フリーダム・ライターズ
Freedom Writers



ウイキペディアより

1994年、カリフォルニア・ロサンゼルス郊外の公立高校に赴任した新人国語教師・エリン・グルーウェルは、荒れ放題のクラスを受け持つことになる。人種ごとにいがみ合い、授業を受ける気など更々ない生徒たちを相手に、エリンは授業の進め方に苦心する。人種差別の愚かさを生徒たちに教えようと、エリンは『アンネの日記』を読むことを勧め、毎日何でもいいから日記を書くように、と1冊ずつノートを配る。最初は罵り言葉ばかりしか書いていなかった生徒たちは次第に本音を綴るようになる。エリンは日記を通して、生徒たちと向き合うようになり、生徒たちも次第にエリンに心を開いていき、悲観的だった将来を改めていく。
生徒たちが書いた日記は、一部ずつを集め1冊の本として出版され、ベストセラーとなった。
その後、グルーウェルと生徒らによりNPO団体「フリーダム・ライターズ基金」が設立された。
2007年、ヒラリー・スワンクが製作総指揮・主演を務め映画化した。
2008年7月3日、フジテレビ系『奇跡体験!アンビリバボー』で取り上げられた。

公開 2007年1月5日
2007年7月21日
上映時間 123分
製作国 アメリカ合衆国
言語 英語

キャッチコピーは「昨日までの涙が、インクになる。それは、一人の新米教師と、一冊のノートが起こした奇跡の実話。」

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様々な人種が通うウィルソン高校203教室に、新任の国語教師エリンが赴任した。初登校日、教壇に立ったエリンを完全に無視し、喧嘩を始める生徒たち。これまで、家の中でも外でも危険に晒されて生きて来た生徒たちに、真珠のネックレスをした白人の教師は敵でしかなかった。エリンは、自分の小遣いで生徒全員にノートを買い与え、自分のことを書くように伝える。書く事を覚えた生徒たちは、エリンに少しずつ心を開いていく…。

『ボーイズ・ドント・クライ』、『ミリオンダラー・ベイビー』で二度のアカデミー主演女優賞に輝いたヒラリー・スワンクが初めて製作総指揮を執ったのは、LAに実在する高校を舞台とした感動の実話。新任教師、エリン・グルーェルは理想に燃えて教壇に立つが、想像を超えた生徒たちの現実を目にし、勉強以前の問題があると確信。学校側の理解が得られないと判ると、授業後、生徒のためにアルバイトをし、ポケットマネーで彼らが共感できる題材の本を買い与えた。ホロコーストさえ知らない子供たちを、自分の車で博物館に連れて行き、広い世界を見せたのである。日本でも学級崩壊などが問題視されているが、教育の本質を見せてくれる作品である。

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実話だと言うこと以外、予備知識のないまま見に行きました。
新米教師のエリン(ヒラリー・スワンク)が教師達に見捨てられた生徒に正面から向き合って希望を与え、夢を持つこと、生きることを教えて心を開いていきます。
派手な演出があるわけでなく、とても自然に2時間という時間の中で2年の月日と生徒達の変化を描いています。
笑えるシーンも涙するシーンもあります。
でもそれより感動します。
犯罪、貧困、人種差別・・・
面白いという作品ではありません。
とっても良い作品です!!
203教室に集まる人種を越えた家族、仲間
「変わる」と言うことの難しさと大切さ、勇気!
ヒラリー・スワンクが静かに、そして強く、信念を持った教師を演じています。
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一新米教員でしかなかったエリンが提示した一冊の無地本によって、世間からも学校からも見放されていた生徒達が、それぞれが誰にも言えず小さな胸に抱えて押し潰されそうになっていた想いを綴り、彼らの想いをエリンが受け止める事で両者の間に次第に心の絆が生まれていく様子を、二時間という上映時間の長さを忘れる程にダレる事無く見入らせて見事に描き切ると共に、アカデミー賞を受賞したエリン演じるヒラリー・スワンクの真に迫った演技が物語に説得力を持たせているのも然る事ながら、学生達が学ぶ事の素晴らしさに、夢や希望…未来に向けて次第に瞳を輝かせていく様子には素直に感動を覚えたし、ホロコーストや「アンネの日記」といった史実を用いて、常に死と隣り合わせで生活しているが故に死への憧れを抱いてしまう学生達に生を尊び全うする事の大切さを伝える演出(というか実話?)は、心に訴えかけられるものがあり、改めて"生"について考えさせらたし、今作に描かれている人種差別に格差社会…そして、異種間で生まれる救いようの無い争いなどの凄惨な状況が実話であったという事に強い衝撃を受けると共に、例えどんな苦境に立たされていても、キッカケさえあれば人は誰しも"変化"する事が出来るという事を真っ向から描いた強いメッセージ性に感銘を受けて、気付けば涙が溢れ出て止まりませんでした…。それから、今作が良いと思えたもう一つの理由としては、エリンや学生達の"変化"に異を唱える夫スコットにキャンベル教科主任などといった人々が物語にメリハリを付ける上でも一種の悪役的存在として描かれているのだけど、彼等もまた根っからの悪では無く、"変化"する事が出来ずにいた人々の姿だという所です。変化する事が幸せだと一概には言えないけれど、学生達がエリンに見出されたようにキッカケを与える存在や出来事があったなら、どのように変わる事が出来たのか知り得てみたいと思いましたね。あと、演出なのか実話に基づいて描かれたのか定かではないけれど、どちらにしても上手いな…と思わされたのは、"ライン・ゲーム"ですね!人種の違いによって互いに垣根を作っていた学生達に、皆それぞれ同じような体験をして悲しみ苦しみを味わっていたのだと互いに意識させて気持ちの共通項を作った事、そして、顔を向き合わせた状況を作る事で"身内"以外の他人の存在を敵対という意識以外で認識させて心をも向き合わせようとする事で、皆が次第に打ち解けていく以後の様子が実に自然に描けるようになっていて良かったです。
新米教師エリンを演じたヒラリー・スワンクは、偉大な父を見て培われた理想と、目を覆っても隠し切れない荒廃した現実のギャップに戸惑いつつも、自らの確固とした理念を持って、学生達と向き合い、心を通い合わせていく様子を、最初は掲げていた理想を打ち砕かれて自信無さげで弱々しい存在として心も身体も小さく見せていたかと思うと、学生達との交流と共に自信を付けていき、心の強さと共に存在感自体も心なしか大きくなり、人好きのする朗らかな笑顔や、決意に満ちた力強い眼差しといったやり過ぎない程度の自然な演技で好演し、"教師エリン"という役柄を実に見事に表現していました!次に、エリンの教育理念に反発意識を燃やすキャンベル教科主任を演じたイメルダ・スタウントンは、上官としての厳しさと権威を遺憾なく振るわせた昔気質の役柄を、厳しくも嫌味の残る口調と、小柄な体型を忘れさせる程の威圧的で攻撃的な態度でエリンに敵対意識を燃やしている様子を熱演していました!それから、エリンの夫スコットを演じたパトリック・デンプシーは、エリンを応援したい気持ちと、夢を諦めて無難な道を進んでいる自分への苛立たしさの間でせめぎ合い、苦しんでいく複雑な心境の役柄を、言葉の端々で心情の変化を上手く言い表して、追い詰められていく様子を好演していました。最後に、203教室の学生達を演じた面々は、作品同様に飾り気はないけれど、直球勝負の勢い溢れる演技で、心に溜め込んだ想いを秘め、恐怖に彩られた日々の暮らしに耐え忍び、小さく包まっていたけれど、エリンの存在によって次第に気持ちを開花させていく様子を実にイキイキと好演して、作品にリアリティーを与えていて良かったです!

