童子は天皇の駕輿丁を独占的に勤めるようになります。
明治天皇が初めて江戸に行幸した際に八瀬童子約100名が参加しています。その後は、英照皇太后、明治天皇、大正天皇、昭憲皇太后などの葬儀で棺を載せた輿の輿丁役を勤めて、八瀬童子は伝説的な存在となっていきます。
しかし、戦後はその役目はなくなっていきます。貞明皇后の葬儀(昭和26年)では八瀬童子に御用はありませんでした。昭和天皇の大葬(平成元年)では、宮内庁の皇居警察官が輿丁役を勤め、八瀬童子は6名のみが作業に参与しています。そして、香淳皇后の大喪(平成12年)では八瀬童子4名のみが奉仕したそうです。
前鬼と後鬼
八瀬童子とおなじように鬼の子孫であるという伝承を持つ人たちが、奈良県の山中にもいます。奈良県吉野郡下北山村前鬼の住民で、役小角(役行者)に従った前鬼と後鬼の夫婦がこの地に住み、その子の五鬼(五人の鬼)の末裔がこの地の人々であると云われています。
この下北山村前鬼の地は吉野の聖地への入り口にあたります。日本の仏教の聖地である比叡山の麓にある八瀬と似たような位置関係に在ります。
鬼
鬼は想像上の存在ですが、古代においてはリアルな存在でした。
鬼の記録
9世紀には都に鬼がたびたび現れ怪異現象をおこしています。
出雲国風土記
「目一つの鬼来たりて佃る(たつくる)人の男食ひき」
欽明天皇5年(544)
佐渡に粛慎(みしはせ)人が船で来ています。
「鬼魅(おに)なりと言して敢て近づかず」
斉明天皇7年(661)
斉明天皇の葬儀に朝倉山の鬼が出現します。
「朝倉山の上に鬼有りて喪の儀を臨み視る」
日本霊異記
聖武天皇の時代(724〜749)の話
「女人悪鬼に點(けが)されて食(は)まるる」
今昔物語
清和天皇の時代(858〜876)の話
「官の朝庁に参る弁、鬼のために喰はるるものがたり」
光孝天皇の時代(884〜887)の話
「武徳殿(大内裏の殿舎)の松原で女が鬼に食われた話」
伊勢物語
第6話に鬼に喰われた在原業平(825〜880)の女の話
古本説話集、今昔物語
「西三条殿の若君百鬼夜行に遇ふ事」
太政大臣藤原冬嗣の孫である常行(836〜875)が若いころに
美福門のあたり百鬼夜行に出会った話
扶桑略記
延長7年(929)宮中に鬼の足跡があった
承平元年(931)宮中に衣冠を着けた一丈余の鬼神が現れた
天慶8年(945)宮中に鬼の足跡、馬の足跡が乱れついていた
大鏡
醍醐、朱雀天皇の世移りのころ(930年代)
宮中で毛むじゃらの鬼の手が太政大臣藤原忠平の
太刀の石突をつかんだ話
今昔物語
安倍清明(921〜1005)の師とされる加茂忠行の子が十歳にして
祓いの場の供御を食っている鬼を見た話
酒呑童子
酒呑童子は、丹波国大江山の鬼の頭領で、その配下には茨木童子、星熊童子、熊童子、虎熊童子、金熊童子などの鬼たちがいました。この酒呑童子は、源頼光とその部下の四天王によって退治されます。
源頼光(948〜1021)は実在の人物で、丹波国大江山での酒呑童子討伐や土蜘蛛退治の説話で有名です。彼の部下には有名な四天王がいます。渡辺綱、坂田金時、卜部季武、碓井貞光の四人です。
この四天王の内で渡辺綱(953〜1025)は、京都の一条戻り橋の上で鬼の腕を切り落とした逸話でも有名です。
足柄山の金太郎
源頼光の四天王のひとり坂田金時(956〜1012)は、足柄山の金太郎としても有名です。山姥に育てられた金太郎は、オカッパ頭の童形で全身が赤く鉞(まさかり)を持っています。しかし、この姿は鬼とそっくりです。金太郎のこの姿は、鬼とおなじ霊力をもっていることを意味しているのだと思います。金太郎は、良い鬼の子孫なのかも知れません。
修正会の追儺式
平安中期以降、貴族仏教寺院で行われるようになった修正会(しゅうしょうえ)は、歳はじめ行事ですが、ここで追儺(ついな)式が行われます。参列者が牛玉杖(ごおうつえ)で鬼を追い廻して打つ行事です。そして、この行事から節分の豆まきが始まっています。
追儺式は疫病を払うのがおもな目的です。ここでは、鬼は単なる疫病の象徴として扱われています。いつのまにか鬼の怪力も霊力も失われてしまっているようです。
鬼から天狗へ
古代が終焉すると、鬼による怪奇現象もなくなっていきます。鬼は伝説の世界にしか現れなくなります。
修験者の闊歩するようになった山中から鈍重な鬼が追い払われたのかもしれません。代わって山中の怪異は仙人や天狗の仕業とされるようになりました。
牛若丸(源義経)の物語には鞍馬天狗が出てきますが、このころには鬼の出番はなくなっていたようです。