Cafe Arabia
〜エジプト人一家の一員となり カイロに暮らす 私のこんな日常です〜
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気ままにアラビアン・ナイト カイロで出産&育児編
 第1夜 カイロでお産・それまでに
 第2夜 カイロでお産 その1
 第3夜 カイロでお産 その2
 第4夜 カイロの入院生活
 第5夜 スブーア・生後7日目のお祝い
 第6夜 勇み足のママ
 第7夜 エジプトの教育テレビ事情
 第8夜 バースデイ・パーティ


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    気ままにアラビアン・ナイト カイロで育児編  

    第1夜 カイロでお産・それまでに
 2002.10.26配信

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 カイロでお産・それまでに

  私たち夫婦の結婚記念日でもある、5月6日の予定日を過ぎても陣痛
 はまだ来ない。ゴールデンウィークを利用して、はるばる日本から来て
 くれた両親の帰国まであと3日。誰も言葉にしないけど、やっぱり帰る
 前にせめて初孫の顔、見せてあげたい。

  両親が帰国する前々日、アブルガール先生の検診に行った。先生には、
 以前から自然分娩で生みたいことを常々伝えてあった。ここエジプトでは、
 陣痛が本番になる前に局部麻酔等々を使って無痛分娩にする、もしくは
 初めから計画的に帝王切開をすることが多いと聞いていたからだ。

  「ハロー、なんでまだ生んでないの?」

  検診で、つわりによるどんな不調を訴えても「普通、普通!」「赤ちゃん
 異常なし」、よっぽど何かない限り、この二言と気の利いた冗談で返されて
 しまうのだが、先生の顔を見て、この言葉を言われて、なぜかそれだけで
 安心できてしまうから不思議だ。ただ一回、夜眠れない日が続いた後の検診
 では、どこか不調なところは?と聞かれた。妊婦の顔を見て分かってしまう
 のだろう。

  「生みたいのは私ですよ、先生。日本から両親が来てるのですが、もう
 あさって帰っちゃうんです。孫の顔見せてあげたいんですけど、何とかなり
 ませんかね?」

  先生はいつも通りに血圧を測って、ドップラーという名の器械でおなかの
 赤ちゃんの心臓の音を確かめながら、まじまじと私の顔を見つめている。そ
 れから私が診察台から降りるのを待って、夫と私に言った。

  「これから病院に行って、赤ちゃんに異常がないかテストして下さい。予
 定日を過ぎたのに、まだまだ赤ちゃんは上過ぎる。それからご両親のことは
 よく分かるが、ね。」
 
  待合室で待っていてもらった両親には、お産をする病院に行って検査を
 するとだけ言って4人でクリニックを出た。今まで何の異常もなく妊娠期間
 を過ごしてきた私は別段不安でもなく、娘が地の果てでお産をすると思って
 いる両親に、せめて病院を見てもらえるいい機会だと思った。ただ、心配性
 の夫の顔はこちこちに固まってはいるが。

  ボクラ、ボクラ、ボクラ、ボクラ……

  ボクラはアラビア語で明日、もしくは現在以降の未来を漠然とあらわす言葉。
 母には赤ちゃんの心臓音がこう言っているように聞こえたそうだ。明日生まれ
 てくれれば。

  このボクラを20分間モニタリングして異常ないことがわかった。そして月 
 曜日になっても陣痛が始まらなかったら、火曜日に入院するようにと言われた。
 赤ちゃんの安全のために陣痛を誘発し、そして万が一の場合には帝王切開も
 あり得る、ということも。

  何も起こらないまま、とうとう日曜日、両親を空港に見送った。前日から
 二人ももうあきらめたようで、4人でショッピングモールに行ったりして、
 最後の夜を楽しんだ。今回あんたの空港送迎があるとは思わなかったよ、と
 空港へ向かう車内で母が一言。夫にも訳して、4人で笑った。

  だがゲートをくぐる前、「お母さん、何にもしてあげられないね」と言って
 母は泣いた。いつも気丈で口が達者な母の涙に、夫もずいぶん戸惑ったようだ。
 結婚してエジプトで暮らすことを決心して以来、私には親に余計な心配をかけ
 たくないという思いこそあれ、何かをしてもらおうと思ったことはなかった
 つもりだ。しかしどんなに娘の私がそう思っても、いくつになっても親には
 かなわないと思い、帰りの車で、私も泣いた。

