李朝末期の朝鮮2
朝鮮の道路事情
商業が発達しておらず庶民が旅行する習慣もないので、街道はまったく整備されていませんでした。自然にできた踏み跡が道路となっていました。馬車や荷車のようなものはなかったようです。また、まともな橋もほとんどありませんでした。
運輸の状況
「商取引におけるもう一つの障害は、交通路のみじめな状態である。航行可能な河川は非常に少なく、いくつかの河川だけが船を通すが、それもごく制限された区域の航行が許されているだけである。この国は、山岳や峡谷が多いのに道路を造る技術はほとんど知られていない。したがって、ほとんどすべての運搬が牛か馬もしくは人の背によって行われている。」(朝鮮事情)
交通問題
「(馬、牛に加えて)もしも更に驢馬(ろば)への騎乗と徒歩の移動にも言及するとすれば、国内で行われる交通手段は、これで全て網羅されることになろう。朝鮮における交通問題は全般として、更にまた交通手段も含めて先史時代の段階にある。」(朝鮮旅行記)
道路の概況
「私が王の道と翻訳した第一級の道路は、ふつう4人が並ぶのに十分な広さであります。地方には車両がないので、歩行者と乗馬者にはちょうどふさわしい広さです。」
「しかし、しばしば大きな石や岩塊によって道路が四分の三に減っていたり、雨によって道の一部が流されたりします。もちろん、誰もそのような小さな不都合を修復しようとする者はいませんので、しばしば死の危険を冒し川に転落するのも覚悟のうえで、馬に乗りそれらの岩石の上に這い登らねばなりません。」
「しかし、ソウル近郊の道路は、まだ少しばかりましです。主要な道路としては、ソウルから中国の国境に到るものがあります。もう一つ、長さ8リュー(約30Km)しかありませんが、かなり立派なものに宮廷から王陵に通じるものがあります。」
「二級道路について言えば、その状態と道幅それに交通の便利さは日毎に変化します。悪い小径としか見えなくとも「これは大路ですか」と聞くと、人々はきっぱり「そうです」と答えます。」
「しかし、三級道路については何と言ったらいいでしょう。その幅はせいぜい30センチで、道案内人の聡明さの如何(いかん)によって見えたり見えなかったりするし、水田を横切る時はしばしば道は冠水しており、山中では絶壁に肌が触れるのです。」(朝鮮事情)
けもの道
「道は、疲労困憊(こんばい)した担ぎ屋や馬追いが気儘(きまま)に踏み固めた通路が千々に乱れて、蛇のように曲がりくねっている。これらの山道はそれ自体が、これら担ぎ屋の足ならびに荷駄用の馬や牛の蹄(ひづめ)により、幾世紀にも亘って踏み固められたのだから、かつて人間がここで精魂込めて道の人為的改良と取り組んだことを示す、ほんの僅かな痕跡でも突き止めようなどとは、ゆめゆめ望まれぬように。台石が元の位置から外れていたり、勝手気儘(きまま)に転がっていたりする石段を無理やりよじ登らねばならぬ所もある。」(朝鮮旅行記)
「永興の町を発って直ぐの旅程で雨が降り、粘土の路盤はたちまちのうちに崩れ始めた。もし、馬車で来ていたら、きっと抜き差しならぬ深さの轍(わだち)が出来ていたであろう。路盤を固める措置は、これまでにはやはり何もされていなかった。」(朝鮮旅行記)
「道路はひどい。主要幹線道路でさえ未完成で、でこぼこした轍(わだち)以上のものではない。品物はどこでも人、雄牛、小馬の背で運ばれている。」(朝鮮奥地紀行)
済物浦(さいもっぽ)からソウルへ
「正確に言うと道路という言葉に値するものはない。」(朝鮮奥地紀行)
「道路はすり減ってしばしば曖昧な輪立ちを掘っている。通常、3本か4本の公道に相当するほど十分な幅にだらしなく広がったり、またひどく細くなったりしている。しばしば深い泥の穴を避けるために逸れて人をまごつかせる。その泥はほとんど底なしである。清国人が所有している雄牛の荷車が品物の運送を試みた。その2、3台が泥のなかにはまり込み、春先まで抜け出せなかった。」(朝鮮奥地紀行)
