8_13.jpg8_14.jpg8_01.jpg田んぼの中に残る日本油脂の私設小型貨車鉄道の廃線。8_02.jpg武豊高校。

8_03.jpg8_04.jpg8_05.jpg8_06.jpg廃線は道路ではないのか通行が出来ない。私有地ということか。

8_07.jpg8_08.jpg8_09.jpg8_10.jpg8_12.jpg

●朝日新聞HPより

仙台の連れ去り事件、乳児を無事保護
 
仙台市宮城野区の光ケ丘スペルマン病院(志村早苗院長)から同区幸町3丁目、会社員山田斉(ひとし)さん(27)の長男で生後11日の柊羽(しゅう)ちゃんが6日未明に連れ去られた事件で、宮城県警は8日早朝、柊羽ちゃんを同区内の別の病院付近で無事保護した。

 身代金として6150万円を要求する志村院長あての脅迫文が7日未明に同区の新聞販売所で見つかり、同日夜に院長が受け渡しの指定場所に向かったが犯人は現れず、8日午前5時半過ぎにスペルマン病院に「国立病院裏の廃虚に赤ちゃんを解放した」との電話があった。県警は身代金目的誘拐の疑いで行方を追っている。

 警察庁によると、新生児を狙った身代金目的誘拐事件は76年10月以来。 調べでは、柊羽ちゃんは連れ去られた病院から南に約2キロ離れた国立病院機構仙台医療センター=同区宮城野2丁目=付近で、連れ去られた時と同じ肌着を着け、タオルケットを毛布にくるまれた状態で約50時間ぶりに見つかった。目を開けてきょろきょろしており、元気な様子だという。脅迫文の内容などから、県警は犯人は山田さん方に面識はなかったとみており、身代金の奪取を断念した犯人が新生児をもてあまして放置したとみている。

 柊羽ちゃんを連れ去った男は6日午前3時半すぎ、病院に侵入し、母弓美さん(23)の隣のベッドで寝ていた柊羽ちゃんを奪って逃走した。翌7日午前2時40分、病院から約700メートル北東の朝日新聞販売所「ASA鶴ケ谷」裏のガラス戸に封筒が張り付けられているのを、出勤した配達員が見つけた。

 その中の文書には、(1)赤ちゃんは元気で自分以外の人が世話をしている(2)6150万円を用意しろ(3)警察に連絡したら取引は中止する(4)病院長には貸しがある――などと書かれていた。さらに、志村院長がJR仙石線で7日午後9時52分仙台発の普通電車で石巻に向かい、連絡を待つよう指示していた。

 犯人から病院に最初に電話があったのは午後4時22分。病院から南西に25キロ離れた同県大河原町の公衆電話からだった。病院側は志村院長の携帯電話の番号を犯人に伝え、県警は脅迫文の指示通り、志村院長に現金を持参させ受け渡し場所に向かわせた。

 2回目は午後9時36分。仙台駅にいる志村院長の携帯に「石巻に来てください」と指示した。多賀城市のJR陸前山王駅前の公衆電話からだった。3回目は院長が石巻駅に到着した直後の午後11時28分。「タクシーに乗って三陸道の矢本パーキングエリアに来い。(柊羽ちゃんは)金を受け取ってから6時間後に解放する」と話して切れた。発信元は仙台市宮城野区の公衆電話だった。

 翌8日午前0時半過ぎには、タクシーに乗っている院長に多賀城市内の公衆電話から4回目の電話があった。「仙台方向に向かって走り9キロの標識のところで左側に止まり、10分待て」と一方的に話し切れた。さらに午前1時6分、5回目の電話で行き先を再三確認した院長に対し、「時間稼ぐのやめてくださいよ」といらだった様子を見せた。その後、院長は指定の場所に到着したが、犯人からの連絡がとぎれたため、同3時に院長はその場を離れた。

 これまでの調べでは、柊羽ちゃんを連れ去った男は、当直の看護師に「院長と我々の問題だ」などと話し、病院批判や「院長の家の前にガソリンをまいた」などとする内容が書かれた紙を看護師に見せていた。ASA鶴ケ谷に送られた脅迫文には、看護師の証言と一致する内容のやりとりが記載されていた。看護師に見せた紙と、脅迫文の筆跡が似ていたことから、県警は同一人物が書いたとみて調べていた。

 県警は、病院か院長と何らかのトラブルを抱えている者の犯行とみて調べている。

 県警は発生当初、新生児を狙った者略取事件として公開捜査を開始。7日未明に脅迫文が届いたことから同日午後、柊羽ちゃんの生命を最優先するため報道機関に、取材と報道の自粛協定を結ぶよう申し入れた。各報道機関もこれを受け協定を結んだ。

      ◇

 仙台市の病院から6日未明、生後11日の山田柊羽(しゅう)ちゃんが連れ去られた事件で、朝日新聞社は事件の経緯について報道を続けていましたが、7日午後になって、同日未明に身代金を要求する脅迫文が届いていたことが判明しました。このため、柊羽ちゃんの安全を第一に考え、その後の報道を差し控えていました。

鵜飼俊男の感想

7日未明に脅迫文が届いたことから同日午後、柊羽ちゃんの生命を最優先するため報道機関に、取材と報道の自粛協定を結ぶよう申し入れた。各報道機関もこれを受け協定を結んだ。と言うのはとてもいいことである。


●毎日新聞HPより

仙台新生児誘拐:柊羽ちゃんを無事保護 身代金目的で捜査
 仙台市宮城野区の「光ケ丘スペルマン病院」(志村早苗院長)で6日未明、同区幸町3、会社員、山田斉(ひとし)さん(27)の生後11日の長男柊羽(しゅう)ちゃんが連れ去られた事件で、宮城県警仙台東署捜査本部は8日午前6時、同区内で柊羽ちゃんを約50時間ぶりに無事保護した。7日未明、志村院長に柊羽ちゃんの解放と引き換えに現金6150万円を要求する脅迫文が見つかったことから、捜査本部は身代金目的誘拐事件として、柊羽ちゃんを連れ去った男の行方を追っている。

 犯人側の現金受け渡しの指示で、志村院長が7日夜、同県石巻市のJR駅前や三陸自動車道のパーキングなどで待機した。だが、直接の接触はなく、8日午前3時半に院長は病院に戻って待機した。その後、午前5時38分ごろ、病院に「国立病院の裏の廃虚に赤ちゃんを解放した」と電話があり、110番通報で捜査員が急行。国立病院機構仙台医療センター北側の廃屋内で、午前6時に新生児を発見。仙台市立病院に運んで、母弓美さん(23)が柊羽ちゃんと確認した。外傷はなく、生命に別条はない。柊羽ちゃんは白の産着姿でバスタオルでくるまれていた。

 電話は病院の代表電話にかかり、男の声とみられる。警備員が受けた。

 一方、連れ去り事件は、6日午前3時40分ごろ発生した。マスク姿の男が同病院の産婦人科病棟3階307号室に「火事だ」と叫びながら駆け込み、添い寝をしていた山田さんの妻弓美さん(23)が動揺しているすきに補助ベッドから柊羽ちゃんを誘拐。また、7日午前2時40分ごろ、病院から約700メートル離れた新聞販売店「朝日新聞サービスアンカー鶴ケ谷」のガラス戸に、脅迫文が入った封筒が張り付けられているのを従業員が見つけ、店長が110番通報した。

 脅迫文は漢字と片仮名交じりの手書きで、「長びくのであれば、それは先生と警察の責任になる」「院長にはささいなことでも、私には大きな貸しがあります。その盾に柊羽君を使ってしまった」などの内容で、病院側に身代金6150万円を要求。現金を入れるバッグの色や材質を指定、志村院長に仙台駅を午後9時52分に出るJR仙石線に乗って石巻駅まで運ぶよう要求していた。

 その後、午後4時22分ごろ、病院に取り引きに応じるかどうか確認する電話が入るなど、8日午前1時6分ごろまでの間に犯人側から5回の電話があった。

 病院で男は柊羽ちゃんを連れ去る直前、病室と同じフロアにある看護師詰め所に立ち寄り、「院長に会わせろ。われわれと院長のことだから」と看護師に詰め寄っていた。捜査本部は男と同病院との間に何らかのトラブルがあった可能性もあるとみて捜査を進める。

 また、脅迫文に「元看護婦が付きっきりで世話をしている」と記していることから、共謀者についても調べている。

石坂洋次郎を讃える

●http://www.aa.cyberhome.ne.jp/~museum/19441230teikai/teikai.htm]より

青い山脈・石坂洋次郎
同じ帝海丸に「若い人」でベストセラー作家になっていた石坂洋次郎が乗っていました.「この作品は軍国主義時代,皇室に対する不敬罪,軍人誣告罪などで,ある右翼団から告訴され,それが動機で,作家と教師と,二足の草鞋をずっとはきつづけるつもりでいた私は,学校側に辞表を提出して,作家一本で立っていかなければならない境遇に追い込まれたのである」と自身が回想しているように,軍部に睨まれ「懲用」されるがごとくに報道班員としてフィリピンに派遣された石坂洋次郎は,マニラのベイ・ビュー・ホテルに滞在して宣伝活動に従事することになります.
帝海丸はその後も激戦の海で北は千島列島から南はラバウル,ニューギニアへと部隊や軍事物資の輸送に努めます.リンガエン湾上陸から3年後の昭和19年12月30日,米軍が圧倒的な兵力でルソン島奪回のための上陸作戦を展開するなかで帝海丸は戦闘機・爆撃機の波状攻撃を受け,大火災を起こしながら漂流して沿岸に座礁したのです.
日本軍降伏後の昭和21年2月,本間雅晴中将はバターン半島における捕虜虐待の容疑でマニラの軍事法廷で死刑判決を受けました.証人として喚問された本間富士子夫人の「わたしは今なお本間の妻たることを誇りにしています。」という証言は軍事法廷を深い感動で包んだといわれます.その翌年石坂洋次郎は「青い山脈」を発表,日本国民に新しい時代の到来を告げたのです.(この項おわり)
http://mytown.asahi.com/hokkaido/news.php?k_id=01000339999992063より

A 遺愛学院 120年の歴史
2003年03月12日







明治の心息づく学舎




  函館のタウン誌「街」の発行人、木下順一さん(73)は函館のいろいろな歴史に詳しい。


  「石坂洋次郎の『若い人』は遺愛女学校がモデルといわれたが、美人で生意気なヒロイン、江波恵子みたいな女性がかつていた。彼女に函館中学時代かな、亀井勝一郎さんが恋したんだね。後に彼女は大門のバーのママさんになって、亀井さんがしきりに行きたがった。友人たちが『思い出を大事にしろ』と止めたけど、亀井さんはやっぱりいったようだね」


  函館生まれの評論家、亀井勝一郎には「人生邂逅(かいこう)し開眼し瞑目(めいもく)す」という名言がある。

●http://www.google.co.jp/search?q=%E7%9F%B3%E5%9D%82%E6%B4%8B%E6%AC%A1%E9%83%8E%E3%80%80%E8%8B%A5%E3%81%84%E4%BA%BA&hl=ja&lr=&start=100&sa=Nより
1990/11/07 読売新聞朝刊
 
