『貝島太助傳(天之巻)』
(明治43年 辰巳豊吉著)
編 著 福田康生
住所 福岡県宮若市宮田4582
TEL 0949−33−1843
発行者「自分史図書館」・福田康生
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A5版・200P・ハードカバー
定価 2000円(税込)
序
謹(つつし)んで案ずるに、家厳(かげん=父太助の謂)身を寒素に起し、備(つぶ=詳細の謂)さに人生の艱難苦楚(かんなんくそ=困難や苦しみの謂)を嘗(な)め、以て家を興し業を啓(ひら)き、我が貝島家の子孫をして其恵沢(けいたく=恵沢の謂)に依(よ)らしめたまふ。蓋(けだ)し、家厳が轗軻(かんか=志を得ないの謂)落塊(らくはく=落ちぶれるの謂)流離(りゅうり=あてもなくさまようの謂)困頓(こんとん=困り果てるの謂)の間に処して、終始一貫、此(ここ)に克(よ)く異常の成功を遂(と)げたまひし歴史は、我等子孫の感激服贋(ふくよう=心に留めて忘れないの謂)して永く後昆(こうこん=子孫の謂)に箴(いましめ)を垂(た)るべきもの也。
不肖栄三郎、齢少ふして家厳の立志企業の事蹟を耳にするや、往々感涙を催(もよ)ふせしことあり。今を去る二十年前祖母種子在(いま)すとき、心に窃(ひそ)かに思へらく、試みに家厳の閲歴を探討して之を記録に留めなば、我等子孫の修身斉家(しゅうしんせいか=身を修め家を治めるの謂)の羅針たるのみならず、更に後世貝島家の血を分ち統を紹くものをして、人生の行路に燦然(さんぜん)一条の明光を認めしむべしと。
為めに爾来(じらい)之を探討し蒐集(しゅうしゅう)するに力を尽くしたり。明治二十八年、初めて家厳成功の梗概(こうがい)福陵新報に掲げられ、次で其事蹟の断片都鄙(とひ=都会と地方の謂)の新聞雑誌に記るされ、越へて三十六年、高橋光威氏の『貝島太助成功談炭礦王』なる小冊子刊行せらるゝあり。
爾来猶(な)ほ頻々(ひんぴん)として世上に相(あい)伝へられたりと雖(いえど)も、悉(ことごと)く是れ零聞瑣語(れいぶんさご=つまらないの謂)たるを免れず、甚(はなは)だしきは事実の錯誤(さくご=間違いの謂)せるものありて、未(いま)だ以て家厳其人の真を写し実を挙げて全(まった)きを得ず。
是に於てか、予が家厳の伝記輯録(しゅうろく=集めて記録するの謂)の念層倍熱切となり、即(すなわ)ち(一)家厳の立志企業(りっしきぎょう=志を立て事業を始めるの謂)の事蹟たるや、我等一代の子孫之を知悉(ちしつ)するを得(う)と雖も、二代三代を経て後世の子孫に及(およ)ばんか、時変(かわ)り世転じて漸(ようや)く記臆を消磨(しょうま=すれてなくなるの謂)し去るの虞(おそれ)あるが故に、今より家厳の正伝を編纂して、後裔(こうえい=子孫の謂)をして長(とこし)へに父祖の志業(しぎょう=事業に志すの謂)を追憶せしめ、以て家運を維持し一門の繁栄を計(はか)らしめざるべからず。(二)其之を冀(こいねご)ふて而(しか)して之を遂げんには、世上に流布(るふ=広がるの謂)せる家厳に関する誤伝謬記(ごでんびゅうき=誤りを伝え間違いを記すの謂)を是正し、後裔(こうえい)をして依(よつ)て以(もつ)て一に之に則(のっと=手本とするの謂)らしめ、感激の涙、謝恩の心を深からしめんが為め、貝島家の家乗(かじょう=一家一族の歴史)たらしむべきものあらんことを希(ねが)ひ、遂に之が編纂に従事すべく決意するに至れり。
