2002年6月までの散歩道
第2劇場「チャムチャムドラッグ」満月動物園「自覚ある狂気の哀しみ」「銭湯の女神」(星野博美)/「そうだったのか! 世界史」(池上彰)/「トムは真夜中の庭で」(フィリパ・ピアス)/「オウムと私」(林郁夫)/伊丹十三「たんぽぽ」「スィートホーム」/ディズニー「ノートルダムの鐘」/ビスコンティ「ベニスに死す」/「アメリ」/チェ−ホフ原作の「別荘の秘め事」/カンディンスキー展/エッシャー展アミューズトライアングルチェーホフ「黒衣の僧」/浮狼舎の芝居演劇論(めいたもの)(エロス)公演を終えて
過去の話題
★2001年4月までの散歩道★ 「花鳥風月 桜の森」までのもがき日記/田口ランディ/劇場・美術・舞台/もののけ姫/稽古状況/生きてゐる小平次(くじら企画)/チホー議会の闇の奥(戸田ひさよし)/カズオ・イシグロ/川端康成/DYLAN'S CHILDREN/SCRATCH BAR/ジョージ・ハリスン/9・11 チョムスキー/ベルサイユのはら/快読シェイクスピア/大麻の灰/花鳥風月の構想・構成/日本美術の流れ/カルダー/小屋
★2001年11月までの散歩道★ プレーンソング/保坂和志/秘密の花園/寺門孝之展/鈴木清順・ピストルオペラ/水泳部/世界を肯定する哲学/藤山直美/幕の内弁当/代々木忠/スプーン・マーメイド/どくんご/くじら企画/朗読者/有田さん

6月29日 第2劇場「チャムチャムドラッグ」
◆ここ数年見ていなかったのだが、実は学生のころから、この劇団とはつきあいがある。てことは20年以上になる。旗揚げから25年だという。それにしても、そのテイストは変わらない。いつも飄々としている。この飄々さがたまらなくいい。見に行って嫌になったことが、今までない。
◆今回は雑貨屋のような薬局の話で、ラストに近づくにしたがって、なんともいえない暖かさが感じられてきた。実にきめこまかい、楽しい芝居になった。役者は達者なものも、未熟なものもいるが、それがそれぞれきちんと舞台を背負っていて、ヘタでもぜんぜん気にならないってのはスゴイ。それもここの飄々とした味が、全てを許してしまうからなのだろう。ラストに現れた阿部氏の芝居もよかった。
◆かなり以前に、ここの芝居にショックを感じたことがあった。そのころは、まったくの素舞台で、音楽もラストに一曲だけ、話はホイホイと夢幻の世界に踏み込んでいくような、それはそれはリリカルな芝居なのだった。私はそれを見て「やられた!」と思ったのだが、どうもその路線は劇団内にもお客にも受けがイマイチだったのか、その後はまた美術や音楽が復活していったようだ。たぶん、あれを受け取ってしまった私は、どこかでいまだに影響を受けているような気がする。そして、ついつい芝居を気負ってしまう私をいさめているのだ。

6月28日 顔合わせ3
◆3回目の読みあわせにして、田口さん登場。読んでるうちに、なぜかわたしが代役で読んでいたシャムラーエフも読みはじめる。あれ、まちがえてるのかな、と思いつつも、断然おもしろいのでそのまま放置していると、なんと今日休みのコースチャ役まで読みはじめる。いやあ、びっくりした。しかし、大変楽しませていただきました。しかし、田口さん、さすがにいい。とても活き活きとしている。
◆なんとか第二幕まで訳し終えた。私の訳は、敬語や丁寧語をかなり取り払うこと、言い回しをかなり濃く色づけすること、日本語ではあまり使わない主語や代名詞を削ることなどが中心だが、やっていていろいろ気がついたことがある。主に2点。
◆ひとつは、今までもっと活き活きした芝居、また肌合いのようなものをめざして、いろいろな話し言葉で書いてきた。それは具体的にいうと、「です・ます」より「だよな・じゃねえか・てんねん」などをよく使うということで、落語的だったり、漫画的だったりする。いきおいヤクザ映画的だったりもする。「です・ます」の中性さを嫌ってきた。(といいつつ、実はあちこちに使っているのだが)けれども、たとえば「くじら企画」などでは、ホームレスの三人が「です・ます」で互いに丁々発止と激論したりする。そして、それぞれのキャラクターは充分濃い。もしかすると、場合によっては「です・ます」の方が演技者次第の部分が多く、だからこそ、強烈なキャラクターになったり、言葉とは別の強い肉体性が前に出るなどということがあるかもしれない。(だからといって、私は方針を変えるわけではない)
◆また、それは芝居の全体像にもいえるかもしれない。今回、それぞれのセリフは上品さを削ることによって、少しずつ激しいセリフになっている。それは英語版を元にしているという理由もあるのだが、芝居を作る方向として、私はこのところ、もっと激しい感情へと芝居を押して行こうと思っている。その方がより直接的な芝居になると感じるからだ。ところが、役者の感情を表に出して芝居を見せることによって、逆に観客の想像力に頼る部分は少なくなるのかもしれない。素顔や無表情の力というものも、また、あるのだ。柄谷行人は、無表情という演技によって、演技における「内面」が発見されたというようなことをどこかで書いていたと思うが、まさしく、強く演じないことで、客がこれはああなのかな、こうなのかな、とその向こうにある気持に思いをめぐらすということがあるのだ。昔、私が好きだった維新派はそうだった。今は作り手と客の想像力がどこかで結びあるというそんな部分があまりなくなって、あくまで創作されたものをこちらが鑑賞していうような気もしてしまう。作りすぎることがいいことでは、決してない。
◆もちろん、こんなことを考えたからといって、すぐにやり方を変えようというわけではないのだが・・・。
◆稽古のあと、マリーさん(飛田演劇賞蛮勇賞を渡すため)を交えて飲む。以前一度断られたのだが、再度出演を頼んでみた。かなり悩んでいる様子。出て欲しいなあ。

6月26日 読み合わせ2
◆今日は第二回の読み合わせであった。戎屋海老、萩原慎の両名が登場。後者は前回虫歯でナント入院しとったらしい。もうスッキリした顔をしていた。海老氏は一幕のセリフは少ないが、私が思っていたとおり、トリゴーリンにぴたり。あまりピタリなので、むしろ今後が難しくなりそう。慎さんは今回はじめて一緒にやるので心配だったのだが、いや、どうして、今日はじめて渡された台本であるのに、堂々とした読みっぷりだった。これから、ガンガン演出つけさせていただきます。ギンカ快調な滑り出し。きのこもボチボチと何かをつかみつつある様子。檪原クン、あいかわらずカンがいいけど、割舌悪し。キリコのブリッコ心配であったが、思い切りが出てきてよくなってくる。ただ、ニーナの劇中劇のところはまだイメージ定まらず。早くも皆の立ち姿が見たくなってきた。ただ、まだ皆さん全くカラミにはなってない。
◆今日は小室、高橋、田口さんが休みであった。それにくわえて、シャムラーエフ役がまだ決まっていない。ああ、私、やらんとこと思ってるのに。誰かおらんか。
◆きのこが新たにチラシのイラストを描いてくる。渦の中のカモメの頭部が線描きから筆描きになって、より迫力を増し、これに決定する。かなり強烈だ。少し暗いかもしれん。しかし、これは強烈だ。キャッチ・コピーには「なぜ死ぬのか」と考えているのだが、これと合わせるとため息が出る程、暗い。芝居とのギャップは確かにある。しかし、今回はあえていつもと違う冒険しよう。チラシの大きさもいつもの倍の予定なのだ。
◆翻訳は二幕の1/2というところか。たぶん金曜には二幕を渡せるでしょう。二幕では、うってかわってトリゴーリンの超長ゼリあり。頼むぞ、往年の同志、戎屋海老!

