快傑ハリマオ

鵜飼俊男の感想 美浜図書館のAV資料のなかに「低俗子供番組」があった。見なかったが、級友が話題にしていた。担任の先生が音楽の時間にこの主題歌を歌わせた。なぜだろう。今も不思議。  後回しにしていたがもう見るものが無くなって 見た。50点。



http://www2.odn.ne.jp/~ccs89380/ztv/tv01khari/TV01khari.htm

■1960年(昭和35年)4月5日〜1961年6月27日放映、全5部全65回、NTVテレビ(現:日本テレビ)系
 第1部 魔の城 :全13回        第2部 ソロ河の逆襲 :全13回
 第3部 アラフラの真珠 :全13回   第4部 南蒙の虎 :全13回
 第5部 風雲のパゴダ :全13回 
  (放映時間: 毎週火曜19時30分〜20時)
●企画:西村俊一●原作:山田克郎●脚本:大村順一、伊上勝●監督:船床定男●音楽:小川寛興●製作:小林利雄(宣弘社)●提供:森下仁丹
●出演:勝木敏之、町田泉、近藤圭子、大竹タモツ、牧冬吉、崎坂謙二、中原謙二、江島慶子、内藤雅之、天津敏、その他
●主題歌:
 快傑ハリマオ(作詞:加藤省吾、作曲:小川寛興、歌:三橋美智也)
 南十字星の歌(作詞:加藤省吾、作曲:小川寛興、歌:近藤圭子)
●日本初のカラーTV映画(1話〜5話まで)。伊豆大島をロケ地に選び全島の馬&100名以上の島民がエキストラとして出演。外人タレントを多数起用。第3部アラフラの真珠でTV初の海外ロケを達成。三橋美智也の歌と共に大好評を博し、5部まで延長された(2部以降はオリジナルストーリー、後番組・恐怖のミイラ)。
●主演には、新劇(俳優座研究所八期生)の俳優で舞台・映画・TVの経験をもつ若手スター・勝木敏之を抜擢。


主題歌
      快傑ハリマオ

 1 まっかな太陽 燃えている
   果てない南の 大空に
   とどろきわたる 雄叫びは
   正しい者に 味方する
   ハリマオ ハリマオ
   ぼくらの ハリマオ



 2 天地鳴らし 吹きまくる
   あらしのなかも まっしぐら
   どとうも岩も うちくだき
   かちどきあげて 押しすすむ
   ハリマオ ハリマオ
   ぼくらの ハリマオ
  

 3 空のはてに 十字星
   きらめく星の そのように
   七つの海を かけめぐり
   正義に結ぶ この勝利
   ハリマオ ハリマオ
   ぼくらの ハリマオ

ウイキペディアより

抑圧される東南アジア(第4部を除く)の人々を解放すべく、正義の使者ハリマオが活躍する。

制作は宣弘社で5部構成の全65話。太平洋戦争直前前後にマレー半島で日本軍に協力したマレーの虎と言われた谷豊をモデルに山田克郎の『魔の城』を原作として制作された。第2部以降のオープニングに「ハリマオとは? マレー語で 虎のことである」というテロップが表示された。

第1話〜5話のみ試験的にカラーで制作された、日本初のカラーテレビ映画でもある(ただし、当時カラー受像機自体が市販される以前で、カラーで見た視聴者がいたかどうかは不明)。また、カンボジアのアンコールワットでロケを行い我が国のテレビ史上初の海外ロケとなった。だが、現地の人に誤解され軍に拘束されかけたのを、偶然に日本語を話す人がいて事なきをえたという。

タイトルの「快傑」は怪傑からの造語で、後に『快傑ライオン丸』『快傑ズバット』などにも用いられた。

登場人物
この作品では日本人が演じていても非東洋人であるかのような言動を行ったり、扱いを受ける表現がある。

ハリマオ
ジャカルタやマレーなどの南洋諸国(第1〜3部及び第5部)や、中国大陸(満州と思われる、第4部)で活躍する正義の人。頭を白いターバンで巻き、黒いサングラスをかけた姿で部下と共に颯爽と登場する。武器は拳銃で、馬で移動する。正体は日本の元軍人と思われるが・・・
太郎
日本人の少年。姉を探しにジャカルタに来てハリマオに出会う。拳銃の早撃ちが得意であり、ハリマオの窮地を救うことも。
ドンゴロスの松
ハリマオの部下。ハリマオと同じ日本人と思われるが・・・
タドン小僧
ハリマオの部下。子供なので太郎と行動を共にすることが多い。
陳秀明
第1、2部のハリマオの敵。ジャカルタ総督府とつながっている。数々の陰謀を廻らすがハリマオに邪魔される。
キャプテンK・K
陳の要請でハリマオの命を狙うが、陳とは別行動(別組織)であり、ハリマオを引き入れようとしたことも。第1部に登場。
サーキット
第2部のハリマオの敵。世界的に有名なスパイの頭領。東南アジアを制圧するための軍港築造をもくろむジャカルタ総督府の本国の依頼でジャカルタに派遣された。
片足ブラック
第3部のハリマオの敵。アラフラの真珠をめぐってハリマオと敵対する。

