ストーカー殺人の理由
近年、ストーカーによる重大事件が増えているように見えます。2013年にも4件の大きな事件が発生しています。
藤沢母娘殺人事件(1982年5月)
群馬県一家3人殺人事件(1998年1月)
西尾市女子高生ストーカー殺人事件(1999年8月)
桶川女子大生ストーカー殺人事件(1999年10月)
沼津市女子高生ストーカー殺人事件(2000年4月)
耳かき店員殺害事件(2009年8月)
長崎(西海市)女性2人殺害事件(2011年12月)
小牧市母娘殺人事件(2012年7月)
逗子ストーカー殺人事件(2012年11月)
伊勢原女性刺傷事件(2013年5月)
茨城ストーカー殺人事件(2013年5月)
三鷹女子高生ストーカー殺人事件(2013年10月)
市川ストーカー殺人事件(2013年11月)
ストーカー事件の犯人は、なぜ一銭の得にもならないうえに自らの破滅を招く殺人という行為を実行するのでしょうか?そこには、相手を破壊してしまいたい衝動的で精神的な理由があるはずです。
ここでは、文献などで詳細な情報の得られた次の4つの事件について検討してみました。
藤沢母娘殺人事件(1982年5月)
西尾市女子高生ストーカー殺人事件(1999年8月)
桶川女子大生ストーカー殺人事件(1999年10月)
耳かき店員殺害事件(2009年8月)
ストーカー殺人の原因
これらの事件には、原因と思われる次のような特徴があります。
・犯人には母親による見捨てられ経験がある
・犯人の子供っぽさ
・被害者女性からの強い拒絶
ストーカー殺人事件の犯人は、母親に見捨てられた経験がトラウマになっていて、被害者女性に強く拒絶された時に、衝動的に殺意が沸きあがるのではないかと思います。
また、犯人の特徴として子供っぽさにもつながるのでしょうか、「酒を飲まない」ということもあげられます。酒を飲まないのでストレスが発散できないのでしょうか。
藤沢母娘殺人事件(1982)
事件
82年5月27日夜、藤沢市の会社員畑光治さん(46)方で、妻の晴子さん(45)、長女の真輝子さん(16)、次女の真理子さん(13)が、長女の交際相手だった藤間静波(21)と藤間静波の少年院仲間だった岸純太郎(19)によって惨殺されました。
藤間静波らは、3人を包丁や繰り小刀でめった突きにして殺しています。藤間静波は、この後、共犯の岸純太郎をも殺しています。また、藤間静波はこの事件の7ヶ月前に別の少年院仲間をも殺していました。
生い立ち
藤間静波(ふじませいは)は、60年8月21日に茅ヶ崎市で生まれています。両親と妹の4人家族で、4畳半と6畳の2間の借家で生活していました。
父親は、中学校を卒業して予科練に入隊。戦後は家業の農業や自転車店を営んでいましたが、結婚後に子供が生まれると平塚市に移り、平塚市内の会社で工員として勤務していました。母親は、高岡市出身で高等女学校を卒業後は地元の役所に事務員として就職。その後、藤沢市に転居して市内の会計事務所に勤務していました。母親は、割とインテリだったようです。
親子関係
藤間静波は5歳の時に交通事故に遭っています。そして、67年に妹が誕生しました。
この夫婦は少し変わっています。夫婦は役割分担を決め、父親が藤間静波、母親は妹を担当することになったようです。
母親は藤間静波を疎んじ妹ばかりを可愛がったそうです。母親は、藤間静波が悪さをしてもかばっていた時期もありますが、小4のころに「静波はもう当てにできない。見切りをつけることにした。」と言っていたそうです。藤間静波は、母親に見捨てられてしまったわけです。
なお、父親はおとなしく気の小さい人だったそうです。
小学校
藤間静波は、孤独でニコリともせず黙りこくっていることが多かったそうです。学習意欲に乏しく成績は悪く、クラスでは嫌われ者で喧嘩っ早さだけが目立っていました。
3年の頃には学校近くの商店で万引きすることが数回あったようです。4年の頃には同級生から疎外されるようになっていました。成績も最悪状態に近づいていきました。
小学校高学年の頃の藤間静波は意外と影が薄く、事件後の取材などでも藤間静波のことを覚えていない同級生も多かったそうです。
中学校
藤間静波は、中学校ではいじめられっこだったようです。その鬱憤をはらすかのように妹をいじめるようになっています。2年の頃に、母親がネフローゼで寝込んでしまいました。そのため、藤間静波の家庭内暴力は余計にひどくなったようです。
妹のピアノ
4畳半と6畳の二間しかない借家に、小学生の妹がピアノを買ってもらい、妹は6畳間を独占しています。
藤間静波は、「いちばん悔しかったこと」として妹にピアノが買い与えられたことをあげています。なお、「最もうれしかったこと」としてジャングルジムから転落した時に、父親が寝ずに看病してくれたことをあげています。藤間静波が家庭内で疎んじられ、いかに愛情に飢えていたか分かるエピソードです。
妹にピアノを買ってあげたことから、藤間静波の家庭内暴力は、さらにひどくなっていったようです。また、学校の成績もひどくなっており、中2、中3では全教科の五段階評価が1だったそうです。
就職
藤間静波は、中学校を卒業後は近くの自動車部品工場に旋盤工として就職しました。しかし、そこは3ヶ月で辞めてしまいます。その後は工場や新聞販売店など職を転々としますが、長くて3ヶ月、短いと4日間で辞めています。
少年院生活
17歳になった藤間静波は、平塚市内の事務所に忍び込んで、現金2千円を盗んで平塚署に逮捕されました。事務所荒らしについての家裁での審判は初犯であるため、在宅での試験観察となりました。その後、藤間静波は新聞配達店に勤めますが長続きしません。
78年6月、藤間静波はひったくりで警視庁三田署に逮捕されます。二度目の逮捕であり、今度は中等少年院送りと決定され、新潟県長岡市の新潟少年学院に入りました。この少年院では、年末に藤間静波は脱走を試みて連れ戻されています。
79年3月、藤間静波は小田原中等少年院に移送されます。
10月、仮退院となった藤間静波は、川崎市内の社会復帰施設に移ります。親が引き取りを拒否したようです。自宅には寄らずに施設に赴いたようです。
