『SMOKE DREAM』番外編(平成16年度版)


闇の地底湖



           


 場面はチェリー爺が闇の化物、大蛇エムエフと死闘を繰り広げている闇の地底湖に戻る。
 チェリー爺は死神ケントの闇の幻影術に落ち、過去の記憶を好いように穿られ底無し沼へ落とされてしまった。その後、沼の地下深くにある洞窟で息を吹き返した彼は、その洞窟を辿ると大きな地底湖にぶつかった。しかし、そこには闇の巨大な化物が潜んでいたのである。

 「あぁ・・・。」
 チェリー爺の絶望の声が洩れた。
 「わしの作り出した氷の竜が脆く崩れ去ってゆく・・・。」
 チェリー爺の氷竜は胴体の鱗の半分以上が無惨にもげ落ち、顔の形も左側は氷が崩れてギザギザになっていた。
 彼は泥水に浸かり、あぐらをかきながら震える右手をそれでも動かし、氷竜を操り続けた。
 衣類はいつの間にか、真っ白に色が抜けてしまっている。
 崩れゆく氷竜が片目をキラッと光らすと、最後の攻撃を試みた。
 口だけでなく身体全体から冷気を発し、目にも止まらぬ勢いで大蛇エムエフに向かって行ったのである。
 次の瞬間、獰猛なエムエフに透明に輝く胴体全てを絡み預けると、
 『パキーン!!!』
 とガラスが弾ける音が地底湖の天井の隅々まで響き渡った。
 真っ白な冷気が落ち着き、暗闇の中での微かな視界が開けてくると、エムエフは巨大な氷塊と化していた。
 チェリー爺は安堵の息を吐いた。
 「なんて、手強い奴なんじゃ・・・。地上でなら、太陽の光が燦々と輝く下でなら、こんな奴に苦戦を強いられる事などないのじゃが・・・。手間取り過ぎた。」
 彼はぐったりとうなだれ、ろくに動く事も出来ない。
 「歳は取りたくないものじゃの・・・、ハッハッハッ。帰らねば、村に、ニュージェード村に。マルボロ達が心配よの。」
 もう一度、大きく息を吐くと数百メートル先にある滝へ視線を向けた。その流れて来る水流の上部が仄かに明るい。
 「あそこから地上を目指そう。氷竜をもう一度作って背に乗り、湖を渡って行くことにしよう。氷竜よ、いでよ氷竜よ。」
 右手を振り、左手を振ったが、竜は現れなかった。
 「ひょ、氷竜よっ。だ、駄目じゃ、もう氷竜を作り出す気力がない・・・。」
 『ポチャンッ』
 と両手を水面に下ろすと、燻った氷のエネルギーによって薄氷が広がった。
 『ゆっくりと泳いで行くか・・・。』
 と考えを巡らせた時、彼に悪寒が走った。
 氷の塊となったエムエフの内側から不気味な赤い光が2つ。
 『パキパキパキッ』
 と、氷の崩れる嫌な音が響き渡った。
 この地底湖の主、エムエフは崩れた氷の上部から頭を出し、長い首を覗かせ、赤い目を爛々と輝かせたのである。
 首の骨を器用にコキコキと鳴らすと、何も無かったかのようにスルスルと氷から脱してしまった。
 ゆっくりと湖面を漂ってチェリー爺に近づくと、後は獲物を一呑みするだけとなった。
 この時チェリー爺の脳裏に去来したのは、何だったのだろうか。
 この「SMOKE DREAM」という世界を去り、現世に戻ってしまった妻のエコーや愛娘ホープの振り向きざまの笑顔か、ニュージェード村に残って帰りを待っている孫娘ヴァージニの駆け寄ってくる姿か。
 それとも、愛弟子マルボロやラークの事か・・・。
 チェリー爺を丸呑みしたエムエフはお腹をぷくっと膨らませ、気持ち良さそうに眠り出した。
 痩せ形のセイラム爺と対照的に、美味しそうなお饅頭が2つ、くっついた様な体型のチェリー爺。
 エムエフにとって、さぞかし美味しかった事であろう。

