古代怨霊の真相

日本では古代から怨霊を恐れ祀ってきたかのような論があります。蘇我入鹿や蝦夷、聖徳太子まで怨霊にされています。しかし、実際に怨霊が意識され祀られるようになったのは、おもに平安時代になってからです。
怨霊は官僚制度が確立した時代に讒言などにより無実の罪で亡くなった人の怨念から発生しています。実力主義の古代や戦国時代にも無念の死を遂げた人は多くいます。彼らは慰霊される対象ではありますが、怨霊としては意識されてはいません。怨霊は無実の罪に陥れた人たちの贖罪感、恐怖感から発生したのだと思います。
それでは、あらためて冷静に怨霊の歴史を眺めてみたいと思います。

飛鳥時代の怪異

飛鳥時代にも霊につながるような不思議な話はありますが、怨霊というよりは道教的な神仙的な内容になっています。
片岡の飢者
推古21年(613)に、聖徳太子が片岡で施しを行った飢者が亡くなり埋葬したが、数日後に見に行かせたところ遺体はなく衣服だけが残っていました。実はあの飢者は聖(ひじり)であり、「聖(太子)は聖を知る」というお話です。
これは、仏教的な聖(ひじり)というよりは抜け殻を残して昇天する尸解仙(しかいせん)と呼ばれる仙人だと思います。実際、この聖(ひじり)を真人(ひじり)とも書いてありますが、真人は道教で理想の人あるいは仙人を意味します。
仙人のように昇天するのが、この時代の理想と考えられていたのだと思います。
山背大兄王の一族滅亡
厩戸皇子(聖徳太子)の息子とされる山背大兄王が巨勢徳多らに襲われ一族が自害した際に「五色の幡(はた)蓋(きぬがさ)、種々の伎楽、空に照り灼(ひか)りて、寺に臨み垂れり」とあります。悲惨な情景ではなく、華やかに一族が昇天して行く様を描写しているようです。
蘇我蝦夷の霊
斉明元年(655)に、青い笠をかぶった顔貌が唐人に似た人物が空中を龍に乗って葛城嶺から生駒山へと移動。その後、住吉の松嶺の上から西の方に消えて行ったという怪異が日本書紀に載っています。この怪人は仙人でしょうか天狗でしょうかそれとも鬼でしょうか。「扶桑略記」には乙巳の変(645)で自害した蘇我豊浦大臣(蝦夷)の霊とあるようです。
朝倉山の鬼
斉明7年(661)5月に、朝倉宮(福岡県)を建てる際に朝倉山の神社の木を伐ったため、神が怒り宮殿を壊し、鬼火が現れ、多くの者が病死しました。そして、7月に斉明天皇が崩御しましたが、その葬儀の時に朝倉山の上に大笠を着た鬼が現れ、葬儀の様子を見ていたそうです。
この鬼を蘇我蝦夷の霊とする説もありますが、朝倉山の神霊と考えるのが素直だと思います。
役小角
文武天皇3年(699)に、讒言により役小角が伊豆に流されたとの記事が続日本紀にあります。小角は鬼神を使役して、水を汲ませたり薪を採らせたりすることができ、もし鬼神が言うことをきかなかったら、呪術で自由を束縛したそうです。

