倭国の外交史
任那との交易
日本の弥生時代には、銅製品が使用されており銅製の矛・剣・戈や銅鐸、銅鏡などが発掘されています。また、弥生時代の後期には鉄製品も普及し鉄製の剣、鋤、鍬などが使用されていたようです。
しかし、弥生時代あるいは古墳時代においては、日本では銅や鉄は採れませんでした。そのため、銅や鉄は輸入に頼る必要がありました。日本は銅や鉄を、対馬の先にある任那から主に取り寄せていたようです。
日本(倭国)からの輸出品は翡翠(ひすい)や真珠などですが、それだけではなく武力も輸出していたようです。新羅本紀によれば、新羅は頻繁に倭人の侵攻を受けています。
なお、任那とは新羅や百済のような統一国家ではなく、小国が分立する地域のことです。その中でも倭国とつながりが深かったのが対馬に近い金官国でした。
新羅への侵攻と交流
倭国は任那とは交易相手であり友好的だったようですが、新羅へは古代から武力で侵攻していたようです。新羅本紀には倭人の侵略が多く記録されています。
前50 倭人、兵をつらね辺を犯そうとする。(新羅本紀)
後14 倭人、兵船百余艘をもって海辺の民戸を襲う。(新羅本紀)
59 倭国と結好する。(新羅本紀)
73 倭人、木出島を侵す。(新羅本紀)
121 倭人、東辺を侵す。(新羅本紀)
123 倭国と講和する。(新羅本紀)
信用できるのかどうか分かりませんが、173年に卑弥呼が使者を遣わしたとの記録もあります。また、193年に倭国から難民が来たとの記事がありますが、この頃の「倭国大乱」と関係あるのかもしれません。
158 倭人、来聘する。(新羅本紀)
173 倭の女王卑弥呼、使者を遣わす。(新羅本紀)
193 倭人、大いに飢えて食を求めて来る者千余人。(新羅本紀)
3〜4世紀の倭国は卑弥呼の時代であり、崇神王朝の時代ですが、倭国の新羅侵攻も本格的になっているように見えます。232年には新羅の首都・金城を包囲したようです。一方、この時代の垂仁天皇紀には新羅王子の天日槍が来朝したとの伝説が記載されています。倭国と新羅の交流が活発になっていることも伺えます。
208 倭人、国境を犯す。(新羅本紀)
232 倭兵、金城を囲む。(新羅本紀)
233 倭兵、東辺を侵す。(新羅本紀)
253 新羅の于老、倭国の使者葛那古に戯言する。
倭王、将軍の于道朱君を遣わして新羅を討つ。(新羅本紀)
292 倭兵、沙道城を攻め落とす。(新羅本紀)
294 倭兵、長峯城を攻める。(新羅本紀)
300 倭国と交聘する。(新羅本紀)
312 倭国王、子のため婚姻を求める。(新羅本紀)
344 倭国、婚姻を請うも断る。(新羅本紀)
345 倭王、移書して絶好する。(新羅本紀)
346 倭兵、金城を囲む。(新羅本紀)
364 倭兵、大いに至る。
倭人、衆を恃んで直進する。
倭人、敗走する。(新羅本紀)
中国との交流
倭国は古代から中国とも交流しており、九州北部にあった奴国は後漢から金印を貰っています。
57 奴国が後漢へ朝貢。金印を受ける。(後漢書)
107 倭国王帥升が後漢へ朝貢。(後漢書)
170 倭国大乱。(後漢書)
女王卑弥呼の時代には、倭国は魏との交流を行っていました。当時の中国は朝鮮半島の北西部を支配しており帯方郡、楽浪郡がありました。倭国は、この帯方郡を通して中国と往来していたようです。この頃の倭政権は狗奴国と交戦中で、魏の皇帝は卑弥呼の使に黄幢を渡し檄を飛ばしています。
