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もうひとつの大本營
秋月 達郎
――明治二十三年三月三十日に半田でなにが起こったのか――
明治二十三年三月三十日、愛知県半田市で日本最初の陸海軍統合大演習が敢行された。陸軍は近衛・第三・第四師団など諸兵およそ三万五〇〇〇名。海軍は御召艦八重山以下、軍艦二八隻。統監するは明治帝以下、親王百官および諸外国駐在武官。まさに国家の威信をかけた一大演習であり、当夜、衛士の燎く火は町を蔽わんばかりに煌々と瞬きつづけた。その明治の息吹を湛えた町に、いまもなお、大本營が残されている。
いまは遠くなってしまった明治のころの話である。
その時代のなかばあたり、とある屋敷が建てられた。古くは廻船業と醸造業を営み、代々に亙って半田有数の富豪でありつづけた庄屋格の屋敷である。富豪の世襲名は、中埜半六という。半六邸は町の中心を貫いている運河のほとりにある。敷地は一千坪に達し、家屋は本宅、新宅、母屋をあわせておおよそ三百坪におよぶ。皇居(宮城)の竣工と歩調をあわせるようにして同じ年の明治二十二年に完成した。いまから数えて、百十四年前のことである。当時の知多半島の粋を結集した建築物といってよく、当時は、母屋と本宅のほか、井戸館、門屋、茶室、職人小屋、そして九つの蔵が建てられた。ただし現在、御当主は屋敷には棲んでおられない。幼少時より既に七十余年、東京の御宅に棲んでおられる。母屋は、戦争を境にほとんど使われなくなり、戦後になって料亭に貸しだされ、昭和後期のほんの一時期、相撲部屋に貸された。それだけである。要するに、半世紀ちかくものあいだ、たれも足を踏みいれることがなかった。当然ながら、ほぼ廃屋にちかいありさまとなっており、三〇〇坪をこえる本庭は、まさしく森といってよかった。
この壮麗な数寄屋造りの屋敷に、筆者は今春、ふとしたきっかけで足を踏みいれることになった。入ることになった経緯については省くが、通用門をくぐった途端、松籟が寄せた。見上げれば大松がある。おそらく、完成時より、門庭に佇みつづけてきた松であろう。老松の梢の向こう側に母屋が望まれるのだが、威風をたたえた甍宇をふりあおいだとき、
――復元してみたい。
という啓示にもにた感情にかられてしまった。
いまからおもっても、どうして、そんな感情が頭を擡げてきたのかは不思議なのだが、あえていうなら奇縁というべきか。というのも、半六家には同市内の邱の上に別荘がある。やはり明治後期に竣工した洋風の館で、国の重要文化財に指定されている。筆者はこの館の佇まいが好きで、自宅を建てる際、業者を案内し、できるかぎり近いかたちの図面を描かせ、建てさせた。その半六家の本家に入ったことが、筆者を数奇な気分にさせたのかもしれないのだが、一度そうおもうと、もう止まらなかった。
ほどなく、信頼のおける建築家と庭師を誘い、ふたたび、半六邸を訪れた。ただ、訪れるとはいっても、草を踏みわけ、蜘蛛の巣をはらい、黴臭い埃を吸いこみ、軋む床に注意しながらのことで、一歩踏みだすだけでも躊躇するような状態だった。渡り廊下は完全に崩れおち、縁側も軒先も哀れなほどに傾げ、崩壊寸前の状態にあった。母屋の南には前庭、西には中庭、北には本庭があるのだが、どこもかしこも噎せかえるほどに樹木が生い茂り、ちかくから漂ってくる酢や酒の芳醇な匂いとあいまって一種、独特ともいえるような匂いにつつまれていた。
復元するなどというのは無謀だったのだろうかとおもい、建築家と庭師をふりかえれば、なぜか、ふたりとも息を呑んでいる。いや、瞳を輝かせているといったほうがいいかもしれない。ことに建築家はものに憑かれたかのごとく精力的に邸内を調査しはじめ、やがて、こういった。
「この家は、人間の棲む家じゃないですよ」
忘れがたいひとことといっていいのだが、かれはたしかにそういった。