  「親思ふ こころに勝る 親ごころ けふの訪れ なんと聞くらむ」


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       気ままにアラビアン・ナイト カイロで育児編  

      第2夜 カイロでお産・その1 2002.11.2配信


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  火曜日、夜中の12時をまわってから家を出た。帰ってくるときは3人だな、
 とふいに思ったが、まだまだ実感としてはわいてこない。家を出る直前に、妊娠
 期最後の写真を撮ってもらおうと夫に頼んだが、そんなのん気なこと言ってる
 場合じゃない、ととても落ち着かない様子。数日眠れないでいるのも分かって
 いたので、もう一度頼むのはやめにした。

  脈拍、体温、心拍数を測ってから、さっそく点滴による陣痛誘発が始ま
 った。担当医はアブルガール先生の弟子、ガマール先生。朝までには始まっ
 てくるでしょう、と言い残して病室を去った。夫も付添い人用のソファに横に
 なるが、私にも彼にも、やはり眠れない夜だった。

  朝になり、何度もガマール先生が病室に来ては、どう?と尋ねてくるが、ま
 だまだ陣痛らしき痛みは来ていない。何度かそんなやりとりを繰り返すうち、夫
 の兄弟家族たちがぞくぞくと集まってきた。家のすぐ近所に住む実姉のモナ、
 2番目の兄夫婦ナーデルとノーサに4歳になる娘のサルマ、3番目の兄嫁の
 サハルと2歳の娘のファラハ。

  これから陣痛を向かえて出産、という人の病室に、たとえ身内でもこんな
 に人が集まるなんて、日本ではとても考えられないことだろうが、聞いていて
 覚悟はしていたことだ。実際私も、入院した親戚や知り合いを見舞うたび、一族
 郎党、友人知人が全て集ったような、そのにぎやかさに都度驚いてきた。それが
 今度は自分にもまわってきただけにすぎない。こんなのまだまだ、少ない少ない。

  ただしかし、がんばってね、等々声をかけてくれながら、ビュッフェに飲み物
 を注文し、用意してきた朝食を揃って病室で取っている姿というのは、やはり何年
 ここにいてもきっと私にはなじめないのだろうな。どんな機会であれ、親戚同士
 会える機会と捉えて楽しんでしまう、これが逞しきエジプシャンなのだと諦める。

  そんな彼らの朝食も済んだ頃、看護婦が入って来、紙の手術服に着替え、
 おそろいのシャンプーハットを被らされた。その途端サハルが、
 
 「ママ……! あなた、お母さんとまったく同じ顔をしてるわよ!」

  数多い親戚の中で、私と一番話の合う彼女、きっと私に母のことを思い出させて、
 安心させてくれようとしたんだナ、と今になって思う。

  午前11時をまわった頃、いよいよ痛みの波が襲ってくるようになった。日本
 から送ってもらった本にあった呼吸法を試みる。始まったの?とモナ姉さん。
 うなずくと、周りから痛いんだよ、耐えてるんだよと言うが聞こえる。ラクになる
 なら声出していいんだよ、と夫が言ってくれるのが聞こえたので探すと、観客の中
 でも一番遠いベッドの足元の向こうに小さく座っているのが見えた。

  ただでさえ声の大きいエジプト人のお産では、どうやら妊婦の雄叫びがつ
 きものらしい。あまり大声を出すのに慣れていない日本人の私としては、声を
 出したところでこの痛みがなくなるわけでもないと思って、ひたすらひーふーやっ
 ているわけだが、おかげで産後、私は親戚中から英雄扱いされるようになった。
 日本人のあなかたら、耐えるということを習ったわ、と何度もくり返していた
 モナ姉さんが言って回ったに違いない。

  だんだん痛みの波の間隔は狭くなるが、ガマール先生は、まだまだだなぁ、
 早くヤッラ・ビーナ(レッツ・ゴー)と連れて行きたいんだけどねぇと言い、
 しばらくして今度はアブルガール先生も一緒に回ってきた。相当痛い処置をして、
 これでもっと陣痛が強くなるから、と言い残して出て行った。

  確かに腰が割れるような痛みが来るようになって、とうとうベッドごと、
 手術室に運ばれることとなった。女性陣は口々に、がんばって、部屋に入れば
 もうすぐだから、と声をかけてくれる。夫に行ってきますを言いたかったが、
 いても立ってもいられなかったのだろう、私の見えるところにいなかった。