道路と橋
「造られた道路が少しはある。その道路は、夏は埃(ほこり)が深く、冬は泥が深い。表面がでこぼこで、しばしば岩棚に覆われている。たいてい、それは動物と人間の通行によって、ある程度道筋が読み取れるように掘られた単なる通り道に過ぎない。
流れの多くには橋が架かっていない。橋の大半はただ小枝と芝生で出来ていて、七月初めの雨に流されたまま十月半ばまで修復されない。ある地方の交通では流れに達した時、引き止められるか、やむをえない危険を覚悟して浅瀬を渉るか、渡し船で行くしかない。
首都に集中している六大街道でさえも橋は、馬夫が通常、橋が馬の重さに耐えられるかどうかを突き止めるために馬に先立って渡ってみるような、ぼろぼろの状態に置かれているのが普通である。山中では、道路はしばしば玉石をばら撒いた奔流の川床以上のものではない。精々のところ、ソウルと済物浦の間には冬の間には道があるが、その上には1フィートから3フィートもの深い泥が積もっている。」(朝鮮奥地紀行)
「片側に固められた泥の壁がある道路の広い所では、固められた泥の山が中央沿いにも出来ていた。狭い所は単に稲田の畦(あぜ)の一番上の部分に過ぎない。橋は特に悪名高いものである。事実、橋はあまりにも腐っていて馬夫が驢馬(ろば)を橋に乗せないほどであった。私たちは、流れはすべて歩いて渡った。」(朝鮮奥地紀行)
藁沓(わらぐつ)
「まず、雨のなかでも、雪のなかでも、泥土のなかでも、そしていかなる汚物のなかにでも入っていける藁沓(わらぐつ)を履きます。朝鮮では誰も道を良い状態に保つことに関心を払っていないので、石を飛び越え飛び越え歩かねばならず、すぐに疲れてしまいます。また、限りなく続く上り下りのとても急な坂道に、誰しも根負けしてしまうことでしょう。そして、よく注意していないと、ついには爪先が藁沓の先から突き抜けてしまい、なんの保護もなくひとりでに進んで、迷える歩哨のごとく、石ころや藪の木株につまずき、あなたはその痛さに悲鳴をあげ、計画を中断せざるをえないでしょう。」(朝鮮事情)
朝鮮の橋
「橋について私は二種類のものを知っています。一つは、小川の所々に大きな石を投げ込んで作ったものです。これが最も一般的なものです。」(朝鮮事情)
「もう一つの種類は、川に杭を打ち込んで作ったものです。これは上に板のようなものを被せて土で覆ってあり、しばしば穴が開いてはいるが、それでもいちおう橋の形をしています。夏にはよくあることですが、水かさが増すと川の氾濫によって、すべての橋は流されるか水に浸かってしてしまいます。」(朝鮮事情)
「最後に、ソウルには石橋が一つあるますが、壮麗なものでおそらくこの国の逸品の一つでありましょう。少しでも大きな川は舟で横切ります。」(朝鮮事情)
「梅雨以外の時期には、至る所で容易に徒歩わたりが可能であるか、あるいは徒歩の旅人にはもっと便利である臨時の橋が、三脚杭を連ねて仮設されるのである。かかる仮設橋には藁(わら)のむしろが数列並べてあって、その上に土を層状に敷き詰める。馬は常時このような敷物から足を踏み外す危険にさらされている。床板が敷いてある橋は、ごくまれにしか見受けられない。木材の欠如するこの地では、床板が余りに高価な資材だからである。」(朝鮮旅行記)
「安辺のその外側で道路は長さ720フィートの橋で、かなり広い川床を渡っている。その橋はひどく荒れていたので、驢馬(ろば)が腐った芝地を何度も踏み抜いた。」(朝鮮奥地紀行)
平底帆船
「船は、釘、鉄、防腐塗料なしで建造されている。慎重な組み立てというよりもむしろ梁(はり)と厚板の仮の偶然の寄せ集めのように見える。船底で角材の間に楔で固定された2本の高いどっしりした帆柱は、いつも揺れて「落ちるぞ」と威嚇(いかく)しているので、頻繁に注意する必要がある。帆は一枚に結合された筵(むしろ)で出来ており、それには横に通されているたくさんの竹が、一本の綱で互いに結び付けられている。その帆によって針路変更が成就される。あるいは、もっと正確に言うならば成就されるかもしれない。」(朝鮮奥地紀行)