関連作品
放送当時、石ノ森章太郎がコミカライズ版を『週刊少年マガジン』に連載した。そのため、関連書籍では逆にコミカライズ版を原作としている文献もある。

1943年に中田弘二主演、小林桂樹共演で『マライの虎』(大映)が制作され、1989年には和田勉監督、陣内孝則主演で『ハリマオ』(松竹)が公開されているが、本作はあくまでフィクションで直接的な関係はない。


http://www31.ocn.ne.jp/~goodold60net/harimao.htm
快傑ハリマオ」というのは、戦時中に、マレー半島で活躍していた伝説の「マレーの虎」をベースにした物語であり、映画「男はつらいよ」の冒頭で繰り広げられるフーテンの寅が見る夢の場面でも、「マレーの寅」としてパクられていたほど、ある世代から上の日本人には馴染みのあるストーリーであります。NHKの敏腕ディレクターだった和田勉さんが独立されて、最初に撮った映画も「ハリマオ」でありました。私も、半蔵門の東條会館に試写会を見に行った記憶があります。
 何れにしても、日本人がマレー半島辺りに抱いているエキゾチシズムというか、怪しげな東洋人と怪しげな白人が交わるマラッカ海峡辺りのイメージを巧みに演出効果として取り入れている物語で、このテレビドラマが放映されたいた頃、まだ、物心ついたばかりだった私にも、そうした雰囲気は胸をわくわくさせるものがありました。画像のタイトルバックを見ても分かるように、やたらに、外人の出演者も多いドラマでありました。ただ、今、その名前を改めて眺めてみると、イタリア人風の名前があったりして、出演者も、適当に外人をかき集めたのではないかと想像されたりするわけです。
さらに、番組制作の裏話として、次のようにも書かれています。
 「国産テレビ映画第一号の『月光仮面』や『豹の眼』などもかなり大時代的だったが、『怪傑ハリマオ』は時代錯誤的ですらあった。その原型は戦時中の国策映画『マライの虎』であり、ハリマオの正体は日本の特務機関の手先である。番組スポンサーは森下仁丹。このころ仁丹は敗戦で失った旧植民地の市場を回復しつつあり、そこで“企業イメージに合う”番組として『怪傑ハリマオ』を提供したという」



シラノ・ド・ベルジュラック』(Cyrano de Bergerac)






1897年に初演されたエドモン・ロスタン作の五幕の韻文戯曲。タイトルの通り、17世紀のフランスに実在したシラノ・ド・ベルジュラックを主人公にしている。

シラノ没後242年の1897年に初演。サラ・ベルナールに紹介された俳優、コンスタン・コクラン(fr:Coquelin aine)に依頼された作品で、ポルト・サン=マルタン座(fr:Theatre de la Porte Saint-Martin)の12月28日の蓋明けから500日間、400回を打ちつづけ、パリ中を興奮させたといわれ、以降今日に至るまで、フランスばかりでなく、世界各国で、繰り返し上演されている。

