A5版・P・ハードカバー 定価 2000円(税込)

〈貝島炭坑之物語 参之一〉
『貝島太助兄弟と創業の精神』








著 者 福田康生
住所 福岡県宮若市宮田4582
TEL 0949‐33‐1843

発行者 福 田 康 生
住所 福岡県宮若市宮田4582
TEL 0949‐33‐1843

1

筑豊の本シリーズ」のお問合わせ及び御注文は、
Tel/Fax 0949-33-1843 Mail/wsxmy445@ybb.ne.jp
自分史図書館 福田康生迄

巻頭写真




本文抜粋


 貝島太助兄弟は、筑前国鞍手郡直方町新入口、圓徳寺門前に生れた。父を永四郎と云い、母をタネと云った。
 直方市山部の雲心寺の裏手に、貝島太助がその訓誡で、「直方町は我家の發祥地にして且祖先の墳墓地たり」と述べている、貝島一族九家の墓所がある。
 その墓所の東屋風門をくぐったすぐ右手に、大きな「先考先妣之墓碑」がありその裏に、太助兄弟の父永四郎について、
(貝島永四郎 穂波郡忠隈村山本文助之三男 入嗣貝島家 文久二年壬戌六月八日歿 導年六十有四)
 とあり、母タネについては、
(貝島タネ 鞍手郡下境村安永貞吉之次女 被養於貝島利助 以配先考 擧四男三女 明治二十五年壬辰四月八日以壽歿)
(貝島永四郎は、穂波郡忠隈村山本文助の三男にして、入りて貝島家を嗣ぎ、文久二年壬戌の年六月八日歿す。導年六拾有四。 貝島タネは、鞍手郡下境村安永貞吉の次女にして、貝島利助に養われ、以て先考に配す。四男三女を挙げ、明治二十五年壬辰の年四月八日、壽を以て歿す。)
 と、彫ってある。

