無差別殺人の原因

近年、無差別に人を殺すような事件が多く発生しているように見えます。これらの事件は、衝動的にではなく、それなりに計画的に実行されています。
 都井睦雄(22) 津山30人殺し事件(1938年)
 造田博(23)  池袋通り魔殺人事件(1999年)
 上部康明(35) 下関通り魔殺人事件(1999年)
 宅間守(37)  大阪教育大学付属池田小学校事件(2001年)
 金川真大(24) 土浦無差別殺傷事件(2008年)
 加藤智大(25) 秋葉原無差別殺傷事件(2008年)
「津山30人殺し」を除くと比較的最近に起きた事件ばかりです。これら最近の事件について、その原因を考えてみたいと思います。

犯人の特徴

これらの事件の犯人の性格や生育過程などを見ると、概ね次のような特徴があります。
 ・強い親
 ・友達が少なく孤立
 ・仕事が長続きしない
 ・自分の弱さを隠す強がり
 ・他責的な発想
 ・子供っぽい万能感
 ・挫折した人生
これらの犯人たちは非現実的な高望みをする一方で、自分の人生を切り拓くような意思を持っていないし、そのための努力をしていないように見えます。
また、彼らには人生の岐路に立った時、あるいは困った時に相談するような同僚や友達がいないように見えます。おそらく性格的に、そうした人間関係を結べないまま育って来ているようです。
また、普通の人なら失敗や挫折を経験しながらも、それを乗り越える力をつけていきます。また、そうした経験を積みながら自分を客観的に見る力も付けていきます。
しかし、これらの犯人たちは、そうした大人への階段を登ることなく、どこか子供っぽい万能感、自己中心主義を引きずっています。
そして、犯人たちは、若いうちに人生に疲れ果て、その結果として自爆行為つまり無差別殺人を実行しています。自分が人生に絶望したのは周囲の人間のせいである。世間のせいであるとして、その復讐として事件を起こしています。「復讐してやる」などと言いたがるのは、たいてい子供です。復讐を理由に事件を起こす彼らがいかに子供っぽいか解かるかと思います。
犯人たちは世間への復讐のため事件を起こしていると書きましたが、彼らも意識してないかもしれませんが、実は親への復讐のために事件を起こしたのかもしれません。子供時代から自分の精神的な生育や発達を阻害してきた強い親への復讐が本当の事件の原因かもしれません。

造田博(23) 池袋通り魔殺人事件(1999年)