奈良時代の怨霊

奈良時代の怨霊としてあげられるのは長屋王と淳仁天皇ですが、この時代にはあまり怨霊としては意識されておらず特に手厚く供養されているようすはありません。
怨霊が意識され始めるのは光仁天皇・桓武天皇の時代になってからです。
長屋王の変
神亀6年(729)、有力な王族であった長屋王は讒言により謀反の疑いをかけられ自殺させられました。対立する藤原四兄弟(武智麻呂、房前、宇合、麻呂)の陰謀だと言われています。
天平9年(737)、天然痘により4月に房前、7月に麻呂と武智麻呂、8月には宇合が相次いで亡くなりました。藤原四兄弟の全員が亡くなってしまいました。
天平9年(737)10月、朝廷は長屋王の子供たち(安宿王、黄文王、円方女王、紀女王、忍海部女王)を従四位下に昇進させています。朝廷は長屋王の怨霊を意識したのだと思います。しかし、長屋王を祀る寺や神社などは特にはなさそうです。
その後、安宿王と黄文王は橘奈良麻呂の乱(757)で連座したとして処分されています。安宿王は流罪となり後に許されていますが、黄文王は拷問死したようです。
藤原広嗣の乱
天平12年(740)、大宰府に左遷させられた藤原広嗣は、吉備真備と僧玄ムの処分を求めて九州で反乱を起こしますが、鎮圧され藤原広嗣は殺されました。
天平18年(746)、僧玄ムは筑紫の観世音寺に左遷され亡くなりましたが、世間では藤原広嗣の霊に殺されたと言っていたようです。
淳仁天皇(淡路廃帝)
天平宝字8年(764)10月、淳仁天皇は孝謙上皇により廃位され淡路に流されました。それ以来、天皇は淡路廃帝または淡路公と呼ばれました。翌年10月、淡路廃帝は逃亡を図りましたが捕まり、翌日薨去されました。
宝亀3年(772)8月、朝廷(光仁天皇)は淡路廃帝を淡路で改葬し、庵に2名を住まわせ供養させました。この年の5月に呪詛を行ったとして、井上内親王は皇后を廃され、息子の他戸王が皇太子を廃される事件が起きています。関連があるのかもしれません。
宝亀9年(778)3月、淡路親王(淡路廃帝)の墓を山稜と称し、その亡き母の墓を御墓と称するようにせよとの勅が出ています。皇太子(桓武天皇)の病が思わしくないためのようです。
明治3年(1870)、明治天皇から淳仁天皇と追号を贈られました。それまでは廃帝として正式な天皇とは認められず、淡路公あるいは淡路廃帝と呼ばれていました。また、京都の白峰神社に崇徳上皇とともに祀られたのも明治になってからでした。淡路廃帝の怨霊は長い間忘れられていたのでした。