天皇陛下即位の礼特集 とけあう皇室と現代 三浦朱門氏と木村尚三郎氏の対談
 
 天皇陛下が即位後朝見の儀で平易な言葉で「憲法を守る」と述べられてから一年十か月、その新しいスタイルが、多くの国民に新鮮さと親しみやすさを感じさせている。即位の儀式を前に、歴史・文化の中の天皇を振り返りつつ、昭和天皇との違いや国際化時代における皇室への期待、注文などについて、作家三浦朱門、東大名誉教授木村尚三郎両氏に話し合ってもらった。
(司会は後藤文生編集局次長・文化部長)
◆国民の親近感一段と
〈変化〉
 −−新しい陛下は、新任の大使が伺うと、単にあいさつされるだけでなく別室で必ず懇談をなさるとか、国民に近いレベルでお話をされるイメージがある。新しい陛下になって、印象的にどういうところが変わったか、そのあたりからお話し願いたい。
 三浦 天皇について、かつて「上御一人」という言葉があった。普通の人間とは別の、特別な人間だったわけだ。普通の人間の上にいたから、「対話」というのはあり得なかった。昭和天皇の場合、園遊会でも一言質問され、相手がお答えする。それで多くの場合、会話が途切れてしまう。その点、今の陛下は子供の時から、他の人たちと一緒に学校生活を送り、小学校上級の時に敗戦を迎えられている。そういう中で、人間として他の人たちと会話するという、社交的な場というものをつくられてきたと思う。
◆喜び、悲しみ分かち合う
 木村 わが家にも昔、神棚の近くに、御真影が飾られてあった。明治天皇、大正天皇、昭和天皇の写真があり、拝む対象だった。学校へ行っても奉安殿というのがあって、そこにも御真影が飾られ、学校行事の時は必ず頭を下げていた。終戦後、神棚の写真ではなくて実は人間だったと宣言されたのが昭和天皇だった。今の陛下は、御真影というような存在からは全く切り離された新しい天皇で、その意味では、明治以降の天皇制という私たちに重くのしかかっていた枠がとれて、国民と血肉を分かち合っている存在になった。病院へ視察においでになる時も、ひざを折って患者の頭と同じレベルで話をされる。私たちの喜び、悲しみ、悩みをともに分かち合う存在になられたと言っていい。
 三浦 家庭のつくられ方にしても、昭和天皇が側近に囲まれ、孤独な状態で育てられたのに比べると、今の陛下は戦争に負けるまでは非人間的な状態で育ったが、戦後は人間関係もでき、国民である一人の女性と結婚された。我々の考える生活と非常に似た形の夫婦生活、親子関係、家庭生活をつくられている。
 −−昨年一月の即位後朝見の儀では憲法を守るというおことばもありました。
 木村 明治天皇であれ、昭和天皇であれ、自身の気持ちと国家のありようについて言えば、国家の側の要請の方が強かったのが事実と思う。戦後の昭和天皇、現在の陛下はそういった国家的要請というものをはずされ、国民とともにある、国の憲法とともにあるということだと思います。
 三浦 明治憲法は複雑で、立憲君主制みたいな文言があるかと思うと、絶対君主制みたいなのもある。服装にしても、明治天皇から軍服を召された。その軍服とは無縁で、神聖な存在ではなく、国家の憲法の中に規定されている天皇、憲法の外側でも、憲法に優越する存在でもなく、憲法の中にあるという意味で一般国民と同じなんだ。それが、朝見の儀での「憲法を守り」ということなのではないかと私は理解している。
 −−今の陛下のお考えには当然のことながら、時代や環境というものが影響していると思いますが。
◆平和国家準備した昭和天皇
 三浦 陛下は、小さい時から戦争の中で育たれた。明治憲法では、皇太子は満十歳で陸海軍の少尉になる。陛下が満十歳になられたのは昭和十八年、ちょうど戦争が不利になっていったころ。幼い皇太子が少尉になって、形の上だけでも前線に行かれれば、戦意高揚に役立つと思われたのに、そういうことをしなかった。明治、大正、昭和の天皇と違い、今の陛下は一度も軍服を着ておられない。それは、だれかが今日を見通して、平和国家日本の天皇になられる準備をしていたような気がしてならない。私は、それが昭和天皇ではないかという気がする。
 木村 陛下が皇太子時代に沖縄に行った時、火炎瓶か何かを投げつけられても、じっと耐えておられたという。私たちの怒りとか、苦しみとか、そういったものを一身に背負っておられるところが親近感を与える理由だと思う。国民と一体になっている感じが強い。
 三浦 学習院大学の学生だったころ(昭和二十八年)、エリザベス二世の戴冠式に昭和天皇の御名代として出席された。当時、イギリスの対日感情は悪く、戴冠式の序列も低かったという。帰って来ると、こんどは出席が足りないから卒業させないと大学の先生が言う。そういう内外の“いじめ”にあわれた。それにも、じっと耐えられた。天皇になるべくして生まれた、その重荷を背負っていらっしゃるという気がする。
〈歴史〉
 −−ここで視点を変えて、歴史的な観点からお話を。
◆時代の波受けた時も
 木村 明治になって、天皇を「エンペラー」と訳したが、これは「インペラトール」というラテン語から来ている。並ぶ者のない、専断的な権力を持つ存在という意味で、少なくとも中世以降、こんな天皇は明治までいなかった。古代には、大和朝廷は稲作技術を持つ先進的な文明の掌握者で、人々を心服させたということがあった。だが、封建社会になってからは、ある意味での宗教的な存在で、武士が力を持ち、将軍が政治権力を握っていた。
 「すべらぎ」とか「すめらぎ」という言葉があるが、これはもともと「統ぶ(すぶ)」という言葉から来ているといわれる。天皇とは「統べる人」ということだが、「統ぶ」というのは「すぼめる」という意味だと「大言海」には書いてある。要するに、人々の気持ちをすぼめて一つにしていく人、それが「すべらぎ」「すめらぎ」だという。「エンペラー」と規定される天皇ではない。ヨーロッパでいうと、法王と大変似ている。
◆日本の「普遍性」象徴
 三浦 国家は穀物が確保されたときに成立するんです。大和朝廷と穀物が結びつき、日本的な文明圏が初めて成立する。その過程で、今の天皇家が、それ以前から存在していた宗教、というよりもっと漠然とした自然観、価値観と結びつき象徴的存在になったのは確かだと思う。それが木村さんのいう「統ぶる人」につながる。しかし、歴史時代に入ると、天皇家が軍隊を率いて、日本各地を征伐して回る状況はもはやなくなった。武の方面では何もない存在になった。一方、ヨーロッパをみると、君主はもともと武人、軍人で征服者だった。その子孫たちも、領土を保つために軍服を着て、敵と戦っている。明治に入り、日本の国家権力を代表し、よその君主にひけをとらないために、天皇が軍服を召されるようになるわけです。明治天皇は、武装した神聖君主という感じが非常に強い。
 木村 明治以前は、大体、一般の人々に知られるところはほとんどなかったと思う。名前ぐらいは聞いていたかもしれないが、将軍とか地方の大名とかの方がはるかに重量感があった。明治になって、近代国民国家をまとめるために、啓蒙(けいもう)君主制がどうしても必要となった。そうすると、国民の前に天皇が顔を出さなくてはいかんということで、軍馬にまたがる姿を見せることになる。そういう国家的要請があったと思う。
 −−明治、大正、昭和の三代に限るとどうか。
 三浦 この三代は、日本の歴史の中でちょっと異常な時代だったと言えるのではないか。まず、幕末から明治にかけて近代化の波が押し寄せた。今までの日本ではダメだというのでヨーロッパ風、ヨーロッパ風と一生懸命やる。もう完全にマスターしたから、自前でやっていくと言って失敗したのが第二次大戦だ。戦後も、ヨーロッパだ、アメリカだ、社会主義だと言ってきたが、どこもあまり成功していない。最近では、しょせん日本は日本で、今までダメだダメだと言って恥ずかしがっていたものの中に、日本のオリジナリティー、あるいは日本が洗練することによって普遍的なものになりうるものが隠されているということが、ぼんやり考えられてきた。私は、そこに日本の皇室の新しさというものを発見し得るような気がする。
◆為政者たちが虚像をつくる
 木村 戦前までは、日本全体が欧米に対して必死だったという点がある。うっかりしたら欧米列強の植民地になってしまう。そこで明治の初めに天皇を神格化し、同時に統帥権を持った存在としてつくり出したと言っていい。明治、大正、昭和の天皇は、実像とは関係なく、当時の為政者たちによってつくられたと言えるように思う。いわゆる天皇制というのは、伝統的な天皇のあり方に横やりが入ったようなもので、天皇自身が国のために利用されたという面が強かった。
 ただ、明治天皇の場合は、開明的な、日本の近代化のために果たした役割は大きかったと思うが、欧米が国家の一致協力体制を強めていく中で、日本では軍部の力がだんだん大きくなった。日本が世界の新しい秩序の再編成に乗り遅れてしまうという恐怖感もあった。天皇も、開明的存在から利用される存在へと、だんだん変わらざるを得なかったのだと思う。戦後になって、これが一転したわけだ。
◆終戦時の危機救う
 三浦 昭和二十年に日本が戦争に負けて、アメリカが進駐してくる。それとよく似た状況が徳川時代の終わりにあった。英国の艦隊が鹿児島を焼き払う。四か国の連合艦隊が下関に上陸する。あの時、例えば幕府がなくなって皇室もない状態だったら、どこまで行ったか分からない。ひょっとしたら分裂していたかもしれない。その時、拡散しようとする日本にとってひとつの歯止めになったのが、天皇という存在だった。いわば防波堤、ダムです。そのダムを承認することによって、そこに日本のエネルギーがたまって、明治以降、ダムの水を使っていく歴史がつくられる。
 −−終戦時の状況もそれに似ている、と。
 三浦 そう。あの時、日本の皇室がなくなったら、本当にどこまで行ったか分からない。志賀直哉なんていう文壇の大家までが、日本語をやめて、いっそフランス語にしたらいいじゃないか、と言った時代だった。そうした日本人の漠然とした不安感の中で、昭和天皇が一貫して、名前だけにせよ、天皇という名前であり続けた。だから、日本は変わるかもしれないけれど、それには歯止めがあるんだと。これはやはり、ひとつの「ダム」だったと思う。
 戦後、メーデー事件(昭和二十七年)が起きて、デモの人たちがわあっと二重橋の方に押し寄せてきて、一度は車止めを押し倒したが、それをまた引き起こして、引き揚げていった。これを見て彼らが皇居を占拠しようなんて気は全然ないと思った、という話を皇居の裏側にいた警官から聞いたことがある。
 皇室制度というのは、日本が伝統とかアイデンティティーを失うか失わないかの瀬戸際にあって、二度にわたって歯止めになってきた。それによって守られたものがいいかどうか、それはまた別問題だが、とにかく、多くの国民がその歯止めを認め、受け入れて、それ以後の難局の処理に当たってきたということは確かだと思う。
〈文化〉
◆生活感覚分け合う
 −−日本文化を考える場合、天皇が果たした役割はどうでしょう。
 三浦 文化には、学問とか芸術といった上部構造とは別に、生活文化というのがある。朝飯に何を食うかとか、顔を洗うか、ふろに入るかといった、人間の生活感覚に根ざす価値観。それが、どこの社会でも文化の下層にあって、レベルになる。それを土台に、上部構造としての文化が出てくる。天皇の果たす役割は、下部構造としての生活の保障みたいなものじゃないかと思う。だから、もし明治天皇が米を食べずにパンだけをあがり、日本語を話さないでフランス語ばかり話されるとかしたら、日本人は違和感を持ったはずだ。
作家、石坂洋次郎のエッセーに、子供のころ駐在のおまわりさんが、身欠きニシンをうまそうに食っていて、「おそれ多いことだが、陛下でもこんなうまいものは食っておられんだろう」と言ったという話がある。国民が、陛下も自分も同じ物を食べている−−同じ生活のフィーリングを分け合っているという感覚。これが割と大事なんじゃないか。
◆知的な息吹伝える
 木村 皇室の生活は大変質素で、そういう意味ではわれわれの生活文化と基本的に変わることはない。けれども、その一方で、なぜ京都が、現在でも自分の言葉を保持し、東京に対して文化的誇りを持っているかといえば、やはりそこに天皇がおいでになって、殿上人(てんじょうびと)の生活が日本文化の代表としての意味を持ち続けてきたからだと言えると思う。
 ヨーロッパのエスプリとかスピリットとかいう言葉は、もともと吐く息のことで、カトリックでいう精霊も、要するに神様の息を指している。息だから実体はないが、そこには軽やかだが知的なものがある。日本では、その時代に求められる最高の知恵のようなものが、このエスプリみたいな存在として、天皇家とか京都といった所に保持されたと言えるのではないか。古気候学といって、古い時代の気候を再現する学問があって、日本も協力しているが、その資料になるのは、京都の殿上人が毎年記した桜の開花記録だ。花をめでる美意識も京都で伝えられてきた。
 三浦 自然とかかわっているんですね。それから「万葉集」の面白さというのは、天皇の歌もあれば、名前が分からなくて方言が混じっているような防人(さきもり)の歌もあって、それが全部、別に序列も何もつけずに入れてある。これは、歌を詠むという意味では全部平等だということ。宮廷の命令によって編さんされるんだけれども、文学としては平等なわけで、それは、形は変わっても今の新年の歌会なんかに、かなり濃厚に残っている。その意味で、皇室が文化の保護者というか保証者というか、裏書きする存在だということは、やはり歴史的に言えるような気がする。
〈関心〉
 −−昨年末、読売新聞が行った世論調査の結果を見ると、天皇、皇室への関心度がそれほど低くなっていない。国民はどこに関心を持っているのだろうか。
 三浦 昭和天皇は、ちょっと恐ろしいところがあった。私自身、元二等兵で、トップとどんじりだから恐ろしい。だが、今の天皇ご一家は、日本の抽象的な意味での理想的な家庭、理想的な暮らしをされ、それがいろいろな意味でひとつのスタンダードになっているのではないか。日本中が今、右往左往している時に、日本人の家庭としての、生活のあり方としての原点を、我々はひとつの基準として見ているのではないかという気がする。
◆変わらぬ「国の顔」
 木村 要するに、日本の「顔」なんですね。首相はクルクル変わるが、ご一家は変わらない。外国の人が日本の顔として思い浮かべるのは、陛下とか、ご一家ではないかと思う。不透明な世の中で、どちらの方向に歩めばいいか分からない。その時に、天皇ご一家は人間的な愛情で結ばれ、スポーツもし、音楽の演奏もされる、学問もなさる。私たちも、ああなれたらいいな、と思う。私たちが親しめる、一体感を持って接することができるご一家、そこが昭和天皇の時との大きな違いであり、私たちの希望ではないかと思う。
〈国際化〉
 −−皇室外交という言葉があるが、国際化社会の中で、どんな役割を期待されますか。
 木村 一九七〇年代半ばの第一次オイルショック後、世界的にあすの時代がよく見えなくなって、新しい世界秩序の再編成が、今の中東紛争のようなきしみを伴いながら進行している。そうした中で、何よりも大切なのは、海外に人間関係の信頼があるかないかということ。人脈のあるなしがこれから政治、経済の面で非常に大事になってきている。この点、陛下は、バイニング夫人から始まって、外国に豊かな人脈を持っておられる。国際的にお互いに結び合おうとされる精神とともに日本にとってひとつの救いだと思う。
◆外国人への最高のもてなし
 三浦 変ないい方だが、パリのルーブル美術館へ行くと、だれもがミロのビーナスとかモナリザを見たがる。それを見ないとルーブルへ行ったような気がしないという。そういう意味で、外国の要人たちは天皇に会うと非常に喜ぶ。これぞ、日本だというふうにね。それは崇敬の念などからではなく、やはり日本の象徴としてだと思う。だから、政治的に利用することはよろしくないが、吉野の桜や京都の紅葉と同じく、天皇陛下に会ってもらうことも外国人に対する最高のもてなしのひとつだと思う。
 木村 日本は世界で最先端の産業技術の国だが、その底には意外と古い、伝統的な生き方が依然としてある。そのことを外国人に実感させるのはやはり天皇なのでしょう。東京には神社やお寺があったりして、外国人は非常に新しくて、古いと感じる。その伝統と現代の調和が日本を大きく発展させた秘密かと考えたりする。天皇の存在は、欧米流になかなか定義できないが、古来ずっと続いている日本文化の核のようなものではないか。
〈期待〉
◆みんなで支えて
 −−最後に、皇室と周辺の役所や側近に、期待や注文があれば。
 木村 以前、成人の日の「青年の主張」の審査委員長をしていた。スピーチが終わり、選手と控室で待っていると、皇太子時代の陛下がご夫妻で入ってこられた。そうすると、僕らは緊張してかしこまって立っているわけだが、若い人は、一斉に「こんにちは」と言った。一瞬、陛下もちょっとたじろがれたが、すぐ「こんにちは」と返され、非常にアットホームな雰囲気になった。若い人たちには、もっとフランクにという気持ちがあると思うんだが、そこに厚い壁ができていて、なかなかできない。無制限に壁を取っ払えとは言わないが、もうちょっとお互い個人的に付き合える雰囲気が欲しい。
 もうひとつ、皇室はいろんな民間からの進物を断っている。宣伝に利用されるのは困るのだろうが、将来は、経済的に皇室を守り育てていく方法を考えてもいいのではないか。
 私は先日、スペインのバルセロナから帰国したが、あそこにはガウディのサグラダファミリアという大きな教会があり、完成まであと二百年ぐらいかかると言われている。(建設の)お金は、一般からの寄付で、日本人を含め世界中の人が教会をつくるために働いている。ああいう姿は、これからの日本の皇室の場合にも非常にいいんじゃないか。単に伝統を引きずっているだけではなく、みんなが支える雰囲気の中で、皇室もまた成長していただきたい。
◆国民とも握手を
 三浦 陛下は特別な方で、特別と普通の間に、ある程度パッキングがいるというのはわかるが、あんまりパッキングが厚いと、特別な人がはるかかなたな存在になってしまう。パッキングの構造について、もう少し考えた方がいい。
 私がシンガポールに行った時、ジュロンというところの造船所の工員が、オレは日本のプリンセスと握手したんだと非常に誇りにしていた。とても美しい人だったと。だけど、泥だらけの手の人が天皇、皇后と握手できるのは外国でだけだ。日本の天皇なのに、外国人はできて、日本国民はなぜできないのかという感じはありますね。
 −−長時間、ありがとうございました。
◇三浦 朱門(みうら しゅもん)
1926年生まれ。
東京大学卒業。
小説家、元文化庁長官。
◇木村尚三郎(きむら しょうさぶろう)
1930年生まれ。
東京大学文学部卒業。