6月21日 初読み合わせ
◆読み合わせ初回。ひとつひとつ説明しながら読んでいく。なにしろ今回の課題は語ることなのだから。ただ、11人の役者のうち、一人はまだ決まっていないし、3人は休んでいたので代役が多く、ぼんやりとした読み合わせになった。
◆途中、ニーナの一人芝居の中のセリフに「もっとも小さなヒルのタマシイさえも」というところがある。今までの訳のほとんどもヒルとなっている(湯浅訳のみ「蛙の末」)のだが、ナポレオンとかシーザーの後に、なぜ突然ヒルが出てくるのかと不審に思っていたのだが、ふいに「これは胎児のことだ」と思い当たる。われながら、正しい発見。
◆また、ドールンのセリフの中で、どうやら彼は十年ほど前になにか事件を起こして、もう医者ではなくなっているらしいということを感じた。ドールンをヤクザな医者と思ったのも正解だったようだ。
◆これから、たとえ読みあわせでも、ガンガン読んでもらうことを役者にお願いする。今回の稽古は、低いところから様々なことを発見しつつやっていくのではなく、一回一回の稽古もまた他少発表のように考えてやってみよう。こちらの考えているイメージも、押しつけにならないように注意はしたいが、どんどん言っていきたい。また、違うと思うなら、それも言っていただきたいと思っている。場合によっては、毎回が即興的になってしまい、オンリーワンの演技を模索できなくなる可能性もあるのだが、「かもめ」の場合、つい細やかな部分に気をとられてしまうので、もっと演技の強さと活き活きした躍動感の上に、細やかな感情を乗せていきたいと思っているからだ。

6月20日 顔合わせ
◆昨日は「かもめ」の顔合わせだった。一人熱を出して来れなかったが、あとの役者たちと、照明の竜ちゃんが集まって飲んだ。これだけ男優たちの年齢層が高い芝居も珍しいだろう。みな、一癖も二癖もある人たち。はじめて一緒に芝居を作るメンバーも多い。これからこの人たちと4ヶ月もがくことになると思うと、ワクワクする。楽市の劇団員も含めて、この芝居に集まった皆に感謝し、その多大なついやす時間が価値あるものになることを願いたい。何人かがうちに来て、3時過ぎまでワイワイと語った。
◆たぶん今回はこのようにしてずいぶん多くを語り合うことになるだろう。自分で書いた台本ではないので、台本の意図や翻訳の意図も語りやすい。本来なら自分の書いたものでも、もっと語るべきなのだが、書いたばかりでなかなか客観視するのがむずかしい。私は今回の「かもめ」を通して、まずそんな客観視と、互いに意図を語り合うやり方が学べたらと思う。

6/19 満月動物園「自覚ある狂気の哀しみ」
◆ここの芝居はもう何度も見ている。とても親しい劇団だけに、辛口になってしまう。見ていない人はぜひ見てください。私はあくまで自分の考えを整理するためにこれを書こうと思う。舞台の説明とか、物語について説明はあまりできない。というより、そういうことがあまり得意ではないので。
◆まず、ここの看板女優ともいえる河上由香はずいぶん成長した。動きもしっかりしているし、声もいい。表情も迫ってくるものがあった。カーテンの陰から腕を出しての手招きの動きはとても妖しかった。そのほかの役者も達者だし、魅力的だと思う。ただ、役がみな抽象的で、重なりあう部分も多く感じられて、私は最後まで距離感を感じたままだった。それは芝居全体の印象でもある。最近のここの芝居はずっとそれを感じる。幾重にもフィルターがかかっていて、入ることができない。芝居の中にもそんなシーンがある。
◆間が長い。そして、暗転がやけに多い。ちょっとカッコつけすぎ。切れ切れのシーンをつないでいく(全体の構成は、ちょうど映画の予告編がずっと続いているような感じ)のだが、結局シーンを味わえず、イライラといろいろ考えてしまった。音楽で場を盛り上げようとするのも、なんか無理がある。作者はずいぶんいろいろ悩み、それを描いているような気もするが、その悩みがこちらに伝わってこない。というより、それは悩みなのだろうか。ひどいことを言うかもしれないが、悩みに自分で酔っているようにも感じられた。ラスト、劇中シーンの抜粋のくり返しには特にそれを感じてしまう。叙情的な悩みなどありえない。悩んだことを叙情的に語っているだけだ。
◆私は最近よく「暗い芝居が嫌い」とあちこちで言っているのだが、それはただ単に雰囲気のことを言っているのではない。自分で物語をこしらえて自分でそこに閉じこもっているような芝居について言っている。マクベスなんかも悲劇中の悲劇だが、あれは物語に閉じ込められていく果てに、それを打ち破ろうと開き直って剣を抜く。日本的には「狂い咲き」という。今回のヒマワリにもそんな思いが込められていたのかもしれないが。49回の面接には、どこか49日の法要を連想させたが、それらも全てほのめかしで終わってしまうのはなぜだろう。これは私自身に対しても言えることかもしれないが、どこかボロを出さないようにしているのか。わかってくれなくていい、けれども呈示だけはしておく、ということなのだろうか。美しく描こうとしすぎているのだろうか。
◆叙情的ではなく、もっと自分を相対化できないものだろうか。そうすればユーモアも生まれるし、他者と出会うこともはじまる。他者の物語にも興味を持つことができるはずだ。全ての物語は物語をぶち壊すためにあるのだ。今回の芝居では、「他人の物語なんて私には必要ない」という言葉が出てくる。それに対して、ラストに「それじゃ、自分の物語がそんなにおもしろいのか?」という言葉が吐かれる。物語がただ物語であるなら、他人だろうが自分だろうが、ただの過去でしかない。ちょっと矛盾しているように思えるかもしれないが、物語にはそんな2面性がある。ここにも疑問文での呈示のみがささやかれている。
◆チラシやパンフレットに「演出・脚本」とあった。「脚本」という言葉は、これは私だけかもしれないが、今は映画やテレビの用語のような気がする。たとえば、ある小説の脚本化というように。その場合、もとの作品に込められた思いを共有しながら、その共感を映像へと拡げていく手段として脚本があると思う。彼にもそういう思いがあるのだろうか。もしそうなら、一度他人の物語にどっぷりと漬かってみる手はある。そして、「入っていけない場所」にずかずかと入って行って欲しい。

