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ラルフ・ネーダー

(Ralph Nader 1934年2月27日 - )は、アメリカの弁護士・社会運動家。


長年環境問題、消費者の権利保護問題や民主化問題に携わっている。近年のアメリカの対外政策は帝国主義的で、大企業への利益誘導を行っており、民主主義の根本と人道に反しているとして批判をしている。大企業の持つ力にも批判的である。

独立系の大統領候補として有名であり、1996年と2000年には緑の党から立候補した。しかし、2004年の選挙では緑の党から公認を得られず、無所属候補として出馬した。そして、幾つかの州で改革党などから公認を得て選挙戦を戦った。

来歴・人物 [編集]
コネティカット州・ウィンステッド出身で、両親はマロン派のレバノン系移民であった。両親がアラビア語を母語としていたため、ラルフもまたアラビア語と英語を話して育った。

1955年にプリンストン大学を卒業し、ハーバード大学ロースクールを1958年に卒業した。その後、アメリカ陸軍を除隊した1959年からハートフォードで弁護士として働き始めた。

1961年から1963年までハートフォード大学の歴史学と政治学の教授を務めたが、1964年に突如ヒッチハイクでワシントンD.C.に行き、労働次官であるダニエル・パトリック・モイニハンのアシスタントの職を得ながら雑誌への投稿を行っていた。彼はまた上院の自動車安全問題分科会のアドバイザーも勤めた。1980年代初頭にはアメリカ食品医薬品局が眼科治療用の人工レンズ移植の大規模実験を許可したことに反対するロビー活動の先頭に立った。

自動車産業との戦争 [編集]
1965年、彼は『どんなスピードでも自動車は危険だ:アメリカの自動車に仕組まれた危険』Unsafe at Any Speed:The Designed-In Dangers of the American Automobileという乗用車の欠陥を指摘する本を出版し全米に衝撃を与えた。アメリカの自動車産業がシートベルトなど安全装置の導入に抵抗し、安全性向上のための投資を渋っていると述べ、特にゼネラルモーターズ製「シボレー・コルベア」に欠陥が多いと告発した。(ただし、その最大の欠陥であるサスペンションの設計ミスは1964年製からは修正されていた。)

GMはこの本を徹底的に無視する一方、彼を貶める為に探偵をも雇って粗探しをしたが失敗し、逆にプライバシーの侵害であるとしてネーダーに訴えられて賠償金を支払うことになった。また1966年には上院の自動車安全問題分科会への出席を余儀なくされ、ネーダーに一連の妨害を謝罪することとなり、その後コルベアは生産中止に追い込まれた。

また彼は、今も使われているアメリカの交通安全のための政策標語「三つのE」(技術、執行、教育の徹底 "Engineering, Enforcement, Education")は自動車の真の問題、たとえば最大積載の際の重さに耐えられないようなタイヤを売る会社があるような事実から目をそらすために作られたと告発している。

今でもこの本の告発のいくらかには今日的意義がある。ネーダーが自動車会社による政治的干渉だと感じた、新しい安全装置への導入反対の動きに対する非難である。ある者はこれを、今日のエアバッグ標準装備化をめぐる議論や、EUで行われている、前方歩行者との衝突の際に自動車がどれだけ歩行者にあたえる衝撃を抑えることができるか検証するための衝突テストを、アメリカへの導入を自動車業界がなんとか遅らせようとしている問題と同様と見ている。

消費者運動 [編集]
ともあれアメリカ政府はネーダーの本を受ける形で自動車と交通の安全に関する法律や部署を設置し、ネーダーの告発は勝利に終わった。彼はその後も自動車の安全を監視する組織を運営している。さらにネーダーの運動に刺激された幾百の若い消費者運動家たち(ネーダーズ・レイダーズ、「ネーダー攻撃隊」)とともにさまざまな方面の消費者保護運動に携わり、政府や産業界の環境、福祉、健康、政治腐敗などの問題点を次々に告発した。1971年にはこれらを傘下におさめる上部組織であるNGO「パブリック・シチズン」を設立、現在では15万人の会員を擁し政府や議会、産業界などを調査・監視しているほか、国民の健康を守ったり消費者の権利を保障したりするためのさまざまな法案を通したり政府機関の設立に寄与した。

大統領選への立候補 [編集]
2000年アメリカ合衆国大統領選挙 [編集]
1996年に続いてネーダーはウィノナ・ラデューク副大統領候補と共に選挙戦を戦った。人々の中には、ネーダーのような独立系候補や第三の政党が、民主・共和両党による大統領候補討論会から除外されているために彼らは疎外されて選挙戦の支援を受け難くなっていると考える者も居り、このことから市民討論会が開催された。

その一方で、共和党のジョージ・W・ブッシュ候補と民主党のアル・ゴア候補が大接戦を繰り広げていた為、民主党支持者の中には勝利の目が無いのにも拘らず立候補していたネーダーを非難する者も存在した。ネーダーは、選挙費用の公費援助が受けられる得票率5%を目標にした。

結果、ゴア候補への支持者の流出もあり、実際のネーダーの全国得票率は2.7%に留まった。しかし、投票方式問題が発生したフロリダ州やニューハンプシャー州では両候補の得票差を彼の得票が上回るという事態が発生した。専門家はこの事態がブッシュの勝利に対して大きな影響を及ぼしたと見ている。

こういった状況を避ける為、予め民主党は、接戦の州では「“ネーダーへの投票”=“ブッシュへの投票”である」というキャンペーンを張り、また、有権者の間では、ブッシュの勝利が磐石な州のゴア支持者がネーダーに投票する見返りに接戦の州のネーダー支持者がゴアへ投票するという行動も見られた。

