坂本龍馬暗殺の理由

坂本龍馬暗殺は、当初は新撰組の犯行と思われていましたが、明治以降は京都見廻組の犯行とされ、現在ではそれが定説となっているようです。
その定説のおもな根拠は京都見廻組の今井信郎の自供ですが、矛盾も多く、内容も二転三転しており、何か自慢話のように聞こえます。また、暗殺の理由も漠然としており根拠薄弱です。
そこで、暗殺の背景や理由を考えながら、時系列に沿って事件を追ってみたいと思います。
結論を先に言ってしまうと、犯人は新撰組であり、龍馬が高台寺党(御陵衛士)の陰謀の黒幕と見られたためだと思います。

新撰組と京都見廻組

新撰組は京都の治安維持にあたっていた京都守護職配下の組織です。文久3年(1863)3月の将軍家茂の上洛の際の警護を行うために結成された浪士隊がその起源です。
浪士隊の本隊は江戸に帰りましたが、芹沢鴨を中心とした一部が京都に残り壬生浪士隊を名乗りました。当初の局長は芹沢鴨でしたが粛清され、近藤勇が隊を掌握していました。その後、名前を新撰組と変え、池田屋事件のほか八月十八日の政変や禁門の変でも幕府の一員として活躍しています。
農民や町人を含めた浪士を集めた集団なので幕府の正式な組織ではなく、いわば下請けの組織です。局長の近藤勇も農民の出身ですが、慶応3年(1867)には幕臣に取り立てられています。
京都見廻組は元冶元年(1864)に設置された京都の治安維持を目的とした幕府の正式組織です。隊員は幕府の御家人が中心です。職務は新撰組と重なりますが、警備区域が分けられていたようです。後に事件の起こる近江屋は京都見廻組、油小路や天満屋は新撰組の担当区域です。
坂本龍馬殺害にも関与したと言われている与頭(くみがしら)の佐々木只三郎は、京都見廻組の結成前には江戸に戻った浪士隊の首領・清河八郎を殺害したことがある人物です。清河八郎は尊王運動を行い、幕府を裏切ったとして処分されたようです。

寺田屋事件

慶応2年(1866)1月に京都伏見の寺田屋で坂本龍馬と長州藩・三吉慎蔵らが、伏見奉行所の捕り方に襲われました。この時は伏見の薩摩藩邸の支援もあり坂本龍馬は無事に脱出しています。伏見奉行所は薩摩藩に対し龍馬の引渡しを要求しましたが、薩摩藩は「そのような人物は居ない」としてこれを断ったようです。

御陵衛士(高台寺党)

新撰組の伊東甲子太郎は、慶応3年(1867)3月に孝明天皇の御陵を守る「御陵衛士」の役を得て、新撰組から分離独立します。伊東は十数名で高台寺月真院に屯所を構えました。そのため高台寺党とも呼ばれます。
伊東が新撰組から独立したのは思想の違いからと言われています。伊東は「真の勤皇思想」を志向しており薩長など討幕派に近づいたと言われています。
しかし、近藤勇に対しては討幕派の動きを探るためと説明しており、新撰組とは一応の友好関係を持っていました。
一方で坂本龍馬とも親交があり、近江屋事件の前月の10月18日に坂本龍馬は高台寺を訪問しているようです。また、伊東甲子太郎は近江屋事件の直前に幕府側が坂本龍馬を付け狙っているので気を付けるよう助言しています。

いろは丸衝突事件

慶応3年(1867)4月、坂本龍馬の海援隊が運行していた「いろは丸」が紀州藩の船と衝突し沈没しました。この事件で坂本龍馬は万国公法を持ち出し、紀州藩を論破して賠償金を勝ち取っています。この一件で紀州藩の恨まれたのが、後の近江屋事件の原因とも言われています。