yahoo映画

ロス暴動後のLAはおそらくもっとひどかったと思うが、そこは映画として掘り下げる必要はないのかもしれない。掘り下げれば違う映画になったと思う。
家族も犠牲にして夢へまい進する教師を、ヒラリー・スワンクがうまく演じている。
もともと暮らしに余裕があるからこそ、誰に媚をうるでもなく、教職にしがみつくわけでもなく、夢を追うことができたのだと思う。

同じLAを舞台にした人種のぶつかり合いを描いた映画に『クラッシュ』がある。
こちらもアメリカの現状を映し出していて、考えることを促される。

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スラムの劣悪な家庭環境で暮らす生徒たちの前に現れた1人の教師。 彼女は、生徒たちが最も必要としているものを与えた。それは“自分の声で語ること”。暴力と人種間抗争に引き裂かれる高校の生徒たちも、互いを理解し始め、自らの力で人生を変えることを学んでいく…。

あらすじはこんな感じです。

人は恐ろしい生き物だと思うときがある。そう、相手が他人だと思えば、人はどこまでも残酷になれる。人には、心があるからこそ、恐ろしい生き物なのかもしれない。

黒人は他人だと思えば、簡単に殴りかかれる。ラテン系は下劣だと思えば、簡単に銃で撃ってしまう。どうでもいい奴と思ってしまえば、人は本当に、同じ人間を虫けらのように扱ってしまう。

その行き着く先が、ホロコースト。人は、流れている血が違うからといって、他人を万単位で殺すことができる。人は恐ろしい生き物だ。事実がそれを証明している。

それでいいのか?その問いかけに、子どもたちは気づく。そんなのはおかしいと。何かがおかしい、何かが間違っていると。

ホロコーストを生き延びた人々の物語を聞けば、誰だって、胸に広がる深い感情に思い当たるはず。それが、人の心の奥深くに眠る良心。誰にだって、他人に手を差しのべたい気持ちである。誰にでも良心がある。もちろん、他人だって良心がある。そう思えて、初めて人と人とが繋がっていけるのだと思う。分かりあえるのだと思う。

誰もがそのことに気づけば、人は良心に目覚め、対立がなくなるのか?武器を捨てて、和解の道を選んでいくのだろうか?


これは、心を持つ人の運命なのかもしれない。残酷な行為の先に何があるのか、頭の中では解っているのに。自分たちの残虐な振る舞いを、止めることができない。

きっと問題は、知識でもなく、理解でもない。熱意を持った誰かが、相手を見つめることにある。他人を受け入れなさいと、自分との違いを受け入れないと、最後には背中を押す存在が必要なのだろう。


一人ひとりの熱意が存在が、たったひとつの居場所が、心を開くことの大切さを、そして、心を繋げることの大切さを教えてくれる。それこそが、人間関係の第一歩なのだから・・・・。
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『18歳になりたい』

 これは「早く大人になりたい」という意味ではなく、「無事に生きて、なんとか18歳になりたい」という意味です。ほとんどの方(あえて日本に限定します)は、18歳の誕生日を迎えることや、年を取り老後について考えることを当たり前のように感じていると思います。むしろ年を取りたくないと思う方も少なからずいるかもしれません。

 しかし、作中の彼らはそれとはまったく異なります。明日の光を見るどころか、1日を無事に過ごすことさえも危ういのです。
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先進国の現実採点:

これが先進国と呼ばれる国のほんの十何年前の現実とはとても思えない、衝撃的な内容だった。

クラスの大半が銃で狙われたことがあり、クラスの大半が私闘で友達を失っている。
人種同士の結託だけが、唯一の憩いであり、しがらみでもある。
そこにあるのは貧困と努力しても変えられない民族の壁があるのみだった。

差別を廃止した結果、優等生が来られなくなった学校。
しかし、全ての子供たちが教育を受けられるようになったのだ。
この喜びが分からない白人たち。

一番好きなシーンは、アンネの日記を読み終えた生徒たちに、感想文の代わりにアンネをかくまった方へ手紙を出そうという提案をするところ。
この提案ってすごく好き。
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女教師は生徒のために自らを犠牲にし、
夜中には仕事をはじめ、教材費・ノートなども自費で買う。
すべて生徒のために。
それにより結婚生活も不安定になりついには離婚。
しかし彼女は生徒を救うことをあきらめなかった。
その忠誠心というか真剣に生徒と向きあう姿には驚くほど。
ここまでやる教師がいるのだろうか。。。

それと生徒たちの生きる環境には衝撃を受けた。
人種差別による殺人、事件、いじめ
しかもそれがすべてリアルなのだからおそろしい。
昔みたドキュメンタリー映画「RIZE」を思い出しました。