このように、選挙戦のキャスティング・ボートを握っていたネーダー陣営は、民主党からの批判に対し、「地元テネシー州で勝てば自力でゴアは勝利できたのにゴア陣営は敗戦の責任をこちらになすり付けている」と反論し、さらに、上記の「戦略投票」に対しては良心に従って投票するよう求めていた。

2004年アメリカ合衆国大統領選挙 [編集]
この選挙戦においては、2003年12月に予めネーダーは緑の党の候補としては立候補しないと表明していた。2000年の結果も受けて、民主党はネーダーの立候補を阻止しようと動き、ジョン・ケリー候補自身も個人的に会談を行ったがネーダーは拒否した。そして、ネーダーは2004年6月に副大統領候補をペーター・ミゲル・カメーヨとすると表明した。彼のスタンスは、緑の党の支持は受けても良いけれども公認を求めるつもりは無いというものだったが、緑の党は党大会で彼への支持を拒否し、ディビッド・コブを擁立した。一方、共和党はネーダーの立候補で有利になると見て、密かに立候補を支援した[1]。前回に比べて大きく得票を減らし、456,356票、約0.4%の得票率にとどまった。

2008年アメリカ合衆国大統領選挙 [編集]
2008年2月、テレビ番組で無所属による立候補を表明した。2000年、2004年に続き民主・共和両党とは別の第3候補として挑戦する意向を表明した。緑の党の指名は得られず、党はシンシア・マッキニーを擁立した。ネーダーが当選する可能性はゼロと見られるが、消費者保護や環境対策を前面に出した同氏の支持層は民主党の支持基盤と重なるため、同党候補の票を浸食する可能性が指摘された。

得票は736,804票、得票率約0.56%であった。民主党のオバマが大勝したため、結果的にネーダーの影響力は僅かなものに留まった。


ケネディ
ジョン・フィッツジェラルド・ケネディ (John Fitzgerald Kennedy , JFK , 1917年5月29日 - 1963年11月22日)は第35代アメリカ合衆国大統領。キューバ危機を回避。ベトナム戦争早期撤退を計画。一般的には清新なイメージのリベラル派とされ、アメリカ国民からの期待も高かった若き大統領であったが、任期半ばの1963年にダラスにて暗殺される。暗殺の真相は未解明であり、様々な陰謀説が流れている。ケネディの暗殺は現在に於いてもアメリカ社会に暗い影を投げ掛けている。




生い立ち [編集]
ケネディはマサチューセッツ州ブルックラインで、アイルランド系移民の子孫で投資家のジョセフ・P・ケネディ・シニアの次男として生まれた。名前は母方の祖父でボストン市長も勤めたジョン・F・フィッツジェラルドにちなむ。13歳のときにチョート・スクール(コネチカット州ウォリングフォードの寄宿学校)に入学し、その後1935年にイギリスのロンドン・スクール・オブ・エコノミクスに1年間留学した。帰国後ハーバード大学に入学を認められていたものの、親しい友人が進学を決めたプリンストン大学に入学することにした。しかし、クリスマス休暇中にかかった黄疸のため退学している。

1936年の秋にはハーバード大学に転校したが、在学中にフットボールの試合で背中をひどく痛めた。在学中ヨーロッパへ2度旅行しており、2度目の旅行では父親が大使を務めていたイギリスを訪れている。1940年6月、1938年のミュンヘン協定におけるイギリス外交政策の分析についての卒論『イギリスはなぜ眠ったか』を書き、ハーバードを優等で卒業した。

軍歴 [編集]

PT109に乗船中のケネディ1941年の春にケネディは陸軍を志願したが、学生時代に受けた背中の傷のために拒絶された。しかしながら、夏に体を鍛え、その年の9月に海軍士官に任官、1943年3月には艇長としてパトロール魚雷艇を受け取り、第二次世界大戦中に太平洋戦線において様々な作戦に参加した。

ケネディ中尉が率いる魚雷艇、PT-109は、1943年8月2日にソロモン諸島のニュージョージア島の西を哨戒していた時に、大日本帝国海軍の駆逐艦・天霧との偶発的な接触事故によって船体を引き裂かれた。彼は痛めていた背中からデッキにたたきつけられたが、負傷者を命綱で結びつけ3マイル遠泳して、なんとか小さな島にたどり着いた。その接触事故を目撃した僚艇の乗員は、PT-109の乗員全員の戦死を確信し、基地に帰還後の報告でも乗員全員の戦死を報告した[1]。 ゆえに友軍の捜索・救出開始まで一週間近くかかってしまい、助かったPT-109の乗員たちは飢えと渇きに苦しんだ。そして、友軍による数日の探索後に島民2人に出会い、ココナッツに刻んだメッセージが元で救助された[2]。 この時の部下を見捨てなかった勇敢な行動が、後の政治家としての資質評価に大きく寄与したとされる。

これらの行動について、ハルゼー海軍提督からの感謝状、名誉負傷章、海軍メダルおよび海兵隊メダルを受章した。しかしながら背中の傷はボートの上にぶつけた際に悪化し、さらにマラリアにかかり、1945年前半、終戦の数か月前に名誉除隊をした。後日談だが、1952年の上院選と1960年の大統領選の際には天霧の元乗員一同から激励の色紙を贈られている。