朝鮮の食事
朝鮮では膳を使って食事していたようです。食器は陶器のほか真鍮(しんちゅう)製の食器が使われていました。仏教的な禁忌はなかったので肉も食べられていたようです。なお、朝鮮ではお茶を飲む習慣はなかったようです。
食器
「食事の膳は、高さ30から50センチ、広さもそれと同じで、丸い形をしている。会食者が何人になろうと各自それぞれに膳を用意せねばならない。食器は野暮ったい陶器や真鍮(しんちゅう)製で、様々な大きさの鉢、中国式の一対の箸、真鍮製の匙(さじ)があるだけである。」(朝鮮事情)
食事
「ふつう食事は、ご飯と唐辛子と若干の野菜とである。裕福な人は、それに少しの肉と塩味の魚を付け加える。これらの食物は、多くの塩、それに胡麻油、えごま油、薄荷油を使って調理する。というのは、牛乳やバターを知らず、動物性油の利用法を知らないためである。」(朝鮮事情)
「朝鮮ではパン焼きが知られていない。製粉所も存在しない。あるのはただ最も原始的な水力による粉挽きのみで、粟はこれによって脱穀されている。小麦粉はまれに麺の形で食用に供されるのみで、手挽きの石臼で製粉されている。かかる食物は贅沢品であって、富裕階級だけが食べられる。庶民の食べ物は主として米と粟で、これに青菜や塩魚、昆布などの香辛料が少量添えられる。」(朝鮮旅行記)
「ショオイムの市場に新しくて綺麗な宿屋があった。その宿屋で真昼に長い休憩がとれた。総計2セントのお金で新鮮な魚と塩漬けの魚、野菜、香草、ソース(コチュジャン)とご飯の食事をたっぷりとることができた。」(朝鮮奥地紀行)
食肉
「豚と犬は非常にたくさんおり、犬はきわめて憶病で肉屋の肉に使われるにすぎない。犬肉は非常にうまいと言われているが、とにかく朝鮮では極上料理のひとつである。」(朝鮮事情)
「羊と山羊の飼育は政府によって禁じられているが、国王にはこの特権が許されている。羊は国王の先祖への生贄(いけにえ)として供され、山羊は孔子への生贄(いけにえ)として取っておかれる。」(朝鮮事情)
「肉はごくまれな場合に最高位の貴族層によって食用に供せられるのみで、大都市においてさえ肉の購入は不可能である。肉は市販されていないのだ。鏡城や咸興の知事らは、私の通過に際してわざわざ屠殺した牡牛の肉を数フント、私の許へ送り届けてくれた。」(朝鮮旅行記)
「ソウルではそれほどでもないが、牛肉を求めることは難しい。羊肉もなく、それに代わるものとして犬の肉があるが、宣教師たちの言うところでは、別に嫌な味のものではないという。」(朝鮮事情)
野菜
「野菜としては、蕪(かぶ)、白菜、おおばこの葉、蕨(わらび)の他は、ほとんど何もないが、蕨は大量に消費されている。」(朝鮮事情)
飲物
「普通の飲み物として、ご飯を炊いた水(釜湯)がある。酒は麦や米を発酵させて作る。夏になると両班たちは焼酎や糖蜜水を多量に飲む。お茶は、金持ちの家庭で飲まないこともないが、たしなむ者はきわめてすくない。」(朝鮮事情)
煙草
「食事が終わるとすぐに膳は片付けられ、各々キセルを出して煙草を吸う。朝鮮人はかなりのヘビー・スモーカーである。この国では、男子がキセルを持たないで外出することなどめったにない。キセルの形は中国のそれと同じで、長い竹の通管に真鍮(しんちゅう)製の雁首(がんくび)と吸口をはめたものである。そして、誰もが何時でもキセルに火をつけるための火打石を身につけて歩く。」(朝鮮事情)
朝鮮の農業
朝鮮の産業の基本は農業です。外国人たちは日本の農業と比較して朝鮮の農業を批判しています。
耕作方法
「農機具は、極めて単純で原始的なものである。耕作に使う唯一の動物は牛であって、馬はいっさい使わない。」(朝鮮事情)
