三輪王朝の神話
三輪王朝
三輪王朝とは、奈良の三輪山の麓にできた崇神天皇、垂仁天皇、景行天皇のころの初期の大和政権のことです。三輪山の麓に天皇の宮が営まれ、初期の大規模な前方後円墳が三輪山の近くに多く造られています。邪馬台国の女王・卑弥呼とも想定される倭迹迹日百襲媛(やまとととひももそひめ)の墓と言われる箸墓古墳(長さ280mの前方後円墳)をはじめとして崇神天皇、垂仁天皇、景行天皇の陵墓だと考えられている3、4世紀の巨大な前方後円墳が多く存在します。
箸墓古墳 3世紀 280m 倭迹迹日百襲媛命(卑弥呼?)の墓
西殿塚古墳 3世紀 234m 崇神天皇陵?
桜井茶臼山古墳4世紀 208m 被葬者不詳
メスリ山古墳 4世紀 250m 被葬者不詳
行燈山古墳 4世紀 242m 垂仁天皇陵?
渋谷向山古墳 4世紀 310m 景行天皇陵
また、ここには3世紀ころの纒向(まきむく)遺跡があり、東西南北をそろえて配列された大規模な建物群が発見されています。これらは、天皇の宮殿や神殿などではないかと考えられています。
なお、崇神天皇は、御肇国天皇(はつくにしらすすめらみこと)とも称えられ、事実上の最初の天皇だと考えられています。
崇神天皇紀の神話
古事記や日本書紀の崇神天皇紀には三輪山、大物主命、天照大神、倭迹迹日百襲媛などにまつわる多くの伝説が記載されています。天津神と国津神との軋轢も描かれており、これらは高天原における天照大神と須佐之男命(素戔男尊)の争いの神話を思い起こさせます。
三輪山の太陽信仰
三輪山は山自体が信仰の対象であり、麓の大神(おおみわ)神社では三輪山をご神体とし大和の地主神である大物主命を祭っています。また、三輪山の山頂には、現在は高宮神社が祭られていますが、古代には日向神社が置かれ太陽祭祀が行われていたと考えられています。
日本書紀には、山頂での古代の祭祀を想せる記事が載っています。崇神天皇は2人の息子の豊城命と活目命に、夫々の見た夢で後嗣を決める言い、見た夢を報告させました。
兄の豊城命は「御諸山(三輪山)に登り、東を向いて、八度槍を突き出し、八度刀を振るう夢を見た」と報告。弟の活目命は「御諸山(三輪山)に登り、縄を四方に張り、粟を食べる雀を追い払う夢を見た」と報告しました。
この結果を聞いて、天皇は兄の豊城命は専ら東に向いて武器を振るったので東国を治めさせ、弟の活目命は四方に気を配ったので天下を統治するのに適していると判断しました。弟の活目命は後の垂仁天皇です。また、豊城命は上毛野君と下毛野君の祖先とされています。
天津神と国津神
日本書紀の崇神天皇紀に天津神(天上神)と国津神(地主神)の対立の話が載っています。
宮中で天照大神と倭大国魂神の二神を祭っていましたが、神の勢いが強すぎて一緒に祭ることができませんでした。そのため、天照大神は豊鍬入姫命(崇神天皇皇女)に託して笠縫村に祭り、倭大国魂は渟名城入媛命(崇神天皇皇女)に託しましたが、渟名城入媛命は髪が抜け落ちて体も痩せてしまい祭ることができませんでした。
国津神である倭大国魂神を、天津神(天照大神)の子孫である渟名城入媛命が祭るのは無理だったようです。そして、この話に続いて大物主命と倭大国魂神を祭る話が出てきます。
崇神天皇は災害が多く愁い嘆いていましたが、天皇の夢に大物主命が現れ、我が子の大田田根子に祭らせれば良いと告げました。そのため、天皇は大田田根子を河内の美努村に探し出し大物主命を祭らせ、さらに市磯長尾市(いちしのながおち)に倭大国魂神を祭らせたところ疫病は収まり国家は安らかに平穏になったそうです。国津神をきちんと祭ることによって国が治まったというお話です。
三輪山伝説
古事記の三輪山伝説には、大物主命と活玉依毘売(いくたまよりひめ)の婚姻と大田田根子(おおたたねこ)の誕生の話が語られています。
古事記
活玉依毘売のもとに容姿端正な男が毎晩訪れ、活玉依毘売は妊娠してしまいます。 そのことを知った両親は男の正体を確かめるための知恵を娘に授けます。それは、赤土を床の前に撒き、麻糸を針で男の裾に刺すというものです。教えのようにして翌朝に見てみると、麻糸は戸の鉤穴を通り抜け三輪山の神の社まで達していました。このことにより、男は三輪山の神(大物主命)と知れました。そして、産まれた子が大田田根子(古事記では意富多々泥古)です。この大田田根子は後に大物主命を祭る役目を引き受けることになります。
日本書紀
一方、日本書紀の三輪山伝説はかなり違っています。いきなり、倭迹迹日百襲媛命(やまとととひももそひめ)が大物主神の妻となった所から話が始まります。