政治経歴 [編集]
下院議員 [編集]
第二次世界大戦後、彼は戦死した兄ジョセフ・P・ケネディ・ジュニアに代わり政界に入った。1946年にジェームズ・M・カーレイがボストン市長になるために民主党下院議員を辞職した時、ケネディはその議席をかけた補欠選挙に立候補した。父のジョセフが実業家であったこともあり、政治資金には困らなかったので、実現不可能な公約をする必要はなく理想主義を語ることができた。長く精力的なキャンペーンの末に、大差で共和党候補に勝ち、29歳で下院議員となった。当初は父のジョセフとコネがあった同じアイルランド系のジョセフ・マッカーシー上院議員の赤狩りに協力していた。リベラル派のエレノア・ルーズヴェルトはそのことを忘れず、後々までケネディを嫌っていた。下院3期目の1952年には上院議員選挙に出馬し、約70,000票の大差で共和党候補ヘンリー・カボット・ロッジ・ジュニアを破った。以後の彼の支持基盤は北部都市圏のリベラル派インテリ層となる。

ケネディは1953年9月12日にフランス系移民の名門の娘であるジャクリーン・リー・ブーヴィエと結婚した。彼はその後2年間に多数回の脊柱の手術を受け上院本会議を長期にわたって欠席したが、手術から回復するまでの間、8名の上院議員の政治的に勇敢であった行為についての本『勇気ある人々』を出版した。この本はその後ピューリツァー賞を受賞した。賞金は黒人の通う学校へ寄付したと言われている。

マクレラン委員会 [編集]
ケネディは組織犯罪と労働組合の腐敗を追及する上院マクレラン委員会の委員として名を連ねていた。実弟で後の司法長官ロバート・ケネディはこの委員会の首席顧問として司法省から回され検事役を務めた。この委員会による最大の功績は、アメリカ一の組合員数を誇ったトラック運転手組合チームスター組合とマフィアとのつながりを明らかにしたことである。これによりチームスター組合のボス、ジミー・ホッファとマフィアの深い関係が暴かれ、以後ケネディ兄弟対ホッファ、及びケネディ対ホッファと関係の深かったマフィアの、因縁の対立が始まる。

また、マクレラン委員会はバティスタ政権下のキューバからのヘロインの中継基地が、南部の港湾都市で、港湾労働者組合をマフィアが抑えていたニューオーリンズであると特定した。この委員会の活動によりケネディ兄弟は知名度を高めた。

1960年の大統領選 [編集]

ニクソンとのテレビ討論11月8日の大統領選挙は歴史に残る接戦でリチャード・ニクソンに勝ったが、43歳で当選したケネディは最も若い大統領および最初のカトリック教徒だった[3]。 その選挙運動に関するセオドア・H・ホワイトの1961年の著書『 The Making of the President 1960 』は、ベスト・セラーであるだけでなく、しばしば高校と大学のアメリカ政治と歴史のコースの中で補足のテキストとして使用される。

Theodore Harold White , " The Making of the President 1960 " (ピューリッツァー賞受賞)
T.H.ホワイト・著、渡辺恒雄・小野瀬嘉慈・訳 『大統領になる方法』(上巻・下巻の全2巻) 弘文堂 1964年 
シオダー・H.・ホワイト・著、渡辺恒雄・小野瀬嘉慈・訳 『大統領への道』(フロンティア・ライブラリー) 弘文堂 1965年 (『大統領になる方法』の改題新装版)
民主党予備選 [編集]
ケネディは民主党予備選挙に7度出馬し全て勝ち抜いたが、民主党幹部はカトリック教徒である彼が大統領候補になれば民主党は勝てないと判断した。彼らの声を代表して元大統領のハリー・S・トルーマンはミズーリ州インディペンデンス市で記者会見を行い、テレビを通じてケネディに出馬を思いとどまるよう訴えた。ケネディはこれを逆手にとってニューヨークで記者会見を開き、全ての予備選に出馬したのは自分だけであること、14年間の自分の政治経歴が大統領職に十分でないのであれば、トルーマン自身を含めて歴代の大統領の大部分が経験不足ということになること、44歳以下の人間が国家に対して責任ある地位に就けないのであれば、建国の父たちは存在し得なかったことを挙げて反論し、国民の支持を増した。

選挙戦開始 [編集]
1960年7月13日、民主党大会においてケネディは大統領候補に指名され、副大統領候補にはテキサスの上院議員リンドン・ジョンソンを指名した。ケネディはその指名受諾演説でその後有名になる「ニュー・フロンティア精神」を掲げた。この演説の中でケネディはアメリカ国民に対し、「現状維持に固執するのではなく新しい未来への先駆者となるよう」呼びかけた。

テレビ・ディベート [編集]
この選挙では初めてテレビ・ディベートが取り入れられ、選挙に大きな影響を与えた。ケネディはマクレラン委員会の活動により名を高めていたとはいえ、現職副大統領のニクソンの知名度にははるかに及ばなかった。この事実を反映するように、テレビ・ディベートの直前に行われた支持率調査ではニクソンの支持率が勝っていた。しかし、ケネディはテレビ演説で好印象を残したことが幸いしてニクソンに勝利できたとされる。

ケネディの好印象の理由の一つは、ケネディが着ていたスーツの色と言われる。演説の時、ケネディは濃い色のものを、それに対してニクソンは薄い色のものを着ていた。当時のアメリカの一般家庭にあったテレビはモノクロであったから、ケネディは濃いグレーで表示され力強く見え、反対にニクソンは薄いグレーで表示され、たよりなく見えたと言う。事実、ラジオでケネディ対ニクソンのテレビ・ディベートを聞いていたケネディ陣営は負けたと思った、と後に証言している。更にケネディはテレビ用のメーキャップをした上に、持病の治療のために服用した薬品の副作用で日焼けしたスポーツマンに見えた。それに比べニクソンは直前に怪我を負っていたために顔色が悪かったにもかかわらず、「議論の内容が重要である」と言いテレビ用のメーキャップを拒否した上に、選挙戦の疲れからやつれて見えた。

