『敦煌』(とんこう)


ウイキペディアより
1988年6月25日公開の日本映画。井上靖の小説「敦煌」を映画化したものである。。日本アカ
デミー賞・最優秀作品賞・監督賞受賞作品を受賞(1989年)。
北宋のころ、主人公・趙行徳は科挙の最終試験殿試を受けるため首都開封にやってきた。行徳に出された問題は「西夏対
策を述べよ」であったが、西夏が単なる辺境だと思っていた行徳はまともに答えることが出来ず、受験に失敗する。
次回の科挙は3年後……。失望感のあまり自暴自棄になっていた行徳は、ひょんなことから西夏の傭兵・朱王礼に拾われ
て、漢人部隊の書記となった。辺境だとばかり思っていた西夏は、シルクロードの拠点として仏教文化の華開く砂漠のオ
アシスだった。こうして月日は流れた。やがてその才能を認められた行徳は、恋人であるウイグルの王女・ツルピアの庇
護を朱王礼に託し、2年間留学することとなった。しかし留学期間が延び、ようやく西夏に戻ったときには、ツルピアは
既に西夏の皇帝李元昊によって見出され、力ずくで取り決められた妻としての輿入れの日だった。婚礼の席上、ツルピア
は隠し持っていた剣で謀反を企てようとするが、李元昊に見破られ失敗、そのまま城壁から身投げしてしまう。失意の行
徳をよそに、朱王礼は皇帝への反乱を決行し、戦死する。行徳は敦煌の文化遺産を戦乱から守ることを決意する。
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11世紀の宗。科挙の試験に落ちた趙行徳は、街で西夏の女を助けた礼として、西夏への通行証をもらった。西夏の文字に
興味をもった趙は西域へと旅立つ。灼熱の砂漠を尉遅光の隊商と共に歩いていたが、途中で西夏軍漢人部隊の兵士狩りに
会い、無理矢理入れられてしまう。隊長の朱王礼は文字の読める趙を重用した。漢人部隊がウイグルを攻略した際、趙は
美しい王女ツルピアと知り合い恋におちた。二人は脱走を試みるが失敗、趙は西夏王・李の命令で都へ文字の研究に行く
ことになった。二年後、趙が戻ると、李はツルピアと政略結婚しようとしていた。趙も朱にもどうすることもできなかっ
たが、婚礼の当日ツルピアは自殺した。ツルピアに思いを寄せていた朱の怒りは爆発し、敦煌府太守・曹を味方につけて
李に謀反を起こした。敦煌城内で死闘を繰りひろげる漢人部隊と西夏軍本部隊。初めは漢人部隊が優勢だったが敦煌城に
火矢が放たれ、朱側は火に包まれた。戦うことより文化遺産を戦火から守ることに使命を見出していた趙は、教典や書物
、美術品などを城内から莫高窟へ運び込んだ。それから900年が経ち、莫高窟からこれら文化遺産が発掘され、敦煌は再
び世界の注目を集めたのだった。
『ドライビング Miss デイジー』(原題:Driving Miss Daisy)


ウイキペディアより
1989年製作のアメリカ映画。ブルース・ベレスフォ
ード監督によるコメディ映画。アメリカ南部を舞台に、老齢のユダヤ系未亡人とアフリカ系運転手の交流をユーモラスに
描く。
原作は1987年度のピューリッツァー賞演劇部門を受賞したアルフレッド・ウーリーの戯曲である。映画化にあたり、ウー
リーは本作品の脚本も担当した。
1989年12月15日に北米で限定公開され大ヒットを記録。アメリカ国内で約1億600万ドル、国外で約3900万ドルの興行収入
を挙げた。同年度のアカデミー賞では作品賞を含む9部門でノミネートされ、そのうち作品賞、主演女優賞、脚色賞、
メイクアップ賞の4部門で受賞した。特に映画で老齢の未亡人を好演したジェシカ・タンディの演技は高く評価された。
ダンディは80歳でアカデミー主演女優賞を獲得したが、彼女の年齢は同賞における最高齢での受賞である。
本作品は『つばさ』、『グランド・ホテル』と並んでアカデミー作品賞を受賞しながら監督賞にノミネートされなかった
三作品のうちの一つでもある。日本においては2005年に仲代達矢、奈良岡朋子主演で舞台上演された。
1948年のジョージア州アトランタ。元教師の老婦人デイジー・ワサンは買い物に出かけようと勇んで自動車に乗り込むが
