じいちゃんのひとりごと
昨年の夏頃垂水の駅前で廃業したパチンコ屋のAさんが雑居ビルに建て替える途中施工者の新井組が三井住友から見放されて倒産した不幸な事件をお伝えしたことがありましたね。どうなることかと案じて居ましたが建築には予め保険が掛けられていたらしく2ケ月程工事がストップしただけで工事が再開され今夏漸く完成し1階には牛丼の松屋が店開きをしました。牛丼は私の好みではありませんが、店頭のメニューにカレーライスがあるようなので一度食べて見ようと先週の日曜日昼食に赴きました。店の中は“宮本むなし”同様食券販売機での店員さん省エネ型でありましたが、不思議なことに食券がJRのイコカでも使えるタイプであり、カレーもオリジナルカレーと名付けられ福神漬けが添えられたビーフカレー風のもので350円と50mの距離しかない“宮本むなし”の具なしカレー460円(キャベツのサラダ付き)を110円下回る値段は脅威的であり。おまけに少しですが若布と麩が入ったお味噌汁まで付いていましたから、和洋折衷小生好みであり美味しく頂きました(^^)。此のお店は最近では珍しく吉野家に倣って塗り箸を使用していましたので、パートの店員にその旨を伝えたら“塗り箸”の意味が分からなかったらしく“後で消毒して洗っていますけど…”と一瞬人相の悪い老人にイチャモンを付けられたのかと脅えたのでしょう。彼女の不安げな表情に、“ううん、エコ時代だと謂うのに何処のお店も使い捨ての箸を使っているから松屋は偉いなと思ったんや(^^)”と言ったら店員さんの顔がパット明るくなりました。店を出るとき要らんことを言って女の子を愕かせたのかな?と後悔し乍ら家路を辿ったのでした。
松屋の此の価格は筋向かいのある吉野家のビーフカレー380円を強く意識したものらしく30m離れた“宮本むなし”は東証一部上場の大企業である牛丼屋2店に苦しい戦いを強いられていますが、今後の価格競争は一体からどうなって行くのか見物ですね。

圧倒的な民意に推されて政権に付いた民主党ですが、民主党自身自由党、社会党、民社党など利害の相反する連中の集合体であり、更に今回国民新党や社民党を引き入れたばかりに彼等に勝手なことをほざかれて自分達の存在を顕在化され、今更放り出すわけにも行かずこんなに大勝するなら彼等と提携するのではなかったと今頃臍(ほぞ)を噛んでも“遅かりし由良の助”でありました。彼等は与党の中の野党であってダメもとで何でも言えますからご気楽です。先日も福島瑞穂が必要な財源確保に法人税や所得税を上げるべきだと息巻いて消費税増税に反対する発言しましたが、此は時代の趨勢が読めない愚かな発想であって、我が国の実像と世界の中の日本の位置を意識しない井の中の蛙(かわず)的発想ですから恥ずかしい限りです。又、郵政民営化反対を旗印に3年前自民党を離党した寝業師の亀井静香が皮肉にも官僚の天下り反対を唱えて政権を奪取した民主党の癌腫と化し、元大蔵省事務次官を日本郵政西川社長の後釜に三顧の礼で迎えるなど無神経な極まるものであり、“退官してから既に14年も経っている”など耄(ほう)けたことを言っていますが、官僚は何十年経っても元官僚であり、14年後に再天下りさせるなど民主党のマニフェストの根源を逆撫でするものだと思いますが、お坊ちゃんの鳩山総理には何も反論できず、お陰で翌日の日経平均は鳩山政権への失望感から続落し小生も少なからぬ損害を蒙りました(;;)。同じく亀井爆弾の一発目である中小企業への貸金を3年間返済猶予問題にしても、現実の世界では優良企業のみが恩恵に浴し、銀行は不安定な企業から更に厳しく取立や貸し剥がしが激化するに違いありません。先ず金融機関が自行に不利なことをする道理がなく、12月に上程される貸し渋り法案など金融機関にとっては既に対策読み込み済みのザル法であり、その辺りが読めないと鳩山政権も桶の内側から崩潰の兆しが芽生えることになるは必定です。鳩山さんも亀井静香や社民党と組まずに“みんなの党”と連立して渡邉喜美行政改革大臣に据えて特殊法人の廃止更には天下り禁止そして公務員を20%人員給与ともカットすべきでしたね。


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明智光秀


時代 戦国時代 - 安土桃山時代
生誕 享禄元年(1528年)?[1]
死没 天正10年6月13日(1582年7月2日)
別名 十兵衛、惟任日向守(仮名)
咲庵(号)
キンカ頭(渾名)
桃丸(幼名)[2]
戒名 秀岳院宗光禅定門
前日洲条鉄光秀居士[3]
長存寺殿明窓玄智大禅定門[4]
墓所 西教寺(滋賀県大津市)、
高野山奥の院(和歌山県伊都郡高野町)
官位 従五位下・日向守
主君 斎藤道三→足利義輝?→朝倉義景
→足利義昭→織田信長
氏族 源姓土岐氏流明智氏
惟任賜姓
父母 父:明智光綱、母:お牧の方
養父:明智光安
兄弟 光秀、信教、康秀
妻 継室:妻木範煕の娘・煕子
子 光慶、珠(細川忠興正室)
ほか系譜の子女を参照
表・話・編・歴
明智 光秀(あけち みつひで)は、戦国時代、安土桃山時代の武将。本姓は源氏。家系は清和源氏の摂津源氏系で、美濃源氏土岐氏支流である明智氏。仮名は十兵衛。雅号は咲庵(しょうあん)。惟任光秀。
妻は、妻木煕子。その間には、嫡男・光慶(十五郎)、織田信澄室、細川忠興室・明智珠(洗礼名:ガラシャ)がいる。

生涯 [編集]

織田家仕官以前 [編集]
清和源氏の土岐氏の支流明智氏に生まれ、父は明智光綱といわれる。生年は『明智軍記』の享禄元年(1528年)説、『綿孝輯録』の大永6年(1526年)説、また『当代記』の付記による永正12年(1515年)説など複数ある[5]。 場所は岐阜県可児市明智の明智城、山県市美山出身という2つの説が有力とされる。また恵那市明智町の明知城という説もあるが、こちらは遠山氏の築城した城でもあるので伝承に過ぎない。
青年期の履歴は不明な点が多いが、通説によれば、美濃国の守護土岐氏の一族で、戦国大名の斎藤道三に仕えるも、弘治2年(1556年)、道三と義龍の争いの際、道三方に味方し、義龍に明智城を攻められ一族が離散したとされる。その後、母方の若狭武田氏を頼り、のち越前国の朝倉氏に仕えた。なお、『永禄六年諸役人附』に見える「明智」を光秀と解し、美濃以後朝倉氏に仕えるまでの間、13代将軍足利義輝に仕えていたとする説もある。また、今川氏・毛利氏には仕える寸前までいったとされる。『信長公記』は光秀自身の出自に朝廷と深い関わりがあったとしている。
足利義昭が姉婿の武田義統を頼り若狭国に、さらに越前国の朝倉氏に逃れると、光秀は義昭と接触を持った。朝倉義景の母は若狭武田氏の出であり、光秀の母は武田義統の姉妹と伝えられることから、義昭の接待役を命じられたものと考えられる。義昭は朝倉に上洛を期待していたが義景は動かなかった。そこで義昭は光秀を通して織田信長に対し、京都に攻め上って自分を征夷大将軍につけるように要請した。光秀の叔母は斎藤道三の夫人であったとされることから、信長の正室である斎藤道三娘(濃姫)が光秀の従兄妹であった可能性があり、その縁を頼ったともいわれる。
織田家臣時代 [編集]
信頼できる史料によると、永禄12年(1569年)頃から木下秀吉(のち羽柴に改姓)らと共に織田氏支配下の京都近辺の政務に当たったとされる。義昭と信長が対立し始めると、義昭と袂を別って信長の直臣となった。各地を転戦して、元亀2年(1571年)頃比叡山焼き討ちで武功を上げ近江国の志賀郡(約5万石)を与えられ、坂本城を築いて居城とした。天正3年(1575年)に、惟任(これとう)の姓、従五位下、日向守の官職を与えられ、惟任日向守と称した。
城主となった光秀は、石山本願寺や信長に背いた荒木村重と松永久秀(有岡城の戦い・信貴山城の戦い)を攻めるなど近畿の各地を転戦しつつ、丹波国の攻略(黒井城の戦い)を担当し、天正7年(1579年)までにこれを平定した。この功績によって、これまでの近江国志賀郡に加え丹波一国(約29万石)を与えられ計34万石を領し、丹波亀山城・横山城・周山城を築城した。京に繋がる街道の内、東海道と山陰道の付け根に当たる場所を領地として与えられたことからも、光秀が織田家にあって重要な地位にあったことが伺える。
また丹波一国拝領と同時に丹後の長岡(細川)藤孝、大和の筒井順慶ら近畿地方の織田大名の総合指揮権を与えられた。近年の歴史家には、この地位を関東管領になぞらえて「山陰・畿内管領」と呼ぶ者もいる。天正9年(1581年)には、京都で行われた信長の「閲兵式」である「京都御馬揃え」の運営を任された。
本能寺の変 [編集]
詳細は「本能寺の変」を参照