このテレビ・ディベート以来、大統領選では両党の候補者がテレビ・ディベートを行うことが定着化している。また、候補者が着るスーツの色も、ほとんどがケネディが着ていたのと同じ、濃い紺色に近いものとなっている。

キング牧師釈放への関与 [編集]

アイゼンハワー前大統領とケネディ(1960年)大統領選キャンペーンが最後の追い込みに入った10月半ば、公民権運動家のキング牧師が、座り込みデモのために南部のジョージア州アトランタで逮捕された。この事件に対しコメントを求められると、ニクソンはノー・コメントの姿勢を貫き通したが、ケネディは即座にキング夫人に事態を憂慮しているとの電話をかけ、キング釈放のために動き出した。翌日、実弟のロバート・ケネディがキングに有罪判決を言い渡した判事に電話を入れ、キング釈放を求め、この翌日キングは釈放された。この一件で多くの黒人票がニクソンからケネディに流れたといわれている。黒人の多くはプロテスタントの一派であるバプティスト派の信者であるため、初めはクエーカー教徒で同じプロテスタントであるニクソン支持に回っていた。

キングの父親はニクソン支持からケネディ支持に鞍替えした理由を尋ねられた時、「私の妻が息子の逮捕に涙を流している時、彼(ケネディ)は、その涙を拭ってくれた。このような時にこうした行動をとる事は勇気のいる事だからだ」と答えたという。また、前大統領のドワイト・デビット・アイゼンハワーは、「たった2回の電話(ジョン・ケネディからキング夫人への電話とロバート・ケネディから判事への電話)が民主党を勝たせる結果になってしまった」と語った。

大統領職 [編集]

大統領就任式ケネディは1961年1月20日に第35代大統領に宣誓就任した。ケネディは就任演説において、アメリカ人がみな「アクティブ・シチズン」である必要を語った。「祖国があなたに何をしてくれるかを尋ねてはなりません、あなたが祖国のために何をできるか考えて欲しい」と演説し、さらに「人類の共通の敵」である暴政・貧困・疾病および戦争と戦うためにともに参加してくれるように世界の国家に依頼した。

外交政策 [編集]
ピッグス湾事件 [編集]
亡命キューバ人を訓練してカストロ政権を転覆させることを目的としたピッグス湾事件が就任後すぐに起きた。ピッグズ湾侵攻計画はキューバ革命後、ケネディの前任者アイゼンハワー政権末期にCIAにより準備された。アイゼンハワーはこの作戦にはほとんど関わらず、副大統領のニクソンが主導していた。ケネディが大統領に当選すると、作戦を主導してきたCIA長官のアレン・ダレスや、リチャード・ビッセル作戦局担当次官らはケネディにこの侵攻計画を説明した。なお、選挙期間中、ケネディもニクソンもキューバに関する公約として、「必要とあらばキューバ侵攻を認める」という姿勢を通していた。


ロバート・マクナマラとケネディ1961年4月4日、この計画に関する最後の会議が国務省で開かれた。出席者はケネディ、ラスク国務長官、マクナマラ国防長官、C・ダグラス・ディロン財務長官、その他国防次官クラスの閣僚のほか、J・ウィリアム・フルブライト上院外交委員長、大統領顧問のアーサー・シュレジンジャーほか2人、ダレスCIA長官、ビッセルCIA作戦局担当次官、レムニッツァー統合参謀本部議長であった。なお、上記のように選挙中からキューバ侵攻の可能性を口にしていたケネディは、この会議で作戦の実行を命令したものの「いかなる場合もアメリカ軍の“正規軍”は投入してはならない」という条件付きとし、出席者は全員ケネディの条件を承諾した。

しかし、それまでCIAは上陸する亡命キューバ人部隊に対してはアメリカ正規軍の援助を約束していたにもかかわらず、ケネディがつけた条件の「非正規軍」の爆撃機や補給船などを準備したものの、作戦終盤に急遽ケネディが戦闘機による護衛を行うまで正規軍の投入を控えたことや、作戦計画がキューバ側に漏れていた為にキューバ軍が亡命キューバ人部隊2000人弱に対して20万人のキューバ軍を動員して迎え撃ったこともあり作戦は完全な失敗に終わった。やがて、アメリカ政府が主導して、この作戦を実行したことが世界中に知られたため、それを推し進めたケネディ政権はラテンアメリカ諸国をはじめとする各国からの非難を浴びた。

さらにアメリカ正規軍の投入を土壇場で拒否したために、亡命キューバ人団体やCIA、軍部からも反感を買った。ケネディはこの事件を期にダレスCIA長官とカベル同副長官を更迭し、ジョン・マコーンをダレスの後任とした。ケネディは、キューバへのゲリラ活動や空軍機による空中偵察活動をその後も暫くの間継続させたが、CIAが行なっていたカストロ暗殺計画を知っていたかは意見が分かれている。

ベルリン危機 [編集]