いつ死ぬかわからない状況の中
そして自分のもつ肌の色で差別をうけたことのない私には
共感の持てる話ではないけど
心を突き動かされました。

イカ

ウイキペディアより

神経系や筋肉がよく発達していて、たいていの種類は夜に行動する。 漏斗からの噴水と外套膜の収縮、鰭を使って前後に自在に泳ぐ。

10本の腕は筋肉質でしなやかに伸縮し、腕の内側にはキチン質の吸盤が並んでいる。 吸盤にスパイクのような鋭いトゲが並ぶ種類もおり、これは獲物を逃さないための適応と考えられる。 実際の腕は8本で、残りの腕2本は吸盤が先端に集中する「触腕(しょくわん)」とよばれる構造である。 この触腕を伸縮させて魚類や甲殻類を捕食するが、釣りの時に触腕を欠いて逃げることや、テカギイカの仲間では成長に伴い触腕を欠くことから、必ずしも必要というわけではないようである。 コウイカ目では触腕は第3腕と第4腕との間にある「ポケット」に収めることが出来、普段は8本脚に見える。 ツツイカ目では長さを縮めることは出来るが完全に収めることが出来ない。

皮膚には色素細胞がたくさん並んでおり、精神状態や周囲の環境によって体色を自在に変化させる。 調理に際して、両目の間にある神経系の基部を刺して〆ると、ただちに体色が白濁する。

イカは本来の心臓の他に、2つの鰓(えら)心臓を持っている。鰓心臓は鰓(えら)に血液を急送する働きを担っている。 イカの血は銅タンパク質であるヘモシアニンを含むために青色である(ほとんどの脊椎動物血液中に含まれる鉄タンパク質のヘモグロビンは赤色)。

イカは浮力を得る為に、比重の重い液体を体液に含むことで、海水と同じ比重の体になる。特にダイオウイカなど一部の深海凄のイカの仲間には、浮力を得るために、塩化アンモニウムを体内に保有している場合がある。特定のイカにある”えぐみ”はこのためであるが、特にダイオウイカなどは辛臭くて食えたものではないという感想もある。

体の大きさに対しての眼球の割合が大きいことから、行動の多くは視覚による情報に頼っていると思われる。嗅覚や味覚に関する研究はほとんどない。


生態 [編集]
全世界の浅い海から深海まで、あらゆる海に分布する。淡水域に生息する種類は存在しない。体長は2cm程度から20mに達するものまで、種類によって差がある。

天敵はカツオやマグロなどの大型魚類、カモメやアホウドリなどの鳥類、アザラシ、ハクジラ類のイルカやマッコウクジラなどの海生哺乳類である。敵から逃げるときは頭と胴の間から海水を吸い込み「ろうと」から一気に吹きだすことで高速移動する。さらに体内の「墨汁のう」からスミを吐き出して敵の目をくらませる。タコのスミは外敵の視界をさえぎることを目的とし、一気に広がるのに対し、イカのスミは一旦紡錘形にまとまってから大きく広がる。紡錘形にまとまるのは自分の体と似た形のものを出し、敵がそちらに気を取られているうちに逃げるためと考えられている。


科学との関わり [編集]
液晶 - 初期はイカの内臓の一部から作られていた。現在日本で用いられているものはほとんど化学的に合成されたものである。
神経細胞 - 巨大軸策と呼ばれる普通の生物に比べて極端に太く扱いやすい神経があり、これを利用して神経細胞や神経線維の仕組みや薬理作用の解明が進んだ。なおこの実験で用いられたのはヤリイカであった。ヤリイカはコンラッド・ローレンツに「人工飼育が不可能な唯一の動物」とさえ呼ばれるほど飼育が難しい生物であったが、松本元がその飼育に成功した。ローレンツは実際に水槽で生きたヤリイカを見るまで、そのことが信じられなかったという。
平衡石 - 平衡石という平衡感覚をつかさどる組織を持つ。平衡石には特定の周期で樹木の年輪と同じ様な環状の模様が形成される。
インク - イカスミがインクとして使用されていた。セピアという言葉の語源で、いわゆるセピア色のインク。(参照:色名一覧 (せ))

食材 [編集]
食用になる種類が多く、軟骨とクチバシ以外ほぼ全身が使われる。刺身、焼き、揚げ、煮物、塩辛、干物など実に多彩である。酒の肴としても好まれる。イカの丸焼きは、お祭りの屋台の定番となっているほか、イカソーメン・イカめしなどが収穫量の多い地域の特産品となっている。 日本で最も多く消費される魚介類であり、その消費量は世界の年間漁獲量のほぼ2分の1(2004年現在・約68万トン)とも言われている。

栄養的には、ビタミンE、タウリンが多いほか、亜鉛・DHA・EPAも豊富である。

イカは消化しにくく、胃もたれの原因と思われがちだが、消化率は魚類と大差ない。

信州では、古くから保存食として用いられていた塩いか又は塩丸いか(茹でたイカの腹に、ゲソと共に粗塩を詰めたもの)が、現在でも食べられている。

ユダヤ教では鱗がない海生動物はカシュルートでないためイカを食べることは禁じられている。その他の欧米諸国でもタコと同様不吉な生き物とされ、イカを食べないことは多いが、ギリシアなど正教徒が多い東地中海地方では、斎のためイカ料理がよく食される。

食用にする際には10本の腕全てを下足(げそ)と呼ぶ。


主な料理法 [編集]

屋台に並ぶイカの下足焼きと丸焼き刺身(イカ刺し、イカソーメン)
寿司
イカ徳利
煮物
天ぷら
ゲソ(下足)
イカリング
イカの丸焼き
イカ焼き(青森県ではポンポン焼きという郷土料理もある)
焼きイカ
イカ飯
スルメ(「する」(ギャンブルで負ける)につながるので嫌われ、「当たり目」とも呼び換えられる)
丸干し
塩いか
塩辛
沖漬け
イカのとんび(口)
イカキムチ
イカ墨汁(シロカ汁)
乾物の燻製(イカくん等)
イカゴロ(内臓)のルイベ
イカメンチ

イカスミ [編集]
主に地中海地方でイカのスミを調理に使う。パスタのソースに使ったイカスミスパゲッティや、パエリアに混ぜるなどして使われる。日本では、「黒作り」(墨入りの塩辛)を除いては沖縄以外では使われていなかった食材だが、イタリア料理・スペイン料理の影響から、和食、洋食に使われるようになった。イカのスミはタコのそれと比べて高い粘性と、アミノ酸を多く含む点が料理に適する。

中世のヴェネツィアではペスト(黒死病)に対する薬効があるとされ、好んで食べられた。

なお、イカスミを摂取した後は便が黒くタール状になり、また便潜血検査も陽性になるため消化管出血と間違われ易い。便の検査を受けるまえの数日間の摂取で、検査結果が誤って出る恐れがある。