本能寺焼討之図
天正10年(1582年)6月2日(西暦6月21日)早朝、羽柴秀吉の毛利征伐の支援を命ぜられて出陣する途上、桂川を渡って京へ入る段階になって、光秀は「敵は本能寺にあり」と発言し、主君信長討伐の意を告げたといわれる。本城惣右衛門覚書によれば、雑兵は信長討伐という目的を最後まで知らされなかったという。二手に分かれた光秀軍は信長が宿泊していた京都の本能寺を急襲して包囲した。光秀軍1万3000人に対し、近習の100人足らずに守られていた信長は奮戦したが、やがて屋敷に火を放ち自害した。しかし、信長の死体は発見できなかった。その後、二条御所にいた信長の嫡男の織田信忠や京都所司代の村井貞勝らを討ち取った。
光秀は、自分を取り立ててくれた主君である信長を討ち滅ぼしたために、謀反人として歴史に名を残すことになった。一方で光秀の心情を斟酌する人間も少なくなく、変の背景が未だに曖昧なこともあって、良くも悪くも光秀に焦点をあてた作品が後に数多く作られることとなった。
山崎の戦い [編集]


明智光秀とその一族の墓/西教寺
詳細は「山崎の戦い」を参照
光秀は京都を押さえたが、協力を求めた細川藤孝や筒井順慶の態度は期待外れだった。本能寺の変から11日後の6月13日(西暦7月2日)、新政権を整備する間もなく、本能寺の変を知って急遽毛利氏と和睦して中国地方から引き返してきた羽柴秀吉の軍を、現在の京都府大山崎町と大阪府島本町にまたがる山崎で迎え撃つことになった。
決戦時の兵力は、羽柴軍2万4千(2万6千から4万の説もあり)に対し明智軍1万2千(1万6千から1万8千の説もあり)。兵数は秀吉軍が勝っていたが、明智軍は当時の織田軍団で最も鉄砲運用に長けていたといわれる。合戦が長引けば、明智軍にとって好ましい影響(にわか連合である羽柴軍の統率の混乱や周辺勢力の光秀への味方)が予想でき、羽柴軍にとって決して楽観できる状況ではなかった。
実際には、羽柴軍が山崎の要衝天王山を占拠して大勢を定めると、主君を殺した光秀に味方する信長の旧臣は少なく、兵数差を覆す事ができずに敗れた。同日深夜、坂本を目指して落ち延びる途上の小栗栖(京都市伏見区)で、落ち武者狩りの百姓・中村長兵衛に竹槍で刺し殺されたとされる。
「される」とするのは、光秀のものとされる首が夏の暑さで著しく腐敗し、本当に光秀かどうか確かめようがなかったからである(土民の槍で致命傷を負ったため、家臣の溝尾庄兵衛に首を打たせ、その首は竹薮に埋められたとも、坂本城又は丹波亀山の谷性寺まで溝尾庄兵衛が持ち帰ったとも)。西教寺と谷性寺の記録によると首は三つ見つかっており、その全てが小柄で顔面の皮が全部剥がされていたという。
人物・評価 [編集]

主君・織田信長を討った行為については、当時から非難の声が大きく、近代に入るまで“逆賊”としての評価が主だった。特に儒教的支配を尊んだ徳川幕府の下では、本能寺の変の当日、織田信長の周りには非武装の共廻りや女子を含めて100名ほどしかいなかったこと、変後に神君徳川家康が伊賀越えという危難を味わったことなどから、このことが強調された。
『明智光秀公家譜覚書』によると、変後の時期に光秀は参内し、従三位・中将と征夷大将軍の宣下を受けたとされる。
光秀は信長を討った後、朝廷や京周辺の町衆・寺社などの勢力に金銀を贈与した。また、洛中及び丹波国に、地子銭(宅地税)の永代免除という政策を敷いた。これに対し、正親町天皇は、変の後のわずか7日間に3度も勅使を派遣している。ただし、勅使として派遣されたのは吉田兼和である。兼和は、神祇官として朝廷の官位を受けてはいたが、正式な朝臣ではなかった。こうしたことから、光秀が得た権威は一時的なもので、朝廷は状況を冷静に見ていたと考えられる。
『老人雑話』は、光秀の言葉として以下の言葉を紹介している。曰く、「仏のうそは方便という。武士のうそは武略という。土民百姓はかわゆきことなり」。この言葉を光秀の合理主義の表れであるとする意見がある。高柳光寿は、著書『明智光秀』の中で、合理主義者同士、光秀と信長は気が合っただろうと述べている。光秀が信長とウマがあったのは事実で、光秀が信長を信奉していたという史料上の記述も多い。また、信長の方も、例えば天正七年の丹波国平定について、「感状」の筆頭に「日向守、こたびの働き天下に面目を施し候…」と讃えている。『信長公記』には他にも似たような記述が少なくない。
天正3年(1575年)の叙任の際に姓と官職を両方賜ったのは、光秀・簗田広正・塙直政の三人だけである。このことから、この時点で既に官職を賜っていた柴田勝家・佐久間信盛は別としても、丹羽長秀・木下秀吉などより地位が高かったと見てよいと思われる。当時織田家中で5本の指に入る人物であったことは疑いなく、簗田・塙は譜代家臣であることから考えても信長の信頼の厚さが窺える。
ルイス・フロイスの『日本史』に、「裏切りや密会を好む」「刑を科するに残酷」「忍耐力に富む」「計略と策略の達人」「築城技術に長ける」「戦いに熟練の士を使いこなす」等の光秀評がある。鈴木眞哉・藤本正行は共著『信長は謀略で殺されたのか』の中で、フロイスの信長評が世間で広く信用されているのに対し、光秀評は無視されていると記し、光秀に対する評価を見直すべきとしている。
西近江で一向一揆と戦った時、明智軍の兵18人が戦死した。光秀は戦死者を弔うため、供養米を西教寺に寄進した。西教寺には光秀の寄進状が残されている。他にも、戦で負傷した家臣への光秀の見舞いの書状が多数残されている。家臣へのこのような心遣いは他の武将にはほとんどみられないものであった。このように家臣を大切にしたことから、光秀直属の家臣は堅い忠誠を誓ったとされる。実際に、光秀の家臣団は、本能寺の変でも一人の裏切り者も出さず、山崎の戦いでは劣勢にも関わらず奮戦したといわれている。山崎の戦いの敗北後、光秀を逃すために、家臣が二百騎ほどで身代わりとなって突撃を行ったという記録がある。
しかし、明智軍の将校の忠誠の向き(求心力)を考えるには、別の考慮も必要とする。
明智軍の多くは信長より預けられた与力であり、与力たちにとっての主君はあくまで織田信長であること
変後の有力支持者が殆どいないこと
変直後の明智軍内の混乱
これらの事情から、光秀自身の持つ求心力よりは、織田信長に象徴される体制の持つ引力の方が強かったという見ることもできる。光秀と上級将校たちは、明智軍全体を信長殺害の共犯者に仕立て、軍団員が引くに引けない状況を作り上げることを意図していた可能性もある。
諸学に通じ、和歌・茶の湯を好んだ文化人であった。また、内政手腕に優れ、領民を愛して善政を布いたといわれ、現在も光秀の遺徳を偲ぶ地域が数多くある。
現代に至る亀岡市、福知山市の市街は、光秀が築城を行い城下町を整理したことに始まる(亀岡市は亀山城の城下町。伊勢の亀山市との混同を避けるため、1869年(明治2年)改称した)。亀岡では、光秀を偲んで亀岡光秀まつりが行われている。福知山には、「福知山出て 長田野越えて 駒を早めて亀山へ」と光秀を偲ぶ福知山音頭が伝わっている。また、 亀岡市観光協会など光秀ゆかりの地の十数団体を中心に、明智光秀が主人公の大河ドラマの制作を目指す署名活動が行われている。
逸話 [編集]