238 卑弥呼、大夫難升米を帯方郡に派遣。(魏志)
銅鏡百枚など下賜される
247 魏皇帝、難升米に詔書・黄幢を渡し檄を告諭。(魏志)
248 卑弥呼、死す。(魏志)
266 倭人、来献。(晋書)
313 高句麗、楽浪郡を滅ぼす。
314 高句麗、帯方郡を滅ぼす。
413 倭、朝貢。(晋書)
なぜか4世紀には中国との交流はなかったようです。晋書に倭人が現れるのは266年以降は413年まではありません。高句麗が朝鮮半島の北部に勢力を伸ばした時代です。高句麗によって中国との往来が邪魔されたのでしょうか?謎の4世紀です。
しかし、この後の5世紀には倭の五王(讃、珍、済、興、武)が宋に遣使して交流を再開しています。
三韓征伐
神功皇后は架空の存在であり、その三韓征伐はなかったと言われています。しかし、この神功皇后の時代には倭国は朝鮮半島の南方に君臨する大国として大きな影響力を行使したようです。その元祖として、英雄として日本書紀などは神功皇后の伝説を創ったようです。
366 神功皇后、斯摩宿禰を卓淳国に遣わす。(神功46年)
367 百済使、来朝。(神功47年)
369 荒田別・鹿我別を新羅征討の将軍として派遣。(神功49年)
372 百済、七枝刀一口・七子鏡一面を献上。(神功52年)
382 沙至比跪(葛城襲津彦)を新羅に遣わす。(神功62年)
また、このころから百済が統一国家として登場します。新羅と違い百済と倭国は常に友好的な関係を保っていました。
百済と新羅の人質
応神王朝のころに、朝鮮半島に強い影響力を持った倭国は、百済と新羅の王子を人質として取っています。そして、高句麗の広開土王(好太王)の碑文によれば、倭国は朝鮮半島に積極的に出兵していたようです。
391 倭、百済・新羅を臣民とする。(広開土王碑文)
392 百済、辰斯王を殺して、阿花王を立てる。(応神3年)
応神天皇、紀角宿禰らを派遣。
393 倭人、金城を囲む。(新羅本紀)
396 高句麗、百済を破る。(広開土王碑文)
397 百済、太子(直支王)を人質として倭に送る。(百済本紀)
399 百済、倭と和通する。(広開土王碑文)
400 高句麗、新羅を救い倭賊を撃退する。(広開土王碑文)
402 新羅の奈勿王、子の未斯欣を質として倭に送る(新羅本紀)
403 百済、縫衣工女を貢上する。(応神14年)
403 葛城襲津彦を加羅(任那)に遣わす。(応神14年)
404 倭、帯方界に侵入。倭寇、潰敗。(広開土王碑文)
405 百済の阿花王が死去。人質の太子(直支王)が帰国。(応神16年)
405 平群木菟宿禰・的戸田宿禰を加羅(任那)に遣わす。(応神16年)
葛城襲津彦、帰国。
405 倭兵、明活城を攻める。(新羅本紀)
420 百済の直支王(腆支王)死去。
425 新羅の堤上、倭国に至って未斯欣を帰国させる。(神功5年)
431 倭兵、東辺を侵し、明活城を囲む。(新羅本紀)
444 倭兵、金城を囲む。(新羅本紀)
459 倭人、兵船百余艘で東辺を襲い月城を囲む。(新羅本紀)
461 百済の蓋鹵王、弟の昆支を倭に遣わし修好す。(雄略5年)
462 倭人、活開城を破る。(新羅本紀)
464 膳臣斑鳩、吉備臣小梨、難波吉士赤目子、新羅を救援。
高麗と戦う。(雄略9年)
465 新羅征討。紀小弓宿禰を派遣。(雄略9年)
大伴談連・紀岡前来目連、戦死。紀小弓宿禰、病死。
諍いがあり紀大磐宿禰、蘇我韓子宿禰を殺す。
