久留倍遺跡周辺文化財巡り

四日市市公式サイトの 「久留倍官衙遺跡」 のページに、
「くるべ遺跡周辺ぶんか財スポットMAP」 が載っていましたので、その史蹟を廻りました。

 01.蒔田城跡

築城は文治年間(1185-90)、蒔田相模守宗勝による。
四日市市蒔田の、浄土真宗本願寺派 朝明山長明寺が城跡です。

 

鯉が泳ぐ堀川に囲まれた、優雅なお寺です。


 02.冨田の一里塚跡

 
        東海道 冨田一里塚                 美濃路 冨田一里塚

江戸時代の東海道の一里塚の1つで桑名宿と四日市宿の中間に位置しました。

美濃路の冨田一里塚(愛知県一宮市)は、国指定史跡で、原形を留めていて道の両側に塚があり、榎が生い茂っていますが、
こちらは三重県指定史跡で、1本の石碑が立っているだけです。


 03.聖武天皇社

四日市市松原町にあり 「万葉史跡と聖武天皇社」 として四日市市の指定史跡になっています。

祭神は聖武天皇で、境内に佐々木信綱の書による聖武天皇の御歌を刻んだ歌碑が立っています。

「妹に恋い吾がの松原見渡せば潮干の潟に鶴鳴き渡る」(万葉集)

 

 

聖武天皇は、天平十二年(740年)に伊勢行幸をしました。
この時に泊まった朝明頓宮の跡地に、聖武天皇社は創建されたと伝えられます。

そうすると、朝明頓宮は、松原町にあったという事になりますが、
久留倍官衙遺跡の発掘調査により、朝明頓宮=久留倍官衙の可能性が高まりました。

 
           石喰松                         中央 力石

石喰松には 「石に踏まれ 意志を喰い 今日も伸びゆく 黒松の一生」 の歌が添えられています。


 04.旧東洋紡績褐エ綿倉庫

大正7年に建設された、煉瓦造仕上げのこの倉庫は、国登録建造物です。

 

以前は、四日市市富州原町のイオンモールの敷地全体が東洋紡績の富田工場でしたが、
現在は、この原綿倉庫のみが残されています。


 05.富田城跡

四日市市東富田町の富田幼稚園・小学校が城跡ですが、その影は有りません。

 
           富田幼稚園                      富田小学校

富田城の前身は、三日平氏の乱の折、伊勢平氏の一党、進士三郎基度が築きました。
文安3年(1446年)に甲斐源氏の、南部修理太夫頼武が信州がら移り住みました。
永禄年間(1558-1570年)に、織田信長の北勢侵攻により滅ぼされました。

 <三日平氏の乱>

鎌倉時代初期の元久元年(1204年)4月10日〜12日、三日間でけりが付いた伊勢平氏最後の反乱。


 06.富田の一本松

東富田町の国道1号が十四川をまたぐ手前南側にあります。

 

石碑の碑文

永禄三年、茂福合戦のとき神戸軍 同十一年滝川軍の上陸目標となる 
安永九年 富田大火にも類焼せず 瑞祥の松として崇められ また内海航路の目印となる
富田民の心のふるさとの神の松も 永年風雪に耐え 樹齢七百年を経て枯死する
ここに往時を偲び 史跡として永久に記念し 後世に伝えるためこの碑を建てたものである

茂福合戦とは、永禄三年(1560年)に行われた、羽津城の田原氏と茂福城の茂福氏の戦争で、
鈴鹿の神戸勢の援護を受けた茂福氏が勝利したとされます。

また、山口誓子の句碑も立てられています。

「町なかの 昔の松の 春の暮」


 07.茂福(もちぶく)城跡

四日市市茂福町の茂福神社の西、近鉄線の手前に城跡碑が立っていて、
その奥に小振りの城山が築かれ、神木の梛(なぎ)が植えられています。
この場所は茂福城の主郭の北西角でした。

 

応永28年(1421年)越前朝倉より摂津守政平が、この地に来て城を築きました。
永禄10年(1567年)三代目城主、茂福掃部輔盈豊(もちぶくそうぶのすけみつとよ)が、
織田信長の家臣、滝川一益に伊勢長島で謀殺され、同時に茂福城も落城しました。


