「ヒグマ」をウエブサーフィン

http://big_game.at.infoseek.co.jp/bear/shortface.html

ショートフェイスベア Arctodus simus
体長:2.7m 肩高:1.7m 新生代更新世(80万〜1万年前)

 更新世にはアメリカ大陸に大きなクマが現れた。現在のメガネグマに近縁なこのグループ Arctodus は顔が今のクマほどに突き出しておらず、Short-faced Bear または bulldog bear と呼ばれる。
 アルクトドスには何種類かあるが、アラスカからメキシコにかけての草原に棲んでいた最大種 Giant Short-faced Bear(Arctodus simus)は史上最大のクマといわれ、そして更新世の北アメリカでは最大の肉食獣であり、後脚で直立すると高さ3.3mに達した。
 現在のクマ類に比べ脚が長くスリムでさえあるが、体重は600〜800kgと推定されている。
←手前は現在のグリズリー(ハイイログマ)

 クルテン(1971)は非常にどう猛であったろうと述べている。その(吻部の短い)頭骨の形状や大きな牙はライオンを想わせるほどで、長さの割に幅の広い顎(つまりは両方の犬歯の間隔が広い)と併せ、大型ネコ族のような強靱な力で獲物を噛み砕いただろう。
 アルクトドスは非常に長い脚で高速に走って獲物を追いかけることができ、ライオンのような顎で噛み殺す捕食者だったようだ。死肉食だったとの説もあるが、走るのに適した長い脚は活動的な捕食者だったことを示唆している。
 一方でクルテンは南米にいたアルクトドスはがっしりした幅の広い歯を持っていて、おそらく貝を食べていただろうと考えている。




ウイキペディア

ヒグマ(羆、樋熊・学名Ursus arctos)はネコ目(食肉目)クマ科に属する哺乳類である。ホッキョクグマと並びクマ科では最大の体長を誇る。また、日本に生息する陸棲哺乳類(草食獣を含む)でも最大の種である。



分布 [編集]
ヨーロッパからアジアにかけてのユーラシア大陸と北アメリカ大陸の森林地帯に幅広く生息している。その生息地は温帯からツンドラ気候の地域(北極海沿岸など)にまで及ぶ。現存するクマ属の中では最も広く分布する。

北アメリカ北西部に生息するハイイログマ(グリズリー、U. a. horribilis)、アラスカに生息するコディアックヒグマ(Kodiac Bear U. a. middendorfii)、北海道に生息するエゾヒグマ(U. a. yesoensis)など、いくつかの亜種が存在する。絶滅した亜種に、メキシコハイイログマ(U. a. nelsoni)とカリフォルニアハイイログマ(U. a. californicus)がある。また、アフリカ大陸北部の地中海沿いのアトラス山脈周辺にも、19世紀までは、アトラスヒグマ(U. a. crowtheri)という亜種が生息していた。

なお、日本では北海道にしかいないので亜寒帯・冷温帯など寒地に生息するイメージが強い。また実際にその生息地は針葉樹林中心の傾向がある。しかし過去には地中海沿岸やメキシコ湾岸など南方の温暖な地域にまで及んでいて、人間による開発や乱獲によって減少し、人口密度の低い北方のみに生息するようになったとされる。個体群や亜種の絶滅は過去150年間に集中し、アラスカを除く北米大陸と西欧で著しい。

ホッキョクグマはヒグマの派生種であり、生殖前隔離のみが存在する。通常北極圏ではヒグマは陸、ホッキョクグマは海と住み分けているが、地球温暖化の影響で近年両者の混血が発生しており、懸念されている。