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    気ままにアラビアン・ナイト カイロで育児編  

    第3夜 カイロでお産〜その2〜 2002.11.22配信

   
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  エレベーターで下に降りたところで、言われるまま、横付けされたベッドに
寝たままの姿勢で移る。いよいよ手術室に入ったら、コンニチハ!オゲキデスカ?
と日本語で声をかけてくる先生がいた。ちょっとこんなときにいったい何?と一瞬
あっけにとられるが、そんな間もなく、ガマール先生がいきんで!と胃の辺りを
下に向かって押しながら言う。うんーっ……とがんばるが、先生一言、全然ダメだ!

  タハリール広場じゃあるまいし、必死な最中の突然の日本語にも驚いたが、
この部屋は日本の本にあった「分娩室」とは明らかに違った。日本で昔、盲腸の手術
をしたときに覚えている風景と全く同じで、緑色の皮カバーのベッドに傾斜などないし、
何よりいきむときに握るグリップが、どこを手探りで探してもついていなかった。

  やっぱりまだまだ赤ちゃんは降りてきてなかったのか、と思っているとまた、
ハイ、こっちと言われて、また自力でベッドを移り、今度はとても広い手術室に
連れて行かれた。アブルガール先生に代わって、また何度かいきみを試みた。
が、しかし先生は言った。
 
 「あらゆる手段を尽くしたが、赤ちゃんとうとう降りてこなかった。帝王切開を
することになるが、いいね?」
 「せめてもう一週間とか待つことできないんですか」

  痛みがこの世の全てのようなこの期に及んでも、私はまだ自然分娩にこ
だわっていたようだ。苦しいのは私だけじゃない、がんばっている赤ちゃんと
共に耐えて、一緒に誕生の瞬間を迎えたい、産声を聞きたい。こう思い続けて、
長く辛いつわりを耐えてきたのだから。でも今思えば、あの痛みをあのまま
1週間続けてくれ、という意味になるのかと思うと、言われた方の先生も、さぞ
この日本人には驚いたことだろうと思う。

 「そりゃ無理だよ、子宮口は全開になってるんだ。このままでは赤ちゃんが
危険だよ」
 「 ……。 はい。ではお願いします、同意します」
 「ではご主人に話して来る」

  それから心拍数を計るためか、とても若そうな医者に、コードのついた
ピップエレキバンのようなものを両肩の下に張られた後、ゴムの臭いのきつい
マスクをかけられた。麻酔だと気付いて瞬時に、妊娠中に読んだ渡辺淳一
の『麻酔』が頭をよぎったが、間もなく眠りにおちてしまった。


  頬を軽くたたかれて、目を覚ましたら夫の顔が見えたので、聞いた。

  「男の子?女の子?」
  「男の子だったよ」
  「……おめでとう……!」
 
  夫は何も言葉を返さなかったが、握っていてくれた手に力が入ったのが
分かった。周りからもおめでとう、とかいろいろ声がかかっているのが聞こえて
はいたが、なんだか全てが面倒くさくって、また眠りに落ちた。

  そうしてしばらくの間うつらうつらしていたようだが、赤ちゃんがやって来た
途端、意識がしっかりした。寝ている右肩に抱かせてもらった、小さな小さな
生命。しっかりと両目を見開いて、ゆっくりと口をぱくぱく動かしている。ああ、
やっと会えた。この子がおなかに入っていたんだ。

 「…私がお母さん。これからよろしくね。」

  聞き覚えのある声だと分かったのか、この小さなヒトが じっ と私を見つめた
ような気がした。そうしたら、悲しいことなどあるわけないのに涙が溢れ出てきて、
この日一日、止まらなかった。

  
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    気ままにアラビアン・ナイト カイロで育児編  

         第4夜 カイロの入院生活  

 
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カイロの入院生活

  気持ちが高ぶっていたのか、その夜も眠りはしたものの、熟睡はしていな
かったようだ。翌朝早く、ノックもなく突然ドアが開いて、大きな女が部屋に入る
なり、「まだお金もらってない」と言って立っている夢を見た。後で思い出して
話してみたら、それは夢ではなく、確かにチップをもらうためだけに、朝7時前に
人が来たという。病院でチップ?と驚いて聞いたら、居合わせた一同、口々に、
病院こそがその最たるところだと答えた。