6/13 かもめ一幕翻訳完了
 朝ちょっと降ったかと思うと、結局晴れ。梅雨はどうしたんだろうね。
 かもめの一幕をいちおう訳し終えた。とりあえずこれを役者に読んでもらおう。それにしても、他のいろいろな和訳を比べて感じるのは、訳によってこんなに違うのか、というのではなく、ほとんど同じものの方が多いということ。それだけ最初の訳が偉大だったのだろうか。そういう私も、使っている英語のテキストは小田島さんのと同じだったので、ずいぶん参考にさせてもらっている。
 私の訳はずいぶんぶっきらぼうだ。英語からだからかもしれないが、あえて「です・ます」からは離れておこうと思っている。日本語は言葉つきでキャラクターがずいぶん違ってくるものだと、あらためてつくづく思う。そういえば村上春樹の小説の登場人物たちなど、あまり濃い喋り方はしない。こちらはずいぶん濃い性格になってきた。いずれUPします。
 今日は満月動物園を見に行く予定。来年の春の話も出ることだろう。これはまだ公式な話になっていないので、内緒。
 そして、明日はいよいよ顔合わせ。思わず顔を叩いてしまうのは、なぜだ。気合か? 今回もまた一段とツワモノぞろい。しかも、一緒にやるのははじめてという年長者が2人。はじめての同年代が一人。5年ぶりの同年代がもう一人。おかげで男の平均年齢はかなり高い。きっといろいろ助けられたり、教えてもらうことになるだろう。いいチームにしたい。
 先日、ずっと音信不通になっていた友人と、ほとんど20年ぶりにメールのやりとりをした。それもHPで見つけて。なんだかまだ信じられないような不思議な気分だ。きっと顔を見たら大笑いできるんだろうな。学生時代、彼はテェーホフの大ファンだったはず。もしかするとチェーホフみたいなヒゲをはやしているかもしれない。

6/17 アサガオ
 先日アサガオの種を撒いた。数日して土をかきわけながら芽が出て、あっという間に双葉が開き、もういくつも葉が出ている。同時期にヒマワリの種も植えたのだが、こちらは子葉の段階でナニモノかに全部食べられてしまい、全滅。子葉はほとんど種と同じなのできっとおいしいんだろう。猫か、鳥か。それにしても、子葉ってすごい。たった一枚で根や茎を用意しつつ、自ら葉となって光合成をし、次の葉へとバトンタッチしていく。そんなことを思うと、ほんとにケナゲだと思う。まあ、ヒマワリはあきらめたけど、アサガオはどんな花が咲くか楽しみ。ツルがでたら、棒を立ててやろう。子供の頃、夏休みの宿題にアサガオの観察日記をつけたことを思い出したりする。夏のあいだはずっとランニングだった。みんなそうだった。肩は何度も皮がむけるほど焼けて、ランニングの跡がくっきりとついていた。ランニングで背なかををかくので、すそはピラピラとフレアスカートのようにのびきっていた。観察日記は双葉のあたりでほったらかしになり、いつのまにかいくつかの花が咲いていた。植木鉢だったが、あまり水もやらずに、貧弱なアサガオだった。クーラーもなく、夜は蚊帳の中で眠った。開いた窓の外からは、虫の声がたくさん聞こえた。朝になると、団地の階段には、前の晩に飛んできた蛾やコメツキバッタやカミキリやときにはクワガタやタマムシなどが落ちていて、あっちこっちの階段に拾いに行った。コメツキバッタをひっくり返しては、跳ね上がるのをじっと見ていた。
 かもめの翻訳はやっとこさニーナの劇中劇のシーンにたどりつく。あさっては顔合わせだ。

6/13 かもめの翻訳難航中
 なんとか「かもめ」の翻訳を進めているが、思ったより難航中。考えが甘かったようだ。ひとことひとことに迷ってしまう。なんかもっとぴったりする話し言葉はないものかなあなんて。と、同時に、やっぱりすごく労力のかかることなのだ。しかし、読み込めば読み込むほど、おもしろくもなってくる。セリフの熱さが、ますます感じられてきた。熱い「かもめ」になりそうだ。人物たちの持っている味も、読み込むほどに強烈に感じられてくる。役者たちのバトルという面もたぶんにある。一幕目の劇中劇はともかくとして、他の部分にどういう視覚性を持たせるか。演劇的仕掛けをどう仕掛けるか。実はそれがまだ見えてこない。それが見えてこないと、文学的なドラマになってしまいそうだ。文学的なドラマ性も充分生かしながら、なんとかそれをもっと演劇的なシアトリカルなものに収斂できればと思うのだが。なんてことを考えてると、ますます訳すのが遅くなってしまうのね。
 英語から訳すのは邪道かもと思っていたら、小田島雄志も英語訳に今までの和訳を参照して訳しているのであった。正直な人だなあ。
 なんとか顔合わせに、一幕を間に合わせたい。

最近読んだ本・見た映画・行った展覧会
 ちょっとバテ気味。なかなかここに書き込めずにいた。なんでバテているのか、自分でもよくわからないが。
 公演が終わって、ここぞとばかりに本を読んだり芝居や映画を見たり、ライブや美術館へ行ったり、あれもしたいこれもしたい、しかし、来週はもう「かもめ」の稽古が始まる。気ばかりのあせりかもしれない。
 このところ読み終えた本(ちょこちょこ読んでいたもの多し)。
「銭湯の女神」(星野博美)銭湯とファミレスを往復する若いフリーライターのエッセイ。いろんなことを削ぎ落として見つめる目がいい。それにしても、落ち着いてる。若いのに。
「そうだったのか! 世界史」(池上彰)現在の世界の紛争がどこで、どういうふうに起こってきたのかが解説されている。参考書みたいなもの。うーん、そうだったのか。私はこれをトイレでちょこちょこ読みました。う〜ん。
「トムは真夜中の庭で」(フィリパ・ピアス)児童書です。面白かった! 一気に読んでしまった。しかし、あらゆるファンタジーをむさぼっているいまどきの少年少女には、少し地味かもしれない。
「オウムと私」(林郁夫)。オウム真理教の中心メンバーで、もともと医者だった林が全てを語ろうとした手記。ずっと読んでいて、「これはきれいごとだ」と思えて、吐きそうになりながら読み終えた。長い手記なのだ。ここに書かれているのは、いかに彼が麻原を信じるようになったか、また疑わなかった、疑えなかったか、また、その活動に対して色々感じることはあっても、麻原に対する信仰があったゆえにそれを否定して活動してきたか、だ。私はもっとほんとは信者同志の嫉妬や競争、やりきれないような挫折、不信、目立ちたいという思いなどがあったはずだと思う。それらは生い立ちのころから一切書かれていない気がした。けれども、ラストに自分が殺人という取り返しのつかないことをしてしまったことに思い至り、全てを告白しようとする過程については思わず涙が出た。
「あずみ」(小山ゆう)はまりました。これ、どこで連載してるんだろう。小山ゆうは、「俺は直角」のころから好き。速度を上げていくと、純粋さも増していくというのは、彼の永遠のテーマなのかもしれない。あずみの太い足がまぶしい。
 映画(ビデオを含む)もずいぶん見た。全部は書けないと思うので、いくつか。
 まず伊丹十三の映画を2本。「たんぽぽ」と「スィートホーム」。後者は監督ではないが、面白い。伊丹の役者がシビレル。「たんぽぽ」もいい。彼の映画はなんだかわからないのだが、胸が熱くなる。人間とか民主主義も捨てたもんではないと思えてくる。あと、いつも役者に体を使った汗かく芝居をやらせているのもいい感じ。
 ディズニーの「ノートルダムの鐘」も良かった。すごいスピード感。「千と千尋」なんかもそうだが、これらのアニメっていうのは、すごく過激なことをやっているような気がする。ちっとも平凡ではない。
 ビスコンティはあまり好きな監督ではないのだが、「ベニスに死す」の少年(マーク・レスター?)が見たくて借りてくる。美しいんだが、あまりいろいろやってくれない。しかし、これも過激な映画ではある。
「アメリ」も面白かった。ただ、結局主人公の女の子の内面に終始している気がした。出会いが出会いになっていない。わかりやすくて、シャレている。シャレているというのは、ちょっとした工夫が随所に感じられるということ。
 出会いが出会いにならないというのは、どこか全て共通して感じることかもしれない。自分の中になにかあるのだろうか。
 チェ−ホフ原作の官能映画というふれこみで「別荘の秘め事」というやつもあったが、いまいちでした。
 あと、久しぶりに梅田の地下で和製ポルノを見た。最近はビデオを上映するのでなく、ポルノ用にちゃんと作ってるのに驚いた。だから、ほとんどボカシはない。ちゃんとストーリイもある。しかし、かつての日活ロマンほど面白くない。自分の歳のせいか。客席はほとんどお年寄りだった。トイレとその周囲は若いゲイたちが占拠していた。
 そうそう、日本昔話も見たのだが、その中の「花咲じじい」を見て、これは親しいものを失った者が、時間がたつにつれて癒されるという話かもしれないと思った。
 それから、カンディンスキー展とエッシャー展のハシゴをした。前者は、私の好きな後期の単純明快な絵はなかったのだが、中期までの絵が、特に童話的な具象がけっこうあり、彼の資質・好みの流れが少しわかった気がした。色の構成や形がくりかえされたり、透き通って重なったり、そんな絵を求めて次第に抽象へとなっているような気がする。実に華やかな抽象。
 エッシャーの方は、彼が版画家であったことにまず驚いてしまった。知らんかった。しかもすごい技術を持った版画家で、その木版も展示されていたが、細かい! と同時に単純化して視点で見せるのも、また版画の技法の一つなのだ。地と図の反転するものや、空間がでんぐりがえるものなど、見ていると頭がクラクラした。 2002年06月10日 23時40分49秒