セピア色 [編集]
イカスミやタコのスミから作られた黒茶色の絵具のことをセピアといい、その色のことをセピア色という。セピアという語は、ギリシア語で甲イカの意味である。


漁業・水産 [編集]
漁法としては、イカ釣り舟によるものがあり、集魚灯によりイカをおびきよせる。シーズンは秋頃である。[1]


日本の陸揚げ漁港 [編集]
2002年度
第1位 - 八戸漁港(青森県)
第2位 - 石巻漁港(宮城県)
第3位 - 羅臼漁港(北海道)
第4位 - 境漁港(鳥取県)
第5位 - 函館漁港(北海道)



真夜中のカーボーイ





ウィキペディア
Mightnight Cowboy
監督 ジョン・シュレシンジャー
製作 ジェローム・ヘルマン
脚本 原作:ジェームズ・レオ・ハーリヒー
脚色:ウォルド・ソルト
出演者
ジョン・ヴォイト
ダスティン・ホフマン
音楽 ジョン・バリー
主題歌 ニルソン
撮影 アダム・ホレンダー
編集 ヒュー・A・ロバートソン
配給 ユナイテッド・アーティスツ
公開 1969年5月25日
1969年10月18日
上映時間 113分
製作国 アメリカ合衆国
言語 英語・イタリア語
制作費 360万ドル
興行収入 4470万ドル

『真夜中のカーボーイ』(まよなかのカーボーイ、Midnight Cowboy)は、1969年公開のアメリカ映画。配給会社はユナイテッド・アーティスツで、監督はジョン・シュレシンジャー。ジェームズ・レオ・ハーリヒーの同名小説をウォルド・ソルトが脚色。主演はジョン・ヴォイト、ダスティン・ホフマン。第42回アカデミー賞 作品賞受賞作品。また、1994年に米国連邦議会図書館がアメリカ国立フィルム登録簿に新規登録した作品の中の1つである。



大都会の孤独に流される二人の男の生き様を描いたアメリカン・ニューシネマの代表作。1969年に制定された映画のレイティングシステムで「成人映画」に該当しながらアカデミー賞を受賞した唯一の作品である(受賞後に成人指定は解除された)。

本作品の邦題は本来ならば 『真夜中のカウボーイ』 であるが、当時日本ユナイト映画の宣伝部長であった水野晴郎が「都会的な雰囲気を演出したかった(Car=自動車=都会の象徴)」ことを理由に「カーボーイ」としたものがそのまま邦題となった。しかし、当時の字幕では何故か「カウボーイ」となっている。

アカデミー賞こそ逃したものの、前作『卒業』での優等生役とは一転、ホームレス役を演じたダスティン・ホフマンの演技が称賛された。


ストーリー
男性的魅力で富と名声を手に入れようと、テキサスからニューヨークに出てきた青年・ジョー(ジョン・ヴォイト)。カウボーイスタイルに身を固めた彼は女を引っ掛けて金を要求するが、逆に金をふんだくられる。女こそ名うての娼婦だったのである。ジョーはスラム街に住むラッツォ(ダスティン・ホフマン)というびっこの小男に出会い、売春の斡旋人を世話してくれるという約束で10ドルを手渡すが、斡旋人は男色を専門としていた。騙されたと知ったジョーは、ラッツォを捕まえて問い詰めるのだが、既にラッツォの手には金がない。その代わり、罪滅ぼしにラッツォは、カモ探しに協力する。二人はラッツォのねぐらである廃墟のビルで共同生活を始める。ジョーとラッツォの間に芽生える奇妙な友情。しかし、ラッツォの身は病魔に冒されていた。冬のニューヨークで暖房もない貧苦の生活。ひょんな切っ掛けからジョーのジゴロ稼業がうまくいきそうになるが、ラッツォの病状が悪化する。ジョーはゲイの紳士から金を強奪し、ラッツォを連れてラッツォの憧れの地フロリダ行きのバスに乗る。マイアミを間近にしたバスの中で、既に身体の自由の利かなくなっていたラッツォは小便を漏らしてしまう。ジョーは汚れた衣服とともにカウボーイの装束一式をゴミ箱にぶち込み、二人ともフロリダの明るい服装に着替えたのだが…。


http://www1.mahoroba.ne.jp/~escargot/topos/etc/movie/movie.htmls/cowboy.html

1969年。主人公のジョー(ジョン・ボイト)はテキサスで暮らす背の高い若者です。本物のカウボーイに憧れるお調子者で、カウボーイブーツにカウボーイハット、飾りのついた革のジャケットをいつも着こなしてカウボーイを気取っています。彼は大都会ニューヨークできらびやかな暮らしを送ることを夢見ていて、ある日とつぜん食堂の皿洗いの職をすっぱりとやめ、白黒まだらの牛の毛皮を張った派手なトランクに荷物をつめて生まれ育った故郷に別れを告げ、長距離バスに乗ってニューヨークへやってきます。

 ジョーの計画というのはホストというかジゴロというか、早い話が男娼として、体つきもがっちりしているしカウボーイの魂に燃えている強い自分を、マッチョな強い男が好きな(のだと彼は思っている)ニューヨークの金持ち女性に金で買わせようという魂胆。都会には強い男をもとめている寂しい女がたくさんいるだろうともくろんで、まさに「一旗あげてやる」という意気込みで身支度ひとつやってきたお上りさんです。もちろんそんなアホな計画が成功する訳が無く、道行く女性に気軽に声をかけて「恥を知りなさい」と説教されたり、初めて取った客は彼を自分を求めて言い寄ったと勘違いしてセックスの後、逆に金を要求する始末。

 やっと都会に対するおかしな幻想がくずれたジョーを待っていたのは、何も知らない街にたった独りぼっちなのだという孤独でした。見知った人の多い住み慣れた田舎町とは違って、知らない人間だらけが溢れかえる都会で行くあてもない。持ってきた金も徐々に少なくなってゆき所在なくバーで時間を潰していたジョーに、ラッツォ(ダスティン・ホフマン)と呼ばれる白いスーツを着た羽振りのよさそうなチンピラが声をかけます。
 片足を引きずって歩き、陽気によくしゃべる男。テキサスを出てから初めて親身になって自分の話を聞いてくれたこのラッツォと知りあいになれたことでジョーは再び自信を持ち、そんな仕事をするのならぴったりの人物を紹介してやると言い出したラッツォを信じ、彼の後をのこのことついて行きます。しかしこんどは宗教狂いの変人オヤジの所へ連れていかれた上に持ち金のほとんどをラッツォにだまし取られてしまいます。

