そこで12月11日、彼はオコナー将軍に、第4インド師団をエジプトに戻し、西への進撃は、第7機甲師団と少数の部隊を率いて続行することを指令した。
 少数の部隊とは、バルジア攻撃までに間に合わせる、と約束した第6オーストラリア師団であった。

 バルジアは、第6オーストラリア師団を中核にした寄せ集めで攻略しなければならなかった。
 しかし、第6オーストラリア師団は、1月にならなければ完全には到着しなかった。

 トブルク要塞に立て龍もって、ロンメルの第一次攻撃をほぼ完全に撃退し、ドイツ軍に甚大な損害(戦死・負傷・行方不明者併せて1200人以上)を与えたのは、レスリー・モースヘッド少将に率いられた、オーストラリア第9師団だった。
 オーストラリア第9師団は、1940年に本国で編成された後、1941年3月に遠く離れた北アフリカヘと配備された部隊で、実戦経験が一度もないまま、ロンメルの最初の攻勢を迎え撃つこととなった。
 だが、乾燥した砂漠の多いオーストラリアは、気候が北アフリカと似通っているため、ドイツ軍・イタリア軍・イギリス軍などの、ヨーロッパで生まれ育った兵士から成る部隊よりも早く、この環境に適応することに成功していた。
 彼らは、トブルクヘの退却の過程で多少の損害を被っていたが、将兵の士気は高く、要塞守備隊の指揮系統も効果的に機能していた。
 そして、ドイツ空軍の熾烈な爆撃(4月から6月にかけての3か月間に計1000回以上)にもかかわらず、トブルクの港湾機能はいまだ高い能力を保っておリ、エジプトからは着々と弾薬や食糧などの補給物資が船で搬入されていた。

【西方電撃戦P126】
 さいわいにも第4インド師団のかわりに送られた部隊は、勇猛な第6オーストラリア師団であった。
 バルディア攻撃は、年があらたまった1941年1月3日に開始された。
 (中略)
 そこに第6オーストラリア師団が襲い掛かったのだ。
 先鋒となったのは第16、17旅団の兵で、「アンザック」と呼ばれる彼らは、第7戦車連隊の22両のマチルダを先頭に立てて、ライオンのような雄叫びを上げながら、イタリア軍陣地に飛び込んだ。
 革のジャケットを着て、銃剣を振りかざしたオーストラリア兵は、イタリア兵を脅えさせた。
 こんなエピソードがある。
 捕虜となったイタリア兵が、アンザックたちの革のベストをしきりに触りにきたという。
 彼らはそれを防弾ベストのたぐいだと思ったのだ。
 イタリア兵からすれば、防弾ベストを着ていなければ、彼らのような気違いじみた突撃などできるはずがないのだ。
 もちろん、革のベストにそんな機能がなかったのはいうまでもない。

【西方電撃戦P127】
 そのなかには、第16オーストラリア旅団のカンガルーのマークがホワイトでペイントされたイタリア戦車もまじっていた。
 意外なことに、あれほど評判の悪いイタリア戦車も、彼らからの不満は聞かれない。
 実際、当時のイギリス軍の主力戦車とくらべてみても、その性能にはそれほどの遜色はなかった。

【西方電撃戦P129】
 例によって、第6オーストラリア師団が攻撃を受けもつ。

【西方電撃戦P130】
 オコンネルは、第7機甲師団に地図もない内陸部の荒れ地を突破させてイタリア軍の前に先まわりさせるいっぽう、第19オーストラリア旅団を海岸道路から前進させることにした。
 彼らはバルス、ベンガジとイタリア軍を追いたて、この攻撃が主攻と思い込ませるようにするのだ。

【西方電撃戦P132】
 いっぽう海岸沿いのデルナには、第19オーストラリア旅団が前進していた。
 30日にデルナを占領した旅団は、2月5日にはバルスへ達した。
 そはて、停止することなく前進をつづけ、6日にはベンガジを占領した。
 彼らに追われてイタリア軍は、争って海岸道路に殺到した。

【西方電撃戦P146】
 前線部隊もこれまでの部隊と交替し、やはり経験のない第2戦車師団と第9オーストラリア師団が配属されていた。
 これらの部隊は、精鋭部隊がギリシャに引き抜かれたあとの残り物にすぎなかった。