アミューズ・トライアングル
 土曜日にウィングフィールドでアミューズトライアングルの芝居を見る。3本の短編仕立て。私が好きだったのは、3本目。アクション物の男芝居の楽屋、さしみのツマ扱いされている三人の女優たちが、自分たちで芝居を立ちあげようと決意する話。もともと三人の女たちで立ち上げた集団だと知っているだけに、芝居がダブってみえる。あけみさん、笠嶋さんがいい味を出す。しかし、とくにに中村ゆりが良かった。体のキレ、声のノリ、そして目の輝き。芝居全体が少し静かな中で、彼女の力強さが際立ったということもあるだろう。ラストは不覚にも涙を浮かべていた。
 3本とも冒頭がすごくいい。シャレている。マジックショーのBGMのようなボサノバの中での舞台転換と題名の呈示。工夫を凝らした芝居への導入。2本目のダンスと唄は、ウキウキしてしまう。
 最初の2本はわりと静かな芝居。1本目は隠れて偽札を作っているという状況だし、2本目は長年営業を続けてきたクラブがついに閉店になるという設定だからしかたがないといえばしかたがないのだが、どこか体が疲れているというか、鉄分やカルシウムが足りていないような感じ。間の多さにもついついひっかかりを感じてしまう。考えてみると、昔はそんなことはぜんぜん感じなかった。維新派などおそろしい間の連続だった。疲れているのは、もしかすると私の方なのかもしれないという思いもちょっとよぎる。しかし、静かでさみしい芝居がちょっと多くないだろうか。 2002年06月04日 07時50分56秒

5/31 耐える力
 近畿の失業率がまた上がって7.8%になった。完全失業者は78万人だという。そのうち世帯主の失業者は108万人だという。なぜ後者の方が多いのか不思議だが、10人に一人は失業者といっていいのだろう。10人に一人・・・。数字がどうのではないのかもしれないが、これからどうなるのだろう。
 先日、チェーホフの「黒衣の僧」について書いたが、彼は「かもめ」のラスト近くで、ニーナにこんな台詞を言わせている。
「今あたしにはわかるわ、あたしたちの仕事では、そう、演じるのでも書くのでも一緒よ、一番大事なことは、名声とか栄光とかなんかじゃないの。ええ、あたしそんなことばかり夢見てた。でも、大事なのは耐える力。」
 耐える力。大事。・・・ああ、欲しい!

5/30
暑いの日が続いてるなあ。外を自転車で走っていると、頭のてっぺんが熱かったりする。
ああ、もう5月も終わる。だらだらと。ワールドカップも興味が沸かない。
今日はそんだけ。

5/28 黒衣の僧 浮狼舎の芝居
チェーホフの短編小説の一つ「黒衣の僧」。それは、こんな物語だ。

学者の卵のコヴリンは、医者の勧めで、しばらく田舎で暮らすことになる。かつての後見人兼養育者であり、ロシアじゅうに知られた園芸家であるペソーツキイの家に行く。娘ターニャとは幼馴染でもある。彼は家族の一員として優しく迎え入れられ、そこで本を読み、ノートを取り(主に哲学)、花を眺めたりして、強い幸福を感じる。

実は彼はあまり眠ることができないのだが、勉強は非常に充実していると感じる。ある日、彼はパーティで歌を聞く。気のおかしくなった娘が、ある夜庭に神秘的な物音を聞き、それが人間には理解できない聖なる調べであると感じるという歌詞だった。唄のあと、彼はターニャに、どこから知ったのかわからないのだが、ある伝説が心をとらえていると語る。千年の昔に黒衣の僧がこの世に現れた。僧はやがて世界各地にも姿を現し、いまでは全宇宙をさまよっているという。そして、ちょうど千年後の今、再び地球に戻り姿を現すことになっているという伝説。その夕方、麦畑に竜巻と共に黒衣の僧が現れ、彼にうなずいて笑いかけ、去る。彼は興奮と満足に心を躍らせる。その晩、娘の父親は果樹園の将来についての不安を語り、娘を妻にしてくれないかと打ち明ける。しかし、心は昼間の黒衣の僧で一杯だ。あれは幻覚だったのか。自分は病気かもしれないが、不可解な喜びが全身を満たしている。

しばらくして、彼は再び黒衣の僧と出会う。私はお前の想像の産物だ。お前は神に選ばれ、お前の人生は永遠の真理にささげられるのだ。お前は狂気と紙一重だが、それが天才のあかしでもある。健康で正常でありたければ、衆愚へと戻るがいい。だいたいこんなことを語り合い、僧は消えてしまう。彼は興奮し、呼びにきたターニャに結婚を申し込む。父親もまた喜ぶ。結婚してしばらくのある冬の夜、また黒衣の僧が現れる。二人は名声の取るに足らないこと、真の幸福について話しあう。一人で目を輝かせながら話し、笑っている夫を見たターニャは、その異様さに驚く。妻に言われ、彼もしぶしぶ病気を認め、治療を受け始める。

だいぶ回復したころには、人生はつまらなくなっている。娘の父にも毒づき、全てがやりきれなく、なぜ直ったりしたのだろうと思う。やがて彼は娘とも別れ、大学の講座を受け持つことになるが、今度は肺を病んでいてままならない。娘から彼を恨んで死んで行った父親のことを書いた手紙が届く。今や自分が月並みな人間であることをはっきりと知った彼は、つまらぬ幸福の代価として、どれほどのものを人生が要求するかと思う。ふいに、窓の外から、以前に聞いた唄がきこえてくる。竜巻と共に黒衣の僧が現れる。「なぜ信じなかったのだ」喉から血が溢れ、ターニャの名を呼びながらも、自分が天才であるという確信を取り戻し、彼は幸福に死んでいく。