 08.志氏(しで)神社

四日市市大宮町羽津田

 
            南鳥居                          西鳥居
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祭神 気吹戸主神(いぶきどぬしのかみ)
配祀 伊邪那岐(いざなぎ)命 伊邪那美(いざなみ)命

御由緒

当社は垂仁天皇の御代の鎮座にて高野御前と称へ奉られ「志氏」の名は天武天皇が
皇子であられた頃 壬申の乱を避け吉野から鈴鹿を経て桑名への途次
迹太川(とほかわ)の辺で伊勢の神宮を望拝されたことに起因しています

シデとは御幣のことで天皇が四方に幣を班ち
祓の神 気吹戸主神をお祀りし禊祓をなされた
御跡を斎い奉れる神社であります

天平十二年聖武天皇が此地方への行幸の時に
丹比屋主真人(たぢひのやぬしのまひと)が当社で詠んだ歌が万葉集にみえます

「後れにし 人を思はく 四泥の崎 木綿取りしでて さきくとぞ念ふ」

当社境内古墳は前方後円墳で前漢時代の鏡
車輪石などの出土品により四世紀頃の高貴な方の
墳墓と推定され北勢随一の大古墳であります

平安時代の延喜式にあげられ代々藩主の崇敬の
念篤く御神威は遍く光被じて北勢の名社であります

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神社の西の鳥居から入ると左側に 「従是北桑名領」(これより北は桑名藩の領地) の傍示石が立っています。
その反対側には、村田青麦の 「行く雁を 送りて立てり 鎌ヶ岳」 の句碑があります。

 
           傍示石                         青麦 句碑

そして妻恋稲荷神社が続きます。
御祭神 日本武尊 弟橘媛命 倉稲魂命 伏見稲荷大神 外
東京都文京区の妻恋稲荷神社の分社です。

 
           妻恋稲荷神社                    橿原神宮遥拝所

境内には 「橿原神宮遥拝所」 「万葉旧跡 四泥能埼」 「皇大神宮遥拝所」 などの石碑が立ちます。

 
         万葉旧跡 四泥能埼                   万葉 歌碑

  
         皇大神宮遥拝所                    明治神宮遥拝所

神社近くの金属リサイクル業者の方から奉納された、昭和18年6月8日に瀬戸内海柱島の沖合で、
不測の爆発により自沈した、戦艦陸奥の第三砲塔の破片が目を惹きます。
戦艦陸奥は、敵に一発の砲弾も打つこともなく沈みました。

 
           陸奥の破片                              戦艦陸奥

広島県呉市 大和ミュージアムの屋外、レンガパークに、
戦艦陸奥の主砲身、スクリュー、主舵などの引揚品が展示されています。

 「大和ミュージアム・レンガパーク」

<志氏神社古墳>

神社境内に、前方後円墳があり、前方部は社務所となっていますが、後円部は直径30m・高さ5.3mの丘陵になっています。
この丘陵の裾部が直線状となっていることから、北勢町の麻績塚古墳や、大安町の宮山遺跡と同様の、前方後方墳の可能性もあります。

 
        石碑後方が古墳                      陪塚の石碑                    

埋葬者は、第5代孝昭天皇(こうしょうてんのう 紀元前506年?〜紀元前393年?)との伝説があります。
また、この古墳の周辺には、陪塚(ばいちょう)が有ったとされていますが、
現在は神社東側の住宅地に 「志氏神社古墳」と刻まれた石碑が一基残るだけです。

(陪塚=大型の古墳とともに古墳群をなす小型の古墳)


 09.大膳寺跡

所在地は、南いかるが町で、マンションの駐車場に隣する畑の中に石碑が立っています。

斑鳩山大膳寺は、天延2年(974年) 覚鎮により開基された天台宗の寺院です。
延徳年間(1489〜1490年) 蓮如上人の教化により、第16代円爾は大膳寺を出て、
浄土真宗に改宗し起こした寺が 「斑鳩山浄恩寺」 です。