船中八策

慶応3年(1867)6月に坂本龍馬が起草したという基本構想です。以下はその全文です。
一、天下の政権を朝廷に奉還せしめ、政令宜しく朝廷より出づべき事。
一、上下議政局を設け、議員を置きて万機を参賛せしめ、万機宜しく公議に決すべき事。
一、有材の公卿諸侯及び天下の人材を顧問に備へ官爵を賜ひ、宜しく従来有名無実の官を除くべき事。
一、外国の交際広く公議を採り、新に至当の規約を立つべき事。
一、古来の律令を折衷し、新に無窮の大典を撰定すべき事。
一、海軍宜く拡張すべき事。
一、御親兵を置き、帝都を守衛せしむべき事。
一、金銀物貨宜しく外国と平均の法を設くべき事。
以上八策は方今天下の形勢を察し、之を宇内万国に徴するに、之を捨て他に済時の急務あるなし。苟も此数策を断行せば、皇運を挽回し、国勢を拡張し、万国と並行するも、亦敢て難しとせず。伏て願くは公明正大の道理に基き、一大英断を以て天下と更始一新せん。
(カタカナをかな文字に変更してあります。)
この船中八策を基にした大政奉還論は後藤象二郎を通して土佐藩に伝えられ、土佐藩主が将軍・徳川慶喜に建白書として提出しました。この建白を受け徳川慶喜は慶応4年(1868)10月14日に大政奉還を行いました。
また、坂本龍馬はこの船中八策の7番目に帝都を守衛する御親兵を敢えて挙げています。この御親兵の構想に陸援隊や十津川郷士とともに御陵衛士(高台寺党)が入っていても不思議はないと思います。ですから坂本龍馬は高台寺を訪問していたのだと思います。もちろん、そんな構想があれば、新撰組は、ほっておけないはずです。

新撰組の陰謀

新撰組から分離した伊東甲子太郎の御陵衛士(高台寺党)には新撰組の間者が入っていました。その間者の斎藤一が、高台寺党は近藤勇を葬り新撰組を乗っ取ることを計画していると、新撰組に報告します。そして、これが後の油小路事件につながります。
新撰組の永倉新八は「新撰組顛末記」で高台寺党について次のように書いています。
東山の高台寺に去った伊東一味は、まもなく薩州の大久保一蔵(利通)に款を通じかれのいわゆる真の勤皇にしたがうべく行動を開始した。そしてま(間)がなすき(隙)がな近藤勇をつけまわして、かれを一刀のもとにほうむり、新撰組を幕府の爪牙から脱出せしめて主義ある勤皇党にしたいとはかった。
坂本龍馬も伊東甲子太郎との親交があります。新撰組の側からは、坂本龍馬が高台寺党の陰謀に加担していると見るのが自然です。証拠はありませんが新撰組が坂本龍馬もついでに葬ろうと考えても不思議はありません。
新撰組は内部の裏切りに厳しい組織です。分派行動や脱走などで多くの隊士が切腹させられ、あるいは斬殺されています。新撰組は高台寺党にも厳しい態度で臨んでいます。それが後の油小路の惨劇となりました。
また、新撰組は陸援隊にも間者を忍び込ましていました。この間者の村山謙吉からは薩長や十津川郷士、陸援隊らの武装蜂起計画の情報を得ていたようです。新撰組は坂本龍馬や陸援隊、十津川郷士について良く知っていたと思われます。

近江屋事件(坂本龍馬暗殺事件)

慶応3年(1867)11月15日夜、十津川郷士を名乗る者が才谷先生(坂本龍馬の変名、才谷梅太郎)に会いたいと訪ねてきて、居合わせた陸援隊の中岡慎太郎と坂本龍馬を襲撃しました。坂本龍馬はほぼ即死、中岡慎太郎は2日後に死亡しました。中岡慎太郎は死ぬまでの間に襲撃の様子を証言しています。
2階に上って坂本龍馬と中岡慎太郎を殺した犯人は2人か3人、その他に表に見張りが居たようです。犯人は事が終わると誰にも見つからずに逃走しています。
つまり、これは明らかに暗殺であり、幕府側による捕物ではありません。もし捕物なら少人数が突入しても、まわりに応援部隊を配置するでしょうし、事後の検分や捜査があっても不思議はありませんが、そのような徴候はなかったようです。
現場には刀の鞘が残されていましたが、後に高台寺党隊士(元新撰組)の証言により新撰組の原田左之助の物とされました。
捜査の結果、土佐藩は新撰組の犯行と確証し幕府老中に新撰組の処分を要求します。幕府は近藤勇を呼んで事情聴取したようですが、結局はうやむやにされました。
一方、世評では「いろは丸」の件で坂本龍馬を恨んだ紀州藩によるものとされました。そのため後に、坂本龍馬と中岡慎太郎を慕う人たちによって、紀州藩の三浦休太郎を襲う天満屋事件が引き起こされます。
なお、この近江屋事件を熱心に捜査したのは坂本龍馬を敬愛する土佐藩の谷干城です。

油小路事件

坂本龍馬暗殺の三日後の慶応3年(1867)11月18日の事件です。 御陵衛士(高台寺党)の伊東甲子太郎は、近藤勇に「長州へ間者にいりこむについて金子(きんす)三百両借用したい」(「新撰組顛末記」永倉新八)と申し出ていましたが、近藤勇から招待があり伊東甲子太郎と4名の同志が近藤勇の妾宅を訪問しました。
その帰途、京都の七条油小路で伊東甲子太郎は待ち伏せた新撰組隊士に切られ死亡しました。さらに、伊東甲子太郎の死骸を引き取りに来た高台寺党の7人を新撰組が襲い、高台寺党の3人が死亡。現場から逃走した残りの高台寺党の隊員は薩摩藩邸に逃げ込み、かくまわれました。この事件で高台寺党は壊滅したようです。