  そういえば昨日は何も思わなかったが、今日になって、病室にはずいぶんと
人の出入りが激しいのに気付いた。それもみんな、突然ノックなしで入ってくる。
お医者の先生でさえもずらずらと子分を引き連れて、まるで軍隊か警察かのようだ。

  仕事のある人もいれば、さっきも見たけど何だろう、という人もいる。掃除など
は、これ見よがしにガタンゴトン家具を動かしてアピールし、何度も出たり入ったり
を繰り返す。ゴミ箱、さっきも違う人が替えていったばかりなのに。満面の笑みで
働いてくれるのはいいが、術後のキズにひびくから、せめてもう少し、おとなしく
やっていただけないものだろうか。

  日本のエジプトに対する政府開発援助の中で、第三国研修というのがある。
日本、エジプト、そしてもう一国で三国だ。これでアフリカ諸国の看護婦に対する、
エジプト人看護婦による看護教育というのをずいぶん長くやっているようだが、
このチップの習慣もしっかり技術移転されているのだろうか、などと思ってしまう。

  入院は入院でも、お産は何よりうれしい入院。実入りもいいに違いない。
外国人の私しかいない病室で働くおばさん看護婦二人、きみたちの話している
ことは、私に全部筒抜けなのだよ。

  「木曜日には今いる5組が全て退院だわよ、あんた。」
  「あぁ、ついてない。あたしゃ休みだよ。」

 退院時にはお礼とお祝いのチップを、たんともらえるものなのだろう。
産後の検診は、なんとも簡単なもの。朝8時にガマール先生の検診があったあと、
10時頃だったか、今度はアブルガール先生も一緒にやってきて、
  「入院はもう一日。明朝、帰れますよ。抜糸は一週間後にね。」

 これだけ。母子手帳なんてものがないところなので、サンプルをコピーした、
英語版の「出産時の記録」に記入をお願いする。横の棚に置いておいた、日本語の
妊娠・出産の本をガマール先生が手にとりながら、母子手帳を覗き込んでいる。
アブルガール先生の長女が小児科医で、同じ病院内で新生児を診ているのだが、
赤ちゃんの記録は彼女に、と言って出て行った。

 この日もモナやサハル、ナーデル親子が来てくれていたが、昨日よりだいぶ
元気になった私に安心をしたようで、一段落したら、眠っている私のベッドを
挟んで、誰それの婚約者がどうだとか、引越しをしようと思っているのだが、とか、
まるで今日この場には全く関係ない話に花を咲かせている。うるさいのは嫌だと
ずっと思っていた私だったが、一日たってもまだまだ自由に身体が動かない身、
疲れてもいたのだろう、他人の眼を気にする余裕もなく、ひたすら体力の再充電を
していた。

 そして夜。親戚も帰り、消灯時間も過ぎた。
人の親になったという興奮は、静かながらもだんだん増してきて、この日もなかなか
寝付けない私たち夫婦は長々と話し続けた。病院の話、夫や私の家族の話、そして
息子の将来の話。テレビではサッカーのヨーロッパ杯決勝戦が終わり、優勝チームが
カップを受け取って選手たちの記念撮影をしている場面を映していた。

  「もしうちの息子がこの中にいたらどうする?」
  「うれしすぎて死んじゃうよ」

テレビの光しかない病室で、なぜかお互い泣きながら、それでも話すのを止めなかった。


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        気ままにアラビアン・ナイト カイロで育児編  

         第5夜 スブーア〜生後7日目のお祝い 
 
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スブーア〜生後7日目のお祝い〜

子どもが生まれて七日目にするお祝いがある。数字の7、サバアから
きた言葉で、スブーアという。日本でもお七夜というのがあるようだから、
アラブ人といえども、考えることは日本人とそう変わりがないようだ。
ただ、そのやり方には大いに違いがあった。

お産後7日目といえば、日本では普通、母子共に退院して、やっと家での
生活を始める頃だろう。ましてや帝王切開となったら、まだあと一週間は
入院生活をしていると聞く。母親だけでなく、赤ちゃんだって、まだ昼と
夜の区別もつかずに一日中眠っているような頃だ。

