李朝末期の朝鮮1
日本が幕末に開国し明治維新を迎えた頃、鎖国をしていた朝鮮にも外国からの圧力が高まっていました。朝鮮は1876年に日本と「日朝修好条規」を結び、その後に各国と通商条約を結んでいます。そして、1897年には国号を大韓帝国と改め、李氏朝鮮(李朝)は終焉しました。
1392 李氏朝鮮王国成立
1866 フランス艦隊 江華島侵略(丙寅洋擾)
1871 アメリカ艦隊 江華島侵略(辛未洋擾)
1873 閔氏一族が政権奪取
1876 日朝修好条規
1882 米朝修好通商条約
1883 英朝通商条約、独朝通商条約
1885 イギリス艦隊 巨文島占拠
1894 甲午農民戦争(東学党の乱)
1894 日清戦争
1895 閔妃暗殺事件
1897 国号を大韓帝国と改める
朝鮮の歴史的発展段階
この頃の朝鮮の社会的経済的な状況について朝鮮史が専門の梶村秀樹は、日本とそう変わらないほどに発展していたと述べています。
「開国に先立つ時期の日朝両国の社会的経済的な発展は、政治・文化的特質をもちつつ、大同小異の段階に達していた。問題は、開国によって加速された社会変動の集約としての、一大政治変革の成否にあった。そして、まだ新しい体制が固まっていない変革期に、どのような質の政治・軍事的外圧が加わったかが、その成否に、したがってその後の両国の運命に、大きく影響したとみなければならない。ある意味では、わずか20余年の開国の時差が、明治維新を運よく成功させ、20余年後の朝鮮の変革を失敗においこむという岐路を生んだといえるのである。」(朝鮮史)
外国人の報告
しかし、この頃に朝鮮を訪れた外国人たちの報告によれば、朝鮮は悲惨な状況にあったことが分かります。幕末の日本を訪れた外国人は、日本の農民が豊かに幸福そうに暮らしていると報告していますが、同じ頃の朝鮮の農民は頻繁な飢餓状態に置かれていたようです。
「年間の収穫は、住民の需要をかろうじて満たす程度であり、しかも朝鮮では飢餓が頻繁にみられる。最も貧しい階級の人々にとって、それは年に二度、定期的に訪れる。まず、大麦の収穫を待つ間の春窮期の6、7月、次いで粟類の取り入れ前の9、10月である。金銭は法外な利子付きでしか借りられず、わずかばかりの貯えも使い果たした不幸な人々は、米やその他の穀物を買うことすらできない。彼らに残された生きる糧といえば、ただ塩水で煮詰めたわずかばかりの草木だけである。」(朝鮮事情)
日本では古代の王朝政権が中世の武家政権に変わり、近世の徳川時代の安定した封建政治へと発展してきました。しかし、この当時の朝鮮の商業や貨幣制度が未発達の経済状態は中世どころか古代社会と言ってよい状態にあったことが分かります。このことは、手工業、宗教、娯楽、芸術などの状況を見てもわかります。
古代王朝
本稿では、李朝末期に朝鮮を訪れた外国人の報告をもとに古代王朝・李朝末期のようすを見てみたいと思います。なお、本稿は以下の報告を使ってまとめました。
「朝鮮事情」シャルル・ダレ 東洋文庫
本書は「朝鮮教会史」(1874)の序論部分で、パリ外邦伝教会の宣教師たちの通信を素材にしています。著者のダレはフランス人の宣教師です。
「朝鮮旅行記」ゲ・デ・チャガイ編 東洋文庫
ロシア軍人などによる旅行記をまとめた本です。
「ソウルから北朝鮮を経てポシェートに到る徒歩の旅日誌」
バーヴェル・ミハイロビッチ・ヂェロトケヴィチ(1885-1886)
「朝鮮の現況」
ダデシュカリアニ(1885) アムール州総督官房付
「1889年夏の朝鮮旅行」
ウェーベリ中佐
「1895−1896年の南朝鮮旅行」
カルネイェフ大佐、ミハイロフ中尉
「1895年12月および1896年1月の朝鮮旅行」
アリフタン中佐