天満屋事件

慶応3年(1867)12月7日、油小路の旅館・天満屋にいた紀州藩・三浦休太郎を海援隊、陸援隊、十津川郷士ら15,6名が襲いました。坂本龍馬の敵討ちです。
なぜか三浦休太郎には新撰組の護衛がついていました(7名あるいは10名)。三浦と新撰組は二階で酒宴を開いていたと言われます。襲われた三浦は軽傷でしたが、双方で数名の死者が出ています。
新撰組が護衛についた経緯については、三浦休太郎側が警護を依頼したとの説もありますが、当日に現場に居た紀州藩士・三浦精一の話によると新撰組が突然やって来たようです。新撰組が事前に間者から情報を得ていたのだと思います。また、自分たちが原因の襲撃であるため責任を感じたのかも知れません。

高野山挙兵と王政復古の大号令

天満屋事件の翌日の12月8日に陸援隊は高野山に向けて出発しました。公家で侍従の鷲尾隆聚を奉じての高野山挙兵です。これは「王政復古の大号令」のクーデターに合わせて「義兵を高野山につのって、紀州藩を牽制せしめ、あわせて大坂の幕府軍に当たらしめようという計画」で中岡慎太郎の遺策だったようです。
当初は6,70名の軍勢だったようですが十津川郷士などが馳せ参じ、一時は数千人になったようです。しかし、紀州藩は動かず、この軍はほとんど戦うこともなく京都に戻りました。陸援隊は、この後「御親兵」の部隊に組み込まれたようです。
一方、京都では慶応3年(1867)12月9日に薩摩藩を中心とした軍勢が京都御所を制圧し「王政復古の大号令」が発せられました。これで幕府は廃され京都守護職や京都所司代は免職となりました。新撰組や京都見廻組も、その任を解かれたことになります。
そして12月12日に徳川慶喜らは軍勢を引き連れ京都から大坂へと引き上げて行きましたが、この後、旧幕府軍の再上洛をきっかけに鳥羽伏見の戦い、戊辰戦争が始まることになります。

新撰組と京都見回組の供述

慶応4年(1868)4月25日、官軍に捕らえられた近藤勇は板橋刑場で斬首され京都三条川原に晒されるという極刑を受けました。坂本龍馬暗殺の件についても追求されましたが、近藤勇は知らないと答えたようです。その他の新撰組隊士も坂本龍馬暗殺への関与を否定しています。
ただし、新撰組隊士の大石鍬次郎は、一度は坂本龍馬暗殺を認めますが、あれは拷問によるものとして自供を翻します。明治3年の政府による調書では、近藤勇に聞いた話として、坂本龍馬暗殺は「見廻組今井信郎、高橋某等、少人数にて、剛勇の龍馬刺留め候義・・・」と供述しています。大石鍬次郎は明治3年に小塚原で斬首されています。
なお、近藤勇が厳しい処分を受けたのは近江屋事件を熱心に捜査した土佐藩の谷干城の強い主張によるものでした。近藤勇は坂本龍馬暗殺の責任を取らされたのだと思います。また、近藤勇は捕まった時には名前を変えていましたが、元御陵衛士(高台寺党)の加納鷲雄に見つかり、近藤勇だとばれています。
一方、龍馬暗殺にかかわったとされる京都見廻組の今井信郎は明治3年に函館で降伏し、取調べを受けて龍馬殺害を供述しています。
二階に上ったのは佐々木唯三郎(只三郎)、桂隼之助、渡辺吉太郎、高橋安次郎、下で控えていたのは土肥仲蔵、桜井大三郎、今井信郎との証言でした。また、近江屋を訪問した際には「松代藩」を名乗ったと供述しています。今井信郎は禁固刑を受けますが、その後、明治5年に特赦で釈放されています。
近江屋のあった場所は京都見廻組の担当エリアです。新撰組が近江屋で暗殺を行ったとしたら何らかの連絡が京都見廻組にあって当然です。双方の組織間で口裏合わせがあったのではないでしょうか。
新撰組の大石鍬次郎が官軍に捕まり拷問を含む厳しい追求を受けて、見廻組の今井信郎らの犯行であると供述しても不思議はありません。また、大石鍬次郎の供述を受け今井信郎がそれに合わせた話をするのも当然かも知れません。
しかし、大石鍬次郎は斬首刑、今井信郎は禁固刑になりました。両者の供述を得た当時の官憲側の判断が、ここにはあると思います。