生い立ち
造田博(ぞうたひろし)は、1975年11月29日に岡山県倉敷市で生まれていますが、78年10月には児島郡灘崎町に移っています。彼には4歳年上の兄がいます。
父親は腕のいい大工で並のサラリーマン以上の稼ぎがあったようです。母親はミシンで縫製の内職を行い、家計を助けていました。
小中学校
造田博が小学校高学年のころ、父親は次第に働かなくなります。祖父から相続した土地を売って大金を手にしたようです。
造田博が中学校に入るころ、母親は保険の外交員になります。そして、このころから両親はパチンコ、競輪、競艇に入れ揚げるようになります。
このころの造田博は、勉強ができ、真面目でおとなしく目立たなかったようです。
中学校での成績は、1、2年のころ良くはなかったようですが、3年の終りになって頑張り進学校である県立倉敷天城高校に合格しています。
高校
造田博が高校2年の92年ころ、両親のギャンブルで借金が膨らみ、一家は破滅状態になります。両親が逃げ回るなか、彼は借金取りが押し寄せる家に一人で篭もっていたようです。
そして、彼は高校を2年で中退し、ほかほか弁当のアルバイトをするようになります。93年11月には両親は失踪し、行方不明になります。
就職
94年1月、18歳の造田博は広島県福山市の兄のアパートに移り住みパチンコ店に勤務します。
94年8月、広島県沼隈郡の造船所内の塗装会社に勤務しますが10月下旬から無断欠勤するようなり、95年6月には雇用を打ち切られます。
その後、95年6月から小さな清掃会社で半年間勤務しています。
そして、96年2月には岡山市内の電気工事店の面接試験を受けています。
妄想の始まり
95年ころ、小中学校時代の同級生のTさんに、当時好意を持たれ好きだと言われたとして、彼女宛に「会ってほしい。一緒にいたい。」などの内容の手紙を送っています。さらに、自宅まで押しかけますが父親に拒否されています。なお、もちろんですが、Tさんは造田博に好きだと言ったことなどはないと否定しています。このTさんへの妄想は後々まで尾を引きます。
96年2月の電気工事店の面接試験で造田博は「大学生の彼女がいるので結婚資金を貯めたい」と言ったそうです。「大学生の彼女」というのは妄想の彼女であるTさんのことかもしれません。
意味不明の手紙
97年ころに造田博は多くの公的機関に意味不明の手紙を送りつけています。外務省、国会、裁判所、警視庁など十ヶ所ほどに送ったようです。
「日本の人口のほとんどが小汚い者達です。」
「世界中で見られる生まれながらのひどい精神障害者、奇形児の方々はすべて歌舞伎町で会ったことが原因で患者になっています。ですから私は日本で生まれる事にしました。」
「私と関係があるという理由で、この小汚い者達はTさんという女性を世界中の人達、私の目の前でレイプしようとしています。国連のプレジデントに届けてください。」
「この小汚い者達は60年後、2057年にはすべて存在しなくなります。」
米国への渡航
98年6月、造田博は所持金が約200ドル、英会話能力ゼロで米国に渡っています。そして、米国西海岸のポートランドで錯乱状態になり日本大使館に保護され、9月に帰国しています。
渡航目的は不明ですが、この時期に大学を卒業したTさんがシアトルに在住しています。造田博は妄想の彼女であるTさんに会うためにシアトルに向かう途中だったのかもしれません。
再び東京へ
99年4月、造田博は、名古屋市、稲沢市と渡り歩いた後、東京へ向かいます。 そして、足立区の新聞配達店に勤務し、その近くに部屋を借りて住んでいました。
無差別殺人
99年9月、携帯電話へ無言電話がかかってきたことがきっかけとなり、造田博は「日本中の努力しない人間を殺してやろう」と思い立ちます。
彼の部屋には次のように書いた紙が貼ってあったそうです。
「わし以外のまともな人がボケナスのアホ殺しとるけえのお。わしもボケナスのアホ全部殺すけえのお」「アホ、今すぐ永遠じごくじゃけえのお」
9月8日、造田博は池袋サンシャイン通りで包丁と金槌で通行人を襲い、2人死亡、重軽傷6人の惨劇を引き起こしました。
死刑判決
造田博には統合失調症(精神分裂病)のような妄想があったと思われますが、裁判では統合失調症とは認められず、07年4月に死刑が確定しています。
造田博の特徴
造田博の妄想は、借金取りに怯えながら一人留守番をしていた高校2年のころに始まり、妄想の彼女であるTさんへの手紙を書き始めます。おそらく統合失調症だと思います。
造田博は、仕事を始めても無断欠勤などで辞めてしまい長続きしていません。約6年間で15ヶ所に就職しています。
こうした彼の性格を形成したのは、おそらく小学校くらいの時期に原因があります。事実関係は不明ですが、精神的に不安定になるような家庭生活があったのではないでしょうか?

上部康明(35) 下関通り魔殺人事件(1999年)