朝倉被官時代、有能さを朝倉直臣団に嫉妬され、そのため重く用いられなかったという。朝倉義景のもとを去って織田信長に仕えたのは、鞍谷副知なる者が義景に讒言し、それを信じた義景が光秀を冷遇したためとされる。
鉄砲の名手で、朝倉義景に仕官した際、一尺四方の的を25間(約45.5メートル)の距離から命中させたという。当時の火縄銃や弾丸の性能を考えると、驚異的な腕前である。そのほかにも、飛ぶ鳥を打ち落としたという逸話もある。
「一百の鉛玉を打納たり。黒星に中る数六十八、残る三十二も的角にそ当りける」(明智軍記)。
他に類を見ないほどの愛妻家としても知られており、正室である煕子が存命中はただ1人の側室も置かなかったと言われている。
婚約成立後、花嫁修業をしている際に煕子が疱瘡を患い、顔にアバタが残ってしまった。これを恥じた煕子の父は、光秀に内緒で煕子の妹を差し出すが、これを見抜いた光秀は「自分は他の誰でもない煕子殿を妻にと決めている」と言い、何事もなかったかのように煕子との祝言を挙げた(しかし、この逸話については斎藤鎮実の妹で高橋紹運に嫁いだ妻の話に酷似しているため、後世の創作とされるが、光秀と親しかった京都吉田神社の神官吉田兼見の日記(『兼見卿記』)には光秀が重病のとき、煕子が兼見の屋敷を訪れ、光秀快癒のための祈祷を依頼したり、反対に煕子が床に付いたとき、光秀が病気平癒を兼見に頼んだことが書かれているため、光秀と煕子が仲が睦まじかったのは史実とされる)。
愛宕百韻の際、愛宕神社で意中の籤が出るまで何度もおみくじを引き続けたと伝えられている。
光秀が濃州を追放され、諸国を武者修行していた頃、毛利氏に仕官を求めた。毛利元就は「才知明敏、勇気あまりあり。しかし相貌、おおかみが眠るに似たり、喜怒の骨たかく起こり、その心神つねに静ならず。」とその顔に凶相を見、後の厄を恐れて金銀を多く与え追い返した。とある。
辞世の句 [編集]
「順逆二門に無し 大道心源に徹す 五十五年の夢 覚め来れば 一元に帰す」『明智軍記』[6]
「心しらぬ人は何とも言はばいへ身をも惜まじ名をも惜まじ」[7]
史跡 [編集]


高野山奥の院の光秀墓所
高野山奥の院に光秀の墓所があるが、何度補修してもよく亀裂が入るため、信長の呪いと地元で囁かれている。
三好宗三が和泉に勢力を誇っていたとき、その弟三好長円が大阪府泉大津市に「蓮正寺」を建て、境内に仁海上人が「助松庵」を建立し、その助松庵に光秀が隠棲したと口碑に伝えられている。大阪府高石市の「光秀(こうしゅう)寺」門前の由来によれば、その助松庵が現在の「光秀寺」の地に移転したと書かれており、門内の石碑には「明智日向守光秀公縁の寺」と書かれている。この地域に残る「和泉伝承志」によれば、本稿「山崎の戦い」に書かれている光秀とされる遺体を偽物・影武者と否定し、京都妙心寺に逃げ、死を選んだが誡められ、和泉貝塚に向かったと書かれている。光秀と泉州地域との関連では、大阪府堺市西区鳳南町3丁にある「丈六墓地」では、昭和18年頃まで加護灯篭を掲げ、光秀追善供養を、大阪府泉大津市豊中では、徳政令を約束した光秀に謝恩を表す供養を長年行なっていたが、現在では消滅している。
桑田郡(亀岡市畑野町)の鉱山へ度々検視に訪れていた光秀が峠にさしかかったとき、大岩で馬は足をとめた。光秀に鞭打たれた馬は、身をふるわせて“馬力”をかけ何度も蹄で岩をけり、登ったという。その足跡が「明智光秀の駒すべり岩」として伝えられた。しかし、その岩はゴルフ場が建設されたときに地中に埋められたという。[8]
光秀が愛宕百韻の際に亀岡盆地から愛宕山へ上った道のりは、「明智越え」と呼ばれ現在ではハイキング・コースになっている。
本能寺の変の際、摂丹街道まで行軍していた丹波亀山城からの先陣が京都へ向かって反転した法貴峠(亀岡市曽我部町)には、「明智戻り岩」が残されている。
溝尾庄兵衛が、光秀の首を持ち帰ったとされる谷性寺(亀岡市宮前町)には、明智光秀公首塚がある。[9]
光秀の謎 [編集]

出自 [編集]
定説で光秀は美濃の明智氏の出身で明智光綱の息子とされるが、前半生が不透明なこともあって以下の異説が存在する。
土岐元頼の息子
進士信周の次男
御門重兵衛をいう者が明智氏を名乗った
若狭国小浜の刀鍛冶・藤原冬広の次男
キリシタン説 [編集]
光秀が用いていた印章は、キリスト教に関する模様が使われている事が判明している。また、娘の珠や、組下大名(寄騎)の高山右近と身近な人物にキリシタンが多いことから唱えられている説[要出典]。
愛宕百韻の真相 [編集]
愛宕百韻とは、光秀が本能寺の変を起こす前に京都の愛宕山(愛宕神社)で開催した連歌会のことである。
光秀の発句「時は今 雨が下しる 五月哉」をもとに、この連歌会で光秀は謀反の思いを表したとする説がある。「時」を「土岐」、「雨が下しる」を「天が下知る」の寓意であるとし、「土岐氏の一族の出身であるこの光秀が、天下に号令する」という意味合いを込めた句であるとしている。あるいは、「天が下知る」というのは、朝廷が天下を治めるという「王土王民」思想に基づくものとの考えもある。また歴史研究者・津田勇の説では「五月」は、源頼政らによる以仁王の乱、後鳥羽上皇の承久の乱、後醍醐天皇や足利高氏らによる元弘の乱が起こった月であり、いずれも桓武平氏(平家・北条氏)を倒すための戦いであったことから、平氏を称していた信長を討つ意志を表しているとされる。
しかし、これらの連歌は奉納されており、信長親子が内容を知っていた可能性が高い。また、愛宕百韻後に石見の国人福屋隆兼に光秀が中国出兵への支援を求める書状を送っていたとする史料[10]が近年発見されたことから、この時点では謀反の決断をしておらず、謀反の思いも表されていなかったとの説も提示されている。
なお、この連歌に光秀の謀反の意が込められていたとするなら、発句だけでなく、第2句水上まさる庭のまつ山についても併せて検討する必要があるとの主張もある。まず、「水上まさる」というのは、光秀が源氏、信長が平氏であることを前提に考えれば、「源氏がまさる」という意味になる。「庭」は、古来朝廷という意味でしばしば使われている。「まつ山」というのは、待望しているというときの常套句である。したがって、この第2句は、源氏(光秀)の勝利することを朝廷が待ち望んでいる」という意味になるという解釈がある。
本能寺の変の原因 [編集]
詳細は「本能寺の変#変の要因」を参照


