聖徳太子伝説

聖徳太子はいなかったという論が定説化しつつあります。厩戸皇子という人物はいたが聖徳太子という存在は後世に作られた伝説だというものです。伝説が作られたのは、太子の死後約100年たってから編纂された日本書紀によってです。この「捏造」は大成功でした、伝説はさらに伝説を産み出し聖徳太子への庶民的な信仰は定着し今でも続いています。
聖徳太子はいなかったという議論はあるのですが、誰が何のためという議論はあまりありません。そこで、聖徳太子の実像と偶像化の過程を探ってみたいと思います。

厩戸皇子の実像

厩戸皇子(聖徳太子)についての確かな年表を作成すると下記のようになります。財力のある有力な王族だったようです。山背大兄王については、日本書記には厩戸皇子の息子とは明記してないので疑念は残りますが、斑鳩宮に居たようなのでおそらく後継者だったのだと思います。
 574 用明天皇の皇子として誕生
 601 斑鳩宮を造営
 605 斑鳩宮に移る
 607 斑鳩寺(法隆寺)を建立
 622 薨去
 643 厩戸皇子の子の山背大兄王が巨勢徳多らに襲われ斑鳩寺にて自害

聖徳太子の伝説

それでは、おもに日本書紀をもとに聖徳太子の伝説を追ってみたいと思います。
皇太子・摂政
日本書紀に厩戸皇子が女帝推古天皇時代に皇太子になったとありますが、この時代には皇太子の制度はなかったようです。
また、日本書記に太子が推古天皇の摂政になり政務を任されたと書かれていますが、実際の出来事では太子が主語になっている記事は少なく大部分は天皇が行ったように書かれています。たとえば冠位十二階の制定記事では主語がありません。天皇あるいは実権のあった蘇我氏が行ったと考えるのが妥当だと思います。
憲法十七条
日本書紀に太子が憲法十七条を作ったとあります。「作った」とはありますが制定とも発布とも書かれていません。また、不思議なのは日本書紀に憲法十七条の全文が記載されていることです。憲法十七条が周知のものであれば、わざわざ日本書紀に全文を載せる必要もないはずです。私の想像では、太子が作ったとされる憲法十七条は日本書紀で始めて発表されたのではないかと思います。
また、歴史的にも憲法十七条の内容は後世の作品だと言われています。
遣隋使
小野妹子を隋に派遣したが太子だとされることも多いのですが、根拠はなさそうです。日本書紀の遣隋使の記事には太子は一切出てきません。
また、有名な「日出ずる処の天子、書を日没する処の天子に致す、恙なきや」も日本書紀にはなく中国の「隋書」に載っているもののようです。
日本書紀では小野妹子が隋の返書を紛失し処分されかかったことになっています。この時、小野妹子の罪を許したのは天皇だと明記されています。
四天王寺の建立
587年に物部守屋を蘇我馬子らの連合軍が襲い、これを滅ぼしました。この時に蘇我馬子の連合軍に参加していた太子が木で四天王の像を作り戦勝を祈念しました。その結果、戦いに勝つことができ、お礼として593年に太子が建てたのが大阪の四天王寺だといわれています。
この戦いの時に太子は14歳です。戦闘に参加するには、いかにも若すぎないでしょうか。また四天王寺は荒陵寺(あらはかでら)とも呼ばれ渡来系の難波吉士(なにわのきし)の氏寺であったとする説があります。物部守屋との合戦を契機に四天王寺を建てたのが事実としても、建立したのは太子ではなく別の人ではないでしょうか。
広隆寺の建立
603年に秦河勝が、太子所有の仏像を譲り受け、蜂岡寺(広隆寺)を建立したという記事が日本書紀にありますが、太子の死後の624年に新羅の使者によってもたらされた仏像を葛野の秦寺(蜂岡寺、広隆寺)に納めた記事もあります。
太子は仏像を何処から持ってきたのでしょうか?まだ太子が法隆寺(斑鳩寺)を建立する前の話です。太子が秦河勝に仏像を譲ったという話は信用できない気がします。
恵慈と恵聡
595年に高麗の僧恵慈、百済の僧恵聡が来朝します。このうち恵慈は太子の師となり、帰国後に太子の訃報を聞き大いに悲しみ、翌年に太子と同じ日に亡くなったといわれています。
しかし、恵慈と恵聡は蘇我氏の法興寺(飛鳥寺)に住んでいたと日本書紀にあります。おそらく、恵慈の一番弟子は太子より蘇我氏やその関係者だったのではないでしょうか。
三経義疏
「法華経」、「勝鬘経」、「維摩経」の三経の注釈書(義疏・注疏)が聖徳太子御製だと伝わっていますが、おそらく中国から伝来したものだろうと言われています。
また、606年に太子が勝鬘経、法華経を講説したとの記事が日本書紀にありますが、これも疑わしく思われています。
薬師如来像の光背銘文
法隆寺金堂にある薬師如来像の光背銘文に「太子」、「東宮聖王」と書いてあります。また、丁卯年(607年)完成と書いてあります。(東宮は皇太子を意味します。現代でも皇太子のお住まいは東宮御所という呼び方をします。)
しかし、この銘文には天皇号が使われており、太子の時代ではなく後世に作られた文章だと考えられています。
釈迦三尊像の光背銘文
法隆寺金堂の釈迦三尊像の光背にも銘文があり、ここには「上宮法皇」と書いてあります。(上宮はそれ自体で厩戸皇子、聖徳太子を意味します。)
法皇という表現は天皇という呼び名が定まってからのことだと思われるので、やはりこれも後世の文章だと考えられています。
天寿国繍帳の銘文
中宮寺に伝わっている天寿国繍帳の銘文に「太子」の表現がありますが、銘文中に天皇号と天皇の和風諡号が使われています。そのため、これも後世の文章と考えられています。