●http://masima-ik.mo-blog.jp/rhi/2005/11/post_469c.html」より

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コメント
石坂洋次郎の小説「若い人」に出てくる女学生たちは「天皇と皇后が、金のお箸で食事をなさる」と信じている。
敗戦直後の「食料メーデー」に宮城に押しかけた人たちは、大膳寮の台所をウロツキまわり、あまりにも豪華な残飯に目を回したという。『真相』

「朕はたらふく食っている。爾臣民飢えて死ね」なる戯れ勅語も渙発された。「葦原帝勅語」ではなかったようだ

読書体験と文学の周辺         

1997.6.10 飯田市立中央図書館 飯伊婦人文庫講演原稿



 1 見えるものと見えないもの
 2 お前は何者、何になりたいのか?
 3 文学のふたつの側面〜社会と個人/自我と世界の問題として

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●http://www.mis.janis.or.jp/~odanet/profile01.html」より

石坂洋次郎の「若い人」をかいたHPを検索、拾い読みをしていて、こんなにいいHPにめぐり合いました。今後も時折読もうと思いました。

0108-1.jpg筆者はどうもこの人らしい。何歳だろう。もしおいそぎのかたは赤字部分だけお読み下さい。

自己紹介代わり@

書くことの、あとさき  2003.4.13 飯田市立中央図書館 文章講座講演原稿



 1 はじめに
 2 男性諸君、もっと書こう
 3 どう残すか、なぜ残すか
 4 柳田邦男さんの講演から〜物語の完結
 5 ふるさと大使の遺書
 6 心なき言葉のむなしさ
 7 第一の読者を想定せよ
 8 おわりに

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 1 はじめに
 こんにちは。南信州新聞社の小田嶋です。
 今、ご紹介にあずかりましたように、文章講座の皆さんとは、小原謙一先生ご存命中に、同窓会の文集「くらしの中から」の第十二集の印刷を承って以来のおつきあいで、最近では、同窓会長のお骨折りで、「暮らしのたより」というコラムを、南信州新聞に連載させていただいているわけで、その窓口ということになっています。ただ、ここにおいでの皆さんとは、そうした場以外にも、色々な活動を通して、お世話になっている方々ばかりで、本来であれば、わたしがそちらの席に座って、みなさんがこちらでお話してくださるのを承りたいくらいですが、同窓会長から「今日は、どうしても他の方が都合がつかないからお前が一時間半、なにか話せ!」と、あの独特の声でお申し付けがあり…、どうしても、あの声には逆らえないものですから、本日ここにいる次第です。御退屈でしょうが、どうぞ、少しばかりお付き合いくださいますようお願いいたします。
 また本日のテーマですが、「書くことの、あとさき」としました。これも一月ほど前、同窓会長から会員に通知を出すから仮題でもいいから、「なにか出せ!」とお達しがあり、苦し紛れに捻出したテーマですので、多少ズレるかもしれませんが、お許しください。

 さて、ご存じの皆さんもおられるかもしれませんが、
自己紹介させていただきますと、…小田嶋なぞという苗字は当地方には珍しく、飯田下伊那の電話帳では、おそらくまだわたしのところ一軒ではないかと思います。すなわち、わたしは、ここらでいう所謂「旅の人」で、出身は秋田県の横手市というところで、家内も兵庫県の出ですから、もともとこちらの人間ではありません。出がけに家内に確認したところによれば、平成三年三月といいますから、今から十二年ほど前に当地にIターンし、縁あって南信州新聞で出版部門を担当して十年以上になりました。
 南信州新聞では、毎日の新聞発行以外にも、出版や印刷の部門があって、JAの広報誌や郷土誌「伊那」などの月刊誌を印刷している他に、公民官報やPTAの新聞、また企業や団体の記念誌や自分史、短歌や俳句の句集、それから「くらしの中から」のような文集の印刷、また定価をつけて書店において販売する企画出版物の発行、それから「椋鳩十記念伊那谷童話大賞」など地域おこしのコンテストなども手掛けております。新聞が本業ですので、出版のラインは細く、月に三冊の印刷物を発行する程度のものですが、それでも十年間やっていると年に三十種類として、すくなくともこれまで三百冊以上のいろいろな本を世に送り出してきたことになります。もちろん、この三百冊にはみなさんの「くらしの中から」の十二集以降の十冊も含まれているわけです。
 さて、そのような仕事をしている関係…、つまり、本をつくるにあたり、様々な書く現場に立ち会い、色々なことを見聞きするのですが、そうしたことを通して感じたこと、考えたことを最初にお話したいと思います。