それには理由がある。人間が生活するうえでの機能と導線をほとんど持たず、ひたすら、客人を接待することだけを目的として建てられたものではないか、という直感が湧いたかららしい。庭師も庭師で、瓦礫をどかしながら、庭のそこかしこに置かれた石の前で腕を揖んだまま、彫像のように動かなくなっていた。というのも石のことごとくが鞍馬石を用いており、池は運河の水をひき、さらには自然石を土台にして母屋が造られているという、信じがたい技が用いられているからだった。とてもではないが、一般の民家でこれほどの造作はしないのだと唸りつづけるのである。そして母屋西側の中庭は、客人に見せるためにのみ、造りあげられたものではないかと断言した。
ふたりが、おなじような推測をする最大の理由は、六畳の上段間があるからだった。上段間は母屋の北の深奥に位置し、中庭に面し、しかも背後の壁裏に空間を要し、さらに二畳にちかい広さをもつ床の間を有していた。床の間には左右に対となった床柱があった。現在の御当主によれば、そこには仏壇が置かれていたというのだが、建築家は首をふる。仏壇を最初から置くために造ったものではないのではないか、客人が座るために造られた「座」ではないかというのである。そして、その「座」に座る客人をもてなすためのみに、この母屋は建築されたのではないのか……と。客人といえば、脳裏に浮かぶものがないことはない。半六家が庄屋役をつとめていたころ、尾張の藩侯が知多を巡覧する際、当家を訪れており、江戸期には御成間があったという。だが、この発想は即座に否定された。半六邸の完成は、再度云うが、明治二十二年である。藩は、すでに無い。藩侯をむかえるべき御成間を造る必要は、どこにもない。
そのとき、筆者の脳裏に閃光のごとく浮かびあがってきた想像があった。
「明治天皇じゃないか」
「……まさか……」
と、建築家と庭師は声をそろえた。
だが、整然とした理由がある。明治二十三年三月三十日、半六邸のある半田では、明治帝の天覧による日本最初の陸海軍統合大演習が催され、また日本で初めての大本營が設置された。しかも、この半六邸の北隣には当時、小栗富治郎なる当時の郷内の富豪にして、わずかのちに貴族院議員となり、さらには日本国内における台湾塩の製塩権を一手に握り、さらには小栗銀行や小栗時計を創始することとなる人物の邸宅があり、そこが大本營に指定されているのである。半六邸に明治帝が訪れたところで不思議はないし、もし、そうであるなら、あの床の間は玉座ではないかと筆者はいい、あらためて邸内の探査をおこなった。
すると、どうだろう。奇妙な床の間の真正面にある控座敷の欄間に梅の花が彫りこまれているのだが、その花蕊が十六弁菊花紋となっているではないか。菊花紋の民間による使用は、ちょうど大演習の一ヶ月前、明治二十三年二月二十八日に禁止されている。となれば、それ以前に民間の屋敷の欄間に菊花紋をほどこすことは不敬でもなんでもないことになるのだが、しかし、あえて彫りこむものでもない。これは、どういうことなのか。
もしかしたら、この中埜半六邸もまた、もうひとつの大本營だったのではないか。
なるほど、日本で最初の大本營はたしかに小栗富治郎邸とされている。ただし、戰時大本營条例として法令化されたのは日清戦争の一年前となるから、厳密にいえば、かりそめの大本營であった。そもそも大本營なるものは戦時または事変において天皇の隷下に設置される最高統帥機関をいい、当時は陸軍の参謀総長が幕僚長となって陸海軍の作戦計画を担当し、統帥権が独立したまま、文官が列席して外交的見地から政府と統帥との調整にあたるところとされた。ちなみに軍令部長が参謀総長と並列したかたちで幕僚長となるのは日露戦争時からである。また、宮中に大本營が設置されるのは支那事変が勃発してのちのことである。とまれ、戦時において大本營なるものをかたちづくらねばならないという思想はすでに政府にはあり、たとえ仮のものとはいえ、帝国議会の開院に歩調をあわせるべく、同じ年に大演習をおこなったのであろうことは疑いの余地はない。