御霊信仰

怨霊が意識され祀られるようになるには主に平安時代になってからです。六所御霊、八所御霊としてこの時代の怨霊がまとめてられて祀られています。これは無実の罪で処分された人たちの霊を慰めるためのものです。つまり、いかに怨念を残して死んでも無実でなければ、この御霊の仲間に入ることはありません。
井上内親王と他戸王
宝亀3年(772)5月、皇后の井上内親王が光仁天皇を呪詛したとして皇后を廃され、井上内親王の息子の他戸(おさべ)王も皇太子を廃されました。翌年10月には井上内親王が難波内親王を呪詛したとして、井上内親王と他戸王が幽閉されました。
宝亀6年(775)4月、井上内親王と他戸王がともに死亡しました。自殺か他殺か不明ですが、同じ日に亡くなったようです。
宝亀7年(776)9月、夜毎、瓦や石や土くれが降る現象が20日あまり続くという怪現象が起きています。
宝亀8年(777)3月、宮中でしきりに怪しいことが起きるため大祓を行っています。4月には太政官・内裏の建物に落雷が発生しています。
宝亀8年(777)11月、1日に天皇が病気になり、25日には皇太子が病気になっています。
宝亀8年(777)12月、井上内親王を改葬し墓守を置きました。皇太子(桓武天皇)が病気なったためのようです。
延暦19年(800)、井上内親王を皇后に戻し、その後には吉野皇太后と呼ばれるようになりました。
桓武天皇勅願によって創建されたと伝えられる奈良県五條市の御霊神社には井上内親王と他戸王、そして早良親王(崇道天皇)が祀られているようです。
早良親王(崇道天皇)
延暦4年(785)9月、皇太子の早良(さわら)親王(桓武天皇の弟)は、藤原種継の暗殺事件に連座したとして、廃太子とされました。代わりの皇太子は桓武天皇の息子の安殿(あて)親王(平城天皇)です。早良親王は乙訓寺に収容後、淡路島に移送されましたがすでに息絶えていたので淡路島に埋葬されました。早良親王は自ら飲食を絶って亡くなったようです。
延暦7年(788)5月、桓武天皇の夫人・藤原旅子が30歳で薨去。
延暦8年(789)12月、皇太后の高野新笠(桓武天皇、早良親王の母)が崩御。
延暦9年(790)3月、桓武天皇の皇后・藤原乙牟漏が31歳で崩御。
延暦9年(790)7月、桓武天皇の側室の坂上又子が逝去。
延暦9年(790)9月、皇太子の健康状態が良くないので七ヶ寺で読経させる。
延暦9年(790)、豌豆瘡(天然痘)が流行。
延暦10年(791)、皇太子が病気平癒の祈祷のため伊勢神宮に向かう。
延暦13年(794)、皇太子妃の藤原帯子が薨去。
延暦13年(794)、天皇は長岡京を放棄し平安京遷都を詔する。
延暦19年(800)、早良親王を崇道天皇と追称し、大和に改葬。この時には井上内親王も皇后に戻されています。
延暦24年(805)、崇道天皇を追悼するため、淡路廃帝(淳仁天皇)創建と伝えられる淡路の常隆寺を勅願寺とし伽藍を建立し本尊を安置しました。
伊予親王と藤原吉子
大同2年(807)10月、平城天皇の異母弟の伊予親王と母親の藤原吉子は、藤原宗成の証言により、謀反の疑いで捕えられ川原寺に幽閉され、翌日には服毒自殺しました。
大同4年(809)、平城天皇は病気のため弟の嵯峨天皇に譲位しますが、翌年に病気から回復すると復位を目指し「薬子の変」を起こしますが敗れて出家させられました。伊予親王の祟りかもしれません。さらに、この時までは、平城上皇の息子の高丘親王が皇太子でしたが、「薬子の変」で皇太子は嵯峨天皇の弟の大伴親王に変えられました。
なお、後に伊予親王と藤原吉子は無実を認められ復位しています。
御霊神社(上御霊神社)
延暦13年(794)、崇道天皇の神霊を祀ったのが始まりとされています。
その後、井上内親王と他戸王、藤原大夫人(藤原吉子)などが合祀されました。
御霊会
貞観5年(863)、京都神泉苑で朝廷主催の御霊会が開催されました。対象となった御霊は崇道天皇、伊予親王、藤原吉子など無実の罪で怨みを残して死んでいった人たちです。この御霊会は時の権力者の藤原良房が藤原北家の繁栄のために犠牲となった霊を慰撫するために開催したとも言われています。
しかし、こうした御霊信仰は疫病を退散させるとして民間からも信仰され現在にいたっています。

天神信仰

御霊信仰以上に一般の人気を得ているのが菅原道真の天神信仰です。でも、その怨霊は浄化され善神化されているように見えます。おどろおどろしい怨霊ではありません。
菅原道真
延喜元年(901)、文人で右大臣の菅原道真は、左大臣の藤原時平らの一派の讒言により失脚し、大宰府に左遷させられました。
延喜3年(903)、菅原道真は大宰府にて失意のうちに死亡しました。
延喜8年(908)、恩師である菅原道真を裏切った藤原菅根が雷に打たれて死亡。
延喜9年(909)、藤原時平が39歳の若さで病没。
延喜13年(913)、菅原道真の左遷に加担した源光が鷹狩りの途中泥沼にはまって死亡。
延喜23年(923)3月、藤原時平の妹穏子が産んだ皇太子保明親王が21歳の若さで突然薨去。
延喜23年(923)4月、怨霊を恐れた朝廷は菅原道真を右大臣に復し正二位を贈りました。また、元号を「延喜」から「延長」に改めています。
延長3年(925)、次に皇太子になった保明親王の息子の慶頼が5歳で薨去しました。
延長8年(930)6月、清涼殿に雷が落ち菅原道真の左遷に加担した5人が黒焦げになり死亡しました。
延長8年(930)9月、醍醐天皇が体調を崩し46歳で崩御しました。
天満宮
延喜5年(905)、大宰府の菅原道真の廟所に祠堂を創建。
延喜19年(919)、左大臣藤原仲平が勅を奉じて大宰府に天満宮の社殿を創建。
天慶5年(942)、京都の巫女の多治比文子に託宣が降り菅原道真の祭祀をしたのが北野天満宮の始まりです。その後、藤原氏により大規模な社殿の造営が行われました。
そして、菅原道真は天神様として、学問の神様として一般的な信仰を得て現在にいたっています。

