A5版・236P・ハードカバー 定価 2000円(税込)

〈貝島炭坑之物語 参之二〉
『貝島太助の息子達と事業の継承』








著 者 福田康生
住所 福岡県宮若市宮田4582
TEL 0949‐33‐1843

発行者 福 田 康 生
住所 福岡県宮若市宮田4582
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巻頭写真





本文抜粋


 明治四十二年十月十五日、東京麻布区内田山の井上馨侯爵邸で行なわれた家憲制定式も無事に終え、太助ら兄弟は直方へいそぎ帰った。
 というのも、明治三十一年に貝島太助、貝島六太郎、貝島嘉蔵、貝島太市の四名で設立した貝島鉱業合名会社を、一族九家共同事業の貝島鉱業株式会社へ組織変更する準備があったし、十二月一日からは家憲の条々を施行しなければならなかったからである。
 ヤマ(炭坑)に生まれ、ヤマで育ち、ヤマで男となった、ヤマの主のごとき太助には東京の空気はあわない。
 あまり長くヤマを留守にするのは気が滅いり、大之浦のことが気がかりでもあった。
 太助は家憲制定式に列席した貝島家一族の女たちに、
「女ごらは、もうめったに、東京にくることもなかろう。東京見物でもして、ゆっくり帰んない。案内は、東京の地理にあかるい太市と健次にたのもう。」
 といい残し、井上馨へは、
「すぐに直方に帰って、さっそく十二月一日より家憲の実行に取りかかりたく思います。侯爵閣下のお陰をもちまして、貝島家一族、末代までも万々歳でござりまする。」
 と、お礼の挨拶をし、帰直した。
 太助が、健次と太市に一族の女たちの東京見物をゆだねたのは、太助の三男健次は東京工業高等学校(現在の東京工業大学)、四男の太市は東京高等商業学校(現在の一橋大学)にかよい、東京の地理にあかるかったからである。
 健次と太市は、一族の女たちを、今日は宮城(皇居)、明日は上野、浅草、三越と明治維新以来急速に文明開化した東京を案内してまわった。
 明治四十二年当時の東京は、交通も便利になり馬車鉄道から、明治三十六年には東京電車鉄道が走るようになっていて、直方の和泉要助が発明した人力車が所せましとかけまわっていた。
 日本ではじめてのデパート三越(越後屋)は、明治三十七年に開業している。
 電灯は、すでに明治十八年に東京電灯会社(東京電力の前身)が開業していたが、貝島の社宅に電灯が引かれたのは大正元年のことであったから、はじめて直方の田舎から東京にでてきた一族の女たちにとって夜の銀座など、まるで昼間のように思われ、東京の文物は見るもの聞くものすべてが目あたらしく、文字どおりにまぶしいばかりであった。
 宮城では、遠くお堀のそとから日清、日露の戦役を勝利に導いた聖帝明治大帝を拝し、また浅草では、団十郎や菊五郎の芝居を見物した。
 銀座三越では、このころから輸入され始めたルージュやマニュキュアなど西洋の化粧品や化粧道具を買いもとめ、太助兄弟が艱難苦労のすえにきずいた貝島家の「守成」をことほいだのであった。
(守成とは、毛利家の祖毛利元就が、中国十か国を制してのち亡くなるとき、「天下を望むべからず。十ヶ国を保守し、守成をはかるべし」と遺言したときにいった言葉である。「守成」は、「三本の矢」とともに毛利家の家訓であった。毛利家の家臣であった井上馨は、毛利元就の遺訓にちなんで、貝島家の家憲にも「守成」という言葉をつかったのではなかろうか。)
 太助は、直方へ帰るとさっそく、家憲施行の準備にとりかかった。
 貝島鉱業合名会社から貝島鉱業株式会社への移行にあたり、諸規則の周知の徹底、貝島一族九家の邸宅の新築、一族会開催の準備と太助は多忙であった。
 喫緊の問題は、貝島鉱業合名会社から貝島鉱業株式会社への移行である。株式会社への移行まで一か月と少ししかない。
 まずは、「貝島鉱業株式会社定款」の登記をしなければならない。
 登記された「貝島鉱業株式会社定款」によると、第一章(総則)の第四条で、「當會社の本店は福岡縣鞍手郡直方町大字直方六百十四番地に設置す」とし、また第二章(資本及株式)の六条に、「當會社の資本金は金貳百五拾萬圓にして之を貳万五千株に分ち壹株を金壹百圓とす」とある。
 貝島一族九家とその家族に二万五〇〇〇株を分かち、その株は第九条で「株主は取締役會の承諾を得るにあらざれば當會社の株式を譲渡質入れすることを得ず」として、貝島一族九家とその家族以外の株式の所有を禁じている。
 また、貝島鉱業株式会社の人事は、
   取締役
   専務取締役 貝島太助
   常務取締役 貝島栄三郎(貝島太助の長男で、太助宗家相続人)
   常務取締役 中根 壽(井上馨から派遣された、貝島鉱業の目付役)
         貝島嘉蔵(貝島太助の三弟)
         