ここでいう大本營はあくまでも明治帝巡幸に際しての駐輦および宿泊のための頓宮(行在所)であり、大本營参謀部は同じく半田の富豪である小栗三郎宅に設けられている。両家は苗字は同じだが、姻戚の関係にはない。ただ、富治郎宅と三郎宅はわずか二軒の家を隔てた斜め同士に建てられており、半六邸は両家の中間、まさしく行在所と参謀部の中心にある。つけくわえておけば、三郎宅に宿泊したのは有栖川宮熾仁親王である。また演習に参加した百官たちの宿泊所も、この富治郎宅と三郎宅を臍として近在に設けられた。
小松宮彰仁親王(中埜又左衛門宅)
北白川宮能久親王(榊原由一宅)
侍従長公爵徳大寺実則(三浦六弥宅)
内閣総理大臣侯爵山県有朋(田中清八宅)
陸軍大臣侯爵大山巌(滝本平吉宅)
海軍大臣侯爵西郷従道(神田巌宅)
大蔵大臣侯爵松方正義(中埜純平宅)
司法大臣子爵山田顕義(小栗弥三八宅)
文部大臣子爵榎本武揚(小栗喜左衛門宅)
宮内大臣子爵土方久元(中埜半左衛門宅)
外務大臣子爵青木周蔵(榊原銀作宅)
逓信大臣男爵後藤新平(小栗政次郎宅)
東京帝国大学総長渡辺洪基(山本梅荘宅)
陸軍中将男爵野津道貫(鈴木丈助宅)
陸軍少将乃木希典(杉浦善平宅)
陸軍少将児玉源太郎(料亭春扇楼末廣)
など、壮々たる顔ぶれが泊している。
それについてはともかく、半六家は富治郎家の主家にあたり、富治郎は終身、藁草履で裏口から出入りした。そのような家であるにもかかわらず、大演習の当時、半六邸は初代の陸軍医監にして日本で最初の医学博士号を授与された天皇家の侍医たる池田謙齋の宿泊所にあてられていた。明治帝はおろか、ひとりの大臣も宿泊していないことになっている。さらにいえば、富治郎家は二代目の富治郎が明治二十二年に逝き、あとにのこっていた初代富次郎が明治二十三年一月に逝っている。当時の当主(三代目)は若干二十三歳という若さだった。
以下は、筆者の個人的な想像である。
この国の近代史は戦争の世紀であったといってよく、軍備の充実をはかることは近代国家として成立してゆくうえでは必須条件のひとつであった。西南の役から日清戦争にいたるまでのおよそ十五年間というものは、めまぐるしいほどの速度で国家が旋回し、形勢されていった時期といえるだろう。参謀本部が設置され、沖縄県が設けられ、軍人勅諭や教育勅語が形づくられ、壬午軍乱や甲申政変が勃発し、華族令が定められるのとともに鹿鳴館が産声をあげ、自由民権運動が沸騰し、太政官が廃されて内閣制度が定められ、枢密院の設置にはじまって大日本國憲法・皇室典範・議員法・貴族院令・衆議院議員選挙法・保安条例など、日本が国家として成りたつための大枠が築きあげられていったのが、ちょうどこの時期である。また対外的にも膨張しつつあった日本は、琉球や朝鮮の複雑怪奇な問題のかなたに清国があることを否応なく意識し、それが結局、国同士のおおきな軋轢となって顕現し、やがて日清戦争となっていった。日清の戦役は明治二十七年に釁端が開かれたのだが、日本が急激に回転しはじめたのはそれを遡ること四年、つまり明治二十三年であり、その年、第一回衆議院議員総選挙が施行され、帝国議会が開院式をむかえた。 ことに明治二十三年というのは、年表にもあるように、日本が近代国家となるべく辛苦をかさねてきた仕上げの年であったといっていい。
さて、清国との戦争の影が濃厚に見え隠れしはじめたのは、明治十九年一月に朝鮮政府とのあいだに絶影島の地所借入約書の調印がなされたころである。同年三月、参謀本部条例が改正されて陸軍部と海軍部に分けられ、外相の井上馨は日清修好条規改正を清国政府へ提議するよう、公使の塩田三郎に指示をあたえた。そして翌明治二十年二月、対外的にも日本の武力を見せつける必要から、愛知県知多半島武豊において陸海軍対抗大演習がおこなわれた。しかしながら、この演習はたしかに天覧演習ではあったものの、陸軍と海軍の演習は別々におこなわれ、それほど大々的なものではなかった。明治帝も上陸のおりに武豊町鳳翔閣において昼餐をとられただけであった。ちなみにこの鳳翔閣はすでに取りこわされ、現在はとある製薬会社が建っている。