475 百済、高句麗に破れる。
477 倭人、五道に来侵す。(新羅本紀)
479 百済の文斤王薨去。東城王即位。(雄略23年)
479 倭国の兵、来侵す。(新羅本紀)
487 紀大磐宿禰、任那から帰る。(顕宗3年)
500 倭人、長峯鎮を攻略する。(新羅本紀)
倭の五王
倭国は朝鮮半島で戦いながら、一世紀ぶりに中国と国交を結び始めます。しかし、これらの事は日本書紀などに現れません。中国に臣従(冊封)したことを隠したかったのでしょうか。なお、倭国王は高句麗、新羅、百済よりも格下に除授(任官)されたようです。
宋書に現れる倭の五王は、讃:履中天皇、珍:反正天皇、済:允恭天皇、興: 安康天皇、武:雄略天皇のようです。
413 倭、朝貢。(晋書)
421 倭王讃、宋に遣使、除授あり。(宋書)
425 倭王讃、司馬曹達を派遣。(宋書)
430 倭王、遣使。(宋書文帝本紀)
438 倭王珍、安東将軍倭国王。(宋書)
443 倭王済、安東将軍倭国王。(宋書)
451 倭王済、安東大将軍。(宋書)
462 倭王興、安東将軍倭国王。(宋書)
478 倭王武、安東大将軍。(宋書)
任那割譲と磐井の乱
継体王朝の時代に入ると、任那の存立が危うくなります。任那を挟む百済と新羅の攻勢が強くなってきたようです。
倭国は任那4県を百済に割譲し、その後に更に己文、帯沙を百済に割譲しています。倭国が自分の支配地を譲ったようにも聞こえますが、百済がこれらの地を支配すること倭国が了承した程度のことかもしれません。倭国は百済の任那支配を了承する代わりに、百済から五経博士・段楊爾を招いています。
一方、任那の金官国は新羅側についたようですが、このことは日本書紀には載っていません。
継体22年に磐井の乱が起きますが、これは任那を巡る政争のようにも見えます。近江毛野臣の任那派遣軍は新羅に征服された任那の南加羅と喙己呑を回復させるために出動しましたが、筑紫国造磐井が新羅から賄賂を貰い、これを防ごうとしたと日本書紀に書いてあります。倭国の政権は百済派で、筑紫国造磐井は新羅派だったようです。
532年には倭国にとって任那の中心と言ってよい金官国が新羅に併合されてしまいました。さらに、南加羅、卓淳、喙己呑なども新羅に編入されており、任那は事実上崩壊しています。
503 百済武寧王、倭国に遣使。(武列6年)
509 使(久羅麻致支弥:くらまちきみ)を百済に遣わす。(継体3年)
512 穂積押山を百済に派遣。(継体6年)
512 百済、使を遣わして調貢。(継体6年)
任那4県(上多利、下多利、娑陀、牟婁)割譲を請う。
大伴金村、これを了承。
513 百済から五経博士・段楊爾が来朝。(継体7年)
任那の伴跛国、珍宝を献って己文の地を乞う。
任那から更に2県(己文、帯沙)を百済に割譲。
516 高麗使安定来朝(継体10年)
526 継体天皇、大和の磐余玉穂宮に移る(継体21年)
527 磐井の乱(継体22年)
近江毛野臣の任那派遣軍を筑紫君磐井が遮る。
528 近江毛野臣、任那の安羅に赴任。(継体23年)
532 任那の金官国、新羅に降る。
537 大伴狭手彦を任那に遣わす。(宣化3年)
栄山江流域の前方後円墳
韓国南西部の栄山江流域に6世紀前半ころに造られたと思われる13基の前方後円墳が発見されています。これらは倭国の前方後円墳そのものであり、被葬者は倭人ではないかと思われています。そして、これらの古墳は栄山江流域に点々と存在おり、どこか一ヶ所に倭人が集中して住んでいたというわけでもなさそうです。