貝島栄四郎(貝島太助の二男で、六太郎本家相続人)
         金子辰三郎(井上馨から派遣された、貝島宗家家宰)
  監査役
         貝島六太郎(貝島太助の次弟)
         原田勝太郎(貝島鉱業重役)
         峠 延吉(貝島鉱業重役)
 と、陣容をととのえ、また一族の財産に関しては、「各種積立金に関する規則」、「財産分与規則」、「共用費規程」、「各家歳計豫算及拂渡規則」、「一族會事務所規定」、「寄付金支出内規」、「貝島各家住宅建築豫定額規程」等々の家憲の施行準備に多忙をきわめていた。
 貝島太助が合名会社から株式会社への移行に多忙を極めていたその矢先のことである。貝島鉱業の屋台骨をゆるがす大変災がおこった。
 明治四十二年十一月二十四日の貝島太助晩年最大の痛恨事である大之浦炭坑桐野第二坑のガス爆発事故である。
 当時、大之浦坑区(菅牟田、満之浦、桐野)の出炭量は一ヶ月約四万五〇〇〇噸ほどであったが、そのうち桐野第二坑は一ヶ月約九〇〇〇噸を出炭する優良坑であった。
 桐野第二坑は、平素から「ガス気」があったので、万一に備えて第一坑の坑口を第二坑の通気および資材や人員の捲卸のための斜坑として利用し、通気には充分の注意をはらっていた。
 また、保安設備は桐野に発電所をもうけ、三相交流一五〇キロワットの発電機をすえつけ、当時にあっては最先端のキャンブリアン式ロッキング安全灯をもちい、使用のダイナマイトも厳に坑夫の点火を禁じて電気発火装置を使用し、採炭箇所は下部より上部への掘進をさけて、ガスがたまるのを防止するという、当時においては最新の技術と設備でガス爆発に対して万全を期していたのである。
 貝島太助は、七つ八つのころから、父永四郎につれられて坑内に下がり、同じ坑夫仲間が天井の落盤や古い坑道からの水の突出、そして「ガス気」で死亡するのをしばしば見てきたし、また自らも何度か死にかけたこともあったから、坑内事故の恐ろしさは身に染みて知っていた。
 それ故に、太助は筑豊随一の炭坑主になってからも、時に坑内に入り、
「ご安全にな、安全第一ばい。命あっての二合半やきな。」
 と、坑夫や採炭責任者(坑内頭領)らに注意を喚起し、変災には気をつけていた。
(太助と坑夫や頭領らとの逸話に、次のような話がある。
 貝島太助は明治三十三年、次弟六太郎、三弟嘉蔵、太助の四男太市(井上馨の曾姪の婿ということで貝島鉱業合名会社の一員に加えられた)の四人で、貝島鉱業合名会社を設立し社長になるのであるが、創業時から太助のもとで働いている坑夫らは、社長の何たるかが分からない。太助のことを、相もかわらず、「親方!親方!」と呼ぶのである。
 太助のまわりのものが、
「今はもう、昔のヤマ(炭坑)とちごうて、貝島鉱業合名会社になっとろうが。会社で一番偉いとやき、社長たい。太助社長といわんかい。」
 と、何度も「社長!」と呼ぶように注意するけれども、創業時から太助と苦楽をともにした昔なじみの坑夫らは、相かわらず「親方!太助親方!」と声をかけるのであった。 太助は、
「よか、よか。わしゃ、昔も今もお前たちの親方たい。」
 といって、笑っていたという。)