大膳寺は、第21代空源のとき、織田信長勢により滅ぼされ焼失しました。

 
        史蹟 大膳寺跡                     斑鳩山 浄恩寺

昭和52年から56年まで発掘調査で、平安時代の瓦や土師器などが出土しました。


 10.伊賀留我(いかるが)神社

県道64号をまたいで250mくらいのところに、同じ名前の神社があります。

この地は古来 「鵤(いかるが)村」 といいましたが、寛永年間に村が南北に分かれた際に、
南鵤村にも同じ名の神社が創建され、新旧二社が併立するようになりました。

「いかるが」 の地名の由来は、古代法隆寺の寺領であったからといわれています。
「斑鳩」 と 「鵤」 は同じで、スズメ目アトリ科の小鳥のことです。

南の伊賀留我神社の地名は、四日市市羽津で、祭神は天照大御神荒魂。
(荒魂=荒々しく活動的な作用をすると考えられた神霊)
元伊勢で、糠塚山の天武天皇社を合祀。

北の伊賀留我神社は、四日市市茂福で、祭神は大日霊貴命。
(大日霊貴命は、天照大神の別名)

 
        南の伊賀留我神社                  ■鵤村と記された石碑

この神社の西100mほどの 「斑鳩山 浄恩寺」 の、法隆寺の夢殿に似た八角円堂 「聖徳太子堂」 は、
明治2年に、四日市市西富田町の三光寺より移設されたものです。
また本堂裏の糠塚(ぬかづか)山の山頂に 「天武天皇神宮御遥拝所」 の石碑が立ちます。

糠塚山の山頂は 「糠塚古墳」 で、またこの山の 「死人谷(しぶとだに)」 という所に、
「死人谷古墳群」 があります。

 
          聖徳太子堂                    天武天皇神宮御遥拝所 

北の伊賀留我神社の北数十m先、十四川を渡ったところに 「天武天皇迹太川御遙拝所跡」 があります。
壬申の乱の際、大海人皇子(後の天武天皇)が、朝明郡迹太川(とほかわ)のほとりで、
戦勝祈願のため天照大神を遙拝した場所とされ、県指定史跡となっています。

遙拝所跡すぐ西の三叉路を北へ廻り込むと南側に 「元伊賀留我神社跡地」 の石碑が立っています。

 
         北の伊賀留我神社                 元伊賀留我神社跡地


 11.耳常神社

四日市市下之宮町にあり、延喜式内社で、耳利(みみとし)神社を合祀しています。
祭神は、神武天皇の第二皇子、神八井耳命(かむやいみみのみこと)です。

 

本殿に馬に乗った兵隊さんの絵が2枚奉ぜられていました。


 12.長倉神社

四日市市大矢知町の延喜式内社で、桜神社、斎宮神祠などを合祀、祭神は應神天皇です。
創祀年代や由緒は不詳ですが、斎宮神祠(いつきのみやしんし)は、天武天皇迹太川御遙拝所跡にありました。

 

 

境内に 「宮城遥拝所」 の碑が立ちます。
宮城遥拝所は、「きゅうじょうようはいじょ」 と読み、皇居遥拝所と同じです。

この神社のすぐ南側が、久留倍官衙遺跡ですので、同時代に存在したのかが気になります。


 13.久留倍官衙遺跡

国道1号北勢バイパス工事にあたり、平成13年からの発掘調査で、奈良時代を中心とした掘立柱建物の跡が多数確認され、
政務を執り行った中枢施設である政庁や、租税として集めた米などを保管した正倉院があったことが分かりました。

このことから、久留倍官衙(くるべかんが)遺跡は、伊勢国朝明郡の役所跡だと考えられています。
大海人皇子の壬申の乱(672年)や、聖武天皇東国行幸(740年)との関係もありそうです。
(官衙=役所や官庁があった場所全体)

場所は、四日市市大矢知町の北勢バイパス 「久留倍遺跡北」 の南西部の高架下一帯で、
南東部の柵に案内板が立っていますが、雑草が茂り内部の様子は覗えません。

 

 

長倉神社側へ廻り、「あおい幼稚園」 の東にあるお墓の辺りから、発掘調査された部分が見て取れます。
平成29年4月に史跡公園がオープン予定となっています。

<四日市市公式サイト 国指定史跡 久留倍官衙遺跡>



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