 太助兄弟の父永四郎は、農家の三男であれば、いつまでも家にいることはできない。二十歳のとき、光を求めて直方へゆき、下境の貝島利助のもとで養われていた。 利助の養女タネの前夫が、人間のできが悪く利助とタネを捨てて家をでてしまったので、利助に請われて婿養子に入った。永四郎三十歳のときであったと云う。
 永四郎が入婿したときの貝島家は、前夫が家財を蕩尽しつくしたあとで、そのうえ親戚にだまされたりして、残っていた家と少しの田畑もまきあげられていたから、太助兄弟の父永四郎が入婿したとき、利助一家が住んでいた円徳寺門前の家は、柱と囲いと屋根だけの、床に荒むしろを敷いただけの、直方の町の人が幽霊屋敷とも呼ぶ、あばら家であったと云う。
 永四郎は入婿間もなく、利助、タネ、クニ(タネと前夫の娘)と四人の口糊をしのがなければならなかった。
 冬は付近の炭坑に出稼ぎし、坑内に水がつく夏場は石炭も掘れないから果物蔬菜の行商をして、あわい炊煙をあげ露命をつないだ。
 暮らしは貧しかったが、永四郎とタネは夫婦の仲むつまじく、次々と子供が生れた。マン(早逝)、ヌイと女の子が生れ、やっと三人目に永四郎待望の男の子が生れた。永四郎四十六歳の弘化二年(一八四五)正月十一日。あととり息子貝島太助の誕生であった。
 さらに嘉永二年(一八四八)には次男文兵衛が生れ、嘉永五年(一八五一)には三男六太郎、安政三年(一八五五年)には四男嘉蔵が生まれた。
 貝島太助の成功のもとを尋ねるとき、三人の弟達が太助を補佐したことにあると思われる。父永四郎は、太助に財産こそ残してはくれなかったが、兄思いの律儀な三人の弟と云う宝ものを残してくれたのである。
 永四郎は妻子の口に糊するために、直方御館山坑で本格的に炭坑稼ぎをするようになっていた。
 太助が八つになったころ(次弟文兵衛が四歳、三弟六太郎は一歳)、永四郎は烟草を吸おうと坑外にでて小屋で休んでいた。
 坑内での重働のためか、思わず睡魔におそわれ小屋で寝こんでしまった。すると運悪く炉火が敷いたむしろにうつり、肺は煙を吸い、胸に大火傷をおってしまったのである。
 それまで、永四郎は一〇〇キロほどの荷を担ぐ剛力であったが、それ以来身体衰弱し、思うように働けなくなってしまった。
 永四郎が、太助を坑内にともなうようになったのは、この頃からであったと云う。
 胸の火傷で思うように採炭ができなくなり、少しでも太助に仕事を手伝ってもらうためであった。
 ある日、永四郎が、
「太助よい、今日は父ちゃんについてくるか。」
 と云って、幼い太助を坑内にさそうと、太助はいつも可愛がってくれる父と一緒におれるのが嬉しく、勇んでついて行った。
 それ以来太助は、永四郎が坑内に下がるときには、みずからカンテラ代わりの灯明皿を手に持って父を先導し、幼い太助が炭塊を運搬しては、永四郎を助けるのに嬉々としていたと云う。
 太助は、十一歳にもなると、もう一人前のガラ焼き人夫に使われ、賃稼ぎができるようになっていた。
* ガラというのは、粉炭を粘土に混ぜて固め蒸し焼きにして、あまり煙が出ないように処理し、家庭用の煮炊に使えるようにしたものである。型に入れて楕円形に成形したものを豆炭と云った。豆炭は火がつくと真っ赤になる。筑豊の「言いごと」に、一生懸命に何かをすることを「必死豆炭」と云う。顔が真っ赤になるほど力をいれて頑張るさまをたとえたのである。)
 太助は、ガラを焼くかたわら暇があると、石炭を籠に入れ近所に売り歩いていたので、この方でもいくばくかを稼ぎ、家計を助けていた。
 母タネにとって、太助が幼くして炭坑で働いてくれるのは、まだ小さい六太郎や嘉蔵らが手足を伸ばす助けにはなるしあり難いことではあったが、当時の坑夫社会と云えば、
(放蕩無頼の徒、獰悪凶暴の輩をもって組織され、賭博、喧嘩、強請、殺傷至るところに滔々風を為せり)
 と、云われていたから、母タネは、
(太助がその悪風に染まりはしないか、また坑内は落盤や浸水や火災で命をおとす者も多い。いつ事故が起こるかもしれない。)
 と、心配していた。
 農家に生れ育ったタネに、は炭坑社会は理解しがたい世界であった。真っ暗な地下にもぐる下罪人(下財人)の仕事は、夫永四郎の稼ぎの種とは云え、理解し難いものであったのである。
(このままやったら、太助もいつの間にか悪の道に染まるかもしらん。大怪我をしたり、命を落としてしまうかもしれん。青空天井の下で働ける、太助におうた何かいい仕事はないやろか)
 と、太助が事故にあったり、悪の道に染まるのを心配していたのである。
 太助も十二歳になった。
 タネはいくたびか煩悶し、いくたびか思案していたのであろう。そんなある日の夕、子供らに破膳の晩飯を食べさせ、上がり酒の一碗をなめていた永四郎に、
「お父さん、太助のこれからさきのことやが、このまま炭坑で働かせておっていいもんやろか。どんな災難があるかもしれんし、朱に交われば赤くなるち云うし、悪い人間になってしまうとやなかろうか。何か他にまっとうな仕事はないもんやろか。心配でなりまっせん。」
 と、思いつめた硬い表情で、訴えた。
 永四郎にしても思いは同じであるが、太助の働きが家計の足しになり、自分の働きだけでは、一家八人の口を糊することができない。
「おまえがそう云うのは、その通りもっともじゃ。わしもそう思う。ばってん、太助に炭坑で働いて稼いでもらわねば、文兵衛や六太郎、嘉蔵の手足を伸ばすこともでけん。太助には気の毒ややが、炭坑で働いてもらうしかない。」
 と、自分の働きがたりないのを嘆くばかりで、他に思案はない。