 ガス爆発の前日には、福岡鉱山監督署の村沢技手ら二人が桐野坑に出張して坑内各部の点検をし、「通気に問題なく、ガス発生の箇所を認めない」と報告していたにもかかわらない、このガス爆発事故であった。
 貝島太助が帰直を急いだのも、七つ八つからカンテラさげて坑内にさがり、何度も生死の境をくぐりぬけ、また筑豊の大英雄となってからも浮沈をくりかえして今日の栄誉を得た太助であったから、太助特有の勘が働いていたのかもしれない。
 筑豊の「言いごと」に、「人は泥棒、明日は雨」という「ことわざ」がある。
(うかつに人を信用するとだまくらかされるし、明日は何が起こるかわからない。いいことがあれば、きっと悪いことがあるぞ)
 という、人の世のならいをまたも実感した太助であった。
 それ以前にも筑豊の炭坑では、大変災が頻発していたのである。
 明治三十二年(一八九九)の田川郡豊国炭坑のガス爆発での変災死二一〇人をかわきりに、三十六年(一九〇三)には筑豊の各坑内で火災が頻発し、大峰坑で六十五人、赤池坑で三十三人、二瀬坑で六十四人が犠牲となり、また桐野坑のガス爆発の二年前、明治四十年(一九〇七)には、豊国炭坑の再度のガス爆発で死者三六五人と、中小の変災は数しれず、大変災も頻発していたのである。
 それ故に、桐野坑も鉱山監督署から要注意炭坑に指定され、太助はくれぐれも安全確保に注意するよう、部下たちには命じていたのであるが、明治二年の鉱山解放令以来のタヌキ掘りで上部の石炭は掘りつくされ、深部へ深部へと掘り進んだ結果のこのたびの大変災であった。
 桐野第二坑の明治四十二年のガス爆発と大正六年に発生した二回目のガス爆発が、後々貝島の事業に大きな影響をおよぼし、太助の息子たちが事業を継承したその後の事業の展開に大きな負い目をもたらすことになる。
 少し詳しくそのガス爆発の模様とその後の処置を検証してみたいと思う。

 明治四十二年十一月二十四日午前三時、いつもとかわりなく一番方の坑夫が坑内にさがり、桐野坑ではいつもの通り時がすぎていた。
 九時五十分、突然坑内より白煙がふきだし、桐野一帯に「ドーン」という砲声のような爆音がひびいたという。
 三分ほどして白煙はきえたが、異臭が坑口をおおっていた。坑外事務所から坑内に電話をするが応答がない。
 大之浦の一帯に、非常を知らせるサイレンが鳴りひびいた。
 桐野第一坑の坑内詰所に電話をし、ただちに第二坑と連結している右一片(捲卸から右側へ掘られた一番目の坑道)に連絡して応援するように命じ、桐野第二坑の坑口からは役員その他救護隊が坑内に突入すると、坑口から約三百間(五四〇メーター)の坑内詰所付近に約二十名の負傷者がいた。
 負傷者を、第一坑からかけつけた救護隊とちからをあわせて坑外に救出し、さらに奥へと進み、五十八名の死傷者を収容した。
 さらに前進して、右一片、右二片および捲卸の三手に救護隊を派遣したが、通気が悪く前進出来なくなった。
 救護隊は前進を休止し、爆風で破損していた扇風機を応急修理し、通常五十五回転を七十回転まで上げてガスをさかんに排除し、二十五日午後十二時までに総数一四三名の死亡者を収容した。
 奥に進むほど通気がわるくなり、右一片の捜索を一旦中止し、もっとも多くの坑夫を繰りこんでいた捲卸および右二片の収容に全力をそそぎ、二十七日までに捲卸方面の死亡者収容を終え、右二片部分も順次深部にむかって捜索し、二十九日その全部の収容を終わった。
 左一片、右一片そして左三片の一部は落盤がはげしく、すぐには収容できないので、この方面の前進を一時休止し、ふたたび右一片にむかって捜索をおこない、十二月一日にはこの方面の遺体収容を完了した。
 この時点で、まだ十七名の遺体が坑内にはのこっていたが、煽風機を修理して通風を確保し、また落盤箇所の整備をしないと遺体の収容ができない。やむなく捜索を一時中止し、十二月三日、早朝より再度救護隊を組織し、右一片、右二片の未収容者の捜索をはじめ、五日、九日の両度に二名を収容し、さらに捜索をつづけ全員の収容が終わった、という。
 ガス爆発当日の入坑人員は役員十八人、坑夫二七二人、合計二九〇人で、死体で収容された者二五六人(内役員十三人)、病院に収容後死亡した者三人、病院に収容し全治した者三十一人(内役員五人)であった。

 その日、太助は病後を養って、直方の自宅にあった。
 桐野に前日より出張していた上野栄太郎から専用電話(明治三十二年七月架設、延長七十四km)で、ガス爆発の報せを最初にうけたのは栄三郎であった。