 2 男性諸君、もっと書こう
 文章講座同窓会には男性も多くおられ、そのこと自体は大変喜ばしいことなのですが、一般的に周囲を見回しますと、物を書く男性が少なすぎると思うのですが、いかがでしょう。
 たとえば、よく「亡くなった母の短歌集を一周忌までにまとめたい」などという相談を受けるのですが、お宅にうかがってお話を聞いてみると、母親が地域の短歌会や、時には「あららぎ」「ヒムロ」などといった同人誌に折々短歌を出していて、死後あらためて整理しながら遺された歌を読んでいたら母親の気持ちが伝わってきて涙が出てきた。まとめて持っていたい。母親の生きた証として、本を出版して、また知人や親戚に配りたい、というのですね。母親が生前、短歌をやっていることは知っていても「我関せず」だった子どもたちが、母親の死後、あるいは短歌集をまとめる段になって、はじめて母の短歌を目にするのです。
 …わたしは短歌を勉強した者ではありませんので、歌の善し悪しはわかりません。けれども、一応、文字は読めるし、何が書いてあるかもわかります。そのレベルでの発言なので短歌を学んでいる人には違った意見もあるかもしれませんが、あの短歌というものは文学表現であると同時に、すぐれて簡潔明瞭な事実の記録でもあるんですね。
 …歳とって亡くなった母親が初めて母となった日の歌、子どもたちの成長を見守る眼差し、舅姑に気兼ねしながら生きている様、息子や娘が大学や就職あるいは結婚して家を離れる淋しさ、旅行したときの無邪気さ、舅や姑を看取ったときの気持ち、孫の誕生を喜び、娘たちの里帰り、夫の病を気遣う気持ち、肉親や友人を喪ったときの歌、などなどが、時々の気持ちとともに詠み込まれている、…そうした母親の女性としての生き方を、短歌を通してはじめて眼前に突きつけられるのです。子どもたちにとって、母親は、自分が生まれたときから母親であったし、死ぬまで母親でしかなかった、強いてそうとしか見ようとしなかった…けれども、残された歌を通して、その時々の母の思いを文字を通して見る時、すでに父や母になった息子や娘には、母親が母親である前に一人の人間、喜怒哀楽の狭間に揺れる一人の女性としての母親が確かにいたことを、特に、息子などは愕然として悟るんですね。それは何も残そうとして詠んだ歌ではなく、結果として残ったものなのですが、そして、はたから見ていてそんなにすばらしい短歌とは思えない歌に、息子だけ、あるいは娘だけは感じられる母の眼差し・息づかい・体臭・ぬくもり…があるのです。それは文学表現以前の、人間と言葉の原初的な関係を思わせる言葉の力なのだと思います。言語の「言」と霊魂の「霊」と書いて言霊(ことだま)と読みますが、まさに言霊を感じるのです。
 …といって、皆さんに短歌をやりましょうと勧めているわけではありません。亡くなった母親の遺した短歌(みそひともじ)、わずか三十一文字の中にさえ、そうした思いを封じ込め、タイムカプセルのようにこの世のどこかに仕掛けておくことができるのだということを知っておきたいと思うのです。
 …そのとき、ふっと気になって、仏壇を見てみると、母親の位牌にならんで父親の位牌もあるんですね。話を聞いてみると、父親も数年前亡くなっているのです。どこかの会社の役員だったりするんですが、「仕事ばかりの人で…」などと言われて、遺るのは写真ばかり。特に、戦中から戦後復興、高度経済成長期に社会や地域を支えた世代は、子どもたちも、その背中ばかりみて育ち、あまり思い出も持ち合わせていなかったりする。そして、ものを書いていない。男性として、社会人として、また地域に生きる一人の人間として、何を見、何を考えていたのか。家や家族をどう思っていたのか、知る術がない。家長を中心に、家族がみんなで田畑に出て一緒になって働き、朝昼晩の食膳を囲んだ戦前とちがい、戦後は近代化の名の下に労働力と化した男性が次々と会社や工場の歯車として、家族や家から離されていく。そして三代四代が大家族で暮らしてきた家が核家族化で崩壊、炉端で語り継がれ、受け継がれてきた「家の歴史」が、分断され途切れた。それらは、一面で、わたしたち自身が望んだものであったことは事実だけれども、とりもなおさず、語り継がれ、見て受け継がれてきた「家の歴史」の命脈を断ったこともまた事実のような気がします。すなわち、自身が語らずとも生活そのものが語ってくれた、その末端に自身も連なっている「家の歴史」が、そうした生活様式の変化とともに死に絶え、自身が語る以外に、残す術がなくなった、…今の自分史ブームをわたしはそのように見ています。
 話が横道に逸れてしまいましたが、…こうして父親の存在は、母親の歌集の、母親と一緒に写ったの幾枚かにわずかにみられるだけになってしまう…。これが、今の世の、大方の男性の生きた証の残り方で、それも、孝行な子どもたちが、たまたま本でもつくってあげよう言ってくれた場合で、大方の場合は、めったに開くことないアルバムの片隅で朽ちていくか、あるいは古い家の奥の仏間に立派な額に入れて飾ってあってもあっても、何代か代が替わったり、あるいは新築に際して、物置に仕舞われ、ついにはどこかに行ってしまうのです。しかし、生きることに忙しい子どもたちはそこまで気がつかないケースも多く、それを責めることは、わたしたちにはできません。
 冒頭に「文章講座同窓会には男性も多くおられ、そのこと自体は大変喜ばしいこと」と申し上げたのは、つまり、縷々述べたように物を書かない世の男性が多い中で、文章講座同窓生は物を書ける稀有な男性諸氏であるとの意味であります。書くことは、意図するとしないとにかかわらず、自身の生き様の記録ですから、その点で、一面ではあるにせよ、また三十一文字に頼らずとも、子どもたちや、自分に興味を持ってくれた後世の人が望みさえすれば、自身の書き残したものを、それは「くらしの中から」や各期でつくっておられる「文集」にせよ、あるいは一冊の本にまとまったものにせよ、また原稿そのものにせよ、読むことが出来さえすれば、その度に書き記した言葉が、読み手に語りかけるであろうことを、「喜ばしい」と思う次第です。「だから本をつくりましょう」といっているわけではありませんので、これも誤解のなきようにお願いいたします。そうした意図でお話しているのではないということは、追々わかっていただけると思うのですが、…。
 3 どう残すか、なぜ残すか
 話の流れで、残された文章の話になってしまいました。テーマを「書くことの、あとさき」としたせいでもないのですが、書くことの「さき」に話を移す前に、書いてしまった文章のその後、すなわち「あと」の方を先に話しているわけですが、ついでにもう一つ二つ、「あと」の話をしておきたいと思います。
 宇宙の歴史五十億年、地球の歴史四十億年に比べれば、人類の歴史はたかだか二万年。さらに私どもが辿ることのできる先祖の歴史は、皇族などのごく稀な人たちをのぞけば、たかだか十代や二十代そこら、せいぜい百年や二百年ではないでしょうか。皇族の先祖を辿ることができるのも、日本書紀はじめ様々な書き記されたものがあったからなのですが、逆に、その一族なり民族の歴史や存在を抹殺するには一族を皆殺しにして、書いてある文書を焼けばよかった時代があった。中国の焚書坑儒の例を引くまでもなく、日本でも中国でも、世界の国々の歴史の中に度々見られるのは、ある民族を征服して権力を握ったものが真っ先にしたことは、滅ぼした民族の思想・文化を継承する書かれたものの抹殺、そして己が正統であることの歴史の記述でした。不幸にして、文字が一部の人のものだった時代には、その文字を操れる人、歴史の記述が出来る人にまで弾圧が及んだのも、残念ではありますが、致し方ないことだったのかもしれません。これは近代になっても、言論の抑圧、思想弾圧という形で続きました。
 今の日本は、幸いにも、多くの人が文字を自由に操ることができ、新聞や雑誌の投書、研究報告書やエッセイ集の出版、あるいは最近ではインターネットのホームページやメール・マガジンを使って、誰でも自由に自分の思想信条を主張することができる環境が整ってきています。まあ、「できる環境がある」ということが、そのまま「できる」ということには繋がらないのですが、みなさんが体験したことのある一時期の社会や、今のイラクや北朝鮮の国民のおかれた立場からすれば、言論の自由という点で、誰でも望みさえすれば、「できる環境」にあると思うのです…。
 たとえば第二次戦争下の日本軍による「南京大虐殺」。これは従来の国のつくった教科書では「ない」ことになっていました。少なくとも「あった」と教えては来ませんでした。昔だったら、いくら中国の教科書で日本の大虐殺が糾弾されようが、日本にはそんな事実はあり得ない、で通っていたのだろうけれども、兵隊にいった人々が自身の体験を語り、文字に残すようになって、国のいう歴史とは別に庶民の体験として虐殺の事実が記録されるようになると、国もそうそう無視できなくなって、一部の教科書には取り上げられるようになった。ここ二・三十年の間に、そうした視点から、日本の中世以降の歴史は大きく見直されています。つまり、従来の歴史観には当てはまらず、資料としてさえ見向きもされなかった出納帳・個人の日記、絵巻物などの資料から、今一度庶民の暮らしを見直そうという動き。庶民から遠く離れた為政者のしたこと、つまり出した法令や戦争を覚え込むのではなく、そこに暮らしていた庶民の生活や思想にようやく目が行きだした。そうした事実を教科書に取り上げるのがいいか、悪いかの論議をしようというのではありません。為政者や国が一方的に書き記すことによって歴史をつくっていた時代がようやく終わり、庶民の書き残す記録が歴史をつくっていく時代に入ってきたのではないかと言いたいのです。
 その意味では、われわれが書き記すものだって、いつなにがあって国の歴史を左右しないとも限りませんし、まあそれは大風呂敷すぎるとしても、少なくとも、わたしたちが、ものを書くことによって、命を奪われる時代ではありませんので、大いに書こうではありませんか、ということです。
 ただ、書くことが嫌だ。裸で生まれてきたのだからひっそりとこの世から消えたい、この世に存在の足あとを残すことが嫌だ、という考え方・生き方もあろうと思いますし、それはそれで一家言であると、わたしは考えますので、ものを書かないヤツは人間ではない、などと、一概に、みんなに、猫も杓子もものを書かねばならぬなどと、言っているわけではありません。ただ、書きたい人は大いばりで書きましょう、生きた証などと気張らなくても、それなりの意味はあるから、どんどん書きましょうと言っているのです。

 さて、書いたものを残すにあたって、なぜ残すか、どう残すか、と二つを分けて考えたいと思います。なぜ残すのか、は、「書くことの、あとさき」の「さき」方にも繋がっていますので、最初に、「どう残すか」についてかたづけてしまいましょう。
 どう残すか。
 表現手段が限られていた時代と違って、たとえば、モノを残す方法は書くことの他にもたくさんあるような気がします。
 たとえば写真。言葉はなくても姿は残ります。ただ写真は、こういう時代ですから、こちらの言葉で言えば、「だだくさもなく」あります。以前、遺稿集に載せる写真を、といったら、分厚いアルバムを二〇冊以上も出してきて、「足りなければ、こっちの箱にまだ整理していない分があります」と大きな菓子箱をいくつも出された未亡人がおられましたが、これは極端な例としても、成長を辿ったらどれを載せていいか迷ってしまいますし、第一、アルバムは数冊でも重いので、二〇冊も出された日には、…。おまけに本人がみれば、いつ、どんな状態で撮影したのか説明も出来るでしょうが、他人がその人を知るために見るには、ちょっと無理がある。亡くなった方が女性となれば、取り上げた写真が故人に気に入ってもらえるかどうかも疑問で、下手に載せたら化けてこないとも限らない。ともかく、アルバムの整理は他人にさせるものではありませんので、これは是非遠くに旅立つ前にご自身がやられておくことをお勧めします。
 …冗談はさておき、次はビデオテープ。一昔前は音声だけでしたが、今はハイテクのおかげでビデオカメラの映像もきれいなものが、素人でも簡単に、しかも安上がりに撮影できるようになりました。これであれば、姿ばかりか肉声も伝わります。また誰でも簡単に見られるしいいんじゃないでしょうか。確かに、その通りで、用途によってはいいような気がします。けれども六〇分なり一二〇分なりで、ビデオカメラの前に座り、そんなにきちんと話せるものなのか、たとえ原稿を用意したとしても果たして語り尽くせるものなのか。それに撮影されるのは話している時の本人で、うまく若いときの写真を入れるなど編集することができたとしても、結婚式のビデオテープと同じで、一度か二度見たあとは「ある」ということだけで見向きもされないのではないか。これは、パソコンなどを駆使し、CDやDVDなどでも編集や再生が容易に出来るのですが、たとえば本人が亡くなった後、残されたテープを家族揃ってテレビやパソコンで見る…などという光景は、なかなか想像できないのですが、みなさんはいかがでしょう。とくに、自分自身でさえ、はっきり言葉にならない思いや、時々の思索、あるいは、心にだけ残っている幼い頃の記憶や思い出などは、なかなかこうした方法では伝えきれないのではないか、写りすぎることも、言いたいことを阻害する原因になっている気がします。
 …昨年の今頃、わたしは胃癌の宣告をされました。医者があまりに簡単に「胃癌でしょう」などと言うものですから、一瞬あっけにとられ、そのまま「はぁ、そうですか」などと間抜けな返事をして、医院を後にしたのですが、その後「死」ということが頭を覆い尽くして、おおいに慌てました。人生の先輩であるみなさんも、大なり小なり同じような体験が既にあると思いますが、脳天気に暮らしてきたわたしにすれば癌は癌でもガ〜ンという鉄槌をくらったようなものでした。先程、お話したように、わたしはIターンで当地に来ましたので、当地に親類縁者がいたわけでもなく、もしわたしが急にあの世に逝ってしまったら、残された家内とこの春小学校六年になった息子をどうしたらいいのだろう。その身の振り方や、託しおく人々の顔など思い浮かべ、もしものとき、彼らに言い置くべきことは整理しておかねばならない、と真剣に考えたものです。そのとき、わたしが思い浮かべたのは、ビデオテープやアルバムではありませんでした。書き残すことだったのです。
 話がまたまた横道にそれてしまいましたが、心配をおかけするといけないので、横道の決着をつけておきますと、…そのときわたしは、たまたま飯田病院の仕事をしていて、一〇〇周年を迎えた病院の記念講演会に柳田邦男さんを招くことが決まっていました。昼の講演会が終わってから夕方の祝宴までの間に式典があり、病院の偉い方々が式典に出席するので、祝宴までの二、三時間の間、「お前が柳田先生の相手をしろ」ということになっていたのです。柳田邦男という作家は、美術博物館の隣にある民俗学者柳田国男と漢字表記が一文字違うだけの同姓同名の作家で、ご存じの方もおられると思いますし、あるいは昨年秋の文化会館での講演をお聴きになった方もおられると思います。医療と生き方の問題を扱った諸作の他、「マッハの壁」などといった良質のノンヒクションを多数執筆している当代では五本の指に入る優れたノンフクション作家だと思います。その先生の相手をしろ、というので、仕事ですので断ることもできず、付焼刃ですが、以前、手に入れて斜め読みしたまま放ってあった本を数冊、本棚の奥から引っ張り出して来て読み始めていました。その中の一冊に、彼の出世作となった「ガン回廊の朝(あした)」という六〇〇頁程の本があったのです。これは、日本人に突出して多い胃癌の研究と治療を目的に、昭和三〇年代に国立ガンセンターを立ち上げていくときの、ちょうどNHKの人気番組「プロジェクトX」のようなドキュメントなのです。胃癌を宣告されたとき、ちょうどわたしはこの本を読みはじめたばかりだったのです。胃カメラの開発の苦労や志半ばに次々に倒れていく医者など様々な苦難があるのですが、関係のあるところの結論からいいますと、胃癌の場合、そうした研究によって、昭和四〇年代に、日本は胃癌の研究と治療では、世界のトップに立ち、さらに「初期」とつく病名の癌、例えば「初期胃癌」「初期の肺癌や大腸癌」「初期の喉頭癌」であれば、治療後五年以上の生存率が、昭和五〇年時点で八〇%を越えるまでになっているというのです。幸いわたしの胃癌にも初期がついていましたので、「最悪の場合でも五年は執行猶予があるんだな」と、考える事が出来ました。柳田さんのその本を読んでいたおかけで、癌の宣告のショックで熱くなりかけていた頭が少し冷静になったのです。
 続いて、インターネットで国立ガンセンターのホームページにアクセスしてみると、癌治療の最前線が、症状によってはある意味で冷酷なことかもしれませんが、死亡率や手術の失敗の確率も含めて、一般の人にもわかりやすく書いてあります。…癌が不治の病で、病名を告げることが死刑宣告にも等しく、医者の判断で、本人にも知らせず、ごくかぎられた肉親だけがその事実を知っていて、それを患者本人に隠しながら患者が死に至るまで延命治療を続ける、…などという医療は今は行われていません。初期がつけば基本的には治るということが前提になっていますし、実際現在は九〇%以上が完治するというのです。たとえ再発・転移が認められても、その時点から治療を始め、さらに何年も生き延びるんですね。末期癌の場合でも特殊事情がない限り、第一に本人に告知し、インフォームドコンセントの上での治療が常道になっています。…そうしたことが、次々に分かってきますと、医者がああも簡単に癌の告知をした背景がわかってきました。ただし、そうした知識はもっと啓蒙活動をしないといけないな、とは思いますが、…現にわたしと同病で同室になったある会社の七〇歳を過ぎた会長さんなどは暗い表情で家族と水杯を交わしての入院だというので、手元にあった調べた資料をお見せし、患部を切除すれば五年一〇年はまず生き延びるし、運悪く再発あるいは転移しても、それから治療して、また五年一〇年ですから、「寿命が尽きるのとどっこいどっこいいですよ」などといったら、きょとんとしておられましたが、暗い表情はなくなりました。
 …そんなわけで、わたしの方も昨年の今頃無事手術を終えまして、現在こうしているわけですのでは当面ご心配には及ばないのですが、そのとき一瞬でも「死」を考えたこと、そして、そのときわたしはわたしの気持ちを家族に残す方法として、ビデオカメラや写真、テープ録音などではなく、書くことを考えたのでした。
 不幸にして、一冊の本にまとめるべき分量に書き溜めた文章もなく、…書き散らかした文章のリストは作ってあるので、家族にその気があれば後で読めるので、当面、差し迫った思いを残すために、わたしは無意識に書くことを選んでいたのです。
 …どうやって残すか、どう残すか、ということについて話し始めたのですが、…おそらく最終的には、人それぞれ、それぞれに似つかわしい方法を選ぶのだと思いますが、今日ここに集まっておいでの方々は、おそらくわたしと同じケースに遭遇したら「書くこと」を選ばれるのではないでしょうか。
 書くこと、書き残すことについては、わたしは、基本的に、日記帳であれ、大学ノートであれ、原稿用紙でも、また、わたしたちがテレビや電話を扱えるように、これからの人たちはパソコンを扱えないという人はいなくなると思いますから、自分さえできればパソコンのフロッピーやCD、ハードディスクの中に書き込んでもいいと思っています。決して本をつくって大量に読んでもらおうとしなくても、伝えたい人に確実に伝えられる方法で遺せばいいと思うのです。伝えたい人が一〇〇人を越えたら、印刷でもしなければ大変かも知れませんが、必ずしもそれが唯一の方法ではないと思います。