八上城で人質の母を殺されるの絵
本能寺の変でなぜ光秀が信長に謀反をしたのか、さまざまな理由が指摘されているが、確固たる原因や理由が結論として出されているわけではない。以下に現在主張されている主な説を記す。
怨恨説
主君の信長は短気かつ苛烈な性格であったため、光秀は常々非情な仕打ちを受けていたという説。以下はその代表例とされるもの。
信長に酒を強要され、下戸の光秀が辞退すると「わしの酒が飲めぬか。ならばこれを飲め」と刀を口元に突き付けられた。[11]
同じく酒席で光秀が目立たぬように中座しかけたところ、「このキンカ頭(禿頭の意)」と満座の中で信長に怒鳴りつけられ、頭を打たれた(キンカ頭とは、「光秀」の「光」の下の部分と「秀」の上の部分を合わせると「禿」となることからの信長なりの洒落という説もある)。
丹波八上城に人質として母親を預けて、身の安全を保障した上で降伏させた元八上城主の波多野秀治・秀尚兄弟を、信長が勝手に殺害。激怒した八上城家臣は母親を殺害してしまった(絵本太功記による創作)。
武田家を滅ぼした徳川家康の功を労うため、安土城にて行われた京料理での接待を任され、献立から考えて苦労して用意した料理を、「腐っている」と信長に因縁をつけられ捨てられた。魚が腐ってしまい安土城全体が魚臭くなってしまったからとの説もある。また、京料理独特の薄味にしたため、塩辛い味付けを好む尾張出身の信長の舌には合わなかったとも言われている。この一件により、すぐさま秀吉の援軍に行けと命じられてしまう。
中国2国(出雲国・石見国)は攻め取った分だけそのまま光秀の領地にしてもいいが、その時は滋賀郡(近江坂本)・丹波国は召し上げにする、と伝えられたこと。(明智軍記)
武田征伐の際に、信濃の反武田派の豪族が織田軍の元に集結するさまを見て「我々も骨を折った甲斐があった」と光秀が言った所、「お前ごときが何をしたのだ」と信長が激怒し、小姓の森成利(森蘭丸)に鉄扇で叩かれ恥をかいた(明智軍記)。
ルイス・フロイスも、信長が光秀を足蹴にした事があると記している。
桑田忠親は著書『明智光秀』で、独自の研究を基に「本能寺の変 怨恨説」を唱えた。
野望説
光秀自身が天下統一を狙っていたという説。この説に対しては「知将とされる光秀が、このような謀反で天下を取れると思うはずがない」という意見や、「相手の100倍以上の兵で奇襲できることは、信長を殺すのにこれ以上ないと言える程の機会だった」という意見がある。高柳光寿著『明智光秀』はこの説を採用している。
佐久間信盛の織田家追放を佐久間家の視点で描いた『佐久間軍記』には、追放の要因が何者かの讒言である可能性を示唆している。それが“何者か”については、寛政重修諸家譜の信栄(正勝)の項には「後明智光秀が讒により父信盛とともに高野山にのがる。信盛死するののち、右府(信長)其咎なきことを知て後悔し、正勝をゆるして城介信忠に附属せしむ。」とある。光秀が讒言を行っていた場合、本能寺の変の理由の1つとして、謂れのない讒言であると明らかにされることを恐れたという可能性もある。
恐怖心説
長年仕えていた佐久間信盛、林秀貞達が追放され、成果を挙げなければ自分もいずれは追放されるのではないかという不安から信長を倒したという説。
あるいは、今までにない新しい政治・軍事政策を行う規格外な信長の改革に対し、光秀が旧態依然とした統治を重んじる考えであったという説。
将軍指令説 / 室町幕府再興説
光秀には足利義昭と信長の連絡役として信長の家臣となった経歴があるため、恩義も関係も深い義昭からの誘いを断りきれなかったのではないかとする説。
朝廷説
「信長には内裏に取って代わる意思がある」と考えた朝廷から命ぜられ、光秀が謀反を考えたのではないかとする説。この説の前提として、天正10年(1582年)頃に信長は正親町天皇譲位などの強引な朝廷工作を行い始めており、また近年発見された安土城本丸御殿の遺構から、安土城本丸は内裏清涼殿の構造をなぞって作られたという意見を掲げる者もいる。
近年、立花京子は「天正十年夏記」等をもとに、朝廷すなわち誠仁親王と近衛前久がこの変の中心人物であったと各種論文で指摘している。この「朝廷黒幕説」とも呼べる説の主要な論拠となった「天正十年夏記」(「晴豊記」)は、誠仁親王の義弟で武家伝奏の勧修寺晴豊の日記の一部であり、史料としての信頼性は高い。立花説の見解に従えば、正親町天皇が信長と相互依存関係を築くことにより、窮乏していた財政事情を回復させたのは事実としても、信長と朝廷の間柄が良好であったという解釈は成り立たない。三職推任問題等を考慮すると、朝廷が信長の一連の行動に危機感を持っていたことになる。
朝廷又は公家関与説は、足利義昭謀略説、「愛宕百韻」の連歌師里村紹巴との共同謀議説と揃って論証されることが多く、それだけに当時の歴史的資料も根拠として出されている。ただし、立花説では「首謀者」であるはずの誠仁親王が変後に切腹を覚悟するところまで追い詰められながら命からがら逃げ延びていること、「晴豊記」の近衛前久が光秀の謀反に関わっていたという噂を「ひきよ」とする記述の解釈など問題も多い(立花は「非挙(よくない企て)」と解釈しているが、これは「非拠(でたらめ)」と解釈されるべきであるとの津田倫明、橋本政宣らの指摘がある)。
一時期は最も有力な説として注目されていたが、立花が「イエズス会説」に転換した現在、この説を唱える研究者はいない。現在の歴史学界では義昭黒幕説とともに史料の曲解であるとの見解が主流となっている。
四国説
比較的新しい説とされるが、野望説と怨恨説で議論を戦わせた高柳・桑田の双方とも互いの説を主張する中で信長の四国政策の転換について指摘している。信長は光秀に四国の長宗我部氏の懐柔を命じていた。光秀は斎藤利三の妹を長宗我部元親に嫁がせて婚姻関係を結ぶところまでこぎつけたが、天正8年(1580年)に入ると織田信長は秀吉と結んだ三好康長との関係を重視し、武力による四国平定に方針を変更したため光秀の面目は丸つぶれになった。大坂に四国討伐軍が集結する直前を見計らって光秀(正確には利三)が本能寺を襲撃したとする。
イエズス会説
信長の天下統一の事業を後押しした黒幕を、当時のイエズス会を先兵にアジアへの侵攻を目論んでいた教会、南欧勢力とする。信長が、パトロンであるイエズス会及びスペイン、ポルトガルの植民地拡張政策の意向から逸脱する独自の動きを見せたため、キリスト教に影響された武将と謀り、本能寺の変が演出されたとする説(立花京子『信長と十字架』)。この説には大友宗麟と豊臣秀吉の同盟関係が出てくるが、他にイエズス会内の別働隊が、キリシタン大名と組んで信長謀殺を謀ったとする説も出てきている。いずれも宗教上の問題以外に硝石、新式鉄砲等の貿易の利ざやがあったとされる。しかし、イエズス会の宣教師が本国への手紙で「日本を武力制圧するのは無理です」と書いている事柄からすると、「商業主義」を政策として行っていた信長政権をイエズス会が倒すのはデメリットになる。
この説を唱える立花京子の史料の扱い方や解釈に問題があり、歴史学界ではほとんど顧みられていない。キリシタン大名との関係では、朝廷と同じように関係を継続していこうとする光秀の考えと、信長の武力による天下統一の考え方に大きなズレが生じたとする傾向の説が出ている。
諸将黒幕説
織田家を取り巻く諸将が黒幕という説。徳川家康や羽柴秀吉が主に挙がる。
家康の場合、信長の命により、長男信康と正室築山殿を自害させられたことが恨みの原因といわれている。家康は後に、明智光秀の従弟(父の妹の子)斎藤利三の正室の子である福(春日局)を徳川家光の乳母として特段に推挙している(実際に福を推挙したのは京都所司代の板倉勝重)。
秀吉の場合は、佐久間信盛や林秀貞達が追放され、将来に不安を持ったという説がある(中国大返しの手際が良過ぎることも彼への疑惑の根拠となっている)。
他に少数意見として、細川藤孝や織田信忠が黒幕という説もある。
補足
上記に加え、「本願寺黒幕説」や比較的近年の研究成果として「明智家臣団の国人衆による要請があったとする説」などもある。
信憑性はともかく、信長の革新的な様々な政策は、光秀の家臣団に受け入れがたい点もあったと考えられる。信長の軍団・柴田勝家の北陸統治に見られるように、武士団にとって簡単に国替えを行うことは大きな負担と不安を与える事が考えられる。しかし、この国替えは信長自身も数度行っており、信長はそれらを解決するために家族そのものの移住等を行い、その度にその国を発展させてきたが、信長にとっては大したことでなくとも家臣にとっては難しい問題であって摩擦の原因となった可能性はある。明智氏やその家臣、従者に関わる口伝などはいくつか伝わっており、資料の少ない考証については、従来日の目をみることがなかったこうした信憑性を確定できない資料の分析を行っていく必要がある。
長年の恨み説の中で登場する八上城攻囲に関して、人質とされている光秀の母親が偽者(叔母)であったとする説もある。この偽物説は、過去いくつかの書籍で取り上げられていたが、丹波味土野には、口伝として光秀の母堂を隠しその身を守ってきたとする伝承があり、これに信をおくとすれば、長年の恨み説の中で八上城に関する部分は人質である叔母の犠牲は伴うものの、本能寺の変の原因の主因としては考慮から外ずしてもよいことになる。
これらの理由が決定的でない理由として、怨恨説は元になったエピソードが主として江戸時代中期以降に書かれた書物が出典であること(すなわち、後世の憶測による後付である。例えば、波多野秀治の件は現在では城内の内紛による落城と考えられており、光秀の母を人質とする必要性は考えられないとされている)、織田信長・豊臣秀吉を英雄とした明治以来の政治動向に配慮し、学問的な論理展開を放棄してきたことが挙げられる(ただし、ルイス・フロイスの足蹴の記述など、明らかに同時代の資料も存在する)。
光秀は信長から浪人とは思えないほど取り立てられただけではなく、石山合戦では1万5千の兵に光秀が取り囲まれていたところを、信長はわずか3千ほどの兵で自ら前線に立って傷を負いながら救出している。このことからも光秀は信長からかなり眼をかけられていたようである。本能寺の変当時の光秀の領地は、信長の本拠安土と京都の周辺で30万石とも50万石とも言われているが、史上権力者が本拠地周辺にこれだけの領土を与えた事例は秀吉が弟秀長に大阪の隣地である大和に100万石を与えたくらいしかない。この配置を見ても、信長が相当の信頼を置いていたことが窺える(結果として、これが裏目に出てしまった)。また、『明智家法』には「自分は石ころ同然の身分から信長様にお引き立て頂き、過分の御恩を頂いた。一族家臣は子孫に至るまで信長様への御奉公を忘れてはならない」という文も残っている。このことを根拠に「光秀は恩を仇で返した愚か者」と酷評する歴史研究家も存在する。
平成19年(2007年)に行われた本能寺跡の発掘調査で、本能寺の変と同時期にあったとされる堀跡や大量の焼け瓦が発見され、本能寺を城塞として改築した可能性が指摘された。
いずれにしても、本能寺の変は知将と謳われた光秀にしてはあまりに稚拙とする意見も多い。本能寺の変の際、前田玄以や織田長益(有楽斎)らが三法師(織田秀信)を保護して京都から逃亡するのを許したことも、その例である。
光秀は変の前に三回くじを引いた(全て凶だったといわれる)という逸話もあり、決心がつきかねていたのではないかとする者もいる。
「敵は本能寺にあり」と言ったのは光秀ではなく、江戸時代中後期に、頼山陽が記した言葉である。
南光坊天海説 [編集]
光秀は小栗栖で死なずに南光坊天海になったという異説がある。天海は江戸時代初期に徳川家康の幕僚として活躍した僧で、その経歴には不明な点が多い。


