
花の喧嘩状(1953) ウエブサーフィン

子供のときに見た映画の二番目に古い記憶。細かいあらすじがわかってうれしい。一番目は骸骨のスケート。
あらすじ
南国の漁場。茶屋女おもんは土地の親分古座の権太郎に強引に根引されようとし、乾分達に追われているのを、明神の半太郎に救われた。半太郎は古座一家と川尻一家の漁場の縄張争いの仲裁に、白狐の音松、桶屋の三吉と一緒に古座にやって来たのだ。権太郎は三人におもんを女房だと紹介したが、川尻との協定破りがバレる事を怖れ、その夜ひそかに乾分を川尻へ喧嘩を吹きかけにやった。事情を知らぬ半太郎達は川尻の無法な喧嘩を怒り、音松はこれをなじりに川尻へ出掛けたが、途中古座の乾分松と捨八の欺し討にあう。これを目撃した川尻の親分倉造の娘おちせは急を告げに家へ帰ると、倉造は古座一家に非があるとは云え男の約束を乾分が破った償いに自殺していた。権太郎はこの度の働きに半太郎に望みのものをやると云ったが、半太郎は言下におもんが欲しいと云い、おもんを嬉しがらせた。音松の死骸が発見され、川尻に掛合に行った半太郎は、倉造の死とおちせの語る処を聞き、凡ての真相を知った。古座では半太郎を暗殺する計画を立聞きした三吉は殺され、これを目撃したおもんは監禁される。半太郎は音松と三吉の墓前の山牡丹を携え、何くわぬ顔で古座へ帰って来たが、やがて部屋から喧嘩仕度で現れた彼は、権太郎達にやくざの作法通り牡丹に結んだ喧嘩状を叩きつけ、単身で挑戦し、遂に権太郎一味を斬り、おもんを救った。
ピーターラビット
ウィキペディア

『ピーターラビットのおはなし』よりピーターと家族ピーターラビット(Peter Rabbit)は、ビアトリクス・ポターの児童書に登場する主役キャラクターである、明るい青のコートを着用しているウサギ。モデルになっているのは「ネザーランド・ドワーフ」という種類である。 シリーズ作品の総称ともなっている。ピーターうさぎとする翻訳もある。
1893年9月4日にビアトリクス・ポターが友人の息子に宛てた絵手紙が原型である(同日がピーターラビットの誕生日とされる)。1902年には初の本「The Tale of Peter Rabbit(邦題:ピーターラビットのおはなし ピーターうさぎ、ピーターうさぎのぼうけん)」が出版される。
ピーターラビットシリーズの累計発行部数は全世界で1億5000万部[1]を超え、日本の福音館書店版は1200万部[2]が発行されている。また第1作の「ピーターラビットのおはなし」の発行部数は全世界で4500万部[3]を超える。
日本では福音館書店版での「ピーターラビット」という表記が最も一般的なものとなっているが、日本以外の多くの国ではPeter Rabbitを各国の言語に翻訳したタイトルで出版されている。日本でも「ピーターうさぎ」というタイトルの翻訳も存在する(詳しくは後述)。
1980年から1990年代までキユーピーマヨネーズ[4]がCMのイメージキャラクターに起用したのを切っ掛けとして、ピーターラビットの登場キャラクターをデザインした瓶入りマヨネーズが今日まで販売されつづけている。また三菱信託銀行(現・三菱UFJ信託銀行)では1988年からイメージキャラクターに起用。好評を博している。同行が2005年10月1日にUFJ信託銀行と合併した後も、キャラクターとして起用している(旧UFJ店でディズニーを採用していない三菱東京UFJ銀行とは違い、合併後の旧UFJ信託の支店発行の通帳・カードなどでも採用されている)。また2007年にはサントリーもシリーズのキャラクターを採用している(映画化の欄で後述)。
現在、一部の図書カードの柄、ナガシマスパーランドでキャラクターとしても使われている。
日本語版 [編集]
もっとも古い日本語訳は、1918年に子供之友(婦人之友社発行)に掲載されたものとされてきた。しかし2007年、1906年に発行された日本農業雑誌(日就社(現読売新聞社)刊)に「お伽小説 悪戯な小兎」(松川二郎による訳)というタイトルで、一部に日本向けアレンジを加えた日本語訳が掲載されていたことが判明し[5]、それまでの世界最古の外国語訳とされてきた1912年発行のオランダ語訳をもさらに遡る翻訳と認定される可能性があると報道された。
書籍として最初に発行された日本語訳は、1956年に光文社から出版された光吉夏弥訳の『世界新名作童話 ぴーたーうさぎのぼうけん』である。続いて1965年に講談社から那須辰造訳・山田三郎絵の『せかいのおはなし ピーターうさぎ』、1969年に偕成社から岸田衿子訳・三好碩也絵の『ピーターうさぎのぼうけん』、1971年に旺文社から波多野勤子訳・赤坂包夫絵の『グロースターのようふくやさん』など複数の翻訳が出版されたが、1971年11月に福音館書店から石井桃子の翻訳で『ピーターラビットのおはなし』が出版され、その後順次ピーターの登場する作品が翻訳出版されると、日本では福音館書店版がいわゆる定本と見なされるようになった。
その他八木田宜子訳、岡松きぬ子訳、まさきるりこ訳、きたむらまさお訳、中川李枝子訳などが出版されている。
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ピーターラビットのおはなし [編集]
『ピーターラビットのおはなし』初版本(1902)ビアトリクス・ポターの最初の本で、ピーターと彼の家族が紹介された。ある日彼の母は森で遊んでいるピーターと彼の姉妹、フロプシー、モプシー、カトンテールを置いて市場へ出かける。母の言いつけを破ってピーターはマグレガーさんの農場へ忍び込んで、野菜を食べて、マグレガーさんに見つかり、追いまわされる。辛くも逃げ出す事ができたが上着と靴をなくしてしまい、それはマクレガーさんの新しいカカシへ使用された。
ベンジャミンバニーのおはなし [編集]
詳細は「ベンジャミンバニーのおはなし」を参照
ピーターのいとこ、ベンジャミンバニーはマクレガー夫妻の留守の間に、ピーターの服が未だにある庭へピーターを連れてくる(前夜の雨の所為で服は縮んでいた)。ピーターの服を取り返した後、彼らはピーターの母の為にタマネギを盗むが、マクレガーさんの猫に捕まる。幸運にも、彼らが居ない事に気付いたベンジャミンの父に助けられるが、洋服は取り戻せなかった。
ティギーおばさんのおはなし [編集]
ピーターはベンジャミンと共に、この話でティギー・ウィンクルが他の衣服の中のピーターの上着を繕う場面で言及されている。
「ジンジャーとピクルスや」のおはなし [編集]
ジンジャーという犬とピクルスという猫による雑貨屋の盛衰の話で、商売の概念が子供にもわかりやすく解説されている。
フロプシーのこどもたち [編集]
ベンジャミンとフロプシー、そして彼らの子供らがレタスを求めて成長したピーター夫婦の家にやってくる。
キツネどんのおはなし [編集]
ベンジャミンとフロプシーの子供達は悪名高いアナグマ、トミー・ブロックに誘拐される。フロプシーがトミーを入れたベンジャミンの父へ怒りをぶつけている間に、ベンジャミンとピーターがブロックの後を追いかけると、彼はトッド(アヒルのジマイマのおはなしに登場したキツネにそっくりのキャラクター)の家へ隠れる。トッドは彼のベッドにアナグマが寝ているのを見て、水の入ったバケツをトミーへ落ちる様にセットする。しかし罠を作動させる前に彼は目覚め、二匹はつかみ合いに入る。それを見ていたピーターとベンジャミンはその間に子供を救出する。
ビアトリクス・ポター