「驢馬(ろば)は農業に使われない。鋤(すき)で耕すのは力強く気高くて御し易い朝鮮の雄牛である。」(朝鮮奥地紀行)
「この山国では、道路と運輸機関とが実に不足し、それが大規模な耕作を妨げている。人々は各自の家の周囲とか手近なところを耕作するだけだ。また、大部落はほとんどなく、田舎の人々は3、4軒、多くてせいぜい12、3軒ずつ固まって散在している。」(朝鮮事情)
「いささかなりとも見込みのある山の斜面は、もはや既に開墾されている。しかしそこでは朝鮮における貧窮の程度と朝鮮人の勤勉さが自分の目で確かめられる。単にそこへたどりつくのすら覚束ないような斜面が耕されているのだ。我々は一度ならず驚きの余り立ち止まって朝鮮人の耕地の実態をながめるとともに、その仕上げの見事さに感嘆の声を上げるのだった。」(朝鮮旅行記)
日本農業との比較
「斜面から高地まで至るまで全て開墾され尽くしている日本と違って、日本人が耕作そのものを極めて容易にすべくこしらえる段々畑を、ここでは採用していない。明らかに急峻な所では耕作がもっぱら手作業のみで進められている。ちなみに言えば谷間でも手作業はしばしば行われている。」(朝鮮旅行記)
「政府が立派で正直ならば、旅人が日本で見たような幸福で裕福な人々を作りだすことであろう。土壌は日本と大層よく似ている。一方、朝鮮の気候の方がはるかに良い。」(朝鮮奥地紀行)
「日本のこの上なく見事な手際の良さと中国の旺盛な勤勉に比べて、朝鮮の農業はある程度無駄が多くてだらしがない。夏には、雑草は当然除くべきなのに抑えられないでいる。石が地面にしばしば放置されている。それで畑や田の畦(あぜ)のあちこちは草ぼうぼうであり、石垣のあちこちはがたがたになっていて、見た目に不愉快である。畑を通り抜ける小道はいっぱいえぐられており、雑草に縁取られている。畦(あぜ)の溝はとうぜん真っ直ぐにしておくべきなのに真っ直ぐになっていない。それにも拘わらず全体として耕作は良好で農作物の大多数は、私が期待していたよりもずっと素晴らしかった。」(朝鮮奥地紀行)
食料事情
「年間の収穫は、住民の需要をかろうじて満たす程度であり、しかも朝鮮では飢餓が頻繁にみられる。最も貧しい階級の人々にとって、それは年に二度、定期的に訪れる。まず、大麦の収穫を待つ間の春窮期の6、7月、次いで粟類の取り入れ前の9、10月である。金銭は法外な利子付きでしか借りられず、わずかばかりの貯えも使い果たした不幸な人々は、米やその他の穀物を買うことすらできない。彼らに残された生きる糧(かて)といえば、ただ塩水で煮詰めたわずかばかりの草木だけである。」(朝鮮事情)
「わが国と国境を接する辺境州には備蓄商店(国有の穀物倉庫)が見当たらない。住民は次の収穫まではその日暮らし、土地に産するものはすべて食べてしまう。」(朝鮮旅行記)
作物
「米、小麦、大麦、そして粟類の他に、この国の主産物として多種多様の野菜があるが、味は良くない。それに、綿花、煙草、そして布を織るのに適している各種の繊維植物がある。」(朝鮮事情)
「朝鮮は果実が豊富で、フランスで見られるものはほとんどすべて揃っているが、しかし味は全く異なる。夏の間絶え間なく降る雨の影響で、林檎、梨、梅、苺、桑の実、葡萄、そして瓜などは、みな味を失って水っぽくなってしまう。」(朝鮮事情)
「花は、非常にたくさんある。季節を通じて、中国桜草、様々な百合、芍薬(しゃくやく)、その他ヨーロッパでは知られていない種類の花が、一度にどっと咲き乱れる。しかし、非常に優雅な葉のついた野ばらや、ヨーロッパのものを思わせる鈴蘭は別にして、これらの花はすべて香りがなく、あるとしても不快である。」(朝鮮事情)
朝鮮の商業
朝鮮では手工業すらも未発達であるため、専門の商店などはほとんど無い状態です。そのため、日用品を手に入れるためには定期市で物々交換するか行商人にたよることになります。おそらく、古代から変わらぬ風景です。
商業の状況