10月16日、藤間静波は川崎市内の耐火施設会社で働き始めました。葛飾区の清掃工場で焼却炉関係の仕事を手伝い、次いで尼崎で発電所の仕事を6日間行っています。
耐火施設の仕事を辞めた後は、食品会社に行ったり、新幹線の保守工事の下請け会社に入ったりしました。
80年3月、藤間静波は窃盗(ひったくり)で平塚署に逮捕されました。自宅でバールを振り上げて暴れる藤間静波に身の危険を感じた父親が110番通報し、駈けつけた平塚署員に藤間静波がひったりして持ち帰った女物のハンドバックを差し出したのでした。
4月、藤間静波は久里浜特別少年院へと送られました。
81年5月、藤間静波は特別少年院を退院。今回も、親は引き取りを拒否したため、横浜市内の厚生施設に身を寄せますが、そこを1日で飛び出し、自宅に近い左官屋で住み込みの仕事を始めています。しかし、ここも4日間いただけで辞めてしまいます。
その後、少年院仲間の平山勝美のところに転がりこみ、一緒に鎌倉市内の空調設備会社で働きますが、ここも5日間で辞めています。以後は、定職に就くことはなかったようです
ひったくり生活
藤間静波は、少年院を出て以後はひったくりで生活していました。1年間で、分かっているだけで322万円を稼いでいます。起訴された窃盗10件の内8件は平山勝美との共犯、2件が単独の犯行でした。
交際
81年11月20日、自転車で帰宅途中の畑真輝子さんは、藤間静波に路上でナンパされました。
81年12月15日、真輝子さんは藤間静波と辻堂駅で落ち合いデート。熱海後楽園に行っています。
81年12月27日、藤間静波が真輝子さん方を突然訪問。押し問答の末、真輝子さんは藤間静波を帰らせました。
81年12月31日、藤間静波と真輝子さんは、辻堂駅南口で会っています。ここで、藤間静波は交際を迫りますが、真輝子さんはこれを断りました。
ストーカー
82年1月5日、藤間静波の真輝子さんへの電話攻勢が始まりました。藤間静波は、真輝子さんの学校に有りもしないことを告げ口するような電話をかけています。また、真輝子さんの母親が倒れたというような偽電話を学校へかけています。
1月下旬、藤間静波は真輝子さん宅に電話をかけ、応対した父親に真輝子さんに貸した金を返せと要求しました。
2月、藤間静波は真輝子さん宅を訪問。金を返せと要求しています。熱海でデートした時の費用を返せとの要求でした。この時、父親は要求に応じて藤間静波に3千円を渡しています。しかし、それでも藤間静波の電話攻勢は止みませんでした。
3月11日、藤間静波から電話があり、真輝子さんは辻堂駅で会うことになりました。ここでも、藤間静波は交際を迫りますが、真輝子さんはこれを断っています。
3月下旬、真輝子さんは藤間静波と、また辻堂駅で会っています。
4月1日、藤間静波は、真輝子さん宅を訪問。しかし真輝子さんは不在でした。事情をよく知らない妹の真理子さんが、藤間静波を真輝子さんの部屋へ招き入れています。
数日後、藤間静波は路上で偶然、真輝子さんと出会いますが、ここで、藤間静波は真輝子さんに3千円を返しています。
4月、藤間静波の電話攻勢がまた始まりましたが、真輝子さんはもちろん交際を拒絶しています。真輝子さんは、電話で藤間静波との交際をきつい言葉で拒否したようです。父親も電話に出ることもあったようですが、やはり交際を拒絶しました。
こうしたことで藤間静波は畑さん一家から侮辱されたと感じ、殺意が芽生え始めたようです。その後、畑さん宅には真夜中に無言電話がかかるようになります。
4月中旬、藤間静波は横浜で文化包丁1本購入。兵庫県尼崎市で刺身包丁1本を万引き。殺害の準備を始めています。また、5月には自宅近くで繰り小刀も購入しています。
5月8日午後7時頃、藤間静波は畑さん宅を訪問しましたが、応対に出た母親の晴子さんに追い返されました。午後8時過ぎ、藤間静波は畑さん宅を再び訪問。母親が応対している間に、父親は110番に電話。藤間静波は逃げて行きました。その後、藤沢署員2名がやって来て事情を聴取して帰りました。この後、真夜中の無言電話攻勢がまた始まっています。
5月26日、藤間静波は、少年院仲間の岸純太郎(19)に畑さん一家の殺害計画を打ち明けています。
5月27日、藤間静波は、岸純太郎と二人で畑さん一家の殺害計画を実行。実行犯の二人は逃走しました。
逃走と共犯者の殺害
事件後、藤間静波と岸純太郎の二人は証拠物を処分後、藤間静波の自宅へタクシーで帰り、藤間静波の手の傷の手当をしました。藤間静波は、三人殺してきたことを両親に告白。両親は藤間静波に自首を勧めましが、警察に連絡するようなことはしていません。
5月28日、犯人の二人はJR普通電車で大阪に着き、更に尼崎に移動。その後、新幹線で博多に向かっています。
6月1日、特に目的もなく熊本へ。
6月2日、博多へ戻りました。
6月5日、寝台特急で博多から大阪に戻りました。その後、尼崎に移動。
その夜、尼崎のマンションの踊り場で、藤間静波は共犯の岸純太郎を繰り小刀で刺殺しました。藤間静波が岸純太郎の裏切りを恐れたからでした。
6月6日、夜中に、藤間静波はタクシーを乗り継ぎ名古屋へ移動。ここで岸純太郎殺害の証拠物を始末しています。その後、普通列車で静岡に移動。
6月7日、静岡から新幹線で東京駅に着き、池袋に移動。
6月8日、藤間静波は、池袋で手配師に声をかけられ大宮の建設工事現場で働くことになりました。
6月14日、警察は藤間静波の少年院仲間の証言から埼玉県内にいることをつかみ、聞き込み調査を行っています。その結果、大宮の建設作業宿舎の近くで藤間静波は逮捕されました。
先行する殺人事件
81年10月6日、藤間静波は少年院仲間の平山勝美(20)を殺しています。藤間静波と平山勝美は、ひったくりを繰り返しながら横浜市鶴見区で共同生活をしていましたが、平山勝美は藤間静波の財布から現金20万円を盗んで姿をくらましました。
藤間静波は、平山勝美を探し出し返済を要求。藤間静波は平山勝美が裏切ったと感じたため、10月6日早朝に横浜市戸塚区で平山勝美を殺害しました。
その日の夜、藤間静波は横浜市鶴見区で無免許違反の現行犯で逮捕されました。藤間静波は平山勝美の殺人容疑でも調べられましたが、10日間の勾留で釈放されています。藤間静波の母親が、自宅で寝ていたと嘘のアリバイを申し立てたおかげでした。