エゾヒグマの生息地


巨大に成長したコディアックヒグマ 生態 [編集]
オスの成獣で体長2.5〜3.0mで体重250〜500kg。メスは一回り小さく体長180〜250cmで体重100〜300kgほど。がっしりとした頑丈な体格を誇り、頭骨が大きく肩も盛り上がっている。足は時速 55 キロメートルと競走馬なみの速度で走る。ヒグマは栄養状態によって生じる個体差が非常に顕著で、内陸のヒグマが300キロを超える事はあまり多くないが、溯上するサケ・マス類を豊富に食べられる環境にいるヒグマは巨大である。中でも有名なのが、アラスカ沿岸のコディアック島、南西部のカトマイ国立公園と、ロシアの極東カムチャツカ半島に生息するヒグマで、共に500キロ以上の個体が記録されている。エゾヒグマでも、1980年に羽幌町で射殺された体重450kgの通称「北海太郎」や、1982年に古多糠の牧場で子牛3頭を襲った500kgの雄(6歳)、2007年11月にえりも町の猿留川さけ・ます孵化場の箱罠にかかった推定年齢17歳・520kgのオスなど大型の個体もおり、近年大型化しているとの指摘もある。このます孵化場の箱罠では、300kgの個体も捕獲されている。三毛別羆事件を引き起こした通称「袈裟懸け」は380kgであった。

食性は雑食だが、同じクマ科のツキノワグマに比べると肉食の傾向が大きい。シカやイノシシ、ネズミなどの大小哺乳類、サケやマスなどの魚類、果実などを主に食べる。またトラやオオカミなど、他の肉食獣が殺した獲物を盗むことも近年の研究で明らかとなった。また自分が捕獲した獲物に対して強い執着心を示すため、ヒグマに奪われた物を取り返す行為は危険である。冬季には巣穴で冬眠をする。冬眠中には脈拍、呼吸数が大幅に減少する。この間(通常2月)に出産するが、出産したばかりの子供の体は非常に小さい。

成体のヒグマにおいては武器を所持したヒト以外に天敵がほぼ存在しないとも言えるが、シベリアでは冬眠中の成獣がトラに捕食された例もある。

人間との関わり [編集]
日本 [編集]
アイヌの人々はヒグマをキムンカムイ(山の神)として崇めた。春先の穴熊狩りで捕獲した小熊を一年間大切に育てて「人間界の素晴らしさ」を熊に伝え、毎秋にはイオマンテ(熊送り)と呼ばれる祭を催し、ヒグマの仔を殺すことで霊を天に返した。 人間に大切にもてなされた熊の霊に天上界で「人間界の素晴らしさ」を広めてもらい、それによって更に多くの神が人間界へ「肉と毛皮の土産」を携えて訪問することを期待する信仰によるものである。 ただ、人間を傷つけた熊は悪神とみなされる。

現代ではヒグマはキタキツネとともに、北海道観光の象徴的なマスコットとされ、古くからのアイヌによる木彫り細工からキャラクター化度の強い商品まで幅広い。登別市の登別温泉などにある「クマ牧場」のように、観光用のヒグマの飼育施設まで存在する。そこではヒグマに芸を仕込んでいることもある。

しかし、北海道でのヒグマと人との接触による問題は根深い問題である。マスコットや飼育下のヒグマはともかく、地元の人々にとっては野生のヒグマには恐ろしい動物という印象が非常に強い。駆除の優先度も、エゾシカなどに比べて高い。その被害も農作物への被害(夕張メロンなど)から、畜産物、人的被害にまで及ぶ。明治時代には北海道で多数の人間が襲撃されており、苫前三毛別羆事件のように小規模な天災に匹敵する死者(7人死亡、3人重傷)を出した事件すらある。また、近年になって人身事件が増加傾向にあり[1]、山菜採りなどで山に入ることをためらう人も増えてきている。

日本に限ったことではないが、ヒトが山中にごみをポイ捨てしたり、あまつさえ(攻撃性をあまり示さない)個体に餌を与えたりなどすることで、クマがヒトの食物の味を覚え、人里に出ようとする事案が後を絶たない。保護団体ではエアソフトガン等で痛めつけてヒトの恐ろしさを学習させるなどして、山に帰るよう促しているが、それでも治らない個体は、自治体がハンター団体に依頼して殺処分される。そのような個体はいずれヒトを襲うようになる恐れがあるからである。