汗血千里の駒

明治の当初においては、坂本龍馬は忘れられた存在でしたが、明治16年に高知の土陽新聞に坂本龍馬の伝記小説「汗血千里の駒」が連載されると、坂本龍馬が再び脚光を浴びます。

今井信郎氏実歴談

明治33年に雑誌「近畿評論」で「今井信郎氏実歴談」が発表されました。ここでは今井信郎の証言内容が変化します。実行犯は今井信郎、渡辺吉太郎、桂迅之助(早之助)ともう一人の4人であると変化しました。さらに今井信郎は二階で、自分が坂本龍馬と中岡慎太郎を切ったと主張しています。これは、知人が聞き取った談話を本人の許諾を得ずに公表された物のようです。知人への単なる自慢話だったのかも知れません。
この話に反論したのが死に際の中岡慎太郎から話を聞きとり熱心に捜査をしてきた谷干城です。明治37年の講演会で矛盾点を指摘し売名行為であり虚言であると言っています。また、近江屋主人の新助も今井信郎の話が事実とまったく違うとして「これを案ずるに、ある人が殺害者にて、その人より聞きたるくらいのものと察します」と反論しています。
谷干城の反論にもあるように「松代藩」と名乗ったのでは坂本龍馬に疑われてしまいます。十津川郷士だから疑いもせずの上がらせたのだと思います。また今井信郎は「坂本先生に会いたい」と言ったと証言しています。坂本龍馬が才谷梅太郎の変名で活動していたことを知らなかったのだと思います。新撰組は坂本龍馬についての情報を熟知していたので、こんな間違いは犯さないはずです。

昭憲皇太后の夢

明治37年2月、日露開戦を前に昭憲皇太后(当時の皇后)が坂本龍馬の夢を見たという話が新聞に載り、坂本龍馬の人気が高まります。なお、皇后が夢を見た時には、それが誰かは分からなかったようです。それを下問した相手は宮内大臣の田中光顕です。田中光顕は陸援隊にいて近江屋事件で現場に駆けつけた一人で、中岡慎太郎の亡き後の陸援隊の指導者でした。

今井信郎の回想談

明治42年には「大阪時事通信」という新聞に今井信郎の回想談が連載されましたが、そこでは坂本龍馬を襲ったのは佐々木只三郎、渡辺吉太郎、今井信郎の3人であり、龍馬を切ったのは自分であり、渡辺吉太郎が中岡慎太郎を襲ったと云うふうに、さらに変化しました。また、このころ今井信郎は質問に答えて「暗殺にあらず、幕府の命令により、職務をもって捕縛に向かい、格闘したるなり」と主張しています。

渡辺家履暦書

さらに大正4年に元京都見廻組の渡辺一郎(渡辺篤)なる人物が坂本龍馬を切ったのは自分である告白した文書(渡辺家履暦書)の存在が大阪朝日新聞で報道されます。これによると襲撃参加者は佐々木只三郎、渡辺一郎、今井信郎、世良敏郎、他2,3人で、刀の鞘を忘れたのは世良敏郎だということです。なお、渡辺一郎は今井信郎の話に出てくる渡辺吉太郎とは別人です。
おそらくは子孫に残した秘密の武勇伝だと思います。本人は公表されるとは思っていなかったのではないでしょうか。

龍馬を切った刀

なぜか京都の霊山歴史館には龍馬を切った刀として京都見廻組の桂早之助の小太刀が所蔵されています。桂早之助は小太刀の名人で、坂本龍馬を切ったのは彼であるとの説もあります。根拠は、よく分かりません。

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参考文献
「龍馬の手紙」宮地佐一郎 講談社学術文庫
「新撰組顛末記」永倉新八 新人物文庫
「わが夫 坂本龍馬」一阪太郎 朝日新書
「最後の志士が語る 維新風雲回顧録」田中光顕 河出文庫
「幕末維新秘史」伊東成郎 新潮文庫
「龍馬暗殺の謎」木村幸比古 PHP新書
「龍馬暗殺 最後の謎」菊池明 新人物文庫
「龍馬を殺したのは誰か」相川司 河出文庫
「徳川家が見た幕末維新」徳川宗英 文春新書
「坂本龍馬を英雄にした男 大久保一翁」古川愛哲 講談社+α新書
「孝明天皇と「一会桑」−幕末・維新の新視点」家近良樹 文春新書
「鳥羽伏見の戦い」野口武彦 中公新書

2011.6.21 野沢 清 kiyoshi_nozawa@yahoo.co.jp