日本が国家の威信をかけて巨大な演習をとりおこなったのは、さきにも触れた明治二十三年三月末である。処は、上記武豊の北にある半田郷(現・半田市)であった。陸軍は近衛師団、第三師団、第四師団などを中核とした諸兵およそ三万五〇〇〇名が参加し、海軍は御召艦の「八重山」をはじめ「高千穂」「大和」「高雄」「葛城」「扶桑」「浪速」「金剛」「鳳翔」「天龍」「筑紫」「摩耶」など二八隻の軍艦のほか水雷艇および運送船が知多半島の東の湾内に展開した。むろん、天覧による陸海統合演習であり、しかも、日本で最初の大本營が設置された。そればかりではない。諸外国から観戦武官が招かれ、日本政府の高官らも勢揃いして催されるという一大イベントであった。当時、半田は東海道線をつくるための支線が敷かれていたこともあり、さまざまな物資の往来によって殷賑をきわめていた。ために富裕な層が驚くほどに多く、百官を歓待し、かつ兵たちの胃袋を満たすことにはさほどの労苦もなかった。ただし、半田には南隣に成岩、北隣に乙川なる地があり、将官のほかは右の場所に集合宿泊したものとおもわれる。
さきに歴史的な事実について触れておきたいのだが、当時の新聞によれば、大演習に派遣された各地方の新聞記者は関東から六十名、関西から三十名、当地の記者をあわせて百名をこえる人員であったらしい。かれらの発した記事のなかに「東軍の斥候敵の為に刺されたり。本文は敵の動静を探らんために出でたる斥候の捕らえたるより、之を刺殺するに擬したるものか又は両軍の兵気互に激する所ありて過て実際は刺したるものか後報を待て詳にすべし」とあり、また「東軍より発したる斥候石黒中尉外三名は三州地方を巡ら中敵軍哨兵の為めに其中の一名負傷せり」という続報があり、さらには驚くべきことに「東軍水雷を以て西軍の軍艦一艘を沈む」とあり、また新聞ではないのだが『愛知縣聖蹟誌』には「午後十時に至り、東軍艦隊は日間賀島付近に現はれ、水雷を発射す。高尾艦終に轟沈する所と為る」とある。ちなみに「高尾」というのは、おそらく幕府海軍(榎本艦隊)に所属していた旧式艦の「高雄」であるとおもわれる。それが撃沈されたのである。斥候が刺されるだけにとどまらず、軍艦が撃沈されるなど、通常の演習では考えられない。日清間に風雲急を告げるころであり、必要以上にちからがはいってしまったのか、なにものかに拿捕制圧されたとはおもえないが、ほかになんらかの理由があったのか、妙に想像をかきたてられる事実ではないか。
ちなみに、このころの背景を記しておけば、明治十七年十二月には愛知県と長野県の自由党員による名古屋鎮台襲撃計画が発覚し、村松愛蔵らが逮捕されるという飯田事件が勃こり、翌年十一月には自由党員による「自由民権運動の再興をめざして朝鮮でクーデタを煽動する」という日清対立計画が発覚し、大井憲太郎ら一三九名が逮捕されるという大阪事件が勃発した。さらに明治二十二年二月には森有礼が刺され、同年十月には大隈重信が玄洋社の来島恒喜に爆弾で襲われ重傷を負うという血腥い事件が連発している。世情は、あきらかに騒然としていた。
世情騒然とし、日清戦争を四年後にひかえている新興国日本の陸海軍統合大演習において、宮内省は明治帝の真の行在所を内外に公表したであろうか。また、いかに当初から定められていたにせよ、はたして忌中の家を行在所にしえたであろうか。玉座としかおもえない半六邸の床の間はのちになって仏壇が置かれるようになったらしいが、はたして皇居の完成と期を一にする明治二十二年、仏壇を置くことを目的として造りあげられたのだろうか。行在所とされ、のちに史蹟にも指定された富治郎宅の母屋は、たしかに二畳の上段間や茶室を擁するなど気のきいたものではあったが、基本的には田舎屋の四つ住いでしかない。内外に公表している行在所には影武者を置き、さらに同市内雁宿より統監におよんだおりなども影武者を立て、ほんものの明治帝は大本營にあてられた地区の中心にあたる屋敷において過ごされていたとは考えられまいか。いや、御前会議の場として使用されたとは云えまいか。そして当時の半六家の当主にたいしては、関係者の誰かが、