北米 [編集]
北米先住民にとって、ヒグマをはじめとするクマは畏敬と信仰の対象であった。プエブロ・インディアンの焼き物や宝飾品、ズニ族のフェティッシュと呼ばれる動物をかたどったお守りには、熊のモチーフが好んで用いられる。

北米では、絶滅危惧種保護法(Endangered Species Act)をはじめとする保護法の発効以来ヒグマの個体群数は回復の傾向にあるが、放牧業を営む畜農家との軋轢、拡大する住宅地、国立公園などでの観光客との接触、ハンターとの接触、交通事故など、人とヒグマとの共存は容易ではない[2]。

ハイイログマの個体群は、アメリカ合衆国では絶滅危惧特別個体群(Threatened Distinct Population Segment)、カナダでは絶滅危機特別個体群(Endangered Distinct Population Segment)に指定され、連邦法と州法で保護されている。

http://homepage1.nifty.com/~n_izumi/higuma/jiken.html
■ 札幌丘珠事件

この事件は日本の熊害史上3番目の悲惨な事件である。「丘珠村の追想」という詩まで作られ、明治の開拓者によって語り継がれたという。

ことのきっかけは、明治11年1月11日、猟師が札幌丸山の林内でオスの穴グマを撃ち損ね、襲われて死亡したことに始まる。その後、穴を追われたこのクマは、飢えて札幌の町を走り回ったため、札幌警察署は駆除にあたった。17日、駆除隊は編成され、その指揮は警察吏の森長保が執った。この日クマを平岸で発見、後を追ったが、月寒、白石と逃げられ、雁来までは確認したが、猛吹雪のため見失った。

その日の深夜から翌日未明にかけて、そのクマは丘珠の炭焼小屋に侵入した。この小屋には堺氏倉吉一家と雇女が寝ていたが、クマは主人と幼児を喰い殺し、残った妻と雇女も重傷を負った。

日が明けて18日昼に、駆除隊は付近の山中でクマを発見し射殺した。そのクマは解剖され、胃の中からは2人の遺体の一部が発見された。この解剖を担当したのは新渡戸稲造博士であるといわれている。この遺体の一部とクマの剥製は現在も北海道大学付属植物園に保存されている。


■ 苫前三毛別事件

この事件は日本の獣害史上最大の事件である。わずか3日のうちに一頭のクマが開拓農家12軒を襲い、6人を殺害、3人に重傷を負わせたというのは熊害としては世界にも類をみない。この悲惨な事件が起こった場所は、日本海に面する北海道北部の海岸から30Kmほど内陸に入った苫前郡苫前村の三毛別の六線沢という開拓部落で、現在は苫前町三渓という地名になっている。

事件が起こったのは大正4年12月。まず9日午前10時頃、太田三郎宅に一頭のクマが侵入し、在宅していた妻とその子供の2人を殺害した。妻の遺体はクマによって山の中まで引きずられ、翌10日、部落の男たちによって変わり果てた姿で発見された。10日夜、太田宅で2人の通夜が行われた。ところが午後8時半頃、その席に再びクマが侵入し、遺体を奪い返しに来たのである。多くの人々が家の中にいたため大惨事になると思われたが、その時1人が銃を発砲し、クマは恐れて家を退散して山の中へ逃げていった。

その頃、太田家のさらに下流にあった明景安太郎宅には夫を除く明景一家と部落の上流に住む斎藤家の妻と子供が避難していた。明景宅は開拓部落内では比較的家も広く、地理的にも安全とされていた。ところが異様な騒ぎが上流の方から聞こえてきた。太田家にクマが侵入し、人々が騒ぐ音である。両家の間は500mも離れていなかった。明景宅にいる人々は恐れおののいた。