「朝鮮奥地紀行」イサベラ・バード(ビショップ夫人)東洋文庫
著者は「日本奥地紀行」で有名な英国の旅行家・冒険家です。なお、著者は1881年に結婚してからはビショップ夫人と呼ばれています。夫人は1894年1月から1897年3月までの間に4度、朝鮮を訪問しています。
貧窮した国
李朝末期の朝鮮では飢餓が日常化しており、食料備蓄もなく住民は貧困のなかで暮らしていました。
貧困
「慶興の町は、およそ700人の住民を数えるが、一軒の小店もなく、一切の手仕事も生産活動も行われていなかった。この貧困は、ほとんど全朝鮮がかかる欠乏状態下にあることを納得するまでは私には全く異常に思えた。」(朝鮮旅行記)
「(徳川付近の)その村落のあばら屋は、数マイルの長さに沿って立っている黍(きび)と、そして木の小枝を積んだ山と区別がつかなかった。人々に、それこそやっと生きていけるだけの必需品のみを許容している貧しさが、この地方の農夫の宿命になっている。」(朝鮮奥地紀行)
食料事情
「年間の収穫は、住民の需要をかろうじて満たす程度であり、しかも朝鮮では飢餓が頻繁にみられる。最も貧しい階級の人々にとって、それは年に二度、定期的に訪れる。まず、大麦の収穫を待つ間の春窮期の6、7月、次いで粟類の取り入れ前の9、10月である。金銭は法外な利子付きでしか借りられず、わずかばかりの貯えも使い果たした不幸な人々は、米やその他の穀物を買うことすらできない。彼らに残された生きる糧といえば、ただ塩水で煮詰めたわずかばかりの草木だけである。」(朝鮮事情)
「当地(富寧)に米がなく、あるのはただ粟だけである。私は府使(役人)に米を乞わなければならなかった。」「府使は私に鶏肉、豚肉、卵、米、挽肉を出してくれ、食事は悪くなかった。」(朝鮮旅行記)
「(徳川では)搾取が役人によって依然と続けられている。朝鮮人の生活の普通の糧である米は安州から持ってくる。しかし、お金持ちつまり役人が消費するだけである。貧乏人は大きな黍(きび)と小さな黍(きび)を常食している。馬鈴薯と小麦が育てられている。しかし土壌は貧弱で石が多い。主として魚の干物や海草の細々とした交易が元山とのあいだで営まれている。」(朝鮮奥地紀行)
食料備蓄
「わが国(ロシア)と国境を接する辺境州には備蓄商店(国有の穀物倉庫)が見当たらない。住民は次の収穫まではその日暮らし、土地に産するものはすべて食べてしまう。」(朝鮮旅行記)
「(定平では)米の値段は高くソウルの3メーラに当たる1メーラが470ギンザン・ケシもする。1メーラの粟は450ケシ。馬鈴薯と小麦はない。土地が痩せていて昨年もたくさんの餓死者が出た。今年は各世帯に世帯主1人分の食糧しかない。万一、来年も不作だったら凄まじい飢饉となることが危惧されている。家畜も僅かしかいない。」(朝鮮旅行記)
「(慶州の町では)1894年のペスト流行が家畜をほとんど根絶させてしまったので、町には僅かに15頭が残るのみ。ほとんど3年連続の凶作で米の備蓄もたいそうわずかである。」(朝鮮旅行記)
移住する住民
「(洪原付近で)また、家族と財産を抱えて北へ移動するたくさんの朝鮮人たちとも出会った。彼らは、もっと安く暮らせる場所を探している。故郷では彼らは餓死を待つばかりだった。」(朝鮮旅行記)
「この地の牛は小柄で、土地も痩せている。貧しい人々はもはやお手上げである。」(朝鮮旅行記)
都市の悲惨な状況
李朝末期の朝鮮の都市は汚いあばら屋が集まって出来ていました。路地は曲がりくねっており、住民は汚物をその路地に垂れ流していました。この頃の朝鮮にはトイレはなかったようです。そのため路地は悪臭がひどかったのです。
料理と暖房のためのオンドルで使うために木が伐られ、近隣の山は丸裸になっていたようです。草さえも燃料として利用されていました。