生い立ち
上部康明(うわべやすあき)は、1964年3月6日に山口県下関市で生まれました。両親は共に教師で、妹が一人います。
幼少時から父に逆らうことができず、表面上は従っていたようです。
大学時代
上部康明は、高校時代までは、成績は学年のトップクラスで医学部進学を目指していました。しかし、共通一時試験の成績不振のため医学部をあきらめ、九州大学理学部を受験しますが不合格になっています。そして、一浪後、九州大学工学部建築学科に合格しました。
対人恐怖症
上部康明は、大学では人付き合いが苦手で、対人恐怖症だと思うようになります。そのため、就職活動はせずに大学院進学を希望しますがかなわず、卒業後の一年間は実家に引きこもっていました。そして、対人恐怖症を治すため精神科に入院し治療をしています。
就職
89年4月、上部康明は福岡市内の建築設計事務所に就職します。対人恐怖症の上部康明にとって、所長と二人きりの事務所は落ち着いて仕事ができる環境だったようです。
91年、上部康明は勤務先を退職し試験勉強を始め一級建築士の試験に合格。その後、別の建築事務所に勤めますが対人恐怖症などのため辞職しています。
独立と結婚
93年、上部康明は独立して「康明設計」を開業します。当初は、仕事は順調だったようです。そして、交際していた女性と結婚。ニュージーランドで挙式しています。
事業の失敗
95年、仕事をもらっていた建築事務所の所長と些細なことで口論となり、仕事を回してもらえなくなります。そのため、「康明設計」は廃業状態になります。
保母をしていた妻の収入と実家からの仕送りでなんとか生活する状態になってしまいました。
次に、上部康明はニュージーランド移住の計画を立てますが、英会話が上達しなかったために、この計画は断念したようです。
98年、上部康明は実家に戻り両親の畑仕事を手伝いながら、下関病院の精神科に通院しています。この間に、妻は単身ニュージーランドに渡ってしまったようです。
転職
99年2月、上部康明は軽トラックを購入し宅配便の下請け業務を始めます。
99年6月、ニュージーランドから戻った妻から離婚を要求されますが、上部康明の両親の強い反対で実現しませんでした。妻は、そのままアメリカへ行ってしまいました。
99年9月、上部康明はニュージーランド移住の希望をもって英会話の勉強を始めます。しかし、台風により運送業に使っていた軽トラックが海水に浸かり廃車になり、130万円のローンが残ってしまいました。
運送業を続ける気力がなくなった上部康明は、両親にローンの返済費用やニュージーランドへの渡航費用を貸すよう頼みましたが断られています。父は自宅の軽トラックを使い運送業を続けることを主張したようです。
無差別殺人
9月29日、上部康明はJR下関駅の構内にレンタカーで突っ込み、7人をはねて2人を死亡させます。さらに、改札口前で車から降りて包丁を振り回し3人を殺害、8人を負傷させています。
上部康明は動機について次のように主張しています。
「中卒でもできる運送業を、一流大学を出た自分がやっていけないのは、社会から疎外され続けてきたからで、ただでは死ねない。この機会に社会に強烈なダメージを与え、恨み・憎しみを一気に晴らしてやろう。病院で処方してもらっている睡眠薬を百錠ほど飲んでおけば犯行を終えたころにはクスリが効いて自殺できる。」
「単純な作業である運送業すら成功できず、貧乏くじばかり引いてきた。自分だけ惨めな思いをしてきたのに、他のものはぬくぬく生きており、自分は世間から不当に冷遇されてきた。」
「自分が社会でうまくやっていけないのは、友人や職場の人など周囲の者のせい。」
08年、上部康明の死刑が確定しています。
対人恐怖と視線恐怖
上部康明には強い対人恐怖と視線恐怖があったようです。一種の被害妄想と言ってもいいかもしれません。
「町で歩いていると、すれ違う人や周りの人が僕のことを不快に思い、僕をふくろだたきにするのじゃないかと感じる。」
「車のクラクションを鳴らされると自分へのあてつけと思う。」
「駅のホームに立っていると、誰かに突き落とされるのではないかと感じる。」
「いつか誰かに殺されるのではないかと思い、どうせ殺されるのなら他の人を殺そうかと思う。」
「人とうまく接することができず、他人にどう思われているのか気になる。」
「サングラスをかけないと外へ出られない。」
「人としゃべるときテンションが上がり、思うようにしゃべれない。電話だと特にまともに会話できない。」
「人に見られると緊張する。自分が見ると人が嫌がって逃げていく。」
「ドアをどんと閉められると嫌がらせをされている気がする。」
「人に会うこと自体が嫌で、人の気配がしただけでいらいらする。」
上部康明の特徴
両親が教師の長男は引きこもりなど問題行動を起こしやすいのですが、この場合もその典型かもしれません。過干渉で支配的な父親は、成人してから後の息子の人生も支配しています。
上部康明は、おそらく小中学校時代などに必要な友達との付き合いもなかったのではないでしょうか。たぶん反抗期もなかったはずです。 父親からの圧迫感で精神的に不安定だった子供時代が、彼の対人恐怖や視線恐怖の原因ではないでしょうか。