 ジョーは絶望的な気分で町をさまよい、その夜、右も左も分からない大都会で人生観をねじ曲げられるような変な体験をします。眠れぬまま次の朝を迎えたジョーは、あてもなく歩いていて街角のレストランのカウンターで昨日とはまったく違ったみすぼらしい格好をしているラッツォと偶然再会、彼が実はただのチンピラでホームレスに近いひどい生活をしていることを知ります。ラッツォは詰め寄るジョーをなだめ、廃虚になって立ち退き命令の出ているアパートの一室(彼の隠れ家)にジョーを招きます。
 色々なものを失ったジョーでしたが、何故か憎めないラッツォの風体にこころをほだされ、ここからジョーとラッツォの共同生活が始まります。

 ラッツォが口にした「光あふれる楽園マイアミに行きたい」という夢をかなえるために、ジョーとラッツォは共同でジョーを一人前の男娼に仕立てるためのあれやこれやを画策、行き当たりばったりの犯罪に手を染めながらもどん底の生活を抜け出そうとします。彼らの間にはいつのまにか強い友情が芽生え、やっとジョーに仕事らしい仕事が舞い込んで来るのですが、もともと体の弱いラッツォの肺の調子はどんどん悪化してゆきます。



 すみません、自分で書いたストーリー解説読んでて「こりゃつまらんわ」と思っちゃいました。でもその通りの映画なのでご勘弁下さい。まだ見ていない方は見ていただければ分かります。これ、いい映画ですから。

 いや、何と言ってもまず、男と男の友情が描かれるという所でパンチ一発。
 映画の冒頭からすぐ分かるキャラクターの設定なのですが、主人公の「カウボーイ」ジョーは何か勘違いしている田舎者という感じ。「こんなちんけな田舎なんか出て、都会にさえ行けばなんとかなるぜ!」と思っている単純明快な性格で、こずるいしたたかさも生活力もまったくありません。気は良いけれど人を疑えないおめでたい男として登場します。「カウボーイこそ男の中の男!」という信念を持っている時点ですでにして時代からズレまくっているのですが、おかしな格好を笑われてもそれに気が付かないくらいのお人よしです。(これを童顔で肌がツルツルしたジョン・ボイトにやらせた所がうまい)
 一方、そのジョーと少し話しただけで「こいつはいいカモだ」と見抜くラッツォは舌先三寸で都会の裏街道を歩く詐欺師です。抜け目なくチャンスを探し、人を騙し、店先から物を盗み、誰も信用せず誰からも信用されないチンピラ。薄汚い風体や人を寄せ付けようとしない態度から逆にバカにされ本名でなくラッツォ(ネズミ野郎)と呼ばれて疎ましがられるような男です。
 ジョーとラッツォに共通するのは見た目がどうであれ、金も、満足に寝る所も無く、大都会の人込みのなかで誰一人頼る人のいない孤独な人間だということ。ガスと水道がかろうじて使えるホコリだらけのひどいアパートの一室を隠れ家にして、本人達に自覚はないのですが実はお互いを支え合って生活しているその姿が感動的‥‥というより見ていてほほ笑ましい。ジョーもラッツォも、はっきり言って普通の生活をしている人間の目で見ればみじめそのものです。青果店の店頭から果物を盗んだり、血を売ったり、よせばいいのに高級ホストの客を横取りして警察を呼ばれそうになったり。少し頭が働く犯罪者ならもうちょっとマシな金の儲け方を考えるでしょうに、二人にはそれだけの犯罪を思いつく才能もないし、もとから犯罪者に向いていません。どれだけ粋がっていてもジョーはお人よしだし、抜け目なく見えてもラッツォは小物です。
 彼らが持っている夢は本当に単純なもので、ごみごみした狭い廃屋から抜け出し、暖かな太陽が照らすフロリダ州マイアミで遊んで暮らしたいという事だけ。その夢を語るラッツォにしても、彼が長年にわたって夢見続けてきたようなものではなく、広告やコマーシャルの宣伝文句で聞いて「そこは天国のように良い所に違いない」と思い込んでいるだけなのです。(実際のマイアミはかなり恐い所らしい)つまり言ってしまえば、ジョーと比べてけっこうずるく見えるラッツォだって世の中を知っているという訳ではない。社会に入り込んで上手に世の中を渡る事のできない、不器用極まりない人間なのです。

 思うように行かず不安や孤独にさいなまれるジョーを演じるジョン・ボイトの不安そうな顔。一生懸命悪ぶって強がってはいても、その実必死で生きているラッツォを演じるダスティン・ホフマンのきょろきょろとよく動く瞳。この二人、最初は奇妙な取りあわせに見えるのですが、話が進むにつれだんだんと目が離せなくなります。彼ら二人は、難しい話を議論するためでも、仕事上必要で付きあっているわけでもなく、生きていくためにどうしても必要な相手だからいっしょにいるという感じがします。離れればやっていけないという雰囲気がひしひしと伝わって来るのです。二人が画面の中にいっしょにいるだけで、それがどれだけ悲惨な状況であってもなぜか奇妙な安心感を感じる。ジョーにせよラッツォにせよ、どちらも先を読んで損得の計算で動かないというか動けない所が、暮らしはどれだけ薄汚くても(恥ずかしい物言いですが)きれいな所ではないでしょうか? 彼らの持つ夢がより具体的で、二人がより現実的な人間なら、また別の映画になっていたでしょう。
 感情移入してしまうのはお人よしのジョーの方なのですが、ジョーだけでもラッツォだけでも決して成り立たないお話、二人がいるからこそ進む話である所が胸に来るのです。どこかズレている二人の行動や会話にはときどき状況のひどさを忘れて笑ってしまいます。悲惨を悲惨と受け止めない二人の男の能天気さ。それが映画に明るさを与えています。悲惨な生活も、二人でいればまあそれなりに楽しそうに見えるのです。



