| 昭和50年2月 | 国電東中野駅近くで信号待ちしている時、創立者松石俊男は、多少大きめな荷物を持った年配の女性が、タクシーに乗ろう
としても何度も乗車拒否されている光景を見た。「困っている人を前に何故乗せてやらないのか?」と憤りとやるせなさを感じ
た松石は「この大都会ではあのようにタクシーに積めない小荷物の運搬に困っている人は多いはず。何とか手助けできない
ものか」と軽トラックを使用した運送業を思いついた。義弟、鈴木将之を誘い、その知人の堀籠孝志の3人で行動に移る。 |
| 昭和50年5月12日 | 記念すべき最初の赤帽車が誕生。第1号車は富士重工業鰍フスバルサンバーを導入。登録NO「練馬40り・・・6」だった。 |
| 昭和50年5月 | 赤帽車の全国普及を目指し東京都練馬区平和台2-21-11に九尺二間のたった4坪の事務所を開設。仲間集めに奔走。 |
| 昭和50年9月 | 東京で同士28人による任意団体、「赤帽軽自動車運送組合」を結成。 |
| 昭和50年11月 | 秋葉原駅近くの千代田区岩本町に「共同配車センター」を設置。 |
| 昭和51年4月23日 | それまでの任意組合を解散。正式に「赤帽軽自動車運送協同組合」を発足(現、赤帽首都圏軽自動車運送協同組合)。参加組合員総勢30名。初代理事長は松石俊男。
副理事長には堀籠孝志が就任。 |
| 昭和51年7月12日 | 事業協同組合の設立認可。軽運送業の団体としてわが国初。「76東陸自2貨2第1087号」 |
| 昭和51年5月 | 軽自動車構造基準が改正され、排気量が360CCから500CCに増大した。 |
| 昭和52年3月 | 赤帽車を全て「スバルサンバー」に統一。第1号車から30台までは各自動車メーカーをすべて使用したが、1日500キロも走る
過酷な使用に耐えられるのは富士重工業鰍フスバルサンバー以外にはないという結論に達したのが理由だった。 |
| 昭和52年 | 軽自動車構造基準が改正され、排気量が500CCから550CCに増大した。全国に赤帽組織の創設ラッシュが起こった。 |
| 昭和52年6月9日 | 江東区冬木21-16に事務所及び配車センターを移転した。敷地46坪、述べ床面積70坪の本格的な施設だった。また、この年
6月までに沖縄県を除く全エリアに赤帽支部が組織され、組合員1,080人、赤帽車1,190台の全国組織に急成長した。 |
| 昭和52年7月 | 業務用無線の免許が、本部と世田谷と多摩にそれぞれ1局づつおりた。
「いつでもどこでも荷主の要望に応える」ためだった。システム導入の為の投資額もばかにならなかったが、
試験的に東京圏で動かしてみたところ効果は抜群だった。
その後、埼玉、神奈川、千葉、大坂、福岡なども続いた。 |
| 昭和52年8月 | 全国の各支部が「協同組合設立」を指示された。 |
| 昭和52年 | 末までに山梨県、北海道、長野県、関西(兵庫含む)、北陸(石川、福井、富山3県)の5支部が協同組合化に成功した。 |
| 昭和53年2月16日 | 「全国赤帽軽自動車運送協同組合連合会」の創立総会が群馬県伊香保で開かれた
8単組と35支部の代表が集まり、松石俊男が会長に選ばれた。 |
| 昭和53年8月17日 | 全国赤帽連合会に、当時の福永健司運輸大臣より正式に認可がおりた。認可に尽力してくれた運輸省自動車局長、
梶原清氏(のち参議院議員、故人)の書額が、前の東神田本部ビルの連合会会長室に飾られていた。 |
| 昭和54年7月14日 | 全国赤帽連合会第1回通常総会が札幌市・定山渓ホテルで開催された。この時点で全国都道府県にあますところなく支部を設置し、
支部数は45となる。内32支部が協同組合として認可され、登記完了していた。赤帽の全国組織展開は完全に軌道にのった。 |
| 昭和54年10月1日 | 「赤帽1万人規模増員キャンペーン」を開始。実施期間は56年9月30日までの2年間とした。「全国47都道府県人口1万人に対して1人」という目標を掲げ取り組む。
全国の加入説明会に連合会本部の理事を派遣。赤帽車製造メーカーである富士重工業鰍焉A赤帽車1万台確立に支援体制を敷いた。