                 


 この大蛇がとぐろを巻き眠り出してから間もなく、
 『ポチャン』
 と、地底湖に流れ落ちている滝から、何かが滑り下って来た。
 それは、頭を痛そうに擦りながら水面をスィ〜〜と流れて来ると、いきなり、緑色に輝く剣を振り上げ、
 『ザックン!』
 と、エムエフの胴体を真ん中から2つにぶった切ってしまった。
 「先手必勝!!」
 大声で叫んだのは、何とラークである。
 「あ〜、頭、痛っ。ウィンストンに跨って上空に逃れようとしたら、何か黒い塊が跳んで来やがって・・・。黒い変な帽子にも見えたけど何だったんだろう?それにしても堅かったなぁ。」
 ラークのおでこのやや右上に、お餅が膨らんだ様に赤いたんこぶが見える。
 ラークもまさか、その黒い塊が死神ケントの頭だったなんて思いも及ばなかっただろう。
 死神ケントはニュージェード村を襲撃して、トランプ使いのセブンスターを手にかけた後、水の妖精プレミアの大津波を喰らって村の外へ流し戻された。そして、その時の衝撃で首が取れてしまったのである。
 エムエフが激痛によって奇声をあげた。
 しかし、既に自分の身体は2つに分離してしまっている。
 分裂したうちの頭の方は、必死に自分の身体をこんなにした何者かを捜し、尻尾の方はやたら滅多らと湖中を暴れまくった。
 「ヒュ〜、やってられないよ。津波に巻き込まれて、凄い勢いで泥水にまみれてさ、地面の中に落ちたと思ったら、この湖でしょ。なんか嫌な動物的な寝息が聞こえて来たから、そぉーと近付いてみたら案の定、闇のでっかい化物ときた。」
 大蛇エムエフは鋭い目で、緑色に輝く剣を持ったラークを見付けると、赤い視線で睨み付けた。
 「あっちぃ!」
 その赤い目からはレーザー光線が解き放たれ、ラークの泥まみれの甚平の左胸が一瞬、燃えた。
 「うわぁっ!この。」
 ラークは剣を鏡の様に用いて、その光線を他所へ散らした。
 するとエムエフは歯ぎしりした後、大口を開け、凶器となる牙だけでなく、サメの様に幾本もある歯まで見せた。
 それが闇に銀色に浮かんで見えるものだから、ラークは生きた心地がしなかった。
 憎悪を剥き出しにして、噛み付いてくるエムエフ。
 それをすんでの所でかわし、剣で応戦するラーク。
 しかし、エムエフが体を半分、失った時点で、既に勝負は付いていたと言えよう。
 ラークは、ニュージェード村の住人となってからの日々をチェリー爺の道場で、チェリー爺の愛弟子、マルボロに毎日、しごかれていた。その甲斐もあって多少、剣の使い方が上達していた。
 いつもと違って、勝手のゆかない身体で湖の中を上手く泳げず、獲物まで口が届かない大蛇エムエフ。
 その大蛇が躍起になって顔を伸ばして来たところをサクサクとつつく、エメラルド・グリーンに輝くラークの剣。
 そのうちに、ラークの一刀がエムエフの脳天を的確に捉えた。
 エムエフは一声、弱々しく咆哮を上げて大粒の涙を零して見せた後、湖中奥深くへ潜り去っていった。

         