ウィーン会談中のフルシチョフとケネディピッグズ湾事件から2ヶ月も経たないうちに、次なる試練であるベルリン危機が勃発した。1961年6月のウィーン会談で、ケネディはソ連のフルシチョフ書記長兼首相を相手に首脳会談に臨んだ。議題はベルリンに関してだった。この会談でフルシチョフは、「第二次世界大戦の終結を受けて、西ドイツ 、( 西ベルリンを管理している)アメリカ、イギリス、フランスの四ヶ国とソ連は、東ドイツと平和条約を結んで第二次世界大戦の戦後処理を終結すべし」と主張し、「もしそれがなされれば米英仏の軍隊は西ベルリンから撤退せねばならない」と説いた。

そんなフルシチョフに対してケネディは、「西側の権利は放棄しない」と反論。これに対しフルシチョフは、「西側が東ドイツと平和条約を結ぶつもりがないのなら、今年中にソ連は単独で結ぶ」と伝え、ケネディを揺さぶった。しかしケネディは、「西ベルリンの自由を妥協の対象にはしない」と通告。この会談は明日にも戦争が起きそうな緊迫感を帯びていたという。

翌月、ケネディはベルリン危機に関するテレビ演説を行い、改めて西ベルリンを守り抜く決意を表明した。ケネディの強硬姿勢に対して1961年8月13日にフルシチョフは、ベルリンの壁を建設するという手段で対抗した。これに対してケネディは西ベルリン駐留軍を強化。結局ソ連と東ドイツの間に平和条約が結ばれることはなかったが、この後もベルリンを巡って米ソの緊張は続いた。後に西ベルリンを訪問したケネディが演説中に言った「自由を求める者は皆、ベルリン市民である。私も1人のベルリン市民である (Ich bin ein Berliner:イッヒ・ビン・アイン・ベルリナー)」という言葉は、アメリカの西ベルリンに対する決意の強さを表すものとしてソ連に対する強いメッセージとなったばかりか、多くのベルリン市民やドイツ国民の心に残ることにもなった。

キューバ危機 [編集]
キューバ危機の回避は、おそらくケネディの大統領在職中最も重要な出来事だった。優れた政治手腕と側近からのサポートそして運によって、ケネディは戦争を望んだ政権中の強硬派のコントロールと、ソ連の脅迫によって脅威が増すことを防ぐことの両方を試み、それに成功した。後に、多くの人がキューバ危機を「世界が核戦争に最も接近した時」であると考えている。


U-2偵察機ケネディはピッグス湾事件の失敗以降も、キューバがソ連と急速に親密な関係を築いていたことからアメリカ空軍機によるキューバ軍施設の偵察活動を継続させており、実際にキューバ危機は、アメリカ空軍のU-2偵察機が、ソビエト連邦がキューバに建設していた核ミサイルサイロの写真を撮影した1962年10月14日に始まった。

ケネディは国家安全保障会議執行委員会(エクスコム)を設置して対応に当たった。エクスコムの会議において、統合参謀本部のメンバーはキューバ奇襲攻撃を主張したが、マクナマラ国防長官やロバート・ケネディ司法長官は海上封鎖を主張した。ケネディは海上封鎖の実施を決断し、同盟国の支持を得るために元国務長官ディーン・アチソンをフランスのシャルル・ド・ゴールのもとに派遣するとともにイギリスのハロルド・マクミラン、西ドイツのコンラート・アデナウアーのもとに国務次官を送り、NATO主要国である彼らの支持を得た。また、OAS諸国にはアメリカ大使館を通して事態を知らせた。

元大統領のフーヴァー、トルーマン、アイゼンハワーをホワイトハウスに招きケネディ自身が状況説明を行い、さらに議会指導者に対しても自身で状況説明を行った。この議会指導者との会談ではフルブライト上院議員やラッセル上院議員は海上封鎖に反対し、キューバ爆撃を主張した。

国内の軍隊をアメリカ南東部に移動、空軍戦略航空軍団を最高の警戒レベルに引き上げ、180隻の海軍艦艇をカリブ海に展開させて海上封鎖の準備を整えた。

10月22日午後7時、これらの準備が整った上でケネディは演説を行い、キューバに攻撃用ミサイルが持ち込まれた事実と米国によるキューバ海上封鎖措置を発表し、キューバ国民に対して攻撃用ミサイルは何の利益にもならないと強調した。この演説は合衆国海外情報局 (USIA) を通してスペイン語に訳され中南米諸国に放送された。この演説の翌日、OASは全会一致で米国による海上封鎖措置の支持を決議した。ケネディの演説から2日後の朝に海上封鎖が発効し、潜水艦に守られていたソ連船18隻のうち16隻が洋上で停船・またはUターンし、翌日にはこれら16隻全てがUターンした。

10月23日には、ケネディはキューバのミサイル基地の写真を国連用および報道・出版用に公開し、10月25日にはアメリカのアドレイ・スティーヴンソン国連大使がこれらの写真を用いてソ連のヴァレリアン・ゾーリン国連大使と対決し、劇的な効果を収めた。

しかしこの後もキューバ国内では、すでに持ち込まれた資材をもとにミサイル基地建設が急ピッチで進んでいた。10月27日にはルドルフ・アンサーソン少佐が操縦していたU-2偵察機がキューバのSAM(地対空ミサイル)により撃墜される事件が起こった。これに対してエクスコムのほぼ全員がSAM基地の破壊で一致したが、ケネディは彼らを引き戻し、キューバに対する攻撃は、ベルリンやアメリカのジュピター・ミサイルが配置されているトルコに対するソ連の攻撃を誘発しかねないことを訴え、攻撃しないことを決定した。