平将門の怨霊

天慶2年(939)、平将門は常陸・下野・上野の国府を陥れ、新皇を名乗り関東での独立国家を目指しました。しかし、翌年、平将門は朝廷軍に敗れ、京都でさらし首にされました。
後代に様々な伝説が作られ平将門は神田明神に合祀されました。平将門は江戸幕府によっても崇拝され江戸の守り神とされました。また、東京・大手町の首塚は祟りがあるとして今も残っています。
しかし、平将門の霊威は江戸あるいは関東に留まっています。御霊信仰や天神信仰のような全国的な広がりは持っていません。

天皇の怨念

討幕を目指した後鳥羽上皇は敗れて流罪になり先輩の崇徳上皇を意識したように見えます。後鳥羽上皇は怨霊として祟ることを宣言して亡くなったようです。そして、後鳥羽上皇の怨念は後醍醐天皇に引き継がれ、天皇は討幕を目指します。
しかし、この怨念は皇室では引き継がれているようですが、一般的な信仰を得るような広がりは持っているようには見えません。讃岐院(崇徳上皇)の霊は、一般には長い間忘れられた存在でした。
崇徳上皇(讃岐院)
保元元年(1156)、「保元の乱」で弟の後白河天皇に敗れた崇徳上皇は讃岐に流され讃岐院と呼ばれました。讃岐院(崇徳上皇)は生きながら天狗になり、その生霊が「平治の乱」(1159)を起こしたとも言われています。
長寛2年(1164)、讃岐院(崇徳上皇)は配流先の讃岐で怨みを残して崩御します。
永万元年(1165)、後白河天皇の皇子の二条天皇が23歳で病没。
永万2年(1166)、六条天皇の摂政の藤原基実が24歳で病没。藤原基実は、崇徳上皇の恨みをかった藤原忠通の息子です。
安元2年(1176)、六条太上天皇、高倉天皇の生母の建春門院、二条天皇の中宮の高松院、近衛天皇の中宮の九条院が立て続けに崩御しました。
安元3年(1177)4月、京都で大火が起き、大内裏の広い範囲は焼け落ちました。
安元3年(1177)7月、讃岐院に「崇徳」の諡号が贈られ太政大臣正一位とされました。また、このころ年号は治承と改元されました。
治承元年(1177)8月、崇徳上皇の所縁の成勝寺で法華八講が行われました。
治承3年(1179)、平清盛が京都を占拠し後白河上皇は幽閉されてしまいました。
寿永3年(1184)、京都春日河原に崇徳院廟(粟田宮)が建てられました。この廟は、現在は失われていますが、祇園に崇徳天皇御廟が残っています。
慶応4年(1868)、明治天皇が崇徳上皇を祀るため京都に白峰神社を創建しました。
崇徳上皇は、物語では「日本国の大悪魔と成らん」と誓ったとされていますが、ひっそりと寂しく亡くなったのが実際かもしれません。「思ひやれ 都はるかに おきつ波 立ちへだてる こころぼそさを」という歌が残っているようです。
後鳥羽上皇
承久元年(1219)、鎌倉幕府を倒し朝廷の権力を回復するため後鳥羽上皇は挙兵し「承久の乱」を起こしますが、敗れて隠岐に流されます。同時に順徳上皇は佐渡に、土御門上皇は土佐に流されました。
延応元年(1239)2月、後鳥羽上皇は配流先の隠岐で崩御されました。後鳥羽上皇は強い怨みを残していたとされ、怨霊となって祟ることを宣言していたとされています。
延応元年(1239)12月、鎌倉幕府の有力御家人の三浦義村が頓死。さらに翌1月に北条時房が頓死すると後鳥羽上皇の怨霊が原因と噂されました。
