信長の殺戮

織田信長は戦国時代を終わらせ天下統一への道を切り開きました。この天下統一によって、やがて平和な時代が訪れるのですが、信長の天下統一への背後には多くの殺戮の過程がありました。
信長は自分に逆らう者には容赦なく、厳しく当たっています。特に信長に敵対した越前の朝倉義景や自分を裏切って朝倉に味方した浅井久政と浅井長政の父子、そして甲斐の武田信玄と武田勝頼については、その一家を滅亡に追い込んでいます。また、やはり信長に逆らっていた一向宗(浄土真宗)の信徒も長島一向一揆や越前一向一揆で大勢が虐殺されています。また、浅井、朝倉に味方した比叡山の僧侶たちも信長によって皆殺しにされています。

信長の性格
信長と親しく付き合った宣教師のフロイスは次のように書いています。
「彼は中くらいの背丈で、華奢な体躯であり、髯は少なく声は快調で、極度に戦を好み、軍事的修練にいそしみ、名誉心に富み、正義において厳格であった。彼は自らに加えられた侮辱に対しては懲罰せずにはおかなかった。」
「彼の睡眠時間は短く早朝に起床した。非常に性急であり激昂はするが、平素はそうでもなかった。彼はほとんど家臣の忠言に従わず、一同から極めて畏敬されていた。酒を飲まず、食を節し、人の取り扱いには極めて率直で、自らの見解に尊大であった。」
「彼は善き理性と明晰な判断力を有し、神および仏のいっさいの礼拝、尊崇、ならびにあらゆる異教的占卜や迷信的慣習の軽蔑者であった。」
信長の復讐心、激昂する独裁者、理性的で神仏を嫌う信長、こうした信長の特徴をフロイスはよく捉えていると思います。

信長と宗教
信長は、フロイスなどの外国人宣教師に対し友好的に付き合っていましたが、仏教の僧侶は嫌っていたようです。信長は僧侶を指差しフロイスに次のように言ったそうです。
「彼らは民衆を欺き、己を偽り、虚言を好み、傲慢で僭越のほどはなはだしいものがある。予はすでに彼らをすべて殺害し殲滅しようと思っていたが、人民に動揺を与えぬため、また人民に同情しておればこそ、予を煩わせはするが、彼らを放任しているのである。」
また、信長は父親の葬儀の場で非常識な振る舞いをしています。信長の家臣である太田牛一の書いた「信長公記」の有名な場面です。
父・信秀の葬儀に参列した信長は、袴(はかま)もはかず、長柄(ながつか)の大刀、脇差を三五縄(しめなわ)でしめて、髪は茶筅(ちゃせん)に巻き立てたいつもの姿で仏前に参り、抹香をくわっと掴み仏前に投げつけ帰ってしまいました。
神仏や形式的なことが嫌いな信長の性格をよく物語るエピソードです。

比叡山焼き討ち 元亀二年(1571)9月12日
比叡山は天台宗の本拠地で延暦寺があります。この当時の有力な寺院では、自らの寺領を守るために僧兵がおり、時としてその兵力を持って政治に介入することもありました。
比叡山は京都から北国へ向かう交通の要衝でもあり、比叡山の僧兵たちは、信長の敵である浅井、朝倉に味方したため、比叡山は信長の総攻撃にあって炎上しました。
そして、この時に信長は比叡山にいた僧侶から小僧にいたるまですべての者を殺害しています。
比叡山を攻略した信長は、京都から比叡山を越えた地である近江の志賀郡を明智光秀に与えています。そして、明智光秀は比叡山の麓にある坂本(大津市)に城を築き居城としています。

一乗谷落城 天正元年(1573)8月18日
信長の最大の敵の一人であった越前の朝倉義景の一乗谷城(福井市)は落城し、朝倉義景は自害して果てました。
信長は、「山中に逃れた者たちを探し出し、毎日百人、二百人ずつ際限なく討たせられた」と信長公記で太田牛一は記しています。冷静に事実のみを記録した太田牛一ですが、「目もあてられざる様体なり」と珍しく感想を記しています。

朝倉、浅井の首 天正二年(1574)1月1日
岐阜城にての正月の祝宴で、信長は憎き敵将であった朝倉義景、浅井長政、浅井久政の「三人の首を薄濃(はくだみ)にして据置き、御酒宴」と信長公記は伝えています。
薄濃(はくだみ)とは「漆塗りしたものに金粉をかけたもの」だそうです。信長は頭蓋骨を杯にして酒を飲んだと言われることもありますが、薄濃(はくだみ)にしたという信長公記の記事の方が正しそうです。いずれにしろ一般人の想像を超えた陰惨な光景です。