宅間守(37) 大阪教育大学付属池田小学校事件(2001年)

生い立ち
宅間守(たくままもる)は1963年11月23日に兵庫県伊丹市に生まれています。
父親は町工場の旋盤工、母親は同じ工場に勤めていたようです。宅間守には7歳年上の兄がいます。
母親は炊事も片付けも苦手で、父親が家事のほとんどをやっていたという変わった家族です。
幼児期
宅間守は幼稚園入園前まで父方の祖母宅で育てられましたが、幼稚園に入り実家から通うようになりました。
このころ父親は厳しく、ときに大声を出して怒り説教していました。いたずらをすると鉄拳制裁もあったようです。また、父親は妻にも暴力を振るっていたようです。
母親は精神的に不安定で喜怒哀楽が激しく、宅間守にとって楽しい家庭とは言えない状況でした。おまけに両親の仲や兄との関係は良くなくしょっちゅう口論していたようです。
宅間守自身も幼時からの問題児で、3歳の時には三輪車で道の真ん中に居座り、車の通行を妨げ渋滞を引き起こしていたそうです。
小中学校
宅間守の小学校時代は弱いものいじめの常習犯だったようです。それでも彼は、将来エリートになりたくて大阪教育大学付属池田中学の受験を目指しますが、母親に無理だと言われ断念しています。
宅間守は公立中学に進みますが、ここでも弱いものいじめは続いていました。
高校
宅間守は公立の普通科への進学を希望しますがかなわず、県立の工業高校の機械科へ進みます。高校では花形の野球部に入ったようです。しかし、高校2年の3学期に中退してしまいます。
航空自衛隊
81年11月、宅間守はパイロットに憧れ航空自衛隊に入隊します。しかし、家出少女との性交渉で、愛知県青少年保護育成条例違反で事情聴取を受け、自衛隊の懲罰委員会にかけられています。そのため、83年2月に自衛隊を除隊しています。
問題行動
自衛隊を除隊した後、宅間守は暴行、傷害、高速道路の逆走などを起こして荒れています。
そして、宅間守が母親を連れて家出したため、父親との激しい取っ組み合いになっています。宅間守は馬乗りになった父親から石で滅多打ちにされています。
このころの宅間守は職場で窃盗や暴力沙汰などもめ事を起こすたびにクビになり転職を繰り返しています。
強姦事件
84年11月、宅間守は強姦事件を起こし九州へ逃亡し、精神科病院に逃げ込んでいます。「幻聴があり、誰かに陥れられている」と訴え不安神経症と診断され閉鎖病棟に入院させられます。
85年1月、病院5階から飛び降り顎骨骨折の重症となります。宅間守は、このときの心境を「病院から出たいわ、警察に捕まりないわで、どうしょうもなかった」と言っています。この後、便宜的に病名が精神分裂病(統合失調症)に変更されています。
しかし、宅間守は85年3月に、この強姦事件で逮捕され懲役3年の実刑判決を受け、奈良少年刑務所で服役しています。
伊丹市職員
89年、宅間守は出所後にトラック運転手などをしていました。
93年、伊丹市交通局に採用され、市バスの運転手になります。しかし、乗客とのトラブルが絶えなかったようです。
97年、伊丹市環境クリーンセンターに配置換えとなり、ゴミ収集車の作業員として勤務しています。
98年、伊丹市の小学校技能員の仕事に異動。
毒入り茶事件
99年3月、宅間守は、教師4人に精神安定剤入りのお茶を飲ませ傷害罪で逮捕されています。そして、伊丹市職員を分限免職となりました。
この事件で、宅間守は精神鑑定で向精神薬依存症と診断され刑事処分は受けず、西宮市の病院に措置入院させられています。しかし、わずか40日で退院しています。