夫(そ)れ然(しか)り。然りと雖も、之が編纂上最も困難を感ぜしは其資料の蒐集(しゅうしゅう)に在りて、直接家厳に尋(たず)ねんか、家厳の寡黙なる何事をも詳(つまび)らかに告げ給はず、間接各個の記録に徹せんか、之を究(きわ)むべきもの甚(はなは)だ稀(ま)れなり。或は阿母(あぼ=お母さんの謂)に聞き或は叔母(おば)に質(た)だしたりと雖も、その語りたまひしところ皆な家厳事蹟の一端に過ず。家厳が興家成業(こうかせいぎょう=家を興し事業に成功するの謂)の素因(そいん=根本的な原因の謂)及び心事に至りては、固(もと)より悉(ことごと)くすこと能(あた)はざるを如何(いかん)せん。
而して更に之を故老に問ひ、旧知に尋ねしに、其述ぶるところ甲乙相異なり丙丁復(ま)た斉(ひと)しからず。されば、家厳の生涯に於る各方面に捗(わた)り、縁故あり関係あるものは、其階級の上下、身分の貴賤如何を論ぜず、一々就(つき)て談話を求むること、数十百人の多きに上(の)ぼり、仮令(たとえ)片言隻話(へんげんせきわ=言葉の一部分とちょっとした話の謂)と雖も、之を蒐集して細大漏(もら)さず、之を綜合判断し、而して取捨(しゅしゃ)排列に勉(つと)めたり。蓋(けだ)し是れ事務の繁劇中に於てせしものにして、予が終始肝胆を砕き心血を濺(そそ)ぎしこと、殆(ほと)んど形容し難し。
此くて明治三十七年、青木広太郎氏に托し、始めて『貝島太助伝』の編纂に従事せしめしが、青木氏拮据(きつきょ=忙しく働くの謂)淬励(さいれい=励み務めるの謂)専ら鞅掌(おうしょう=仕事が忙しくて暇がないの謂)すること一箇年、不幸病に罷(かか)りて逝(ゆ)き、資料の蒐集(しゅうしゅう)は筆硯(ひっけん)と共に中途廃絶するに至り、予久しく以て遺憾と為せり。
越へて四十一年八月、家厳宿痾(しゅくあ=持病の謂)を東京に養ひたまふや、予阿母等と相随ふて奉侍す。偶(たまた)ま旧知辰巳豊吉氏逓信大臣秘書官を辞して一(もっ)ぱら新聞事業に従事せしかば、予は諮(はか)るに『貝島太助伝』の完成を以てせり。
辰巳氏青木氏の事業半ばにして放棄せる草稿を見、且つ山積せる資料を検(けみ)して、予と感を同じくし、忽(たちま)ち之が完成の衝(しょう=大事な任務)に当らんことを快諾せられ、一方に資料の探討に努め、他方に草稿を補修し、孳々汲々(じじきゅうきゅう=努力を重ねるの謂)として倦(う)まざりしなり。
然るに、翌四十二年に及び、『貝島家家憲』の制定漸(ようや)く成らんとするや、侯爵井上馨閣下徐(おもむ)ろに命じて曰く、『太助の閲歴は、真に家憲の精神にして、両者相待て治産斉家の基礎を為すものなり。故に太助の伝記を編成して家憲と共に永く貝島家一族会に遺すべし』と。
家厳伝記の編纂は為めに千釣の重さを為し、久しく緘黙(かんもく=口を閉じて何も言わないの謂)して語らざりし家厳に対しても、今は進んで之を質(た)だし、以て従来の資料の誤謬(ごびゅう)を訂正するを得しのみならず、同年夏、辰巳氏特に速記者を伴(ともの)ふて来り、肥前古湯の温泉に静養中なる家厳に面接して詳細に其閲歴を徴(ちょう=照らし合わせるの謂)せしかば、此に漸(ようや)く遺憾なく『貝島太助伝』の資料を網羅し、乃(すなわ)ち潜心研鑽の労を積みつゝ遂に之が完成を告げたり。
鳴呼、『貝島太助伝』に対する予の苦心努力、実に二十箇年の久しきに至りて相(あい)報(むくい)るを得たり。是れ豈(あ)に独り不肖栄三郎の光栄ならんや。苛(あたか)も家厳の志業を思はば、我等子孫にして誰か感謝の熱涙を以て報恩の赤誠(せきせい=真心をもって接する心)を捧げざらんや。夫(そ)れ『貝島太助伝』は千秋万古に活(い)ける家厳其人と撰(えら)むところなし。
即ち朝に之を誦(しょう)し夕に自ら省(かえり)みなば、子々孫々永劫に奮励し努力し、毫(ごう=すこしの謂)も父祖の志業と違(たが)ひ家門の名声を傷(きずつ)くべけんや。
明治四十三年仲夏於貝島家発祥之地
貝 島 栄三郎
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