こんなときに行われるスブーア、夕方4時頃から、まずは親戚友人一同が
家に集まって来る。アラブの結婚式や誕生日会、その他の行事は大抵
始まるのが9時とか10時とかで遅いのが普通なのに、このスブーアは
子どもが主役とあって、時間が早くなっている。ただでさえ一家族あたりの
子どもが多いのに、ご近所、友達、ありったけの子どもを集めてきたような
様相である。当然、そのにぎやかなことといったらない。

一応の人が集まったところで、いよいよお母さんと赤ちゃん登場、子ども
たちが部屋に円を描いて座っている、その真ん中に進む。そこには
おばあちゃんか、もしくは今日集まった中の年長の女性が、直径40センチ
ほどの丸いお皿を持って床に座っていて、お母さんはそのお皿の上に
赤ちゃんを置く。木製のお皿は、白い光沢のある布で覆われており、
大きなフリルが回りについている。

ヤーラッブ、ヤーラッブ、テクバル アッデナ 
 >大きくなりますように、僕たちくらいに
ウィテシール シャマア ザイエナ
 >そして僕たちみたいにろうそくを持てるようになりますように

集まった子どもたちが手に手にろうそくを持ち、この言葉を唱えると、
恐ろしい儀式は始まる。おばあちゃんは座ったままお皿を持って、
まるで川で砂金をさらっている人かのように左右にゆさゆさ揺するのだ。
思う存分揺すったら、今度はお皿を持ち上げ、なんと手を離して床に落とすのを
くり返す・・・。

ハラアータック バルガアラータック ヤーラッブ ヤーラッベナ
 (初めの2フレーズは意味不明。後の二つは、直訳はああ神様。
  何かそうなって欲しいという思いがあるときにムスリムがよく口にする言葉)

すると子どもたちがこう歌いながら、おばあちゃんを真ん中にして、
部屋を大きく回りだす。鉄製のひき臼をがんがん打ち鳴らすという
伴奏がついている。そしておばあちゃんがお皿を床に置くと、今度は
お母さんがその上を7回またいで通る。またぐたびに、大人たちが言う。

テスマア カラム マムタック、 マテスマァシュ カラム ババ
 >お母さんの言うこと聞きなさい、お父さんの言うこと聞かないで
 (2回目から後は、お母さん、お父さんが逆になったり、おばあちゃんや
  おじいちゃん、叔父さん叔母さんなどにアレンジされる)

なぜこんな冗談のようなことを言うのかと思って聞いてみたら、大きく
なっていたずらをしたときに、それでも家の子だって言えるようにとのこと。
日本だったら間違いなく、お父さんとお母さんの言うことよく聞いて、と
言うだろうと思って、エジプト人らしさを見た気がした。

7回またぎ終わると、やっとお母さんがそのお皿を持って、みんなも
ぞろぞろと一緒に、玄関から外へ出て行く。もちろん、子どもの歌も、
ひき臼も一緒だ。中には爆竹を鳴らす子もいる。こうしてご近所にも
子どもが生まれましたよ、と知らせているのだ。

一連の儀式が終わると、部屋に戻り、ロズ・ビ・ラバン(ライスプディング)と、
ムガートという香辛料のたっぷり入った飲み物(ハーブティの一種で、母乳
の出がよくなるものらしいですが、お客もみんな飲みます)を頂く。そして
お客は、小さな誕生記念のプレゼント(陶器の人形や器と、ドラジェ数粒、
チョコレート)をもらって、終わる。

このスブーアは、赤ちゃんのためというより、お母さんのためのお祝いと
捉えられているような気がする。実のところ、私のスブーアは、息子が
もうすぐ3ヶ月になるという頃にやった。私のおなかがまだ痛かったのと、
騒音を心配したからだ。やらなくてもいいと思っていたのだが、何かの
際に息子が音に驚いたのを見て、スブーアをやらなかったからだ!と
言われ、これを一生言われてはカナワナイ、と思ってやったのだった。

大きくなってしまって、お皿に乗るかと心配したが、小さな足を枠から少し
出し、揺すられても落とされても、我が息子はきょとんと一点を見つめて、
おとなしくしていた。

こんな母の心配をよそに、これからもしっかり育って行って欲しいものだ。


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    気ままにアラビアン・ナイト カイロで育児編  

         第6夜 勇み足のママ

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   イスラム圏は今ラマダンの真っ最中。もう半分ほど過ぎたので、
   身体も断食に慣れ、日没前の空腹の辛さというのもそれほど
   大変ではなくなっている頃だ。真夏の断食とも違うので、のどの
   乾きもまだ苦しむほどでもないが、やはり体力を温存するために
   日中の活動はどうしても控えめになってしまう。