10日ほど前読んだ。前半とてもワクワクしながら読んだのだが、最後は恐ろしい話。治療後の回復というのは、果たしてこんなものだろうか。前半は一種ファンタジーにも思え、後半は人生の真実を描くようになっている気もするが、実際の人生と照らし合わせて考えると、多くの人生ではむしろ後半の方がなかなかあり得ないことではないか? 私にはそう思えてならない。人はもっと現実に対しても真摯だし、粘り強い。そうありたいし、あって欲しい。この小説があまりに強烈に思えて、昔、太宰治の「トカトントン」という短編を読んだときのように、読後のひっかかり(読んだあと、負けそうになる感じとでもいおうか)をずっと感じていたのだった。かもめでも、ラストのトレープレフの自殺には、どうしても馴染めないものがある。簡単に馴染んではならないような気がする。

先日、ウィングフィールドで浮狼舎の芝居を見た。初日。客席は満員。あまり批判的なことは書きたくはないが、見ていてときどき「違う」と思った。何が違うのか、言葉で説明するのは難しい。好みの問題なのだろうか。まず一番違和感を感じるのは演技。あまり動かない。手も、立ち位置も、表情も。力を入れないようにしているのか。しかし、言葉にはずいぶん力が入っている。言葉を聞かせようとしているのか。言葉は役者の喉ではなく、むしろ身振りを通ってしか生きてこないのではないだろうか。ひょうきんなところもあって、ちょっとドタバタしていて面白いなと思ったが、またすっと引いてしまった。たぶんそれは意図的にしていることなのだろう。全てが向こう側でなされている芝居ということなのだろうか。また、言葉そのものも感傷が前面に押し出されている。神社の裏手を舞台に、色々なエピソードが語られるのだが、そのエピソードの一つ一つに思いは込められていると思うのだが、そのあと、再び感傷としてくりかえし語られる。それがこちらの胸を窮屈な感じにするのかもしれない。今までの神原さんのよかった芝居では、もっとキリリとしたところや、全てを包み込んでしまうようなところがあったような気がする。私は今回あまりに感傷的だったで、もうやめるのだろうかと、少し心配になったほどだった。けれども、秋にも公演はあるらしい。けれども、ラスト近くに全てを肯定して引き受けてしまうポジティブ少女が現れ、それらの感傷を一瞬全部打ち消した。作者にはもっとよくわかっているのだろうと思った。たぶん、この人も死ぬまでやる気に違いないと思った。

5/27
 次に具体的に書くといいながら、数日がたってしまった。しばらくは、続きを書くことができそうにない。
 公演から3週間がすぎた。気分的な整理さえする暇もなく、秋と春の話が同時に進行している。日々の生活にも追われはじめた。正直なところ、大変だという思い。
 かもめの英訳を手に入れる。いくつか日本語訳にも目を通したが、日本語訳がどれも語尾や言い回しでガラリと印象が変わるのに比べ、英訳のなんとすっきりとしていることだろう。
 たとえば、冒頭の台詞。
「どうして、いつも黒い服を着てらっしゃるんです?」(原 卓也 訳)
「どうしてあなた、いつも黒い服を?」(小田島雄志)
「どうしてあなたはいつも黒い服を着ているんです?」(池田健太郎)
「あなたは、いつ見ても黒い服ですね。どういうわけです?」(神西清)
 英語だとこうなる。
"Why do you always wear in black?"
 英語の台詞なら、きっと役者は上のどの台詞のニュアンスでも演じることができるだろう。もしくは、「なんでさあ、いっつも黒着てんのよ?」とかも。日本語はそこまでの幅を持たないような気がする。語彙が変わってしまう。「あなた・ですか」「君・か」「あんた・てんの」「お前・てんだよ」とかで、だいぶ違う。もちろん「じぶん・てんねんな」なんてのもありうる。上の訳では、ほとんど「あなた」なのだが。これは、すこしでも中性を保とうとするためだろうか。私は楽市ではかなり「あんた・てんの」あたりを使う。そういうニュアンスがかなり関係を密にしていくような気がしている。しかし、英語のすっきりさはかなり魅力的にも思えてしまう。「なぜ君はいつも黒を着てるのかな」これが一番英語に近いか?
「君ってさ、いっつも黒い服じゃない。なんで?」こんな感じだろうか。私の場合、役者の檪原クンの声と顔まで浮かべてしまうのだが・・・。日本語のニュアンスをきっとここからまだ先がありそうな気もする。

どくんごの感想に対して、自分の演劇論(めいたもの)を書いてみた
 埼玉の劇団どくんごの人たちが、数人で連れ立って芝居を見にきてくれたのである。ありがたい。あ、それから、北九州からも福島さんが単身見にきてくれたのである。ありがたや。ほかにもたくさん来てくれて、ありがたやありがたや。中にはほんとに久しぶりに顔を見れた人たちもいて、いやはやお懐かしゅうございました。
 さて、その劇団どくんごの人たちが、帰ってからナント感想を言いあって、それをHPにアップしてくれたのである。なんとナント。これで楽市楽座が全国的に有名になってしまったりしたら、どうしよう。素晴らしい。素晴らしいそのフットワークと集団性に拍手を送りたい。思えば最近の楽市では、連れ立って芝居を見にいくこともそれほどない。後で語り合うと言っても、飲み屋でガヤガヤ程度。自分たちの芝居の反省会すら、今回などは清算に頭を悩ましただけで、あとはあまり語ってはいない。だいたいどこか議論を避けているところもある。議論は果し合いを呼び、建設的の反対で、ただでさえ少ない劇団員が減っていくということを、私はなんとなくだが経験的に学んでしまったような気さえする。つい溜まっていたウップンが噴き出すのであろう。芝居のあとはお疲れだろうと、そっとしておくにこしたことはないなどと思いめぐらしてしまうのである。

 さてさて、そのどくんごの感想である。この感想についてはどくんごのHPを見て欲しい。楽市の掲示板にどくんごが書き込んでくれているので、そこから飛んでいけます。
(掲示板にどんどん書きこみがあって、過去の方に行ってしまいそうなので、ここにアドレスを入れておきます。http://member.nifty.ne.jp/dokungo/critic/rakuichi.htm)

「割りに正直にって感じ」だというが、そうなのだろう、素直にうちの芝居から受けた印象を語ってくれていると思う。ぜんぜんベタ褒めではなく、むしろ批判的とみた。というか、正直なところ食い足りなかったというところだろうか。はっきり言おう。私はちょっぴりムカついた。観劇努力が足りないぞ。いや、そんな不遜な・・・。やはりここは素直に反省すべきか? でもすごくうれしくもあり、恥ずかしくもあり、複雑な気分。いや、わかってもらえてないなという気持ち。反論したいが、そんなことしてもいいんだろうか。自分で自分の墓穴を掘るだけかもしれん。どだい面白くなかったのならしかたがないのか。別にぜんぜん悪意は感じないし。と、まあ、イロイロ思いは駆け抜ける。しかし、やはりこのさいだから、反論とかじゃなくて、いいわけなどでもなく、自分の演劇論めいたものをせめて少し明らかにする必要があるかもしれないと思う。そうしないと気持ちもわるい。すっきりしない。劇団員にも楽しんでくれたお客にも申し開きが立たん。