 最後、二人が具体的にどうなるかは書けませんが、ニューシネマっぽく(?)この映画もかなり哀しい幕のひきかたをします。
 そこで問題。じゃあこの映画には救いがないのか? 見た人それぞれで受け止め方は違うでしょうが、僕は「救いはある」と思っています。いや、救いがなかったら映画として良くないとか、そういう意味ではないのですが「真夜中のカーボーイ」は悲惨で暗いだけの映画ではないと思いたいのです。一人でいるより二人でいられたという事はジョーにとってもラッツォにとっても幸せな事だったんじゃないだろうか。胸が締めつけられるような気持ちになるシーンというのがあってどうしても忘れられないのですが、それもあまりにさりげなく写されては何のヒントもなく過ぎてゆくのがこの映画の名作たる所でしょう。演出は自然で、恐ろしく上手いです。見る人それぞれによって色々なものが見つかったり、また何も感じなかったりするのかも知れません。それは感じる人の自由ですよね。
 ただ、誰も信じず世の中を疑いながら生きるしかない弱い男ラッツォが、ジョーに対して「ありがとう」というシーンだけは見逃さないで欲しいのです。劇中ラッツォは気の良いジョーに対してもほとんど本音を語りませんが、彼は一度だけジョーに対して礼を言います。たった、一度だけです。それだけ見て、僕はこの映画に救いがあると思えます。



 カウボーイ、ジョーにこの映画で一躍有名になったジョン・ボイト。最近ではB級パニック映画の「アナコンダ」の悪役だとか、世界的に有名なテレビゲームの映画化「トゥームレイダー」で実の娘アンジェリーナ・ジョリーの父親役でちらっと出てたりします。はっきり言って近年の作品には大したものがないのが残念ですが、まあ、元気そうだから良いか。

 小男ラッツォ役に、当時は駆け出しでほとんど無名に近かったダスティン・ホフマン。現在はハリウッドを代表する演技派で通っていて数々の名作に主演している彼ですが、「真夜中のカーボーイ」のラッツォを超えるキャラクターというのはちょっと無いのでは。リュック・ベッソンの「ジャンヌ・ダルク」にもチラッと出てましたね。「セールスマンの死」はすごいです。

 監督のジョン・シュレシンジャーというのが面白い人で、「真夜中のカーボーイ」以外マイナー路線一直線のような感じ。変なホラーっぽい映画やら、サスペンスやら撮っています。よく分かりませんがどういう人なんでしょうか。ネットで検索をかけてみて、今日初めてイギリスの人だと知りました。知らなかった。

 ある程度の年齢以上の人なら言わずと分かる主題歌「うわさの男」を歌っているのがハリー・ニルソンという人。洋楽は分からないので説明無し! ですが、耳に残りますね。現在もハリウッドで現役のジョン・バリーのテーマ曲も、よるべない感じがみごとに映画に合っていて忘れられません。
 
 「真夜中のカーボーイ」は男同士の友情というのに弱い人に特にオススメ。ストーリーが単純なぶん気を張って見ないといけない所もないので、ジョーの目になって69年のアメリカ、ニューヨークの奇妙な人々やだらけた空気を(フィクションですけど)感じて楽しむという見方もできる映画です。寝ころんで見ても良いかも。(

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goo映画
ジョー・バック(ジョン・ヴォイト)は、カウボーイのいでたちでテキサスからニューヨークに出て来た。彼は自分の肉体と美貌を武器に、孤独なニューヨークの夫人達を慰めようと考えていた。そして富と栄光を。彼の商売の皮切りはキャス(シルヴィア・マイルズ)であった。だが彼女は街娼上がりのパトロン持ちだったため、逆に金を巻きあげられてしまった。そんな時、彼はびっこのペテン師ラッツオ(ダスティン・ホフマン)と知り合った。彼の紹介でジョーはオダニエル(ジョン・マクギバー)にひき会わされた。彼は狂言者であった。ラッツオにだまされたと知ったジョーは、必死に彼を探し歩いた。しかし、無一文で街の酒場にしけこんでいた彼を見て、ジョーは何も言えなかった。逆に、ホテルを追い出されたジョーに、ラッツオは自分の室へ来るようにすすめた。それはとり壊し寸前のビルの、廃屋のような一室であった。そこでラッツオは彼の夢、フロリダ行きの夢を語るのだった。必死に、泥沼をはい上がろうと2人は力を合わせた。ラッツオがマネージャーとなり、ジョーは再び男娼を始めたがうまくゆかなかった。ジョーを買った最初の客は、ヘンゼル(ガストン・ロッシリ)とグレーテル(ヴィヴァ)のパーティで出会ったシャーリー(ブレンダ・ヴァッカロ)だった。一方、ラッツオの体はその頃から急激に衰弱していた。彼の為にもジョーは金を稼がねばならなかった。男色の学生の相手をしたり商用でニューヨークに来た男のホテルに行ったりして、彼はようやく幾らかの金をもらってラッツオの元へ戻って来た。2人はフロリダに向かった。太陽と新しい生活を求めて。ジョーは、今や屈辱と泥によごれたカウボーイ姿と訣別するのだった。しかし、ラッツオはあれほど憧れたマイアミの浜辺を見ることなく、唯一人の友人ジョーの傍で静かに目を閉じた。
投稿
この映画に出てくる事柄は常識を否定した低俗な話として見せている、そのままじゃ確かに何も残らない、しかし、否定につづく否定の中で一つだけ肯定出きるものがある、それは、西部劇特有の男と男の”友情”であった。

なるほど、タイトルからして、カーボーイは夜は寝ているもんだ、真夜中のカーボーイなんてのは影が薄い、常識的な日常判断で見ていると、その中の非日常を見る目を失って見えないのかもしれない
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あの展開であのラストには何の意味があるって言うの? 「俺ってイケてる」と勘違いしていたジョン・ヴォイトがやっとダサいカウボーイの衣装を脱ぎ捨てたのに…。夢の直前で力尽きてしまうダスティン・ホフマンには何が残ったの? 
「こんなのってないよ!」のひと言に尽きる映画でした。

全てに納得いかないまま、それでもラストで涙が出たのは、ダスティン・ホフマンの演技が良かったからだと思います。でも、あんな哀れっぽい役を上手く演じられると見ていて辛すぎる。
こういう映画はほのぼのとしたエンディングでお願いしたいです。

オープニングテーマ「噂の男」、すごく好き。ずーっとこの曲みたいな雰囲気の映画だったら良かったのに。
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Yahoo映画

ジョン・ヴォイト演じるテキサスの田舎者
カウボーイ・スタイルを売りにして
漠然とした成功を夢見てNew Yorkへ上京.