蘇我氏の実像

蘇我氏は仏教の導入に貢献したが、思い上がった勝手な振る舞いがあっため中大兄皇子(天智天皇)によって殺害されたというのが日本書紀に書かれ一般的に流布している通説です。しかし、日本書紀の記事は天智天皇の子孫によって作成されました。蘇我氏を貶めるため、実際にはなかった聖徳太子像を作り上げ蘇我氏の業績を付け替え、蘇我入鹿を殺害した天智天皇を擁護しているのだと思います。
仏教の振興
日本の仏教導入、振興に最も貢献したのは言うまでもなく聖徳太子ではなく蘇我氏です。
蘇我稲目は、物部氏などの反対を押し切り自宅に仏像を祀り始め、その自宅は向原寺(豊浦寺)となりました。この寺は、物部守屋に襲われ本尊は難波の堀江に捨てられてしまいました。しかし、その後、蘇我馬子は宿敵の物部守屋を滅ぼし、その時の誓願で飛鳥寺(法興寺)を建立しました。この寺に、高麗の僧恵慈、百済の僧恵聡を住まわせ仏教振興を推進しています。
崇峻天皇の殺害(592年)
蘇我馬子が崇峻天皇を殺害した犯人であり、蘇我氏の悪逆非道の事件のひとつとされていますが、これには疑問があります。
実際に天皇を殺害したのは東漢直駒であり、それを指示したのが蘇我馬子となっていますが、同月内に東漢直駒は別の理由で蘇我馬子に殺されています。実際に何が原因で何があったのか、よく分からない事件です。また、殺された崇峻天皇は、なぜか即日葬られています。また、犯人へのお咎めもなかったようです。おそらくは周りの同意や支持があっての殺害だったのだと思います。
山背大兄王を襲撃(643年)
聖徳太子の息子とされる山背大兄王を襲撃して自害に追い込んだのも蘇我氏の悪逆非道の例として挙げられますが、これも疑問があります。
日本書紀によると蘇我入鹿の指示で実際に山背大兄王を襲撃したのは、巨勢徳多、大伴馬飼、土師猪手です。土師猪手は戦死しましたが、大化の改新後に巨勢徳多は左大臣、大伴長徳は右大臣に出世しています。
また、日本書紀に長文の記事が載っているにもかかわらず、山背大兄王の墓の造営記事はありません。また、現在の法隆寺に山背大兄王の像はありますが、手厚く祀られている気配はありません。
この事件は蘇我入鹿が殺される乙巳の変の2年前におきています。山背大兄王の襲撃と蘇我入鹿の暗殺は一連の事件だったと考えることもできると思います。
蘇我入鹿が殺された後、父の蘇我蝦夷はろくに抵抗もせずに山背大兄王と同様に自害したようです。
(参考)聖徳太子の祖母は父方も母方も蘇我稲目の娘です。ですから聖徳太子は蘇我氏系の王族だと言われています。そのため、山背大兄王の襲撃と蘇我入鹿の暗殺は蘇我本宗家(稲目−馬子−蝦夷−入鹿)を排除する一連の事件だと考えることもできます。
蘇我氏の寺のその後
蘇我氏は豊浦寺(向原寺)、飛鳥寺(法興寺)を建てましたが、これらは朝廷に接収され官寺になったようです。689年に持統天皇が大官大寺(百済大寺、大安寺)、飛鳥寺(法興寺)、川原寺(弘福寺)、豊浦寺(向原寺)、坂田寺(金剛寺)の五つの寺で法要を営んでいます。これらの寺は当時の五大寺とも言われています。これを見ると、その後の朝廷が蘇我氏の業績を掠め取ったようにも思えます。