長島一向一揆 天正二年(1574)9月29日
一向宗(浄土真宗)は大坂の石山本願寺で信長に敵対していましたが、その他に各地で反乱を起こしていました。
信長は、伊勢長島(桑名市長島町)の一向一揆では、屋長島、中江の2城に四方から火を付け、立て篭もった男女2万人を焼け殺しています。仏教嫌いの信長は自分に逆らう一般の民衆に対しては、特に厳しかったように見えます。

越前一向一揆 天正三年(1575)8月18日
朝倉義景が敗れた後の越前では、一向宗(浄土真宗)が大きな勢力を保っていましたが、信長の大軍に攻められ一向一揆の軍勢は壊滅しました。
敗れた一揆勢は取る物も取り敢えず、右往左往に山々へ逃げ上がりましたが、信長は「山林を尋ね捜して見つけ次第、男女を隔てず切り捨てよ」と命令しました。その結果、信長公記によれば1万2250人余りが捕らえられ殺害されたとあります。また、生け捕り分と殺害された分と合わせて3、4万人に及ぶだろうと信長公記で太田牛一は書いています。生け捕りにされた人々は近隣諸国で奴隷として売られていったようです。

松永弾正謀反 天正五年(1577)8月17日
松永弾正(松永久秀)は、三好長慶に仕える武将でしたが、信長が上洛してくると信長に臣従するようになりました。しかし、松永弾正は、大坂の石山本願寺攻めの最中に、勝手に砦を引き払い、大和の信貴山の城に帰り、立て篭もってしまいました。信長への謀反です。
怒った信長は、松永弾正の人質の二人の息子を六条河原に引き出し処刑してしまいます。二人は、いまだ12、13歳の子供だったそうです。その処刑の哀れな様子を信長公記の太田牛一は次のように記述しています。
「二人は、顔色も変えず、おとなしく、西に向かって小さな手を合わせ、声高に念仏を唱えながら処刑されました。見ている人は、その様子に感動し涙をこらえることができませんでした。その哀れな有様には目も当てられません。」(意訳)
謀反を起こした松永弾正は信貴山城にて10月10日に戦死しています。一説には自ら爆死したと伝えられています。

荒木村重謀反 天正七年(1579)12月13日
荒木村重は三好家に仕えていましたが、その後、信長に仕えるようになると摂津の国の支配を任されるようになりました。しかし、天正七年に謀反をおこし有岡城(伊丹市)に立て篭もりました。明智光秀や黒田如水(黒田孝高)などの説得を受けますが気持ちを変えることはなく篭城を続けました。
信長は、荒木村重方の人質の女房衆122人を尼崎にて処刑。その他に、お付の家来など五百十余人を家に閉じ込め焼き殺しています。
そして、12月16日には荒木村重の一族など三十数名が京都にて市中引き回しの後、六条河原で斬首されました。
荒木村重は、その後、花隈城(神戸市)に移り徹底抗戦しましたが、後に毛利家へ亡命しています。信長の死んだ本能寺の変の後には、堺に移り茶人として暮らしたようです。

本願寺大阪退出 天正八年(1580)8月2日
信長に敵対していた一向宗(浄土真宗)の本拠地である大坂の石山本願寺は、朝廷の斡旋により信長と和議が成立し、顕如らが退去した後も残っていた教如が石山本願寺を明け渡しました。これにより、一向宗による信長への反乱は事実上終了しました。
なお、石山本願寺は信長軍の攻撃でも落とせなかった堅固な城だったようです。この石山本願寺の跡地に、後の大坂城が築かれました。

高野山槙尾寺を焼き払い 天正九年(1581)5月10日
槙尾寺(大阪府和泉市)は寺領の調書の差出を拒否したため、信長方に攻められることになりました。そのため、4月20日には「寺僧老若7、800人武具を着して退去」しています。そして、信長の軍は、5月10日に堂塔伽藍、寺庵僧坊などを焼き払ってしまいました。

高野聖成敗 天正九年(1581)8月17日
高野山(真言宗)は、謀反人の荒木村重の残党をかくまったため差し出すよう命令されましたがこれを拒否。逆に信長の使者10人ほどを殺害してしまいました。
そのため、怒った信長は高野聖(高野山から勧進のために諸国に派遣された僧)を捜し出して捕縛。数百人を処刑しています。

