中国において春節とは旧暦で迎える新年のことであり、春の始まりという意味でもある。
 春節を前にして、殆どの家では大掃除をし、お正月用の品物を買っておく。外地で働いている人は出来るだけ家に戻ってくる。春節の前の日を大晦日と言う。大晦日には家族一同が集まって楽しく一緒に食事をする。今は皆でレストランで食事をしている家庭も多い。大晦日に食べるご飯を家族団欒飯とも言い、一年において一番盛り沢山の食事である。数多い料理の中には必ず魚がある。「年年有余」の「余」は「ゆとり」の意味でその音読みが「魚」と同じであるので、毎年余り、余裕がある、生活が豊かになるというとい意味をも含めお魚の料理をつくっている。食事が終わると、みんなでおしゃべりをしながら新年が来るのを待つ。これを「守歳」(歳を守る)とも言う。
 新年の吉祥を祈って、この日には子供は悪戯をしてはいけず、もし悪戯をしたとしても子供を殴ってはいけない。また、お皿を割ってはいけないし、不注意で割った場合には、「歳歳(sui sui)平安」(=毎年平和 「歳歳」は「砕(sui sui)砕(砕ける)」と同じ音読み、)を言いながら、凶を吉化する。この日には、また、刀、鋏など使ってはいけなく、また、福が外に出ないようにするために、地を掃いたり、ゴミを捨てたりもしない。
この日には友人と親戚訪問のほかにも大衆化的活動が多く行われている。よく見られるのが、爆竹を打ち上げ、龍や獅子の踊りが行われたりする。中国で、龍は吉祥のシンボルとして、降雨を制御したりしているので、龍舞を通して、新年の順調と豊作を祈っている。
 4日、5日からは仕事が始まり、皆仕事先に戻るが、10日の後、また、「元宵節」があって、元宵節が過ぎてこそ「新年」の祝日がやっと終わったこととなる。
この日に多くの家庭で「春聯」「年画」「福の字」を飾る 。
 新年になると、大人は子供にお歳玉を上げる。そこで、新年になると一番喜ぶのが子供達である。この日には美味しいおかずが食べられ、新しい服を着、お歳玉ももらえられるからである。
 新年の初めの日を「初一」という。初めの一日から五日までみんなきちんとした格好をして親戚や友達の家へ年始回りをする。みんな会って「新年好」「恭喜恭喜」とお互いに挨拶をする 春節は中国人が一番盛大に迎える祝日である。



旧暦一月15日。
 この日の習慣は各地方によって多少の違いがあるけれども、共通点としては、多くの家が門前に灯篭をかけ、元宵を食べるということである。
ここには、面白い伝説がある。
 まずは、灯篭に関する伝説である。