15歳の時のビアトリクス・ポター
ヘレン・ビアトリクス・ポター(Helen Beatrix Potter, 1866年7月28日-1943年12月22日)は、イギリスのロンドン出身の絵本作家。『ピーターラビットのおはなし』シリーズで知られる。
家族について [編集]
1866年・サウスケンジントン、陶芸家で法廷弁護士(実際は法廷弁護士の仕事はほとんどしていない)の父、ルパート・ウィリアム・ポター(1832年-1914年)と、紡績商の両親を持つ母、ヘレン・ポター(1839年-1932年)の間に生まれる。両親ともにそれぞれの両親(つまりビアトリクスの両祖父母)の遺産により生活を送っていた。
イギリス帝国のヴィクトリア朝時代の裕福な子供たちがそうであったように、幼少時代はナース(ベビーシッターとメイド参照)とガヴァネス(家庭教師)によって育てられる。 また、他の子供たちとあまり関わることなく、イモリ・蛙・蝙蝠・ウサギなどを飼い始め、小動物や植物に興味を抱くようになる。何時間も飽くことなく観察し、外出や遠出の際にペットもよく一緒に連れて行っていた。ピーターラビットのモデルになったウサギも、この頃飼っていたという。いつも飼っているペットの小動物をスケッチしていたという。 夏は、パースシア地方・スコットランド・湖水地方などの貸し別荘にて過ごしていた。
1882年に牧師のキヤノン・ハードウィックにより、湖水地区の環境汚染について説明を受け、以後環境保護運動に関心を持つようになる。
成人に達した頃、両親は彼女に家(家督)を継ぐように言い、家政(ハウスキーパーの仕事)を彼女に命じ、彼女から一切の勉強や研究を剥奪する。 彼女の叔父は、ビアトリクスをキューガーデン(国立の植物園)へ研究員として推薦するが、女性だったため採用されることはなかった。
彼女の業績について [編集]
彼女の多くの事業と物語は、こっそりと家へ持ち込んだり、休日にスコットランドと湖水地方で観察した小動物が発想の素材となった。
彼女は、地衣類が菌類と藻類の共生関係であることを提唱した最初の一人でもあった。しかし、女性であったためそれを公表することが認められず、学会では叔父が論文を読まなければならなかった。
彼女の書いた『ピーターラビットのおはなし』を出版することが周囲から勧められた。しかし1902年に引き受けてくれる出版者を見つけるのに苦労した。
この小さな本と後の作品はとても好評で、彼女は本の売上から独立した収入を得た。
彼女は、23冊の本を書いた。それらは子供が手で持って読みやすいように小さな判型で出版された。
1920年頃から視力が低下したため本を書けなくなってきたが、1930年に最後の作品『こぶたのロビンソンのおはなし』を発表した。
彼女と自然保護について [編集]
晩年はイギリスの湖水地方で牧羊場を購入し、経営した。彼女はその景観を愛し、安定した著作権使用料と両親の遺産で地元の土地を買い上げた。彼女はナショナル・トラスト運動の創始者の一人の友人であり、自身の財産で多くを小屋、15の農場、4000エーカー(16km2)の土地を買い、その美しさが失われないようにした。
彼女の遺産は現在、湖水地方国立公園の一部となっている。また彼女が晩年に生活していた自宅はヒル・トップという名で一般に公開されている。
1943年12月22日、ランカシャー州ニア・ソーリーにて逝去した。77歳であった。