釜山
日本に近い釜山(ぷさん)は初期に外国に対して開かれた港町です。他の都市同様にみすぼらしくて汚かったようです。
「湾の北の一角には石造りの壁で取り囲まれた朝鮮人の釜山の町があり、みすぼらしくて汚い藁(わら)葺きの茅屋(ぼうおく:あばらや)が軒を連ねている。」(朝鮮旅行記)
「惨めな所だと思ったが、後ほどの経験によると朝鮮の町の一般的な通路で、とりわけ惨めなものでもなかった。狭くてきたない通りには泥を塗りつけた編み枝で建てられた低いあばら家がある。その家に窓はない。藁(わら)屋根と深い庇(ひさし)がある。全ての壁には地上2フィートの所に黒い煙の穴がある。家の外側はほとんど固体や液状のゴミが入っているでこぼこしたドブである。毛の抜けた犬どもと半裸か全裸の埃だらけで汚いただれ眼の子供たちが、深い塵やどろどろした汚物のなかで転げ回っているか、日なたであえいだり目をぱちくりさせたりしている。どうもいっぱいの悪臭にもこたえないらしい。」(朝鮮奥地紀行)
済物浦
済物浦(さいもっぽ)は現在の仁川(いんちょん)のようです。首都ソウル最寄りの港町です。
「沖合の投錨地から見たように、済物浦はみすぼらしい家屋の集まりであった。ほとんど木造で白く塗られている。海岸沿いに建てられ、木が伐られて緑のない丘に散在していた。低い地点から1マイル以上にわたっている広がりに木はほんの少ししかない。」(朝鮮奥地紀行)
「どの岩棚にも置かれている泥のあばら屋には、不潔な路地を通って行ける。無口で汚い子供たちが群がっている。その父親の無為をまねて大道で傍観している。」(朝鮮奥地紀行)
「朝鮮人の町の6,700人の住民のうち、その半分を占めている男たちは、どちらかと言えば常に動いている。狭い道路はいつも彼らでいっぱいになっている。つば付き帽子で正装してぶらついている。見たところ何もしていない。古い釜山で見られたそのままである。」(朝鮮奥地紀行)
ソウル
王宮のある首都ソウルは人口20〜30万人の都市だったようですが、他の都市と同様に汚物にまみれた悪臭のする町でした。周りの山々は木が伐られ禿山です。植林をするようなことはなかったのでしょうか?
曲がりくねった路地
「ソウルは山並みに囲まれており、漢江の流れに沿って位置し、高くて厚い城壁に囲まれた人口の多い大都市であるが、建築物には見るべきものはない。かなり広い幾つかの道路を除いては、曲がりくねった路地だけがあり、この路地には空気が流れることなく、足にかかるものといえばゴミばかりである。家はふつう瓦で覆われているが低くて狭い。」(朝鮮事情)
禿山
「山が多い周囲のそこここは松の木で暗いが、たいがいは木が伐られて裸にされ草木も生えていない。黒い不毛の壁のなかに都市は落ち込んでいる。この山々が、およそ長さ5マイル、幅3マイルの谷間を囲っている。その谷間に20万人の人々が詰め込まれている。無理に押し込まれている。この都市は低い褐色の屋根の海である。たいてい藁(わら)屋根でおしなべて単調である。木も生えてないし、開かれた空間もない。」(朝鮮奥地紀行)
汚物と悪臭
「町を縦横に走るその他の街路は、約3サージェン(約6m)幅の曲がりくねった道で、とりわけ朝夕は悪臭が充満する。つまり、食事の支度が開始されるその時刻には、街路に面して設けられ、しかも屋根の上ではなく家屋の裾に開口する煙道のおかげで、煮炊きの煙が一斉に街路に向けて放出されるからである。また、汚物がそのまま街路へ投棄される夏には、なお一層ひどい事態になるそうである。」(朝鮮旅行記)
ソウルのドブ
「私は北京を見るまではソウルを地球上もっとも不潔な都市、また紹興の悪臭に出会うまではもっとも悪臭のひどい都市と考えていた!