、運転を誤って隣家の垣根に突っ込んでしまう。それを見かねた息子のブーリーは彼女に対して運転手を雇うように薦め
るが、デイジーは聞く耳を持たない。そんなデイジーの元に初老の黒人男性、ホーク・コバーンが運転手としてブーリーに雇われて 派遣されて
きた。
初めは意固地にホークを拒絶していたデイジーだったが、根負けしてついに彼が運転する車に乗り込む。彼女がホークを
嫌がっていたのは、自分が嫌味な成金であると周囲に思われるのを危惧していたからだった。ホークの真面目な仕事振り
と正直な人柄に感銘を受けたデイジーは、やがて何処へ行くにも彼の運転する車に乗ることになる。
1953年のクリスマスに、デイジーは読み書きの出来ないホークに簡単な参考書をプレゼントする。デイジーはアラバマ州
モービルに住む兄弟の90歳の誕生日を祝うため、ホークの運転する車に乗って遠出することになる。既に70歳近い高齢の
ホークだが、州外に出るのはこれが生まれて初めてだという。途中で道に迷ってしまう二人だが、その際デイジーはいま
だ南部に根強く残る黒人に対する人種的偏見を実感する。
1963年の或る日、デイジーに長年仕えてきた家政婦であるアイデラがテレビを観てる最中に急死してしまう。アイデラの
死後一人で家を切り盛りしなくてはならなくなったデイジーは、万事にそつが無いホークをより一層重宝するようになる
。
1966年の雨の日、デイジーは礼拝に向かう道中に、クー・クラックス・クランによってシナゴーグに爆弾が仕掛けられた
と知る。南部では黒人のみならず、ユダヤ人も偏見の対象なのだ。公民権運動が高まる中、デイジーはマーティン・ルー
サー・キング牧師の説教を聞くため夕食会に参加する。当初は息子のブーリーと共に出席する予定だったが、彼は同業者
たちに後ろ指を差されることを心配して欠席。デイジーは夕食会に向かう途中でホークを誘うが、本当にその気が有るな
らもっと早く言うべきだったと彼に窘められる。結局一人で夕食会に出席するデイジー。その夜のキング牧師の説教は、
善意の人々による無自覚の差別の話だった。
1971年、ある朝いつものようにデイジーの家を訪れたホークは、錯乱しているデイジーを発見する。突然顕れた痴呆の症
状により混乱した彼女は、自身の教師時代に戻って子供たちの宿題を探し回っていたのだった。デイジーを優しく宥める
ホーク。そんな彼に対し、デイジーは「貴方は一番のお友達よ」と告げる。
1973年、痴呆症が進み、体調も衰えたデイジーは現在老人ホームで暮らしている。ホークとブーリーは感謝祭のお祝いを
述べるため、デイジーの元を訪れる。ブーリーを除け者にし、デイジーとホークは二人きりで言葉を交わす。出会った頃
と同じ軽妙なやりとりを楽しむ二人。そしてデイジーは息子が未だにホークに毎週運転手としての給料を払っていること
を知る。ホークがパンプキンパイをデイジーに食べさせているシーンで映画は幕を閉じる。
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1948年、夏。長年勤めた教職を退いた未亡人のデイジー(ジェシカ・タンディ)は、ある日運転中に危うく事故を起こしかけ
、母の身を案じた息子のブーリー(ダン・エイクロイド)は、彼女の専用の運転手としてホーク(モーガン・フリーマン)と
いう初老の黒人を雇う。しかし典型的なユダヤ人で、元教師のデイジーには、運転手なんて金持ちぶっているようで気性
が許さなかった。どうしても乗車拒否を続けるデイジーは、黙々と職務に励む飄々としたホークの姿に根負けし、悪態を
つきながらも車に乗ることになる。こうして始まったデイジーとホークの奇妙で不思議な関係は、1台の車の中で、やが
て何物にも代えがたい友情の絆を生み出してゆく。そして25年の歳月の流れの中で、初めてホークはニュージャージー州
外を旅し、またデイジーはキング牧師の晩餐会に出席したりした。いつしか頭がボケ始めたデイジーは施設で暮らすよう
になり、長年住み馴れた家も売ることになった。しかしデイジーとホークの友情は、変わることなく続くのだった。