 ここではその内容を直接引用することはしないが、おそらくうちの芝居に関して同じような印象を持っている人は結構いるのではないか。特にここ数本に関して。迷ってるのかなとか、新しいスタイルを模索中なのかな、とか。それはそれで好意的な解釈であるし、確かに迷っているし、模索もしている。しかし、確信していることも多くある。その確信はここ数本によってますます深まっている。確実に。そのへんを誤解されると困るのだ。その確信の上に芝居を作っているわけだから。どうもその確信が理解されていないというか、それはその確信がまだまだちゃんとカタチになっていないからなのかという疑問がないわけではないが・・・ゴニョゴニョ・・・いや、いいわけではなく、私は確信をもっと明確にしたい。そうでないと、今回よくやってくれた役者やスタッフ、そして芝居を心から楽しんでくれたお客さんに悪いではないか。また、そもそもこの散歩道自体がそんな確信を紡いでいくための一つの手段でもあるのだから、ここはやはりじっくりと少しでも明確にしていくべきところなのだ。

 前置きが長くなってしまった。ほっておくと、きっと3ヶ月くらい前置きですぎてしまうだろう。しかし、劇に本番があり、台本にノートがあるとするなら、こういうことを考えたりするということは全て前置きになるのかもしれない。だいたいそんな大それたことを書くわけでもなかろうに・・・しかも、こんなこと誰の役に立つ?・・・まあ、私なりの最近の芝居への気構えとでもいうか・・・とにかく書いてみよう。

まず、エロスのことからはじめようか。いきなり大上段から。うまく書けるかどうかわからないのだが・・・。

私が芝居で一番大事なことだと思っているのは、エロス。性的なことも含まれるけれども、私はもっと広い範囲のものを考えていて、なんかこうイノチを支えたり、通じ合ったり、恥じらったりするような、そんなヤリトリのことをエロスと呼びたい。フロイトの生への衝動のエロスに近いかもしれない。あとで、死の衝動であるタナトスのことにも触れたいと思うが、たぶん自分勝手に考えているのできちんとした用語にはなっていないだろう。ヤリトリだから、わりと細やかなことが多く含まれる。

団鬼六の「縄はゆるめの方がいい」という言葉が私は好きだ。なぜゆるめがいいかというと、じたばたと恥じらったりもがいたりして、ゆるんでいくのがエロスだからだと私は解釈する。相手を完全に落としこむのではない。そこに発生するヤリトリが重要なのである。まあ、SMそのものがすでにかなり過激なことなのだが、それでもより過激さを求めていく方向のずっと基本的なところにそういうヤリトリの重要性が秘められていて、それことがエロスなのだ。だから、そういうエロスは別にそんなに過激ではないことにももちろんたっぷりと含まれている。目をこらした観察とか、合いの手とか、小さな嘘やそれを暴くこととか、相手の思いがふっとわかる瞬間だとか、世界がすっと透明に感じられるときとか、そういうことも含めてエロスと言いたい。そして、私にとっての芝居というのは、そういうエロスを追及する場であり、手段なのだ。そして、観客にも私が発見したエロスを感じてもらえたらと思っているし、また客とのヤリトリの中にエロスが生まれることも多々ある。はずだ。ずいぶん抽象的で乱暴な言い方だし、用語もあいまいだと思うが、これが私がやっていこうと思っていることの一つの大きな柱だと感じている。

このエロスというのは、おそらくこの世に自分が生きていくという上で一番大切なものなのだ。これがまったくなくなると、人は生きている価値をどこにも見つけられなくなってしまう。ただの棒になる。これがたっぷりあると、ただ道を歩いているだけで、うれしくて楽しくなる。たぶんドーパミンとかそういうのにも関係している。親子にもエロスの結びつきがあるし、身の回りのモノに対してもある。

これに対してフロイトはタナトスというものを対立させていて、これは死の衝動だといわれる。私には死の甘美さというのはエロスにも属していると思えるのだが、タナトスというのは、たぶん連続殺人者などの持っているあまりに破壊的な衝動であり、人を無視する快感であり、孤立する快感なのではないだろうか。金銭に過剰に執着したりするのは、金銭にエロスを感じているというより、おそらく金銭によってタナトスの快楽を味わっていると私は感じる。権力の快楽、悪意の快楽、破壊の快楽、自分が突出することなどは、エロスではなくタナトスだ。タナトスが全くなくなってしまうと、自分がなくなってしまう。溶けてしまう。だからタナトスだって立派な衝動だ。

しかし、今の私たちには、もっともっとエロスがあっていい。すったもんだ、なでさすり、ぶつかっては転び、かんだりなめたりかき混ぜたり、泣いたり笑ったり唄ったりのようなエロスが重要だ。けれども、暴力的で否定的なタナトスに比べるとなかなかエロスはとらえがたい。エロスは肯定的(許容的)で、流動的なものだからだ。うーん、どこまでも抽象的イメージだが、なんとなくわかってもらえるだろうか。よく「圧倒的なエロス」という言葉も使われるかもしれないが、ここではそういうものはうまくイメージできない。エロスという言葉を私は自分なりのイメージにかなりふくらまし、かつ限定していると思う。タナトスにしてもきっとそうだろう。セックスで語るとわかりやすいので、すぐ話が下ネタ風になってしまうが、レイプとか陵辱とかにはエロスはない。逆に膝枕なんかの方にこそエロスはある。

 このようなエロスは、実はきわめて日本的な文化の底に流れているのではないかというのが最近の私の考えだ。また、日本という国に少しでもなにか希望めいたものがあるとすれば、きっとそこにある。なにか流動的なものを感じる感性。ちょっとした温度差に敏感であろうとすること。静かな演劇というのも、そういう感性を感じるときがあるが、これはまた別のタナトスをたっぷりと含んでいる気がしていて、一般的にはくくれない。むしろ演芸とか大衆演劇の方が、エロスを感じる。さまざまなヤリトリがかわされているのを感じる。芝居的な快楽というのは、一種エロスの追及のやり口として学ぶことは多いはずだ。そこには場をいきいきとさせようとするさまざまな手口がある。

けれども快楽だけがエロスではない。迷惑とか嫉妬なんかもエロスなんじゃないかと思う。だからつまりヤリトリとかすったもんだを肯定するような力。ちっとも「つまり」になっていないか。

 なんだか自分でもはっきりしていないことを、ああだこうだと説明して申し訳ないのだが、私はこういうエロスに向けて芝居をしている。大上段からいうと、そうなる。芝居を見ていて腹が立つときというのは、何かがあまりに簡単に断ち切られていて、タナトスが美化されているときだったのではないか、と今ちょっと思ってみたりもしている。

 昔から、叩きつけるような芝居というのがある。観客を挑発し、罵り、自分をさらけだし、叩きつける。ときには芝居というフィクション性を剥ぎ取るような勢いで、全裸をさらし、客にモノを投げたりする。まるで観客は眠っているから起こさなくてはならないとでもいうように。そういう芝居も楽しいときはすごく楽しい。ワハハと大笑いできるとき。なんか色んなことがバカバカしく思えるほどに解放してくれる。芝居にそういうものを期待するひとたちは多いはずだ。

けれどもそれがただひたすら苦しいときがある。挑発の果てのカタルシスとしての一体感のようなものを期待しても、それは得られない。ある瞬間にどっと溢れる洪水に近いエロスを夢想しても、そこにはエロスに対する夢想があるばかりで、ほんとうのエロスはない。それは剥ぎ取るエロスなのかもしれないが、ほんとうのエロスはそこからやっとはじまるはずのものだ。もっと別のやり方があるはずだ。