大都市、首都にしてはそのみすぼらしさは名状できない程ひどいものである。礼儀作法のために二階建ての建造が禁じられている。その結果、25万人と見積もられている人々が「地べた」、主として迷路のような路地で暮らしている。
その路地の多くは、荷を積んだ二頭の牡牛が通れないほど狭い。実にやっと人ひとりが荷を積んだ雄牛一頭を通せる広さしかない。さらに立ち並んでいるひどくむさくるしい家々や、その家が出す固体や液体の廃物を受け入れる緑色のぬるぬるしたドブと、そしてその汚れた臭い緑によっていっそう狭められている。
そのドブは半裸の子供たちや、どろどろしたヘドロのなかを転げ回るか日なたで目をぱちくりさせている汚物で汚れた大きな毛の抜けたかすみ目の犬が、大好きでよく行く所である。そこにはまた小間物やアニリン染料でけばけばしく色付けされたキャンディーの行商人も居る。その行商人はドブに厚板を2、3枚渡して店を常設している。」(朝鮮奥地紀行)
あばら屋と煙
「これらのドブと隣接している家屋は一般に深い庇(ひさし)と藁(わら)葺き屋根のあばら屋である。その家は泥壁の他には通りに何も見せていないが、ときおり屋根のすぐ下に見られる小さな紙の窓で人の住む所であると示している。
いつも変わらずにドブの上2フィートから3フィートの高さの所に黒くなった煙の穴、煙と熱せられた空気の抜け口がある。これは家屋の床を暖める役目を果たしている。
一日中、薪(まき)を非常に高く積んだ雄牛が都市に入って来ている。6時になるとこの松の木の小枝は、地域の人々の料理と暖房を用意しソウルの全ての路地を芳ばしい煙でいっぱいにする。これは注目すべき几帳面さでずっと続けられている。反り返った瓦屋根のある上等な家屋も、この下品な外観以上のものを、通りに見せていない。」(朝鮮奥地紀行)
日本人居留地
「南山の斜面に日本公使館の簡素で控えめな白い木造建築があった。その下にある約5千人の日本人居留地には茶屋、劇場、そして日本人の安寧に欠かせない色んな設備が整っていた。そこには、その全てで朝鮮人のものと鋭い対照をなしている商店や家屋のある通りが見られた。清潔、上品そして倹約がこの上なく行き渡っている。」(朝鮮奥地紀行)
ソウルの洗濯
「ソウルの風物の一つは小川、排水渠または水路であり塀で囲まれた覆いのない広い導水管である。それに沿って黒ずんだ色のただれたような流れが、かつて砂利だらの川床であったところを覆っている肥やしや廃物の山の間の悪臭がする長い広がりをのろのろと進んでいる。
そこでは、男たちだけの群衆に疲れた人は、最下層の女たちの光景で活気づけられるかもしれない。ある女の人は、おたまで手桶に水として通用する混合物を汲んでいる。他の女性は、流れとして通用する悪臭を放つ水溜まりで衣類を洗っている。」(朝鮮奥地紀行)
「洗濯は、その主人が白衣を着る限り明らかに彼女らの宿命になっている。彼女らは、この汚い川で、桑の木の宮殿(昌慶宮)の池で、湿った掘割の全てで、城壁の外側にある2、3の流れの中で洗濯する。衣類は一部ほどかれ、草木の灰で三度沸かされ、堅く束に巻かれ、石の上で重い棒切れでもって強く打たれる。乾かされた後に衣類は円筒形の台の上で、木の棒切れで冴えない繻子(しゅす)に似た色艶になるまで叩かれる。朝鮮の女性は洗濯場の奴隷である。ソウルの夜のしじまを破る唯一の物音は、女性たちが砧(きぬた)を打つ規則正しい音なのである。」(朝鮮奥地紀行)
元山