「いえ、いえ、お父さん。みんながひもじい、つらい思いをしてでも、太助の安気にはかえられまっせん」
 と、泣きの涙で訴えるのであった。
 タネの必死の思いに、永四郎もついに折れた。
 では、太助に何をさせるかと云っても、あてはない。
 タネは、直方町の鎮守多賀神社の門前で店を張っていた易者に観てもらうことにした。すると易者は、
「あんたの息子は、子供ながらに火がガンガン燃えるごと激しい気性をもっておる。火を扱わせなっせ。鍛冶屋がよかろう」
 と、云ったので、鍛冶屋奉公をさせることになった。
 太助は、遠賀郡吉田村の鍛冶屋に奉公することになった。
 ところが、その鍛冶屋は、太助に仕事は教えず子守ばかりさせるので一ヶ月ほどでそこを飛び出し家に帰った。
 太助は、家に帰ってきてから重い腸チフスにかかり一年ほども寝たり起きたりの日々を過ごした。そのあいだ何度か死線をさまようこともあったと云う。
 病が癒え、母のタネは、信心していた直方山部の雲心寺の住職のところへ行き、
「太助に、どこかいい奉公先はないでしょうか。太助に、なにかしっかりした仕事を身につけさせたいと思いよりますが……」
 と、相談すると、住職の渡辺一翁は、
「そんならうちに奉公させなさい。読み書きも覚えられるし、太助の後々のためになろう」
 と云って、太助を引き受けてくれた。
 お寺の仕事も楽ではなかったが、炭坑の仕事に比べると苦にはならなかった。
 太助は、小さな頃から体を動かして働くのになれていたから、早朝の水くみ、薪割り、広い境内の掃除に畑仕事と身を粉にして働いた。
 和尚も喜び、
(太助はよう働く。見込みがあるぞ。)
 と、太助に文字やお経を教えにかかったが、太助は全く文字やお経を受け付けない。太助の心の中には、
(おれは、坊さんなんかになるもんか。いずれひと山あてて、家族みんなに楽をさせるのが長男である、おれの仕事たい)
 と云う思いがあって、文字やお経を覚えようとしなかったのである。
 太助が雲心寺に若党奉公にでて一年ほどたったころ、家はいよいよ一家離散の憂き目におちいっていた。
 太助が、かろうじて支えていた家計であったが、太助の稼ぎもなくなり、そのうえ永四郎の体がいよいよ衰弱し、炭坑稼ぎに出たり出なかったりの状態で、いよいよ切羽つまったのである。
 長姉クニは穂波の岡藤権四郎のもとに嫁いでいたが、次姉ヌイは下女奉公にゆき、当時十四歳の文兵衛は芦屋の観音寺に下男奉公にだされ、また当時十一歳の六太郎は姉クニの婚家にあずけられ、そして七歳の嘉蔵も豊前香春町の内山某のところへ養子にやられていたのである。
 その年の冬、父の永四郎が重篤におちいり、家では薬代はもとより食べるものにも困窮していた。
 それを聞いて太助はじっとしておられず、雲心寺の住職渡辺一翁にわけを話して、太助が家に帰ると、家では床に臥した永四郎とタネだけが残っていた。
 いかにして一家を救うか。太助は思案した。
(お母さんは、炭坑稼ぎを嫌がるが、他に道はない。元手なしで、すぐに稼げるのは炭坑の他はない。
 太助は家に戻るとすぐに、芦屋にいる文兵衛を呼びもどした。石炭掘りは、先山(* 鶴嘴一本で層になって埋まっている石炭を掻きだす役)と後山(* 先山が掻きだした石炭を、天秤で百斤かごを担い坑内から外に運びだす役)二人一組でなければできないからである。
 太助と文兵衛は、二人で御館山の炭坑にもぐった。
 二人の稼ぎで父母を養い、父永四郎の薬餌にあてた。太助が十七歳、文兵衛の十四歳のころであったと云う。
 太助は、猫可愛がりに可愛がってくれた父永四郎の病を何とか治そうと必死豆炭であった。
 だが、太助ら家族の願いも空しく、永四郎の病は次第に重くなっていった。
 永四郎が不帰の人となる何日か前のことである。タネが、
「お父さん、なんか食べたいものはありませんか」
 と問うと、永四郎は好物の蕎麦を注文した。
 蕎麦ができ、太助が給仕をした。栄四郎は、少し蕎麦の汁をすすったが、
「太助よい、わしは大好物の蕎麦も喰えんようになった。わしの命はもうお終いやろう……」
 と、いかにも苦しそうに箸をおいて云い、間もなく帰らぬ人となった。文久二年(一八六二)六月八日のことであった。
 太助と文兵衛は、その後も二人一組で、貝島家を再興しようと炭坑で働いていた。
 この頃のことであろうか、仕事を終えて坑内から出ようとした時、突然ガラガラと音がして天井が崩れ落ちた。太助はとっさに鶴嘴を立て、丸くなって伏せた。大きな盤石は鶴嘴に支えられ、少しのすき間ができていた。
 前を歩いていた弟の文兵衛ら四、五人が駈けより、鶴嘴や鍬などでボタを取りのけるが、太助の姿は現れない。一時間、二時間と時間ばかりが過ぎていった。皆、疲れはて、
(どげな強い人間でも、もう窒息して死んじしもうたにちがいない)
 と、望みを失いかけたとき、
「うーん、うーん」
 と、うめき声がした。
 太助は、生き埋めになってから三時間ばかりして助け出され、九死に一生をえた。 また、文兵衛とともに百斤かごを担い、せまい坑道を這うようにして昇り降りしていたとき、板状にはがれた天井の岩が二人にかぶさってきたことがある。太助と六太郎は、二人でその岩を支えたが、身動きができない。
太助が、文兵衛に、
「文兵衛、一歩も動くなよ。動いたら支えきれなくなって潰されるぞ。わかったか。」
 と、大声で云うと、文兵衛が近くにいた坑夫に、
「支柱を持って来てくれ。」
 と、叫んで、板岩の下に支柱を立てさせ、二人は這いでて命びろいをしたこともあった。