もっともみほぐすようなこと。フィクションという装置はそのためにあるはずだ。フィクションといっても一枚岩ではない。一本の芝居の中にも、たくさんのフィクションの層があって、それらの中を横切っていくときが一番エロスが生まれるのではないか。私にはそんな気がする。たとえばその役者、役者の演技、登場人物、登場人物が物語の中でする芝居、作者がそこに込めたものなど、それらがフィクションの層を作っている。一方それらの横の関係もまたあって、物語の中から物語が生まれたり、二つの話が一つに結びついたり、新しい展開やはっと気づくようなことがあったり、ふいに踊り出したり唄い出したり。それらの中を動いていくことの中にエロスというものが(想像力と言ってもいい)にじむのではないだろうかと、私は思う。もっと言えば、そのようなフィクションの重なり方そのものが、すでにエロスの力によって成り立っている。

今エロスを想像力といってもいいと書いたが、そうなのだ。エロスと想像力は確かに重なる部分がある。ただし、少し前に書いたように、エロスを夢想することがただちにエロスではない。

一方、フィクションを剥ぎ取ればリアルというものが現れるという考え方もあるだろう。そして、そういうリアルこそが真実であり、価値なのだと。そして、そのようなリアルこそがエロスなのだと。私にはどうもそうは思えないのだ。

リアルとフィクションは本来対立概念だ。けれども、それは一般社会上、詐欺の手口というフィクションと実は騙されていたというリアルがあるわけで、舞台ではそれはひっくり返るかもしれないではないか。だから、エロスという言葉を使いたい。舞台のリアルはまた別なところにあるような気がする。エロスには裏切りの楽しみのような部分があるのだ。だからフィクションとエロスはとても深い関係があるのではないかと私は思っている。

リアルにはむしろエロスと対立する部分があってタナトスに近いという考え方もできる。私の高校の古典の教師が「この世にはたった一つの真実しかありません。それは、人は誰でも死ぬということです」と言っていた。生きることより、死ぬことのほうがリアルに感じられるということは確かにある。

けれども、死ぬことがリアルであれば、生きているということもリアルな「はず」なのだ。おそらく先生は未来のたった一つの真実の話をしたのだ。現在の真実というのは、私が生きていること。私がさまざまなことを感じたり、考えたり、何かと関係したりしながら生きていること、そしてそれは自分だけではなく、人もまたそうであること。それが一番リアルなことなのだ。誰もが生きて孤独であること。それにぞっとすることはリアルだ。

だから、舞台のリアルということは、こういうことになる。観客の側からは、ここに、目の前に演じている人間がいること。一人一人はぞっとするほど孤独だが、自分が今それを見ていること。そしてそれは舞台というフィクションであること。

フィクションということは、作った人間がいるということ、である。フィクションというのはまるで夢のような、現実とは違うものとして考えられるときもあるし、一方で現実と錯覚するようなものとして考えられたりもするが、それはリアルなことではない。もちろんまるでそこで現実に今起こっていることのように錯覚してしまうことは、美術でも映画でもあるわけで、そういう楽しみ方が間違っているわけでは決してない。けれどもそれはあくまで作為されたものなのだ。作為する孤独なヒトと向き合っているというのが、芝居のリアルなのだ。

これは必ずしも作為と向き合っているということではなく、あくまで作為するヒトという、ヒトに重点を置いたものとして考えたい。

それらの作為にはたいがい作意がある。作為するヒトは、作意するヒトでもある。「作意を超えた」という言い方ももちろん成り立つ。多くの作為は、むしろ積極的に作意を越えようとしている。けれども、作為のむこうに作意があり、きちんとヒトがいるということにならなければ、それは錯覚のようなものになってしまう。ヒトが何か仕掛けていこうとして、それを受けるヒトがいるということ、そこにエロスを見たい。

それは芝居と客のあいだだけではなく、台本のある芝居であるなら、台詞と役者のあいだでもう始まっているし、役者どうしにも起きることだ。芝居は実にそういう関係が多くあって、私はそこに芝居をすることの価値をみたいと思っている。台本のない即興的な芝居も何度かしたことがあるし、共同作業での構成も数回しているが、一人の書き手の台本に取り組むことの重要さは、そこにいるヒトをきちんと認識できることではないだろうか。

私がテレビゲームに多少飽きてしまったのは、逆にそこに作者が見えてきたためだった。身を隠そうとしている作者。たぶんもっとゲームを奥深く楽しめば、そういう作者の作意ともヤリトリができるのだろう。そこまではいかなかった。けれども、芝居はまるごと人間的なものだ。そもそも目の前にいるのは生身の孤独なヒトなのだ。当然その作為から作意へと想像は及ぶ。はずだ。

しかし、それはどこまでが作られたものなのか。どこまでが意図されているのか。それは次第にわからなくなる。わからないから、カマをかける。私はそうありたい。わからないから、ああだこうだが起きる。場合によってはガンガンわからなくするやり方だってある。その方がナゾが魅力的で素敵だという場合も絶対ある。もっとも私は最近はなるべくわかるようにと心掛けているつもりだ。それでもナゾは残るのだし、自分の思っているナゾの部分へ、なるべく近づいてもらいたいからだ。

一番まずいのは、ナゾもへったくれもなく、バリアを張ってしまうこと。何かの後ろに隠れてしまうことだ。ヤリトリのための様々な作為なのに、ヤリトリを拒絶するような作為ではまずい。けれども、これはどちらも作為なのでほんとによく起きることなのだ。そして見分けるのはむずかしい。

隠れてしまう場合、私にはどうもそこに無理があるような気がしてならない。なんだかあまりに一本調子な感じがあるとき、それは作為がバリアになっているような気がする。問題はヤリトリと、そこから生まれるエロスなのだから、極端に走ればよいわけではない。無造作の中にもそれはありうるし、ダラダラしている中にもあるのだ。そして、多くはどこかユーモラスな中にあるような気がしてならない。

反対は、カッコウつけているような感じといってもいいかもしれないし、モノマネじみているような感じといってもいいかもしれないし、なんだかひどく強制的・硬直的に感じるときだ。そうでない部分はわりとわかりやすそうな部分が多くなるのだが、それは一見わかりやすいように見えるだけで、言葉というものが「通じる」ということで会話を生むように、またその会話が「通じないこと」をも照らしてくるように、少しづつヤリトリが可能になってくるのだ。

 おそらく現代という時代にあっては、そういうヤリトリそのものがすでにむずかしくなっている。まずフィクションとリアルの区別そのものがなかなかつかなくなっていて、フィクションを誰かが作ったものではなく、まるで自分に与えられた擬似現実つまりただのオモチャとして受け取るという流れがあることは否定できないように思う。一方で、同じように自分や他者もまたリアルなものではなく、やはり擬似現実つまりオモチャのようなものとして受け取って、ただただ好き嫌いだけで判断したりしがちだ。

そこにはまだ会話が成立しているのだろうかとも思う。互いに何が好きで、どこが居心地がいいかという共通点を確認しあうというのでは、リアルもエロスも失われてしまうような気がする。そういう問題意識を鮮明にしたのはミニマルなことをしている人たちで、ある種の静かな演劇というのは非常に優れている。リアルとフィクションをていねいに切り分け、さまざまな関係をたどっていく作業をしているという気がしている。

そういう問題意識はどこもかなり共通している。静かな演劇がブームになる大きな理由ではないだろうか。けれども、それはともすればエロスが失われていくことになっていく。もっとギュウギュウと押したりもんだりしたいと思っているのだ。たとえて言うなら(ずっとたとえみたいで恐縮だが)、静かな演劇が針治療なら、わたしたちのは按摩というべきだろうか。こちらには手の温度がある。足で踏んだりもする。くすぐったり、ひっぱたいたりするのもいい方法に思えるのだ。