「自分の家に店を開いている商人はごくわずかで、ほとんどすべての取引が定期市(場市)で行なわれている。この定期市は政府によって指定されており、地域ごとに五つ立ち、さまざまな町や都市で開かれている。この五つの場所で、それぞれ定期市が五日ごとに開かれている。」(朝鮮事情)
「朝鮮では商業が未発達で、当面は萌芽状態にある。」(朝鮮旅行記)
「国内における商業は生産に専業化を欠き、また手工業も未発達である結果として更に一層惨めな状態に留まっている。」(朝鮮旅行記)
「朝鮮における商業の実態は、大きな町たとえば慶興に小間物を取り扱う商店すら一軒も存在しないという状況から判断することができる。我々が最初の小間物屋を見かけたのは、わが国境から136露里(約136Km)進んだ地点においてである。これ以南では大きな村や町に小間物屋はあった。」(朝鮮旅行記)
「商業の発達を阻害するその他の原因としては、朝鮮人の性格における商才の欠如、全般的な金欠病、朝鮮人役人の強請(ゆすり)、商業振興に対する政府側の無策、外国人に開放された港湾の僅少を挙げるべきである。」(朝鮮旅行記)
ソウルの商店
「商店は一般に惨めさを共有している。商店はたくさんあるが在庫品の値打ちは6ドルほどである。」(朝鮮奥地紀行)
「商店は注目に値する特徴を文字通り何ひとつも持っていない。そのひとつの特徴は何もないという事なのである。」(朝鮮奥地紀行)
屋台店
「商店はとても小さく全ての品物が手の届く範囲内に置かれている。3本の広い通りの1本に移動できる2列の屋台店がある。そこでは時々、朝鮮の黒金象嵌(ぞうがん)、銀をちりばめた鉄の作品である小箱が入手できる。あれこれの店にある主な商品は、白い綿布、草履(ぞうり)、竹の笠、粗製の陶磁器、下絵のある衝立付の燭台、櫛、ガラス玉、煙管(きせる)、煙草入れ、痰壺、役人にうんと使い古された骨縁眼鏡、多くの種類の紙、木枕覆い、飾り付きの枕カバー、扇、硯(すずり)、銀の浮き上げ飾りで装飾された緑色の革垂れ付の大きな木製の鞍(くら)、砧(きぬた)、干し柿、紫や緋や青色に染められた胸の悪くなるような忌まわしい菓子、多量の乾燥した海草、茸(きのこ)や黴(かび)の菌類、6ペニー灯油ランプ、手鏡、金ぴかの花瓶のような見掛け倒しの舶来のがらくたのでたらめに選ばれた収集品などである。悪趣味の天才が至る所で主人顔している。」(朝鮮奥地紀行)
「屋台店では、煙管(きせる)、煙管の羅宇(らう)、丼、粗雑な釉薬(ゆうやく)をかけた陶器類、茶碗、日本の黄燐マッチ、アニリン染料、煙草入れ、蝦蟇口(がまぐち)、火打石と火口入れ、巻いた油紙、飾り房、絹紐、食用の松の実、米、黍(きび)、玉蜀黍(とうもろこし)、豌豆(えんどう)、豆、布靴、古風な硬い布製のつば付き帽子、竹や葦(あし)で出来ている様々な種類の笠、そしてひどく幅の狭い粗い土地産の綿布が見られる。」(朝鮮奥地紀行)
飾り箪笥
「外国人がイギリス公使館近くの通りを「飾り箪笥(たんす)通り」と名付けた。そこでは、整理箪笥や結婚箱(長持)の製作に没頭している。大きくはないが大きいように見えて実に立派である。その或物は硬い栗材で出来ている。或物は楓(かえで)か桃の木で化粧張りしてある。浮き上げ彫りを施し、革紐で括り付け、真鍮(しんちゅう)の蝶番(ちょうつがい)で動く。更に大きな真鍮の留め金と、長さ6インチの真鍮の南京錠(なんきんじょう)で飾られている。純朝鮮的なものはひどく派手である。」(朝鮮奥地紀行)
定期市
「この(商店の)空白を埋めるものとして大きな村々では時々市が立ち、そこへは近在より人々が蝟集するのだが、朝鮮人の需要について理解を得るためには、これらの小屋台店や市を実見せねばならない。どこへ行っても各店にはドレル綿布や羅宇(らう)の長い朝鮮キセルなどほとんど同一の商品が店の脇にピラミッド状に積み上げてある。更にはボタン、糸、針、マッチ、染料、朝鮮産の麻布、小鏡、木櫛、中国製の絹なども並んでいる。」(朝鮮旅行記)