元山(ウォンサン)は日本海側の港町で、開港後は日本人が多く住んでいたようです。イサベラ・バードは朝鮮の町と対比させて小奇麗な日本人居留地を描写しています。
町の悪臭と埃(ほこり)
「人口1万5千人と見積もられている元山は、松に覆われた絶壁と山脈の下の細長い浜沿いに横たわっていた。当時、山頂まで緑色であった。」(朝鮮奥地紀行)
「町は臭いがもの凄く、埃(ほこり)がひどかった。浅ましい犬どもの大群と血が滲み太陽に照らされて黒ずんだ獣肉の断片には、まったくうんざりさせられた。」(朝鮮奥地紀行)
日本人居留地
「でこぼこした朝鮮の道路が、いつの間にか広い砂利道になっていた。それは全朝鮮で一番きちんとした一番手入れの良い魅力的な町にと次第に変わっていった。」(朝鮮奥地紀行)
「広くて申し分なく手入れされた通り。小奇麗な波止場。日本独特の綺麗だが情味のない優雅な内部を示している整ったかなりしっかりした家々。イギリス風日本様式の大きくて大層目立つ日本領事館。NYK日本郵船株式会社の事務所。堅実であると評判の日本の銀行。小奇麗な読書室のある税関の建物。ヨーロッパの品物が手頃な値段で買えるきちんとした日本人商店。ヨーロッパの服装をした教師のいる学校の建物。そして活発な子供たちとベールもマフラーもしていないが優雅な女の人たちが、この心地良い日本人植民地の特徴になっている。」(朝鮮奥地紀行)
朝鮮の街路
「全ての家屋は村でも町でも全く同一の構造である。計画性はどこにも認められず、街路も蛇のように、あらゆる方向へのたくり回っている。家屋と家屋の間には、ほとんど間隙を残さず軒を接して建ち並んでいる。中庭の場所として極めて僅かな空き地が残されるが、それとても方形のものではなく、ほとんど円形の土地に様々な家財道具のがらくたが山積みされている。」(朝鮮旅行記)
朝鮮の都市
「朝鮮には大きな町の数が概して多くない。これらの町は人口を吸引するほどの魅力を有さず、教育および品物や改良された生産に関する知識がそこから国中に広まって行き、また商業がそこへ集中するといったような中枢の機能を果たしてはいない。」(朝鮮旅行記)
会寧
「高さが2サージェン(約4m)にも達し三つの門を構える石壁で町は取り囲まれている。戸数は約2千。府使(役人)の家がある街路だけはかなり広いが、それ以外は1.5サージェン(約3m)の道幅である。全ての街路の汚さは言語に絶する。」(朝鮮旅行記)
慶興
「慶興はすっかり荒れ果てた古い町で、汚いことこの上ない。要塞の壁があちこちに残骸をさらしている。国有の建造物もやはり一方に傾いていて、町の移転はもはや時間の問題である。」(朝鮮旅行記)
平壌
「平壌の町は、高い壁に取巻かれた多角形の内部に密集する1万2千世帯の朝鮮人からなる。壁の総延長は10露里(10Km)を下らない。軒を接した家屋が混沌たる無秩序の中でひしめきあう。家屋の間は狭い路地が迷路のように走っていて、人間の大群が蟻塚における蟻のようにうごめいている。」(朝鮮旅行記)
開城
「この都市はかなり「裕福な」都市であるけれども、私のいる宿所と至る所のむさ苦しさ、塵(ちり)とがらくたは想像も及ばないものである。水の供給は最悪である。あらゆる種類のごみと滓(かす)が井戸口にも置かれている。」(朝鮮奥地紀行)
徳川
「徳川の役所の建物の荒廃と衰微、私宅の汚さ浅ましさはそれ以下のものがあり得ないほどひどいものだった。」(朝鮮奥地紀行)
朝鮮の家屋