楽市楽座は、そんな按摩的芝居をめざしている。これは、理念などではなく、立派に方法論だと思うのだが、どうだろうか。

 結局最後まで抽象的で比喩的なことしか書けていないような気もする。この続きは後日に。 2002年05月21日 03時30分30秒

5/16
 昨日一日降った雨も今日はあがって、また暖かくなった。久しぶりに淀川の河原を歩く。草が伸びていて美しい。ほとんが秋にその存在を大きく主張する、ススキやヨシなどの穂のある草々。それぞれの場所に棲み分けながら群生し、微妙に色分けしながら、風に揺れる。
 清算をしてみると、かなりの赤字だった。助成金を前倒しし、内部支払いを遅らせ、それでも埋められない金額は劇団内で割ることになった。秋の公演は助成金も期待できないので、かなり低予算にしなければ続けていけないものがでてきそうだ。とにかく続けること。そのためには芝居のかたちを変えることもいとわない。芝居は金がかかるという。けれども、金がなくてもできる。ラフレシアはある意味では大劇場なのだが、別に大きなことがしたくて野外でやっているわけでは決してない。続けていくことのその先に何が待っているのかはわからない。特別な期待があるわけでもない。ただ続けていくことには、とても意味があるような気がしてならない。それは生き続けていくことの意味ともきっと似ていると思う。これは私にとってだけれども。
 次回の「かもめ」の客演に、檪原君、萩原慎氏、田口哲氏が決まっている。檪原君は若い。将来に自分なりの夢を持っている。萩原さんは今度はじめて一緒にやることになる。どんな芝居をするのか実はあまり知らない。何年か前、正月に大勢で飲んで、最後カラオケになり、その唄いっぷりにぐっときて、いつか一緒にやりたいと思っていた。私より少し年下だが、ほぼ同年代。田口さんは昔からよく知っていて、一度楽市にも出ることになっていたのだが、私が台本を書けなくなって延期となったことがある。やっと一緒にやることができる。そうそう、一昨年にある自主映画でちょっとご一緒したっけ。私よりずっと年上で、長いキャリアを持つ。きっと色々と教えていただくことも多いだろう。楽しみだ。
 このところ、劇団員だけで芝居をすることがなく、いつも客演を呼んでいる。確かに劇団の意味が問われる。一度客演を呼びはじめると、経験のある役者たちとの出会いや戦いが楽しく、芝居も広がるような気がして、それが続いている。しかし、劇団の役者たちへの信頼は大きい。タイトな一体感はやはり劇団でなければ難しいとも言われる。現在の楽市の状況ではそれも難しいのが現実だが、そういう課題があることも心にとめておかなければ。そして、今のうちに客演たちのキャリアをたっぷり盗んでおこう。 2002年05月16日 18時07分36秒

5/15 自分自身のための反省点
朝から雨が降っている。
今日は清算と多少の反省会。その前に自分なりの反省をしておこう。先日なんだか不完全燃焼と書いたが、その正体はなにか。あまりダラダラ反省を書くのは、せっかく見に来てくれたお客さんたちに申し訳ないのだが、あくまで自分が考えるために。
まず一番は役者としての自分でしょう。初日から声はかすれ、冒頭の歌の歌詞を間違え、中日では声のかすれがひどくなり、楽日に声は多少戻ったものの、自分の出番を一瞬忘れて穴を開けてしまった。恥ずかしいことだ。主な共演者の小寿枝さんにも、稽古不足を言われた。ついつい自分達の稽古を後にしてしまったようで、迷惑をかけた。「かもめ」には出ないが、今後のわが身の振り方は考えなければなるまい。
演出についても、特に今回はシンプルにきちんとやろうとしただけに、逆にまだまだな部分が楽日になって見えてきた。どうも「タマシイホテル」のあたりから芝居作りがラフになっていて、それも自分なりに納得がいっていたのだが、ていねいにやろうとすると基本的なところが目につく。もっとも目につくのは声と間。稽古のはじめはニュアンスをたっぷり取っていくため、声も低めに、間も気にせずに取ってもらっていた。それを本番までに強く立ち上げていこうとしたのだが、間に合わない箇所が残った。特にラスト近く。それほど期間の取れない稽古予定の中では、もっと早く立ち上げていく必要があるかもしれない。
音楽。高見氏に指摘されたように、音楽を聞かせるシーンなどというものは作れていない。今回はじめて全ての音楽を作ったのだが、それが精一杯で、音楽自身が唄えていない。次はもっと聞かせましょう。三味線を借りた先生に褒められたのはウレシイ。音楽についてはまだまだアイデアはあるので、乞うご期待。
台本。もしかすると一番苦労しているのはこれなのだが、そのわりにはこれもまだ不完全燃焼。うちの芝居はキャラクターの濃さを売り物にしてきたのだが、次回ではこれも再考しようと思っている。今回のサクラとナスビは「何かに追われている男女」という抽象的な設定でもよかったかもしれない。また、下手なくすぐりもちょっと減らそうか。芝居をもう少し抽象的にして、人物の陰影よりも、関係をくっきりとさせる。言うのは簡単だが、書くのは難しい。来年の春は新作になるが、「花鳥風月 鳥編」。そして、夏。使者としての鳥の物語。
不完全燃焼の部分が残っているとはいえ、いやあ、やったんじゃないのというところもたくさんある。まず劇団の役者たちを褒めたい。キリコは今回ではっきりと楽市を背負う女優になったし、ギンカも足が地についた堂々としたいい役者になった。それぞれニーナとアルカージナが楽しみだ。きのこもずいぶんうまくなってきた。まだまだ努力が必要だが、人気は高いぞ。小室は本番には強いのだが、あれでもっと稽古の立ち上がりが早くなればそのパワーが生かせてくる。福西は久しぶりにエンドンではない役に健闘した。今回で楽市を去るのが惜しいが・・・。
出入り口の扉、タンカンの組み方でみせた美術、地がすり、ほとんどゼラのない照明、私の音楽も含めて、それらのシンプルさは今までとは少し違う世界を誘うように思える。長いことやっている割にはなんだそれ、と思われるかもしれないが、なんだか芝居の奥深さを感じてきた。次回には、役者のアンサンブルも含めて、もっと深い、もっと拡がりのある芝居ができそうな気がしている。

公演を終えて
 公演が終わり、いまだ疲れから抜け出せないでいる。この散歩道に書き込むのも久しぶり。 昨日は打ち上げで4時くらいまで飲む。今年の大入袋の数はとても多かった。ずいぶんたくさんの人たちに協力していただいた。ほんとにありがとうございます。そして、お疲れ様。2回も足を運んでくれた石山夫妻、田口さん、ありがとう。
 いろいろな批判もいただいたが、今回の「しっかり作る」という目標は、まだまだ達成したとはいえず、むしろ今回は特に最後まで惜しむ気持が残ってしまった。こんなことは、このところあまりなかったことだ。それだけ思い入れが強かったのかもしれない。やり足りなさが残る。まだ不完全燃焼だ。次回・次々回へとつなげていくしかない。おそらく、今までがあまりに甘かったのだ。もちろん、今までに比べればずっと色々なことはスムーズに進んだのかもしれない。少しはよくなっているということにしておこう。
 まだまだ、トバ口に立ったばかり。今回の反省・次回かもめへの抱負・来年のラフレシアなど、くわしいことはまた明日。 2002年05月12日 22時14分15秒

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