大物主神が夜にしか来ないので、暗くて姿が見えません。そのため百襲媛は大物主神の姿がみたいとねだります。すると大物主神は明朝に櫛笥(くしげ)に入っていると告げます。翌朝に百襲媛が櫛笥を開けて見ると、美麗な小蛇が入っていました。百襲媛が驚き叫ぶと、神はたちまち人の形になり「お前は我慢できずに私に恥をかかせた。今度は逆にお前に恥をかかせてやろう。」と言って、大物主神は空を飛んで三輪山に上って行きました。百襲媛が驚いて尻餅をつくと箸が陰部を突き刺し、百襲媛は死んでしまいました。
箸墓
この時に、百襲媛が葬られたのが箸墓です。(箸墓は初期の代表的な前方後円墳です。)日本書紀では、三輪山伝説を箸墓伝説に変えてしまっています。
天照大神の神話
陰部を突き刺し死んでしまう話は高天原の神話にもあります。
天照大神の弟である須佐之男命(素戔男尊)が高天原で暴れた時、驚いた機織女が梭(ひ)を陰部に突いて死んでしまいます。これを知った天照大神は天の岩戸に隠れてしまいました。
天照大神の岩戸隠れの神話です。天照大神はもちろん太陽神であり天津神です。暴れた須佐之男命は大国主命の先祖であり地主神(国津神)の代表です。つまり、この岩戸隠れの神話も天津神と国津神の争いの話なのです。
倭迹迹日百襲媛
日本書紀の箸墓伝説では、倭迹迹日百襲媛は大物主命の罰を受けて殺されたように見えます。この日本書紀の箸墓伝説は何を暗示しているのでしょうか。
天照大神の巫女
日本書紀では、百襲媛は神がかりするシャーマン(巫女)として描かれています。あるときは、百襲媛に大物主命が憑依し託宣を告げています。また、百襲媛は「聡明で叡智があり未然を識る」とされ、武埴安彦命(孝元天皇皇子)の謀反を予見しています。もちろん、孝霊天皇の皇女である百襲媛が巫女として祭るとしたら皇祖神であり天津神である天照大神になります。
国津神の反乱と百襲媛の死
宮中に天津神と国津神を祭っていたら、両方の神の勢いが強すぎて一緒に祭ることができなかったという話がありました。おそらく、この頃に天津神と国津神は対立しており、どちらを祭るのかというような紛争が起きていたのではないかと思います。
天皇が、国津神(大物主命)をないがしろにし、天津神(天照大神)を熱心に祭ったために国中に疫病が蔓延し大量の死者を出したとして国津神の信仰者たちが反乱を起こしたのかもしれません。その際に、天津神の象徴的な存在である百襲媛は反乱勢力に殺されたのだと思います。つまり、実際に百襲媛は大物主命に殺されたのです。
宗教改革
そして、天皇により祭祀の見直しが行われ、大物主命を三輪山の神として大田田根子に祭らせ、太陽神である天照大神を三輪山から移し倭(大和)の笠縫村で皇女の豊鍬入姫命に祭らせています。なお、垂仁天皇25年に豊鍬入姫命の後任として倭姫が選ばれ、天照大神は菟田の筱幡(大和国宇陀郡)に祭られました。その後、社殿は近江、美濃を廻って伊勢に至ります。今の伊勢神宮です。
天の岩戸
高天原で須佐之男命が暴れ天照大神の機織女が死んでしまった時、天照大神が岩戸に隠れ世の中が暗くなってしまう神話がありますが、実際に百襲媛の亡くなった3世紀の中ごろ(248年)に日本で日食があったようです。大和付近は皆既日食ではなかったようですが、太陽が9割以上欠けて見えたようです。この日食は当時の人にとっては衝撃だったと思います。太陽神の巫女である百襲媛が亡くなったために、太陽が陰ってしまったのです。
百襲媛の死と日食の事件は、太陽神の子孫である天皇家の神格化に役立ったと思います。この事件で万世一系の大和王権が確立したのだと思います。崇神天皇が事実上の最初の天皇であるとされる由縁です。
卑弥呼
3世紀頃の日本の様子は魏志倭人伝に描かれています。邪馬台国と卑弥呼(ひみこ)の話です。
邪馬台国ではシャーマン(巫女)的な存在の卑弥呼が女王だったとされています。女王は神託によって国を治め、年を取っていますが夫はおらず、男弟が政治の補佐をしたとされています。
倭迹迹日百襲媛は、崇神天皇の叔母に当たり、もちろん独身です。百襲媛は巫女として大物主命の託宣を告げたり、武埴安彦命の謀反を予見したりしています。傍から見れば、叔母である百襲媛が、甥の崇神天皇に指示しているように見えたのかもしれません。卑弥呼とは、日巫女(ひみこ)あるいは姫巫女(ひめみこ)ではないでしょうか。
魏志倭人伝に卑弥呼が亡くなった時に径百余歩の塚を作ったとありますが、百襲媛の墓である箸墓古墳がこれにあたります。
なお、卑弥呼が亡くなったのは魏志倭人伝によれば245年過ぎのころです。丁度、日本で日食のあった248年に符合します。
そして、魏志倭人伝で卑弥呼の後継者は台与(とよ)とされていますが、これは百襲媛の後を継いで天照大神の巫女となった豊鍬入姫命(とよすきいりひめのみこと)ことだと思います。
三輪王朝の事件から高天原の神話へ
三輪王朝で起きた太陽神と地主神の対立、太陽神の巫女である百襲媛の死と日食。
この事件を元に高天原の天照大神と須佐之男命(素戔男尊)の神話が創られたのではないでしょうか。