敏達12年(583)に倭系百済官僚の日羅を招聘したという記事もあります。任那が分解され一部が百済に編入されていますので、任那に居た倭人がその後に百済で活躍していた痕跡なのかも知れません。
百済との交流と任那の滅亡
欽明天皇の時代になると百済との関係が緊密になります。百済が新羅の攻勢にさらされ、倭国に援軍を求めるようになりますが、倭国はそれに応える代わりに百済から仏教など最新の文化を取り入れるようになります。
また、残っていた任那の加羅国、安羅国、斯二岐国、多羅国、率麻国、古嵯国、子他国、散半下国、乞餐国、稔礼国も新羅に征服され「任那日本府」は滅亡しました。
ただし、その後の倭国は新羅とも交流を持っていたようです。推古天皇の時代に新羅から仏像なども献上されています。
541 任那日本府吉備臣、百済聖明王を訪問。(欽明2年)
543 百済聖明王、遣使。(欽明4年)
543 津守連を百済に遣使。(欽明4年)
545 膳臣巴提便を百済に遣使。(欽明6年)
545 百済、遣使。(欽明6年)
547 百済、援軍を要請。(欽明8年)
548 百済に援軍370人を派遣。(欽明9年)
551 百済王に麦種一千石を贈る。(欽明12年)
552 百済聖明王、仏教を伝来する。(欽明13年)
554 百済救援軍を派遣。(欽明15年)
554 百済聖明王、新羅との戦いで敗死。(欽明15年)
557 百済、威徳王が即位。(欽明18年)
562 任那日本府、新羅によって滅ぼされる。(欽明23年)
562 紀男麻呂、百済とともに新羅を伐つ。(欽明23年)
570 高句麗使、来朝。(欽明30年)
577 大別王と小黒吉士を遣わして、百済国に宰とす。(敏達6年)
577 百済、経綸若干巻、律師・禅師・比丘尼・呪禁師・造仏工
・造寺工の6人を奉った。(敏達8年)
583 倭系百済官僚の日羅を招聘。(敏達12年)
588 百済使、仏舎利・僧・寺工・露盤博士・瓦博士を献上。(崇峻元年)
595 高麗僧・慧慈、来朝。(推古3年)
600 任那救援のため境部臣、穂積臣を派遣。(推古8年)
601 大伴連囓を高麗、坂本臣糠手を百済に遣わす。(推古9年)
602 百済僧・観勒、来朝。 (推古10年)
歴本・天文地理・遁甲方術之書を献上。
616 新羅使、仏像を献上。(推古24年)
622 新羅使・任那使が来朝。(推古30年)
仏像・金塔・仏舎利・大灌頂幡・小幡を貢上。
630 高麗使、百済使が来朝。(舒明2年)
遣隋使、遣唐使
589年に隋王朝が成立すると倭国も一世紀ぶりに中国との交流を始めます。478年の倭王武以来の遣使です。
第一回の遣隋使で倭国の使者は「倭王は天を以って兄と為し、日を以って弟と為す。天未だ明けざる時、出でて政を聴き跏趺(あぐら)して座し、日出ずれば、便(すなわ)ち理務を停め、云う我が弟に委ねんと」などと訳の分からないことを言って隋の高祖文帝を呆れさせています。なお、この遣使については何故か日本書紀には載っていません。
第二回の遣隋使では、有名な「日出ずる処の天子、書を日没する処の天子に致す、恙無きや、云云」の国書を出して隋の皇帝の煬帝を怒らせています。そして、帰国した遣使の小野妹子は隋の皇帝からの返書を紛失したと報告しています。あまりにひどい内容の返書だったからでしょうか?