   昨晩の金曜日は、モナ姉さんの家でイフタール(断食明けの食事)
   があった。午後5時5分が日没だが、4時半すぎに行ったら、私たち
   が最初だった。結局揃ったのは5時15分ころ。ラマダンも初日の頃
   は皆早々に集まってくるが、半分も過ぎるとこんなものである。

   しばらく親戚にごぶさたしていたこともあって、歩きだし、何を
   見ても日本語で「わんわん」と言うようになった息子を囲んで  
   いろんな会話がなされた。その中でも、やはり私がずっと息子
   に日本語で話していることについて、気になる人もいるようだった。

   子どもができたと分かった翌日、ニューヨークで大惨事が起こった。
   9.11である。夫と二人、食事も忘れてテレビに見入っていた。

   ビン・ラディンの名などもちろん知らないが、恐らくアラブ、イスラム
   が関わったテロだろうと確信していたし、これを見て喜ぶアラブ人
   たちの映像を見て、これほど悪趣味な報道もないが、実際には、
   心で拍手喝采しているアラブ人も少なくないだろうと思っていた。
   
   また、これから誤解や偏見にまみれたアラブ、イスラム像が一人
   歩きして、どんどん生きにくい世の中になっていくだろうと思い
   心が沈んでゆく中、これから日本人とエジプト人を両親に持って
   生まれて来る子どもに、親としてできることは何なのか、というの
   が頭から離れなかった。
   
   大きなことはできないが、息子には、自分のルーツに迷いを
   持たぬよう、二つの文化を平等に与えてやりたい。そう夫と話し、
   エジプトで暮らしていても、後に日本語の習得に苦労しない
   で済むように、力を尽くしていくことから始めようと私は思った。

   そうして生まれてきた息子に、私は日本語、夫はアラビア語で
   話してきたのだが、昨晩のイフタールで、いつものように息子に
   日本語で話していると、エジプトにいるんだから、あなたもアラ
   ビア語で話しなさいよと言われてしまった。

   私としては、自分の母語で話すのがやはりラクで自然だし、
   これから学校に上がったら、嫌でもアラビア語の方に多く触れる
   ようになるので、私が一緒にいられる今のうちだけでも日本語を
   浴びせてあげようと思っていたのだが、確かに私と息子の二人
   だけが彼らの解せない言葉でやりとりしていたら、周囲にいい
   思いはさせていないだろうとようやく気付いた。

   夫の場合も然り。息子は、今はまだ母親の私といる時間が全て
   なので、アラビア語を覚えるはずもなく、息子の数少ない語彙の
   全てがアラビア語にないものばかりだ。わんわんもくっくも、その
   意味を夫に教えては来たが、私たちだけが日本語で分かり合って
   いる様子を見てきて、やはり何か思うところはあっただろう。

   今まで気付かなくて申し訳なかったが、遅くても始めないより
   は始めたほうがいいだろう。これからしばらく日本語は、私と
   息子二人のときの楽しみとしておき、家族がいたら私もアラビア
   語で話し、今に息子から、私の不自然なアラビア語を正される
   日が来ることを楽しみにすることにしようと思う。

   
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    気ままにアラビアン・ナイト カイロで育児編  

         第7夜 エジプトの教育テレビ事情
        
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エジプトの教育テレビ事情

子どもができるまで、まるでテレビに縁のない生活をしてきた私も、最近に
なって自分からテレビをつけるようになった。合わせる番組はことごとく、
子ども番組である。

群を抜いて楽しいのは、アーラム・スィムスィム(World of Sesame)だ。
週5日、午後5時20分から25分間放送されている、セサミ・ストリートの
アラビア語、エジプト方言版である。

活発で知りたがり屋の女の子ホーハ(桃)と、フィルフィル(ペッパー)。
この男の子(?おじさんかも)は、何でも知っているけど、ちょっと間が
抜けた感じ。それにビッグバードに似た背の高いネムネムがお馴染の
パペット。