 4 柳田邦男さんの講演から〜物語の完結
 …先程、柳田邦男さんの講演後、先生のお相手を仰せつかった話をいたしましたが、そうした体験を経た後でしたので、癌と医療や、それをめぐる生き方の専門家ともいうべき昨年秋の柳田さんの講演は実に感銘深いものでした。
「豊かな生、豊かな死」と題された二時間余にわたった講演は、日本人の死因の第一位で、毎年三十万人近くの方が亡くなっている癌、その癌に冒された人々が、末期を迎えながら、…つまり、死を目の前にしながらも、いかに豊かに生きることができるのか、様々な例をあげながらの講演でした。中でも、心に残ったのは胃癌にしろ、大腸癌・肺癌・膀胱癌や膵臓癌にしろ、冒されているのは身体の一部分であって「全体」ではない、ましてや心まで冒されているわけではないから、死を迎える直前まで、前向きに「生きる努力をする」ことが、いかに、自分自身の「生」を豊かにし、また「豊かな死」を迎えられるか、という言葉でした。口で言うのはたやすいのですが、それでは具体的にどういう生き方をすべきか/どんな目的を持つのか/どんな心構えをするのかといった実際の例を交えての講演で、目的を持って生きるための病を抱えながらの登山や終末期を迎えた方々が過ごすホスピスでのボランティア活動などとともに、闘病記や体験記を読んで病に対する先輩達の心の有り様を知ることなどを話されました。
 …実は柳田さんは、息子さんが自殺しています。息子さんの死に触れて、柳田さんは「何故、楽しい人生があるのに、何で死んでしまうのか」という、答えのない問いで自分を苛み、立ち上がれなくなっていました。でもその時に、司馬遼太郎さん、これも先頃癌で亡くなった作家ですね、彼から次のような内容の手紙を受け取ります。
「幕末の革命思想を生んだ吉田松陰、彼も獄中で二十七か二十八歳で亡くなりましたね。処刑されましたね。でもその亡くなる一週間くらい前に歌を残している。その歌にこんなふうな意味のことが書いてあったというのです。それは「人生二十五・六であろうと六十であろうと、全て春夏秋冬というものがあるものだ。悔いることない」、そのように書き残したというのです。例え若くてもそれなりにこの世に生きた人生に四季がある、春夏秋冬がある、起承転結がある。何か天はあるいは神はそういうことを運命付けるように決めている」と。司馬さんはその悔やみ状の中で、「私はただ馬齢を重ねるのみ」と、とても謙遜された言葉を書いていたというのですが、自ら死と隣り合わせに生きる作家が励ましの手紙をくれたのでした。
 …以下は、その励ましを受けての柳田さんの言葉です。「人生の春夏秋冬というのを考えますと、若かろうが歳取ろうが、その人なりにこの世に生きた他の誰でもない人生を生きた物語があって、その起承転結のある部分、クライマックスに病気というのがあったり事故があったりする。そうして本当の最終章のピリオドをうつのが死であったりするわけですが、死というのは終わりではなくて、そこで一つの物語が出来たら、その物語というのは家族の中で受け継がれていく心の中に残っていくんですね。自分のストーリーを他人任せではなく、自分で作っていく努力をする必要があるというのは、これからの生き方だと思っているのです」と。
 …柳田さんは、司馬さんの手紙を読んで、手紙の中にあった「その人なりの春夏秋冬」というのは、別な言葉で言えばその人なりの物語の完結ということで、自分の息子の死にも、彼自身の物語の完結をみたのだろうと心におさめていくのです。
 …黒澤明の「生きる」という映画をご覧になった方も多いと思いますが、その中で志村喬の演じた主人公、これは末期癌を宣告された公務員が一時は自暴自棄に陥ってしまうのですが、その後、自分の生きた証に、周囲の無理解に抗しながら地域に小さな公園をつくるという物語でした。そして、ようやく出来上がった公園でブランコをこぎながら「命短し、恋せよ、乙女〜」と口ずさみながら息絶える物語でしたが、その主人公の生き方や、柳田さんのお知り合いの方々の死を例にひきながら、柳田さんは「自分の物語は自分でつくる」という気持ち、前向きな生き方が、強いては豊かな死を迎えることに繋がると、お話しになったのです。
 わたしたちの物語の結末は、どんなかたちでやってくるかわかりません、公園のブランコができるまで待ってくれるかどうか、わからないのですが、「人は生きてきたようにしか死ねない」「どのように死ぬか」というのは、実は「どのように生きるか」と、先生は言うんですね。末期癌で死が間近いといっても、その全体や精神・こころが冒されているわけではないので、自分が自分の生きた物語を完結させるため、たとえ終末期であっても豊かな生き方をしている多くの人がいる。…講演では、会場のあちらこちらで共感や感動のすすり泣きが聞こえていました。柳田さんは続けて、自分の終末、もし万が一、無意識や意志が伝達できない状態に陥った場合も考えて、延命治療を施すのか、そうでないのか、病院で死を迎えたいのか、自宅にいたいのか、また死後の遺体の処理や葬儀に当たってのリビングウイル(生前の意志)や、自分自身で自分の「死亡記事」を書いてみることなども勧めておられます。死を身近におくことによって、より充実した豊かな生を営むことができる、とするこの講演内容は、この夏にも発刊される予定で、今編集中の飯田病院の一〇〇年の歩みを記した記念誌に掲載される予定ですので、発刊されましたら是非お読みいただきたいと思います。
 5 ふるさと大使の遺書
 終末をどう迎えるか、いかに生き甲斐を持つか、自分自身の物語、死亡記事を書くこと…、柳田さんのお話しになったことを実行している方を、わたしは、今まさに眼前にしています。
 …みなさんは「信州飯田ふるさと大使」という言葉を聞いたことがあるでしょうか。飯田市を都市の人に広めることを目的として、また都会に住む飯田市出身者の東京○○会などのまとめ役の窓口として、ほとんどボランティアの活動をしているのですが、平成六年頃から飯田市が東京に住む飯田出身者を「ふるさと大使」に任命しているのです。その初代ふるさと大使を務めたのが、飯田市駄科出身で、元出版社に勤めていた吉川紀彦(みちひこ)さんという方でした。高校時代ラグビーでならしたという彼は熱血漢で、使命感に燃えてお金にもならないふるさと大使の役目をこなしていたのですが、一年半後、食道に癌が見つかり、手術。しかし復帰する間もなく、その後、顎や胸、腕に転移が見つかり、手術と抗ガン治療を受け続けています。末期癌であることは本人も知っていて、「ふるさと大使」は別の方にかわってもらいました。四度にわたる手術は、彼から声帯を奪い、歩行の自由を奪い、また右手の自由も奪ってしまいました。
 そんな彼から、この二月末、「ふるさと大使」として新聞などに投書した原稿をまとめたいとの申し出が、彼の古くからの友人の塩澤実信というやはり駄科出身の出版ジャーナリストを通してありました。中央の出版界で活躍した二人ですので、業界に友人知人も多いので、わざわざ地方で出版しなくてもいいのですが、是非にとのことでしたのでお受けすることにしました。
 聞いてみると、吉川さんは既に余命幾ばくもなく、本人もそのことを承知だというのです。けれども、自分自身の物語の結末を自分自身で書くために、そして、自身の生きた証を郷土や残された肉親に残したいと、出版に踏み切ったというのです。幸い原稿はありましたが、起きあがることもできないベッドの上で、声も出ない、聞き取れない家族とのやりとりで写真を用意し、利き腕とは逆の、わずかに動く左手で赤ペンを持つ彼の姿は、想像するにも、凄惨なものがあるのですが、間に立って吉川さんを見舞う塩澤さんによれば、既にモルヒネも効かなくなって激痛が絶え間なく襲い眠ることさえ出来ない彼にとって、赤ペンを持つときだけはその痛みを忘れることができる唯一の時間だというのです。彼の文章は南信州にも掲載されたのでお読みになった方もおられるでしょうし、文章の事ですから好悪もあると思いますが、彼にとって今書くことが唯一生きることに等しいのは、誰しも否定できないのではないかと思います。その本のタイトルは「恋しきかな、ありがたきかな故郷」といいます。彼はその本扉に「本書を亡くなった父母と、愛する妻と子どもたちに捧げる」と献辞を寄せています。今、三回目の校正が済んで、いよいよ印刷に廻したところです。冷たいようですが、これが彼が生きている内に彼の手元に届く保証はありません。
 けれども、こうした彼の最期の姿を家族は知っています。そして、彼のメッセージは残されます。
 6 心なき言葉のむなしさ
 なぜ書き残すのか、については、それぞれ事情があるので一概に言えません。
 今申し上げた吉川さんのような場合もあるでしょうし、先に申し上げた母親の遺した短歌集のような場合もあるでしょう。
 わたしなどは頭の中がいつも混乱状態になるので、たまに自分が何を考えているかわからなくなる時があります。立ち止まって自分の足元を確認し、自分の考えや気持ちを整理するために書く、また、それを記録しておくために書くことが、ままあります。ですから、こういうお話は、本当は煩わしいし、面倒で、嫌ですけれども、なるべくお引き受けして原稿を書くことによって時々の自分を整理しておこうと思って引き受けるのです。けれども、結局はギリギリまでかかって乱暴に書き上げるだけになってしまうのですが、それでも書かないよりはいいと諦めています。
 さて、本を作ったような人を例にあげれば、自己表現の手段として小説・エッセイ、歌集や句集。またある人は、蔵の中に先祖伝来のたくさんの家宝がある。これは、あくまでも家宝であって、その家にとって意味があるので他の人にとって意味があるかどうかは別問題ですが、その家宝を、本来ならば、丁寧に一つひとつ、桐箱を開け、あるいは、軸の紐をほどきながら、曰く因縁を伝えたいのですが、残念ながら若い人には興味がないから、いつか興味が出てきたときのために、あるいは軽々に売ってしまわないように、書き残しておく。またある人は、最愛の者を失った悲しみを記録の中にとどめて、自分自身が悲しみに暮れる生活から日常に復帰するために、失った者への気持ちや逝った人が遺した日記や短歌、闘病の記録を書き記す。またある人は、代々続く家のしきたりや、亡くなった親と同じ年齢になって気になって調べだした家の歴史を書き記す、様々な事業や政治に拘わってきた人が、その事業の裏側にあった苦労や真実を書き記す、ある人は自己表現が下手で、ふだんなかなか面と向かって言えなかった家族への感謝や子どもの成長の思い出を。また、ある人は…、と例をあげればキリがなく、そして、その一つひとつに、書き記したいと思った、本人の心の高ぶりというか、ドラマがあります。
 文章を書く上で、もっとも大切なものは、この誰かに何かを伝えずにはおれない心の高ぶりがあるか、ないか、ということではないかと思います。
 いろいろな書物や文章を読んでいて、この本人の心の高ぶりが感じられないものほどつまらない文章はありません。「言葉は心の使い」ということわざがありますが、心の入っていない言葉は、いくら「感動した」「楽しかった」「忘れられない」「悲しかった」などという語句を使っても、ただ書くだけのための言葉だったり、寄せ集めた知識を並べただけであって、力をもちません。言葉の背後に、本当に心が高ぶり、感動し、あるいは夢中になっている本人がいなければ、どんなに美辞麗句を連ねても空しいだけです。何も伝わらない。むしろ読むに苦痛を覚える妙に正確なだけの文章になってしまうときさえあります。旅行記などに多いのですが、調べたことを列記しないとすまないとばかりにパンフレットやガイドブックの受け売りの知識や旅行の行程をこれでもかと書き込むけれども、本人が何を見、何を感じ、何を伝えたいのか、書くことを通じて何を伝えたいのか、一つも伝わってこない文章があります。その他にも、教えてやる、すばらしいぞ、悲しむべきである、と書いている文章は、本人のそんな心の有り様が、どこといって変な文章でもないのに、読みにくい、何も伝わってこない、そんな文章をつくっているようです。わたしは編集の仕事をしていますが、そうした高ぶりの感じられない文章は編集していてもつまらないものです。
 それにひきかえ、どんなにへたくそな文章でも、多少「てにをは」が乱れていようとも、本人の心が動いているもの、のめり込み、感動しているものは、その人柄も含めて何かしら伝わってくるものがあります。これはどうやら「てにをは」のうまさとは違うものがあるような気がします。ペンを持つ上で、(最近であれば、キーボードに向かうときに、とでもいうのでしょうか)、たとえうまく言葉にならなくても、誰かに、伝えたい何かがある、伝えたいという心の高ぶりがあること、が、文章を書く上で最も大切ではないかと思うようになりました。
 さきほど柳田さんの、死亡記事を書くこと、とかリビングウィルを書いておこうという提言は、死を傍らにおくような状況をつくりだすこと、それほど逼迫した状態に自分を置くことによって、自分の中の言いたいことを確認する方法でもあったわけです。
 どんなに春風駘蕩、春風が吹いているような、のほほんとした雰囲気の文章を書いても、その水面下というか紙背に、きちんと「死」の認識、則ち「生」の把握がある文は「心」が伝わってきますし、逆にそうした思索の上に紡がれた文章だからこそ、たとえば「のほほん」とした表現が引き立つのではないでしょうか。
 中国の詩人蘇東坡に「意到りて筆随う」という言葉があるそうです。筆が随ってくれるのは大文章家だけかもしれませんが、これとて「意到りて」、即ち書きたい心がまず先にあるのです。
 「心あまりて言葉足らず」とは、紀貫之が、確か『新古今和歌集』の「仮名序」で在原業平の歌を評して言った言葉です。言いたいことのありあまる心は十分わかる、けれどもその表現では本当の心襞までは伝わらないよ、次は技術を磨けということなのだと思いますが、これもまた「心」先にありき、「言葉」つまり表現/言い方の巧拙は、その次にくる問題だということを示していると思いますが、いかがでしょうか。