中年女性のヒモとして稼ぐという狙いは
ことごとくハズレ
次々といい鴨にされていきます

そんな中で出会ったのは
片足を引きずったチンケな男ダスティン・ホフマン
顔見知りからは「ネズ公」と蔑まれ
本人は「リコ」と呼んでくれと意地を張る

文無し・学無し・身寄り無しの2人に共通するのは
この変な底意地と見栄
大都会の片隅で廃れてゆく アメリカン・カウボーイの心

やがて 廃墟となったアパートで暮らす2人に
凍てつくようなニューヨークの真冬が襲いかかり・・・



時代を感じさせるモンタージュの乱用にやや辟易として
当時としては「ニュー」だったものが
今になってみるとクラシック映画より遥かに「オールド」で

最近流行りのアホ臭い「新しい映画」も
20年もすりゃこんな感じにダサく映るんだろうなと思う
『スラムドッグ〜』なんか特に

その中で素晴らしく地に足のついた主演2人の芝居
足を引きずりプライドを地面にすり減らしていくホフマン
どの空気にも馴染まずふわふわと浮ついた無邪気さを持つヴォイト

日本人が「サムライ」を名乗るのと同じくらい
アメリカ人のカウボーイ気どりにうんざりしていたけど
「もうカウボーイは消えた」とあの69年に映画は告げていた
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この映画が評価されているのはアメリカの片田舎から大都会ニューヨークを夢見てやってきたジョン・ヴォイトと大都会ニューヨークの片隅で何とか生きているダスティン・ホフマンの奇妙な男の友情・・・なのかな?
ジョン・ヴォイトがニューヨークで女性を相手にホストとして金を稼げると思った根拠は母親も祖母も男相手に商売をしていたからというだけのこと。
まったく無鉄砲。
ニューヨークへ出れば何とかなると思っていた。
しかし、現実は・・・。

この映画が作られたのとほぼ同時代の60年代後半に渥美清主演で「泣いてたまるか」という連続ドラマがあった。
アメリカと日本と所違えども、テイストが似ている。
都会の人情紙風船的な切なさ。
そんなことを感じた。

アンジェリーナ・ジョリーのお父さんより、ダスティン・ホフマンの若い時よりも正直、日本のウルトラマンの怪獣スカイドンとジャミラがこのアカデミー賞受賞作に登場していることに驚いた。
実相寺昭雄監督とシュレシンジャー監督が懇意の間柄だったのだそうだ。


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アメリカン・ニュー・シネマの作品はバットエンディングものが多い。まあこれがこの類の映画の特徴ではあるのですが、それでも何故なのでしょうか?
これはこのブームが起こった当時のアメリカ世相と密接な関係があることは否定できません。それはアメリカ歴史上最大の汚点として認識されるベトナム戦争の悲劇です。

このブームが起こる前までは、ハリウッドでは主としてハッピーエンドの作品が大勢を占めていました。自由の国アメリカ、誰もがそう信じアメリカ国民であることを大いに喜んでいたことでしょう。しかし実際はそんなきれいごとだけではなかった。資本主義という体制ゆえ、強者が弱者を食いつぶす。それが表面化してしまったのがベトナム戦争なのです。この醜い現実を見せつけられた米国民、彼らの国に裏切られたという感覚がこのブームを産み出したといってもいいでしょう。

アメリカン・ニュー・シネマの先駆けといわれる「俺たちに明日はない」から、「卒業」、「ワイルドバンチ」、「明日に向かって撃て!」、「イージーライダー」、「いちご白書」、「スケアクロウ」、「タクシードライバー」、そして本作に至るまでこのジャンルで描かれているものは、反体制的な若者を中心とした、彼らの抵抗、反抗、闘いの物語です。アメリカの巨大な体制から逃れようと彼らは誰もが精一杯もがき苦しみ、闘います。しかし最終的には体制側にねじ伏せられるか、強大な体制に対して個人の無力さを思い知らされる展開となる。これはまさに当時のベトナム戦争に対するアメリカ国民の批判と、それを圧殺しようとした政府の縮図そのものです。
ラッツォの病状が次第に悪化していく様を見ていられないジョー。遂に犯罪に手を出し、大金を奪ってしまう。それを元手にラッツォの夢であるフロリダ行きのバスに乗り込む二人ですが・・・。結末はまさにアメリカン・ニュー・シネマのお約束どおりの悲劇で幕を閉じます。

最後のラッツォの隣で呆然とするジョーの姿、いつまでも忘れられません。

アメリカン・ニュー・シネマのブームは、起こるべくして起こったものだと思います。当時の国に対して米国民の不満や疑心が映像となって現れたもの。だからこそ若者層を中心に広く受け入れられたのでしょう。

しかしベトナム戦争の終結と共にニュー・シネマブームは下火になっていきます。そして1976年、満を持して現れたスタローンの「ロッキー」。この作品の登場で刹那的ともいえるニュー・シネマブームは幕を閉じ、アメリカン・ドリームがとって代わることになりました。
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当時、大宣伝と共に話題になる大作映画を観て大騒ぎするくらいしかなかった私にとって、この「ニュー・シネマ?」は、とても新鮮で魔法の言葉にも感じられるものだった。
中でもK君の熱弁は「タクシードライバー」と「真夜中のカーボーイ」初めて聞いた作品名、こっちは気になってしょうがない。どうやら名画座で上映しているのを観に行く相談だったようだ。
「よう、俺も行くぜ。」
K君の肩越しに声をかけたのは、紛れもなくこの私だった。今から30年も前の話だ。


ダスティン・ホフマンは知っていたが、ジョン・ヴォイトなんざ知らない俳優だった。
ちょいと大人じみて背伸びをして、「すげ〜な、いい映画だったな!」とはしゃいだ記憶もあるが・・・・・

正直言えば、高校生の私には、とてもじゃないがついていけない作品だったと思う。と言うかその時に何を観て何を感じたのかが“思い出せない”と言った方が正解かな。
しかし、本当にK君はあの時にこの映画の凄さを見抜いていたということが驚きでたまらない。
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小男ラッツォ役に、当時は駆け出しでほとんど無名に近かったダスティン・ホフマン。最後のフロリダ行きのバスの中で息を引き取るラッツォの姿は哀切きわまりない。現在はハリウッドを代表する演技派で通っていて数々の名作に主演している彼ですが、「真夜中のカーボーイ」のラッツォを超えるキャラクターというのはちょっと無いのでは。都会の寒さが身に染みる映画だ。

大都会の孤独に流される二人の男の生き様を描いたアメリカン・ニューシネマの代表作。アメリカンニューシネマ、という呼ばれ方をされる映画には誰もが題名を知っているような有名なものが多い.1969年に制定された映画のレイティングシステムで「成人映画」に該当しながらアカデミー賞を受賞した唯一の作品である.

