吉見百穴(よしみひゃくあな) その他

埼玉県、東松山市の隣の比企郡、吉見町に古代人の墓穴群があるということで、チョット気になっていた、今回自分の所属する山岳会の忘年会が、群馬県の湯檜曽で行われるということで、ついでに気になってた墓穴群を見ておこうと思い、出かけてみた。

事前に調べたところによると、その墓穴群は吉見百穴(ヨシミヒャクアナと読む、ヒャッケツではない)と言うらしく、他にも周辺にワイルドに放置されている墓穴群があると言う。
更に調べると、近くにポンポン山と言う歩くと音のする山があるらしい。
全部まとめて見てみたい。

川崎よりずっと下道で東松山まで、R254から看板に導かれるまま吉見百穴へ、迷う事無くたどり着く。

入り口にある案内板
吉見百穴が認識されていたのは江戸時代ぐらいからで、その頃から百穴と呼ばれていたらしい。
その後、明治に入り発掘調査され、その時は、コロボックル人の住居を後に墓穴として利用したものと分析された。
しかし、大正に入り、まともに考古学的に考えられ、縄文時代後期に、初めから墓穴として利用されていたと判明した。
第二次大戦の後期に軍事工場として百穴に地下軍事工場を作ったが、機械類を運び込み、本稼動を前にして終戦したらしい。

いろんな意味で歴史が刻み込まれた土地のようだ。

吉見百穴を見学するのに大人\200支払い、入場する。

いきなり穴だらけの斜面が迎えてくれる。
私も、違う意味で墓穴を掘るのは得意だが、墓穴群ともなると迫力が違う、格の違いを見せつけられた。


墓穴の入り口、現役時代は蓋がしてあるものらしい。


墓穴の内部、右のベットの様な所に死体を安置したようだ。
横穴式の墳墓は縦穴式の古墳と違い、追葬が簡単に行えることにより、古墳時代の後期に見られるものらしい。
このベットは1人用ではなく、後で亡くなった人も一緒に安置したらしい、一家に1穴と言う感じか、もっとも墓穴を持てる家はそこそこの権力者ということ!‥貧乏人に墓穴なし‥いつの時代も同じか。
ちなみにベットは片側だけの物と、両側にある物、奥にある物と、色々だ。

百穴は小さい山になっており、急斜面に掘られた階段を少し登ると頂上に出る。
頂上には売店があるようだが、閉まっていた。

山を降り、地下軍事工場を見る。

実際見れるのは、入り口付近のほんの一部だが、数百メートルの規模で掘られている。
軍事工場の面影は全くなく、手彫りの地下通路といった佇まい、送電用のガイシなんか残ってると雰囲気でるのだが。

その他、ヒカリゴケの生える穴があり、中で苔が光っていた。

これは、苔が光っているのではなく、外の光を反射して光って見えるタイプ。



吉見百穴を後にし、もう一つある墓穴スポット黒岩横穴墓群へ向かう。
百穴のすぐ近くだが、チョット分りにくくバイクでウロチョロした。
八丁湖という溜池がある公園内に黒岩横穴墓群はある。公園の中を散歩がてら歩いて見に行く。

発掘されていないので、百穴と比べるとほんの少しだけと言う印象、実際穴が見えるのは、この画像のところだけである。
しかし、未発掘の穴が5百程あり、規模は吉見百穴より遥かに大きいらしい。

そこでチョット疑問、吉見百穴と黒岩横穴墓群を合わせると700基ぐらいになるけど、権力者が700世帯いたと言う事は、それを支える貧乏世帯はその何倍もいた事になる。大和朝廷の初期に、当時は埼玉辺りは物凄い辺境だったと考えられるが、700世帯も権力者がいたとは、けっこう大規模な街だったのではないか?考えがたいものがある。
さらに、ここには何らかの形で人が住み続けていたはずなのに、何で穴の事を忘れてしまうのか、いつ忘れられたのか‥疑問はつきない、いっそ本当にコロボックル人の住居だったら物凄く面白いんだけど‥コロボックル人て何者だ?

気持ちの良い公園を後にして、ポンポン山へ。
ポンポン山は黒岩横穴墓群から近く、徒歩15分ぐらい、山というよりは高台の末端と言う感じで、高彦根神社の裏にある。神社の裏の岩が露出した辺りを強く踏むと、たしかにポンポン音がした。
しかし、これは岩場に行けば割と良くあることで、とりわけ珍しい事では無い。
この山から見れる景色は結構印象深いものがあり、丘としてもかなり小さなものだが、青い空と平野の風景がとても気持ちが良い。

ポンポン山からの展望。
この時は、ジジババの大部隊がいてガヤガヤとメシを食っており、かなり興ざめだった。


吉見町界隈のスポットは12月頃の初冬がベストシーズンだと思った。
この他にも、印象深い風景が数多くあった。平野の風情を残す所はあまり見かけないので、吉見町は貴重な存在だ!私は気に入りました。

以上

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