母親の証言
畑さん一家殺害の事件後、藤間静波は実家の母親に電話しており、母親は息子が大宮に居るのを知っていても、警察には話さず「北海道にいる」と答えています。
裁判
自殺未遂
藤間静波は、拘置所の独房で窓ガラスを、頭を打ち付けて割り、割れたガラスで喉を突き刺そうとして刑務官に止められています。
論告
「被告人は幼少時から集団生活になじまず、強い者には弱い一方で弱い者には強圧的になる傾向が強く、弱い者に対するいじめぶりは、子どものいたずらをこえる凶暴さが目立ち、そのため学友から結束して疎外され馬鹿にされて孤立化し、暴力行使の対象を家庭に移して家庭内暴力を累行し、対人不信、猜疑心の強い情性欠如・凶暴性を備えた偏倚な性格は長ずるに従ってますます深化昂進しているのである。このような性格形成には、素質のほか親の思いやりに欠け、理に走る養育態度が影響していることが否定し得ないとしても、決して不遇な境遇に育ったものでもなく、また心身は健全で、精神障害は認められない。」
判決
88年3月、地裁で死刑判決
00年1月、高裁で死刑判決支持
04年6月、最高裁で死刑が確定
07年12月、死刑執行
性格
少年院時代の藤間静波の性格分析では次のよう言われています。
○対人関係では協調性が見られず、言動はほとんど自己中心的である。
○問題を自分で解決できないことがあると、解決方法を他人に頼ろうとするが、受け入れてもらえない場合、攻撃的な態度をとることがある。
○抑制力に乏しく、考え方が幼稚である。欲求不満に対する耐性が培われておらず、捨てばちになって見境なく行動することがある。
幼さ
藤間静波は非行少年にしては珍しくシンナーはやりませんでした。それどころか酒やたばこにも手を出さなかったようです。藤間静波の好きだったのは牛乳で、他には果物も大好きで、チョコレートなどはいつもポケットに入れていたそうです。
藤間静波は、幼く見られることが多く、やさしい言葉使い、どちらかというとなよなよとした印象があったそうです。同世代の女性によれば、「感じのいい人だな」と思ったという証言もあります。それゆえに、畑真輝子さんは藤間静波に引っかかったのかもしれません。
西尾市女子高生ストーカー殺人事件(1999)
事件
99年8月9日、愛知県西尾市で、高校2年の永谷英恵(はなえ)さんは自転車で登校途中にナイフで刺され死亡しました。犯人は元同級生で無職の鈴村泰史(17)で、その場で逮捕されています。
犯人の鈴村泰史は、被害者の永谷英恵さんにストーカー行為をくりかえしていました。
鈴村泰史は、神戸の事件の酒鬼薔薇聖斗と同い年であり、酒鬼薔薇聖斗にあこがれていました。この事件は、2000年に続発した少年による凶悪犯罪の先駆的な事件と言えると思います。
参考:2000年の少年事件、
家族
鈴村泰史の一家は、六畳二間の市営住宅に家族7人で暮らしていました。子供は2男、3女。鈴村泰史は長男で82年生まれです。
父親は中学卒業後、トヨタ自動車に養成工として2年間勤務した後、トラック運転手をしていました。母親は高校卒業後、看護学校に入学し準看護学生として外科病院に勤務していましたが、そこで知り合った父親と結婚しています。
生活
父親は仕事を転々としており鈴村泰史が小学校に上がるころには失業状態で、サラ金からの借金問題で夫婦は喧嘩が絶えなかったようです。
気の短い父親は、子供たちの前でも大声を出したり妻を殴ったりしていました。
母親によれば「夫は普段は大人しいが、いったん怒り出すと大声を出し、私を引きずりまわして足蹴りにするなど暴力的になりました」
父親は酒やギャンブルにものめりこんでいました。96年にはサラ金からの負債が限度を超え、借金の調整裁判が行われています。
保育園
鈴村泰史は、無口で大人しく内向的な性格でした。母親は弟妹を、間をおかずに出産しており鈴村泰史には十分な愛情を注げなかったようです。そのため、鈴村泰史は、幼い頃から自分だけで悩みを背負い込み人に心を開かない内向的な性格になってしまったようです。
小学校
幼い頃は普通の子供と同様に友達と一緒に外で遊んでいました。
三年の時にクラス換えがあり友達がなくなって暗くなり元気がなくなったようです。仮病で欠席することもあったそうです。
四年の時には、悪い友達と付き合い、喫煙や万引きをしたこともありました。
六年の頃には人と話すのが面倒になり放課後などには一人で机に座っているのが多くなったようです。
四、五年の頃には母親が何か聞いても答えず反抗的になり、以降は両親とはほとんど会話がなくなっています。
中学校
中学に入ると内向的な性格を直そうと明るく振舞うようになります。しかし、三年になるとクラスでは寝てばかり過ごすようになりました。
高校受験に備え、祖母が出資して母屋の横にプレハブ小屋を建て、鈴村泰史の勉強部屋になりました。
父親が母屋に居る時には、鈴村泰史は小屋から一歩も出なかったそうです。父親が不在でも母屋に来るのは食事や風呂の時ぐらいで、居心地の悪い我が家を抜け出し祖母の家に入り浸っていました。
この頃、神戸で事件を起こした同い年の酒鬼薔薇聖斗に強い影響を受けています。
日記
鈴村泰史は、中学二年の9月ころから日記をつけ始め、その日あったことや、思いを連綿と綴っています。この日記は事件を起こす前日まで書き続けられていました。
永谷英恵さんへの想い
中学一年
鈴村泰史は英恵さんと同じクラスになり、異性として意識するようになります。英恵さんに対しては落書きをしたり、マンガ本のエッチな部分を広げて見せたり、いたずらばかりでした。鈴村泰史は、英恵さんとセックスがしたいと妄想していました。
中学二年
鈴村泰史は、英恵さんとは別のクラスになりましたが、英恵さんに対する欲望は変わりませんでした。また、同時に別の女の子にも好意を持つようにもなっています。
中学三年
鈴村泰史は、英恵さんとは別クラスです。英恵さんに好意を告白したいと思い続けていました。
10月6日午後3時頃、鈴村泰史は、公園横の路上で帰宅途中の英恵さんに「好きだ」「付き合って欲しい」と告白しましたが、「ごめん、他に好きな人がいる」と断られています。