 7 第一の読者を想定せよ
 したがって、次から述べることは、この心あって、その後のことで、この順序が逆では、意味がないんじゃないのかな、とあらかじめ申し上げておきます。この喜怒哀楽の心のたかぶりというか、感動というか、伝えたい内容や伝えたい心がないと言葉が力を持たないのは縷々述べたとおりですが、しかし、心のたかぶりだけでは、気持ちが伝わらないのは言うまでもありません。といって、技術を磨けといわれても、今更どうしていいのか、困るんじゃないでしょうか。
 その技術的なことやコツを、日々文章道に精進されているみなさんに向かって話さなければならない、と思うと、言葉に慎重にならざるを得ないので、話せなくなると思いますので、わたしは、文章の苦手だといって相談にこられた同年輩の方か、やや目上の人に話すような気持ちで話させていただきます。ですから、みなさんにとっては当たり前のつまらない話になるかもしれませんが、お許しください。
 まずわたしは、その方に「伝えたい心と伝えたい何か」があるとことを確認します。
 けれども、そうした気持ちだけで書いた文章の欠点は、得てして自己本位で、本人だけがわかっているが、まわりの人がわかりにくいという点です。「て、に、を、は」の使い方も知らず、本(他人の文章ですね)もあまり読まない人がいきなり書いたような場合は、手の施しようのない場合もあります。そうした場合は、こちらで口述筆記した方が早いのですが、それ以外、ある程度、書けている場合は、誰に伝えるかが揺れている場合が多いのです。
 趣味の会などの同好の人々が読む文集に書く文章、あるいはPTAの会報や地域の公民館の官報に頼まれた寄稿、孫や子に知って欲しい自分の考えを残す文章、伊那などの特定分野の雑誌に載せる論考と、新聞の投書や小説、随筆など一定レベルの不特定多数の読者を想定した文章とでは、それぞれ書き方が違うのが常ですが、ただ自分の思いを書きたいというだけで書きだしてしまうと、時に美辞麗句を並べた挨拶のようになり、時に特定の人だけしか知らないはずの話題を周知のことのように扱ってしまったり、時には普通の人がとっても読めないような術語(テクニカル・ターム)を注釈もなしに使ってしまったり、あるいは妙に説明的な文章になって、かえって読みにくい文章になってしまう。
 誰に伝えたいか、伝えたい人の顔を念頭に思い浮かべながら、ゆっくり書きだしてみるのも一つの方法だと思います。たった一人の人に伝わらない文章が、多くの人に伝わらないことはいうまでもありません。自分以外の誰かを想定して、その人の為に書きだしてみることを勧めたいと思います。それが一人の為の文章でなければ、複数の顔を思い浮かべて、書いてください。たとえば、たった二人の人にだって、年齢も、性別も、興味もちがえば、その言い方で、伝わりますか、と常に疑問を発しながら書き進めていくことによって、それまでの文章とは違ってくると思います。
 次に、その意の伝え方を学ぶには、やはり多くの文に触れることだと思います。いわゆる名文といわれているような、エッセイなどは、やはり読ませる工夫や仕掛けが施されていますので、そうした文章を、なるべく数多く味読して、名人の心の表現方法を学のが一番だと思います。とくに共鳴できる思いなり、考え方が書かれている文章に出会ったら、自分自身もその思い、その考えたを別に書いてみるといいと思います。そうすると、同じ思いを書くのに、どうしてあの言葉を使ったのか、どうして、そうした順番で話したのか、ということが、うすぼんやりと見えてくるのです。自分以外のたった一人の為に書く文章であればその人さえ伝わればいい。けれども、伝えたい人が、他にもいるなら、そのための表現をしなければならないのですが、それは、多くの表現の方法に出会い、学んでいくしかないと思うのです。同じ思いを異なる言葉、方法で伝える事ができると意識して文章が読める、書けるようになると、いわゆる効果的な表現というものがわかりますし、他人の文を読んでも、その行間を読んだり、紙背がみえてくると思うのですが、いかがでしょうか。さらにいえば、句読点に気をつけながら、書いたものを声を出して読んでみるといいでしょう。決して音読しやすい文章を心がけなさいといっているのではありませんが、一息に読み切れないフレーズはなにかまだ工夫の土地が残っているもので、目で書いた文章を耳を通して推敲をすることによって、自分の思考のリズムも確認できると思うのですが、いかがでしょう。

 8 おわりに
 書くことは整理し残すことだ、という視点から、書いたものの「あと」即ち、残し方、残り方。また、書くことを選んだわたしたちにとって、書くことの意味、そして、なぜ書くのかという、書くことの前にある問題、即ち「さき」についてお話してきたつもりですが、おそらくわたしの頭の中と同様、錯乱して意味不明瞭だったのではないかと心配しております。最後まで、辛抱強く、ご静聴くださいまして、本当にありがとうございました。



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自己紹介代わりA

書体験と文学の周辺  1997.6.10 飯田市立中央図書館 飯伊婦人文庫講演原稿



 1 見えるものと見えないもの
 2 お前は何者、何になりたいのか?
 3 文学のふたつの側面〜社会と個人/自我と世界の問題として


 ただいまご紹介にあずかりました小田嶋です。
 ご紹介いただきましたとおり今回縁あって婦人文庫四十周年記念誌「みんなで読もう」の編集のお手伝いをさせていただいた関係で、何かお話をしろと吉田委員長の方からご下命があり、ここに立つ羽目になりました。
 「読書体験と文学の周辺」という演題をつけて、みましたが、長年読書を通して研鑽をつまれてきた皆様を前に、皆さんの子ども、ともすれば孫のような、どこの馬の骨ともわからないような若造が、本から受け売りの知識をひけらかしても失礼にあたるだけですので、今日はなるべく自分の言葉で自分の考えていることだけを話したいと思います。


 見えるものと見えないもの

 本題に入る前に、その「馬の骨」の紹介を少しくしておこうと思います。
 私は東北は秋田県の横手市というところで生まれました。秋田県はちょうど長野県と同じように県庁所在地が県の北部にあります。私の生まれた横手市は県の南部の五万人に満たない城下町です。県庁まで自動車で二時間弱、多少距離感は違いますが、ちょうど飯田市と長野市と同じような位置関係にあります。最近では不正支出で辞任した知事に代わって元の横手市長が県知事に選出されました。長野県でいえば飯田市長が県知事になったようなものですから、私にとっては驚きでした。
 普通、横手といえば小正月行事で、エスキモーの氷の家のような洞を雪でつくり、水神様を祀る「かまくら」が時々テレビに映ったりしますので、ご存じの方もおられるかもしれません。また、皆さんには石坂洋次郎の『若い人』や『青い山脈』『山と川のある町』のモデルになったところといった方がイメージが湧くかもしれません。函館の女子校で教えた後、男子高だった私の母校の赴任した石坂洋次郎は、教鞭をとりながら『三田文学』に作品を発表し、『若い人』の刊行によって一躍流行作家となっていきます。これは戦前の話ですが、戦後は『青い山脈』などで青春ユーモア小説のような通俗小説の新分野に乗り出していった作家です。
 もちろん私が高校に在学した当時既に洋次郎は文壇の大家になっており、残念ながら直接その謦咳(けいがい)に接する機会はありませんでした。学校の方は男子校という看板は下ろしたものの千人の全校生徒に対してわずか三十名程度の女生徒がいるだけ、また当時で九十五パーセントが進学、その内の半分が国公立という大変な進学校で、「戀しい」と「変しい」を誤って書くような生徒はもういませんでした。それでも、私もその一人でしたが高下駄で通う生徒もおり、城跡の公園には『若い人』の一文を刻んだ石碑があり、市内にはまだ女子校もあって、小説の世界が多少は残っていたような気もします。今は「石坂洋次郎記念館」というものができて観光に一役買っているようです。
 ところが、当時あまり気にならなかったのですが、今になって不思議に思うのは、石坂洋次郎と同じ頃活躍した作家で、昭和十年『蒼氓(そうぼう)』で第一回芥川賞を受章した社会派小説の石川達三は横手の生まれにも関わらず、あまり注目もされず、今もって記念館という声もありません。石坂は国民的作家ではありますが、文学の格から言えば石川の方が上のはずです。
石川はプロレタリア文学の退潮期にそれにとってかわる『日陰の村』『生きている兵隊』『暗い嘆きの谷間』『風にそよぐ葦』といった社会的な正義感による現実追求の優れた小説を発表しています。その後は『金環蝕』『青春の蹉跌』等、大胆な風俗小説に移り多くの読者を獲得します。

 双方とも戦時中は発禁処分を受けたりしたという条件は同じわけですが、青森県生まれの石坂洋次郎の記念館ができて、地元出身の石川達三がネグレクトされているのはなぜでしょうか? 実はこれを追っていくと、地域に入れられる者と入れられない者という現代にも通底する時代と地域と人の関係から文学が見えてくるのですが、これを話すには、みなさんからあまりにも遠い秋田という地域の話を長々しなければなりませんので、今日は端折って話を先に進めることにします。
 さてもう一人触れておきたいのは、母親の畑友達というんでしょうか、知り合いに武野武治(むのたけじ)という奇人がいました。社会部記者としてならしたジャーナリストで、敗戦の日に朝日新聞を退社、郷里に帰って週刊「たいまつ」という新聞を出していました。今思えば、その人が何を考えて戦時中の報道に携わり、何を考えて敗戦を契機に郷里に帰ったのか、知りたいことはたくさんあるのですが、当時の私はそうした社会的視点というものが、まったくもって開かれておらず、七十年安保闘争の安田講堂でさえその正確な意味がわかっていませんでした。むのは人名録によれば大正四年生まれとありますから、現在八十二歳、先日、秋田の両親に電話をした折り、「むのさんはどうしている?」と聞いたら、元気で自転車で飛び回っているとのことでした。
 戦前戦後の知識人たちが思想的洗礼を受けた左翼思想といえば、横手市というところは不思議なところで、東大ポポロ事件の被告が市長をやっていたりもしましたから、案外思想的には開けていたような気もします。この「ポポロ事件」というのは昭和二十七年東京大学の劇団ポポロの学内演劇発表会に潜入した私服警官が、警察手帳を学生に取り上げられた事件で、裁判で大学の自治・学問の自由と警備活動の限界が争点となり、最高裁判所まで判決が持ち込まれ、政治的集会は大学の自治の保障をうけないとする判決が出ていますが、これも広辞苑の第四版では既に削られて記載がありません。講談社の日本語大辞典には七行だけですが出ていました。辞書になにを載せ、何を削るか、というのは出版社の姿勢がわかっておもしろいですね。