クマの侵入があった太田家にいた人々はいったん川下の家に避難することにし、歩き始めた。その時川下の明景家から激しい物音と絶叫が聞こえてきた。明景家にクマが侵入したのである。明景家には女や子供たちが避難しており、極めて危険な状態にあった。しかしこのクマによって4人が殺され、3人が重傷を負った。午後8時50分頃のことである。その時すでに明景家の回りを開拓部落の男たちが取り囲んでいたが、出てきたクマに対して行った発砲は不発に終わり、しとめることができなかった。相次ぐクマの襲撃に恐れた開拓部落の人々は一刻も早く開拓地から逃れようとした。まずは3Kmほど下流の辻橋蔵家とさらに3Km下流の三毛別分教場とに分離避難させることとなった。あたかも平家の都落ちのように開拓部落の人々は次々と雪道を下流に向かって歩いていった。

一方クマ狩りの本部が下流の一軒の家に置かれ、討伐隊員が集まった。ところが11日も12日もクマの姿さえ発見できず、焦りにかられていた。13日夕刻にはクマは誰もいない開拓部落の9軒もの家に侵入し、破壊の限りを尽くした。同日午後8時頃、クマはさらに下流に現れ、発砲したが逃げられてしまった。

14日午前、足跡と血痕を発見し追跡したところ、クマを発見した。山本兵吉はクマに向かって発砲し見事に的中、クマをしとめた。3日間にわたった討伐隊員の出勤は官民あわせて延べ600人、アイヌ犬10数頭にも及んだ。

その後次々と開拓民たちはその地を離れた。戦後住む者がいたが、現在は事件現場付近に住む者はいない。部落の上流にあたる場所に事件復元地があり、開拓者の苦難の日々をしのばせる復元された明景家や、事件の説明板などがある。

この事件に関しては、作家の吉村昭氏がこれを題材とした小説「羆嵐(くまあらし)」を書いており、これはテレビドラマにもなったため知る人は多いと思う。現在新潮文庫から発売されている。また最近では、木村盛武氏がこの事件の真相を詳しく書いた「慟哭の谷」が共同文化社から出版されており、より事件を詳細に知ることができるようになった。


■ 石狩沼田幌新事件

この事件は日本の熊害史上2番目にあたる悲惨な事件であり、大正12年8月21日から22日にかけて起こったものである。

8月21日は沼田の恵比島部落で太子講祭りがあり、近くの村々から多くの見物者が集まっていた。祭りが終わり、帰途についた幌新部落の若者8人が、恵比島から4Kmほど離れた幌新小学校付近の山道に差し掛かったところ、道路脇のササヤブから突然クマが現れ、最後に1人で歩いていた少年に踊りかかった。しかし着物と帯にツメを引っかけたために、少年はこれをさき捨てて難を逃れた。この少年を見失ったクマは、先を歩いていた別の兄弟2人に追いつき、弟を一撃で撲殺、兄も重傷を負わされ、土中に埋めた。

残る数人はそこから300mほど離れた持地乙松宅に逃げ込み、炉の火を強くしたり、屋根裏や押し入れの布団などに潜り込んだ。クマはこの家の回りをうろついていたが、やがて玄関の引き戸を壊して家の中に侵入した。死傷した兄弟の両親はスコップで立ち向かったが、父は一撃のもとに叩きのめされ重傷を負った。クマはなおも家の中で暴れ回ったが、人影がないためか、いったん引き返そうとした。ところが、息子2人が襲われて気が動転した母親がふらふらと玄関から出ていったため、クマはその母親をくわえて消え去った。やがて助けを求める叫び声と念仏の声が聞こえてきたという。その後、家の付近を探すと、生き埋めにされ瀕死の重傷を負った兄を発見し、収容した。

この惨事はすぐに部落に伝わったが、これだけではなかった。同じ恵比島に住む猟師の永江政蔵は単身で山に入り、クマをしとめようとしたが、そのまま行方不明になった。24日にこの猟師はわずかな左足と、へし折られた村田銃という変わり果てた姿で発見された。また、同じ日討伐隊の最後尾にいた別の猟師が、中腹に潜んでいたこのクマに襲われ死亡、他の1人も重傷を負った。