それでも、倭の五王の宋時代と違い、倭国は隋に臣従することなく、一応は対等の外交関係を持てたようです。
589 隋、成立。
600 第一回遣隋使。(隋書倭国伝)
608 第二回遣隋使・小野妹子、百済経由で帰朝。(推古16年)
隋の送使・裴世清。隋の礼書「隋朝儀礼」を将来。
608 第三回遣隋使。
610 第四回遣隋使。
615 第五回遣隋使・犬上御田鍬が帰朝。(推古23年)
618 唐、成立。
630 第一回遣唐使。
632 遣唐使・犬上御田鍬らが新羅の送使とともに帰朝。(舒明4年)
唐使高表仁も同行。遣隋留学僧霊雲、僧旻らも帰朝。
653 第二回遣唐使。
654 第三回遣唐使。
659 第四回遣唐使。
665 第五回遣唐使。唐使劉徳高を送る。(天智4年)
百済の滅亡と統一新羅
660年に倭国の友好国だった百済は、唐と新羅の連合軍に攻められ滅亡しました。それでも復興を目指す百済軍とそれを支援する倭国軍は、白村江で唐・新羅連合軍と戦いますが、あえなく敗北しています。
百済を征服した唐・新羅連合軍は、さらに高句麗も滅ぼし、朝鮮半島を新羅が統一することに成功しました。唐は新羅を支配下に置こうとしましたが、新羅は唐との戦いに勝利し統一新羅を勝ち取っています。
白村江で惨敗した倭国は、唐・新羅の侵攻を恐れ、防備を固めるとともに都を大阪湾から遠い近江大津の地に移しています。
653 百済王、倭国と好(よし)みを通ず。(百済本紀)
660 百済義慈王が唐・新羅軍に降伏。百済滅亡。
660 倭国に質だった王子扶余豊璋を王とする。(百済本紀)
663 白村江の戦い。倭国・百済復興軍、唐・新羅軍に敗北。
664 対馬、壱岐嶋、筑紫国に防(さきもり)と烽(のろし)を置く。
筑紫に水城を築く。(天智3年)
667 近江大津宮に遷都。(天智6年)
667 大和の高安城、讃岐の屋嶋城、対馬の金田城を築く。(天智6年)
668 新羅・唐連合軍により高句麗滅亡。
671 唐、郭務宗ら二千余人を遣す。(天智10年)
676 唐を排除し、新羅が朝鮮半島を統一。
倭国から日本国へ
670年に唐が高句麗を平定したことを祝賀する使節を倭国が派遣しましたが、ここで倭国は白村江戦闘の責任を追及されたようです。そのため倭国は、国号を日本国と改めたようです。
大宝2年(702)、文武天皇の時代になって、「日本」は30数年ぶりに遣唐使を派遣しました。旧唐書日本伝には「日本」について、次のように書いてあります。
「日本国は倭国の別種である。その国が日の出るところに近いので、日本と名乗っている。ある人は、倭国はその名が優雅でないのを嫌って日本と改めたと言う。またある人は、日本はもと小国であったが倭国の地を併せたのだとも言う。日本の人は自尊心が強く事実を答えない。ゆえに中国ではこれらの答えを疑っている。」
なにはともあれ、日本は大宝律令を制定し、本格的な都である平城京を築き、唐とも交流しながら発展して行きます。
665 唐使劉徳高、来朝。劉徳高を送って遣唐使を派遣。(天智4年)
667 近江大津宮に遷都。(天智6年)
669 河内直鯨らを唐に遣わす。(天智8年)
670 倭国、唐へ祝賀使節派遣。(唐書)
670 倭国、更めて日本と号す。(新羅本紀)
671 唐、郭務宗ら二千余人を遣す。(天智10年)
672 壬申の乱。大海人皇子(天武天皇)が勝利。
689 飛鳥浄御原令を制定。(持統3年)
694 藤原京に遷都。(持統8年)
698 日本国使、至る。(新羅本紀)
701 大宝律令を制定。(大宝元年)
702 遣唐使。日本を名乗る。(旧唐書)
703 日本国使、204人至る。(新羅本紀)
710 平城京に遷都。
717 遣唐使。
733 遣唐使。
なお、この頃に至っても日本と新羅との関係は相変わらずで、良好ではなかったようです。
731 日本国の兵船300艘、渡海して東辺を襲う。(新羅本紀)
742 日本国使、至るも入国させず。(新羅本紀)
753 日本国使、至るも無礼なため王は会見せず帰国させる。(新羅本紀)