日光東照宮 陽明門 随身像
異説の根拠として、
日光東照宮陽明門にある随身像の袴に光秀の家紋である桔梗紋[12]がかたどられている事や、東照宮の装飾に桔梗紋の彫り細工が多数あること。
日光に明智平と呼ばれる区域があること。天海が「ここを明智平と名付けよう」「どうしてですか?」と問われ、「明智の名前を残すのさ」と呟いたと日光の諸寺神社に伝承がある。
徳川秀忠の秀と徳川家光の光は光秀、徳川家綱の綱は光秀の父の明智光綱、徳川家継の継は光秀の祖父の明智光継の名に由来してつけたのではないかという推測
光秀が亡くなったはずの天正10年(1582年)以後に、比叡山に光秀の名で寄進された石碑が残っていること
学僧であるはずの天海が着たとされる鎧が残っていること
光秀の家老斎藤利三の娘が徳川家光の乳母(春日局)になったこと
光秀の孫(娘の子)にあたる織田昌澄が大坂の役で豊臣方として参戦したものの、戦後助命されていること(天海が関わったかは不明)
テレビ東京が特別番組で行った天海と光秀の筆跡を鑑定した結果、「極めて本人か、それに近い人物」との結果が出ている。[13]
「かごめかごめ」の歌詞は「光秀・天海同一人物」を示唆したもの[14]
等があげられている。
しかし、これらの根拠には以下の反証が挙げられている。
日光東照宮には桔梗以外にも多くの家紋に類似した意匠があり、さらに桔梗の紋は山県昌景や加藤清正など多くの武将が使用しており、光秀の紋とは限らない[15]。
また、寛永寺の公式記録では会津出身とされており、実家とされる船木氏も桔梗紋である。
天海が一時期僧兵として鎧を着たことがあっても不自然ではない。
比叡山の石碑に関しては後世の偽造との説も出ている。
天海が光秀であるとすると、116歳(記録では108歳)で没したことになり、当時の平均寿命からみて無理(但し、途中から光秀の死後に長男の光慶が天海を演じたなら辻褄が合い、親子で天海を演じたという仮説も存在する)が生じる。
諱についても秀忠の秀の字は結城秀康や毛利秀元や小早川秀秋のように秀吉から偏諱を賜ったものであり、家光の諱を選定したのは天海とライバル関係にあった金地院崇伝であり、家綱と家継の元服時にはすでに天海は死亡している。
なお、僧と光秀の関係で言えば、光秀の子(とされる)・南国梵桂が建立した海雲寺→本徳寺(岸和田市)には光秀の唯一の肖像画が残されているが、この寺にある光秀の位牌の裏には「当寺開基慶長四巳亥」と刻まれている。この文言と位牌の関係については現時点では不明である(文言から「光秀は慶長年間まで生きていた」と主張する者もいる)。
「天海#天海が登場するフィクション作品」を参照
系譜 [編集]

明智氏は『明智系図』によれば、清和源氏の一流摂津源氏の流れを汲む土岐氏の支流氏族。美濃国明智庄(現在の岐阜県可児市または恵那市)より発祥。
源頼光-源頼国-源国房-(6代略)-土岐頼貞-土岐頼基-明智頼重-(7代略)-明智光継-明智光綱-明智光秀-明智光慶
両親
父:明智光綱(諱は光国、光隆とも)
母:お牧の方[16](武田義統の妹)
兄弟
弟:明智信教 - 筒井順昭の養子となり、順慶に改名。[17]
弟:明智康秀 - 三宅長閑斎の婿養子となる。[18]

正室:千草(山岸光信の娘)
継室:妻木煕子(妻木城主・妻木範煕の娘)
側室:伏屋姫(柘植城主・服部保章(喜多村保光)の娘)
側室:不明(公家・原仙仁の娘)
子女
嫡男:明智光慶
光秀の息子で唯一実在が確認されている。通称は十五郎。山崎の戦い後も生き延び妙心寺の住職・玄琳となったという説がある。
次男:筒井定頼
一説に筒井順慶の養子とされるが、定かではない。幼名は自然丸、通称は十二郎。
不明:南国梵桂
光秀の唯一の肖像画がある和泉国の本徳寺(大阪府岸和田市)を建立した僧で、一説に光秀の子とされるが定かではない。また光慶と同一人物とする説もある。
不明:荒深光頼
幼名は乙寿丸。山崎の合戦後、生き残った光秀とともに美濃国へ戻り荒深氏を名乗ったという。[19]
末子:喜多村保之
本能寺の変の半年程前に生まれ母方に引き取られた。幼名は内治麻呂、通称は弥兵衛。江戸町年寄になったとも伝わる。
次女:明智光忠室
三女:明智珠(細川忠興室)
玉ともまたは玉子とも。細川ガラシャの名で知られる。 三女説が有力であるが四女、次女ともいう。
不明:津田信澄室
一説に三女
不明:筒井定次室
一説に織田信長の三女・秀子と同一人物とされるが、定かではない。
不明:井戸治秀室
不明:明智倫子?(荒木村次室→明智秀満または光春室→桜井家次室[20]。)
一説に次女[20]。近年は革手が本名とされる。実際は明智光廉の娘で養女という説が有力とされる。
不明:明智綾乃?(松平忠正室→松平忠吉室[要出典]→菅沼定盈室[21])
一説に長女[21]。近年は養女という説が有力とされる。
縁戚
叔父:山岸光信 - 西美濃十八将のひとり。光秀の最初の妻の父。山岸氏の養子となった。
叔父:明智光安 - 光綱の死後は明智家を率い、義龍と道三の争いに道三に与して殉した。一説に明知遠山氏の養子となり遠山景行と称したとも。
従兄弟:明智光春 - 光秀の叔父・光安の子といわれるが定かではない。明智秀満と同一人物とされることが通説。
叔父:明智光久 - 明智城落城の際に死亡。一説に小里光忠と同人ともいう。
従兄弟:明智光忠 - 光久の子といわれるが、定かではない。
叔父:明智光廉 - 別名は三宅長閑斎。
叔母:小見の方 - 斎藤道三の正室、濃姫の母。
従姉妹:濃姫 - 道三の娘。織田信長の正室。
娘婿:明智秀満 - 重臣・三宅秀朝(または遠山景行)の子で光秀の娘をめとり明智姓を称した。別名は三宅弥平次、通称は左馬助。
不明:明智光近 - 光秀の従兄弟とも光忠の子ともいわれるが定かではない。山崎の戦いで片桐且元に討ち取られた。
子孫
三宅重利 - 明智秀満の息子。唐津藩士。光秀の娘が生母とされるが、定かではない。富岡城代。天草四郎率いる一揆軍に敗死。
織田昌澄 - 光秀の孫にあたり、大坂の陣で豊臣方に加わるが助命され、子孫は旗本となる。
細川忠隆 - 細川忠興の嫡男。後、廃嫡され、子孫は細川家臣内膳家となるがガラシャの血を継ぐ。
細川忠利 - 細川忠興の三男。熊本藩初代藩主。
細川護熙 - 細川忠利の子孫で、肥後細川家18代目。第79代内閣総理大臣。
細川隆元・細川隆一郎 - 細川忠隆の子孫。細川隆一郎は隆元の甥。
明智ハナエリカ - 歌手
明智憲三郎 - 光秀の子、於?丸(おづるまる)の子孫。本能寺変後、明田に改姓、明治10年明智に復姓が認められる。著書『本能寺の変 427年目の真実』(プレジデント社刊)
光秀の長女・次女の系統まで含めれば末裔は少なくないが、熊本藩主細川忠興の系統は第8代で養子を迎えたために光秀の血は途切れている。なお、自称明智氏の子孫で坂本城に由来するという坂本龍馬の坂本家の家紋は組み合わせ角に桔梗だが、坂本姓以前の大浜姓の頃の紋は丸に田の字なので明智氏との関係はない。



石田 三成
(いしだ みつなり)は、安土桃山時代の武将・大名。豊臣政権の五奉行の一人。

生涯 [編集]