 話が横道にそれたついでにいえば、この婦人文庫にゆかりの深い前飯田市長の松澤太郎さんのお宅にうかがったおり、たまたま郷里の話が出たついでにポポロ事件で被告になった市長の話をしましたところ、「革新市長の会」という市長さんたちの集まりで一緒だった、おもしろい人であったといっておられました。

 この地元で過ごした高校時代までに、本当に内容が読みとれたかどうかは別として日本内外の小説はもちろん、詩や今読んでもわからない哲学書まで、手当たり次第読んでいた気がします。

 さて、ここで私がいいたいのは、一つは高校までの私の育った自己紹介。そしてもう一つは、石坂洋次郎と石川達三のことにしても、むのや市長のことにしても、当時は気にならならなくて今とても気になってるんです。中途半端な言い方になりますが、つまりは見ようと思えば見られる環境にありながら、目には見えてこない現実の風景があるということを申したいのであります。


 話を次に進めます。

 私たちの大学受験は、共通一次試験が実施される前年の、一期校二期校に分かれて受験した最後の年次にあたります。父親は公務員でありながら土地家屋調査士であり、日曜百姓でもあった人ですが、「国立以外は駄目、浪人も許さない」と口癖のようにいっておりました。私も「そうか」と思って、新潟大学と北海道教育大学を受験することにしました。新潟を選んだのは坂口安吾の影響、また北海道を選んだのは武者小路実篤や有島武郎らの白樺派の諸作品、「ボーイズ・ビー・アンビシャス」のクラーク博士や内村鑑三の清新な思想と、「北海道」という土地のイメージが選ばせたのではないかと思います。石川啄木や宮沢賢治・国語学者金田一京助といった人は東北・岩手の人ですが、頭や身体は東京へ向かい、視線は北へ向かうというイメージがあります。その頃はまだ読んでいませんでしたが、「蟹工船」の小林多喜二などもそうです。大正から昭和初期、戦前までの作家は、活動の場を東京へと中心に向かう一方で、作品の中には北へ向かう視線がどこかにある。文学の中心と周辺、大陸進出の政策が進行していた時代背景、経済の周辺という意味での「北」や「辺境」。「北へ向かう文学者たちの視線」というのは一つの研究課題にもなるような気がしていますが、それはまた別の話。

 お前は何者、何になりたいのか?
 幸い両校から合格通知をいただきましたが、当時は坂口安吾の方により強く惹かれていたのだと思います。新潟に行くことに決めました。教育学部でしたので、両親もいずれは地元に戻ってくるだろうと思っていたでしょうし、本人もさしたる抵抗もなくそう思っていました。教育学部ですから、それなりの勉強をし、それなりの体験も重ねていきます。 その頃は、学生運動も下火になっており、六十年安保や七十年安保闘争に明け暮れた一世代前の学生とは違って、はなはだ平穏な、ある意味では政治参加の意欲が挫折した、はなはだ無気力な学生時代を過ごしたことになります。地方であったということも影響していたと思います。

 教育学部の教員養成課程は、大学によって取得する単位が多少違いますので、皆さんや皆さんのお子さまたちの受けられたものとは違っていると思いますが、新潟大学では大学の二年から四年生までそれぞれ約二週間、計一カ月以上にわたって教育実習が課せられます。この長い教育実習を通して、私は教師になることをやめようと思うようになります。

 理由はいろいろありますが、外的な要因は、実習を通して見えてきた教員の世界の奇矯さ(かたちんば)に馴染めなかったのです。まず仲間たち、自分も含めて知識らしい知識も持ち合わせていない同輩が教員強制課程を経て教職の資格をとったというだけで、自分たちの内実に何の疑いもなく教師になっていくということ。また、教育実習で垣間見た教師たちの学閥や派閥世界、また実力のなさ、向上心のなさ、もちろん例外も多いと思ったのですが、そうした人々が「先生」と呼び合う異常な世界になんともやりきれない思いを抱いたことを覚えています。三年のとき六十人ぐらいのそうした同輩たちの教生長をやりながら、頭の中では教員は自分には合わないと考えていました。
 もう一つの決定的な理由は内的なものです。私は国語課といって中学校の国語の資格を中心に小学校と高校の国語の免許のとれる課程に学んでいましたが、学んだことをただ次世代の子どもたちに教えるのであればそれなりのことはできるような気もしたのですが、私が本を読んで本を読む楽しさや本のおもしろさを知ったのは、教室で習う無味乾燥な知識や技術、あるいは国語のテストで高得点をあげるためのテクニックや文法といったものではなく、むしろそうしたものとは対極にあるような本あるいは読書という行為の「わからない世界そのもの提示とその魅力と対峙すること」「言葉に表現できない楽しさ」、「未知の世界」が本と本を読むという行為に封じ込められている魔法の魅力だったような気がして、わかっていることを教える、いわば受け売りの知識の伝達では、それまで受けた教育と得た知識では、そうした楽しさを子どもたちに伝えられないという気持ちが強かったからです。「単なる伝言板では教師になる意味がない」「少なくとも、自分が本を読むおもしろさを子どもたちに伝える方法を持たないうちは教師になるまい」と、今は必ずしもそうは思っていないのですが、当時の私は一途にそう思い込んでいました。

 と当時に、四年次に養護学校の実習もうけたのですが、先輩方のいうように、確かに「ここに教育の原点がある」というような気持ちになりかけていたとき、自身に選択をせまるような出来事が起こったのです。なにか自分たちの面倒をしきりにみてくれる、いつもと違う先生らしき人が来て、一緒に遊んでくれると思った児童の一人が、昼食時、自分の食べている具だくさんのスープを、スプーンですくって先生に差し出したのです。「アーンして」と。けれども、その鼻水と涎の混じったようなスプーンを私は口に出来ませんでした。よくあることで気にしなくてもよいと指導教官はいってくれたのですが、こんなことも心のどこかに引っかかっていたのかもしれません。

 この頃は、授業に必要な読書の他に、全集読みの楽しさを知って、森鴎外、夏目漱石、谷崎潤一郎、芥川龍之介、宮沢賢治、堀辰雄、志賀直哉、泉鏡花、水上瀧太郎、太宰治、川端康成、大江健三郎、中上健次、古井由吉、少なくとも高校入試に出てくるような文学史上の作家の作品は殆ど一通りは読んでいたような気がします。また教育学部でしたので『大村はまの国語教室や、教育とその周辺にかかわるもの、たとえば灰谷健次郎の『太陽の子』や一連の作品、ミヒャエル・エンデの『モモ』『はてしない物語』『機関車ジム・ボタン』のシリーズ、『鏡の中の私』、その他、中山恒『ボクラ少国民』でしたっけ、児童文学なんかも手当たり次第読んでいました。というのも、先ほどお話しした教育実習以外の授業以外の時間、一年の三分の一くらいは山登りをしているか、旅にでているかといった具合で、列車の中、テントの中など読書の時間はたくさんあったのです。
 話は逸れますが、大学四年間を通して横手に帰ったのは合計してもわずか一週間にも満たなかったのではないかと思います。いまから思えば、親の心配も省みない脳天気な息子であったわけです。それでも論文やテストはそこそこの成績をおさめ、とりわけ事件も起こしたわけではないので無事卒業できるのですから、大学というのは不思議なところです。
 さて教師にならないとなると、いったいお前は何者で、いったい何になりたいのか? こうした本質的な命題に突き当たるわけです。十七歳になるかならぬかの高校生が教育学部に入ると、親も本人もなんだか安心してしまって、こうした本質的な疑問さえもたなくなるというのは恐いことです。温室の中にばかりいると、外の冷たさを忘れてしまう。時には温室にいるということさえ忘れてしまう、教師になるのをやめて初めてそうした命題に行き当たったのですから、やはりのんびりしていたのでしょう。

 大学院にいって勉強をしなおそうと思うまでに時間はかかりませんでしたが、語学などの受験準備が遅きに失して、その年は東北大学を受けたのですが見事に振られました。けれどもちょうど新潟大学でも大学院をつくる準備が進められていて、その前身にあたる人文学専攻科に進学できました。そこで学部長だった教授が担当教官で、近代文学の生徒は私一人でした。教授の専門は、硯友社で尾崎紅葉、川上眉山、山田美妙、泉鏡花等々、江戸の戯作の流れをひく明治初期の作家でしたので、江戸期の戯作から明治にかけての研究的読書をする一方で、英語と漢文(これは中国語にかわる第二外国語として認められていた)の受験勉強を平行してやりました。途中、産休の先生が急に都合がつかなくなったから、ちょっと教えてこいというので半分は寮から通うというカトリックの女子高校で夏休みを挟んで四カ月間ほど教壇にも立つというようなハプニングもありました。

 様々な経験を積み、学べば学ぶほど、自身の底の浅さがわかるようになり、進学の決意は強くなりました。

 作品を読むという行為と平行して、作品の解釈及つまり論文を読むと機会が多くなってくると、国文学研究の世界にも学風という一種の流れがあるのに気づきます。東京大学と京都大学の二大潮流の他に、東北大学は岡崎義恵という学者が「文芸学」という一派を興して独自な学風を形づくっており、魅力ある読解を続けていましたし、教育畑を視野に入れれば広島大学も独自の実践をしているように思えました。どうせ学ぶのならやはり魅力のある学風をと考え、東大系の東京都立大学、それから東北大学、金沢大学を受験することに決めました。東北にはまたしても振られ、東京都立大学と金沢大学から合格通知が届きましたが、「お前はぼんやりしているから少し人混みに出て刺激を受けるといい」というアドバイスのもと、東京に出ることにしたのです。確かに、刺激は強くて、初めて新宿の雑踏に降り立ったとき、目眩をおこして動けなくなったものです。それはさておき、東京都立大学で受けた刺激は確かに強いものがありました。

 担当教官は源氏物語と近代文学が専門で、柳田国男の「重ね合わせ」の手法を取り入れた柔軟な読みを許してくれるような幅の広いひとでした。しかし、なによりも驚いたのは言葉が通じないことでした。

 大学院の授業はゼミ形式でしたが、既に大学院の博士課程の在籍年限を終えて各大学に講座をもっているような卒業生(彼らをオーバードクターといいます)が、出席します。したがってゼミの教授が一人、オーバードクターが四ないし六人、学生は二人でした。

 ゼミの会話は勢い人数の多い人たちの「言葉」で進められていきます。大学院のゼミはもともと教えられにいくところではありませんから、自分たちの使うテクニカル・ターム(学術用語)が新入りにわかろうがわかるまいが、彼らは貴重な時間をなんとかつくってゼミにくるわけですので、自分たちは自分たちの読みを披瀝し、批判を請い、自身の読みを深めていくために来ている。彼らにとっては、一種闘いの場ですから、言葉の定義はするものの自分たちの言葉をいちいち新入りにわかるように説明なぞしてくれない。

 当時は、ロラン・バルト、ロトマン、バフチン、ヴィゴツキーなど構造主義がかげりをみせ、ポスト構造主義がいわれだした頃でデリラやフーコー、メルロ・ポンテイまたチェコやロシアのフォルマリズム理論また日本では吉本隆明、山口昌男や前田愛、柄谷行人がよく話題にはのぼりましたが、これらの研究者はもとより研究論文に使われたテクニカルタームの概念、枠組み、言葉がわからないんです。…つまりは共通とする土台そのものが天と地ほどの開きがある。ゼミそのものが、新しい思想の解明とその向こうにあるもの、それらを鏡に自分自身の読解方法を深め、また批判していくのが主眼でしたから、「教える」という観点はないんです。新思想の移入にも敏感でしたので、勢い欧米の新しい文学理論書などは翻訳を待ってすぐさまゼミの爼上にのぼる、いきおい新しい概念、新しい言葉がとびかうことになるんですね。今から考えると。

 なかには国文学の博士号じゃものたりなくて哲学の博士号をとっているような人も混じっていましたから、その用語たるや、田舎でのぼんやり青年にはそれだけで目眩を起こすにたるものでした。さきほど「言葉が通じない」と申し上げましたが、たとえば森鴎外なら森鴎外を論じていても、本当に何をいっているかわからないのです。切り裂くメスが私がもっているのが江戸時代の刃物であれば、彼らは体内の断層写真も撮れるというMRSなんかを駆使しているという感じ、その開き。個々の作品の解析と解釈、また文学論議をここで広げることはしませんが、当時の私はゼミの会話に出てくる論文や本の名前を片っ端からメモして、本屋に注文、なけなしの小遣いを叩いて読み漁り、なんとか飛び交う言葉を捕まえようと努めるのが精一杯でした。もしかすると半年ぐらいは本当に口を開いていただけだったかもしれません。