 昔、鳥の神が道に迷って、人間世界に降りてきていたが、神であるこを知っていない   狩人に打てられて死んだ。これを知った神様は激怒し、正月15日に人間世界を放火して人間を全部焼き殺すように命令を下した。心のやさしい神様の娘がそういう危険を人間世界に通報した。人間世界は驚き、怯え、雷に打たれたようにどうしたらいいか分からなく慌てた。その時、ある老人が一つの方案を考え出した。正月の14日、15日、16日この3日間、みんな灯篭をかけ、爆竹を打ち上げ、煙を出すこと、そうすると、神様は人間がみんな焼き殺されたと思うだろうということである。確かに、15日になってみんな老人が教えたとおりにした。15日の夜、天の兵が下見下ろしたら、人間世界が明るかったので、大きな火事が起こっているに違いないと思い、神様に兵士を派遣しなくてもいいと報告した。人々の命と財産がこのように救われた。これを記念して、毎度正月15日になると家毎に灯篭を掛けて爆竹をあげるそうである。
 次に元宵(yuan xiao 21)に関する物語である。
 昔、漢武帝に有名な東方朔という知恵が多く、ユーモアたっぷりで有名な大臣がいた。宮内で誰かが漢武帝に怒られたりすると東方朔の方にきて許しをお願いした。雪が降っていた冬のある日、東方朔は宮内のある女性が涙まみれになって井戸に落ちて自殺しようとすることを目撃した。元宵と呼ぶ彼女は宮にきて以来、一回も家に帰れなく、親孝行ができないことを悔やんで死のうとしているところであった。これを聞いていた東方朔が親に会えるようにすることを保証した。それからのある日、東方朔は宮を出て長安の町に行って占いの屋台を開けた。結果が意外なのは、皆に同じ内容のあたって16日に体が火に焼かれるという占いであった。その災難に免れようと解決方法を聞いたら、その答えとは「正月13日に赤の衣を着た女の神が現れるが、彼女こそ命令をうけて長安を燃やしにきたのだから、彼女にあったら、彼女に祈願しなさい」とのことである。彼女は〈私は命令を受けて長安を燃やしに来たのだ。皆様がそんなに祈願しているからには、私の伝言を王様に伝えてくれ〉漢武帝がその紙伝言を見てみると、そこには「長安が災難に遭い、お宮が燃える。16日火を付けて、明るくして日を迎えること」と書かれてあった。驚いた漢武帝は急いで東方朔を呼んできてどうしたらいいか伺った。そのとき東方朔は考えるふりをしながら、〈聞くところによると、火の神は湯圓が一番好きだそうです。宮内の元宵がいつも王様に湯圓を作っているのではないですか?15日の夜、元宵に湯圓を作らせてください。そして、長安の家毎にも湯圓を作るようにし、皆と一緒に火の神様に供養するようにしてください。そして、臣民とも16日の夜、灯篭を掛け、爆竹を打ち上げ、煙を出すようにすると、天の神様をだますこともできます。また、百姓には16日の夜、灯篭を見るようにし、そうして人の群れの中で災難を避けることができます。そうして、元宵の父親も妹を連れて灯篭を見にきていたが、元宵という文字を見て喜んで「元宵、元宵」と叫んだそうである。その叫び声を聞いた元宵がついに父親と妹と会うことができたそうである。にぎやかに一夜を送った長安街の次の日は確かに平安無事だった。漢武帝は喜び、命令を下し、毎度、正月15日には湯円を作って火の神を祭るようにした。正月16日は相変わらず灯篭を掛け、爆竹を打ち上げていた。元宵が作った湯圓円が一番おいしかったので、人々は湯圓をまあ元宵とも呼んだそうである。それで、この日を元宵節ともいうようになった。


春分が過ぎてからの15日の後、大体4月4日か5日。
 主な活動としては墓参りである。
 ここにも、面白い伝説が残っている。

古代中国の春秋時代のことである。晋国に介子推(jie zhi tui)という清廉で有名な官吏がいた。ある日、晋国の奸臣達は王様の長公子重耳を害し、小さい公子に王位を継承させようとしていた。それを聞いた、介子推は長公子を守って夜中に晋国を脱出した。海外亡命中、貧困な生活が続いたけれども、介子推は何の文句もなく、長公子の面倒をみて上げた。ある日、重耳一行は山の中で道に迷って何日間も食べものが探せなかった。重耳は絶望して慨嘆し、「重耳が飢えて死ぬのは大したことではないが、百姓達がいい生活が送れないのが心配だ」と言っていた。介子推はこの言葉を聞いて、災難にあっても百姓を忘れていないので、重耳がきっと賢明な君主になるだろうと思い、尽力して彼を王位に登るように補佐しようと決めた。そして、足の肉を切り取って煮て重耳に食べさせた。重耳はこの事を知って感動し涙ながら「どのようにあなたに答えればいいのですか」と聞いた。それに、介子推は「公子から何の報いも要りません。ただ、私が足の肉を切った公子への忠誠を忘れないで、将来、百姓を忘れず、賢明な君主になることだけ願います」と答えた。重耳と彼の部下達は19年の亡命生活を終え、戻ってきてついに君主になった。彼が後の晋文公である。王位に上がってから、君主は一緒に苦労した部下達に賞与した。ただ、介子推だけが何も言わず、君主に忘れられていた。ほかの人が介子推のために不平を抱いたので、昔のことが思い出された君主は介子推を探した。その時、介子推は母親と一緒に山の奥に入って暮らしていた。しかし、どうしても探せなく、百姓達が叫んでも出て来なかった。介子推が親孝行で有名なことを知っていた君主は、山に火を付けると、きっと出てくるだろうと思い、山に火をつけるように命令した。山は3昼3夜燃えつづいたが、介子推はついに出て来なかった。君主は慟哭し、彼の死体を埋葬しようとするところ、衣の切れが見つかり、そこには血で字が書かれてあった。それは、「体の肉を切り取って忠誠を表し、君主が常に清明であるよう祈る。木の下で鬼になるのが、君主に伴い奸臣になるより増しであり。君主の心にもし私がいるならば、思い出すたびに自分を省みてください。臣は死んで悔やみなし、政治に謹み、清明に清明を重ねることをお祈りする」君主はその衣の切れを大事にし、それを自分の座有名としたそうである。介子推を記念して、介子推が死んだ日を「寒食節」(火を使わないで食事をするとのこと)と決め、その日には火の使用を禁止し、「寒食一日」するように決めた。翌年、君主は山の下で「寒食一日」を過ごし、翌日山に登ってみたら、焼かれていた柳の木はもう青くなっていた。君主は柳の枝をとって、輪を編んで、頭に飾った。それを見た臣下達も君主と同じく枝を折って、頭に挿し飾った。そして、その木を清明柳と命名し、その日を清明節と決めたそうである。



