川崎第2隊の誕生(30周年記念誌 米田正文氏 より)
昭和20年8月に終戦となり疎開していた学童達が戻ってきた。当時中原小学校
に勤めていた私は、2学期から再会された学校で、早速6年生の男子組を担任。国中の皆が皆空腹を抱え、その日その日を凌ぐのに精一杯の時代、本来なら元気旺盛な筈の子ども達も、一様に暗く無気力でした。
この、うちひしがれた子ども達に、何とか希望と活力を呼び戻す為にと、集団の野外活動を思いついた。 S.22年の夏、出来たばかりの相模ダムの下流で、初めてのキャンプを試みた。既に中学2年になっていた子ども達と、運動会用テントの屋根の部分を借りて行ったが、そのかさばって重かったこと・・・・・・。立木を伐って支柱を作り、拾い集めた枯れ木を燃料に、最高に貴重なうどん粉のべったら焼きを分け合ったり、すべてに貧しいやりくり生活でしたが、皆大張り切りで、気持ちも一つにとけ込んだ。夜中に、テントに大書されている教育後援会の「會」の字が、月明かりでお化けの顔に見えるといって大騒ぎするような、無邪気な明るい子ども達に戻っていた。この成果に力を得て、次には、大菩薩峠への野営登山に挑んだ。このときの様子は、青木広茂君が当時綴った体験記が良く物語っている。
次に担任したのが、2年下級の小5男子組であったので、この子達もだんだん加わり、以来奥多摩方面を中心に盛んに活動を展開する間に、グループに名前を付けようということになった。丁度その頃、B・S日連が再興の為、東横デパートにP・Rコーナーを設けていた。偶然そこへ行ったのが縁で、この運動に感動、早速その名称を借用し、B・S中原隊と命名、独自のバッチも作り、集団意識を大いに盛り上げた。23年には又6年生を担任し、この子達も加わり多数の集団行動も板について来た頃、B・S活動の先達である山田敏夫先生や、小林英男氏等のご指導も頂き、正式加盟の準備を開始した。先ず私がリーダー資格講習を受け、登録審査に合格するよう次第に子ども達に正規の訓練を施した。25年5月、待望の承認書を受けて正式に発足した時は、ドラ班・リス班・シカ班の3班24名位であったが、他にその年担任の5年生の子ども達が後ろに控えていた。