 一方で、大学院のゼミの教授の担当する学部の授業にも四つくらい出席することにしました。学部向けであれば少しは言葉がわかるかと思ったのです。人数も二十人前後できちんと出席する者は十人前後でしたし、さすがに大学院のゼミとはちがって教えるという配慮がある程度あったので、やっと言葉がわかりました。しかし、言葉を得て、みつけたものはやはり「言葉がわかっていない」ということでした。


 森鴎外「青年」と「泉鏡花論」は勉強になりました。

「青年」は明治四十三年から『スバル』に発表された作品です。小泉純一という作家志望の青年が、「現代の生活」を描こうとして上京、様々な体験を重ねることによって自身の進むべき道を見いだしていくという明治末年の思想的危機を生きた青年の物語ですが、たとえば主人公が手にしている地図が「東京方眼図」。これはなんと鴎外のつくった実際の地図なんですが、また鴎外自身の戯画化もしていたり、そうした遊びをしている。あのいつも苦虫をかみつぶしたような顔をしている謹言実直居士鴎外森林太郎がです。また当時小説といえば「自然主義」が本流だった時代ですが、これに対する的確な批判もあり、前年にでた『ヰタ・セクスアリス』と合わせて、よく鴎外と並び称される夏目漱石の『三四郎』(明治四十一年)への応答であり、鴎外なりの自然主義への態度表明があるんですね。 重ね合わせるといえば、泉鏡花「照葉狂言」と樋口一葉「たけくらべ」と森鴎外の「即興詩人」の、時代・思想・作品を重ね合わせて作品を読み味わっていく「泉鏡花論」の授業は「ああ文学作品はこういうふうに読むものか」と思い知らされた時間でした。

 鴎外の「青年」にしても、鏡花の作品にしてもそれまでも何度も読んではいるんですが、そこに「たけくらべ」をおいてみるとまた違った世界が開けてくる。むしろおいて読むのを前提につくられた作品なんですね。「即興詩人」しかり。つまりは、その時代の文学者たちは互いの作品を通し、相手の作品に疑問を投げかけたり、論陣をはったり、ちゃかしたり揶揄したり、揚げ足とったり、遊んだり、ありとあらゆることを作品を通してやっているんですね。

 もともと私の読書は「全集読み」、つまり同じ作家の作品を集中的に全部読むやり方です。時間軸にそって縦方向に読むことが中心でしたが、それもも大切だけれども、同時代の横の広がり、あるいは影響関係で読んでいかなければ作品の本来の位相(おかれた位置)や面白味が読みとれないのではないか、その横の広がりは世相や時代思潮などを知らずには作品や作家を読み切れないところがあることに気がついたのです。 みなさんに私の考えを押しつける気持ちは毛頭ありませんが、私は、こうした経緯の中で、私のなかにおぼろげながら「文学」というものを組み立てていったのです。



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 文学のふたつの側面〜社会と個人/自我と世界の問題として


 話はまたしても飛躍します。言葉足らずで荒っぽいのを承知でいえば、文学には二つの側面があるような気がします。

 ひとつは、その時代にはまさに「文学」であっても、時代が文学を飲み込んでしまえば、それは文学的遺物でしかなくなるような「文学」があること。たとえばプロレタリア文学とよばれた一連の作品やダダやシュールレアリストたちの詩作、新感覚派の消えていった作家と作品など、当時は最先端で誰も思いもつかない感覚や常識の矛盾をつくけれども、それはそれで文学そのものではあるのだけれども、時代がそうした常識を認めるようになると、新しくもなんともない思考・表現・感情になってしまって、むしろ陳腐としか思えなくなるようなところを含んだものがあること。つまり「文学」というものには「時代」が生み出す一面があること。
くどいようだけれども、つけくわえれば、文学作品には生まれでた時代に対して「異義申し立て」をするような部分が思想的感情的道義的な面で必ずあります。それが人間本来の欲求に基づいた根元的なものであればあるほど、異義申し立ての度合いは強いものになろうし、思想抑圧下や戦時下などの時代が反人間的であればあるほど巧妙に、あるいは声高になります。時代や常識が人間のあるべき姿を圧しているとする訴えをどこかに含んでいるからです。政治的な思想ばかりでなく、例えば恋…鴎外の「舞姫」エリスを捨てる官僚の心に残る傷も、今ではむしろエリスに同情が集まるかもしれないけれども、当時の時代からすれば多少曲折はあるにせよ一国の選良(エリート)が外国の商売女との契りをそんなに重大にとらえるような環境・世間ではない。鴎外はそれを問題にしていくんです。

 川端康成の「伊豆の踊り子」にしてもまともな旅館にさえ泊まることのできない河原乞食と呼ばれた旅芸人の少女と、その少女に淡い恋心を持ちつつ別れる書生の心情が描かれているといはいうものの、書生が感じており少女が体現していたものはどうしようもない乗り越えられない階級差です。逆にそれをなぜ作品にしていったか、と読んでいけば、身分とか階級・学識といったものに隔てられる恋のありようの不自然さが描かれていたのです。
 「物乞い旅芸人村に入るべからず」
という立て札が「ところどころの村の入り口に立てられていた」『伊豆の踊り子』の中にある文章ですが、これが当時の旅芸人に対する世間の目なのです。「舞姫」が明治の末、「伊豆の踊り子」が大正中頃、いずれも近代化を急ぐ日本がいまだ家長制度や儒教思想、男尊女卑の前近代的な澱(おり)を捨てきれず、近代的な自我に目覚めた文学者たちが、人間の本性に則った恋愛を押さえつける現実の壁を一方は直裁に、また一方は叙情的に切り裂いた作品であったといえるような気がします。社会や常識や世間が押さえつけていた人間の本姓の認識と、押さえつけるものへの抵抗が文学作品の底流にあるんです。

 世間や常識に刃向かう姿勢が文学の中にあった、だから小説を読むものは不良だとする認識が一方にあったのです。小説を読むから不良ではなく、小説の中の反社会的な言葉に共鳴する感性をさして不良といったのです。だからこそ言葉を理解する者は寸暇を惜しんで、また家人や世間の目を盗んで、「不良」たらんとしたのです。言葉を換えて言いますと、時代や制度や社会の秩序を崩壊させてしまうかもしれない危険思想・社会と相反するものが文学そのものであった時代もあったんです。危険思想がすべて文学だなどといっているのではありません、念のため。
 白黒の決着のついた世界で「あれは白、これは黒」と書き分けることより、白黒逆転している世界の中で、「この黒は本当は白、この白は本当は黒」と書き分けることの方がより困難を伴うし、その分、同じ思いを持った人にはより強く受け入れられていったものと思われます。

 明治から大正の小説家は世間では不良でしたし、事実、鴎外や漱石でさえ彼らの作家的行為は彼らの出世の足を引っぱったのです。大正モダニズムの芸術家や詩人たちは一種の奇人変人揃いですが、逆に今の髪を茶色に染め、女の子とところかまわずキスをするフリーターとして日々を送る若者を大正時代の農村にでもおいたら、私たちが感じるどころではない異常さを、大正時代の農村の人々は感じること請け合いです。彼らに弁明の機会が与えられるならば、彼らはおそらく個性の尊重を主張し、男女平等を口にし、職業選択の自由を言うでしょうが、その時代の人々には残念ながら通じません。彼らが、その齟齬を、万が一、文字なり映像作品なりに残して、そして百年後、時代が今日ぐらいの男女認識になればもしかすると、彼らは大正時代突如現れた時代の先駆者、ということになるかもしれません。逆に朝の連続テレビドラマ「あぐり」の亭主吉行エイスケもまた大正時代の小説家ですが、あの時代奇矯にしかみえないああした男女間の平衡感覚や「家」というものに対するドライな在り方、個人主義は、現代社会においては、それほど目新しいことではない、むしろ一般的になってしまったように思うのですが、いかがでしょう。
 また『伊豆の踊り子』が現代社会で初めて発表された作品としたらどうでしょう。川端はまだしも、鴎外の文語調の作品、名文とされる『舞姫』の冒頭「石炭をば早積み果てつ。中等室の卓(つくえ)のほとりはいと静にて、熾熱燈(しねつとう)の光の晴れがましきも徒(いたづら)なり」、まず第一に辞書なしに正確に言葉の意味をとることさえなかなかできないでしょう。
 また、川端の踊り子にしても、本来の人間の価値とは別に河原乞食と卑しめられていた芸人たちは、今の社会にはすでに消滅している。もちろん旅回りの芸人やテレビタレント、歌舞伎役者といった人たちはいますが、すくなくとも社会通念として「卑しめられる」ということは、もう、ありません。したがって、彼らが東大出のエリートと恋愛しようが、結婚しようが、もうニュースにはならない。そういう状況下で、川端の「伊豆の踊り子」の持っていた反社会性はどこにもあり得ようがないのです。こうした作品に「現代」という枠を当てはめてしまえば、あとはそうした身分差のあった時代の男女の恋を描く筆力のみが問われることになります。
 けれども思うに、白黒の決着のついた世界で「あれは白、これは黒」と書き分けることより、白黒逆転している世界の中で、「この黒は本当は白、この白は本当は黒」と書き分けることの方がより困難を伴うし、その分、同じ思いを持った人にはより強く受け入れられていったものと思われます。
 「社会」と「個人」の齟齬が文学を生んできた、これがひとつの文学です。

 それでは抑圧する社会や制度がなければ文学は生まれないのか? 個人は生まれてこないのか? ということです。結論からいいますと、個人は社会との対比概念ですから社会的概念のないところに個人の概念はありません。しかし人間が存在する以上、個を抑圧するかどうかを問わず社会は存在し、また個人も存在しています。もう一つの文学は、この個人の中に生まれます。正確にいえば、個人というのは社会的な概念ですから、あえてこのこの言葉を使わず、個人の中の「自我と世界の問題として文学は存在する」ということができます。自我の目覚めとともに世界は開かれます。まだ読んではいませんが、最近話題になったどこかの哲学者が書いた『ソフーの世界』なんかも、おそらくこの自我と世界の問題を扱った作品ではないかと思われます。

 私たちの生は、生きると言うことは、様々な認識や体験を通して人間としての自分を成長させ、自信の世界をかたちづくる営み以外の何者でもありません。そうして形づくられた自分の世界が自我、これに対する自我の外の世界が私がさきほどからいっている自我と対(つい)の概念である「世界」に他なりません。そして私たちの生は、自我がかたちづくられるや世界と向き合い、世界を取り入れることによって新しい自我をかたちづくる、その限りない繰り返しのうえにあります。その意味で、こうした生の営みのなかでは、物理的な意味での老人も若者もありません。若くしても自信の世界を広げようと努めない人は精神の世界ではすでに老人でありましょうし、時間軸にそっては老人以外ではありえなくても絶えざる自我の更新を図っている人にとって世界は常に新しく輝いて出現するような気がします。なんだか宗教がかってきたと思われるかもしれませんが、いわんとするところは自我と世界の領域では新しい発見・感動・認識は無限にあること、時間は無意味であるということ、つまり、さきほど「時代が生み出す文学がある」とはまったく違った概念の人間の生き方があるということを言いたいのであります。この自我と世界の関係を文字にする行為が小説であり、随筆、詩歌であるわけです。


 ここまでお話して、すでに気づいている方も多いかと思いますが、最初にお話した社会と個人の齟齬の生む文学にしても、自我と世界の関係から生まれてくる文学にしても、なにも小説に限ったことではないのです。今まで、私が使ってきた文学という言葉は例えば芸術という言葉に置き換えてもいい。時代によっては、時に小説がこれをリードし、あるいは絵画や彫刻とリンクして文学的覚醒を促した。江戸時代の歌舞伎や浄瑠璃や文楽がすぐれた文学であったのは人間や人形、音楽がリンクしてつくりだしたものでした。いわゆる芸術一般が文学を担ってきたのです。あるいは映画がこれに加わったこともある。先に申し上げた文学の生まれる土壌から考えてもおわかりの通り、もともと文学は文字の世界だけに限定される営為ではないのです。ただ便宜的に私たちは文字表現による文学的営為を「文学」とは読んでいますが、この文学的行為はもともとは社会と個人、自我と世界の関係のなかに生まれてくるものですから、その時代時代をもっとも鋭角的に切り取る道具がより文学的な文学なのだと思うのです。古い時代のことはよく研究していないのでわかりませんが、明治以降、音楽や美術以上に時代を移す鏡、切り取るメスとしてもっともよく利用され、また影響力もあったのがいわゆる文学だったのは事実です。(後略)