この10月1ヶ月間で260人の新規加入決定者をみた。 |
| 昭和55年8月24日 | 全国赤帽連合会第2回通常総会が石川県山城温泉のホテル百万石で開催された。赤帽創業5周年を記念して、
松石会長功績顕彰実行委員会より胸像序幕贈呈式が行われた。松石会長は「これから、この分身とともに命のあるかぎり、
組合発展のために頑張る」と謝辞を述べた。制作は日展審査員の都賀田伯馬であった。 |
| 昭和55年9月17日 | 全国赤帽連合会の機関紙である「赤帽新聞」が創刊された。
発行の目的は「組合員の事業に関する経営及び組合事業に知識の普及をはかる」ことであった。
会員一人ひとりが組織の一端を担っているという基本認識に立ち、本部からの情報を徹底して、
「心の通った、血の通った」赤帽組織にしていくのが目的であった。
編集制作は垣下忠是が行い、以後、毎月1回必ず発行され組合員の啓蒙がはかられている。 |
| 昭和55年10月15日 | 連合会本部は江東区冬木から千代田区東神田2-8-16へ移転。神田川のほとりに建つ新築7階建ての白亜のビルであった。 |
| 昭和56年4月1日 | 労働省から念願であった赤帽組合員の「労災保険」の適用が認可された。2年前の54年から労働省の労働基準局に、
一人親方の業務上発生する災害について労災保険で補償救済を受けられるよう、日参して陳情を繰り返した結果であった。 |
| 昭和56年8月 | 赤帽車の生産台数が1万台を突破した。8月27日東京スバル自動車販売鰍ナ「赤帽1万台達成記念表彰式」が行われ、富士重工業
から、スバルレックスコンビ50台が寄贈された。寄贈された50台は赤帽車と同じ色に塗装され、全国の単組に配置され、連絡車
として大きな役割を果たした。 |
| 昭和57年1月 | 「赤帽シャトル便」がスタートした。岡山県単組がが行った、午前中に集荷したものは即日配達、
午後に集荷したものは翌日の午前中に配達した「赤帽ジェット便」を、ネーミングを変えて全国展開した。 |
| 昭和57年1月25日 | テレビ東京で1月25日から3月31日まで赤帽シャトル便のCMを流した。15秒スポットで期間中に80回放映した。
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| 昭和57年2月1日 | ラジオの日本放送で赤帽PRの第一声が電波にのった。全国ネットの「タモリの美女対談」で15秒スポット宣伝を放送。
以後赤帽は全国のラジオ局から赤帽の特色をラジオを通じて宣伝している。またこのころから連合会は赤帽の全容をとらえた統一性のある
新聞広告に力を入れ、朝日、読売、日経などの全国紙に広告を出稿するようになった。 |
| 昭和57年7月1日 | 赤帽共済会が誕生した。 |
| 昭和57年11月 | 日本テレビが赤帽をモデルにした連続ドラマを放映。加山雄三主演「せーの!」で、モデルは東京本部城北支部の赤帽N運送店
だった。 |
| 昭和58年1月31日 | 松石会長が「私を叱ってください」の広告を読売新聞に出し、大きな反響を呼んだ。
「日頃は、全国の赤帽車をご利用いただき誠にありがとうぞさいます。私ども赤帽のモットーは"荷主さんの心を運ぶ"赤帽車です。
まんいち、赤帽組合員の失敗がございましたら、私の責任です。全国の責任者である私を叱ってください。そして、もし赤帽
組合員にいいところがあったら、"その赤帽さん"を少しほめてください。私どもは、お客様の声に耳を傾けいっそうの努力を
してまいりたいと思います。今後とも、なにとぞ赤帽組合員をよろしくお願いいたします。」(原文のまま)
全国赤帽組合連合会 会長 松石俊男の署名入りの広告は、各方面から"誠実に仕事に取り組む姿勢"だと注目され、大好評であった。 |
| 昭和58年8月1日 | 株式会社全国赤帽が設立された。東京を中心とした関東ブロック及びその隣接単組を含めた規模で設立され、
赤帽協同組合の事業を補完するのが目的であった。また、以後全国の各ブロック単位に株式会社赤帽が設立されていった。 |