 地底湖は、次第に静けさを取り戻し始めた。
 残ったエムエフの尻尾部分が、まだ時折、水飛沫を上げるほど大きく動く事があったが、他にはラークが落ちて来た滝の流れ落ちる音が朧気に聞こえるだけだ。
 ふと、ラークはその尻尾の、人を呑み込んだら丁度これぐらいの大きさになるであろう、膨らみに注目した。
 「これは何だろう!?切り開いて見るべきか、否か・・・。」
 彼は立ち泳ぎをしながら剣を振りかぶり、固唾を呑んだ。
 「え〜〜ぃ。」
 『ザクク・・・』
 切り込みを入れると、中から真っ黒なタコの化物が満面の笑みを浮かべて、
 「やぁ。」
 と顔を出した。
 「・・・・・・。」
 ラークはその丸い顔をそそくさとエムエフの体内に押し戻すと、
 「ふー・・・。何も見なかった事にしよう。」
 と呟いた。
 そのタコは再び顔を出そうとした。
 彼はまたもや、中へ無理矢理押し込んだ。
 「こら!!!わしじゃ、ラークよ。わしが分からんのか!!!チェリーじゃよ、チェリーじゃ!」
 ラークは目ん玉が飛び出た。
 「へ!?し、師匠?こんな所で何をやってるんすか?」
 「何をやっているって、お前、誰も好き好んでこんな大蛇の腹の中に入らんわい。そんな事よりも、その何度も押し戻そうとする手をどけろ。これ、どけんか。」
 「へ?!あ、すいません。つい身体が動いてしまって。まさか、じっさんがこの大蛇のお腹に収まっているとは・・・。」
 チェリー爺は、エムエフの胃液で粘性のある黒い液体にまみれている。
 「ふぅ〜〜、助かったわい。礼を言うぞ、ラーク。」
 「いえいえ、心配していたんですよ。ニュージェード村で、村を出た皆を救護班の方達と待っていたんですが、急に闇の浸食が起こって爺さんの家付近まで緑が無くなってしまって・・・。じっさんに言われたように村で待機しているつもりだったんですけど、ちょっと様子を見に来たんすよ。引き留めるルーシアの言う事も聞かずに・・・。」
 チェリー爺は汚れた顔を二の腕で拭いつつ、
 「ちょっとの割には格好が凄いのぉ。泥まみれ、小枝、枯葉まみれの擦り傷だらけ、服も至る所、破れとるじゃぁないか。ルーシアの言うとおりにしといた方が良かったんじゃぁないか?ん?あらあら、たんこぶまで作ってからに。」
 「そんな事言ったら、じっさん今頃、あの蛇の腹の中で溶けているよ!!」
 「むむ、そうじゃな。感謝しとるぞ、ラーク。お主が来てくれなかったら今頃生きておらんかった。」
 「そうでしょ、そうでしょお!今回は役に立ちましたよぉ、僕でも!」
 「うむ、うむ。そうじゃな、本当に助かったわい。それで、家の付近まで闇の領域が押し寄せて来たと言う話、気になるな。その話をもっと詳しく聞かせてくれ。」
 2人は会話を続けながら、湖を滝の方へゆっくりと泳いだ。
 ラークは、雲の妖精ウィンストンの背に跨って空を巡回した事から、濁流に呑まれるまでを簡単に説明した。
 チェリー爺は昏々と話を聞きながら、
 「ウィンストンにまで来て貰ったんじゃな、あいつに会うのは久しぶりじゃ。さすが、チャコールの奴、用意周到じゃの。だとすると、その大洪水も大抵予想が付くわい。妖精達を片っ端から呼んでくれたのならな。」
 チェリー爺には何か思い当たる節がある様だ。
 「一体全体、何が起きたのですか?」
 「恐らく・・・、恐らくじゃが、村が死神ケントの襲撃を受けた、と言う事は間違いないじゃろう。」
 チェリー爺の言葉には重みがあった。
 「えぇ、やはり。そんな気が薄々としてはいたのですが・・・。それが津波とどう関係が?」
 「プレミアじゃろう。妖精じゃよ、水のな。」
 「水の妖精?」
 「早いところニュージェード村へ戻る必要がありそうだ。さてと、滝の下まで着いたがどうしたものか・・・。やはり登るしかないの。ラーク、肩を貸せい!。」
 「はいはい。げげ、これを登るのかよ・・・。」
 ラークは滝壺から絶壁のような滝を見上げて圧倒された。
 地上の明かりが射しているのを、遙か高見に確認できた。