 太助が二十歳になったころ、
「お前が炭坑で稼いでくれるのは有り難いことやが、お父さんも死んでしもうたし、お前に万一のことがあったらと思うと、うちは心配でならん。炭坑稼ぎはやめにして、まっとうな仕事をしてくれんやろうか」
 と、ことある毎に、タネは炭坑の危険なことを心配し、太助と文兵衛をかき口説いた。
おれは、炭坑で一旗あげようち思うておったが、お母さんがそげん心配するとやったら仕方がない。親を心配させるのは、不孝の始まりと云う「言いごと」もある。お母さんにこれ以上心配させるわけにもいかん。)
 と思い、母の願いを聞きいれ、文兵衛ともども炭坑稼ぎはやめ、直方の呉服や綿類を商っていた谷弥平のところで、綿打ち職人となった。
 そのころ、六太郎と嘉蔵は何をしていたか。姉クニの婚家、穂波郡長尾村の岡藤家で養われていた六太郎は、十四歳になっていた。
 六太郎は、姉クニの婚家とは云え、クニの夫岡藤権四郎はあまりいい人ではなかったから、居心地は良くなかった。
 と云うのも、かつて永四郎が、人の口に幽霊屋敷と云われていた家の家賃にも窮し、まもなく正月が来るというとき、娘の婚家でもあり、少しの借銭を頼んだことがあった。
 ところが、権四郎は
「貸せといわれりゃ貸してもいいが、返すあてがありますとな。返すあてもない金を貸せちいうのは、泥棒みたいなもんやなかろうか……。」
 と、嫌みたっぷり、けんもほろろに、
「ばってん、どげしても、お金がいるとやったら、ヌイを奉公にだせばいい。わしに心当たりがあるから、ヌイの奉公先を世話しまっしょう。」
 と、十歳になったばかりのヌイを奉公にださせ、その上に、ヌイの奉公先からの前借りの半分を自分の懐に入れ、永四郎には半分しか渡さず、平然としている人であった。ものの本には、「無情冷酷の権四郎」と記してある。
 そうすると、六太郎の扱いもおして知るべしである。六太郎は、嫁の弟と云うのではなく、下男同様の扱いであったと云う。
 六太郎は、朝は日の出とともに起き、畑仕事、田んぼの草取りに追いつかわれ、夕べに星を背にして寝小屋に帰ると云う毎日であった。
 六太郎は、明治十年、太助が直方切貫坑の芝はぐり(開坑)をするときに呼び寄せられるまで、十七年の長きにわたり、姉クニの婚家権四郎のところで追いつかわれることになる。
 太助は、三年ほど大人しく綿打ち職人をしていた。
 太助の打った綿はできが良いと評判で仕事は順調であったが、寝ても覚めても思うのは、石炭でひと山あてることばかりであった。
 太助は、黒光りする石炭の塊が続々と出てくる夢を何度も見た。
(ああ、朝から晩まで働いてもなんぼの稼ぎにもならん。貰えるもんは少ないし、この仕事では大したことはできそうにもない)
太助は、思いあまって、
「お母さん、もう一回炭坑で働かせてもらえんやろか。どげな苦労をしても、炭坑でひと山あてんことには、六太郎や嘉蔵を家に呼びもどすこともでけん。どうぞお願いします。炭坑で働くのを許してもらえんやろか」
 と、タネに懇願した。
 タネは、かわいい息子にここまで頼まれると、母としてそれ以上何もいうことができない。太助は、二十三歳になったころ、綿打ちをやめ、石炭で一山当てようと再び炭坑に戻った。