この事件では結局4人の死者と4人の重傷者を出した。このクマは24日に射殺され、胃袋からは人の骨や指などが大量に出てきたという。

ちなみに沼田町恵比島は、現在数えるくらいしか家がない極端な過疎地だが、NHKの連続ドラマ「すずらん」の舞台となり、1999年夏は多くの観光客が訪れた。


■ 大雪山のヒグマ事件

この事件は明治以来、大雪山の登山史の中で唯一のヒグマによる死亡事件である。起こったのは1949年7月30日。愛山渓温泉に昼頃、秩父別の若者9人が到着し、無謀にも午後1時頃から沼の平・裾合平を経て、旭岳頂上までの往復登山に出かけた。全員無防備な上、日帰りの予定だったという。

9人いた若者のうち4人は姿見の池付近で疲労のため、引き返すことにした。残りの5人は旭岳頂上を目指した。ヒグマが姿を現したのは、4人の引き返した組の方である。午後7時頃、当麻乗越の約1キロ下の第2展望台に着き、そこから沼の平に続く登山路に差し掛かったところ、突然1頭のヒグマが姿を現した。4人はクマを追い払おうと大声を出したが、クマはうなり声を発しさらに接近してきた。4人が一斉に脇のササやぶに逃げ込もうとしたとき、クマは4人のうちの1人に襲いかかった。しばらく襲われた若者の苦悶する声が聞こえてきたが、残りの3人はどうしようもなく、近くの岩の間に隠れていた。午後9時頃、旭岳頂上から帰ってきた5人がやってきたので、その経緯を話し、その日はこの岩場で8人は夜明けを待った。

同日、愛山渓温泉では夜になっても若者たちが帰ってこないので、2人が三十三曲がりの坂の上まで様子を見に行ったが、暗く、手がかりがつかめないまま引き返した。翌31日早朝、国策パルプの山岳部員16名が愛山渓から沼の平、旭岳、中岳経由で層雲峡に向かった。このグループは途中で遭難した8人に出会い、事件を知り、共に愛山渓に引き返した。

その翌日の8月1日、20余名の捜索隊が現場付近を捜索したところ、喰い尽くされた無惨な遺体を発見した。加害グマも発見したが、撃ち損ねた。そのクマは翌年捕獲されている。


■ 福岡大パーティー遭難事件

この事件は日高山脈縦走中の福岡大ワンダーフォーゲル部のパーティーが1頭のヒグマに襲われ、3人の死者を出した事件で、北海道山岳史上最も悲惨な事件の一つである。また日高山脈における唯一のヒグマによる死傷事件である。事件が起こったのは昭和45年7月のことである。

7月14日、WV部の5人の学生は芽室岳からペテガリ岳までの縦走をすべく入山し、芽室岳から主稜を南下し、23日、幌尻岳の七つ沼カールに至って、カムイエクウチカウシ山で縦走を中止することにした。エサオマントッタベツ岳、春別岳を経て、午後3時半に九ノ沢カールに到着し、テントを設営した。午後4時半、夕食をすませ全員テントの中にいたところ、テントから6〜7メートルの距離の所にヒグマがいるのを一人が発見し、様子をうかがった。クマは周囲をうろつき、外に置いてあったリュックをあさった。その後様子をうかがいながら、残りのリュックをテント内に入れ、火をたき、ラジオの音量を上げ、食器を鳴らした。午後5時頃、クマは姿を見せなくなった。この日の夜9時頃、再びクマの鼻息がし、テントをひっかき、こぶし大の穴を開けた。この日は2人ずつ交代で2時間交代で睡眠をとる。