他にモナやアフマドといった実際にエジプトに多い名前の常連がいて、
著名な俳優が登場することもしばしばである。

エジプトのどこにでもありそうな”通り”が舞台で、スーパーマーケット、
キオスク、マクタバ(本や文房具などの店)、屋台の食べ物屋などが
毎日出てくる。アルファベットや数字を学ぶコマも必ず入る。

カイロでは地下鉄に乗って、タンタ地方ではロバの引く馬車に乗って、
アスワンではフルーカでナイルを横断して通学する子どもたちの様子
など、エジプト各地の様子がわかるのは、見ていて非常に楽しい。

また、ダウン症や盲目の子どもも登場し、家の手伝いをしたり、勉強
したり、他の子どもと同じように活躍するのを見るのは、ここでは画期的
なことだと思う。以前、ヨルダンで養護学校を訪ねたとき、養護学校に
来れる子どもはごく一部、それ以外は周囲の眼を気にして、親が外に
出したがらないのが問題だと言っていたからだ。

アーラム・スィムスィム放映にあたって、アメリカの政府援助機関USAIDが、
教育省、情報省に、最初2年間の放送分を賄える額を無償援助したという。
実行機関であるアル・カルマ・カンパニーへは、技術協力として脚本、
パペットの操り方、監督、制作、編集の訓練に3年を費やしたそうだ。

息子が集中してみるのは、25分間のうちまだ数分だが、今のところ
何より私が楽しんで、エジプト事情とアラビア語を学んでいる。

他に見て楽しめる番組として挙げられるのは、ラマダン期間中には
イフタールの時間に合わせて 放送されるバッカールというアニメである。

ヌビア人の子ども、バッカールが主人公で、彼が学校へ行ったり、
遺跡の盗掘者を発見したり、他のアラブ諸国へ旅行へ行ったり、
ファラオの時代に飛んだりとエジプトムード満載の小話が毎回見られる。

ラマダンごとにこれは毎年見てきたが、年々コンピューターグラフィック
などの利用も進んでいるのがよく分かるし、今年は電車やラムセス中央
駅など、実際にある建物も本物に忠実に描かれていて楽しかった。

また、バッカールの友達の妹が学校に行かないのはなぜか、という
エジプトの地方に未だ残っている、男子は学び、女子は家事手伝いを
という、女性の識字率の低さを招く原因となっている事情を取扱っており、
担任の先生も一緒になって、家業を手伝いながらも学べる制度がある
ことなどをアニメを通して訴えているのは印象的だった。

上のホーハといい、この女の子の話といい、エジプトが国を挙げて女子
教育に力を入れているのは、テレビCMでも、ドラマ仕立てで家族計画
とからめて放送していることからもよく分かる。

他の子ども番組といえば、アナウンサーが一般の子どもを集めて一緒に
遊んだり、歌ったり、踊ったり、というのが普通で、どれもはっきり言って
おもしろくない。何十年前の映像かと思うトム&ジェリーや、ミッキーなど
が細切れに入るのもつらい。

また、子どもへのインタビューも多いが、何より自分が話している途中に
子どもが席を立ったりすると、おいたがすぎますよ!怒りますよ!とか
キーキー声で言ったりするアナウンサーを良く見かける。子ども番組なのに、
どうもここではアナウンサーのための番組のように見えてしまうのが
不思議なところだ。

ここしばらくは、毎日5時20分のアーラム・スィムスィムを楽しみにする
毎日だが、強いて難点を言えば、5時からのフランス語のニュースが
やっと終わったと思うと、何かとスーザン・ムバラク大統領夫人の、
例えばブックフェアー開催、女性のための会議開催、といったご活躍
披露の放送に切り替えられることが多いことである。


 
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     気ままにアラビアン・ナイト カイロで育児編
 
        第23夜 バースデイ・パーティ 
  

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バースデイ・パーティ

息子の初めての誕生日会を、家の近くのレストランで行った。ここではいくつに
なっても誕生日を盛大にお祝いするようで、子どもの誕生日でも、親戚の他に
親の友人・知人を集めて大々的にやるようである。

1歳や2歳の誕生日など、主役である子どもの友達だっていないし、何より
本人が分からないだろうから、私なんぞにはそんなパーティは大人のために
やるようなもの、という見方しかできない。そこに夜間のパーティ、大音響の
DJとくるのだから、どうしても逃げ腰になってしまうのである。