 太助が二十四歳になったとき、新しい世の中が始まった。明治維新である。
 江戸幕府が倒れ、五箇条のご誓文が出されて新しい世の中が始まり、維新政府も成立したが、明治維新と云っても、太助ら坑夫には、何のことやらわかららない。
 百姓は田を耕し、坑夫は石炭を掘っていた。
 たしかに、去年の暮れには、丸に十の字の旗をあげた薩摩の兵隊が隊列を組み、植木の町を続々と通り過ぎ、木屋瀬で一休みしたり、なにやらあわただしい気配はあった。
 しかし、太助ら坑夫には、お上のなさることには係わりがない。
(どこの馬がこけちょろかい。どこの犬が吠えよろかい。)
 と、云うわけである。
 太助らが、新しい世の中の到来を知ったのは、明治二年(一八七九年)二月、新政府が鉱山解放令を発布したときであった。
 新政府から、
「鉱山開拓の儀は斯地居住之者共故障無之候はゞ斯支配の府藩縣へ願の上掘出不苦候府藩縣に於ても旧習に不泥速に差免可候事」
 と云う、「鉱山解放」の布告がだされたのである。
(その地に居住している者で、府藩県に掘り出しの願いがあれば、回り近所に苦情がなければ、府藩県は速やかに、掘り出しを許可しなさい)
 と、云うのである。
 それまでは、遠賀、鞍手、嘉麻、穂波の筑前藩の石炭採掘は、安川・松本家の先祖松本平内が作った仕組法に縛られ、藩が決めた山元だけに採掘権があったが、だれでも届け出さえすれば自由に石炭を掘ってもよいと云うことになったのである。究極の規制緩和である。明治新政府のこの「鉱山開放令」のおかげで、太助は第一回目の独立をすることができた。
 太助は、親戚知己を百方説いて、無理算段をして資金をかき集め、直方町山部に一小坑区を手にいれ、長弟文兵衛と芝はぐり(開坑)をした。
 しかしながら、資金がすくないから、人も多くは雇えず、坑内にたまった水を揚げることができない。
 その上、以前だれかが堀ちらした坑道が、新坑道の上を通っていて、天井が陥落し、あえなく第一回目の独立は失敗に終った。
 太助と文兵衛が手がけたこの直方山部の炭坑は、後の三菱新入炭坑第六坑で、鯰田炭坑とともに、三菱のドル箱となる。太助の鑑識眼に狂いはなかったと云うことである。…………。

以下、この巻では貝島太助兄弟が艱難苦労のすえ大之浦炭鉱を開き、明治四十二年「貝島家家憲」が制定されるまでを書いています。
 
拙文ではありますがが、つづきは拙著をお読みいただければ幸いであります。

                        
(自分史図書館 福田康生拝)







「筑豊の本シリーズ」のお問い合わせ、及び御注文は、
tel/0949-33-1843
Mail/wsxmy445@ybb.ne.jp
自分史図書館 福田康生迄


筑豊の本シリーズ・取り扱い書店
<宮若市> 佐野書店、Aブック(宮若店)
<直方市> みやはら書店(殿町店、駅前店)、いいの弘文堂
<飯塚市> 紀乃国屋書房(本町)、Aブック
<田川市> ブック・ワーム、明屋書店(川崎店)、田川市石炭・歴史博物館
<北九州市> ブックセンター・クエスト、白石書店、朝日屋書店、火野葦平資料館・河伯洞
<福岡市> 紀伊国屋書店(福岡博多駅前・本店)、丸善(福ビル店)、金進堂書店(原田店)