                                    


 ごつごつとした岩肌に手を掛け、ずぶ濡れになって登って行く2人。
 歳の若いラークが先によじ登り、チェリー爺に手を伸ばしては引っ張り上げる。
 チェリー爺も、
 『まだまだ、若い者には負けんわい。』
 と、垂直に近い岩肌をよじ登る。
 しかし岩壁は所々、苔が生えてぬるぬるしている上に、流れ落ちて来る水に紛れて細かい障害物が沢山落ちてくる。
 それでも、その滝の中腹まで這い上がれた2人は、岩肌の窪みに横たわり、荒れる息を整えた。
 「わしが上の方が楽かもな、ラークよ。わしを押し上げる方が良いじゃろ、引っ張り上げるよりも、なぁ。」
 「ハァ、ハァ、そうですね。その方が登り易いと思いますよ。」
 今度は、チェリー爺が先によじ登り始めた。
 下からラークがチェリー爺のお尻を時折、手や肩を使って押し上げた。
 やっとの思いで、地上に辿り着けそうになった2人を、しつこく追って来る闇の化物が・・・。
 暗い滝壺から、ぬぅっと頭を出したのは先程の大蛇エムエフである。
 2人が地上へ出るのに手こずっている内に、真っ二つに分離した身体は再生を終え、完全に元の状態になっていた。
 傾斜の角度が90度を超えている水の流れていない湿った岩肌を、慣れた動きでスルスルと音をさせずに這い上がって来るエムエフ。
 やがて、ラークの姿を射程距離内に捉えると、
 『ガブリッ』
 と横から彼の右足を太股の辺りまでかぶりついた。
 『逃がしてたまるかよ〜、逃がしてたまるかよ〜。久しぶりの生身の人間をよ〜、闇の地底湖からさぁ。』
 エムエフが喋れる事が出来たのなら、そう言っていたに違いない。
 ラークもチェリー爺も流れ落ちる激しい水の音で、こんなにも近くまで大蛇が迫っていた事に気付かなかった。
 「うぎゃぁ!痛っ痛た!!こ、こいつ、こんな所まで、いつの間に。」
 さらにエムエフの銀色に光る凶歯が、彼の股の筋肉に食い込んだ。
 「!!っく・・・。」
 余りの痛さに一瞬気の遠くなったラークはそれでも左手で、彼の着ている甚平は巧く背中に剣が収まるようになっているのだが、そこから大剣を引き抜き、エムエフの喉元付近に斬り付けた。
 が、左足は宙ぶらりんの状態となってしまい、右手一本で自分の全体重を支えているのに精一杯である。
 剣は空を切るばかりで、大蛇の薄皮をちょんちょんと傷付けるだけだ。
 チェリー爺も慌ててラークの右手に力を貸そうと手を伸ばしたが、上を見ていなかった為に、たまたま落ちて来た人の腕ぐらいの大きさの古木に酷く腰を打ち付けてしまった。
 その衝撃で、チェリー爺の足元の岩盤が脆く崩れた。
 団子のような丸い体型のチェリー爺までが、腰の痛みと水流の勢いに負けて滑り落ちた。
 『ガッ』
 そして、チェリー爺が掴まった場所はなんとラークの右手首である。
 「ラ、ラーク、すまん。こんな事になってしまうとは・・・。とんだ荷物になってしまった。」
 「へへ、これくらい、どうって事ないっすよ。けれど、この絶望的な状況・・・、打破するには、どうすれば・・・。」
 ラークの右手はガクガクと震えが止まらない。
 「ハッ、ハァー、ハァー。耐えろ、耐えるんじゃ、ラーク。もう少し、もう少しで呼吸が整う・・・。」
 チェリー爺は、まだ腰の痛みの痺れが抜けず、浅い呼吸しか出来なかった。
 巨大な蛇はラークの片足を呑み込んだまま、その黒光りしている胴体を上へ上へと持ってき始めた。
 「い、いかん。このままでは2人とも押し潰される・・・。」
 大蛇エムエフは徐々に巻き付き、2人の姿は見えなくなった。
 「じっさん、まだかい?も、もう駄目だ、限界だぁ・・・。」
 黒い胴体がぎゅうっと彼らを締め付ける。
 ラークの右手が、とうとう力尽きて岩から離れた。
 「ああぁぁ・・・。」
 再び光の無い重苦しい闇の底に2人が吸い込まれて行く。
 エムエフの締め付けは緩んで、ラークは足を噛まれたまま、チェリー爺は逆さまになって頭から、ラークの右手を離さず落下して行く。
 一瞬、チェリー爺の視線と大蛇エムエフの恐ろしい赤い眼が、交錯し合った。
 それは、僅かゼロコンマ何秒と言う時の流れの筈なのに、彼には5分にも10分にも感じられたものである。
 「い、いでよ、氷竜。」
 チェリー爺とラークの手の重なりあった部分に、白い光の玉が出現した。
 チェリー爺の右肩の辺りに竜の鱗の影ができ、それが留まる事無く右手首まで流れ、光と化してゆく。
 透明な氷竜が凄まじい冷気と共に咆哮をあげた。
 それが、ラークの身体を伝わって、呑み込まれていた足からエムエフの口の奥へと突き進む。
 『どっぷん!!どっぱん!!バシャ、バシャ!バシャッ』
 2人は滝壺に深く沈んで行った。
 後から、エムエフの凍って割れた氷塊が、幾片も水面に激しく降り注いだ。