精神分裂病
99年4月、宅間守は「精神分裂病のため働くことができない」として兵庫県市町村職員組合に申請して毎月20万円の傷病手当金を受け取っています。
00年11月には「精神分裂病により日常生活に制限を受けており援助が必要」として大阪府から2級の精神障害者保険福祉手帳の交付を受けています。
暴行事件
00年9月、宅間守は大阪市内のタクシー会社に就職しますが、翌月にはタクシー運転中のトラブルで暴行事件を起こし解雇されています。
01年2月、宅間守は建設資材会社でトラック運転手をしていましたが、トラック運転中のトラブルで器物損壊と暴行容疑で書類送検されています。
無差別殺人
01年6月8日、この日、宅間守はタクシー運転中の暴行事件で出頭要請を受けていましたが、大阪教育大学付属池田小学校に侵入し、出刃包丁を振り回し逃げまどう児童に次々と襲いかかりました。児童8名が死亡、教員を含めた15人が負傷するという惨劇となりました。
動機
宅間守は犯行の動機について次のように述べています。
「自分の生活がうまくいかないのは、すべて親や周りの人間たちのせいだ。」
「自分の苦しみをできるだけ多くの人間に味あわせてやろう。どうせならエリートの通う小学校を襲い、大量に子供を殺して家族を苦しめてやろう。」
判決
精神鑑定では統合失調症(精神分裂症)は否定され、人格障害とされました。
「犯行に踏み切らせた決定的なものは、人格障害による情性欠如で、いちじるしい自己中心性、攻撃性、衝動性である。」
03年8月、死刑判決。9月に控訴を取り下げて死刑が確定しています。そして、04年9月14日に死刑が執行されています。
結婚歴
宅間守は、母親と言ってもよいくらい年上の女性と結婚を繰り返し、祖母くらいの年の人と養子縁組をしています。幼時の自分の環境や人間関係に不満があり、やり直したかったのかもしれません。しかし、いずれも宅間守の暴力が原因で破綻しています。
90年6月、19歳年上の46歳の女性と結婚しますが3ヶ月で離婚しています。相手は大阪大学卒業後に大学院を経て大阪大学微生物病研究所に技官として勤務するエリートです。宅間守は「僕はガンで長生きできないんです」とウソをついて同情をひいて結婚したようです。
90年10月、19歳年上の小学校時代の担任教師と結婚しています。この女性は大阪教育大学の出身で、人気作家の妹さんです。この結婚は、宅間守がしょっちゅう暴力を振るっていましたが4年続いています。
95年11月、44歳年上の女性と養子縁組をしています。今度は祖母を求めたようです。しかし、この縁組も97年1月には関係がこじれて解消しています。その後も、宅間守は、この女性への嫌がらせや金の無心を繰り返していたようです。99年9月には、この女性宅への住居不法侵入で逮捕されますが不起訴となっています。
97年3月、2歳年上のOLと結婚しました。このとき宅間守は関西学院卒と詐称していたようです。97年10月に女性は身ごもりますが翌月に中絶手術をしています。そして、98年6月に離婚しました。
98年10月、3歳年下の幼稚園保母と結婚しています。しかし、99年3月の「毒入り茶事件」の直後に離婚しています。
宅間守の特徴
宅間守は暴力的な父親、愛情の薄い母親の元で暴れん坊の悪ガキに育っています。この愛情飢餓ともいえる状況では、まともな人間は育たないのかもしれません。
宅間守の無差別殺人の動機は、やはり親を中心とした世間への復讐だと思います。

金川真大(24) 土浦無差別殺傷事件(2008年)