聖徳太子信仰

720年に日本書紀が完成しました。これ以前に聖徳太子の伝説があったのかどうか不明ですが、ここから聖徳太子信仰が始まります。
(古事記には用明天皇の皇子として名前(上宮の厩戸豊聡耳命)が記載されているだけです。)
橘夫人と光明皇后
当初の法隆寺は皇族や貴族によって信仰されたようです。法隆寺には聖武天皇夫人の光明皇后やその母の橘夫人の所縁の品などが残されています。
西円堂は橘夫人の発願で建てられたといわれており、橘夫人の念持仏や光明皇后が施入した海磯鏡が残っています。
また、この時代に僧行信によって斑鳩宮跡に東院の夢殿が建てられたようです。
物部守屋の伝説
太子が物部守屋を討つ際に四天王の像に祈った伝説の影響は各地に残っています。四天王寺は太子建立の寺として信仰を集めています。大聖勝軍寺には物部守屋の首を洗ったとされる池があり、近くに物部守屋の墓もありますが、ここも太子所縁の寺とされています。
信濃の善光寺の本尊は物部氏によって難波の堀江に捨てられた阿弥陀三尊像とされています。善光寺の本堂の中心には守屋柱が祀られており、物部守屋との関係があるとされています。そして、法隆寺には「善光寺如来御書箱」と呼ばれる物が伝来しています。この箱に入っているのは太子が善光寺如来にあてた手紙の返書だと言われています。
また、法隆寺には伏蔵があり後世の再建のための財宝や仏像とともに守屋合戦ゆかりの品が埋められていると伝えられています。
親鸞聖人、弘法大師、日蓮上人
太子は日本仏教の祖として、親鸞聖人や弘法大師、日蓮上人にも信仰されたようです。特に親鸞聖人の浄土真宗では太子像を祀り、「聖徳太子絵伝」の絵解きまで行っているようです。
太子のお墓の近くにある叡福寺には、親鸞聖人のお堂、弘法大師の像、日蓮上人の碑があります。また、太子を祀ってある京都の頂法寺にも親鸞聖人や弘法大師の像があります。
こうして、親鸞聖人、弘法大師、日蓮上人などの各宗派により聖徳太子の伝説は庶民にまで広がり信仰を集めていきます。
太子講
太子への信仰は庶民にまで広がり、職人たちの信仰も集めています。日本に最初の寺を建てたとの伝説により大工道具の曲尺(かねじゃく)を伝えたのが太子だとされたのです。大工に限らず各種の職人組合による太子講は今でも続けられているようです。
未来記
日本書紀に、太子は「未然を知る」とあります。つまり未来を予言できると書いてあります。叡福寺には1054年に発見された未来記とも呼ばれる「太子御記文」が伝えられています。ここには太子の予言が書かれているとされています。太子の未来記は、この後も各地で「発見」されます。
また、太平記には楠木正成が四天王寺で「未来記」を読んだとあるようです。