秀吉の子飼い [編集]
永禄3年(1560年)、石田正継の次男(三男とも)として近江国坂田郡石田村(滋賀県長浜市石田町)で生まれる。幼名は佐吉。石田村は古くは石田郷といって石田氏は郷名を苗字とした土豪であったとされている。
羽柴秀吉(のちの豊臣秀吉)が織田信長に仕えて近江長浜城(長浜市)主となった天正2年(1574年)頃から秀吉の小姓として仕える(天正5年(1577年)説もある)。秀吉が信長の命令で中国攻めの総司令官として中国征伐に赴いたとき、これに従軍した。
天正10年(1582年)6月、信長が本能寺の変により横死し、次の天下人として秀吉が台頭すると、三成も秀吉の側近として次第に台頭してゆく。天正11年(1583年)、賤ヶ岳の戦いに従軍。柴田勝家軍の動向を探る偵察行動を担当、また先駈衆として一番槍の功名をあげたと「一柳家記」にある。天正12年(1584年)、小牧・長久手の戦いに従軍。同年、近江国蒲生郡の検地奉行を務めた。
豊臣政権下での三成 [編集]
天正13年(1585年)7月11日、秀吉の関白就任に伴い、従五位下治部少輔に叙任される。また、同年末に秀吉から近江水口4万石の城主に封じられた。
天正14年(1586年)1月、当時智勇兼備の名将として名高かった島左近を4万石のうちの半分の2万石の知行を与えて召抱えたといわれる。秀吉はこれに驚愕、そして賞賛し、島左近に三成への忠誠を促し、菊桐紋入りの羽織を与えた。同年、越後の上杉景勝が秀吉に臣従を誓うために上洛してきたとき、これを斡旋した。また、秀吉から堺奉行に任じられる。
天正15年(1587年)、九州征伐に参陣するが、武功を挙げたわけではなく後方の兵糧・武具などの輜重を担当していた。先年の四国征伐と同様に九州征伐が比較的短期間で終わったことは、三成という有能な行政官僚が輜重を担当していたからだとされている[要出典]。九州征伐後、博多奉行となり博多復興に従事した。天正16年(1588年)、薩摩の島津義久の秀吉との謁見を斡旋する。
天正17年(1589年)、美濃国を検地する。天正18年(1590年)の小田原征伐に参陣。秀吉から後北条氏の支城の館林城、忍城攻撃を命じられる。忍城攻めでは元荒川の水を城周囲に引き込む水攻めが行われ、その際の遺構が周囲に現存している。関東各地の後北条氏のほとんどの支城は本城である小田原城よりも先に陥落したが、忍城では小田原開城後の7月初旬まで戦闘が続いた。なお三成は、常陸の佐竹義宣が秀吉に謁見するのを斡旋し、奥州仕置後の奥州における検地奉行を務めるなど着実に実績を重ねるなど、行政官僚としての功績は大きかった。
文禄元年(1592年)の朝鮮出兵(文禄の役)では渡海し、増田長盛や大谷吉継とともに朝鮮出兵の総奉行を務める。文禄2年(1593年)、碧蹄館の戦いや幸州山城の戦いに参加。その後、明軍の講和使謝用梓・徐一貫を伴って肥前名護屋に戻るなど、明との講和交渉に積極的役割を果たしている。しかし、秀吉と現地の連絡役という立場の行動は、豊臣家中で福島正則ら武断派の反発を招いた。
文禄3年(1594年)、島津氏・佐竹氏の領国を奉行として検地する。
文禄4年(1595年)、秀吉の甥・豊臣秀次を謀反の嫌疑により糾問する(秀次事件)。秀次の死後、その旧領のうち近江7万石が三成の代官地になる。また、同年に近江佐和山19万4000石の所領を秀吉から与えられた。
慶長元年(1596年)、佐和山領内に十三ヶ条掟書、九ヶ条掟書を出す。明の講和使節を接待。同年、京都奉行に任じられ、秀吉の命令でキリシタン弾圧を命じられている。ただし、三成はこのときに捕らえるキリシタンの数を極力減らしたり、秀吉の怒りをなだめて信徒たちが処刑されないように奔走するなどの情誼を見せたという(日本二十六聖人)。
慶長2年(1597年)、慶長の役が始まると再び明・朝鮮との講和交渉に奔走するが不調に終わった。
秀吉死後の三成 [編集]
秀吉の死後、豊臣氏の家督は嫡男の豊臣秀頼が継いだ。しかし、次の天下人の座を狙う関東250万石の大老・徳川家康が次第に台頭してゆく。三成は秀吉の死の直後、慶長3年8月19日に家康を暗殺しようとしている。家康は覇権奪取のため、三成と対立関係にあった福島正則や加藤清正、黒田長政らと、豊臣氏に無断で次々と縁戚関係を結んでゆく。慶長4年(1599年)1月、三成は家康の無断婚姻を「秀吉が生前の文禄4年(1595年)に制定した無許可縁組禁止の法に違反する」として、前田利家らと諮り、家康に問罪使を派遣する。家康も豊臣政権の中で孤立する不利を悟って、2月2日に利家・三成らと誓紙を交わして和睦した。
しかし、閏3月3日に家康と互角の勢力を持っていた大老・前田利家が病死する。その直後、三成と対立関係にあった武断派の加藤清正、福島正則、黒田長政、細川忠興、浅野幸長、池田輝政、加藤嘉明の7将が、三成の大坂屋敷を襲撃した。しかし三成は事前に佐竹義宣の助力を得て大坂から脱出し、伏見城内に逃れていた。この後7将と三成は伏見で睨みあう状況となるが、仲裁に乗り出した家康により和談が成立し、三成は五奉行からの退隠を承諾した。3月10日、三成は家康の次男・結城秀康に守られて、佐和山城に帰城した(この事件時、三成が単身で向島の家康の屋敷に難を逃れたとする書物が多いが、これらの典拠となっている資料は明治期以降の『日本戦史・関原役』などで、江戸期に成立した史料に三成が家康屋敷に赴いたことを示すものはない)。
利家の死去・三成の蟄居により、家康の専横は再び活発になり、一旦白紙にしていた無断婚姻や秀吉の遺命で禁止されていた所領配分なども実施した。
関ヶ原での三成 [編集]
詳細は「関ヶ原の戦い」を参照
慶長5年(1600年)7月、三成は家康を排除すべく、上杉景勝・直江兼続らと密かに挙兵の計画を図る。 その後、上杉勢が公然と家康に対して叛旗を翻し、家康は諸大名を従えて会津征伐に赴いた。これを東西から家康を挟撃する好機として挙兵を決意した三成は、大谷吉継を味方に引き込もうとする。吉継は、家康と対立することは無謀であるとして反対したが、三成との友誼などもあって承諾した。これには秀吉存命の折の茶会で、らい病を患っていた吉継の膿が茶に落ちたとき余人が回し飲むのをためらった際、三成が吉継のためにそれを飲み干したためその友情に報いようとしたという説もある。
7月12日、兄・正澄を奉行として近江愛知川に関所を設置し、家康に従って会津征伐に向かう後発の西国大名、鍋島勝茂や前田茂勝らの東下を阻止し、強引に自陣営(西軍)に与させた。7月13日、三成は諸大名の妻子を人質として大坂城内に入れるため軍勢を送り込んだ。しかし加藤清正の妻をはじめとする一部には脱出され、さらに細川忠興の正室・玉子には人質となることを拒絶され屋敷に火を放って死を選ぶという壮烈な最期を見せられて、人質作戦は中止された。
7月17日、毛利輝元を西軍の総大将として大坂城に入城させ、同時に前田玄以・増田長盛・長束正家の三奉行連署からなる家康の罪状13か条を書き連ねた弾劾状を諸大名に公布した。7月18日、西軍は家康の重臣・鳥居元忠が守る伏見城を攻めた。しかし伏見城は堅固で鳥居軍の抵抗は激しく、容易に陥落しない。そこで三成は、鳥居の配下に甲賀衆がいるのを見て、長束正家と共に甲賀衆の家族を人質にとって脅迫する。8月1日、甲賀衆は三成の要求に従って城門を内側から開けて裏切り、伏見城は陥落した。8月2日、三成は伏見城陥落を諸大名に伝えるべく、毛利輝元や宇喜多秀家、さらに自らも連署して全国に公布する。
8月からは伊勢方面の平定に務めたが、家康ら東軍の反転西上が予想以上に早かったため、三成は関ヶ原で野戦を挑むことを決める。そして9月15日、東軍と西軍による天下分け目の戦いである関ヶ原の戦いが始まった。当初は西軍優勢であり、石田隊は6900人であったが、細川忠興・黒田長政・加藤嘉明・田中吉政ら兵力では倍以上の敵に攻められたものの、島左近・蒲生頼郷・舞兵庫らの奮戦もあって持ちこたえた。しかし西軍全体では戦意の低い部隊が多く、次第に不利となり、最終的には小早川秀秋や脇坂安治らの裏切りによって西軍は総崩れとなり、三成は戦場から逃走して伊吹山に逃れた。
その後、伊吹山の東にある相川山を越えて春日村に逃れた。その後、春日村から新穂峠を迂回して姉川に出た三成は、曲谷を出て七廻り峠から草野谷に入った。そして、小谷山の谷口から高時川の上流に出、古橋に逃れた。しかし9月21日、家康の命令を受けて三成を捜索していた田中吉政の追捕隊に捕縛された。
一方、9月18日に東軍の攻撃を受けて三成の居城・佐和山城は落城し、三成の父・正継をはじめとする石田一族の多くは討死した。
9月22日、大津城に護送されて城の門前で生き曝しにされ、その後家康と会見した。9月27日、大坂に護送され、9月28日には小西行長、安国寺恵瓊らと共に大坂・堺を罪人として引き回された。9月29日、京都に護送され、奥平信昌(京都所司代)の監視下に置かれた。
10月1日、家康の命により六条河原で斬首された。享年41。首は三条河原に晒された後、生前親交のあった春屋宗園・沢庵宗彭に引き取られ京都大徳寺の三玄院に葬られた。
辞世の句 [編集]
筑摩江や 芦間に灯す かがり火と ともに消えゆく 我が身なりけり
逸話 [編集]