生い立ち
金川真大(かながわまさひろ)については、なぜか生年月日などが不明です。
父親は外務省の準キャリアで、母親は専業主婦です。弟、妹2人の6人家族でした。事件当時は、次女は大学に通うため別居していたようです。
金川真大は、幼児期は米国のニューオリンズで育ったようです。
学校時代
小学校5年のころ土浦市内に転居し地元の公立小学校に入っています。
小学生のころは「家庭を大事にしそうな人」の1位に選ばれており、「金川くんは、ふだんからやさしいよね」と言われていたようです。
中学校も地元の公立に進学しています。
高校では弓道部に所属していたようです。
高校卒業
高校卒業後は定職につかず、コンビニなどでアルバイトをして生活していましたが、事件前にはひきこもりに近い状態だったようです。なお、ゲームが得意で大会で入賞したこともあるようです。
このころの心境について、金川真大は次のように述べています。
「人から称賛される仕事をしたいと考えたが、自分にそのような能力がないことは自覚していた。テレビゲームの主人公が才能にあふれていることにあこがれてファンタジーの世界に魅力を感じたが、実際の自分には才能がないと感じており、実際にはファンタジーの世界が存在しないことも十分理解していた。」
家族
金川真大の家では、家族間の交流がほとんどなく、一緒に食卓を囲むこともなく、それぞれがバラバラな生活を送っていたようです。
長女「家族の雰囲気が嫌い。会話がないし、両親の雰囲気が悪い。家族全員が本音を隠していて、関係が希薄でバラバラ。」
次女「話を聞かれるのも迷惑。家族がバラバラで両親は仲が良くない。みんな自然と、お互いのことに対して無関心になっていた。」
次男「家族に対しては関心がない。誰が死んでも悲しくないと思う。兄が事件を起こしていなくなっても、特に何とも思わない。寂しくもない。」
長女は母親と確執があったようで、口もきかずメモのやり取りでコミュニケーションを取っていたようです。
父親
父親は子供たちには一切関わらなかったようですが、怒ることはあったようです。金川真大が高校3年生とき、トイレのカレンダー破いて、その場に放置していたので、部屋のドアに穴が開くほど怒ったということです。また、兄弟がうるさくしている激しく怒ったこともあったようです。
犯行の計画
金川真大は「生きていても仕方ない」、「人を殺して死刑になろう」と考えて犯行を計画しています。
「つまらない毎日と決別するために具体的に自殺を考えたが、痛い思いをするだけで確実に死ぬことができるかどうか分からないなどとして自殺をあきらめた。それほど苦しまずに確実に死ぬ手段として死刑になろうと考え、そのためにできるだけ多くの人を殺害することにした。」
殺害計画の対象は確執のあった実の妹(長女)や小学校、中学校を考えていたようです。
犯行の実施
08年3月19日、金川真大は、近くの小学校に侵入して刃物で子供たちを殺害しようしますが保護者が多く断念します。
諦めて帰る途中で、自転車の空気入れを借りる口実で出てきた見知らぬ男性を殺害。放置された自転車から金川真大が割り出され指名手配されます。
犯行後、金川真大は秋葉原に逃走し、警察に挑発するような電話をかけています。
3月23日、金川真大は、常磐線荒川沖駅で警察官が包囲する中で無差別殺傷事件を起こし、犯行を終えると無人の交番から土浦署に自ら通報して警官を呼んでいます。
警官を待っている間の心境について金川真大は次のように述べています。
「警官が来るまで、ナイフでタイヤをパンクさせバイクに八つ当たりしていました。直前の行為がうまくいかず、思い通りに行かないことに腹が立ったからです。」
この証言は、なにかゲームを終えた後の感想のようにも聞こえます。
判決
弁護側は統合失調症(精神分裂症)の疑いを主張しましたが、精神鑑定では自己愛性人格障害と判断されました。なお、人格障害というのは性格の極端な偏りを指す概念で、精神疾患ではありません。
09年12月18日に死刑判決が出され、同月に控訴が取り下げられて死刑が確定しています。
金川真大の特徴
人間的で暖かい家庭環境が子供の精神的な育成のために必要だと思いますが、金川真大はそうした家庭環境には恵まれませんでした。彼にとってリアリティのあったのは、むしろゲームの世界だったのかもしれません。彼は現実世界をゲームのように捉え、そのゲームを終了させるために犯行を行ったようにも見えます。