聖徳太子は怨霊ではない

70年代に発表された梅原猛の聖徳太子怨霊説は大きな反響を呼び、今でも影響を与え続けています。私も影響を受けた一人ですが、そろそろ梅原猛の妄想の呪縛から逃れるべきだと思います。
厩戸皇子は仏教徒
厩戸皇子は仏教徒です。「怨み」というのは仏教の「悟り」の正反対にある概念です。怨霊などということは、厩戸皇子や法隆寺を再建した人たちは考えもしなかったと思います。
いまさらの反論ですが厩戸皇子は病気で亡くなっています。怨霊になる理由などないのです。また、厩戸皇子の子の山背大兄王と一族が巨勢徳多らに襲われ自害していますが、法隆寺に彼らの怨霊を手厚く祀ってある形跡はありません。「聖徳太子絵伝」では彼らが華やかに昇天して行く様が描かれています。
西院伽藍の中門
中門の真中の柱が怨霊封じだと梅原先生は主張していますが、参拝者に心理的な圧迫感を与えることはあっても、怨霊に効くとは思えません。もし、柱が怨霊封じになるなら東院の夢殿などにも設置すべきでしょう。
梅原先生は日本古来の注連縄(しめなわ)などをイメージしたのでしょうか。注連縄は神域を区別し人が濫りに入らないようするためのものです。神官はそこに神を降ろしてから儀式を行います。実は、神は出入り自由なのです。
救世観音の光背
東院夢殿の救世観音の光背が釘で頭に打ち付けられているのは呪詛の行為であると梅原先生は言っています。聖徳太子が怨霊なら、そんな恐いことはできないはずです。釘を打った人に祟るはずでしょう。それとも頭に釘を打つと怨霊を封じ込めるような効果があるのでしょうか。
梅原先生は丑の刻参りの藁人形でも思い出したのでしょう。丑の刻参りの場合、呪詛される相手に気づかれなければ、自分は安全です。しかも、呪詛する相手は、大抵は一般の人であり恐ろしい力を持つ怨霊ではありません。
救世観音は異様か
梅原先生は夢殿の救世観音の異様さに驚いたようです。化け物とまで言っています。
救世観音の顔立ちは、法隆寺本尊の釈迦三尊像に似た面長な顔です。幾分ふっくらした感じがあり、この長身の像を見上げると下膨れに見えます。さらに口の周辺の金箔が黒く変色しています。このため、異様に見えるのだと思います。
この仏像は秘仏として白い布で巻かれてあったそうです。おそらくは、異様に見えるようになってしまった姿を公開したくなかったのだと思います。最初から秘仏だったのではないと思います。

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参考文献
「日本古典文学大系 日本書紀」岩波書店
「法隆寺の謎を解く」高田良信 小学館
「法隆寺の謎を解く」武澤秀一 ちくま新書
「聖徳太子信仰への旅」NHK出版
「絵で知る日本史 聖徳太子絵伝」集英社
「怨霊の古代史」戸矢学 河出書房新社
「<聖徳太子>の誕生」大山誠一 吉川弘文館
「聖徳太子はいなかった」谷沢永一 新潮新書
「中世日本の予言書」小峰和明 岩波新書
「善光寺の謎」宮元健次 祥伝社黄金文庫
「信仰の王権 聖徳太子」武田佐知子 中公新書
「夢殿の闇」小椋一葉 河出書房新社
「隠された十字架 −法隆寺論−」梅原猛 新潮文庫

2011.7.29 野沢 清 kiyoshi_nozawa@yahoo.co.jp