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野間
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「野間大坊(のまだいぼう)」



 
長田屋敷跡からさらに西へ数百メートル程行った所にある「野間大坊(のまだいぼう)」。
正式な名称は「鶴林山 無量寿院 大御堂寺(かくりんざん・むりょうじゅいん・おおみどうじ)」。
天武天皇の御世に役行者(えんのぎょうじゃ)によって創建され、聖武天皇の時代に行基が中興、その後、弘法大師も訪れたことがあるという由緒のある古刹ですが、実質的には源義朝の菩提寺として建てられたものではないかと見られています(廃寺を再興したとか)。

『吾妻鏡』によれば、野間の義朝の墓が荒れるに任せてあったものを尾張守として赴任した平判官康頼が整備し、水田30町を寄付してそこに小堂を建て、僧6名も置いて供養のための念仏を絶やさなかったとされ、この労に報い頼朝は康頼を阿波国麻殖保(おえのほ)の保司に任じたとしています《文治2年(1186)閏7月22日条》。

平康頼は治承元年(1177)6月に起きた「鹿ヶ谷事件」において藤原成経や俊寛と共に鬼界島に流された人物ですが、翌年に中宮徳子懐妊による大赦で召還されています。信頼の置ける史料には尾張守の任官を示すものは残っていないようで、どの時点で御堂の整備が成ったのかはっきりとはしませんが、鬼界島へ向かう途上に出家し、帰京後も籠居して仏教説話集「宝物集」を著すなど政治の表舞台からは退いていたように見受けられますので、少なくとも鹿ヶ谷以前のことではないかと思われます。