英国出身のジョン・シュレシンジャー監督の渡米第一作作品。アメリカン・ニューシネマの先駆けとなったこの作品で、イギリス人の目でアメリカのすさんだ病巣を痛烈な皮肉を込めて描いています。

アメリカン・ニューシネマとは1960年代後半までのハリウッド大作主義(ハッピーエンドが中心、予算膨大、大スターを揃えたキャスト)に対して起こったアメリカ映画の新しい風のことを主にさします(ちなみにニューシネマの終焉は72年の「ゴッドファーザー」言われている)。
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悪態を突きながら互いを認め合いませんでしたが、
ラストは永遠の友情で結ばれました。

若かりし頃のジョン・ボイド、最高の演技でした。
何故かやるせない彼の笑顔がキュートで、
運から見放された男達の哀愁を、
名優のダスティン・ホフマンと共に完璧にこなしていましたね。
ジョンの最高のヒット作といっても過言ではないと思います。

ジョン・バリーの軽快な歌も心に響きました。
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最近アメリカンニューシネマをみるのにハマっていて鑑賞したのがこの映画、レビューから分かるようにあまり有名じゃないらしい。でもあの映画監督志望さんが観てるならと思いさっそく鑑賞。見終わった後なにか心にグッとくるものがあった、このグッとくる感じは前にも体験した事があると思いさっそく思い出してみる・・・思い出した・・この感じは「カッコーの巣の上で」という作品だ。あの映画といいこの映画といいアメリカは腐った国だとつくずく思わされた、そう思ったいきさつをこれからお話しましょう。この映画には人間の本当の姿がリアルに伝わってくる、主人公演じるジョンヴォイトが夢の都会ニューヨーク目指して田舎町から出発する。彼には夢があった「夢の都会ニューヨークで稼ごうという夢が・・・」だが現実は厳しかった、カーボーイ姿で町中を歩いてもだれも見向きもしてくれない。女性に話かけても完全に無視。病気で道に倒れかけてる人がいてもみんな無視・・。彼自身驚いたに違いない「こんな所のはずがない!」と。そんな完全なる孤独感から出会ったのがダスティンホフマン演じるラッゾォ。彼は足が不自由であった。そしてなぜか話してるうちに意気投合。なぜ意気投合したか?そう二人にはある共通点があったそれは「周囲からの完全なる孤立」。そんなラッゾォにはある夢があった・・それはフロリダにいくこと。だがお金がないためそんなとこにはいけないとあきらめがちだった彼にジョンヴォイト演じるジョーは彼の夢かなえてあげようと努力する。しかしそんながんばるか彼をよそにラッゾォは日に日に肺が悪くなっていく。そして・・・・・とストーリーはこんな感じです、この作品を観て感じた事は「人間は醜い」と言う事。町中で病気で倒れてる人を平気で素通り・・こんなの信じられますか?このシーンを観てつくずく人間の醜さを感じました。まだまだ感じる事はいっぱいあるのですがそれはこのレビューを見たあなたに感じてもらいたいです。とにかくこの映画はあまり有名じゃありませんがこれもアメリカンニューシネマです。ニューシネマ好きには分かると思いますがこの作品も最後は少し切ないです。

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60年代後半のユーヨークの現実は、アメリカに憧れる日本の高校生にも衝撃的だった。
(当時この映画がリアルな性表現も無いのにR指定だったのは、子供には見せたくない「アメリカの現実」を表現していたからだろう)
その後何度もこの映画を見たが、その都度新たな発見があり感動を受けるのは、時代を超えた普遍的な真実と感動を与える何かがあるからだ。
確かに結末は、暗く救い様の無いものだが、ジョーとリコの友情だけは本物なのだ。

この映画が評価を得たのは、それまでの「正義必勝、ハッピーエンド、非暴力、セックスレスのお子様ランチ的」ハリウッド映画から、生のアメリカ、ニューヨークを「負け犬の友情」を通して見せた点にあると言える。

無意味と思えたジョーのフラッシュバックと、リコの妄想は、二人の共通点である被差別の表現なのだ。
そうこの映画は、娼婦の息子(son of a bich)とチビで跛のイタ公、正にいじめ対象の二人の友情を通じて、嘘だらけのアメリカの現実を暴露した映画なのだ。
だから、当時の若者には衝撃的だが、共感できるし感動できるのだ。

ジョーにとって夢のニューヨークは、成功を象徴する昼間の顔(輝かしいが、他人、特に負け犬には冷酷だが)と、ホームレスと薬中、娼婦、男娼が蠢く生々しくリアルな真夜中の顔、この2つのコントラストが重苦しいインパクトを与えた。

カフェでの再会のシーンで、二人が思わずほっとした顔を見せたのは、自分と同じ臭いを感じた安堵からだろう。
やっと知合いに会えた。ジョーにとっては許せないけど、やっと見つけた友人なんだと。

幻想のユーヨークでの夢は、リコの階段転落でリアルに壊れ、リコの幻想のフロリダへと続くが、そこも幻想に違いないと二人には、解っているのだ。もちろん見ている観客にも。
だから、フロリダの風景はバスの窓に映る「椰子の木」で決して辿り着けない。
(このシーンは、切ないメロディーとバスの窓越しの二人と窓に反射する椰子の木が、一体になった映画でしか表現できない最高のシーンだ)

ジョーはそれでも友人のリコを、フロリダに連れて行き(幻想だけど)夢を叶えたい。だけどもう逃げるのは止めよう。
「向うに着いたら仕事見つけるよ。もう夜の仕事はいやだ、昼間の仕事にするよ」と新たな決意を告げるが、その時リコは、既に窓の向こう側、夢のフロリダに逝っていた。だから納得したように頷き、衆人から庇うように抱いているのだ。

田舎物もの丸出しの(お人好しでちょっとお頭の足りない)ジョーと、都会の底辺で辛うじて生きる不具者のイタ公(所謂最低辺の都会の屑)リコの奇妙な友情の芽生えと、崩れる夢と厳しい現実は、そのまま当時の虚構になりつつあったアメリカと、出口の見えない若者の現実なのだ。