――ここで見たことは決して他言してはならない。
と、念をおしていたとは想像できまいか。明治帝をむかえるという、そのたった一夜のために、当時の中埜半六がおおいに発奮し、半田の粋を結集した建物を造りあげてやろうとしたのではないか。そして、その矜持あふれる使命をはたしおえたのちも、たれにも御前会議がおこなわれたことを語らず、静かに世を去っていったのではないか。
大演習の当日、町もすさまじい人出だった。家々の軒に日の丸提灯がさげられ、現在の御幸通から本町通には徹底的な清掃がなされ、八幡社には青白の幔幕がはりめぐらされた。通りから神社境内にかけては筵をひき、そこで住民たちが座りこみ、明治帝の行幸を待ったのである。すべて、男も女も黒紋付を着こみ、子どももまたく黒紋付もしくは手織縞のあたらしい着物だった。柳の立ちならんでいる御幸通には官公職者が羽織袴で立ちならび、駅前には下半田北組の面々が法被姿で囃子の準備にはいった。
明治帝を乗せた列車が武豊を発するや、ただちに「いさみ」が始まった。囃子のことである。このおりの「いさみ」はいまでも下半田の祭礼の際に聞くことができる。三月三十日午後五時五十分、明治帝は半田駅に到着、囃子は最高潮に達した。
でむかえの人間のなかには、小栗冨治郎も、中埜半六もいたはずである。
明治帝は駅をでた。
駅前からは近衛騎兵が先導し、天皇旗がつづき、明治帝は馬上、徒歩の各大官および将星をひきつれて御幸通へ進み、現在の日之出食堂と豊場屋本店の角を北へまがり、本町通にはいった。やがて、萬治呉服店の角にいたるや、東にまがり、八幡社のまえを通過、小栗冨治郎宅にはいったとされる。
ここで、疑問が生じるのである。
その夜、明治帝は夜遅くまで軍議をしたことになっているのだが、その場所は明らかにされていない。
また、小栗三郎宅はたしかに參謀部ではあったが、あくまでも參謀部は參謀部でしかない。御前会議の場ではなく、さらには芸妓が午前一時まで侍っている。大官をまじえた御前会議がおこなわれたとは、とてもおもえない。
しかしながら、半六邸だけはちがうのである。
「この屋敷は、会議をするために造られたとしかおもえません」
屋敷のなかをめぐりながら、建築家は、そのように呟いた。直感にすぎないのだが、それは正しい直感といっていいのではないか。京都のさまざまな庭を見て修業をつんできた庭師も、こういった。
「ここの庭は、この床の間から見るのがいちばん良いんだよ」
ふたりとも、明治二十三年三月三十日のことは当初、知らなかった。筆者も調査途中で気づいたことであり、あえて、なにも告げずにいた。だが、ふたりはまるで目に見えないなにかに憑かれたようにして、おなじ結論に達していったのである。
もはや、その結論はひとつしかありえない。
――大本營は、もうひとつ、存在したのではないか。
ということである。
半六邸は、いまも、百十四年という風雪をのりこえて、往時の面影をとどめつつ、佇みつづけている。だが、料亭「喜久家(3字傍点)」の女将も欄間にある菊花紋(3字傍点)は決して壊さず、大鵬をはじめとする二所ノ関の関取たちも上段間を原形そのままにして使いつづけた。そのおかげで、今日のわれわれもまた遠き明治の風籟をわずかばかりながらも感じとることができる。
「復元しよう」
どうやら、ものごとをおこなうには、それなりの伝説が必要となるらしい。筆者たちは今もって定かならぬ伝説を背負って、今春から半六邸の完全なる復元にむけて微力をかたむけている。そしてこの晩秋、内外のさまざまな後援と協賛を受けつつ、邸内において茶会を催すことになっている。それは、半世紀ぶりの半六邸のお披露目となるだろう。同邸が御前会議の場として使用されたのではないか、真の頓宮として誰知られることなく使われたのではないかという想像は、その披瀝の際、客人たちの茶請として提供するだけのものでしかないが、このような推論が生じてしまうほど、もしかしたら明治は遠くなっているのかもしれない。
(PHP研究所発行 歴史街道より 改訂は著者)