http://www6.plala.or.jp/imail/040206.htm
この映画、1989年の映画である。
実に面白い作品で、おかしさがじわじわと心の底にしみこんでいくような作品であった。ストーリーの主題は、ほとんど
老人介護の話と言ってもいいくらいだが、日本の介護の話と違って、アメリカ的にあっけらかんと明るいところが良い。
ストーリー
昔教師をしていた老婦人(ジェシカ・タンデイ)が買い物に行こうと車を車庫から出したと
たん、操作を間違えて物損事故を起こしてしまう。
この事故で、母親の老齢、つまり加齢を心配した息子が専門の運転手を雇うことになった。
その運転手がモーガン・フリーマン扮するところの黒人運転手ホークである。
息子は長男で、紡績で成功して金持ちになっているので、専用運転手の賃金を自分の方で払い、母親には負担させないよ
う気配りをしたつもりであるが、この母親は老人特有のひがみ根性でなかなか心を開こ
うとしない。
この専用運転手が誠実な人で、このミス・デイジーがいくら意地悪
をしても、金は長男の方から出ているのでこの初老の婦人に誠意を持って仕えようとする。
この初老の婦人、ミス・デイジーとこれも初老に近い黒人の運転手ホークの掛け合い非常に面白い。
ミス・デイジーの「いじわるばあさん振り」というのが一品で、これこそ老醜の典型的なものだと思う。
成功した長男、そして彼の妻、運転手の初老の黒人と、ミス・デイジー本人の人間関係が年寄りを抱えた一家の苦悶とい
うか、実態というか、今日本で問題となっている介護の問題を直撃しているという感じがする。
老人の我儘というのはやはり洋の東西を問うものではなさそうで、アメリカの年寄りも、我々に劣らず相当我儘で、その
我儘は子供たちの生活まで脅かそうとしている。
そして頼りにされるのはやはりここでも長男で、その上長男の嫁には辛らつな批判が浴びせられるわけで、この辺りの情
景はまるで我々、日本人の家庭の問題と完全に相似している。
親としては長男を頼りにし、何かと相談するにもかかわらず、長男の嫁というのにはどうしても心を許す気になれない、
というあたりの事情は我々の周辺にいくらでも転がっているような題材である。
人は自分の汚い部分は意識して見せないように気配りをするので、案外見落とされており、奇麗事ばかりが罷り通ってい
るが、人間なんてものはやはり何処の人間でも、どの国の人間でも、基本的には同じではないかと思わせる作品である。
このミス・デイジーの意地悪や我儘を、長男も、運転手のホークも、上手に聞き流してはご機嫌をとってやり過ごそうと
するのだけれども、加齢は皆に同じように降りかかってくるわけで、そのあたりの機微が非常に面白い。
しかし、私はこの映画を見ていても日本人とアメリカ人では「年を取る」という考え方に相当の違いがあるように感じら
れた。
特に、黒人の運転手ホークのいう台詞にはいちいち納得させられたものがあった。
彼は、人の生涯には老いが迫って来ることを自然のものとして受容しているので、誰でも何時かはこうなるということに
達観し寛容である。
その運転手ホークは字もろくに読めないにもかかわらず、教養ある、知性のある、金持ちの夫人が言い込められて納得す
るところが面白い。
最初、彼が家に来たときはけんもほろろの扱いであったが、その彼がこの婦人に誠意を尽くすにしたがい、心が打ち解け
て最後はベスト・フレンドというまでになる。
その過程において様々な出来事があるが、そこにはアメリカの病根とでもいうべき偏見というものもサラリと描かれてい
る。
田舎道で、路肩に車を止め、婦人は室内で、運転手は屋外で昼食をとっていると、二人の警官がやってきて職務質問した
後で、何も不審なところがないと判った時の警官がいうつぶやきの言葉の中に、その偏見が含まれていたが、こういうあ
っさりとした描き方は非常に好感が持てる。
私はこの映画は題名から、珍道中記のようなものと思っていたが
、奥の深いシリアスな作品であった。
ところが安易な気持ちで見ていると、そのシリアスさを見落としてしまいがちである。
良い作品であった。