             


 「ぶぅわはーっ。」
 チェリー爺が地底湖の水面に顔を見せた。
 やがて、浅瀬にラークが流れ着いているのを見付け、慌てて泳ぎ近づく。
 気を失っているラークの頬を軽く2、3回、叩いた。
 「ラークよ、これ、ラークよ。しっかりせい!目を覚ませ。」
 「うう、た、助かったのか・・・。」
 ラークは滝から落ちてゆく時、チェリー爺の手から光の玉が自分の身体を貫いた瞬間を思い出していた。
 「氷竜、いつもながら鮮やかなお手並みで。」
 チェリー爺の作り出した氷竜は、人間や妖精の身体を通り抜ける事ができ、さらに、それによってエネルギーを増幅できる場合もある。
 「おぉ、うっすらと地上の光がわしの背に当たっていたからの、氷竜を上手く呼び寄せる事ができた。後、ラーク、お主のエネルギーも少しばかり使わせてもらったぞ。」
 「僕なんかのエネルギーで良ければ、幾らでも使って下さいよ。」
 大蛇エムエフは身体の内側から凍り付き、荒い岩肌にぶつかって砕け散った。再生するのには、かなりの時間を要する。
 「さぁ、もう一踏ん張りじゃぞ!」
 チェリー爺が手を差し伸べると、ラークはそれに応えるように、強くがっしりと掴んだ。
 ラークが落としてしまった剣は、不思議と彼のすぐ横に沈んでいた。
 ラークは少し戸惑いを感じながらも、いつも通り甚平の背中に収めた。
 「その剣、余程お前さんの事が好きと思える。」
 チェリー爺が笑顔でそう語り掛けた。