梗概
第1幕 ブルゴーニュ座、芝居の場
長鼻のシラノが上演中の劇場に乱入し、貴族らに喧嘩を売り、芝居をぶち壊す。ひそかに恋い焦がれる従妹ロクサーヌに言い寄っていた貴族を、シラノは即興の詩をとなえながら決闘して、倒す。
第2幕 詩人御用達料理店の場
ロクサーヌにシラノは呼び出されるが、彼女の恋の相手が美男のクリスチャンであることを知らされる。クリスチャンもまた彼女に一目ぼれしていた。しかしクリスチャンは姿こそ美しいが、ことばの貧しく、ロクサーヌにその恋心を打ち明けるすべを知らない。シラノは自分がロクサーヌにあてて書いた恋文を渡し、これをクリスチャンが書いたものとしてロクサーヌに送るように言う。
第3幕 ロクサーヌ接吻の場
夜、ロクサーヌ邸のバルコニーの下で、クリスチャンはロクサーヌに恋心を打ち明ける。しかし彼の口からは凡庸なことばしか出てこない。ロクサーヌが幻滅を感じ始めると、シラノがクリスチャンの代役となり、美しい修辞に彩られた愛の言葉を告げる。彼女はそのことばに陶酔し、クリスチャンに接吻を許す。嫉妬にかられ、横恋慕の伯爵がクリスチャンとシラノの二人を戦場へ送る。
第4幕 ガスコン青年隊の場
クリスチャンとシラノはアラスの戦場にいる。戦場でもシラノはクリスチャンになりかわり、危険を顧みずロクサーヌに恋文を毎日送る。クリスチャンはそのことを知らない。恋文に惹かれてロクサーヌは戦場に慰問に来る。ロクサーヌが愛しているのはいまやクリスチャンの美しい姿かたちではなく、彼が「書いた」恋文の内容が伝える人柄であることを、彼女は語る。絶望したクリスチャンは前線に飛び出て戦死する。手紙の本当の書き手が誰であるかは明らかにされなかった。
第5幕 シラノ週報の場
クリスチャンと死に別れたロクサーヌは、修道院でひっそりと暮していた。ロクサーヌのもとへ、シラノは土曜日ごとに訪問し、その週の出来事を報告するのが習慣になっていた。15年後のある土曜日、いつものようにロクサーヌのところへシラノが向っていると、彼の敵対者が彼の頭に材木を落とし、彼は頭部に重傷を負った。シラノは重傷を負ったまま、ロクサーヌのもとへ向う。この日、ロクサーヌはかつてクリスチャンから貰った恋文をシラノに初めて見せ、シラノにそれを読ませる。日がすっかり暮れ、手紙をとても読むことのできないような暗さになっても、シラノがその手紙を読んでいることにロクサーヌは気づく。そしてその手紙を読む声は、かつて自分がバルコニーの上から聞いた声であることも。自分の死の間際になってはじめて行う恋心の告白、これこそシラノの心意気であった。ロクサーヌの腕のなかでシラノは息をひきとる。


goo映画より

1640年。雑多な人で溢れ返るブルゴーニュ劇場の中で、ひときわ目立つ大きな鼻の持ち主、詩人にして剣客とその名も高いガスコンの青年隊の偉丈夫、シラノ・ド・ベルジュラック(シェラール・ドパルデュー)が大声を上げた。今しも彼が秘かに思いを寄せる従妹のロクサーヌ(アンヌ・ブロシェ)に色目を使ったモンフルリーを舞台から引きずり降ろし、それに言いがかりをつけてきたヴァルヴェール子爵--かねてより妻ある身でありながらロクサーヌを狙っているギッシュ伯爵(ジャック・ヴェベール)の手先となっている男--と決闘しようというのである。騒ぎの夜、シラノはロクサーヌから伝言を受けるが、それは彼女の慕う美青年クリスチャン(ヴァンサン・ペレーズ)がガスコンの青年隊に入隊するので、彼女の思いを伝えてほしいというものだった。自らの鼻にコンプレックスを抱くシラノは無念をかみしめ、ロクサーヌのために愛の橋渡しを務めることになる。こうしてシラノはクリスチャンのために愛の手紙を書き、口説き方を伝授するが、一方シラノに怨みを抱くギッシュ伯爵は仕返しのためガスコンの青年隊を戦場に送ることにするが、それを知ったシラノの機転でロクサーヌとクリスチャンは出陣の前夜ににわか仕立てながら結婚式を挙げることができた。シラノはクリスチャンにも無断でどんなに戦闘が激しくなってもロクサーヌに一日2通の恋文を届けることを忘れなかった。それを知ったクリスチャンは危険を省みず戦場にやって来たロクサーヌに、シラノも愛を告白すべきだと言うのだが、その間もなくクリスチャンは銃弾に倒れ、ロクサーヌはシラノが書いたとも知らず手紙を恋人の思い出と共に胸にしまう。そして14年、修道院で暮らすようになったロクサーヌのもとをシラノが訪ねてくるという日。相変わらず敵の多いシラノはその途中で頭上から材木を落とされて重傷を負うが、はうようにしてロクサーヌのもとへ向かう。あのクリスチーヌの恋文を読ませてくれと頼み、シラノは朗読を始めるが、夕闇の中にもかからわず一言一句間違いなく諳んじる聞き覚えのある声に、ロクサーヌははじめて手紙の主が彼であったことを悟る。しかし時すでに遅くシラノはロクサーヌに看取られて息絶えるのだった。