10月24日にも英恵さんに話かけましたが冷たくされています。
12月6日、鈴村泰史は英恵さんがデートしているのを目撃。大きなショックを受けています。
12月下旬、鈴村泰史は異常なラブレターを英恵さんの下駄箱に入れています。また、英恵さん宅にいたずら電話を頻繁にかけるようになります。さらに、英恵さんの後をつけることも行っています。
「僕は女の子と話すのが苦手で、女の子と仲良くなったり付き合ったりできないなら、その代わりにレイプしたいと考えるようになりました」
鈴村泰史は、次第に英恵さんをレイプしたい、殺したいと考えるようになります。
高校退学と悪事
鈴村泰史は、西尾東高校に合格し英恵さんと同じクラスになりますが、二週間後には学校に行かなくなりました。
この頃から、次第に悪いことを意識的に実行し始めています。深夜徘徊、ごみあさり、自転車を盗むなどの行為をおこなっています。
7月中旬、鈴村泰史は高校に籍を置いたまま職安で職を探し、安城市内の自動車部品工場で働きますが一週間で辞めてしまいます。
7月27日、高校を正式に退学しました。
8月、鈴村泰史は、次第に英恵さんを殺す決意を固めます。
9月、英恵さん以外の女生徒にもいたずら電話を始めています。
10月、中三からやっていた新聞配達も遅刻がちになり、辞めています。
10月29日、鈴村泰史は、英恵さんを追いかけパソコンのプリンタを投げつけています。脅かそうと思ったようです。
12月22日、鈴村泰史は、高校のガラス割りを実行しましたが、ニュースにはなりませんでした。
2月、鈴村泰史は、酒鬼薔薇聖斗のまねをして、猫の死骸を校門に置いています。また、路上で女子高生を殴打する事件も起こしています。
3月5日、鈴村泰史は、高校の窓ガラスを61枚割る事件を起こしました。その事件は、夕刊に小さく載ったようです。
4月1日、鈴村泰史は、自転車で引ったくりを実行し、現金6万2千円を得ています。
4月29日、鈴村泰史は、英恵さんの家に侵入し自転車を盗もうとしますが、鍵がかかっていたため断念しました。腹いせに後輪をパンクさせています。
殺人の実行
7月14日、鈴村泰史は、母親が貰ってきた西尾東高校のクラス写真を見て「自分は一人寂しい生活を送っているのに、てめえら、普通に高校に通いやがって」という猛烈な怒りを感じています。この後、鈴村泰史は近所のホームセンターでぺティナイフ2本を購入しています。
7月、高校が夏休みに入っても、鈴村泰史は英恵さんを狙って周辺を徘徊しています。そして、連日、英恵さんの家に偽名で電話をかけて在宅を確認しています。
8月9日、鈴村泰史は自転車で登校する英恵さんをつかまえ殺人を決行しました。
精神鑑定
鈴村泰史は精神鑑定で「分裂病型人格障害」と診断されました。精神病ではないが普通ではないという判断です。
謝罪と反省
鈴村泰史は永谷英恵さんの両親に謝罪の手紙を出していますが、その内容は謝罪にも反省にもなっておらず子供っぽい身勝手なものでした。
「僕みたいな社会に迷惑な人間が生き、英恵さんのような素晴らしい人格の人がなくなってしまい申し訳ない思いです。恐らく永谷様は僕を憎み、死をもって償ってほしいとお思いだと存じます。たいへん申し訳ない話なのですが、僕はこれだけ酷いことをしておきながらも「早く外に出たい」と思っており、当然のことながら「できるだけ長生きしたい」と思っています。」
判決
鈴村泰史は、懲役5年以上10年以下の刑に服することになりました。18歳未満の少年に対する不定期刑としては最も重い刑です。裁判官は次のように述べています。
「犯行に見られる被告人の自己中心的で、情感に乏しい人格が形成されるについては、夫婦喧嘩が絶えず、母親に暴力を振るう父親や、精神的に安定しない母親の存在など家庭環境の影響も大きいと考えられる」
酒鬼薔薇聖斗
鈴村泰史は、神戸の事件の酒鬼薔薇聖斗にあこがれており、日記では「猛末期頽死」を自称していました。猫の死骸を校門に置いたり、女子高生を殴打する事件を起こしたりしたのは、酒鬼薔薇聖斗をまねしたものでした。
また、鈴村泰史は足立区綾瀬の女子高校生監禁殺人事件も参考にしており、女の子を監禁してレイプすることも夢想していました。
計算高さ
鈴村泰史は別の少女をレイプすることも考えていましたが、「僕は二人以上殺すと17歳の僕でも懲役15年くらいになってしまうだろうと予想していたので殺すのは英恵一人と決めていました」と日記に書いています。
鈴村泰史は、殺人を実行した場合、どのような刑事罰を受けるか、あるいは少年法により保護処分になるかを予想していました。英恵さん一人を殺した場合、刑事罰の場合では懲役10年くらい、少年法を適用された場合は少年院で3年間くらいと予想していました。
自己顕示欲
鈴村泰史は、殺人を実行することにより、同級生たちをびっくりさせることを夢想していました。高校のガラス割ったのも世間を騒がせることが目的でした。一方で殺人のことを考えていて怖くなることもあったと供述しています。鈴村泰史は、無理して悪を実行しようとしているという、気の小さい一面も持っています。
喪失感
鈴村泰史は英恵さんを殺した動機の一番目として次のように書いています。
「英恵さんが他の男と付き合ったことが、大切な人が死んでしまったかのような人生最大のショックで、ふたりを見ていると苦痛を味わうので怒りを英恵さんに向けてしまった」
母親は弟妹を間をおかずに出産しており、鈴村泰史には十分な愛情を注げなかったようです。また、裁判でも指摘されていますが、母親には精神的に不安定なところがあったようです。鈴村泰史には、幼い頃に母親に見捨てられたというトラウマがあったのではないかと思います。
再びの犯罪
12年8月、30歳になった鈴村泰史は蒲郡市内でコンサートを見に来ていた川崎市の女性(23)に「お前、俺の顔を見て気持ち悪いと言っただろう」と言いがかりをつけ、包丁を突きつけ、さらに女性を引き倒して引きずり、けがをさせています。この事件で、鈴村泰史は、13年3月に名古屋地裁で懲役1年8ヶ月を言い渡されました。
桶川女子大生ストーカー殺人事件(1999)
事件