加藤智大(25) 秋葉原無差別殺傷事件(2008年)

生い立ち
1982年9月、加藤智大(かとうともひろ)は青森県五所川原市で生まれました。 父親は地元の信用金庫に勤務、母親は専業主婦です。
父親は県立青森北高校を卒業し信用金庫に就職。同じ職場の3歳年上の母親と結婚しています。なお、母親は県下一の進学校の県立青森高校の出身です。
加藤智大には3歳年下の弟がいます。
幼少期
加藤智大は、幼少期から、母親から厳しいしつけを受けて育っています。
・3歳くらいの時に窓のない暗いトイレに閉じ込められた。
・夕食準備中のキャベツにいたずらをしたら窓から落とされそうになった。
・お風呂で九九を間違えると頭を押さえつけられて沈められた。
・口にタオルを詰められてその上からガムテープを張られた。
・小学校3年生ごろから、食べるのが遅いと残りを折り込みチラシにぶちまけられて食べさせられ
・小学校高学年で「おねしょ」をするとオムツをはかされた。
母親は説明もなく、これらの行為をおこなっていたようです。本人は逆らうこともできずに、こうした罰を受けていました。また、父親は、これに対して特に口出しはしませんでした。本人は楽しい団欒はなかったと証言しています。
小学校
小学校のころは、翌日着ていく服もお仕着せで本人の希望は入れられなかったようです。部活についても野球部に入りたいとの希望は母親によって理由も説明されずに拒否されています。
友達が自宅に遊びに来ても「友達が帰ると、母親がこれ見よがしに部屋の掃除を始めるので、『家に人を入れるな』ということだと思い、友達を連れて行かなくなりました。」と加藤智大は証言しています。
加藤智大の子供のころの学校成績は良かったようです。絵がコンクールに入賞したり、詩や作文が評価されたことがあったようですが、本人によれば母親が手を入れたりしており、評価されてもうれしくなかったと証言しています。
母親は理由も説明せずに体罰を与えていましたが、加藤智大も小学校で同じようなことをしています。
「集会か何かで列になったときにはみ出したクラスメートがいて、『ちゃんと並べよ』という意味でひっかきました。」
「低学年の時ですが、工作の時間が終わって誰がのりを片づけるかで2人が争っていたので、この2人をげんこつで殴って自分で片づけたことがあります。」
加藤智大は殴ることで自分の意思を伝えたかったようです。小学校の指導要録には、すぐカッとなることが多いと書かれています。
中学校
加藤智大は、中学に入ると試験で10番以内になることを条件にソフトテニス部に入っています。ただし、本人が強く希望したのではなく先輩に無理やり登録されてしまったので、仕方なく入ったようです。その後、新人戦で入賞し新聞に名前が載るようになると母親も応援するようになったとのことです。
中学2年のころにはクラスメートの女の子と付き合ったことがあるようですが、母親に手紙が見つかり付き合いを止めるよう強制されています。
加藤智大は、中学校時代には母親を殴ったことがあったようです。「食卓で黙々とご飯を食べていたところ、母親が何かのことで私に怒り出し、頬をつねったり髪をつかんで揺さぶったりしていたのですが、私はそれを無視していました。その後、私が洗面所に移動したところ、母親がついてきて、本格的に殴りだしたので反射的に手が出てしまったのです。」
高校
加藤智大は、高校については進学校であり母親の母校である青森高校に進み、北海道大学に行くよう母親に言われていましたが、本人の希望は工業高校か地元の私立高校でした。理由として「車が好きだったということと、試験で点を取るためのお勉強ではなく、もっと現場に近いものが…。工具を持ちたいと思っていました。」と証言しています。
でも結局、加藤智大は母親の意向通り青森高校に進学しています。しかし、高校での最初の試験ではビリから2番目。その後に勉強をして真ん中より下くらいまで成績を上げています。