【西方電撃戦P147】
 前線にあったのは第2戦車師団の一部だけで、オーストラリア師団はベンガジ、その他の部隊はトブルクにいたのだ。

【西方電撃戦P148】
 トブルク要塞にはドイツ軍に圧迫されて、ぞくぞくと敗残のイギリス軍が集結しつつあった。
 第9オーストラリア師団、第7オーストラリア師団の1コ旅団、イギリス戦車部隊の一部、第1王立戦車連隊の1コ中隊(A9、A13巡航戦車11両とヴィカースMkWb軽戦車16両)、第3軽騎兵連隊の一部との混成部隊(巡航戦車12両、軽戦車若干)、第7王立戦車連隊(マチルダU18両)などである。
 第9オーストラリア師団の司令官はモーシード将軍で、要塞の防衛作戦の指揮をとった。
 (中略)
 しかし、トーチカと塹壕は十分に堅固で、オーストラリア兵は、これを修復して使った。

【西方電撃戦P150】
 トブルク南方16キロで第20オーストラリア砲兵旅団は激しい砲火を浴びせてきた。
 彼らの観測態勢は良好だった。

ゲマスの戦闘
車第一連隊・歩兵第四一達隊第三大隊・野砲兵第五連隊の一個中隊など人員約二〇〇〇人、戦車約四五両)、花輪部隊(歩兵第四二連隊第二大隊が中心、指揮官・花輪逸市中佐、人員約九五七人)、河村部隊(第九旅団長河村参郎少将が指揮する歩兵第コ連隊第二大隊・歩兵第四一連隊〈第三大隊欠〉・捜索第五連隊〈戦車隊〉。人員三六〇〇人、戦車一八両)。
日本軍の戦果・作戦地域の占鎖とオーストラリア軍の駆逐。
日本軍の損害・戦死七〇人・戦傷五七人(向田部隊の橋通過時における爆破による損害)、ほかは不詳。
イギリス軍の主要参加部隊・オーストラリア軍第八師団。
 クアラルンプールから南東約250キロにあるのがゲマスで、そこから南へ20〜30キロにわたってイギリス軍は強固な陣地を築いていた。
 そこを破られるとすぐジョホール州となり、ジョホール水道を隔ててシンガポールがある。
 クアラルンプールを制した第五師団は息をつく間もなくこの堅陣に突入したが、新鋭のオーストラリア軍第八師団長ゴードン・ペネット少将による巧妙な作戦で日本軍はかなり振りまわされた。
 第五師団は向田支隊と花輪部隊だけで片づくと考えていたが、結局は河村部隊を進出させてようやくオーストラリア軍を撤退させ、占領した。

 708◎ニューギニア決戦記 越智春海 【P66〜67】

 848◎ラバウル艦爆隊始末記 松浪 清 【P91〜92】【P94〜95】

 1945年7月1日にボルネオのバリクパパンに上陸したオーストラリア第7歩兵師団の支援は、同第1機甲大隊のA、B中隊に託されていた。

軽巡洋艦アデレード
就役1922年8月1日

重巡洋艦オーストラリア
就役1928年4月24日

重巡洋艦キャンベラ
就役1928年7月9日
1942年8月8日、第1次ソロモン海戦で大破、翌9日、味方駆逐艦の砲雷撃により処分

軽巡洋艦シドニー(2代)
就役1935年9月24日
1941年11月19日、ドイツ特設巡洋艦コルモランとの戦闘により沈没

軽巡洋艦ホバート
就役1936年1月13日
1943年7月20日、伊11の雷撃により損傷し、その修理に1945年はじめまで要する。

軽巡洋艦パース
就役1936年6月15日
1942年3月1日、バタビア沖海戦で沈没

重巡洋艦シュロップシャー
就役1929年9月12日、キャンベラの代わりとして1943年4月20日にオーストラリア海軍で就役

駆逐艦「ヴァンパイア」
竣工1917年9月22日
1942年4月9日、セイロン島沖で日本軍艦上機の爆撃により沈没

駆逐艦「ベンデッタ」

駆逐艦「アイシス」

 848◎第2次大戦のイギリス軍艦