朝鮮人は西欧人にぼろくそに言われるほどひどい家に住んでいたようです。朝鮮の家には必ず床暖房のためオンドルが作られていました。ただしこのオンドルは、冬はいいのですが夏でも調理のため使われるので暑くて居られなくなるようです。トイレや風呂はなさそうです。
なお、朝鮮では古代からの自給自足が原則ですから自分たちで建てたようです。専門職としての大工はあまりいなかったようです。
茅屋
「あなたは、みすぼらしい茅屋(ぼうおく:あばら屋)というものを見たことがあるでしょう。では、あなたの知っている最も貧しい茅屋を、その美しさと強固さの程度をさらに落として想像してみてください。すると、それがみすぼらしい朝鮮の住まいについてのほとんど正確な姿となるでしょう。」(朝鮮事情)
「一般的に言って、朝鮮人は藁(わら)葺きの家に住んでいます。都市でも田舎でも瓦屋根の家はきわめて稀で、二百に一つもありません。」(朝鮮事情)
住宅事情
「実際、貧しい人々の家は、土で出来たみじめな掘っ立て小屋にすぎない。彼らには、二部屋を持つ術すらなく、たとえ二部屋あったとしても、冬に二部屋ともオンドルを焚くことはできないから、父母・兄弟・姉妹が一つの布団で一緒に寝ることになる。もし布団がないときには、少しでも温まるために互いに身を寄せ合って寝る。」(朝鮮事情)
「(吉州の)家々はいかにもみすぼらしくて、今にも崩れそうである。次席(役人)の家は他のものよりも幾分大きいが、本質的には他の家々とほとんど変わらない。一様に汚くてみすぼらしいのだ。」(朝鮮旅行記)
家の建築方法
「普通の場合、かろうじて粗削りされた数本の木、いくつかの石、それに土と藁(わら)が、家を建てる材料となります。まず、四本の柱を地面に打ちこんで屋根を支えます。横断しているいくつかの小梁に、対角線に交わる他の木を架け渡して蜘蛛の巣状にします。それが、厚さ8〜12センチの土壁を支えます。小さな入口は格子状の板張りで、ガラスがないので紙を貼って隙間をふさいでいます。これで戸と窓の役目を同時に兼ねるわけです。部屋の床面は、中国やインドの茣蓙(ござ)に比べればはるかに粗末なもので覆われています。貧しい人は、しばしば、多少厚ぼったい藁(わら)を土間の上に敷いて地面を隠すだけで満足しなければなりません。金持ちの人々は、紙を土壁に張りつけ、またヨーロッパの床板やタイルの代わりに厚い油紙を床に張りつけます。二階建ての家は探しても無駄です。そのようなものを朝鮮人は知らないのです。」(朝鮮事情)
「金持ちの家では内部の壁には白い紙が張られており、時には外側の壁にも張りつけてある。そして、これらの家屋の外観は、ほとんどいつも汚れ、破損し、みじめったらしい。このことはソウルでも同じである。そこには、決まっていつもいろんな害虫があふれている。」(朝鮮事情)
隙間風
「(寒くて)戸を閉め切りたくても、古い障子にあけられた無数の穴を見れば、そんな注意など無駄事だと分かるでしょう。それに、朝鮮の指物(さしもの)師たちの腕前では、まったく窒息死の恐れなどないほど十分に隙間が作られているのです。その点に関しては、すべての欠陥を指物師のせいばかりにもできません。というのも、かろうじて12ないし20スーの金で、多くの場合、斧(おの)と鑿(のみ)だけをたよりにしてこしらえた戸が、どうして完全なものでありえましょう。」(朝鮮事情)
オンドル