99年10月26日、埼玉県のJR桶川駅前で女子大生の猪野詩織さん(21)が何者かに刺殺されました。猪野詩織さんは執拗なストーカー被害にさらされていましたが、そのストーカーである小松和人(26)の依頼で、その兄が雇った男に殺された事件です。
主犯の小松和人は、池袋で7軒の違法風俗店を経営する男です。兄の小松武史は板橋消防署の消防士ですが、弟の小松和人と風俗店を共同経営していました。
殺害実行犯は、兄の小松武史(33)に依頼された久保田祥史(34)です。その他に殺人に関与したとして伊藤嘉孝(32)、川上聡(31)が起訴されました。
久保田祥史と川上聡は小松和人の経営する風俗店の店長でした。また、伊藤嘉孝も店の幹部でした。
職業
小松和人はフリーの自動車ブローカーをしていましたが、その店に迷惑をかけたことがありクビになったようです。
その後、小松和人は池袋で7軒、西川口に1軒の違法風俗店を経営していました。また、小松和人の上には見るからにヤクザ風の男がいて、時々、店にも顔を見せていました。このヤクザ風の男は兄の小松武史でした。
事件後、池袋の店は閉めていましたが、数ヵ月後には池袋に新しい店を開いています。兄の小松武史は、事件後の11月末に消防署を退職していました。
交際
99年1月6日、小松和人は、大宮のゲームセンターで猪野詩織さんと知り合っています。小松和人は、偽名の小松誠という名刺を渡し車の販売をしている23歳の青年実業家と名乗っています。年齢も3歳ほど若く自称しています。
小松和人は身長が180センチくらいある細身の男で、髪は天然パーマで少し染めていました。真面目でやさしい印象があったようです。
それから2ヶ月ほどは、二人の付き合いは横浜にドライブに行ったり、ディズニーランドに遊びに行ったりと普通のものでした。詩織さんの女性の友人を含む三人で沖縄旅行にも行っています。そのうちに小松和人は詩織さんにヴィトンのバッグや高級スーツをプレゼントするようになります。
変貌
99年3月になって小松和人は本性を現し始めます。
詩織さんの言動で気に入らないことがあると「うるせー、オラオラ、俺のことなめとんのか」と怒鳴るようになります。また、「お前は俺に逆らうのか。なら、今までプレゼントした洋服代として百万円払え。払えないならソープに行って働いて金を作れ。今からお前の親の所に行くぞ、俺との付き合いのことを全部バラすぞ。」と脅すようになりました。
同時に、小松和人は詩織さんの生活を拘束するようになります。携帯に30分おきに電話をかけ、繋がらないと自宅や友人のところまで電話をかけています。小松和人は嫉妬深い男でした。
また、詩織さんの周辺では興信所のような男たちが、その行動を監視するようになりました。詩織さんは、小松和人に嫌われようとして、アフロヘアに近い強烈なパーマをかけたこともありますが、結局、効果はありませんでした。
4月21日、小松和人は詩織さんの携帯電話を折らせています。登録してある電話番号を消させるためでした。「お前は俺とだけ付き合うんだよ。その誠意をきちんと見せろ。」 小松和人は、詩織さんの男友達のところに電話して、「詩織に近づくな、俺の女に手を出すんなら、お前を告訴するぞ。」と脅しています。
また、小松和人は詩織さんの自宅電話番号、父親の会社などについて興信所に依頼して調査しています。
5月18日、詩織さんの21歳の誕生日でした。小松和人が変貌して以来、プレゼントを受け取らない詩織さんに、小松和人はピンクの文字盤のロレックスと花束を持って詩織さんの自宅まで押しかけています。この時は、詩織さんは花束だけを受け取っています。
浮気
詩織さんが小松和人を恐れ遠ざけようとしたため、小松和人は詩織さんに浮気されたと思い、裏切られたと思い、すごく恨んでいたようです。
脅迫
6月14日、池袋の喫茶店で、詩織さんは意を決して小松和人に別れることを告げました。
「俺を裏切るやつは絶対に許さない、お前の父親に全部ばらしてやる」
小松和人は怒っていました。
小松和人は詩織さんに次のようにも言っていました。
「ふざけんな、絶対別れない、お前に天罰が下るんだ」
「お前の家を一家崩壊まで追い込んでやる」
「家族を地獄に落としてやる」
「お前の親父はリストラだ、お前は風俗で働くんだ」
この日、小松和人とやくざのような見知らぬ男二人が、詩織さんの自宅に押しかけ上がりこんでいます。父親が帰宅し、男たちに抗議すると、小松和人の上司と名乗る男が「小松が会社の金を五百万ほど横領したんです。問いただしたところ、お宅の娘さんにそそのかされたと。私たちは娘さんを詐欺で訴えます。どうですか誠意を見せてもらえませんか。」と言いました。
詩織さんの父親は、この要求を突っぱねています。
「話があるなら警察に行こう」
しばらく押し問答した末、上司という男は「ここままじゃ済まないぞ。お前の会社に内容証明の手紙を送ってやる。覚えておけ。」と捨てゼリフを吐いて、男たちを連れて帰って行きました。
この小松和人の上司と名乗る大柄な男は兄の小松武史でした。社長を名乗るもう一人は仲間のYという男でした。
警察
父親は、やり取りを録音しており、それを持って上尾警察署に相談しましたが、取り合ってもらえませんでした。そして、小松和人は、この後に及んでも詩織さんに復縁を迫っていますが、もちろん詩織さんはこれを断っています。
プレゼントの返却
猪野詩織さん宅に嫌がらせの電話が続き、6月17日〜6月20日には、小松和人は今までプレゼントした物を返せと要求しています。猪野家では、警察と相談のうえ品物の写真を撮り、6月21日に宅配便で小松和人へ送り返しています。
無言電話
6月21日に家の電話番号を変更しましたが、2、3日後にはもう無言電話が入ってきています。
中傷ビラ
7月13日、自宅周辺に詩織さんを誹謗中傷するビラが大量に貼られていました。また、ビラは詩織さんの通う大学近辺や駅構内、そして父親の勤める会社の近辺にまでばら撒かれていました。
さらに、板橋区内では詩織さんの写真に「援助交際OK」というメッセージ、自宅の電話番号までが印刷されたカードが発見されています。インターネットの掲示板でも同様の内容が流されていました。
刑事告訴