 その後、2人はその険しい滝を無事によじ登り、ようやく地上の光を得る事が出来た。
 ラークの足の負傷は重かったが、水の妖精プレミアが作り出した濁流が治まり、滝の流れが緩やかに変わったのが不幸中の幸いとなった。
 ラークは右太股に、甚平の腰紐を包帯代わりに巻き付けている。
 その紐は妖精の白布で出来ていて、軽い擦り傷などはすぐに治せてしまう代物だ。
 それでもラークの噛まれた傷は深かった為に、重い足を引きずりながらの歩行となる。
 ニュージェード村方面の北の空を見上げると、禍々しい暗い雲が現れ始めていた。
 チェリー爺は、外の空気をゆっくりとやつれた身体に馴染ませ、
 「闇の領域の、灰色の太陽の光が、これほど有り難いものとはなぁ。」
 と呟いた。
 ニュージェード村から濁流が通り越していった地面には、灰色の大木がゴロゴロと転がっている。
 それは、彼らが這い上がって来た地面の割れ目をさらに越えて広がっていた。
 「プレミアの奴、やりおったな。これだけ圧倒的なパワーの前には、死神ケントも脱帽したじゃろう。さてと早いとこ、皆の待つニュージェード村へ帰ろう!」
 チェリー爺の呼び掛けに、ラークは沈思したままだ。
 「さぁ、帰ろう、ラークや。帰るんじゃぞ。」
 しかし、そう言った当本人も足を一歩も動かせないでいた。
 一滴の汗がチェリー爺の額から、そっと流れ落ちた。
「行かなくては・・・、皆が待っておる。マルボロやヴァージニが・・・。」
 濁流で木々は倒れ、視界はいつもより開けている。何キロか先にある筈のニュージェード村が、遠目に見えてもおかしくなかった。
 恐怖と嫌悪感で強張った身体に鞭打つように、それでも一歩進み出ると、ラークがチェリー爺の肩に手を乗せ、引き戻した。
 「じっさん、無理だよ!帰れねーよー。」
 向かう先には無情にも、彼らを呑み込まんとばかりに漆黒の霧が渦巻いて広がっていたのである。
 「帰るんじゃよ、村に。ヴァージニが待っておるって、離すんじゃ!」
 「あんなに空が、真っ黒になって落ちて来てる。危なくて、あっちの方には行けないよ。」
 「むむ、そうじゃが、なればこそ戻らねば・・・。あの嫌な感じ覚えがある。」
 「えぇ、僕も忘れる事は出来ません。」
 ラークは一息、置いてから、
 「死神JPS。」
 と無表情で呟いた。
 「この洪水の騒ぎを何事かと嗅ぎ付けて、やって来たに違いない。死神JPSの降臨か・・・、闇が急激に膨れあがって来ておる。何て事じゃ・・・、何て・・・。」
 チェリー爺は、傍らにあった腰の辺りまである大岩に、
 『バチン!』
 と平手を打ち落とした。
 そして、恨めしそうに黒雲を見やった。
 闇の領域上で、死神JPSを相手にするのは、チェリー爺と言えど無謀な行為であった。
 死神は闇のエネルギーを自在に使いこなし、体力を消耗する事も無く、そして不死身なのである。
 ラークは肩を落として俯いているチェリー爺を労るかのように、傷付いた足ながらも、彼に肩を貸して南西へ促した。
 「ここからは、レッド・アベンチュリン村の方が近い。フロンティア達の所に行って、少し休みましょう。そしたら、何か良い案が浮かぶかも知れない。」
 2人は、後ろ髪を引かれるような気持ちで、ゆっくりとレッド・アベンチュリン村へ向かって歩き始めた。
 後ろの方で、先程チェリー爺が平手を落とした巨岩が、
 「ピシ!ピシ!」
 と小さな音を立てると、2つに割れて真新しい岩肌が露わになった。
 ラークは、振り返ってチラッとその岩を見たが、別段変わった様子も無く、チェリー爺の肩を自分の肩に乗せながら、そのまま歩き続けた。
 心の中では、
 「この爺さん、からかい過ぎたりして怒らす事は絶対にしないようにしよう・・・。」
 と青ざめていた。