この間、10月26日と10月27日にフルシチョフから書簡が届いており、前者は柔軟、後者は強硬な内容であった。ロバート・ケネディ司法長官とテッド・ソレンセン大統領顧問は前者に対する回答を起草し、これが送信された後、ロバート・ケネディはアナトリー・ドブルイニン駐米ソ連大使を司法省に呼び会見した。フルシチョフはこの回答に対する返事の中で、アメリカがキューバに侵攻しないことと引き換えにキューバのミサイル基地を解体することに同意した。キューバ危機の後、ケネディはトルコに配置してあるジュピター・ミサイルを撤去した。後の歴史学者の間では、当時の第一副首相ミコヤンからの強い進言がフルシチョフにキューバの核ミサイル撤去に踏み切らせたと考えられている。

ケネディとフルシチョフは、互いの陣営を巧みに操りながら核戦争の危機をうまく回避したことにより世界中からの尊敬を集めたが、後にフルシチョフはこの際の軟弱な対応などを理由に1964年10月に失脚させられてしまった。

「平和のための戦略」 [編集]
ケネディはキューバ危機が去った1963年6月10日に、アメリカン大学の卒業式において『平和のための戦略 (THE STRATEGY OF PEACE) 』という演説を行なった。

この演説の中でケネディは、「私の言う平和とは何か? 我々が求める平和とは何か? それはアメリカの戦争兵器によって世界に強制されるパックス・アメリカーナではない。そして墓場の平和でもなければ奴隷の安全性でもない。(中略) ソ連への我々の態度を再検討しようではないか。(中略) 我々のもっとも基本的なつながりは、我々全てがこの小さな惑星に住んでいることである。我々はみな同じ空気を呼吸している。我々はみな子供たちの将来を案じている。そして我々はみな死すべき運命にある。(中略) 我々の基本的、長期的なジュネーブでの関心は全面的かつ完全な軍縮である。この軍縮は段階的に行われるよう計画され、平行した政治的な進展が兵器に取って代わる新たな平和機構を設立することを可能にするものである」と語った。

さらに米英ソの間で核実験禁止条約に関する話し合いを始めることを明言し、「他の国が核実験をしない限り、アメリカも再開することはない」と宣言した。この演説はノーカットでソ連の新聞やラジオで伝えられた。その後、1963年7月25日、米英ソの間で部分的核実験禁止条約 (PTBT) を締結することになる。

しかし、この条約はその内容よりも、核軍縮への第1歩としてのシンボルであるという点に重点を置かれていたため、実際にはこの条約は大気圏内、海中、宇宙空間での核実験は禁止したが、地下での実験は禁止されていなかった。

対イスラエル政策 [編集]
ケネディはまた、イスラエルの核開発に対し強硬に対応した唯一の合衆国大統領として知られている。建国直後から、アメリカやイギリス、フランス等から明暗の力を得て核開発に邁進したイスラエルだが、ケネディは大統領就任直後から「イスラエルが核を取得することは中東に大きな戦禍をもたらすことになる」という信念のもと、何度も外交勧告を行い、ついには査察団まで送り込んでいる。

ベトナム戦争 [編集]

前線に降下するアメリカ軍のUH-1ヘリコプターケネディは大統領に就任直後、東南アジアにおける「ドミノ理論」の最前線にあったベトナムに関する特別委員会を設置するとともに、統合参謀本部に対してベトナムについての提言を求めた。また、副大統領のジョンソンをベトナムに派遣し情勢視察に当たらせた。特別委員会、統合参謀本部はともに、ソ連の支援を受けてその勢力を拡大する北ベトナムによる軍事的脅威を受け続けていた南ベトナムへのアメリカ正規軍による援助を提言し、ジョンソンはベトナム視察の報告書の中で南ベトナムのゴ・ディン・ディエム大統領を「東洋のチャーチル」と持ち上げ、全面的な支援を訴えた。これを受けてケネディは、「軍事顧問団」の派遣を増強することを決定した。

しかし、その後ケネディはベトナム戦争からの早期撤退の可能性を検討した。1963年9月3日に、ケネディはテレビのインタビューに対し、「サイゴン政府が国民の支持を得るためにより大きな努力をしなければこの戦争には勝てない。最終的には、これは彼らの戦争だ。勝つか負けるかは彼らにかかっている。我々は軍事顧問団を送り、武器を援助することはできる。しかしこの戦争―ベトナム人対共産主義者の戦い―で実際に戦い勝たねばならないのは彼ら自身なのだ。我々は彼らを支援し続ける用意はある。しかしベトナム国民がこの努力を支持しなければこの戦争には勝てない。私の見るところ過去二ヶ月の間にサイゴン政府は民衆から遊離してしまっている」と答えた。

そして10月31日には、「1963年の末までに軍事顧問団を1000人引き揚げる予定」であることを発表した。そして11月の反ディエムクーデターの後には、マクナマラ国防長官が年内の1000人の顧問団の引き揚げを再確認するとともに、1965年までの軍事顧問団の完全撤退を発表したが、ケネディ暗殺のため撤退計画は頓挫したと言われる。

2003年発表のドキュメンタリー映画「The Fog of War」では、マクナマラ国防長官とジョンソン大統領の電話の録音記録が紹介され、ジョンソンがケネディのベトナム撤退に強く反対であったことの直接的な証拠を提示している[4]。 アメリカによるベトナムへの軍事介入はジョンソン大統領によってより増強され、泥沼化した。

