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飛鳥時代の道教文化
推古9年(601)、百済の僧観勒が暦本・天文地理書・遁甲方術書を貢上したと記録されています。これが本格的な道教文化伝来だったようです。
飛鳥時代の怪異
日本書紀には飛鳥時代の道教的な神仙的な怪異譚がいくつか載っています。この当時には仏教が導入されていますが、抽象的で分かりにくい仏教よりも具体的で分かり易い道教の思想が受け入れられたのだと思います。
片岡の飢者:尸解仙の話が聖徳太子の聖人譚として記載されています。 蘇我蝦夷の霊:青い笠の怪人が龍に乗って葛城嶺から生駒山へと移動。 朝倉山の鬼:斉明天皇の葬儀を見ていた朝倉山の鬼。 役小角:修験道の祖。文武3年(699)に伊豆に配流されています。 (参考)古代怨霊の真相
斉明天皇の両槻宮:道教寺院
斉明天皇は、656年に多武峰(とうのみね)に両槻宮(ふたつきのみや)を造営しています。この宮は道観と呼ばれる道教寺院であったようです。おそらく、古代における、記録されている唯一の道教寺院です。
この寺院がどの程度利用されたか不明ですが、ここへは持統天皇が693年と696年に行幸しています。また、文武天皇が大宝2年(702)に修繕したとの記録があります。 また、斉明天皇は土木工事が好きだったようです。香具山の西から石上山にいたる水路を造り、石を運搬して工事を行ったようです。そうして造ったのが酒船石遺跡であろうと言われています。そして、この酒船石遺跡が両槻宮にも関連する設備だとの説もあります。利用方法の不明な酒船石遺跡は道教関連の設備だったのかもしれません。 後述しますが斉明天皇は雨乞いのために四方拝を行っています。おそらく道教の影響で行った儀式です。
天武天皇と道教文化
天武天皇の即位前記に、天皇は「天文・遁甲に能(よ)し」と書かれています。壬申の乱(672)の際に黒雲が天に渡るのを見て陰陽道の道具を使い天皇が自ら占っています。また、天皇号は天武天皇のころに定められたようです。道教の北辰信仰の天皇大帝から取ったとも言われています。
天武4年(675)に占星台(天文台)を始めて造ったとの記録がありますから本格的に道教文化が定着したのは、この頃のようです。正式な官僚組織に陰陽寮も設けられています。
八角形の天皇稜
飛鳥時代の天皇稜には八角形をしたものが多くあります。これは、道教の影響ではないでしょうか。おそらく、この時代だけの流行です。
舒明天皇稜(段ノ塚古墳) 舒明天皇:641年没 斉明天皇稜(牽牛子塚古墳) 斉明天皇:661年没 天智天皇稜(御廟野古墳) 天智天皇:671年没 天武天皇稜(野口王墓古墳) 天武天皇:686年没 持統天皇稜(野口王墓古墳) 持統天皇:702年没 文武天皇稜(中尾山古墳) 文武天皇:707年没
八角形の廟
また、飛鳥時代から奈良時代の寺の堂で八角形の建物があります。これも、道教の影響を思わせます。おそらくは誰かの霊を祀る廟として建立されています。
法隆寺夢殿
天平11年(739)に行信が建立しました。光明皇后の寄進があったようです。聖徳太子の霊廟です。
法隆寺西円堂
光明皇后の母で藤原不比等の橘夫人の発願で養老2年(718)に行基が建立したと伝えられています。誰を祀ったものか不明ですが、これも霊廟だったのではないでしょうか。
興福寺北円堂
藤原不比等の死後一周忌の養老5年(721)に元明太上天皇と元正天皇によって建てられた八角円堂です。
その他
八角堂は、この時代以降も建築されています。
栄山寺八角堂:天平宝字年間(757〜765)の建立。 興福寺南円堂:引仁4年(813)建立。
(参考)横浜媽祖廟と横浜関帝廟
現代の日本にも、中国の民間信仰としての道教的な廟がありますが、それらもやはり八角形を基本としています。
横浜媽祖廟では、八角形の建物の中に媽祖や玉皇上帝が祀られています。また、横浜関帝廟は、建物こそは八角形ではありませんが、八角形の天井が組んであります。
高松塚古墳とキトラ古墳の壁画