仁治元年(1240)2月、後鳥羽上皇の一周忌に鎌倉に大火が発生。
仁治3年(1242)1月、12歳の四条天皇が廊下で転んで崩御。この時も後鳥羽上皇の怨霊が噂されました。四条天皇の後には後鳥羽上皇の孫にあたる後嵯峨天皇が即位しました。
仁治3年(1242)6月、執権の北条泰時が悶絶しながら死亡。やはり後鳥羽上皇の怨霊の祟りと噂されました。
寛元元年(1244)、後鳥羽上皇の命日に法華八講が行われるようになりました。
宝治元年(1247)、鎌倉の鶴岡八幡宮に後鳥羽上皇、順徳上皇、土御門上皇を祀る今宮を建立。
後醍醐天皇
正中元年(1324)、後醍醐天皇の討幕計画は事前に漏れてしまい、天皇の関与は不問とされましたが、日野資朝が佐渡へ流罪とされました。(正中の変)
元弘元年(1331)、再び討幕計画が漏れてしまい後醍醐天皇は隠岐に流されてしまいました。(元弘の乱)
元弘2年(1332)、護良親王、楠木正成が河内で挙兵すると各地で挙兵が相次ぎ討幕の機運が盛り上がり、後醍醐天皇は配所の壱岐を脱出します。
元弘3年(1333)、足利高氏が幕府を裏切ると形勢は逆転し、鎌倉幕府は滅亡し、後醍醐天皇による親政が実現しました。(建武の中興)
建武3年(1336)、足利尊氏は、後醍醐天皇から離反し光厳上皇の支持を得て室町幕府を開きます。後醍醐天皇は吉野に逃れ南朝を開きました。
延元4年(1339)、後醍醐天皇は病床で後村上天皇に譲位し崩御しました。
康永4年(1345)、足利尊氏は、後醍醐天皇の菩提を弔うため京都に天竜寺を創建し、落慶法要と後醍醐天皇七回忌法要を行いました。北朝側は後醍醐天皇の怨霊を恐れたようです。
孝明天皇と明治天皇
孝明天皇は、なぜか崇徳天皇を強く意識していたようです。「世情が混乱しているのは崇徳天皇の怨霊のせいである」と考えていたようです。
元治元年(1864)、崇徳天皇の700年祭にあたり孝明天皇が京都に白峯神宮の創建を決定しました。この白峯神宮は、慶応4年(1868)明治天皇の代になり完成しました。
明治3年(1870)、明治天皇は淡路廃帝に淳仁天皇の諡号を贈り、その後、京都の白峯神宮に崇徳天皇とともに祀りました。
また、壬申の乱(672)で天武天皇に敗れて死んだ大友皇子にも、弘文天皇の諡号を贈っています。

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参考文献
「日本古典文学大系 日本書紀」岩波書店
「続日本紀」東洋文庫
「日本霊異記」板橋倫行校注 角川文庫
「抱朴子」東洋文庫
「和漢三才図会」島田勇雄他訳注 東洋文庫
「跋扈する怨霊」山田雄司 吉川弘文館
「怨霊になった天皇」竹田恒泰 小学館
「別冊歴史読本 歴代天皇・皇后総覧」新人物往来社
「歴史読本 特集 謎の聖域 神々の社」昭和63年2月号 新人物往来社
「歴史読本 特集 魔界都市「平安京」」昭和63年7月号 新人物往来社

「隠された十字架 −法隆寺論−」梅原猛 新潮文庫
「逆説の日本史(2)古代怨霊編」井沢元彦 小学館文庫
「夢殿の闇」小椋一葉 河出書房新社
「怨霊の古代史」戸矢学 河出書房新社

2011.8.15 野沢 清 kiyoshi_nozawa@yahoo.co.jp