7月29日、詩織さんは警察に働きかけ名誉毀損で刑事告訴を受理してもらいました。しかし、警察は動くことはありませんでした。しかも、後で警察はこの刑事告訴を取り下げるよう猪野さんに働きかけています。こうした、一連の警察の動きは職務怠慢で、後に大問題となります。
手紙
8月23日、父親と詩織さんを中傷する手紙が、父親の会社に送られてきました。勤務先の埼玉県内の支店に800通、東京の本社にも400通も送られてきました。
「御社の猪野は堅物で通っているが、実はギャンブル好きで、外に女がいる・・・・・・この娘のせいで会社の金が横領された。御社のような大企業がこのような男を雇っているのは納得できない。日本の未来は暗い。」
深夜の騒音
10月16日午前2時頃、詩織さんの家の前に2台の車が停まり、窓を開けたまま大音量で音楽をガンガン鳴らし、エンジンの空吹かしを行っています。
凶行
10月26日、詩織さんは桶川駅前で刺殺されてしまいました。犯人は身長170センチくらいで小太りの30代の男です。小松和人ではありませんでした。
アリバイ
小松和人は7月5日ころに沖縄へ逃げていたようです。詩織さんへの嫌がらせが始まる直前です。また、詩織さん刺殺事件の当日も小松和人は沖縄にいたようです。
逮捕
12月19日、詩織さん刺殺の実行犯である久保田祥史(34)が逮捕されました。また、共犯として川上聡(31)、小松武史(33)、伊藤嘉孝(32)もつかまりました。
川上聡は逃走車両の運転手役、伊藤嘉孝は詩織さんの見張り役だったそうです。久保田祥史と川上聡は小松和人の風俗店の店長。伊藤嘉孝も店の幹部でした。
兄の小松武史は実行犯3人に、報酬として1800万円を渡していました。しかし、肝心のストーカー小松和人は逮捕されませんでした。
名誉毀損
00年1月、警察は詩織さんを誹謗中傷するビラを撒いた名誉毀損の疑いで実行犯4人を含む12名を逮捕しました。この件で、小松和人も指名手配されました。
自殺
指名手配された小松和人は北海道に潜伏していました。
1月27日、小松和人の遺体が屈斜路湖で発見されました。自殺だったようです。道東からロシアに逃げようとしたが、失敗したようです。
判決
詩織さんを刺殺した事件では、兄の小松武史が無期懲役、刺殺犯の久保田が懲役18年、見張り役の伊藤が懲役15年となりました。
また、名誉毀損の件では7名が略式起訴、2名が起訴猶予となりました。小松和人は被疑者死亡のまま起訴猶予となりました。
警察の不祥事
3月、上尾警察署の3名の警察官が書類の改竄で懲戒免職され、書類送検されました。後に3人は起訴され、執行猶予つきで懲役1年2ヶ月から1年6ヶ月の刑が言い渡されています。その他に、埼玉県警本部長ら12人に減給、戒告などの処分が出ています。
また、この事件がきっかけとなりストーカー規制法が00年5月18日に成立しました。
小松和人の性格
小松和人には兄の他に姉もいるようですが、詳しい家族構成などは不明です。また、小松和人の生い立ちなどについての情報もありません。
ただ、その性格うかがわせる多くのエピソードはあります。
○泣く男
風俗店を独立する時のトラブルで、小松和人は泣きながら「暴力団に言いつけてやる」と言ったそうです。まるで子供のような言い方です。
○兄の保護
自動車販売店をクビになった時には、小松和人の兄が謝りに来たそうです。また、詩織さん宅に兄などと押しかけた時に、小松和人は一言も喋らなかったようです。
詩織さんには強い態度で脅迫していますが、外に出ると何も言えない気の小さい男だったようです。小松和人は兄の保護下で生きていたと言えるかも知れません。
○親に捨てられた
小松和人は、こぶしで壁を叩きながら「俺は親に捨てられたんだ」と泣きわめいたことがあったようです。おそらく、親に見捨てられた体験がストーカー殺人を行うような不安定で激昂する性格になった原因の一つです。
○酒を飲まない
小松和人は、クラブに飲みに行っても、酒をほとんど飲まずに水ばかりを飲んでいたそうです。なぜか、ストーカーは酒を飲まないようです。
○プレゼントを返せ
小松和人は、詩織さんにプレゼントを返せと要求しています。難癖を付けるための口実ではありますが、大人ならこんなことは言わないと思います。やはり、小松和人は子供っぽい性格の人物です。
先行するストーカー行為
小松和人は詩織さんの事件以前にも、女性とのトラブルを起こしていました。一人はかつて沖縄にいた頃に知り合った女性で、もう一人はやはり埼玉の女子大生です。
どちらの場合も別れ話を持ち出されるとストーカー行為を繰り返していたそうです。沖縄ではトラブルの果てに、自分の手首を切って自殺騒ぎを起こしていたようです。
小松和人は詩織さんに次のように言って脅かしたことがあるようです。
「前に同棲した女はさぁ、自殺未遂したんだよね。ちょっとお仕置きしたら、頭がおかしくなっちゃたんだ。」
耳かき店員殺害事件(2009)
事件
09年8月3日朝9時頃、千葉市に住む会社員・林貢二(41)が、新橋駅近くにある一軒の住宅に押し入り、鉢合わせした鈴木芳江さん(78)を一階で刺殺。その後、二階で寝ていた孫の江尻美保さん(21)をメッタ刺しにしました。江尻美保さんは植物状態になり一ヵ月後に死亡しました。
江尻美保さんは山本耳かき店の秋葉原店に勤務しており、林貢二はその店の常連客でした。
山本耳かき店
07年12月、19歳の江尻美保さんは山本耳かき店の面接を受け「まりな」という源氏名で勤め始めます。そして、林貢二は「よしかわ」という偽名で「まりな」の元に通い始めます。
この耳かき店は、腰板と天井から下げられた布またはすだれで仕切られた3〜4畳ほど部屋で耳かき、耳の産毛掃除、手のひらマッサージ、ヘッドマッサージ、肩のマッサージのサービスを行っていました。耳かきのサービスを行う時は、客の顔に折り畳んだ手拭いが掛けられ、手がじかに客の顔に触れないようにしていたそうです。もちろん性的なサービスはありません。
基本料金は30分で2700円、1時間で4800円。延長は30分ごとに2700円、指名料は30分ごとに500円です。この耳かき店の従業員は、小町と呼ばれていたそうです。
ブログ