翌26日午前3時に起床し、4時半にテントを撤収しようとしたところ、テントの上方に昨日のヒグマが現れ、徐々に近づいてきた。全員テントの中で様子をうかがったが、クマはさらに近づいてテントに手をかけ侵入しようとした。そこで全員がクマとテントの幕を5分ほど引っ張り合った。しかしこれ以上無理と判断し、一人が反対側の幕を開け、一斉に50メートルほど逃げた。振り返るとクマはテントをあさっていた。そこで5人のうち2人は札内ヒュッテか営林署に連絡をとるため、九の沢を下り、下山した。途中、ほかのパーティーに出会い、話をすると、そのパーティーもヒグマに襲われたため下山するということだった。そのため、再び八の沢を登り、正午過ぎ、カムイエクウチカウシ山の稜線に出た。まもなく残った3人と合流し、休憩をとった後、カムイエクウチカウシ山と1900メートル峰との中間ピークにて午後3時、テント設営を決定した。その1時間半後、夕食をすませると、またも前日のヒグマが現れたため、全員60メートルほど下の方へ逃げた。その後ヒグマはテントをあさり続けた。パーティーのうち2人が八の沢カールにテントを張っていた鳥取大のパーティーの所に向かい、事情を話し今晩の宿泊をお願いすることにし、その後残りの3人も諦めて、鳥取大のテントに向かった。途中で全員合流し歩を進めていたところ、午後6時半頃、最後尾の一人から10メートルほど後方に先ほどのクマを発見、全員一目散に逃げた。皆、脇のハイマツに身を隠したが、25メートルほど下方で悲鳴が聞こえ、畜生と叫びながらクマに追われるように一人が山を下っていった。その後3人は集合したが、襲われたと思われる1人と、他の1人は来なかった。3人は鳥取大のテントに行き、午後8時頃、助けを求めた。鳥取大はそのまま下山し、3人は安全と思われる岩場に登って、その日の夜を過ごした。

次の27日、午前7時半に起床し、8時から行動を開始した。濃霧のため見通しが利かず、間もなくして下方2〜3メートルの所にクマが現れ、うなり声をあげた。一人が逃げるとクマはそれを追った。残った2人は八の沢を下り、午後1時、やっと砂防ダム工事現場に到着、事情を説明し車を待つ。その後、ヘリコプターが救援に向かった。

ところで26日に仲間とはぐれた1人であるが、崖の下にテントと焚き火をしているのを発見、そこに向かったが、途中ヒグマに遭遇、一目散に逃げ、やっとのことでテントに到着したが、テントには誰もいなかった。その日はそこで一晩を過ごした。次の日、テントを出ようとしたが、クマがいるのを発見したため、テントから出られなかった。彼はその後そのヒグマに襲撃された(襲撃の前までは本人の日記による)。

28日、捜索隊によって3人の遺体が発見され、次の日には加害グマが射殺された。このような惨事になった最大の原因は物目当てのクマに対して2度にわたって、荷物の争奪をしたことであろう。そのため、クマはその障害となる人間を徹底的に排除しようとしたものである。


■ 風不死岳の遭難事件

この事件は昭和51年、千歳市の風不死岳西尾根の独標571メートルの真西で国道276号から山側に120メートル入ったところで起こった。

6月9日午前10時半、11人の者がタケノコを採るために国道の横に車を止め、正午に戻る約束で各自山に入った。ところが集合時間になっても、3人が姿を現さないため、集合していた中の2人が捜索に入った。すると国道から80メートル入ったササやぶの中にクマに襲われて倒れていた1人を発見、車まで運んで病院に仲間が運んだ。そして通りがかった車に警察に届けるように依頼し、残る2人を探したところ、さらにその奥で瀕死の1人を発見した。しかしそばにクマがおり、近づいてきて危険なため、放置して全員車まで引き下がった。午後3時頃、警官と猟師とともに再び捜索を開始したところ、倒れていた1人のそばに依然クマがいたので、2発を発砲し、クマをしとめた。倒れていた1人は既に絶命、行方不明だったもう1人も午後5時過ぎ、付近で遺体で発見された。

なお、この事件の起こる前の6月4日午後、風不死岳の標高1000メートル付近で仲間5人とチシマザサを採っていた1人がクマに襲われて負傷している。また、同様に6月5日午前にも同岳の山林でチシマザサの子を採っていた1人がクマに襲撃され、怪我を負った。手口や大きさなどから、いずれの事件も同一グマの仕業であると断定された。