装飾古墳として有名な高松塚古墳とキトラ古墳は700年頃に築造された古墳です。被葬者は皇族あるいは貴族だと考えられています。
この古墳内部には壁画が描かれていますが、その内容は中国的、道教的な題材です。ここには仏教的な要素も神道的な要素もありません。 なお、墳丘は残念ながら八角形ではなく、2段の円錐台になっているようです。
四神
東の青龍、南の朱雀、西の白虎、北の玄武が四方の壁の中央に描かれています。
日輪と月輪
東側の上方には日輪、西側の上方には月輪が有ります。日輪の内部には八咫烏が、月輪の内部には桂樹とウサギとカエルが描かれています。
天文図
天井には天文図が描かれています。中央が北極になっており28宿の星座が表現されています。
十二支像
キトラ古墳には四方の壁の下方に十二支像が描かれています。顔が動物で身体が人間の十二支像です。
人物群像
高松塚古墳では十二支像がなく、代わりに人物群像が描いてあります。これから被葬者と散歩にでも出かけるような男女が4人ずつ左右の壁の4ヶ所に描かれています。
四神相応の地
始めての本格的な都である藤原京(遷都694年)や平城京(遷都710年)を造るにあたって風水を重んじたのは言うまでもありません。
天武13年(681)に藤原京の造営の地を観るために陰陽師や工匠を含む調査団を派遣しています。持統6年(692)には藤原京の地鎮祭を行っています。この時には伊勢・大倭・住吉・紀伊の神に幣を奉っています。都の地を定めるために陰陽師により風水を占ってはいますが、地鎮祭では伝統的な日本の神を祀っているようです。 和銅元年(708)に元明天皇は、平城京が四神(青龍、朱雀、白虎、玄武)相応の地であり大和三山が鎮めをなしていると言っています。また、亀甲や筮竹による占いを行ったことも述べています。
朝賀の儀式の幢幡
文武天皇の大宝元年(701)の朝賀の儀式で、正面に烏形幢、左側に日像・青龍・朱雀の幡、右側に月像・玄武・白虎の幡を立てたとあります。
烏形幢は蓮華座の上に銅製の三本足の烏(八咫烏)を据えて七筋の玉飾りを垂らした物のようです。当然、日像には八咫烏が、月像には桂樹とウサギとカエルが描かれていたと思われます。 ただし、例年このような幢幡を立てたかどうかは不明です。この年に限った稀なことなので記録されているのかもしれません。
四方拝
皇極天皇は642年に、雨乞いのため南淵の河上で四方を拝み、天を仰いで祈っています。
時代は下りますが天平宝字元年(757)の「橘奈良麻呂の変」の際に、橘奈良麻呂や安宿王、黄文王などが夜中に庭に集まり、天地と四方を礼拝し、共に塩汁をすすり合って誓ったとあります。 四方拝は、元々は道教的な呪文を唱える儀式のようですが、形を変えて現在も皇室に受け継がれているようです。
陰陽師と呪禁師
陰陽師(おんみょうじ)は中務省陰陽寮に所属し天文・暦・気象観測などを掌ったようです。天武4年(675)に占星台(天文台)を始めて造ったとの記録があります。もちろん藤原京や平城京を造るにあたっては陰陽師が風水を占っていました。
呪禁師(じゅごんし)は宮内省典薬寮に所属し道教系の呪術で身体の安全を守ることを掌ったようです。典薬寮ですから医療の一環としてまじないなどを行ったようです。持統5年(691)に呪禁博士に銀20両を賜ったとの記録があります。
参考文献
「日本古典文学大系 日本書紀」岩波書店
「続日本紀」東洋文庫 「日本の道教遺跡を歩く」福永光司他 朝日新聞出版 「高松塚とキトラ 古墳壁画の謎」来村多加史 講談社 「古墳とヤマト政権」白石太一郎 文春新書 「和漢三才図会」島田勇雄他訳注 平凡社 「別冊歴史読本 歴代天皇・皇后総覧」新人物往来社 「法隆寺」http://www.horyuji.or.jp/ 「興福寺」http://www.kohfukuji.com/ 「横浜媽祖廟」http://www.yokohama-masobyo.jp/ 「横浜関帝廟」http://www.yokohama-kanteibyo.com/ 2011.9.2 野沢 清 kiyoshi_nozawa@yahoo.co.jp |