だから今回の息子の誕生日会は、親戚と夫の友人を数組招いただけの
ささやかな宴にしたかった。

何より近いところがいいと、会場設定には迷わなかったが、その開始時間。
大抵は夕刻、というより夜が普通で、結局私たちも日の入り時刻ぎりぎりの
7時半開始とした。集まれば長居が普通のエジプトのパーティでは、時間
制限などはあまり厳しくなく、店側から聞かれることもなかった。

レストランで準備してくれるというので風船やその他の装飾を届け、バース
デイ・ケーキはケーキ屋さんに頼み、当日レストランに配達するよう手配した。

当日のDJと、誕生日会にはつき物らしい人形劇と手品師は、高校生の甥が
担当してくれるというので任せた。が、50人も入ればいっぱいの会場に、
劇場用かと思われるほどの大きなスピーカーを用意し、歌やダンスの上手い
芸達者な友達を6人も連れてきて、思ったより本格的だった。そして終わって
みたらレストランに言われた額より高く取られていたのに驚いた(!)。

7時半少し前に会場に着いたら、さっそく甥が鳴らす音楽に迎えられたが、
8時過ぎになんとなく人が集まって来た。お誕生日おめでとうの挨拶の後、
プレゼントやお祝い金を入った包みを渡してくれ、そのままテーブルにつく。

この間もずっと大音響は鳴り響いているので、会場では会話はできない。
頼んで音を小さくすれば、という考えは、長年の経験から針の穴にラクダを
通すよりも難しいこと、皆が楽しんでいるのに無粋な相談と学んでいるので、
黙って耐えている。

踊っている人はといえば、甥とその友人くらい。息子は到着以来ずっと
風船を追いかけて遊んでおり、あとのオジサン、オバサンたちはステージを
見て拍手したり、子どもたちを見て笑っていたようだ。

結婚式の披露宴でも「いつ始まったのか分からない」と私の親が言っていた
ように、こちらのパーティには特に式次第があるわけでもなく、音楽やダンス
の間はテーブルにもまだ料理もなく、音楽がなければ皆、漠然と時を過ごして
いるといったようにみえるかもしれない。といっても、親しい人たちのお祝事
だからうれしい気分であることは間違いないのだろうが。

しばらくして、9時半頃、ステージに台が現れ、人形劇が始まった。子どもたち
を前に並べて、今日の主役はだあれ?に始まり、質問したり、歌を歌ったり
が終わると台が消え、人形劇の二人が当然のように台の下から現れて手品を始めた。

人形劇の途中で、生まれて初めて経験する大音響の洪水に疲れたのだろう、
息子がスヤスヤ眠ってしまった。音楽が止んでやっと静かになったから、
わけもなかろうと私は思うのだが、他の人々はびっくり、且つ呆れ顔。

昼寝をさせなかったんでしょう、と何人かに言われたが、まあ文化の違いと
いうものを育児を通してなんと見る機会の多いことか。9時過ぎに子どもが
外出先で眠ってしまっても、日本では批難されることはまずあるまいに。

手品の後は会場の明かりが落ちて、バースデイ・ケーキが登場。息子は
夫に抱かれてもしばらく目をつぶったままだったが、ここ一週間聞き慣れた
ハッピー・バースデイの歌が、これまた大音量でかかると、何とか目を開け、
寝ぼけまなこでろうそくの火を見ていた。

おなじみの(発音も音階もアラブ式に変調されているものの)ハッピー・
バースデイ・トゥ・ユーの後に、アラビア語版ハッピー・バースデイの歌、
そしてろうそくをふーっと消す。みんなが順におめでとうと言いにきてくれ、
席に戻るとやっと食事、続いてケーキを食べてまた談笑。このときばかりは
DJたちも食事をするからだろう、軽い曲がやや音量を落としてかかっている
だけだった。

甥と友人たちのダンス・ショーが一区切りついた頃、時間を見たら11時。
順にお客も帰っていき、レストランからも音楽はもうこれまで、と言われて
やっと終了・・・。

多めに頼んだ料理とケーキ、頂いたプレゼントの山を持ち帰り、一息ついたら
もう12時を過ぎている。寝巻きに着替えた息子はひとしきり部屋中をはい回った後、
こてんと眠ってしまった。

私も、少なくともあと364日は誕生日会の心配をしなくていいと思い、安眠した。

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