武田勝頼討死 天正十年(1582)3月11日
武田信玄の跡を継いだ武田勝頼は、信長に抵抗を続けていましたが、追い詰められ妻子など一族とともに自害あるいは討ち死にしました。こうして東国で信長に対立していた最大の敵である武田家は滅亡してしまいました。
武田氏なき後の東国は、甲斐(山梨県)は河尻秀隆と穴山梅雪に、駿河(静岡県)は徳川家康に、上野(群馬県)は滝川一益に任せられました。

西国攻略
武田氏の滅亡で東国が安定したため、この後、信長は中国と四国の攻略に本格的に乗り出します。信長は、四国の攻略のために三男の織田信孝、そして備中高松城(岡山市)で毛利と対峙する羽柴秀吉の応援に明智光秀などの派遣を指示しました。

明智光秀の謀反 天正十年(1582)6月2日
備中高松城(岡山市)攻めでの羽柴秀吉を支援するために亀山城(京都府亀山市)を出発した明智光秀の軍勢は京都に向かい、信長の宿泊していた京都の本能寺を襲います。「本能寺の変」です。この事件で本能寺の信長と二条城に逃れた長男の信忠が自害して果てました。
その後、明智光秀は信長の居城であった安土城(滋賀県近江八幡市)を手に入れ近江の国を攻略しています。自らの領地である丹波と近江、そして京都を支配した明智光秀は、朝廷からの信任を得て信長に代わり天下人となるかに見えました。
しかし、明智光秀は、備中高松城(岡山市)から急ぎ戻った羽柴秀吉や信長の三男の信孝などの連合軍と山崎(京都府乙訓郡)で戦い、敗北してしまいます。明智光秀は頼みにした筒井順慶や縁戚の細川藤孝・忠興など支援を得られず孤立していました。
明智光秀は居城のある坂本(滋賀県大津市)を目指して敗走するときに土民に殺されたと言われています。

明智光秀謀反の理由
明智光秀が謀反を起こした理由について現在も多くの説が提案されています。明智光秀の謀反が「三日天下」に終わったため、何故に、そんな無謀なことをしたのだろうと誰しも疑問に思うからです。
明智光秀の謀反を知った信長は「是非に及ばず」とだけ言って、押し寄せる敵と戦い始めたと伝えられています。驚いて聞き返すこともなく、嘆き悲しむこともなかったのです。信長にとっては予期していたこと、想定していたことだったのかもしれません。
信長の家臣であった太田牛一は「信長公記」で、明智光秀は信長を倒して天下を取ろうとしていたと冷静に書いています。そこには、その謀反を非難する記述や、明智光秀を批判する記述はありません。
太田牛一は「信長公記」で、本能寺の変の直前に行った明智光秀の愛宕山参詣と連歌興行について書いています。信長と違って、明智光秀は信心深く、優雅な趣味を持っていたと太田牛一は書きたかったのではないかと思います。父親の葬儀での乱暴な振る舞いをした信長のエピソードと対比するためのエピソードのように思えます。
私の勝手な想像ですが、おそらく明智光秀は信長の過激さに付いて行けなかったのではないかと思っています。光秀は、破壊し虐殺して突き進む信長を止めたかったのではないかと思います。
明智光秀は信長にとって第一の家臣でした。信長が出した天正八年(1580)の佐久間信盛への折檻状で、功労者として一番目に挙げられているのが明智光秀です。羽柴秀吉は二番目でした。光秀が信長の亡き後に天下を取れると思っても不思議はないと思います。ただ、明智光秀には、信長のようなカリスマ性や羽柴秀吉のような知略がなかったのだと思います。

中世の終焉
神仏の嫌いの信長は、武器を持って敵対する仏教勢力に対して厳しく当たっています。その結果、大坂の石山本願寺を引き払った一向宗の勢力も武器を持って戦うことはなくなり、宗教勢力が政治に介入することもなくなっていったようです。
信長が一向宗の信徒に対して行った大量虐殺は悲劇的でしたが、そのことが中世的な世界を終焉させることになったようです。

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参考文献
「改訂 信長公記」太田牛一著、桑田忠親校注 新人物往来社
「完訳 フロイス日本史」ルイス・フロイス著、松田毅一・川崎桃太訳 中公文庫
「フロイスの見た戦国日本」川崎桃太 中公文庫
「本能寺の変 信長の油断・光秀の殺意」藤本正行 歴史新書
「謎とき本能寺の変」藤田達生 講談社現代新書
「信長と十字架」立花京子 集英社新書
「信長は光秀に「本能寺で家康を討て!」と命じていた」跡部蛮 双葉新書
「本能寺の変 四二十七年目の真実」明智憲三郎 プレジデント社
「本願寺と天下人の50年戦争」武田鏡村 学研新書

2012.11.24 野沢 清 kiyoshi_nozawa@yahoo.co.jp