大一大万大吉の紋。文字の並び方は数種がある。
大一大万大吉(だいいちだいまんだいきち)、もしくは大吉大一大万と記された紋を用いた。「万民が一人のため、一人が万民のために尽くせば太平の世が訪れる」という意味ともされるが、本来は「一」を「かつ」と読み、縁起の良い文字を重ねたものとされる。鎌倉時代の武将、石田次郎為久(源義仲を射落とした武将)も使用しており、ほかには備後山内首藤氏も使用している。また、石田家ではこの他に九曜紋や桔梗紋も使用している。
関ヶ原の戦いで敗走した三成は自身の領地の近江(滋賀県)の古橋村に身を潜めた。始めは三珠院を頼ったが、そのとき住職・善説より「何を所望か」と問われ「家康の首が欲しい」と答え善説を呆れ且つ恐れさせたとされる。その後領民・与次郎太夫が招きで岩窟に身を寄せた。与次郎はこのとき咎めの責任を一身に引き受けるため妻を離縁し、刑死を覚悟で三成を介抱した。三成はこの義侠心に感じ入り、与次郎に累が及ばないように役人に自分の在り処を訴えさせた。三成の捜索に際し田中吉政は三成を匿った場合、当事者の親族に限らず一村全部を処刑すると触れを出したが、与次郎が自首したこともあって実際にはそのような虐殺は実施されてはいない。
そのときに村人たちに「このように逃れてきたのはふたたび家康と一戦を交え、天下を統一する所存であるからだ。統一の暁には、古橋から湖(琵琶湖)までの間を大きな平野となし、道は全部石畳にする」と言い、村人たちはこの言葉にひかれて石田三成を匿った。しかし隣村出身で古橋村に養子に来ていた与次郎太夫という者が裏切ったため三成は捕らえられた。古橋村ではこれ以降、他村より養子を取らない慣習ができた。
前田利家の死後、加藤清正・福島正則らが三成を襲撃するという事件が起こり、家康の仲裁によって三成は奉行を辞し佐和山城に蟄居することになった。三成が佐和山城への護送役をつとめた結城秀康に「無銘正宗」を贈ると、秀康はこれを喜び、「石田正宗」と名付けて終生大切にしたという。この「正宗」は三成が秀吉から拝領したものといわれるが、江戸時代の享保期に出版された書物『刀剣名物帳』では、毛利輝元が所持していたものを宇喜多秀家が買い取り、三成に贈ったと記されている。
文禄の役の際には軍目付として戦地に赴いた。
名護屋城建設では下準備と後方支援の三成と建設指揮の清正のコンビネーションで短期間に十数万の人間を収容できる基地を建設している。二人の仲が破綻するのは文禄の役の講和問題が持ち上がった時期と思われる。
三杯の茶(三献茶) [編集]
近江国長浜の観音寺(伊香郡古橋村の三珠院という説もあり)にのどの渇きを覚えた秀吉が立ち寄り、寺小姓だった三成に茶を所望したのを出会いとするもの。史料が江戸時代のもの[1]であること等から、創作と思われる。
三成と淀殿及び高台院 [編集]

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一般的に広まっている誤解に、三成は旧主(浅井氏)の姫である淀殿を崇拝していたというものがある。これは両者が近江出身ということからイメージされたものと推測されるが、三成の石田家はたしかに近江の土豪だが浅井氏とは敵対関係にあった。その意味ではむしろ「仇敵の姫」とも言える。
また、豊臣秀頼が豊臣秀吉の実子ではなく三成が淀殿と密通して生ませた子であるという説があるが、淀殿不行跡の史料的根拠である『萩藩閥閲録』において、その風聞があったのは秀吉の死後で、かつ相手も大野治長と記載があること及びこの話の出典が江戸中期以降ということから、現在では三成や淀殿を貶めるために幕府の御用学者が捏造したと考えられる。秀頼は文禄2年8月(1593年8月29日)生まれであり、前年の文禄元年6月から朝鮮半島に赴いていた三成が秀頼の父親であるとは考えにくい。
その一方で白川亨は、三成が秀吉の正室である高台院と親密であり、逆に秀頼の母として政治に介入する淀殿とその側近を嫌っていたとする、これまでの通説とは正反対の説を唱えている。その論拠として白川は、三成の三女辰姫は高台院の養女である(杉山家由緒書・岡家由緒書)こと、側近筆頭の孝蔵主は三成の縁戚で関ヶ原でも西軍のために大津城の開城交渉を行っていること、淀殿の周辺に三成ら西軍派の縁者がいないことなどを挙げている(詳しくは高台院を参照)。[2]
肖像画 [編集]
少なくとも3種類から4種類程度確認されているが、ここでは特に、三成自身(と伝えられる)の頭蓋骨から復顔した肖像画を取り上げる。
関ヶ原の戦いから約300余年を経た明治40年(1907年)、東京帝國大学の渡辺世佑が三成の伝記執筆のために、三玄院にある三成のものと思しき墓を発掘、京都帝國大学解剖学教室の足立文太郎が遺骨を鑑定調査し、その時に頭蓋骨の写真を撮影した。調査の結果は「優男の骨格・頭形は木槌型・反っ歯・没年41歳相当」。下って昭和51年(1976年)、末裔の一人である石田多加幸(写真家)からの依頼を受け、東京科学警察研究所元主任技官・長安周一が石膏復顔を行い、それをもとに関西医科大学の石田哲郎の指導のもと、昭和55年(1980年)3月、日本画家前田幹雄の手によって石膏の復顔肖像画が制作された。この肖像画は現在大阪城天守閣に保管されている。同時に身長の推測も行い、156cmと試算された。
人物像 [編集]

太閤検地においては検地尺を定めるなど、大きな実績を残した。豊臣家奉行の筆頭格であり、優れた行政能力を持った官僚であったという評価は定着している。
毛利輝元は「かの仁、当時、肝心の人にて、なかなか申すに及ばず。大かた心得にて候(大いに気を使う)」、島津義弘は「江州佐和山の城主・石田治部少輔、太閤公の股肱の臣として、その勢威、比肩の人なし」、高野山の木食応其上人は「治少(治部少輔)、御奉行のその随一なる顔にて候つる。少しもそむけ候えば、たちまち身のさわりをなす仁にて候」とそれぞれ評し、三成が豊臣政権で絶大な権力を握っていたことを現わしている。
評価 [編集]