「平和部隊」 [編集]
ケネディが最初に行ったことのうちの1つは「平和部隊」を作ることだった。志願したアメリカ人によって実行されるこのプログラムは、今日まで存続している。教育、農業、ヘルスケアおよび建設の部門で友好国の支援にあたるこのプログラムは「世界の至る所での多くの人々の尊敬を勝ち取った」とケネディによって自画自賛された。しかし同時に、アメリカによる過剰な他国への介入の象徴として世界各国から拒否、批判される事が多く、実際にアメリカ企業の進出の地盤固めとして機能しているという指摘も多い。

国内政策 [編集]
ケネディは、大統領選挙中から一貫して提唱してきた「ニュー・フロンティア精神」に基づき、その国内政策を「ニュー・フロンティア政策」と総称した。教育への連邦政府支出と高齢者医療保険、政府による景気対策を柱とする野心的な公約であり、人種差別の廃止も含まれた。1963年に所得税減税を含んだ税制改革を提案したが、彼の死後、1964年まで議会を通過することはなかった。ケネディの生涯の間、主要な政策はわずかしか議会を通過しなかったが、後継者ジョンソン政権下の1964-65会期中にそれらは可決された。

人種差別との戦い [編集]

大統領執務室から語りかけるケネディケネディは、多くの深刻な国内問題にも対処しなければならなかった。すべての問題の中でも最も大きな問題であったのは当時アメリカ人口の1割強を占めていたアフリカ系アメリカ人に対する人種差別に関する問題であった。

ケネディは大統領権限でできることとして、有能な黒人を積極的に連邦政府の幹部に任命した。その結果司法省では黒人の連邦検事は10人から70人に増え、また連邦判事もゼロから5人に増えた。また、企業や労働組合に対しても黒人を積極的に雇うよう働きかけた。連邦政府の補助金を受けている病院や図書館での差別は大統領府令によって禁止し、連邦雇用局に対しては白人だけを雇う企業の求人を拒否するよう命じた。さらに、ケネディは黒人の選挙権に対する2つの南部の悪習を撤廃させるよう努力した。その1つとして、貧しい白人や多くの黒人を投票所から締め出していたポール・タックス(投票するために支払う税金)を廃止する法案を通過させ、この法案は合衆国憲法修正第24条となった。もう1つの悪習はリテラシー・テスト(黒人を選挙から締め出すことを目的としたテスト)であったが、これを廃止する法案は上院を通過できなかった。

しかし、ケネディが政権についていた全期間を通じて政権スタッフに黒人をはじめとする少数民族を入れることがなかったことから、「自らには甘い」との批判を受けることも多い。また、ケネディが積極的に行った人種差別政策は当時アメリカ人口の1割強を占めており、有力な票田となるアフリカ系アメリカ人に対するものが殆どで、「少数民族」であるネイティブ・アメリカンや日系アメリカ人などに対する政策や行動は殆どみられなかった。

連邦最高裁は、1954年に、公立学校の中での人種の分別を違憲とする判決を下した(ブラウン判決)。しかしながら、特に南部の州には、この決定に従わなかった多くの学校があった。1962年9月、ジェームズ・メレディスという黒人学生がミシシッピ州立大学に入学しようとして拒否される事件が起きた。メレディスは一年前から州政府と法廷で争い、地方裁判所から連邦最高裁までことごとくメレディスが勝訴してきた。しかしミシシッピ州知事ロス・バーネットは裁判所の判決を拒否したため、連邦控訴院はバーネットに法廷侮辱罪で有罪を宣告し、連邦政府に対して裁判所の命令を実行するよう要請した。司法長官ロバート・ケネディはバーネットや大学当局に対し説得を開始し、大学側はメレディスの入学受け入れを決定した。しかしバーネットはあくまでも拒否の姿勢を貫き、州兵を動員して大学の周囲を固め、メレディスが大学へ入るのを妨害した。ケネディは州兵を連邦化する行政命令を出し、連邦保安官にメレディスを目立たぬように夜中に大学の寮内に連れ込ませた。しかしこれを知ったKKKメンバーをはじめとする人種差別主義者約2500人が暴動を起こした。ケネディはこの件に関する演説を行ったが、連邦保安官や連邦化した州兵では対処し切れなかったのでついに軍隊を動員してこれを鎮圧した(メレディス事件)。

この事件後、黒人学生を認めなかったほかの南部諸州も黒人学生の受け入れをはじめたが、アラバマ州のジョージ・ウォレス知事だけは違った。この頃、アラバマ州でも黒人学生が州立大学を相手取って裁判を起こし、黒人側が勝っていたが、まだ最高裁での最終判決は出ていなかった。1963年4月、キング牧師に率いられたデモ隊がアラバマ州バーミンガムに集結し、デモを行った。バーミンガムの警察長官ブル・コナーは見せしめ的な対応で徹底的に弾圧したが、キングらのデモ隊はひるむことなく毎日デモを続けた。このデモはアメリカ中に人種差別問題に関する世論を喚起する重要な役割を果たした。ケネディは司法省幹部によるバーミンガム市の地域リーダーの説得を続け、大学側に黒人学生の入学を認めさせることに成功し、また地元のレストランやデパートの中には黒人を客として受け入れ、職場も開放し始めるところもでてきた。しかし1963年5月11日、バーミンガム市内の黒人の住居やホテルが人種差別主義者によって爆破される事件がおこり、これをきっかけとして暴動が起きた。ケネディはすぐさま連邦軍を派遣し事態の収拾に努めた。1ヵ月後の6月11日、2人の黒人学生ジェームズ・フッドとヴィヴィアン・マローンが司法次官ニコラス・カッツェンバックにつきそわれてアラバマ州立大学の門前に到着した。司法長官ロバート・ケネディはウォレス知事に対して電話で妨害しないよう説得したが、ウォレスはこれを拒否し、州兵で大学の周囲を固めて自ら大学の門に立ちはだかった。ケネディは州兵を連邦軍に編入・指揮下に置くとともに大学周辺を関係者以外立ち入り禁止にし、バーミンガム郊外に連邦軍を集結させた。カッツェンバックが大統領布告を読み上げ、州兵の司令官が連邦政府の任務遂行を妨害するなら逮捕すると宣告し、ウォレスはようやく引き下がった。これにより全米50州の中で黒人学生を締め出す州はなくなった。