山本耳かき店のホームページには、小町(従業員)のブログがあり、客もコメントを書き込めるようになっていました。一般の人は客のコメントは読めないが、それに対する小町のコメント返しは読めるようになっていました。
アルバイト
江尻美保さんは和菓子店でアルバイトをしていましたが、腰を痛めたために、そのアルバイトを辞め耳かき店に勤め始めたようです。
耳かき店では、指名料を入れると1時間3千円が小町(従業員)の取り分でした。美保さんは多い月で65万円を稼いでいたようです。父親がケガで仕事を休んでいるので、家族のために一生懸命に働いていたようです。
常連客
08年2月に初めて来店した林貢二は、江尻美保さんを指名する常連客となりました。
08年6月頃には、一回あたりの滞在時間は3時間におよぶようになっていました。林貢二は、土日には、いつも山本耳かき店に通っていました。
待ち伏せ
08年7月15日(火)、この日は美保さんの20歳の誕生日でした。平日ですが、林貢二は特別に有給休暇を取って耳かき店の開店時間の12時に合わせ11時半頃には秋葉原駅に到着しました。
そこで、林貢二は出勤する美保さんにバッタリ出会います。林貢二は偶然だと証言していますが、美保さんは待ち伏せされたと同僚たちに話しています。
二人はそこでは言葉を交わしただけで、美保さんが先に駅を出て、少し遅れて林貢二は店に向かいました。
耳かき店に着いた林貢二は、美保さんと同僚の話を立ち聞きしてしまいます。美保さんは、林貢二に待ち伏せされたことを「嫌な目にあった」と話していたのです。他のスタッフも「気持ち悪い」と言っていました。
それまでは、林貢二は美保さんが好意を抱いてくれていると思っていましたが、実は嫌われていることが分かったのです。
林貢二は、その日は予約してあったのですが、店には入らずに帰ってしまっています。耳かき店の店長は、林貢二らしき人がうなだれて階段を降りて行くのを見たと証言しています。
この直後の土日(19、20日)にも、いつもの林貢二は山本耳かき店を訪れていません。
08年7月20日(日)、林貢二を心配したのか、美保さんはブログに「突然だけと元気かなぁピヨ吉・・・」と書き込んでいます。ピヨ吉は林貢二のあだ名だったようです。これを読んだのか、林貢二は早速、次回の予約を入れています。
金曜日
8月の最終週になると、林貢二は土日に加え金曜日も耳かき店に通うようになりました。こうして頻繁に通うようになった林貢二は、美保さんとも親しくなり、美保さんの本名や携帯のメールアドレスなどを教えてもらうようになりました。
この頃には、林貢二の土日の滞在時間は7、8時間にも及んでいました。林貢二は、月に3、40万円を耳かき店につぎ込んでいたことになります。
新宿東口店
08年11月末、美保さんは土日祝に新宿東口店での深夜勤務も始めています。
林貢二は、秋葉原店から新宿東口店への移動を美保さんと一緒に行きたいと要求しますが、店側に断られています。
年末年始
08年の年末から年始にまで連続9日間、林貢二は耳かき店に来ていました。
バレンタインデー
09年のバンレンタインデーに、林貢二は美保さんに任天堂のゲーム機「Wii」をプレゼントしています。美保さんの希望だったようです。
この頃、林貢二は美保さんに手を握っていて欲しいという要求を出しています。
美保さんは、手を握らせて欲しいと要求されて困っていると店長に相談しています。
シフト変更
09年3月、美保さんは土日のシフトを午後5時までに変更しました。
午後5時以降は林貢二の指名を受けるようにして、それ以前の時間に他のお客さんの予約を入れるようにするためだったようです。
店外デート
09年4月5日、林貢二は、美保さんを強引に店外での食事に誘いますが店の決まりもあり、美保さんはこれを断ります。
美保さんの同僚の証言では、林貢二は「僕のことをどう思っているの?付き合ってくれないならもう来ない。」と言ったので、美保さんは「そういう気持ちで来るならもう来ないでください。」と答えたようです。林貢二は「もういいよ。帰るよ。」と捨てゼリフを吐いて店を出たようです。
出入り禁止
09年4月7日、林貢二は「また次行くから」とメールを入れますが、美保さんは「もう無理」、「もう来ないと言ったじゃないですか」と答えています。
ストーカー
4月の終わり頃か5月の初めに、林貢二は直接会って話をしないとダメだと思い、美保さんを待ち伏せします。秋葉原駅から美保さんの後をつけ、新橋駅を降りて日比谷通りを超えたあたりで声を掛けています。夜の10時半ころから11時ごろです。
林貢二は「(店に)また行きたい」と言いましたが、美保さんは「もう無理です」と答えています。押し問答を繰り返したようですが、美保さんは「無理です」を繰り返したそうです。
林貢二は、「(無理だという)理由も言っていない。正直、訳が分かりませんでした。」と証言しています。
ボディガード
林貢二による待ち伏せ事件の後、美保さんは新橋店の店長に自宅まで送ってもらうようになりました。
林貢二は、耳かき店で長時間に渡り美保さんと過ごして話している間に、美保さんの自宅のおよその住所や家族構成、彼女の部屋が二階にあることなどを知っていました。
しかし、新橋店店長のボディガードは7月上旬に終了しています。林貢二は現れなかったようです。
再び待ち伏せ
7月19日、林貢二は美保さんを再び待ち伏せしています。林貢二の証言によれば、この時も前回と同様の押し問答になり、美保さんは走って逃げたそうです。
この時は、美保さんはコンビニに逃げ込み警察に通報し、警察官と一緒に帰宅したようです。この後、店側は一週間ほど美保さんの送り迎えをしたそうです。
メールアドレスの変更
待ち伏せ事件の翌日にメールで自分の思いを伝えようとして、林貢二は美保さんにメールを打ちますが、メールアドレスが変更されていて届きませんでした。
林貢二は「(許してもらえる可能性は)限りなく『ない』と思いました」、「怒りのような感情を持ちました」と証言しています。
三度目の待ち伏せ
8月1日、美保さんの母親から「家の近辺に怪しい人影があり、送ってほしい」との連絡が店にあり、新橋店店長が同行して美保さんは帰宅しています。