「狭くてゴミだらけで曲がりくねっている通りの端から端まで、品物が地べたの敷物上にぎっしり置かれていた。汚れた白い木綿地にくるまれた男か老女がそれを見張っている。商談する物音が高くあがり、息を切らして元々とるに足らない価格を値切っていた。品物は買い手の貧しさと売買の少なさを印象づけている。丈の短いざらざらときめの粗い木綿、木綿糸の枷(かせ)、草履(ぞうり)、木の櫛(くし)、キセルと煙草入れ、魚の干物と海草、帯紐、ざらざらした粗い紙やすべすべと滑らかな紙、黒色に近い大麦糖が敷物の上の品物の中身であった。」(朝鮮奥地紀行)
物々交換
「市は五日ごとに釜山や他の多くの所で開催される。この国の人々は市で自分の生産物を売るか物々交換するかして自分が生産していない物すべてを賄っている。必要な物は決められた日に、たいへん強力な同業組合を形成している行商人たちが供給している。」(朝鮮奥地紀行)
「村に店はない。小さな町にも店はほとんどない。事実上、誰ひとり商品と言えるものを持っていないので、市日以外に何か商品を買うのは不可能なことである。毎週の市で、いつもの陰気で不活発な朝鮮の村は、人々の雑踏、色彩、群集へと変わる。朝早くから公式に指定されている中心地に繋がっている通路は、販売または物々交換用の品物、主として籠(かご)の中の鶏、豚、草履(ぞうり)、藁(わら)帽子や木製の匙(さじ)を持ち込む農夫たちでいっぱいになる。」(朝鮮奥地紀行)
「日除け笠、油紙、帽子覆い、唐辛子粉、米、豌豆(えんどう)、豆、豆腐、そして朝鮮人のその他の生活必需品がそこにあった。」(朝鮮奥地紀行)
行商人
「一方、本通りは重い荷を自分で運ぶか、この目的用に荷物運搬人もしくは雄牛を雇用している商人つまり行商人、たいてい立派で強い正装している男たちで補足されている。村の中心地を定期的に巡回して旅しているこの男たちは勤勉でまともである。少数の者が屋台店を構えている。そこでは特に絹、紗(しゃ)、帯紐、礼装用靴、琥珀(こはく)、ボタン、絹かせ、小さな鏡、煙草入れ、男の丁髷(ちょんまげ)用の鼈甲(べっこう)製の化粧仕上げした櫛(くし)、ズボン用紐帯、表面鏡付き箱などを売っている。」(朝鮮奥地紀行)
「地面の敷物の上には、藁(わら)の茣蓙(ござ)、草履(ぞうり)と紐靴、鋼と共に使うための火打石、黒い膠(にかわ)で固めた亜麻布製の正装用つば付帽子、朝鮮製の粗悪で細幅の綿布、馬用の綱の口輪、掃き箒(ほうき)、木靴、藁(わら)、葦(あし)、竹製の果てしない種類の帽子などが陳列されている。さらに研磨されていない鉄製品、家庭用の料理鍋、蹄鉄(ていてつ)、踏み鍬(くわ)、戸の輪、釘、大工道具。」(朝鮮奥地紀行)
陶器類
「その特別の市の目立つ特徴のひとつは、肌理(きめ)が粗くて砕けやすい製品:青ざめた緑色の釉薬(ゆうやく)を大雑把に利かした粘土の主に小さな壺と鉢、ほとんど鉄に似ている黒くて微かに玉虫色しているもっと肌理の粗い製品という2種類の土地原産の陶器類であった。この陶器類は料理用の鍋、水甕(かめ)、ゴミ壺、穀物入れ、豆類入れ、人が一人入れるほど十分に広くてその二個で雄牛の積荷になる高さ5フィートの漬物甕(かめ)などで、貧乏人にごく普通に使用されている。その時期になると、この漬物甕はひっぱりだこである。というのは農夫の社会は、2ポンドから4ポンドもの重さがある大きくて固く白い大根を掘り出す男たちと、そしてその葉の一部が白くなった大根の大きな首の部分を洗う女たちで占められるからである。その大根は後ほど、この漬物甕の濃い塩水の中に別々に置かれて朝鮮の農夫の一大食品になる。」(朝鮮奥地紀行)
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2014.12.28 野沢 清 kiyoshi_nozawa@yahoo.co.jp