「家の外には、横側に台所の竃(かまど)が設備されていて、屋内の土の床の下を通るいくつかの通管が、そこまで延びてきているのです。これらの通管(房管)は、大きな石で覆った隙間を粘土で埋め合わせて凹凸を平らにしたものです。茣蓙(ござ)はちょうどこの上に敷かれます。煙と熱が通管を通って家のもう一方の側に出るあいだに熱はみごとに部屋に行き渡ります。この熱は、石が厚いため、かなり長い間維持されます。」(朝鮮事情)
「これは、冬場をしのぐにはかなり便利であるが、夏場になると熱気が屋内にこもって、まるで人々に耐え難い体罰を課していると同じような状態になるからである。で、大方の人は戸外に眠る。金持ちはたいてい夏用の部屋を持っているが、そこには通管はない。」(朝鮮事情)
台所
朝鮮では甕(かめ)が多用されています。桶は使われていないようです。まだ作る技術がなかったのかもしれません。
「炊事場近くの特設の柵内には大型の素焼きの甕(かめ)が幾つか地面に埋め込んであり、そこには唐辛子とともに漬けた白菜、やはり唐辛子入りの塩漬け蕪(かぶ)、乾した海草、昆布、干魚などの調味料が貯蔵される。藁(わら)俵に詰めた米は、居間の一つか、あるいは住居用の家屋と同じ構造だが暖房の床を欠くだけの特別の納屋に保管する。水も甕に貯蔵され南瓜(かぼちゃ)製の柄杓(ひしゃく)で釜に汲み出す。あちこちの居間には、醤油の原料となる圧搾大豆の円盤を幾つも棒に刺したものが、屋根から釣り下げてある。これらの大豆は決まって黴(かび)が生えて腐敗し家屋内の空気を汚染している。居間の一隅には朝鮮の酒を醸造するための甕も見出される。」(朝鮮旅行記)
寝具
「朝鮮人は、ほとんど茣蓙(ござ)の上で寝ます。貧しい人々、換言すれば大多数の者は、昼も夜も着ている同じ服のほかには掛けるものとてなく、茣蓙の上で横になります。少しでも金のある者は、布団という贅沢品を持っています。暮らし向きのいい階級になると、厚さ10〜20センチの小さなクッションを併せ持っている者がいます。金持ちも貧乏人もすべて、部屋の隅にある四角形の厚ぼったい小さな木端を枕として使っています。」(朝鮮事情)
「まれにしか見られないが、幅が1チェトヴェルチ(約18センチ)ほどで、粟、豌豆もしくは大豆を詰めた丸い袋からなる別種類の枕もある。この寸胴袋の両端には醜悪かつ不細工に彩色された円盤が縫い付けてある。バザールでは、このような円盤が大量に売られている。」(朝鮮旅行記)
朝鮮の宿屋
朝鮮にはサービス業としての旅館やホテルなどはなかったようです。普通のあばら屋に旅人を泊めてやっていました。偉い人なら上流階級の家に泊めてもらったりできるのですが、「朝鮮奥地紀行」の著者であり冒険家である英国婦人のイサベラ・バードは、あえて一般庶民と同じようにあばら屋の宿に泊まっていました。そこでは庶民の生活を存分に「堪能」しています。
朝鮮にまともな宿屋がなかったのは商業などが未発達だったことに加えて、一般の庶民が娯楽や巡礼のために旅行する習慣がなかったためと思われます。
普通の宿屋
「沿道にある酒幕(宿屋兼居酒屋)は、むさくるしいあばら家でほとんど何も置かれていない。旅人がそこを使うときには、自分たちの食料を持参して入る。納屋も厩舎もなく、四方開け放しの大きな上屋がそれらを代用し、冬の厳寒期には牛や馬をそこにつないで藁(わら)を食べさせる。」(朝鮮事情)
中庭の井戸
「(侍中湖近くの)宿屋は、もしそれが宿屋ならば、私に縦8フィート、横6フィート、高さ5フィートの一室を提供してくれた。そこは、家族の物置で甕(かめ)、鋤(すき)と踏み鍬(くわ)の鉄の靴、汚れたぼろ束、海草、天井から房になってぶら下げられて黍(きび)の穂、荷鞍(にぐら)、最悪だった醤油用に発酵・腐敗させた豆、悪臭のする半ば塩漬けにした魚などがぎっしり入れてあった。私の折り畳み式寝台がようやく置けた。