この日、林貢二は美保さんに会えなくて絶望感があったと証言しています。「私自身が行動を起こすと、私が追い詰められていく。ひとつひとつの道が閉ざされ、追いつめられる感じ。絶望感でした。」、「怒りや悲しみもありました。」
事件前日
8月2日、美保さんは母親と一緒に帰っています。二人の後ろから、さらに新橋店店長がついていったようです。
事件当日
8月3日朝、林貢二はカバンにハンマー、果物ナイフ、ぺティナイフを入れて江尻美保さん宅に向かいました。
8時50分、林貢二は江尻家の玄関を開け、惨劇が開始されました。
逮捕
逮捕された林貢二は、弁護士の初回の接見で、ほとんど泣き通しだったそうです。すぐ泣く林貢二の姿がそこにありました。
判決
10年11月1日、東京地裁は林貢二に無期懲役を言い渡しました。
11月15日、両者から控訴がなく無期懲役が確定しました。
恋愛感情
裁判で、林貢二は美保さんに恋愛感情は持っておらず、『広い意味での好き』であったと主張し、このことにこだわっています。
しかし、裁判長は判決文で次のように述べて叱っています。
「被告人は江尻さんへの思いを募らせ、会えないことを悩み、強い殺意を抱くほど強い愛情を有することは明らかである。
−中略−
しかし、被告人は『恋愛感情』という言葉の定義にこだわり『恋愛感情は持っていなかった』と述べるに留まっている。そのようなことにこだわるのでは、事件を真剣に振り返り、反省していることにはならない。」
赤ちゃん返り
二人っきりの部屋で、膝枕をしてもらうと男は一種の赤ちゃん返りの精神状態になり、馴染みになった女性に対し母親のように甘えたりすることは、有り得ることだと思います。そんな環境下でも、林貢二は少し変わった人だと受け止められていたようです。
美保さんの同僚の話では、なんでもない会話で泣いたりすることが、よくあったようです。美保さんが冗談で「けち」と言ったら泣いたり、美保さんが差し入れを食べないと泣いたりしていたそうです。
また、林貢二は自分のことをどう思うと聞くことがよくあったようです。「僕のことを、かっこよくない、ふつう、かっこいい、の3段階で分けるとどのへん?」と聞かれて、美保さんが「ふつうよりちょっと上」と答えたら、林貢二は不機嫌になってふてくされていたそうです。もちろん本当の母親なら、よしよしをして慰めてくれる場面かもしれません。
耳かき店店長は、林貢二は常に上から目線で話す人物で「江尻さんの前では泣いたりすねたり子供みたいな行為が多かったと聞きました」と証言しています。
耳かき店の従業員にとって、林貢二は面倒くさい人間だったようです。
嘘つき?
耳かき店の従業員は、林貢二はよく泣いていたと証言していますが、本人は店内で泣いたことはないと主張しています。金曜日にも通うことなった件や深夜の新宿東口店にも通うことになった件などは、美保さんに誘われたからだと、林貢二は証言しています。店外デートの件についても美保さんが誘ったかのような証言をしています。
また、林貢二は江尻美保さんに対して恋愛感情はなかったと証言していますが、これについては、前述したように裁判長にも「反省がない」と厳しく指摘されています。
林貢二が自分の都合よいように嘘をついているのか、それとも思い込みの激しい人なのか、よく分かりません。
往生際
林貢二は遺族に手紙を書いています。
『許されるなら、一生懸命に働いて、少しでも被害者のご家族にお役に立ちたいと考えております』
『私の思い上がりかもしれませんが、私にできることは懸命に働くことだと思います』
林貢二は、死にたくないと考えているようです。何か往生際の悪い、子供っぽい自己中心的な考え方を感じます。
祖母への凶行
林貢二は、江尻美保さんの祖母の鈴木芳江さんにも執拗な凶行を加えています。何度もハンマーで殴ったうえ、果物ナイフで頭・顔・首を20回以上メッタ刺しにしています。ナイフは折れ曲がっていたそうです。
林貢二の目的は江尻美保さんであり、鈴木芳江さんは単なる障害物であったはずです。邪魔な鈴木芳江さんは排除できれば、それで良かったはずなのに執拗にナイフで刺しています。
林貢二は、興奮状態にあったとも考えられますが、鈴木芳江さんの殺害後には冷静に階段を登り、音をたてないようにふすまを開け、ぺティナイフで江尻美保さんの殺害に及んでいます。
鈴木芳江さんへの執拗な攻撃には別の理由も考えられます。林貢二は意識してないかもしれませんが、自身の母親への恨みです。自分の母親と似たような年齢の女性だったので、自分の母親とイメージがダブったのではないでしょうか。
林貢二
林貢二は、電気関係の専門学校を卒業後に設計関係の会社に就職。事件当時もそこで働いていました。肩書は設計主任です。
上司は、「黙々と仕事をこなし、人の嫌がる現場でも進んで仕事をしてくれる、まじめな人という印象」と証言しています。
酒が飲めないため、飲み会などではウーロン茶などを静かに飲んでいる人だったようです。(やはりストーカーは酒を飲まないようです。)
28歳から千葉市で一人暮らしをしています。結婚歴はなく独身です。女性との交際は乏しく、女性と付き合ったことはなかったようです。
26歳のころ膠原病を発症しており、再発の恐れがあるため、結婚は考えなくなったと証言しています。
林貢二は、事件当時は一千万円ほどの預金がありました。収入のほとんどを耳かき店につぎ込んでいましたので、生活費は預金を切り崩していたようです。
精神鑑定の結果、抑鬱反応は見られたが、精神状態に問題は認められませんでした。
母親の証言
林貢二の家族は両親と兄の4人です。林貢二の小中学校のころの成績は下の方で、高校に入ってからは、成績はさらに落ちたそうです。
28歳で就職していますが、父親がわがままな人で、『出て行け』ということになり、一人暮らしを始めたようです。
林貢二は、実家には年に1、2回帰っていたそうです。元旦には、たいてい午前中に来て、暗くなって夕飯を食べて帰ったそうです。
母親によれば、拘置所では、最初のころは何回行っても泣いており、話はできなかったそうです。
母親は、「父親がわがままな人で」と証言しています。家族関係に問題がありそうですが、詳しいことは分かりません。