大学進学
加藤智大は、中学のころ大学に行ったら車を買ってあげるといわれていましたが、「母親に、北大から変更したいと言ったら、ランクが少し下がる大学だったのですが、そんなところなら車を買ってあげないといわれ、あてつけもあってやめました。」とのことで大学進学をやめてしまいます。
そして、高校卒業後、加藤智大は自動車整備士の資格が取得できる短大へ進学しています。しかし、加藤智大は短大で自動車整備士の資格を取っていません。これついて、次のように証言しています。
「最初から取るつもりがなかったわけではないです。自分の奨学金が父親に振り込まれたのですが、父親が渡してくれなかったことへのアピールで、父になぜだろうと考えさせたかった。思い当たるふしがあって、関連づければ気づくだろうと思いました。」
自分の将来を決める重要な行為だと思いますが、加藤智大は父親へのあてつけを優先しています。
就職と転職
03年、加藤智大は短大卒業後、アルバイト採用ですが、警備会社で働き始めます。このころは、仕事にやりがいを感じ、生活も充実していたと証言しています。しかし、トラブルを起こして辞めています。
05年、埼玉県内の自動車工場で派遣として働き始めますが、ここもある日突然いなくなるという方法で辞めています。
06年、茨城県の住宅関連部品の工場で三ヶ月ほど働いています。
07年1月、運転手を目指し青森市の運送会社に就職します。このころ、実家に戻り、家族関係を修復しようとしますが、両親が離婚してしまいます。
07年11月、静岡の自動車工場に派遣として勤め始めます。
08年5月、自動車工場で、一度は派遣社員の全員について契約の終了を言い渡されていますが、加藤智大を含む一部の人については残留できることになりました。のちに派遣切りが犯行の動機ではないと加藤智大は証言しています。
作業服紛失
工場で作業服が見つからないことは、以前にもあり、そのときにはキレなかったようです。しかし、6月5日の出勤時に作業服がなくなると加藤智大は激高して帰ってしまいます。
「派遣の契約終了とかの話や、掲示板上でなりすましや荒らしなどの嫌がらせをされていて、精神的にゆとりがなかったからだと思います」と証言しています。 また、帰ってしまったのは作業服を隠した人へのアピールだ、とも証言しています。
無差別殺人
作業服紛失事件の翌日、加藤智大はわざわざ静岡から福井まで行ってナイフを調達しています。そして、08年6月8日の日曜日に秋葉原の歩行者天国にトラックで突っ込み、ダガーナイフで通行人や警察官に襲いかかっています。この事件では、死亡7人、重軽傷10人の被害が出ています。
自殺願望
加藤智大は、05年ころからネット上の人間関係が悪化し、孤独感を強め、自殺願望がめばえてきています。
一度は東京の中央線に飛び込んで自殺する方法を考えていますが、駐車場の管理人と警官に話しかけられ、自殺を止めるよう説得されています。
その後、ネット上の「荒らし」や「なりすまし」に悩み始めます。そして、加藤智大は、このネット上のトラブルが秋葉原事件の動機だと証言しています。
死刑判決
精神鑑定で加藤智大は「完全責任能力があった」と判断され、11年3月に東京地裁で死刑判決が出されました。弁護人は判決を不服として控訴しています。
加藤智大の特徴
加藤智大には支配的で強い母親がいました。おそらく、この母親に育てられた結果、加藤智大の根気がなくすぐに激高する性格が形成されたように思われます。

TopPageに戻る

参考文献
「無差別殺人の精神分析」片田珠美 新潮選書
「殺人者はいかに誕生したか 」長谷川博一 新潮社
「殺ったのはおまえだ」新潮45編集部編 新潮文庫
「日本凶悪犯罪大全」犯罪事件研究倶楽部編 文庫ぎんが堂
 MSN産経ニュース・法廷ライブ

2012.08.17 野沢 清 kiyoshi_nozawa@yahoo.co.jp