この私室は下品な中庭に面して開かれていた。その中庭の一部は肥しの山、一部は豚小屋になっていた。そして中に井戸があった。その井戸から、この家の女たちは崇高な冷静さで、釣瓶(つるべ)でもって飲み水を汲み上げていた! 中庭の外側は湿地であった。その湿地から一晩中、吐き気を催させる臭いが発散していた。数分ごとに誰かが私の居る部屋の中の何かを取りに来た。そこは二人用部屋ではなかったので、その度ごとに私は部屋を出て中庭に行かなければならなかった。」(朝鮮奥地紀行)
最悪の宿
「部屋に入った時、水銀柱は華氏87度(摂氏30度)を指していた。その後、男の人たちと獣(驢馬)のために料理したので床の温度は華氏107度(摂氏42度)に上がった。水銀柱はその点を翌朝まで示していた。
こうして熱に非常な満足を覚える無数のゴキブリと害虫どもに忌まわしい活動的な元気と生気を与えた。鼠は言わずもがなである。私の寝台の上を走り回り、蝋燭(ろうそく)を食べ、革紐をかじった。以前、写真機の三脚台に長靴を吊るしておくことを学ばなかったならば、あやうく長靴を台なしにするところであった。
9年間の旅行中、時にひどく厳しく不愉快だったが、この夜の事は際立ってぞっとして記憶に残っている。」(朝鮮奥地紀行)
ゴキブリ
「私の部屋は、長さ8フィート、幅6フィートであった。部屋の大半がその家の人たちの家財道具で占められていた。さらにゴキブリやその他の恐ろしい生物どもで満ちていた。このような汚物と不快のなかで朝鮮の農夫が生きているとは、とても信じられない。」(朝鮮奥地紀行)
蠅と蚤と南京虫
「単調な田舎を一日中騎乗して鳳山に着いた。今までで一番汚くてむさ苦しい家に休憩した。その時から私はずっとその家に居た。やがて私の部屋が快適に暖められると、垂木を真っ黒にしていた無数の家蠅が半ば昏睡状態から目覚めて、スープとカレーの中でひとかたまりになって死に、蝋燭(ろうそく)立ての窪みをその焼けた体でいっぱいにし、数百匹が私の顔の上を這いずり回った。次にゴキブリの大きいの、小さいの、寝惚けているのが、活発な軍勢となってやって来た。その後に蚤と南京虫の大軍が随いて来た。とても耐えられたものではなかった。大衆部屋からの意味ありげな物音から判断するに、誰も一晩中寝られなかったようである。」(朝鮮奥地紀行)
汚物の悪臭
「朝鮮人の食事は日に2、3回であるため、ご飯を炊く火で家中の床はいつも熱くなっているが、朝鮮人は客を特に歓迎する意味で床をやや熱めに暖房しようと努めるから、かかる床の上での休息は全くの拷問と化してしまう。もし、これに間断なく聞こえる馬の悲鳴と足踏みの音、案内人の叫び声、いつも床のどこかから漏れてくる煙の異臭、天井と壁面の汚れと煤(すす)、それにまた家屋の入口付近に散在する半壊した素焼き甕(かめ)に溜まった液体汚物のたえがたい悪臭も加えるならば、いずれの旅籠(はたご)にても旅人を待ち受けている完璧なる満足とはいかなるものかを、お分かりいただけるであろう。」(朝鮮旅行記)
李朝末期の朝鮮2
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2014.12.27 野沢 清 kiyoshi_nozawa@yahoo.co.jp