栄三郎は、自分がすぐに桐野にむかうことをつげ、爆発の規模も詳細もわからないし、病後の父を無為に驚かせ病気がぶりかえしてもよくないと、ひそかに夫人ハナに命じて非常服を準備させた。
〈屋敷内がどうもさわがしい。何事か〉
 と、不審に思った太助は、自室をでて栄三郎のもとへ行くと、栄三郎が非常服に着替えていた。
「桐野で、何かあったとか。」
 と、太助が問うと、栄三郎は、
「桐野坑にちょっとした事故が起こっておるみたいです。父上の心をわずらわすほどのことではありません。詳しくは現場を見てから、父上に報告致します。」
 と、答えた。
 生涯を石炭掘り一筋に生きてきた太助である。栄三郎の顔色を見れば、ただ事ではないとすぐに分かった。
 太助は、瞑目し沈痛な面もちで、
「嗚呼、またガス爆発か。死傷者はどれほどやろか。死傷者が少ないといいが、それを祈るばっかりじゃ。」
 といって、救護、その他の処置について、なすべきことを栄三郎にいい含めて、栄三郎を送りだし、太助も桐野に駆けつける身支度をした。
 太助は、駕籠を前後三人ずつにかつがせ、早がけさせた。
 当時直方から宮田村桐野への道は、殿町の太助邸からは、新町の堀三太郎邸の横の細道から、二字町にいたり、百合野、鶴田、本城を通る直方から宮田への道が通じていたから、その道を駆けに駆けさせた。
 太助は桐野につくや、菅牟田、満之浦、大辻、津波黒、岩屋の各坑に救護隊を送るように命じた。
 そして栄三郎には坑外総監督を、栄四郎には坑内総監督を命じ、六太郎、嘉蔵、中根寿、原田勝太郎らの各重役、健次、太市、定二、亀吉、百吉らそれぞれに屍体の処置や葬儀の準備、遺族や孤児の世話、救護や助っ人の総勢一五〇〇人の炊きだし等々、それぞれに事務を割りあて、貝島家の一族郎党不眠不休で働いたという。
 また、栄三郎の夫人ハナ、栄四郎の夫人イソノ、健次の夫人タケ、太市の夫人フシら一族の女たちも総動員で、炊きだしに、そして遺族の世話に働き、また屍体が坑外に続々と運ばれてくると、煤と炭塵で真っ黒の顔や五体を、「オン、オン」泣きながら浄水で洗い清め、そのあと綿で全身をつつみ、納棺して哀悼の意をあらわしたという。
 貝島太助の変災後の事後処置として、特筆すべきことの一つは、孤児らの扱いであろう。
 というのも当時の炭坑では、夫婦や目と目が合って意気投合した男と女が一先(先山と後山、二人一組)となり、男は石炭を掻きだし女が運ぶという共稼ぎをしていたから、桐野二坑のガス爆発でも父母を一瞬にして亡くした子供が大勢いた。
 太助が、大之浦尋常小学校長や教員を各納屋に派遣して調べさせると、孤児となった者は、男女三十四人を数えた。このうち八人は親戚の引取り手があった。
 太助は、孤児ら二十六人を大之浦尋常小学校の近くに新設した養育所に保護し、校長以下教員に保育をゆだね、また貝島家や重役の夫人らを孤児らに付き添わせた。
 そして、物の本によれば、
「彼及び彼の一族挙って自家幼児の被服を剥ぎ去りて之を彼等に与へしのみならず、彼等の嘗て口にせしことなき滋養を侑め、以て大に愛憐の情を垂れ」、「楽器を奏し、玩具を与へ、絵画(絵本)を示めし、伽話を為して、日夜彼等の寂漠を慰めし」
 と、ある。
 また、孤児(一歳〜十四歳)ら二十六人は十五歳に達するまで、太助が学校に通わせて保護し、生計の途を立てさせ、あるいは成長して貝島に残りたいという者には、貝島において適当の職業を与えた。
 さらに、遺族の中の男六十歳以上、女五十歳以上の老年者で、行くあてもなく炭坑を離れることを望まない者には、養育所で孤児の世話をさせて手当を支給し、終生保護したという。ここに、貝島太助の貝島太助たる所以があった。
 他の炭坑にも大災害があり、またそれぞれに災害時の規定があり、規定通りに処理は行われたであろうが、太助の孤児への扱いには、同じ坑夫仲間であった者としての至誠があり、殉職した死者への赤誠を示すものがあった。


以下、明治四十二年から昭和十二年まで、貝島太助の息子達の事業の継承と事業の展開を書いています。
 拙文ではありますが、つづきは拙著『貝島炭坑の物語(参之二)』をお読みいただければ幸いであります。
(福田康生拝)




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筑豊の本シリーズ・取り扱い書店
<宮若市> 佐野書店、Aブック(宮若店)
<直方市> みやはら書店(殿町店、駅前店)、いいの弘文堂
<飯塚市> 紀乃国屋書房(本町)、Aブック
<田川市> ブック・ワーム、明屋書店(川崎店)、田川市石炭・歴史博物館
<北九州市> ブックセンター・クエスト、白石書店、朝日屋書店、火野葦平資料館・河伯洞
<福岡市> 紀伊国屋書店(福岡博多駅前・本店)、丸善(福ビル店)、金進堂書店(原田店)