 5月4日「5・4」運動の記念日である



6月1日
国際児童節
 
              


 旧暦五月五日.
 屈原を祭る日でもある。
 屈原は2000年前楚ノ国の官吏で、有名な愛国詩人でもある。自分の国を愛していた彼は、小さな国が連合して大国の秦の国に対抗しょうという提案を出した。しかし、楚の国の君主は小人の悪口を信じ、彼のいうこと聞き入れないで彼を国から追い出した。後に、楚の国は秦の国に破られた。屈原は悲しみ、川に身を投げて自殺をした。楚ノ国の人々は竹の葉でお米を包んで川に投げ込んで彼の祭った。これがだんだん風習となり、この日になると、龍の船の競争をしたり、竹の葉で粽を包んで食べるようになった。
 粽の主な材料はお餅米であり、竹の葉で包んでから糸でしっかりと縛る。餅米の中にお肉を入れて塩辛くするものもあれば、小豆あんこを加えて赤い粽というのもあるし、また、何も入れないで食べるときに砂糖をつけて食べるのもある。今は、端午節ばかりでなく、平日でも粽を売っている店ある。




7月1日 中国共産党記念日
建軍節 8月1日 1927年江西省南昌で周恩来、朱徳、賀龍らの指導の元、武装蜂起した記念日



旧暦の8月15日。
 中国の旧暦から見ると、7月、8月、9月は秋であって、8月がちょうどこの秋の真中にあるから中秋節と言われている。中秋節に月見をするのが中国人の伝統的風習である。この日の夜になると、家族が団欒に集まって月餅、落花生、里芋、果物等を食べながら月見をする。この日には秋の晴れ渡ったすがすがしい天気になり、月も大きく真ん丸く明るい。この日に関わって、「嫦娥が月に駆ける」(嫦娥奔月)という物語がある。
 月餅はこの日になくてはならない食べ物である。月餅の中身は色々である。例えば、広東式の椰子、アン、蓮の実、あんこ、ハム塩漬け卵の黄身等等である。また、蘇式のお肉餅も有名である。月餅は月のように丸いので、家族の団欒を象徴している。即ち、中秋節は家族が団欒に集まる祝日である。



節 
 旧暦9月9日
 重9節、茱萸 菊花節とも言う。古代中国では数字を陰陽に分けていたそうで、9が陽数に属していたので、重陽節と命名したそうである。
各地方によってこの日の習慣が違う。主な共通点とは「菊花酒」を飲むのをあげられるだろう。
この日にかかわる伝説も時代によって色々である。
 ここで、代表的な伝説を一つ紹介することにする。

 
昔、ある地方に瘟魔がいて、瘟疫を感染させ、たくさんの人の命を奪っていった。瘟魔を取り除き、村の人たちを救うために、ある男が山の中へ神仙を尋ねていった。苦難の道を経てながらも村の人のために瘟魔を取り除こうとする心に感動された、神仙は彼に青龍剣をあげ、妖精を降伏させる法門を教えた。ある日、神仙が「今年の9月9日に瘟魔がまた現れて人々を害する。茱萸菊の葉一包みと菊の花酒一本を上げるから、村の人達に高いところに登らせて、禍を避けるようにしてください」と言い付けた。9月9日、男は村の人達を連れて山の上まで登り、茱萸菊の葉っぱを一枚ずつ配って、瘟魔が近づけないようにし、瘟疫を予防するために菊花の酒を一人一口ずつ飲ませた。それから、男は青龍剣を持ち下山した。
まもなく、出てきた瘟魔は、山の上に人が集まっているのを見て、山の下に向かったが、菊の酒と茱萸菊の匂いに脅かされて前へ進むことができなかった。男と戦いあったが、すぐ、何会合も行けず、男の剣に刺されて死んだ。
それ以来、高いところに登って禍を避ける習慣が代代伝わってきている。


  9月10日  
 
 中国は改革開放以来教師への待遇がぐっと上がっている



節 

 10月1日

冬至
 陽暦の12月の22日或いは23
北方ではギョーザとワンタンを食べ、南方では湯圓を食べる

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