ケネディは、それまでは議会との対立を避け公民権法案の提出を見合わせていたが、アラバマ州立大学に2人の黒人学生が入学した1963年6月11日夕方、公民権運動を助けるためにより強い処置を講ずる時期が来たと決断し、議会へ新しい公民権法案を提案、テレビで大統領執務室から直接国民に訴えかけた。「リンカーン大統領が奴隷を解放して以来100年間の猶予が過ぎた、彼らの相続人、彼らの孫は完全に自由ではない」と言った。アメリカは多くの国家および背景の人、そして人は皆平等に作られたという原理によって設立されたことを訴え、ケネディはアメリカ人がみな彼らの皮膚の色にかかわらず、アメリカで幸福な生活を楽しむべきであることを明らかにした。この演説の中でケネディは人種差別を単なる憲法や法律上の問題ではなく、「道徳的危機」であると断じた。ケネディは議会に対する説得にも力を入れた。6月19日に法案を議会に送るとともに、法案に関する特別メッセージを送った。その中でケネディは「この法案の提出は、単に経済的効率のためでも、外交的配慮のためでも、ましてや国内の平穏を保つためでもない。ただ何よりもそれが正しいことだからだ」と訴えた。この公民権法はケネディ政権下では成立しなかったが、人種差別廃絶に対し積極的な姿勢を持っていたジョンソン政権下で議会を通過し、1964年、公民権法として成立することとなった[5]。

1963年8月28日にキング牧師がワシントン大行進でI Have a Dreamの演説を行った後、ケネディはキングをホワイトハウスに招待し、「私も夢見ている」と語った。

経済政策 [編集]
ケネディはアイゼンハワー政権末期から始まった不況への対策として、失業手当の13週間延長、失業者の子供への補助金、早期退職を奨励するための年金増額、最低賃金の向上、スラム再開発のための政府融資などの法案を通過させるとともに、各省庁の物資調達や公共投資の前倒しを行い、経済回復へと向かわせようとした。

ケネディの経済政策で特筆されるのが鉄鋼業界との対決であった。戦後から1960年にかけて、鉄鋼業界の労使交渉ではストライキ、大幅な賃上げ、鉄の価格引き上げというパターンが続いていたが、それによる急激なインフレーションを懸念したケネディは鉄鋼業界の経営陣と労組の幹部をホワイトハウスに招き、労組の幹部に“責任ある”要求をするよう説得、労組側もこれを受け、経営陣が鉄価格の値上げなしに飲み込めるだけの賃上げ率に抑えた。しかしUSスチール社のロジャー・ブロー会長は従来通り値上げを通告し、それに合わせるように他の大手鉄鋼各社も続々と値上げを発表した。

そのためケネディはこれを非難する演説を行い、司法省はこのような鉄鋼業界の値上げが独占禁止法違反に抵触するかどうかの調査を始め、国防総省は値上げに加わらなかった鉄鋼会社の材料を使ったメーカーのものを調達することを決定。このような政府の動きを受けて鉄鋼各社は値上げを撤回し、インフレは回避された。「ウォール・ストリート・ジャーナル」は政府が経済に介入するこのような事態に対して「政府の力による抑圧」であると批判した。ケネディは「賃金や商品価格の設定は自由に行われるべきであるが、経済人には公共の利益に対する責任がある」と演説の中で訴えた。

アポロ計画 [編集]

有人宇宙船フレンドシップ7号を見学するケネディさらにケネディは、アメリカが宇宙開発競争の先頭に立つことを熱望した。当時、ソ連は世界で最初の人工衛星スプートニクをアメリカに先駆け成功させたのに続き、その後も1961年に初の有人飛行を成し遂げるなど、宇宙開発については完全にアメリカに先立っており、ケネディは「アメリカが宇宙開発競争で後れをとることはできない」と発言していた。

その後ケネディは、アメリカ人を月に到達させるという計画(アポロ計画)のために220億ドル以上という巨額の予算を承認してくれるように議会に依頼し、この計画の推進によって大きな利益を得ることになる大手軍事産業のロビー活動の後押しもあり、これを無事に通過させることに成功した。ケネディによって推進されたアポロ計画は、ケネディの死後ジョンソン政権とニクソン政権に引き継がれ、ニクソン政権下の1969年にアポロ11号はついに月面に人類を送り届けることに成功した。

アポロ計画をはじめとする宇宙開発競争には、宇宙空間における探検や冒険、研究といった側面の他に、冷戦下においてソ連との間で宇宙空間の軍事的覇権を争う側面や大手軍事企業へ利益を与える側面もあった。アポロ計画をはじめとする宇宙開発競争がベトナムへの軍事介入の拡大と併せて進んだ結果、マクドネル・ダグラスやノースロップ、ロッキードなどの大手軍事産業は大きな利益を得た。しかし、同時にケネディが議会を通過させた莫大な開発費とケネディの死後に拡大したベトナム戦争による戦費支出は、公共事業などへの投資の縮小をもたらし、不況を後押しする一因ともなった。