鵜飼俊男の感想  実在の人物を小説に仕立てたらしい。日本で言うと義経や水戸黄門というところか。


ウイキペディアより

サヴィニヤン・ド・シラノ・ド・ベルジュラック (Savinien de Cyrano de Bergerac、1619年3月6日 - 1655年7月28日)は、フランスの剣豪、作家、哲学者、理学者。

1897年上演されたエドモン・ロスタンの戯曲により名を知られた。作品の中では、容貌(大きな鼻)に悩みながら、一人の女性を胸中で恋い慕い続け生涯を終えていく、騎士道精神や正義感の強い男として描かれる。

生涯
1619年、パリ高等法院(Le Parlement de Paris)に席をもつ弁護士アベル・ド・シラノ(Abel de Cyrano)の第四子として、パリのドゥ・ポルト街(rue Deux-Portes)(現在のデュッス-ブ街(rue Dussoubs)に生まれる。母はエスペランス・ベランジェ(Esperance Bellanger)。時はブルボン朝のルイ13世の治下、三十年戦争の時期にあたる。

幼少時は祖父からの領地であったサン=フォルジュ(Saint-Forget)の司祭宅で教育された。サン=フォルジュはパリの西南西30km、現在のイヴリーヌ県の南域の小都会で、その中にベルジュラックという一郭がある。シラノの「ド・ベルジュラック」は、そこに由来する。(ドルドーニュ県のベルジュラック市とは別。)

10歳でパリのボーヴェ学院(College de Beauvais)の前身リジュー学院(College de Lisieux)に入学し、1639年、20歳で学園を離れた。

生涯の友アンリ・ル・ブレ(Henri Le Bret)と共に、カルボン・ドゥ・カステルジャルー(Carbon de Casteljaloux)隊長指揮のガスコーニュの青年隊に入隊した。しかし出世には至らず、1640年、三十年戦争のアラスの攻囲戦で重傷を負い、翌年軍隊を去ってパリに戻り、回復後さらに剣術を習った。百人を相手にして2人を殺し7人を傷つけた武勇伝が、ル・ブレの書翰をもとに伝わっている。

また、科学、哲学を研究し、デカルトの論敵の自由思想家、ピエール・ガッサンディやラ・モト・ル・バイエ(fr:Francois de La Mothe Le Vayer)に学んだと言われる。また、スカロン(Paul Scarron)、シャペル(fr:Claude-Emmanuel Lhuillier, dit Chapelle)、モリエールなど自由思想的文人とも交わって、唯物論的な文筆生活を送った。

このころから、1653年まで、彼は年長の諧謔詩人シャルル・コアポー(fr:Charles Coypeau d'Assoucy)と同性愛の関係を結び、その間の通信文が伝えられている。

1648年に貴族とパリ高等法院とが王権に逆らったフロンドの乱が始まると、シラノは経済的な理由から反マザラン派に属し、宰相マザランを風刺する詩集『レ・マザリナード』を書くが、2年後には一転、『フロンド派に反対する手紙』を書き、反マザラン派を攻撃した。このとき年来の友人たちと次々にいざかった。

1653年から、ダルパジョン公ルイ(Louis, Duc d'Arpajon, Marquis de Severac, Montclar et autres lieux)の庇護を受けてその館に寄食し、1654年、悲劇『アグリッピーヌの死』をルイに捧げ、喜劇『担がれた衒学者』も出版した。同年ルイの館で材木が頭に落ち重傷を負った。これが偶然か復讐かには説がある。ダルパジョン公の援助のもと、末妹のカトリーヌ(Cathriene)と尼僧院長マルグリット・ド・ジェズ(Marguerite de Jesusu)とル・ブレとに引き取られ、1年余介護を受けた。1655年7月、パリ近郊サンノワ村(fr:Sannois)の従兄ピエール・ド・シラノ(Pierre de Cyrano)の家へ移り、5日後の28日に36歳で死去。死因は頭の傷でなく梅毒であった。のちにペール・ラシェーズ墓地に移葬された。

『月世界旅行記』は没後の1656年、ル・ブレが序文、伝記を付して出版し、『太陽世界旅行記』は1662年に刊行された。あわせて、SFの先駆的な作品とされる。

『衒学者先生』は、モリエールが『スカパンの悪だくみ』(Les Fourberies de Scapin (1671))に剽窃したことで、却って知られた。

また、ジャック・ロホー(fr:Jacques Rohault)が1671年に出版した『物理学概論』(Traite de Physique)は、生前のシラノの草案によるとされる。