江戸時代には三成は悪人と見なされた。明治に入ってもなお奸臣説が強く、秀次を讒訴したとか、秀吉自身は秀頼を家康に託すよう遺言したのに三成がそれに背き、天下を狙って家康と戦ったと説かれていた。三成の再評価を志した三井の朝吹英二は、三成の墳墓発掘などを行ったほか、歴史家・渡辺世祐に依頼し、渡辺は三上参次と協力して明治40年に『稿本石田三成』を上梓、三成奸臣説に論駁している。現在では実証的な評論が行われ、正確な三成像を描く模索が続いている。
肯定的材料 [編集]
後世に五人組の制度の元を築いた。これは、江戸時代を通じて農政の基本となった制度である。
『桃源遺事』によると、徳川光圀は「石田三成は憎い人物ではない。人はそれぞれ、その主君に尽くすのを義というのだ。たとえ敵でも、君のために尽くした者を悪く言うのは良くない。君臣ともそう心がけるべきだ」と言ったとされる。
豊臣秀吉が短期間で天下を統一できた理由のひとつとして、三成ら有能な行政官僚が常に後方補給などの輜重役を担当したことが挙げられる。実際に文禄の役の際にも兵站度外視で無闇に戦線拡大する諸将を説得して漢城(ソウル)に集結させ、碧蹄館の戦いでの勝利の基礎を作った。
佐和山で善政を敷いていたため領民から慕われ、三成の死後も佐和山の領民はその遺徳を偲んで、佐和山城付近に地蔵を築くなどしてその霊を慰めたという。
領内の古橋村が飢饉に襲われたとき、年貢を免租したといわれている。古橋には当時、三成の母の菩提寺である法華寺があったが、三成は手厚い保護を与えていたという。
文禄4年(1595年)の豊臣秀次失脚時には、諸将が秀次を見限る中で三成は「秀次公無罪」と信じ、最後まで秀次の助命に動き、秀次の家臣であった前野忠康(舞兵庫)ら若江八人衆はその三成の姿に感激し、以後、三成の麾下に加わったという記録もある[3]。またこの際、細川藤孝と共同しようとしたが、三成が遠方の検地に赴いていた為、思うように動けなかったとする説もある[要出典]。
否定的材料 [編集]
豊臣秀次事件のとき、三成は秀吉に対して、「御謀反調議ノタメニ、山々ニ在留セラル」と讒言し、これが秀吉に秀次排除を決意させたとされるが、現在は秀次の謀反説及び讒言説は否定されている。三成は秀吉の意向を受けて働いただけであり、結果として事務処理をせざるをえなかった三成が秀吉の代わりに憎まれ役になったという事実があったにしろ、それをもって「秀次を謀反の罪で直接糾弾したのは三成」と断言できるかどうかについては意見が別れる。
『改正三河後風土記』等には豊臣秀吉臨終時の五奉行の会議で、徳川家康と前田利家に秀吉の死を連絡するかどうかの議案に反対したにも拘らず、個人的に密使を二人に送って秀吉の死を知らせたことが記されている。そのせいで一時期三成はは家康と利家の心象を良くし、逆に二人と仲が良かったものの議決に従って秀吉の死を秘した浅野長政には不信を抱かせている。ただし、この独断専行は最終的には三人にバレてしまい、激怒させる結果に終わっている。
関ヶ原の戦いの際に、大谷吉継は三成に対して「お主(三成)が檄を飛ばしても普段の横柄ぶりから、豊臣家安泰を願うものすら内府(家康)の下に走らせる。ここは安芸中納言(毛利輝元)か備前中納言(宇喜多秀家)を上に立て、お主は影に徹せよ」と諫言し、三成の立案した作戦を「それは作戦などではなく博打というものだ」と語ったといわれる。三成は当初は諫言に従ったが、後にはいつもの横柄さに戻ってしまったという。
蒲生氏郷を毒殺したという疑惑も存在するが、現在では氏郷の死因は膵臓癌であったという記録があり、否定的な見方が大勢を占める。
蒲生家の騒動(蒲生騒動)を仕掛け、蒲生家の弱体化を三成が謀ったとも言われるが、根拠となる記録はなく、蒲生家の多くの旧臣が三成に仕え、更には三成と敵対したとされる人物の家臣であった者達も後に三成に仕えているため、現在では否定的な意見も多い。
系譜 [編集]

三男三女もしくは二男五女のほか庶子数人がいたとされる。
長男:石田重家 - 関ヶ原の戦い後、徳川家康に助命され出家。
次男:石田重成 - 津軽氏に匿われ杉山源吾を名乗る。子孫は津軽家臣。
娘:辰姫 - 高台院養女。弘前藩2代藩主津軽信枚の正室、のち満天姫(家康養女)降嫁により側室に降格。子に3代藩主津軽信義。
娘:某 - 石田家臣の山田某に嫁ぐ。山田某の叔母は家康の側室茶阿局でその縁から石田家没落後は妻(三成の娘)を連れ松平忠輝に仕えた。(異説有)
娘:某 - 蒲生家臣の岡重政室。重政が藩主蒲生忠郷の母振姫(家康の三女)の勘気に触れ切腹処分になると会津を離れる。子の岡吉右衛門の娘は徳川家光の側室お振の方(自証院)(三成の曾孫にあたる)。お振の方は家光の長女千代姫を産み、尾張徳川家に嫁いだ千代姫の血が7代藩主徳川宗春まで続く(異説有)。

イッカク


イッカク(一角、英名:Narwhal、学名:Monodon monoceros)とは北極圏に生息するクジラ目ハクジラ亜目イッカク科に属する小型のクジラである。北緯70度以南で観察されることは稀である。イッカク属はイッカク1種のみを含む。

目次 [非表示]
1 形態
2 生態
3 生息数と分布
4 捕食者と保護
5 イッカク神話
6 その他
7 脚注
8 参考文献
9 外部リンク


形態 [編集]

2本の牙を持つイッカクイッカクの雄の特徴は1本の非常に長い牙である。この牙は歯が変形したものである。イッカクの歯は上顎に2本の切歯があるのみであるが、雄では左側の切歯が長く伸びて牙となる。牙には左ねじ方向の螺旋状の溝がある。その大半が中空で、脆い。先端はつやのある白。[1]体長が最大で4.7m程度であるのに対し牙の長さは3m、重さは最大10kgに達することもある。通常牙は一本であるが、500頭に1頭程度の割合で2本有する個体も存在する。この場合、もう一本の角は左側より短いが、同様に左ねじ方向の螺旋状である。また雌は通常、牙を持たないが、約3%程度に1.2mほどの華奢な牙が生える。また、野生においては一例、二本の牙を持つ雌が確認されている。[2]

牙の役割については多くの議論が交わされてきた。以前は棲息地である北極海を被う氷に穴を開けるために発達しているという説や反響定位(エコーロケーション)のための器官であるという説などがあった。最近では牙は飾りであり、主な用途は雄の人気取りと優勢を誇示することであると考えられている。大きな牙を持つ雄は雌を魅了することができるようである。ゾウの牙と同様に、イッカクの牙は一旦折れてしまったら再び伸びることはない。

体長は雄で約4.7m、雌で約4.2mに達する[3]。雄の体重は1.5tに達することがあるが、雌は1tに満たない。胸びれは短く、成体では先端が上方に反る[1]。また、背びれは持たない。尾びれは扇形で、中央に顕著な切れ込みがある[4]。身体の大部分は青白い地に茶色の斑点模様であるが、首、頭部、胸びれや尾びれの縁などは黒い。年長の個体の模様は若い個体よりも明るい。老齢の個体はほぼ真っ白になるため、角が確認出来なかった場合などにシロイルカと誤認される事もある。

生態 [編集]

氷の隙間から顔を出したイッカクの群れイッカクは俊敏で活動的な哺乳類であり、主な食料はタラの類の魚である。しかしながら、ある海域では餌としてイカを食べることに適応している。イッカクは5頭から10頭程度の群を作る。夏の間、いくつかの群が一緒に行動し同じ海岸へ集まることがある。繁殖期には雄同士が牙を使って争う。この争いは角を使って殺し合いをするのではなく、単に角の長さを競いあうということが近年分かってきた。強い(つまり角の立派な)雄は雌を多数従えたハーレムと呼ばれる繁殖集団を形成する。

イッカクは潜水が得意である。典型的な潜水は2m/s程度の速度で8分から10分間下降して1000m程度の深海に達し、数分間過ごした後、海面に戻る。1,164mまで潜水した記録がある。通常の潜水時間は20分間程度であるが、25分間潜水したという記録も例外的にある。

生息数と分布 [編集]

イッカクの分布イッカクが見られる海域は北極海の北緯70度以北、大西洋側とロシア側である。多くはハドソン湾北部、ハドソン海峡、バフィン湾、グリーンランド東沖、グリーンランド北端から東経170度あたりの東ロシアにかけての帯状の海域(スヴァールバル諸島、ゼムリャフランツァヨシファ、セヴェルナヤ・ゼムリャ諸島など)などで見られる。目撃例の最北端はゼムリャフランツァヨシファの北、北緯85度である。大多数の個体が棲息している海域は、カナダの北やグリーンランドの西のフィヨルドや入り江であると推測されている。航空機を用いた調査により、生息数は約4万頭程度であるという結果が報告されている。海水中にいたであろう個体数を加算すると、全生息数は5万頭を超えるかもしれない。

イッカクは回遊する。夏の間は海岸近くの海域に移動する。冬が近づき海の凍結が始まると、海岸から離れて浮氷に覆われた海域に移動する。春になり浮氷の裂け目が広がる季節になると、再び海岸に近くに戻ってくる。

捕食者と保護 [編集]
イッカクの主な捕食者はホッキョクグマとシャチである。

イヌイットによるイッカクの捕獲は法律で認められている。グリーンランドでは銛などを用いた伝統的な捕鯨が行われているが、カナダ北部では高速船と捕鯨用ライフルを用いた捕鯨も良く行われている。PETA(動物の倫理的扱いを求める人々の会)などの動物保護団体はイッカクの捕鯨に対し長い間反対し続けている。

イッカク神話 [編集]
イッカクの棲む海域はヨーロッパの人々にとってはあまりにも北であったため、19世紀までは伝説の動物だった。イヌイットとの交易を通してのみ、イッカクの存在が伝わっていた。イヌイットの間ではある女性が銛にしがみついたまま海に引きずり込まれ、その後、女性はシロイルカにくるまれ、銛は牙となって、それがイッカクとなったという伝説が伝わっている。

その他 [編集]
ユニコーンの角は解毒作用があると考えられたため、中世ヨーロッパではユニコーンの角と偽ってイッカクの角が多数売買された。

江戸時代の日本にもオランダ商人を通じてイッカクの角はもたらされた。当時の百科事典である『和漢三才図会』(1712年)にてイッカクが紹介されている。